――主従としての幸せは、嫉妬に変わった。
――その矛先は、あろう事か嫉妬の原因である同僚ではなく、主に向けられた。
――己が過ちを認めず、
――その幻も、何処とも知らず現れた死神に手折られた。
――今の己にあるのはただ一つ、明智光秀という名のみ。
――それも信長公に仕える臣下として明智光秀ではなく、信長公に反逆し謀反人としての名であった
何時間と、この街道を彷徨い続けた物だろうか。
自身を照らしてくれる
三好の三人衆の慣れの果てから道を示され、その街道の奥に繋がる道を歩き続けて数十分が過ぎた。
空は相変わらずの墨色。例え日が昇ったとしても、自身の視界に移るこの空が墨色から変わる事は決してないだろう。
「信長公……私は、私め、は……」
公の生首をあの死神部隊に見せつけられ、光秀の精神は既に崩壊していた。己を生かす、現実の拠り所たる公をこの手で殺してしまい、現実から目を反らすための拠り所たる夢もあの三人衆に壊された。
彼らは非情だった。
光秀の心などどうとも思っておらず、ただ『明智光秀に自身の行いを思い出させる』という与えられた仕事、目的のために淡々とソレを遂行したに過ぎず、光秀のこの惨めな姿も彼らにとってはソレ以上でもなくソレ以下でもない。
目的を遂行した結果、ただソレが伴っただけ。目的は果たしたのだからソレ以外は彼らにとっては些末な事だったのだ。
かつて同じ
光秀は考える……この街道の奥の先には一体何があるのかを……。
「私を、裁いてくれるナニカがいるのか……それとも……」
――あの三好三人衆をあのようにした何者かが、いるのだろうか?
「……まあ、もう何方でもいい」
もう終わったのだ、全て。
後はこの身に流れる罪を洗い流し、自身もまた公の元へ逝くこと……光秀の中にある思考はただそれのみであった。
それすらもが、烏滸がましい欲である事はもう承知だった。
だが、もう光秀にはこれしか残っていない。
信長公亡き世など、それこそ己にとって地獄に他ならない。
――否、死んだと思われていた筈の者達と出くわしたのだ。もしかしたら、ここは現実でも
つまり、この先を行けば、信長公へ会えるかもしれない。
それでも会えぬというのであれば……いっそ、地獄でも煉獄でもない何処かへ……。
……そう考えながら歩いていたら、とうとう街道の奥の広場についた。
その広場の中心に、
城郭を思わせる白黒の陣羽織。右側に大太刀を天神差しにしており、左手を後ろ腰に回したまま優雅に、虚な薄ら笑いを浮かべながらコチラに歩み寄って来る男を、光秀は認識した。
その人物はやはり……光秀の知っている顔の者であり、既に死したと思われていた人物であった。
だが、同じく既に死したと思われていた三好三人衆と出くわしたが故、光秀の中に驚きは既になかった。
「ああ……そうか、貴様も、ここにいたのか……」
かつて自分と同じような愚行を二度繰り返し、公から二度許しが出たにもかかわらず、それを拒んで爆死した筈の男。
今この場にはいない筈の人間が、そこにはいたのだ。
やはり、ここは現世ではないのだな、と光秀は確信した。
「私と同じ罪を抱えし者よ、ここは一体……いや、そんな事はどうでもいい。信長公は……信長公は何処に……おられるのだ……?」
光秀の疑問に、男は答えない。
ただその薄ら笑いを貼り付けながら、光秀をじっと見つめる。否、その瞳は光秀を見ているようで、本当の所は何を見ているのか想像だにできない……そんな不気味さを感じさせた。
それでも、今更それに臆する光秀ではない。
男の沈黙が、その男なりの返事であると光秀は解釈した。
「いない……というのか。ならばここは現世ではなく、地獄でもなく……煉獄、か? 私の罪を焼き浄化するための……」
今自分がいる世界は、煉獄であると光秀は解釈する。
紛れもなく現世であるにも関わらず、この街道に迷い込んでから味わった体験から、既にここを現世と見なせなくなっていた。
無論、
そもそも、先に出会った三好三人衆も目の前にいる男も、どこか浮世絵離れした雰囲気をもっているがため、余計にここが現世と感じる事ができなくなっていた。
「いいや、この際なんでもいい……其方が私の知っている人間なのか、それともソレを象っただけの別人か、そんなものはどうでもいい。
……そこの方よ、どうか私に情けを……!!」
蹌踉めく体を屈め、懇願するように低位置から男を見上げる。
「私を……この罪を、殺してくれ!!」
目の前にいる人間が知る顔か知らぬ顔か、それは光秀にとってはどうでもいいこと。
この現世でもない、地獄でもない場所から自分を信長公の元へ送ってくれる者ならばもう誰でもよかった。
そんな光秀の懇願を聞いた男は、ようやくその口を開いた。
「卿は何故、死を求めたのかね?」
紳士然とした物腰で、男は光秀に問うた。
「私は……あの方に、信長公に、愛されたい、私は……あの方に微笑まれたい、あの方の御側にいたい……」
まるで目の前の仏に懺悔をするかのように、光秀は語り始める。
「あの方の天下で生きたい、あの方の照らす日ノ本を見たい、私はぁ……あの方に、私を見てもらいたかった……」
その願いを、願望を、他ならぬ己自身が壊してしまった。
壊れた物は戻らない、取り戻す事などできはしない。
そして、その
ならば、今の光秀にはもうこれしか残っていない。
「それが叶わぬこの世に未練などあるものか!! 頼む! どうか、この私を焼き尽くしてくれぇッ!!」
この身に唯一残った物……謀反人・明智光秀という罪。
それを断罪してもらう事に他ならない。
この身ができる事はもうそれしかない。
だからどうか、という思いを込めて、慟哭の涙を流しながら光秀は男にそう懇願した。
……しかし、それすらも叶わず。
「お断りしよう」
男は、表情一つ変えることなく、その貼り付けた薄ら笑いを一切崩さぬまま、真顔でそう光秀の懇願を切って捨てた。
「…………!?」
自身の最後の願いをあっさりと断ち切られ、唖然となる光秀。
まるでお前の罪に興味など無い、お前の願いに価値などないと、そう一蹴されたようなショックを光秀は受けた。
男の顔は相変わらずの虚な薄ら笑い。その顔には光秀の願いを叶えてくれる様子は一切見受けられない。
暫しの沈黙の後、光秀は殺意にも似た感情を込めた目付きで目の前の男を睨み付け、声を荒げながら問うた。
「……何故だッッ……!!?」
唯一の希望を絶たれる、真の絶望とはこの事か。
光秀とて馬鹿ではない。自分の
その三人衆にそうするように指示をしたのは誰であるかを、予想できない光秀ではない。
「ならば何故……貴様は奴らにあのような事させたっ!? あのようなならず者どもを使ってまで、どうして私にこの罪を思い出させたっ!? 私の罪を裁くためではないのかっ!?」
「それは心外だな。私はそもそも罪を持たない者に生きる価値などないと断ずる人間でね。公に三度も刃向かったこの私が、公を討ち取った卿の罪を裁くと? いやはや、卿もまた奇特な論理の持ち主のようだ」
そういうのは嫌いではないよ、と付け足す男。
ますますこの男の意図が分からなくなる光秀。
「困るのだよ。卿がソレを忘れてしまっては、せっかく卿に見いだした宝が台無しになってしまうのでね」
「私の中の……宝?」
「そう。卿の欲望が作り出した、謀反人・明智光秀という罪、その名」
分からない。
相変わらず、この男の言う事だけは分からない。
一時期共に信長公に仕えた仲ではあっても、光秀はこの男だけには好意も、嫌悪も抱く事ができず、終ぞ理解する日が来ることは無かった。
強いて言えば信長公に強く気に入られていた事に多少の嫉妬を抱いた程度の物であった。
「嘆くことはない。
「馬鹿な……私がそんな下知な理由で信長公に刃向かったとでも? 貴様と一緒にするなこの梟がっ!! 私は……私はただ
「壊したのだろう? 卿の知る公ではなくなったから、そんな公など卿にとっては残骸に過ぎないのだからね……」
「私、は……あぁ、あ……うぅ、くく、あぁ……」
そう、男の言う事に間違いはなかった。
光秀は男の言う世の真理とやら、それをただそのまま実践しただけに過ぎなかった。
何と、罪深い。
己の罪は自覚済みの光秀であったが、ここに来て更にその重圧はのしかかった。
ここまで光秀に己の罪を自覚させたにも関わらず、この男は光秀を一向に裁こうとはしない。
「関心、関心。私にすら満たせなかった欲を、卿は見事に満たしたのだからね。その欲望が作りし宝、この手の上に飾る価値はある」
「……何が……言いたい……?」
「何、簡単な事だ」
瞬間、光秀の意識せぬその間に、男は光秀に詰め寄り、その左手で光秀の顔面を掴んだ。
「ガっ!?」
男の左手の手袋に仕込まれていた鋭い鉤爪のような凶器が、光秀の顔面へ浅く突き刺さり、五カ所から少量の血が流れ出した。
「卿のその罪、いらないのなら私が貰い受けるとしよう」
瞬間、光秀を掴んでいた男の掌に霧のような光が点り出す。
「ッ!!?」
そして光秀は瞬時に悪寒を感じ、最早力も出ぬ筈の体を精一杯酷使し、自分を掴む男の腕を蹴り飛ばし距離を取った。
今、一瞬だけ見えた“光”をあの男に渡す訳にはいかない。
あれを取られたら自分は今度こそ何者でもなくなってしまう……そんな悪寒を本能的に感じての行動であった。
今、光秀は少しだけこの男の事が分かった。
この男は自分の罪を裁いてなどくれないだろう。
だが、目の前に裁くべき罪はもう一つあるのだ。
人の弱き心を探り当て、果てには公に三度も謀反を起こしたその罪を。
「見ていて下され、信長公!! 今、私の罪もろとも、この男の罪を焼き尽くしてご覧に入れましょう!!!」
刀を抜き、斬りかかってくる光秀。
天神差しにしていた大太刀を片腕で抜き、男は光秀の刃を受け流す。男の意味深な言葉に光秀は耳を傾けず、ただひたすら男に斬りかかる。
だが、やはり戦に負けた体では付いていかず、刃は悉く避けられ、受け流される。
キィン!
両手で斬りかかる光秀の刀と、片手で受け止める男の刀がつばぜり合う。
光秀は必死の形相で男を睨み付け、男もまた薄ら笑いを浮かべながら光秀を見据える。
何処までも、人間の本質、その深淵を見据えるような瞳を垣間見た光秀は、やはりこの男は危険だと再確認した。
「罪滅ぼし、かね? 嘘はよくないな。卿が欲しいのは
「黙れ! これ以上貴様の戯れ言に踊らされる物か!! 私はもう……これでしかあの方に報いることは――」
「卿が本当に欲しい物は許しだ。……そうだろう?」
それを言われた瞬間、明智の中で時が止まった気がした。
――許しが欲しい、だと?
――この罪深き私が?
そんなもの、烏滸がましいにも程がある。
「クッ!?」
その動揺の隙を突かれたのか、逆に刀を押し返され、光秀は一歩引いてしまう。だが、見据えた先には既に男の姿はなく。
代わりに後ろから囁くような声が聞こえた。
「罪滅ぼしと許しは似て非なる物だ。前者はした側の偽善、後者はされた側の施しだ」
「ッ!!?」
いつの間にか光秀の後ろに回り込んでいた男はゆっくりと歩きながら、光秀に向かって片手で大太刀を振り続ける。
一歩一歩下がりながらその剣戟を刀で受け止める光秀であったが、男はまるで人の心の弱さを突くと同じが如く、光秀の隙にその刃を当てていく。
「つッ、アッ……!!」
後ろに飛び距離を取る光秀であったが、男もまた体を前面に若干傾けたままの体勢で跳び、瞬く間に光秀との距離を縮めた。
「故に、卿からは罪を貰おう。そうすれば、卿が
「ッ!?」
その言葉はまるで甘言なようで、それでいて光秀にとっては残酷な物であった。
それは、逆に言えば二度と許しの言葉を掛けてもらえないのと、そう言っているのと同義だった。
――駄目だ……それだけは……。
「……いやだ……」
それだけは駄目だ。
例えあの世であろうと、あのお方から二度と許しの言葉を貰えなくなるのは。
この罪が焼かれる事がないままあの男に奪われてしまっては、その罪が
他ならぬ、謀反人という
「
それだけは……それだけはぁッ!!!!」
狂ったように否の言葉を連呼し、男に向かって何度も刀を叩き付けようとする。
そこには武道にて養った技も、実戦にて培った動きもなく、ただひたすら力任せに得物を振るうだけの愚者そのもののようであった。
その力任せの剣戟を男は片手の大太刀で受け流しつつ、少々鬱陶しそうな声で言い放った。
「少し黙っていてくれないかね?」
男は大太刀を持っていない方の左手の指をパチンと鳴らす。
それと同時に、不意に光秀の足下の地面が爆ぜた。
「あ――――」
一瞬だけ、足下の紅蓮色が見えた直後、光秀の視界は墨色の空へ向かっていき、そのまま反転して地面、更に反転してまた同じ墨色が映った瞬間、背中に大きな衝撃を感じ、ようやく視界の動きは止まった。
爆破の衝撃に吹き飛ばされ、背中に落下の衝撃を受けた光秀は、徐々にその意識を失っていった。
「卿はもはや忠臣ではなく謀反人でもない。……壊れた物に語るなど、私も無駄な熱だったな」
それを見た梟は、そう自嘲しながら、この墨色の空を見上げた。
あまり、殺傷力の少ない火薬が用いられたのか、光秀が再び意識を取り戻すのに時間は掛からなかった。
目を覚ましたとき、まず見えたのは相変わらずの墨色の空だった。
(私は、一体……)
光秀は思い出そうとする。
最後の記憶は、自分の足下の地面に埋め込まれていた火薬が爆発を起こし、ここに吹き飛ばされて意識を遠のいていった事だった。
(ああそうか、私は……)
何もかもをなくしたのか、とようやくこれまでの出来事を光秀は思い出す。
主に謀反を起こし、その報いを受け、この街道を彷徨い、現実を諭され、夢を壊され、そして敗れ、自分は今ここにいる。
(何なのだろうな、私は……)
勝手に壊し、勝手に壊れた人間。
己と同じ業を背負いながら尚、己の欲望に従おうとしたあの男と、自分は一体何が違うのだろうか。
あの男は、信長公を裏切り続けて尚信長公に気に入られ続けていた。
自分と同じような謀反人であるにも関わらず、自分と違って何度も許され続けてきて……。
(そうか……
そう。あの男に対する嫉妬。それが光秀のあの男に対する怒りの源だったのだ。
何度も許されている癖をして、謀反を成功させてしまったがために二度と許される機会を失ってしまった自分に、己の深淵を的確に言い当ててくるのが癪に障った。
あ奴と同じ感情が、いつの間にかあの男にも向けられていた。
ふと、右側から足音が聞こえ、そこへ振り向く。
誰かが歩み寄ってくる、それが誰なのかは言うまでもない。
あの男――松永久秀はゆっくりと仰向きに倒れている光秀に歩み寄り、身を屈めて左手を光秀の顔面に添えた
「……さて、名も無き残骸よ」
名も無き残骸……違う。
自分は残骸などではない、まだこの罪がある。
公に仇なした謀反人という
「名前……なら、私は……明智……」
「違うだろう? 壊れた物に名称など不要だ」
名乗りを上げようとする光秀の口を遮り、そう言い切る松永。
すると、光秀の顔の上に添えられていた松永の左の掌が、光り出した。
いや、光り出したというよりは、光秀から吸い取った、というべきか。
その光を手に取ったまま、松永は添えた手を光秀から離した。
(アレ……私ハ……一体……)
そして、光秀にはもう何もなくなった。
かろうじて認識できるのは、松永の掌の中にある、己の中にあった筈の光るナニカ。ただそれだけであった。
そんな光秀を尻目に、松永は掌の上にのせたその『光』を暫し愛でるように見つめ、光秀
「そうだな……やはりこれがいい。卿からは“名前”を貰おう。魔王を討ち取りし
(……………)
光秀からの反応は既に無い。
その揺れた目は既に何も映しておらず、目を開けたまま彼の意識は彼方へと消え去っている。
「時の流れに取り残された逸話上の宝……今宵はコレを肴に、
天下布武の大号令の元、踏みにじられ、生きたまま焼き尽くされた亡者達には、ソレが幾ばくかの供養にもなろう」
(…………)
否、この男に供養などという文字は欠片もない。
ただ己の欲しがる物の為に、光秀から、その掌にある
「これで卿にはもう何も無い。もう許しを貰えはしない。公亡き世に怯える必要もね……」
(…………)
光秀は何も答えない。
ただその虚ろな目を開けたまま、松永の話を聞くのみであった。
「這いずるもよし、朽ちるもよし。卿が選んだそれこそが真理」
光秀はただ己の欲望に従い、己の中に罪という宝を作った。
松永もまた己の欲望に従い、光秀の中にあったその罪という宝を奪った。
全ては、ただ世の真理に従ったまでのこと、それだけなのだと。
「では、さようならだ」
別れを告げた松永は、倒れている光秀を放置し、そのまま立ち去っていく。
罪なき人間が、宝を育む事はもうない。
宝を持たなくなった人間に、彼は最早興味など示さない。
かつては同じ公に仕えた者同士の、正真正銘の今生の別れが今、なされた。
(……………)
天の海から降り注ぐ雨が、名も無き残骸の体を打ち続けた。