焼けるような赤い空に、ぽっかりと穴が開いている。吸いこまれそうな闇色で、もうじき夢の終わりだということに気づいた。
――センパイ。
ほら、声が聞こえる。
「……桜か。おはよう」
少女が、穏やかに微笑んだ。
「はい。おはようございます、先輩」
◆ ◆
朝食は、桜が作った。蔵で鍛錬をしているうちに、朝まで眠り呆けてしまったらしく、散らかった様子を見かねた彼女が、作るのは任せて欲しいと言い出したのだ。
「おはよう、藤ねえ」
「おはよー」
居間に入ると、食欲をそそる香りが鼻をくすぶった。テーブルに並べられているのは本格的な和風朝食。腰を下ろしたところで、新聞を読んでいたタイガー教師が顔を上げた。
「まったく、士郎ったらまた蔵で寝ちゃってたの? まだまだ子供なんだから。朝ごはんも桜ちゃんに全部つくらせたりして、いけないんだぞ先輩なのにっ」
「毎度のようにたかりに来てる藤ねえの台詞じゃないだろ、それ」
「私はイイのだっ。なんたって桜ちゃんの料理っておいしいし! 忙しい先生の毎日の生きる活力なのだ、なんぞ文句あんのかい」
「あのなあ」
「えっと、先輩。私、ぜんぜん迷惑じゃないですから……」
「というか、士郎がちゃんと起きてこないのがいけないんでしょ。布団で寝なさいよ布団で。高校生にもなって、自己管理できてない証拠よ」
「藤ねえにだけには言われたくないぞそれっ」
「なんだとーっ!」
エプロンをしたままの桜が隣につくが、苦笑いを浮かべている。
「まあまあ。藤村先生も、先輩も。それくらいにしてください。お料理が冷めちゃいますよ」
「それはいけない。いただきますっ」
同時に手を合わせてあと、「ぷんぷん」と声に出しながら箸を伸ばした自堕落教師だったが、口に運んだや否や、不機嫌そうな顔は一瞬で氷解し、英語教諭らしく「エクセレント」とでも言いたげに相好を崩した。
「うんうん、やっぱり桜ちゃんって料理の才能あるわよ。素敵なお嫁さんになれるわねー。ねっ、士郎もそう思うでしょ」
「そうだな」
――今年で二五のくせして、どっちが子供なんだか。
ちょっと言ってやろうかとも思ったが、桜が嬉しそうに笑っていたから、そんな気も失せてしまった。炊きたてを口に運んだ。美味い。続いて味噌汁。やっぱり朝は日本人たるもの和食だな。箸が進む。
テレビでは、昨日深山町で起こった一家殺人事件について報じていた。犯人はまだ捕まっていない。そして新都での連続ガス漏れ事故に関して、会社側が開いた謝罪会見の一部映像が繰り返し使われていた。
なんだかいろいろ物騒よね、とトラトラトラが憂鬱げに呟いた。「士郎、こんなときだからこそ、ちゃんと送り迎えしてあげなさいよ」
「わかってるよ。……なんだよその顔は」
「ふふーん。なんでもないですにゃー」
意味ありげに桜に目配せしていたが、なんだというのだろう。
「ごちそうさまでした! 今日も美味しかったわよ、桜ちゃん!」
食事を済ませると、原付バイクで走り去った美人教師(自己申告)のあとに遅れて、自分たちも屋敷を出た。
「なあ桜」
「はい」
「べつに毎日、無理してこなくてもいいんだぞ?」
「えっ」
「このところ物騒だろう。テレビでも言ってたけどさ、殺人なんてのがあったくらいだ。朝早くから来てくれるとなると」
「私、もしかして迷惑ですか」
「そういうわけじゃなくて。桜の作る料理は美味いし、助かってるよ。ただ甘え過ぎてる気がしてさ。慎二にも、悪いし……」
裾を、引き留められた。
「桜?」
俯かれる。はらりと髪が揺れる。
「好きなんです、先輩のところでお料理するの。先輩と一緒にする時間が、私」
持ち上げられた瞳は、不安におびえているようにも見えた。
「だめ、ですか?」
「だめ、じゃないけど――でも、いいのか?」
「はい。お願いします、先輩」
そんな表情をされて、無下にできるわけもなかった。
「わかったよ。分かったってのも、おかしなことだよな。俺が世話になってる側なのに。けど、わかった。これからもよろしく頼む、桜」
「はい! 頑張りますね!」
「ああ……」
再び並んで歩き出したところで。
「なあ、桜?」
「はい、先輩」
「えっと。服」
裾を、掴まれたままだった。
「いけませんか?」
「いや……」
寂しそうに言われる。
「まあ、いいか……」
途端に、桜は笑顔を見せた。あの不安そうな様子は演技だったのか。いや桜に限ってそんなことはないか。それに、そんなに悪い気分じゃない。ちょっと周りの目は気になるけども、俺が耐えればいいだけのことだ。
「ねえ先輩」
「うん?」
「先輩にはそう見えないかもしれないですけど、私って、あんがい
「強いって」
「心配していただけるのは嬉しいですけど、私としては、むしろ先輩のほうが心配です」
「俺がか?」
「はい。もし先輩が、危険な人たちに遭ったらなんて思うと」
「大丈夫だって」
「先輩」
「なんだ?」
「危険な真似は、しないでくださいね」
妙に、釘を刺すような言葉だと思った。眼差しも真剣そのもので、どこか思いつめているようにも感じられる。朝の陽光を浴びながらするにはそぐわない空気だった。
「安心してくれ。そんなことにはならないよ」
そうやって、簡単に口にして。
学校で桜と別れると、代わり映えしない授業を受けて、生徒会長である一成と昼食を取って、放課後は――慎二に頼まれて、弓道室での雑用を請け負って――
気が付くとすっかり、日は沈んでしまっていて――
◆ ◆
「運がなかったな坊主」
確かに、危険なことはしないと言った。
だからといって、少し遅くなったくらいで、こんなことに遭うなんて。いったい誰が想像できたというのだろう。
「ま、見られたからには死んでくれや」
青の痩躯。朱い槍。
心臓を、貫かれた。
◇ ◆
〈こらえろ、桜〉
動き掛けた脚を、いさめる声があった。
「視蟲」から送られてくる映像は、
「でもっ」
〈準備はできている、万全は期している。事前に決めたとおり運ばなければ、すべてを取りこぼしてしまいかねないぞ〉
「……っ」
歯軋りの音がした。口を抑え付け、声が漏れないよう押し殺した。知っていた。わかっていた。それなのに、私は
〈泣くにはまだ早い。動くぞ〉
槍兵が消えていた。校舎に隠れていた私は飛び出すと、一目散に彼の下へと駆け寄った。
うつ伏せに倒れている。背中に空洞が開いていた。
膝をつき、血の付いた頬に触れる。
空虚な瞳。死んでいた。どう考えても、彼は死んでいた。
「――!!」
息を呑んだ。叫びそうになった。
〈すべて順調だ〉
「グレゴール!」
わななく私の前に、他の蟲たちと違い、見た目も形状もほとんど蛇のような真っ黒な生き物が座っていた。
〈喚くなよご主人。決めたことだろう、あの日から、ずっと覚悟してきたことだ。今さら揺れるんじゃない。目的を誤るんじゃない。忘れたのか〉
使い魔が言う。
〈見ろ、ここに、衛宮士郎を蘇生させる
「―――」
〈さあ、俺を使え。やり方は教えたな。今がその時だ。運命を振り向かせる時がきた。もはや憐れみを乞うだけの君ではないはずだ〉
「グレゴ……」
〈手にしたいものがあるのなら。それは君が手にするべきだ、桜〉
だが、それを選ぶことが意味するものは。
「……っ」
私は。
口にしかけた言葉を、しかし、出すべきではないと噤んで。
痛みと共に、呑み込んで。「わかりました。あなたを使います」
手を伸ばす。そっと蛇の頭に触れる。
一度だけ、撫でた。
「グレゴール。今までありがとう」
笑いかける。
私は、ちゃんと笑えているだろうか。引き攣ってはいないだろうか。
ああ。上手くやれよ、ご主人?
なあに、弓を射るのと大差はないさ。
「っ――」
発動する。
「吸収」と「転換」を応用した魔術の秘儀。
波動に、光に、空間が揺れた。
蛇が、砕け散る。
蛇の外観を構築していた皮が弾け飛び、蓄えられていた
この宝石を用いて、私は衛宮士郎の失われた臓器を再構築する。
「―――」
想定。
把握。
複製。
再構築。
「―――」
全霊を注ぎ込む。手が震えていた。汗が伝い、魔術の行使に躰を持って行かれそうになった。耐える。耐えなければならない。失敗は許されないのだから。これくらい、今までの苦しみに比べればなんだというのか。
「先輩……っ」
永遠のような密度の刹那を揺蕩い、私は息をついた。
光は消えている。音も消えている。静けさの戻った校舎。
見つめた先の躰。彼の背中の穴が、消えていた。はっとして、身体を仰向けに返した。胸。恐る〃々顔を近づける。目を閉じた。何かに祈るように。息を呑んだ。
音。鼓動。
動いている。
――生き返っている。
「せん、ぱい」
本当に。彼は、生きている。生き返ったのだ。
今度こそ、私は涙を抑えられなかった。眠ったままの、それでも息をしている彼にしがみつきながら、ふるえが止められなかった。
「よかったっ、せんぱい……」
不安がなかったわけではない。むしろ不安しかなかったといって良い。それでも、私は最初の目的をクリアした。私の使い魔を犠牲にして手に入れた結果だ。喜ぶべきだった。けれど、胸が苦しかった。得た代わりに失ったもののせいで、あまりにも痛かった。泣けるだけまだ余裕があるな。そう口うるさく言う蛇は、もういないのだ。私が、そうさせたのだ。
「さくら……?」
「せんぱい」
薄らと目を開けた彼が、私を見ている。
「先輩。よかった、です」
◆ ◆
夢を見ているのだろうか。
桜が、泣いている。どうして泣いているのだろうか。
先輩、約束してください。
約束?
はい。私、先輩のこと守ります。だから、私の味方になってください。私を……助けてください。私のこと、好きになってください。ずっと、私だけの、先輩になってください。
桜。……ああ。それで、桜が泣きやんでくれるのなら。
約束する。
彼女は。
精一杯に微笑みながら、それでも涙を流していた。
先輩。
本当に、ごめんなさい。
いいんだ。桜。
約束だ。
はい。先輩。
ありがとう、ございます。
◇ ◆
眦を拭う。
眠りについた先輩を見つめながら、私は深く息を吸った。射法八節。口のなかで一度唱える。弓を射るようにすればいい。やるべきことは、わかっているのだから。
傍には、蛇の姿はなかった。グレゴール。あんなにもうるさくて、言うこともよく聞かない使い魔だったのに。それでも、後悔するべきではなかった。これは、自分で選んだことだから。受け止めないといけないことだから。
「動かないと……このあとは、先輩にセイバーさんを召喚させて……」
〈ご主人〉
びくり、と躰が飛び跳ねた。
ありえない声が聞こえた気がした。気のせいか。
〈感傷に浸っている暇はあまりないぞ〉
振り向いた。
一匹の蟲が、地面を這っていた。おぞましい蟲蔵に蠢くそれらと大差ないその蟲は、急速に体表が真っ黒に染まり始め、脱皮するかのように全長が縦に長くなると、頭の部分が肥大化し、隆起したかと思えば、二つの目のかたちを作った。
〈ぼーっとしているのは、君の悪い癖だ〉
あっという間に、消えたはずの蛇の姿に早変わりしていた。
「グレゴール!? 死んだはずじゃ……っ」
〈おいおい、いつだったか言わなかったか、君の行く末を見てみたいと? やっとこさ整った本番で、しかもその最序盤で、俺が舞台を降りるはずないだろう。なんだなんだ、さては俺が死んだと思っていたな〉
「どうやって……!?」
しゅーしゅー。
〈この躰のことを言っているのか。重要なのは魂で肉体そのものではない、翁の真似をしたのさ。しかも取り換える身体は同じだから、魂の移動というよりはもっと簡単な、意識の移し替え程度のことだ。それにしてもご主人、感情の制御が完全に乱れて明後日の方向を向いているぞ。俺とまた会えたのがそんなに嬉しいか、まったくそんなに想われて嬉しいよ俺も。使い魔冥利に尽きるってもんだぜ〉
頭が沸騰しそうだった。恥ずかしさとそれ以外の諸々で、言いたいことがたくさんあるのにうまく言葉が出てこない。――ああもういったいどうしてくれようか、この蛇!
〈おっと。ちょっと遅かったなご主人〉
爆発しそうな感情を、しかし一瞬で冷却する、足音が廊下に響いた。
〈しかしこれもいい機会か。ご主人、君の大切な彼女がやってきたぞ。せっかくだ、最高に気の利いた一言でもくれてやれ〉
「桜、あなた……」
遠坂凛が、愕然とした表情で立ち止まった。
そうだ、忘れていた。
でも。
確かに、いい機会かもしれない。私は口角が吊り上るのを感じた。先輩を助けることができた今のは私は、明らかに感情が高ぶっており、それは決して悪い感覚ではなかった。
「こんばんわ。遠坂先輩」
立ち上がり、できるだけやさしい声を意識して言った。
「なんで、桜が」
「遠坂先輩。アーチャーさんは、まだそこにいるんですか?」
彼女の反応は、面白いくらいに大きかった。
「遠坂先輩と、ランサーさんのせいで……先輩が死んじゃったんです」
「――え?」
「心臓を、貫かれて。かわいそうな先輩。あなたたちのせい、ですよね……」
「あ、あ……そんな……うそ」
見る見るうちに蒼白になるのがおかしくて、私は声に出してわらってしまった。
「でも安心してください。先輩は、私が助けちゃいました。残念でしたね。……そうだ、聞いてください遠坂先輩。先輩、約束してくれたんです。私のことを助けてくれるって。私だけのヒーローになってくれるって。遠坂先輩。先輩は、もう、私のものになったんです」
「桜、いったい何を――」
「誰にも渡さない。だって私はずっと耐えてきたんです。あんな気持ち悪い場所でずっとずっと我慢してきたんです、あなたと違って! ……いいですよね、こんなにつらかったんだから、ご褒美があっても。いいはずですよね、遠坂先輩」
「何を、何を言ってるの桜……っ」
「絶対に渡さない。あなたにも、セイバーさんにも。絶対に先輩は渡さない。もう、私だけのものだ!」
すべてを嗤笑する。これまで私を見下し憐れんできた諸共運命すべての存在に布告する。
さあ、聖杯戦争を始めましょう?
――私は、必ず、手に入れる。
――絶ッ対に、負けるものか。
「……それじゃあ、失礼しますね。遠坂先輩」
また明日。
◆ ◇
二月二日。
運命は、未知のルートを転がり始めた。
――
Q.年代物ペンダントに匹敵する魔力はどこから調達したの?
A.数年に亘る魂食い+■の■■の■■を■■した補填。
ヒントは蛇の身体的特徴とあらすじをご照覧あれ。