ひきこもり大戦記   作:丸木堂 左土

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第三話

 どうして、人は寝起きの時に機嫌が悪くなるのだろう。僕は常々疑問に思っていた。

 起床。それは誰もが経験したことのある生理現象だ。それも人間だけではなく、地球上に住む大半の生物にとっても無縁ではない。そう思うと、起床という行為が壮大なスケールの営みであることがわかる。

 さて、問題は機嫌云々である。なぜ、朝起きたら気が立っている人が多いのか。

 もっとも、そんなのは洋の東西を問わず、ましてや老若男女も問わず、この世に生きている者ならば誰にでも理解出来る不変の真理である。そもそも、このような自明の理を議論の俎上に置くこと自体がおかしい。

 それなら、なぜ自明の理に疑問を持つのか。ぶっちゃけ、思索癖のある僕の自己満足他ならない。しかし、誰に迷惑をかけるわけでもないのだし、別に構わないだろう。

 とにかく、僕は疑問に感じていた。どうして人は、起床という行為にここまでの苦痛を抱いてしまうのかと。いや、抱かざるを得ないのだろうかと。

 そりゃあ、血圧の高低とか、睡眠の不足とか、バイオリズム云々とか、幾つかの科学的根拠をあげることは可能だ。いや、科学的というのは些か大袈裟過ぎるかな。まあ、細かいことは気にしない。

 大学生の時は図書館へ行って、睡眠に関する書物を読み漁ったりもした。が、大半は睡眠のメカニズムや効用を説明しているだけであって、肝心の起床について書かれた本は極めて少なかった。あったとしても、せいぜいオマケ程度の扱いである。

 けれども僕は辛抱強く図書館に通い続けた。けれど、めぼしい成果はあげらなかった。活字が与えてくれる情報には限界があった。

 自分が的外れなことをしていると気づいたのは、しばらく経ってからだった。あれ待てよ、この手の疑問ってどちらかといえば哲学寄りなんじゃね、と。

 そういう訳で、僕はさっさと宗旨替えをし、引き続き答え探しに興じることにした。思いのほか、この哲学もどきには没頭できた。孤独ゆえに、昔から時間だけは有り余っていたからだ。

 けれど、時間をかけて考察しても答えは見つからなかった。いい具合に考えがまとまりかけても、必ず途中でほつれが見つかり、最後にはほどけてしまう。まるで永遠に終わらないライン作業をやっているみたいで、不毛な作業にさすがの僕も気が滅入りそうになった。

 脳内会議は平行線を辿った。あるグループがAだと言えば、別のグループがBだと反論する。そんでもって議長までもが、いやいやそれはCでしょ、と余計な口出しをするもんだから、議論はいつまでも終わらない。

 僕が今やっているような、目隠しをしたまま手探りのみで探そうとするやり方では、触れられるのは外層だけ。その先は、どうやっても越えることが出来ない。どうすればいい。やきもきした。

 そもそもさ、答えなんて無いんだって。考え方は十人十色、人それぞれじゃないか。なんてことを言って妥協する気など、さらさらなかった。

 たしかに、この問いに正解は存在しない。だけど僕は、少なくとも論理的に整合性のとれた、納得のいく答えを見つけ出したかった。

 僕が知りたいのは、表面的な原因とかじゃなくって、上手く言えないけど、もっと違う、深い所にあるような、人が本来から持ち備えている本能的な何かというか、心理の内奥に存在する抽象的な概念というか、とにかくそういう系統の事だったのだ。我ながら、何を言っているのか要領を得ないけれど。

 とにかく、僕は探した。幾度も何度も何回も探してみた。けれど、結果は同じだった。いくら時間をかけて熟考してみても、答えらしい答えは見つけられなかった。

 そして、いつしか僕は答え探しを止めてしまった。

 しかし結論から言ってしまうと、僕は答えを見つけることに成功する。

 喉から手が出るほど、とまではいかないが、それなりに欲しがっていた答えは、なんとも皮肉な事に、僕がひきこもりへと堕落してしまった後に、至極あっさりと見つけることになる。探している時は見つからなかった探し物が、後々になって見つかるのに近い。

 答えは、意外なほど身近にあった。灯台下暗し、というやつだろうか。見つけるのは容易であっただろうに、過去の僕には全く見えなかった。

 いや、もしかしたら無意識に目を逸らしていたのかもしれない。現在の僕のような、全てを失ってしまった人間だからこそ、それを直視することが出来たのだ。

 何故、人は目を覚ますのが苦痛なのか。それは、起きるという行為が即ち、戦うということに繋がるからだ。

 社会に生きている人々は皆、日々いろいろなモノと戦っている。

 爛れきった人間関係。努力とは決して比例しない成績。理不尽に降りかかる不幸。妬み、恨み、僻み、と数えればキリがない。聞いてるだけで頭が痛くなりそうなモノたちと、休む暇もなく戦っている。

 そして、人は就寝することにより一時的にその戦闘から開放される。だからこそ、睡眠という行為に途方も無い幸福感を得られるのだ。意識が途切れ、無意識に切り替わる刹那なんかは、この世で最も至福な一瞬だと言っても過言ではない。

 だが、起床はその真逆。再び戦場へと身を置くプレリュード。先に待つのは長い一日の戦闘であり、加えて休息は無に等しいときている。

 そんな未来が待ち受けているのに、誰が好き好んで暖かい寝床から起き上がるというのだろうか。十人いたら十人は起きないこと間違いなしだ

 なのに、世界に目を向けてみると、人々は起きていた。毎日毎日、飽きもせずに戦場へと向かい、自身の心と身体を傷つけていた。

 それは冷静に考えると、トンデモナイ異常事態だった。

 彼等は被虐主義者なのか。普通はそう考えてしまうが、違う。彼等はただ知っているだけだった。起きなかった場合、その先にはさらに恐ろしい未来が、大口を開けて待っていることに。

 もし起床することを放棄し、睡眠という麻薬に身を委ねてみろ。その先にあるのは破滅。社会という大舞台から役割を剥奪され、居場所を喪失し、終いには強制追放されてしまう。

 観客にもなれず、黒子にもなれず、劇場内の滞在すら許されず、宙ぶらりんで曖昧模糊とした存在に成り下がる。それはある意味、死よりもずっと恐ろしいことだ。

 なぜなら、人には居場所が必要だからだ。

 なので、人は戦う。毎日毎日、ボロボロになるまで。彼等は、後門の無を相手にするくらいなら、前門の虎と戦ったほうがマシなのだと理解していた。

 しかし、だ。

 仮に、戦いを放棄しひたすらに逃げることを選択する者がいたのなら。起床を放棄し、仕事も学校も全て投げ出して、ただひたすらに惰眠を貪ぼり続ける者がいたのなら。果たして、その者は一体全体どうなってしまうのか。

 こっちのほうが、答えは簡単だよね。

 ご察しの通り、そうした人間の成れの果てが僕だ。快適な起床を手にした代わりに、それ以外の全てのモノを失った。文字通り、全てのモノをだ。

 それで釣り合いがとれているのかどうかはわからない。もしかすると、誤った選択をしたのかもしれない。掴まなくてはならない未来を、取りこぼしてしまったのかもしれない。

 でも、そんなのはいくら考えてもわかりっこないし、どうでもいいことだった。だって、過去の自分を責めたところで、過去には戻れない。今の僕には、現在しかない。この現在を、生きていくしかない。

 そういうわけで、僕は寝覚めがいい。全世界の人類に対して、申し訳なるほどに。

 そうして、今日も僕は目を覚ます。

 ハッキリとした覚醒だった。

 万年床の中からむくりと上半身を起こし、まぶたを擦った。カーテンの隙間から漏れでている月明かりが、ちょうど僕の顔を照らしている。眩しい。けれど、眠気の残滓は月明かりで雲散霧消する。

 部屋の中は真っ暗で、しんと静まり返っていた。蛍光塗料で光る壁時計の針を見て、今が午後八時半だと知った。いつもの起床時間だった。

 くうあ、と奇妙な欠伸をひとつかまして、毛布を捲りあげる。すると、妙な匂いが僕の鼻腔を刺激した。なんだろう。微かに香る、薬品の匂い。視線を下げると、そこには隙間なく湿布が貼られた貧相な足が伸びていた。

「あっ」

 やばい。

 ぎゅっと目を瞑って、身構えた。

 が、いつまで経っても、くるべきものがやってこない。おかしいなと思い、恐る恐る目を開けて、自分の足を眺める。

 見たところ、昨日と変わったところは何もない。試しに、爆発物でも扱うような手つきで足をつついてみた。激痛覚悟だったが、何もなし。ふくらはぎが感じているのは、人差し指による微力な圧力だけだ。

 よかった。

 いつの間にやら、あれ程までに僕を苦しめていた筋肉痛はすっかり消えていた。多少の倦怠感は残っているものの、完治したと言っても差し支えないだろう。

 ホッと胸を撫で下ろし、溜め込んでいた息を吐く。

 そして万年床から這い出ると、頭上でぶら下がっている電灯の紐を引っ張った。何度か点滅を繰り返した後、光が灯る。ついでにコタツの電源も入れて、卓上にあるノートパソコンを立ち上げた。起床したらまずパソコンを起動させる。それが、ひきこもりのライフワーク。

 パソコンが立ち上がるまでの間、僕は脳内で例のBGMを再生させながらラジオ体操を開始した。

 こうやってコマメに身体を動かすことが、ひきこもりを長く続ける秘訣だったりする。ひきこもりは本当に動きが少ない生き物なので、こうやって身体を動かさないと筋肉が削げ落ち、日常生活に影響を及ぼす。

 黙々と固まった身体をほぐしていく。

 単調な作業が続くと、嫌でも考え事をしてしまう。僕は、あの忌々しき夜のことを思い出した。

 あの悪夢のような夜から、かれこれ三日が経っていた。

 僕が曲がりなりにもひきこもりを卒業し、ひきこもりニートからノーマルニートへとレベルアップした夜。そして、輝かしい未来へ向かって大躍進するはずだった夜。そして無残に散ってしまった夜。

 あの後は散々だった。翌日には酷い筋肉痛に悩まされ、少し足を動かすだけでも呻くような痛みが走った。トイレにだって満足に行けず、波のように押し寄せる疼痛により、夜も眠れなかった(正確には昼なんだけど)。

 それに筋肉痛だけじゃなくて、悪漢二人に殴る蹴るされた傷も僕を苦しめた。口内の切り傷は今だってしみるし、顔の腫れもまだ引いていない。まさに満身創痍の状態だ。

 けど、それよりももっと酷い傷がある。心の傷だ。

 肉体的な傷はじきに癒える。どんなに重い怪我だって、治る怪我ならば時間が経てば必ず治る。

 が、心の傷はそうはいかない。あれは目に見えないぶん尚更タチが悪く、しかも個人差があるので、程度の判断が難しい。そして治療方法も千差万別で確立されていない。

 心のダメージが何より大きかった。一大決心の元で外出したのだ。期待が大きかった分、やられたダメージも計りしれなかった。

 もう、いいや。僕は一生、ひきこもりニートのままでいい。

 それが、僕の出した結論。

 外の世界は、思っていたよりもずっとずっと恐ろしかった。はっきり言って、舐めていた。一応、あの世界で過ごしていた経験はあったから、今回もきっとうまくいくはずだという、そんな楽観があった。けど違った。現実はもっと厳しかった。

 高い授業料だったと思う。けど、得た物が何も無かったわけじゃない。

 今回の事件から学べたことがある。それは、本質的に人は変われないということだ。

 僕みたいな根っからの社会不適合者が外に出ようったって、どだい無理な話なのである。人間が空を飛ぶことが出来ないように、ひきこもりもまた外へ出ることが出来ない。定められた運命には、ただ従うしかない。

 ――僕はこれからも、社会を、自分を、全てを、憎みながら生きていくしかない。

 ラジオ体操を終えた。

 寒さで身体が震える。体操を一通りこなしたってのに、身体は全く温まっていない。このボロアパートは壁がないのかと思うくらい通気性がいいので、常に極寒の地方の如し温度を保っている。そのくせ、夏はジメジメしてて蒸し暑いのだからたまったもんじゃない。この不良物件め。僕がひきこもりニートでなかったら絶対に引っ越しているのに。

 温かいコタツの中に入り込む。文明の機器だけが僕にぬくもりをくれる。じんわりと身体に熱が伝わっていくのがわかった。両手をコタツに入れ、指がほぐれるのを待つ。

 ノートパソコンは既に立ち上がっている。何気なく画面を見ると、新着メールのポップアップが出ていた。スパムメールでも受信したのだろうか。そう思いながらクリックして――固まった。

 目を剥いて、デスクトップに映る文字を凝視する。念のために、何度か目を擦って見間違いじゃないか確認した。が、結果は変わらない。ノートパソコンは無機質に、残酷な事実を告げている。

 そうか、もう、そんな時期になるのか。

 諦観の念に襲われる。いつものことながら、これだけは慣れない。ビックリ箱だとわかっていても、開けたらやっぱり驚いてしまうのと一緒だ。

 しかしながら、驚愕はそれだけでは終わらなかった。

 突然だった。

 ドンドン、とノックにしては些か激しすぎる音が、突如、室内を揺るがした。

 タイミングがタイミングだったので、僕は飛び上がり「きゃあ」と女子のような悲鳴を上げた。

 何事だ?

 落ち着きなく視線をさまよわせて、ようやく音の発生源であるドアに辿り着く。コンコンと手の甲で優しくノックする感じではない。ガンガン、とまるでドアを殴り破らんばかりの勢いである。

 いきなり訪れたホラー映画よろしくのシチュエーションに、僕の理性は吹き飛んでいた。先ほどから脳裏にちらついているのは、あの凸凹コンビの男たち。

 もしや、アイツらが僕の居場所を突き止めて、三日前の報復に来たのでは……。

 嫌な想像が頭の中で膨らむ。そして膨張は止まることを知らず、爆発寸前まで膨れ上がる。

 翌朝のテレビニュースで、とある惨殺事件が報道される。「本日未明、都内某所のアパートで二十七歳無職男性が殺害される事件が起きました」と顔にファンデーションを塗りたくった中年女性アナウンサーが、淡々と告げている。スタジオのコメンテーターたちは「本人の防犯意識が低すぎるんじゃないの? 被害者はひきこもりニートみたいだし」と辛辣なコメントを吐いている。おいおい少しは肩入れしてくれよ。これじゃあ、お茶の間の同情は得られそうにないじゃないか。というか、防犯意識とひきこもりニートの間には相関関係がないだろ。

 ガチャガチャとドアノブを捻る音が聞こえてくる。その音からは、ドアが開くまでは決して退かないという強い意志を感じた。

 正直に告白しよう。僕はもう限界だった。ドアを叩かれる度に精神は磨耗し、そのまま擦り切れてしまいそうだった。ガクガクと情けなく身体を揺すり、ただただ呆然と、叩かれるドアを見つめることしかできなかった。

 そして緊張が最高潮に達し、死さえも覚悟した時、

「はやくあけてよー」

 と、妙に子供っぽい声が室内に響き渡ったのだった。

「あたしに居留守を使ったって無駄だよ。明かりも点いているみたいだし、ちゃんと起きてるんでしょ? なら早く開けないさいよー、外、寒いんだから」

「…………」

 僕は、無言で顔を隠した。

 恥ずかしかった。おそらく、耳まで真っ赤になっていることだろう。ああ恥ずかしい、恥ずかしくてしょうがない。自害したくなるほど恥ずかしい。

 どうして僕は、あんなにも怯えていたのだろうか。穴があったら入りたいよ。でもこの部屋には穴がない。コタツしかない。仕方がないのでコタツに入る。暑い。顔だけ出す。今の僕ってコタツが甲羅の亀みたいだなー、なんて軽く現実逃避。

 ハァー、と長い息を吐き出して、胸の動悸が収まるのを待つ。

 冷静に考えれば、この部屋を訪れる人間なんて新聞の勧誘と宗教の勧誘と某テレビ局の受信料催促を除けば、ネット通販で買った食料品と娯楽品を届けにきてくれる宅急便のお兄さんしかいない。

 そして、お兄さん以外に此処を訪れる人物といえば――

 あけろー、そして落とし前をつけろー、とヤクザの取り立てじみた声は続いている。

 その声を聞いて、僕は何度目になるかわからないため息を吐いた。

 マジでどうしよう。ぶっちゃけ、今は誰にも会いたくないし、このまま無視してしまいたかった。それに、僕はあまりに傷つきすぎた。彼女の相手をする余裕など、微塵も無い。

 が、そういう訳にもいかないだろう。彼女には、決して少なくない恩義もあるし、そしてなにより、ひきこもりである僕には居留守という裏技が使えない。

 仕方がないか。

 パソコンを折り畳むと、のそりとコタツから出て立ち上がった。嫌だ嫌だ会いたくない会いたくないとゴネている重い足を引きずり、玄関へ向かっていく。

 ドアの鍵を解錠し、自分の視界を確保出来る分の、ほんの少しの隙間を開けた。

 一瞬だった。

 突っ掛けを履いた白い足が、ドアの隙間をぬうようにして、蛇の如くスルリと伸びてきた。僕は慌ててドアを閉めようとしたが、時既に遅し。足が完璧にドアをブロックしていて、閉めることが出来ない。

 おいおい、手口がマジでヤクザの取り立て屋と同じじゃないっすか。

「やっと開けてくれたかー。出るのが遅いぞヒロシ」

 隙間から聞こえてくる声に合わせて、白い足がピョコピョコと動く。その動きがあまりにも奇怪だったので、まるでその足が、本体とは独立して生きている別の生き物のように感じられた。

「な、なんの、ようですか?」

 歯磨き粉のチューブをひねり出したような声だった。誰かと話すのは三日振りだったので、自然とそんな声になってしまう。

 相変わらずの不快ボイスだったが、彼女は気に留めた風でもなく、

「何のようですかって、そんなつれないこと言わないでよ。用が無かったらあたしは来ちゃいけないんかい」

 と、僕を非難した。

 そうですよ、と言いたかったが我慢する。

 彼女は、子どものような甲高い声で続けた。

「生存確認にきたんだよ。ほら、お姉ちゃん、最近忙しくて構ってあげられなかったじゃん? あたしと会えないのを寂しく思ってヒロシが夜な夜な泣いていると思うと、胸が張り裂けそうでさ。仕事帰りでクタクタなのを堪えて会いにきたってわけ」

 弁明するまでもないと思うが、僕は決して夜な夜な泣いてなんかいない。嘘、ひとりでめそめそ泣くときは結構あるけど、彼女のために泣いたことはない。

「べ、別に、頼んでないですし」

 まだ癒えきっていない心の傷がそうさせたのか。言葉は自然とぶっきらぼうで粗暴なものになった。

「と、いうか、もう、来ないでくださいよ。め、迷惑なんすよ。ほ、ほんとうに。僕の、ことを気遣って、くれているんなら、ほっといてください。僕には、それが、一番いい」

「えっ……」

「生存確認と、やらに、きき、来たんでしょ。僕が生きてるって、わ、わかったんだから、早く帰って、ください。いいい忙しいんで。やるこ、ととか、あるし……」

 その呟きを最後に、長い沈黙が訪れた。

 しばらくの後、沈黙に揺らぎを与えるように、彼女がポツリと呟いた。

「そんな風に言わなくたっていいじゃん……」

 言い過ぎた、と思った。彼女が僕のことを心配しているのは紛れもない事実だというのに、今の言い方はないだろう。これだから僕はコミュ障なんだ。

「お姉ちゃん、ほんとに心配してるんだからね」

 白い足が、落ち込んだようにしゅんと頭を垂れた。履いている突っ掛けが脱げそうになっている。

「ヒロシはひとりだから、もし怪我とか病気とかで危ない状態になってても、誰も気づけないでしょ? そのまま、もし野垂れ死んじゃったりしたら、そんなことになったら……あたし……あたし……」

 謝ろう。そう決めた。しかし、口は閉ざされていて開こうとしない。照れているとかじゃなく、単に謝罪の言葉が思い浮かばないのだ。人に謝るという経験が、僕には圧倒的に不足していた。

 こういう時って、なんて言えばいいんだろう。

 けど、言わなくちゃいけない。なんでもいい。アドリブで適当に繋げていけ。とにかく、今は一刻でも早く彼女に声を届けるんだ。

 そう思って口を開きかけ、

「そんなことになっちゃったら……この部屋が事故物件扱いになって、ただでさえ低い家賃がさらに下がっちゃうじゃない。そんなことになったら、あたしの……あたしのささやかな副収入が……うぅ。今、欲しい服とかバッグとかあるのに……」

 って、そっちの心配かよ! 僕は心の中で鋭いツッコミを入れた。

 いやいやここは常識的に考えて、もしヒロシが死んじゃったりしたらあたしもう生きていけない好き好き大好き愛してるあなたを追ってあたしも死ぬわー的なセリフを言うべきだったでしょ。空気読んでくださいよ空気を!

 嗚呼、やっぱり謝る必要なんてなかった。なんだよ家賃って。僕より家賃の方が優先順位が上なのかよっ。そんなわけないだ――いや……まあ、そうか、うん。普通、そうだよね。僕、ひきこもりニートだしね。社会の屑だしね。どう考えても『家賃>僕』だよね。ごめんなさい、僕、自惚れてました。あー……なんかいい感じに死にたくなってきたぞ。今ならサクッと死ねる気がする。どうしよう、このあと自殺でもしよっかな。まあ、どうせ出来っこないんだけどね。……マジ死にたい。

 段々とダウナーになっていく僕とは対照的に「てゆうかお姉ちゃん最近ねー」とか聞いてもいないのに嬉々として自分の近況を語り始める彼女だった。切り替え早いっすね。ついていけないっすよ正直。

 鬱状態に突入していたので、話は全く耳に入らなかった。言葉は右の耳から左の耳へとだらだら流れていく。まあ、今は好きに喋らせておこう。

 ところで。

 先程からドアの向こうの彼女は何かにつけて僕の『姉』を自称しているが、彼女との間に血の繋がりは一滴だってない。それどころか、従姉妹でも遠い親戚ですらない。はっきり言って他人である。勝手に僕のお姉ちゃんを名乗っているにすぎない。

 余談になるけどさ、マンガやアニメによく出てくる、血の繋がらない姉って邪道もいいとこだよね。そもそも近親恋愛の醍醐味ってのは血縁者同士が契りを結んでしまうという禁忌、その背徳感が良いのであって、義姉や義妹、ましてや自称姉ごときではそのカタルシスを――

 ヒロシ、と僕を呼ぶ声で、邪な思考が中断される。

 なんですか、となおざりに返事をした。

「そろそろお姉ちゃんを中に入れてくれないかな? 真冬の深夜は寒くてしょうがねえのですよ」

 さむさむ、と白い足がブルブルと震えた。

 いやー、それにしても本当に器用な足ですね。素直に感心できる。テニスボールくらいなら簡単に掴めてしまいそうだ。

「……お姉ちゃん、無関心ってれっきとした暴力だと思うの」

 だけど無関心ほど優しい暴力はないですよ、と経験者は語ってみる。

「あーん。こんな仕打ちってないよ。あたしがこんなにもヒロシのことを想ってるってのに、部屋すら入れてもらえないなんて。お姉ちゃん寂しいなー悲しいなー」

 ……そう言われると僕も弱い。

 ちょっと、やりすぎちゃったかな。彼女が可哀想になってきて、様子を見るために少しだけドアを開く。

「ほら、見てよ。お手々がかじかんで真っ赤になってる。それに身体も冷えて鳥肌だらけだし、たぶん唇も真っ青だよ。寒いなー、寒いなー。このままあたしは凍死しちゃうのかなー」

 もう少しだけドアを開く。

「なんで寒いのかというと、実は今、スッゴくエッチなカッコをしてるからです」

 思いっきりドアを閉めた。

「んニゃっ!!」

 尻尾を踏まれた猫みたいな声を出して、扉に挟まれた足が悶える。

「いったーい! なんで急にドアを閉めるのっ。今のところはむしろ血走ったいやらしい目を爛々とさせながら光速でドアを開けるべき場面でしょうがっ」

「すんません。本当に興味ないんで」

「まさかのガチ謝罪!? 止めて止めて。そういうの止めて。あたしがむなしくなるから。てゆーか、アンタどんだけ冷めてんのよ!」

 ムキー、と白い足が怒りでのたうちまわった。加えて「鬼畜ドSリョナ好きー!」とか叫んでいる。他の住人が聞いたらあらぬ誤解を受けてしまいそうだ。止めてくれ。ひきこもりニートで変態とか本当に生きている価値がなくなるじゃないか。

 ああ、もう、わかりました。わかりましたよ! 入れればいいんでしょ入れれば。

 指で眉間を揉み、盛大な溜め息を吐いてから、黙ってドアを押し開け、彼女と対峙した。

 そこに居たのは、小さな女の子だった。

 身長は間違いなく百五十センチを切っているだろう。僕より頭一つ分以上は小さいく、今も精一杯顔を上げて見上げている状態だ。

 小動物然としたくりくりの丸い瞳が小さな顔に収まっており、栗色に染めた髪はゆるくウェーブしていた。

 美人というよりも可愛いといったベクトルではあるが、それなりに容姿は整っているほうだと思う。

 着用しているのは子どもっぽい桃色のパジャマで、その上には学生が着ているような小麦色のカーディガンが羽織られていた。当然のことながら、エッチなカッコとやらはしていない。

 どう見ても中学生、いや、見ようによっては小学生にも見えるが騙されることなかれ。その実、今年で三十路である。

 それが、このボロアパートの住人であり持ち主でもある人物。大家さんであった。

 と、僕はそこで異変に気づく。

 大家さんが壊れてしまった時計のようにピクリとも動かないのだ。呆けたような顔をして(もし口に出したら怒るだろうがまさにマヌケといった表情で)丸い瞳でまじまじと僕のことを見つめているのだった。

 見た目はロリっ娘でも一応は女性。なんとなく気恥ずかしくなって、視線を逸らした。

「ど、どうしたんですか?」

 僕の声に反応して、大家さんはようやく我に返った。忘れていた瞬きを何度かして、ううんなんでもないのと顔の前で手を振った。

「そ、そいじゃあ、お邪魔しまするかな」

 妙な日本語を呟きながら、ドアをおさえている僕の腕の下をアーチのようにくぐって、そそくさと室内に入っていった。履いていた突っ掛けは、途中で乱雑に放り投げている。行儀悪いなあ。

 建て付けの悪い木造ドアを閉めて施錠し、ついでに大家さんの突っ掛けを玄関に綺麗に並べてから、先に入った彼女の後を追っていった。


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