───誰もが笑いあえる。そんな平和を望んでいた。
────大切な人が傷つき、悲しんでいる姿をもう見たくはなかった。
その両者は似ているようで本質的には全く異なるのだと、嘗て切嗣は俺にそう言った。
『……士郎は、どんな大人になりたいんだい?』
いつになく優しい声色で、しかしいつになく真剣な眼差しでそう問われたことがある。
……自分は何と答えたのだったか。
覚えているのは自分の答えを聞いた切嗣が目を丸くして、その後に安心したように微笑んだことだけだった。
#
溢れる光と一瞬の浮遊感。
瞼を開くとそこには先程まで自分が倒れ伏していた場所と変わらない重い静寂に包まれた校舎が。
「ここは……」
何が起こったのかは自分でも分からない。ただ無我夢中でカードを握り締め、頭に浮かんだ言葉をそのまま呟いただけだったのだ。
しかし、立て続けに起きた奇妙な出来事に己の頭はそれなりに慣れ始めてしまっていた為か、そこまでの動揺もなくすんなりと自分は再び異世界に踏み込んだのだと認識することが出来た。
校庭の様子を確かめようと立ち上がろうとしたその時、
ぬめり。
手元に感じた奇妙な感触に士郎は己の足元へ視線を移し、そしてようやく気づく。
そこにはおびただしい程の血が無造作に撒き散らされていた。それは、人間にはこれほどの量の血が流れていたのか、と思ってしまうほどで
痛い。痛い。痛い。
胸に残る生傷が、確かにあのとき貫かれた筈の心臓が軋みをあげ、士郎は思わず胸元を強く握りしめた。
断言できる。これほどの量の血を流して、人間が生きていられる筈がない。
ではこの血は誰のものだ?
あのときなにもできずにただ逃げて、その果てに心臓を貫かれた男。それが何故五体満足で、こうして地に足を着けていられるのだ?
…………何故、俺は生きている?
心のどこかで、まだ夢物語であると信じていた。どんなに奇妙な出来事が起こるといっても、こんなことはある筈がないだろうと思っていた。そんな儚い幻想は、目の前の血溜りという現実に崩れ去った。
俺は二度目の死を迎え、『また』助けられたのだ。
思わずこぼれた疑問に返ってくる言葉はなく。返ってきたのは
────キン!
金属と金属が激しくぶつかりあう音だった。
「っ!ルヴィア!遠坂!」
その音に沈みかけていた思考が浮上し、現実に引き戻される。そうだ、俺は二人を助けにここまでやって来たのだ。
宝石をポケットに入れ、カードを握りしめたまま
何か戦える物を、と近くにあった箒を掴み、駆け出す。
二人に傷ついてほしくなかった。だからこの剣戟の音が続いてほしくはなかった。しかし、この音が止まってしまうことは何よりも恐ろしい。
それは戦いの決着────どちらかの死を意味しているから。
息をするのも忘れてひたすらに校庭へと駆ける。
#
校庭に駆け込んだ瞬間、視界に映ったのは自分を殺したあの男が遠坂の一撃によって斬られ、倒れ伏した光景。
「────」
抱いたのは魔法少女なんて可笑しな格好をしている彼女達の強さに対する驚きと、彼女たちが生きていたという安堵、そして
────あぁ、間に合わなかった
目の前の光景に対する悲しみだった。
もはやあの男が普通の人間であるとは思っていない。己はヤツに殺された身だ。その程度のことは身を以て理解した。出くわしただけで俺を殺し、遠坂やルヴィアを殺そうとしたヤツに対して死なないで欲しい、などと言うつもりは無かった。
しかし彼もまた己の目から見れば人であり、彼女達がその手を汚してしまったという事実が、どうしようもなく悲しかった
自分がもう少し早く着いていれば、こんなことにはならなかったのではないか。もし、あの時自分が逃げ出さなければ。そんな意味のない仮定を繰り返す。
そんな中、視界の端に映る校庭に倒れ伏していた筈の男が、再び立ち上がろうとしていることに気づく。
次の瞬間、俺はひたすらに遠坂に向かって駆け出していた。
「!?ミス・トオサカ!!」
ルヴィアの声で遠坂は男に気づいた様子で、己に迫る朱槍に成す術もなく固まっていた。
「────遠坂!」
思わず叫び、男へと疾走する。
しかし、男の殺気が此方にも向いた瞬間、自分が余りにも無力であると実感する。
何故なら己の武器は箒一本。それでどうやってヤツと戦うというのか。
これでは駄目だ。こんなものでは遠坂どころか自分の命すら守れない。
箒を投げ捨て、祈るようにカードを強く握り締める。
死んでいた筈の自分が救われるという奇跡の後、あの場所に残されたこのカードと宝石だけが唯一の望みだった。
この行為がどれ程愚かで無謀なことかなど冷静に考えずとも分かりきっていた。
それでもこのカードには『力』がある。俺にはそんな確信めいた予感があった。事実、このカードがあったからこそ、俺は己の意思でこの世界へ来れたのだ。
────武器だ。武器がいる。
遠坂を守れて、アイツを倒せる武器が────!
がちり。
一瞬、何かが置き換わる感覚。
次の瞬間にそれは現れた。
───それはまるで陰と陽。二振りの夫婦剣。
突如光と共に手元に現れたその剣を握った瞬間、
「ガッ‥‥‥!?ァァッ…………!!」
────來五山之鐵精、六合之金英
『一体何故なのだろう。天は私を見放したというのか‥‥』
───候天伺地、陰陽同光
『貴方様、この私をお使いなさいませ』
───百神臨觀、天氣下降
『我が干将を此処に託す。あぁ、このようなことをすれば私は死ぬのだろう……莫耶よ、我が愛する妻よ。もしその子が生まれ、男であれば────』
───出戸、望南山、松生石上
『許さない。許すものか。母が干将を手にした時のあの表情を、父が莫耶を抱き死への行路を進んだその想いを知り、どうして私が彼の王を許せるというのか────』
───劍在其背
『……私に任せてください。何、私も帰る場所を失った旅人。貴方のその首と干将を以て必ずや貴方の悲願を────彼の王を殺してみせましょう』
大量の情報が頭の中に溢れ、埋め尽くされる。思わず意識を飛ばしてしまいそうになるが、それをギリギリのラインでなんとか踏みとどまる。
溢れる情報の量が多すぎた訳ではない。ただ、その情報の濃さが強すぎた。その剣の全てを刻まれたような、まるで剣に己の身体を貫かれるような錯覚。
しかし、其の夫婦剣はまるで慣れ親しんだものを再び手にした時のように妙にしっくりと手に馴染んだ。
そして、導かれるように夫婦剣は軌道を描き、その呪いの朱槍へと吸い込まれていく。
干将の一撃で槍の軌道を反らし、莫耶で敵の胴体を狙う。しかし相手は黒化英霊で瀕死の身とはいえケルト神話最大の英雄。素早い槍捌きで莫耶の一撃を止め、そのまま跳ね上げる。その余りの力強さに士郎は思わず体勢を崩す。その隙を見逃すまいと迫ってくる槍、それをなんとか体勢を建て直し夫婦剣を交差させて防ぐ。
一旦互いに距離を置き、相手から視線を外すことなく士郎は口を開く
「遠坂、ルヴィア!此処は俺が足止めするから二人は早く逃げるんだ!!」
言い終わった直後には再びランサーが動き出し、士郎へと肉薄する。その一撃を間一髪で避け、夫婦剣を降り下ろそうとするも
「ぐっ……ぁ………!」
ランサーの回し蹴りによってそれを阻まれ、そのまま10メートルほど吹き飛ばされる。
その衝撃に視界が大きく揺らぎ、急いで立ち上がろうとするもその痛みが士郎を襲い、膝をついてしまう。
その間にも士郎に迫るランサー。その姿はあの時と同じくまるで死を告げる死神のように恐ろしく見えた。
────けど、俺には守るべき人達がいるんだ。こんなところで、殺されて堪るか。
そう決意し、痛みを堪えながら立ち上がろうとした時
此方に向かっていたランサーが突如としてその向きを変え、次の瞬間には大量の光弾がランサーを襲った。
「………逃げろ、ですって……?」
「そんなこと、出来るわけないでしょう……!」
視線を向けると其処には毅然とした姿で立っている遠坂とルヴィアの姿が。
「────」
その姿に思わず見惚れてしまった。…どんなにフリフリでケモ耳をつけた魔法少女であろうとも、彼女達は気高く、そして美しいのだ。
俺も立ち上がり、干将莫耶を再び構え、ランサーへと駆け出す。理屈うんぬんはこの際後回しにするとして、ランサーと戦える彼女達だがそれを黙って見ているつもりなど無かった。
二人が光弾の弾幕でランサーを足止めしている間に俺が夫婦剣でランサーに肉薄する。
二方面からの猛攻に、ランサーは対処しきれず徐々に体勢を崩していく。こうしてみてもランサーはその動きを追い、なんとか対処出来る程度にまで弱っていた。それもその筈。彼の身体はとっくの昔に霊核がもたない程の致命傷を受けていたのだから。
「今ですわ!」
ルヴィアの合図で遠坂が飛び出す。その手にはブレード型のステッキが。ランサーはそちらへ向かって朱槍を振るおうとするもそれをさせるまいと干将莫耶で防ぐ。だが勢いを殺しきれなかった槍が脇腹に食い込み、激痛が走る。
「ぐっ………ァァァァァァァァァァ!!!!!」
それでも退くわけにはいかなかった。ここで退けば遠坂は死ぬ。そんなこと、許せるものか────!
渾身の力を以てランサーの槍を跳ね上げる。次の瞬間、
ばきり。
と、まるで役割を終えたとでも言うように干将莫耶が崩れ落ちる。
「これで、終わりよ────!」
そして肉薄した凛の一撃がランサーに炸裂し、ランサーは霧散するように消えていった。
#
「……で、ぜーんぶ洗いざらい話して貰いましょうか?え・み・や・く・ん?」
「え」
全てが終わり、遠坂に無理矢理引っ張られるようにして妙な魔方陣のようなものに入れられ、光が溢れたと思えばもとの世界に戻っていた俺達だが、次の瞬間には俺は二人の前で正座をさせられる羽目になった。なんでさ。
遠坂の笑顔が怖い。遠坂って実は可愛いヤツなんだなとか思ってたけど思い違いだったのだろうか。
怖い。とにかく怖い。まさにあかいあくまだ。
助けを求めてルヴィアに視線を向けるも駄目だった。まだ笑顔で此方に迫って来ないだけましだが、その穏やかな表情の反面、目が全く笑っていない。
俺は何か悪いことでもしたのだろうか。確かに、結局俺がいたところで遠坂がとどめを刺してしまったことに対して自分の不甲斐なさを痛感してはいる。しかしアニメやゲームでしか見たことのない魔法のような超展開については正直、こちらがいろいろと訊きたいのだが。
「まさかシェロが魔術師だったとは……」
「私たち二人が全く気づかないなんて、かなりのやり手のようね」
「は?へ?え?ちょっ……」
魔術師、って魔法を使うあの?俺が?
いやまぁ、遠坂とルヴィアが実は魔法少女だったっていう衝撃事実はあの光景を目にした以上認めざるを得ない訳だが。
それにしたって俺が魔術師というのはどういうことだろうか。俺はただ気がついたらあの世界にいて、突然現れた武器で戦っただけで、何がどうなってそうなったのかは全く分かっていない。というか教えて欲しいくらいだ。
「待ってくれ、俺は魔術師じゃない。あの世界にいたのだって気がついたら…」
「今更言い訳は要らないわ。あれだけのことをしておいて魔術師じゃない訳が無いじゃない」
「エミヤ……聞き覚えがありますわ。確か十年ほど前まで……」
どんどん俺の知らないところで話がエスカレートしている。よく分からないが、まずいということだけは理解した。そうなればすることはただ一つ。
「わ、悪い!あんまり遅いと家族に怒られるから!じゃあまた明日!」
───よし、逃げよう。
そう決意した瞬間、行動は早かった。
遠坂を助けるために疾走した時さながらの猛スピードで駆け出す。
「なに言って……ってちょっと!!!?待ちなさいよ────!」
#
玄関前に立ち、俺は新たな危機に直面していた。
時刻は既に深夜。この扉を開いた瞬間のセラの顔を想像し、気分が重くなる。
一体何を言われるだろうか。また説教二時間コースかな…などと考えていても更に帰りづらくなるだけだ。ええいままよ、と玄関の扉を開く。
「た、ただいま………」
「シロウ!!!」
また叱られるのだろうと覚悟をして目を閉じる。しかし、感じたのは身体を優しく包まれるような感覚。
「え………」
「何処に行っていたのですか………心配したのですよ」
その言葉に込められていたのは優しさと慈しみ。そんな言葉をセラから掛けられたことなどほとんど無かった俺は思わず動揺する。
「……怒らないのか?」
「……えぇ、怒っていますとも。説教はまた明日。今日は休みなさい」
そう言われてなされるがままに自室のベットに寝かされる。瞬間、猛烈な睡魔が身体を襲ってきた。そこで初めて、自分はこんなに疲れていたのだなと認識する。強烈な睡魔に抗う術も無く、俺の意識は微睡みへと落ちていった。
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「……そんなボロボロの姿を見てしまえば、怒る気など失せますとも」
「……セラ、シロウどうだった?」
「脇腹に突かれたような傷と肋骨が一本。どちらも治療魔術で治しておきました。あとは胸にも突かれたような傷痕が。此方は何者かによって既に塞がっていました。魔術回路は…一本だけこじ開けられていました」
「一本?」
「ええ。………全く、ホムンクルスとしての能力を棄てた今、治癒魔術などどれ程の苦労がいると思っているのか………ともかく、これはお二人の力を借りる事態かもしれませんね」
そうして始まりの夜は終わりを告げ、新たな夜明けを迎えるために静かに廻り続ける。
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