私は、小さい世界の住人でした。
立つことも歩くこともできず、世界という舞台は瞼という名の幕が下りたまま。
音や声は聞こえるけれど、私が干渉できるのは手の届く範囲だけ。
それでも、私は幸せでした。
その小さな世界には、私を愛してくれる人がいて、優しさで満たされていたから。
でもそれは結局ひとりよがりのわがままで、束縛と依存と言われてしまえば否定はできませんでした。
幕が上がった舞台が私に見せたのは人殺しとなった兄と、どれだけ手を伸ばしても届かないその背中。
世界が広がる代償に、それまでの小さな世界の幸せが喪われてしまったのかと思うと、出来れば時を巻き戻して、こんな取引は無かったことにしてしまいたいと願わずにはいられません。
私はあのクラブハウスでの日々がたまらなく愛おしく、ずっと続いてくれたのならそれで良かった。お兄様が居て、生徒会の皆さんが、咲世子さんが、スザクさんが居てくださったのなら、それ以上に望むものなど何もなかった。本当に、それだけで良かったのに。
それでも現実は、私の手の届かないところで進み続ける。
人殺しの覚悟も、お兄様との決別も、全ては水泡に帰すかのように私の願いは悉く打ち砕かれた。お兄様は悪逆皇帝として世界を手中に収め、人々は恐怖に震える生活を強いられる毎日を送っています。
私が何とかしなくては。
募るばかりの焦燥感が身を焦がすように熱を持つ。
私が何をできるのか。
鎖につながれた今の私は、結局小さな世界にいたころと何も変わらない。
いや、それ以上に無力で、何一つ為しえないのだという事実を突きつけられる。
ダモクレスでの再会以降、お兄様は一度も私と顔を合わせることはありませんでした。
世界統一を祝福するという名目の式典が行われる今日も、私に一瞥もくれないまま王座に腰を下ろしました。
そこにいるのが見える。
でも、決して手は届かない。
冷ややかな鉄の感触を伝えてくる拘束具がなかったとしても、私はそこに行けない。
私に出来ることは、失意の底で蹲ることだけ。
それでも私は、この命がある限りはお兄様を止めなければなりません。
もうあの日々に戻れなくても、これ以上お兄様を恨み、憎む人が増えないように。
何もできなくても、お兄様がいる限り、私は何度でも――
唐突に、周囲にどよめきが起こりました。
進行していた車両は軒並み停止し、ざわめきは波紋のように伝播していきます。
少し遅れて響いてきたのはいくつかの発砲音。
何が起きたのかをうかがい知る前に、それは私の目の前に舞い降りました。
漆黒のマントを翻す仮面の男、ゼロ。
思わず悲鳴を上げて仰け反る私の前にいたのはほんの一瞬で、瞬きする間に彼はお兄様のもとへ跳んでいきました。
「痴れ者が!」
お兄様がそう叫んだのは聞こえました。でもそれ以上のことは伺い知ることができず、まるで世界から音が消え去ったように時が流れていきます。
ゼロが何かを引き抜くように脇へよけると、ゼロの後姿に重なっていたお兄様がゆっくりとこちらに歩み出て、膝を折り、倒れ、滑るように落ちてきました。
私の目の前で横たわるお兄様は、純白の皇帝服を鮮血で染め上げ、眼は焦点を見失い、呼吸は浅く、指先一つも動かないままでした。
「お兄様?」
弱々しい声が喉から絞り出されるように発せられる。
世界という舞台が見せるあまりに唐突な演出が受け入れられず、観客席でただ茫然としている傍観者のようにあっけにとられ、微塵も動かないその手に自分の手を重ねる。
そうして私は知ってしまいました。これが真に舞台上の演出であり、計算された奇蹟の序章なのだと。こっそり舞台裏を覗き見て、脚本家の用意した台本を読んでしまうように。
同時に私は、その想いと自らの過ちを悟りました。
早鐘を打つ鼓動、伝えたい言葉、湧き上がる感情、残された時間。
本当に無力で、この手も、言葉も、想いも、届かないものばかりで。
それでも今、絶対に届けたい、伝えたい言葉があるから。
「お兄様 愛しています」
必死で叫んだその一言が届いたのかも分からないまま、お兄様は人生の幕を下ろしました。
私は、結局のところお兄様のことしか考えてはいませんでした。
他のどんな理由も後付けで、お兄様さえいれば私はそれでよかった。
私がまだ小さな世界にいたころ、お兄様も同じように、私のことを大切に想ってくださっていたと信じています。でも今のお兄様は、それだけではなかったのです。世界がお兄様を変え、お兄様が世界を変えた。これまで奪ってきた数多の命への鎮魂と、これからの世界を生きる命への祝福。そのために、命を捧げるほどに。
周囲が歓声に沸く中、私だけがしゃがれた声で泣き叫ぶ。
かき消されてしまいそうな不協和音はとても歌とは呼べなくとも。
これが私の鎮魂歌。
もう本当に、どうやっても届かない所へ逝ってしまった最愛のお兄様へ捧ぐ、どうしようもない哀しみでいっぱいの、願いの歌。