SSS   作:ishigami

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 食事

 

 

 

 ◇ ◆

 

 

 

 

 

 寒空の下、私は感覚を研ぎ澄ます。

 

 意識は、彼方の的へ。

 

 

 ――射法八節。

 

 足踏み。

 胴造り。

 弓構え。

 打ち起こし。

 引分け。

 会。

 離れ。

 

 ――残心。

 

 

 弓を倒した。見遣った先では、三本とも中っている。

 

 そろそろと息を吐く。皆中ではあったものの、中央からは少しずれていた。

 

「調子いいね、間桐」

 

 主将が、拍手しながら寄ってくる。

 

「ありがとうございます。ですが主将にも、先輩にも、まだまだ及びませんから」

 

「先輩って、衛宮のことでしょ? あいつと一緒にしちゃだめだよ。あいつの弓は、ちょっと普通じゃないから。ま、私の後継くらいなら、じゅうぶん期待しちゃってもよさそうかな」

 

 苦笑しながら、私は心を整える。

 

 この時間帯が好きだった。静かで引き締まった心地よい空気、雑念を捨てられるこの空間は、私にとって日々を過ごすうえでの、最も大事な場所の一つといっていい。

 

 部員たちの気配が増え始めていたけれど、それらの挙措は(おごそ)かと云ってよく、決して耳障りというほどではなかった。

 

「あれ、遠坂じゃない」

 

 私は。

 

 強張りかけた指を止め、瞳を閉ざした。揺らぎかけた心を落ち着かせるように、ゆっくりと肩の力を抜く。

 

「こんにちわ、美綴さん」

 

「もう、こんばんわ、だけどね。なんだ、また来たの?」

 

「ええ。迷惑だったかしら」

 

「いいけど……前のときは見ていかなかったし。なんだ、もしかして遠坂も弓道に興味が出てきたってこと?」

 

「残念だけど、入部希望とかではないわ。遠くから見ているぶんには好いけどもね……特に用があったわけじゃなくて、ただ、なんとなくね。気になったのよ」

 

「ふうん。まあ遠坂なら、邪魔にはならないかな。遠坂を見て心を乱すような子は、この部にはいないでしょうし」

 

「遠回しに非難されてるのかしら」

 

「遠坂のせいじゃないよ。それで心が乱れるのなら、鍛錬が足りないってことだもの」

 

 ――射法八節。

 

 目を開く。

 

 会。

 離れ。

 

 外れこそしなかったが、大きく外側を射っていた。

 

 私は気づかれないように、そっと息を吐く。

 

「お邪魔したわね」

 

 いつの間にか、時間が経っていたらしい。

 

「もういいの?」

 

「ええ」

 

 遠坂凛が、傍をすれ違った。

 

「お疲れ様です、遠坂先輩」

 

「……桜も、しっかりね」

 

 彼女が去ると、主将が話しかけてきた。

 

「間桐、遠坂となにかあった?」

 

「え?」

 

「なんだか、二人とも普段と違うような気がして――」

 

「なにもありませんよ」

 

 私は、腑に落ちない様子の主将に、わらいかける。

 

「私と遠坂先輩のあいだには、なにも。ありません」

 

「そう……?」

 

 ――そうだ。

 

 なにも、ありはしない。主将が気にするようなことは、何も。

 

 ――遠坂と、間桐のあいだにあるものは、一つだけ。

 

 敵同士。ただ、それだけなのだから。

 

 

 今は、まだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 足音が響く。拡張工事を放棄された区画の、人気のない入り組んだ裏路地の暗がりに。

 

 足音が響いている。不安を覚えたかのように徐々に速足になり、間隔を置いて、陽の沈んだ寂れた裏道に足音がいくつか増える。まるで狩りをする群狼が追い詰めるように。数にして四つ。少女の足音を含めれば、五つ。

 

 足音が止まる。追いついた男たちの足音も止む。

 

 少女が振り向く。

 

 男たちがわらう。

 

 行き止まりだった。

 

 もう遊びは終わりかい。男たちが言う。なら次は、もっと楽しい遊びをしよう、俺たちと。楽しいよ、きっと。

 

 そうですね。少女が呟く。声に、怯えや震えは含まれていなかった。少し憂鬱そうな響きさえ込め、諦めたように笑みを浮かべている。でも、と少女は続けた。私を、これで追い詰めたつもりですか?

 

 電車の音。近くのようで遠いはずの音が、ここにいても聞こえてくる。

 

 逆ですよ、誘い込まれたんです。男たちには、少女の言っている意味が分からない。非力でしかないはずの少女のため息の理由も。貴方たちが途中で立ち去るのなら、見逃してもよかった。でも、もうだめです。貴方たちは、此処へ来てしまったのだから。

 

 男の一人が、何か異様なものを感じ取ったように周りを見回した。虫のさざめくような音が聞こえた気がした。それは、この路地裏の至る所から発せられている。

 

 逃げられませんよ。行き止まりですから。

 

 無意識に後退ろうとしたとき、男たちは自分らの脚が動かないことに気づいた。靴が、地面と融着しているかのように放せない。しかも膝のあたりまでがコールタールのように黒く染まっている。地面と同じ色。あれ、と男は躰が冷たくなりながら思った。俺、こんな色のパンツ履いてたっけ。それに地面って、こんなに黒かったか? 雨が降ったわけでもないのに?

 

「グレゴ」

 

 俯きながら、少女が言った。

 

「いいですよ、もう。――食べてしまっても」

 

 少女の呼びかけに、男たちは呆立ちしていた。

 

 

 〈ご主人の許可が下りた〉

 

 

 人ではない者が、応えていた。男たちには、「虫のさざめき」にしか聞こえなかったであろう声が、告げる。

 

 〈食事の時間だ、おまえたち〉

 

 爪弾くような悲鳴が響いた。

 

 暗がりから一斉に湧き出したナニカが、瞬く間に男たちを覆い尽くした。逃げることも許されず、穴という穴から侵入された男たちは、懇願するような怒号すらも「虫のさざめき」に掻き消され、精神と肉体の隅々まで蹂躙されてゆく。

 

 つらいですよね。くるしいですよね。

 ごめんなさい、でも。

 貴方たちだって、いけないんですよ?

 

 少女はじっとその様子を眺めながらも、自身の口元がわずかに歪んでいることに気づかない。

 

 だって。

 私にひどいこと、しようとしたんですから。

 

 少女の呟きが、男たちに届くことも、ない。

 

 

 

 

 

 ◇ ◆

 

 

 

 

 

 

 〈あまりいい顔ではないな、ご主人〉

 

 一匹の蟲が、私を見上げている。

 

 〈なんというのだったかな。そうだ、一〇〇年の恋も冷めてしまいそうな顔というやつだ〉

 

 昆虫の頭を持ちながらも、他の蟲たちと違って鱗や体皮のかえし(・・・)がない、形状も、ほとんど蛇のように細長い真っ黒な生き物が、暗闇でも照り返す金色(こんじき)の双眸で、私を見つめていた。

 

「うるさいですよ。適当なことを言わないでください」

 

 〈俺の見間違いだと言い張る気か? この距離であれば、むしろ昆虫の目のほうがより細やかに表情を識別できるんだぞ〉

 

「だぞ、じゃありません」

 

 〈そうかい〉

 

「何が言いたいんですか」

 

 〈うん?〉

 

「なにか言いたいことがあるんでしょう」

 

 〈いや。いいや君にではない。哀れな男たちだと思っていただけだ。哀れで、そして愚かな男たちだった。五体満足の健康な身体に生まれつきながら、肺は煤まみれで筋肉の質も悪いらしい。おまけに頭の中身もだ〉

 

「……この人たちを、そんなに悪く言わないでください」

 

 〈惜しんでいるのさ、もっと有効に活用することもできただろうにと。とはいえ全く無価値というわけではないか。こいつらに卵が定着したら、今後は母体として、そうとも知らずに魔力を供給し続けてくれるのだからな。感謝くらいはしておくべきか。愚かでいてくれて、ありがとうと。俺になど感謝されたところで、当人たちは困惑するだけだろうが〉

 

 うんざりするような話だった。いくら自分がそうなるよう仕向けたとはいえ、蛇の饒舌は悪趣味に過ぎる。しかも本人は正直に言っているつもりらしいので、なおのことタチが悪い。

 

「それ以上うるさいクチを利くのなら、蟲たちにあなたを食べさせてしまってもいいんですよ」

 

 〈俺から支配権を奪うつもりか? さらっと怖ろしいことを言うようになったな、出来るかどうかは別としても、随分と図太くなったものだ。実に喜ばしい成長を感じさせてくれるねご主人、むろん俺としても簡単に奪わせるつもりはないが、しかし少し心外でもある。こんな畜生なナリではあるが、俺は契約者にきちんと忠実な使い魔の自覚をしっかりと示している所存なのだぜ〉

 

「忠義者を名乗るなら、もう黙っててください。あとどれくらいで終わりますか」

 

 〈うん、あとちょっとだ〉

 

 しゅーしゅー。

 

「なんです?」

 

〈いやあ、調子もだいぶ戻ってきたようで何よりだ。安心した。ライダーを引き当てたときは感極まって泣き崩れていたというのに、すっかり回復したみたいじゃないか〉

 

「お黙り」

 

 〈あいわかったとも、ご主人。ところで今日の夕飯は何かな?〉

 

「……シチュー」

 

 〈ほう!〉

 

「あなたのぶんは抜きね」

 

 〈その仕打ちは! 残酷すぎやしないか!〉

 

 ぴょんぴょん飛び跳ねながら抗議する姿を見て、私はため息を抑えられなかった。

 

 ――ほんと、お喋りでうるさい蛇。こんなのが私の使い魔だなんて。

 

「冗談です。グレゴ」

 

 〈やる気がなくなった。……嘘さ、終わった〉

 

 山のように群がっていた蟲たちは、補給を完了すると、太陽を浴びた影のように姿を消した。そして残骸のようにぽつんと現れるのは、意識を喪失している男たちの躰。

 

 服は着ていた。冬場だから凍えないようにという配慮らしいけれど、魂喰いをしておいて今さら、と思わないでもない。

 

 精神を貪られて痴呆のように、この先も回復する見込みが立たないであろう男たちに、私は罪悪感をあまり感じていなかった。私の本来の(・・・)血脈に備わる「転換」の特性を利用した蟲の幼体を埋め込むことで、微量ながらも魔力を吸い取り続ける仕組みを考案した蛇に対しては嫌悪感を抱いているけども、それを容認している自分に対する嫌悪は、もっと強い。

 

 それでも、打ちのめされることは、いつからか無くなった。足取りが重くなることもなければ、冷たい夜に思い出してふるえることもない。心を強く動かされることも。麻痺しているのだろうか。ふと自嘲にも似た思いが込み上げてくる。今さらそんなこと考えるだなんて。

 

 とっくの昔に、私は狂ってしまったというのに。

 

「………、」

 

 かつて蛇は、望んだことのためだろう、と心の裡を見透かしたようにわらった。狂ったとしたら、あのときからだ。ひかりを見た。私の心は、あのひかりに灼かれてしまった。地獄のなかで見つけたひかりを、取りこぼしたくない。そのための努力は惜しむべきじゃない、と蛇はいつも私の行為を肯定した。私のおぞましい悪意と独善を推奨し、不意に揺らぎそうになったときは、常に傍にいてくれて、うっとうしいくらいの多弁を用いて、悪辣なまでに私に思い出させてくれた。

 

 どこまで堕ち、穢れたとしても。ほしいものがある。絶対に、他の人には譲れないものがある。

 

 あの日から、私は歩き始めた。この(ルート)を。立ち止まったときが、すべてを失うときだった。しかし最後まで諦めなければ、望んだものが手に入る。夢にまで見たものが。

 

 〈ノルニルは誰に微笑むのか〉

 

 考え込んでしまっていた私は、そんな呟きに顔を上げた。蛇は、宙に視線を漂わせている。

 

「なんですって?」

 

 〈何でもない。しいて言うなら、ただの感傷だ〉

 

「似合ってませんよ」

 

 〈俺もそう思う〉

 

 しゅーしゅー。

 

 〈まあ、女神はたいてい気まぐれで、残酷と相場が決まっているが。此処まで積み上げてきたんだ、その結実のときがもうじきともなれば、如何に蟲とて、らしからぬことも考えるだろうさ〉

 

 蛇が、じっと私を見つめた。

 

 〈……神が、蟲の祈りを聞き届けるとも思わないが。運命が君に微笑めばいい。そう思ったのさ〉

 

「――そう」

 

 普段は人を小馬鹿にしているくせに、ときおりやさしい大人のようなことを言うこの奇妙な生き物に、共犯者に。

 

 私は、この(ルート)を選んだあのときから、口にこそしないが感謝していた。

 

 一人であったなら、おそらく今以上に、私の世界はどこかで崩れていただろうから。

 

「行きますよ」

 

 そして、感謝すると同時に。

 

 

 すべての原因でもあるこの使い魔のことを、私はやはり、どうしようもなく憎悪してもいるのだった。

 

「……やっぱり、夕食は抜きです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 〈!?〉













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