最初に聞こえたのは、笑い声。
いたずらを仕掛ける幼い子供が、堪えきれずに漏らしてしまったような微かな笑い声だった。次第に意識が覚醒し、瞼越しに朝日が差すのがわかったが、そのまま寝たふりをする。
「お父様、ぐっすり眠ってるね」
「ああエリス。今のうちに急いで準備を済ませよう」
もはや聞きなれた心地よい声たちが、何やら俺の寝台の周りでいそいそと準備しているようだ。何の準備をしているのかは、実は見当がついている。だから俺は、この愛らしい作戦の戦略目的が最大限の効果を発揮したと思わせるために、まだ寝ていなければならない。
そう、今日は12月5日。
「お兄様!準備できました!」
「よし、じゃあ起こすぞ」
世間では何の変哲もない日常でも、我が家では事情が違う。
「お父様、おはようございます」
「父さん、起きて!ほらはやく!」
先ほどと打って変わって、今度ははっきりと俺に聞こえるように溌溂とした声で俺を呼ぶ二人に応えて、瞼を持ち上げて状態を起こす。さも今この声で目を覚まさしたように緩慢な動作で。
「おはよう、レイ、エリス」
愛する我が子に朝の挨拶を告げると、ほぼ同時に控えめなクラッカーの音が二つ。
「父さん」「お父様」
「「お誕生日おめでとう」」
純真無垢な笑顔と、優しさが溢れる祝いの言葉。
壁には手作りの装飾と、ハッピーバースデーを形作る風船アート。
二人の真心がこもった準備に、目を見開く。
あぁ、満たされるというのはこういう感情を言うのだろう。
何度目かのバースデーサプライズ。でも、何度目でもこの気持ちは風化しないし、いつも俺をこれ以上ないほど幸せにしてくれる。言葉にするのも憚られるほどに。胸の奥から身体の先端まで温もりが染み込む様に広がっていくこの現象をただ噛みしめていたいと、それだけを願う。
「ありがとう、二人とも。すごいじゃないか!去年よりももっと綺麗だ」
嘘偽りのない素直な言葉に、レイとエリスは顔を見合わせて『作戦成功!』と言わんばかりの屈託のない笑みを交わした。
「さあ父さん!早く下に降りよう!母さんも待ってるよ」
「わかったわかった。顔を洗っていくから先にいっていなさい」
元気よく返事をして部屋を出ていく子供たちに続いて廊下に出る。階段を下りて洗面所に向かい、顔を洗う。トウキョウ租界のごくありふれた一軒家。それが今の我が家だ。広すぎず、かといって窮屈でもない、本当に一般的な家庭。リビングに向かうと香ばしい香りと調理の音が俺を迎えた。部屋に入ると同時に、頬に柔らかい刺激が走る。不意を突かれたことに内心驚きながらそちらを向くと、その犯人は少し顔を赤らめながら満面の笑みでこう告げた。
「おはようルル!お誕生日おめでとう!」
「おはようシャーリー。今年はみんなしてサプライズの連続だな」
「今年はあの子たちも飾り付け作るのがんばってたから、私も何かしてみようかなっておも」
意趣返し、と言わんばかりに話している途中のシャーリーの唇を塞ぐ。
後手に回ったものの俺のサプライズも成功したようで、シャーリーは目を見開いて頬の朱色をもう少し強めた。
「もらってばかりじゃ悪いからな」
そういって子供たちが待つテーブルに向かう。
「もー!朝ごはんもうすぐ出来るからね」
仕返しされたのに、やっぱり嬉しそうなのを隠し切れないままシャーリーはキッチンに入った。
子供たちと談笑しているうちに朝食を持ってきたシャーリーも食卓について、家族四人で朝食をとる。飾り付けの準備の話とか、実は今朝レイが少し寝坊してエリスが起こしたとか、今日はどこに出かけたいかとか、笑顔と言葉を交えながら。
朝食を食べ終えて、後片付けをする。
「レイとエリスは出かける準備をしてきなさい。シャーリーも、あとは俺がやっておくから」
「わかった。じゃあお願いね、ルル」
子供たちとシャーリーが部屋を後にして少しして朝食の片づけが終える。
俺も身支度をしないと――
「ルルーシュ」
脊髄に電流が走ったかのような衝撃が走る。
今の声は、そう、聞き覚えのある、誰の声だったか。
誰かが俺を、呼んでいる。
声に誘われるように、玄関へ向かう。
靴を履こうとして、すでに自分が靴を履いていることに気づく。
靴だけではない。先ほどまで着ていた寝間着が、漆黒のマントとコスチュームに変わっている。
俺は――そうか、俺が―――
玄関のドアノブに手をかけると、背後から消え入りそうなか細い声が、しかし明瞭に耳朶を振るわせる声が投げかけられた。
「いっちゃうの?ルル」
息をのむ。ドアノブにかけた手がまるで凍り付いたように停止する。
これは幻だ。俺が心のどこかで望んでしまった未来だ。こうして暮らす明日が俺にもあったなら、それはどんなに。どんなに――
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
思い出せ、決意を。
思い出せ、お前の行動を。その結果を。
ゆっくりと振り向いた先には、夢想することしか叶わなかった優しい世界。
俺にとってその象徴は、君だった。
「すまない、シャーリー」
それだけ伝えると、シャーリーはいつも見せてくれた笑顔に一筋の涙を零しながら、震える声で、絞り出すようにその一言を贈ってくれた。
「いってらっしゃい」
その一言が、凍えた俺を溶かしてくれた。
ドアノブをひねり、俺は《そこ》を後にした。
窓から差し込む日差しが、瞼越しに感じられる。
もう眠ったままのふりをする必要はない。
そう、今日はゼロレクイエムを為す最後の日。
世間では何の変哲もない日常でも、今日からは『明日』に向けて世界中が手を取り合う。
最後の日に見たあの夢が俺にとっては掴むことの叶わない蜃気楼だったとしても、
明日を生きる皆にとってはきっと、当たり前に迎える日常になるはずだから。
俺を呼んだあの声の主である魔女を置き去りにするのは心残りだが、どうかそんな魔女にとっても、より良い明日が来るように祈って。
どうか彼女にも、笑顔になれる夢の続きを。