守護獣、ザフィーラは困惑していた。
「本当に申し訳ありませんでした、騎士はやて。一体、何とお詫びすればよいのやら……」
「ううん、かまへんかまへん。シャッハが悪いわけじゃないんやし、ほんとに気にせんといてな? 朝ごはんも作ってもらったわけやし」
昼下がりの日差しが差し込む、八神家の居間。はやてとシャッハが談笑し、シャマルが鼻歌交じりに掃除を行い、庭ではシグナムが稽古に励み、リインとヴィータは遊びに出かけている。何の変哲もない、来客であるシャッハがいること以外は特に変わったことのない、穏やかな休日。
「ええ、本当に……口と性格は捻くれているくせに、何故か料理はできるので……」
「ほんまにな~。リイン達も、とってもおいしかったって言っとったよ」
困ったように言いながら、シャッハは朝食の残りをモリモリと口に運ぶ。お茶の湯飲みを片手に、はやてもにっこりと頷いてそれを肯定した。端から見ている分には、実に和む平和なやりとり。思わず頬が綻びそうになる、暖かい光景だ。
……その間に、天井から拘束魔法で吊るしたシスターがいなければ、だが。
「……あの~、八神二佐?」
「そういえば、シャッハ。今日はなんか予定あるん? よかったら、ウチで夕飯も食べていかへん?」
「よろしいのですか? でしたら、お言葉に甘えて御相伴に預からせて頂きましょうか……」
「……あ、シスターシャッハ! わたし、買い出し行きます! いくらでも買い出し行きますので、そのなんというか、このバインドを解いてもらえると大変有り難いのですが……」
「ほな、折角やし2人で買い物いこか!」
「そうですね。行きましょうか!」
「お二人とも! お二人とも~! 反省してます! 反省してますので! どうかこのバインドを解いていただけませんかー!?」
ギチギチと身体に食い込む魔術拘束を揺らしながら泣き喚くフィアメッタ・マジェスタの姿は、見方を変えればそれなりに官能的な風情を伴っていないでもなかったが、しかし頭から角が生えてきそうな二人に睨み据えられているせいで、そんな情緒はこれっぽっちも生まれる気配がなかった。絵面的には、悪ガキがお仕置きを受けて吊されている構図そのままである。
「おかしいです! おかしいですよ! そもそも、何故わたしが吊されなければならないのですか!? わたしは腕によりをかけて朝食を振る舞っただけで、こんな風に全身ぐるぐるに縛られて吊されるような悪いことをした覚えはありませんよ!?」
「せやなー。いや、わたしはべつにええんやけどな? 料理の腕をバカにされたこととか、ほんの少しも気にしてへんし」
……あれは、かなり気にしているし、根に持っているな、と。ザフィーラは思った。
「ただ、ほら。そのバインドをやったのはシャッハやから。わたしにそれを解く権利はないんよ。堪忍な、マジェスタ准佐」
めちゃくちゃいい笑顔でそう言ったはやては、身じろぎ一つできないフィアメッタの姿を、それはもうニコニコと眺めている。ひさしぶりに、主が少し怖い、と。ザフィーラは恐怖した。
「くぅ……シスターシャッハ! 今まで素直にお説教を受けてきたわたしですが、今回ばかりはきちんと抗議しますよ! なんなんですか、この仕打ちは!? わたしだってもう19ですよ!? 大人のレディなんですよ!? バインドでぐるぐる巻きにして天井から吊すなんて、いくらなんでも酷すぎるとは思いませんか!? いいや、酷い!」
はやての懐柔を諦めたフィアメッタは、反語を織り交ぜながらシャッハに対して猛然と抗議する。しかし、残り物の朝食をモグモグしているシャッハは、右手に持った箸を茶碗の上に置いて。やはり聖母のような慈悲深さを感じさせる笑顔で、フィアメッタに対して笑いかけた。
「ええ。私も、まさかこの年にまでなってかわいい教え子をバインドで吊すことになるとは思いませんでしたよ」
言いながら、シャッハの手のひらはフィアメッタの頭部をがっしりと掴み、万力の如くギリギリと締め上げる。アイアンクローである。
「あ、あああ! 痛い痛い痛い! 痛いです痛いです! それちょっと洒落になってませんから!」
「無断での外泊。無断での六課訪問。私の指示を無視し、あろうことか行き先を偽装するような工作まで……ええ、ええ。酷いですね。とても酷い。とてもじゃないですが、管理局で一定の地位を預かっている人間の行動とは思えません。まるで子どもですね。当然、子どもには教育的指導が必要です」
「暴力的指導は子どもの健全な成長を阻害しますよ!?」
「ほう。大人のレディと自分で言った舌の根が乾ききらない内から、その発言。相変わらず都合のいい言い訳ばかりペラペラと、よく出てきますね」
「すいませんごめんなさいわたしが悪かったです!」
人の家のリビングダイニングで、恥も外聞もなく泣き叫ぶフィアメッタ。あのアイアンクローは少し痛そうだな、とザフィーラは他人事の様に思った。実際、わりと他人事だった。
アイアンクローを解いたシャッハは、純粋な怒りを多分に含んだお説教顔を引っ込め、少し居住まいを正してから、改めてフィアメッタに語りかける。
「……まったく。いいですか、フィア? 騎士はやてを守る彼ら……守護騎士、ヴォルケンリッターの皆様は古代ベルカの時代の生きた証。私達が信仰と祈りを捧げる、聖王教にとっても重要な存在なのですよ?」
そう。彼女の言う通りだ。ザフィーラは目を伏せた。
ヴォルケンリッターは『闇の書』の防衛プログラム。本来、意志を持たない兵士として、戦場を駆け、主を守護すべき存在。今とは違う過去を生きた、忌まわしき遺物。
その遺物が、何の因果か最後の最後に、優しい主に巡り会えた。
主に恵まれ、人並みの幸福と争いのない生活を得た今でも……否、今だからこそ、ザフィーラは思う。自分達の幸せは、常に主と共に在り、主なき幸せは自分達には有り得ない。
「騎士ザフィーラも、その一人。あなたは聖王教会の一員という立場でありながら、彼の夜天の守護者に対して憧れと尊敬を履き違えた感情を抱いている。保護者として、それを見過ごすことはできません」
だから、ザフィーラにとって彼女が向けてくれる好意は、どこまでも『他人事』だった。
自分に感謝してくれる彼女は、女性として魅力的で、可愛らしく、いじらしかった。その真っ直ぐな好意に、絆されなかったといえば間違いなく嘘になる。けれど同時に、心の深い部分でそれをありえないと否定する自分がいた。
恋を否定するわけではない。愛を感じないわけではない。ただ『違う』と思ったし、それは『できない』と確信してしまっていた。
「敬愛の念を抱くのは分かります。親交を持つのも良いでしょう。けれど、あなたと騎士ザフィーラが結ばれることは、絶対にありえません。大人になりなさい、フィアメッタ」
シャッハの毅然とした断言に、流石にはやても思うところがあったのか。フィアメッタから顔を背けて、こちらを見る。そんな主に、ザフィーラは頷いて肯定の意を返した。厳しいかもしれない。残酷かもしれない。けれど、これで良いのだ。一過性の、その時だけの感情で、人生を棒に振るなんて間違っているのだから。
「わかったら、返事をなさい。そして、騎士はやてと守護獣ザフィーラに、謝罪を」
「……わかりました」
拘束魔法で吊るされた状態。顔だけを辛うじて上げて、フィアメッタはシャッハを見る。先ほどまでの、駄々っ子のような雰囲気は一転して鳴りを潜め、翡翠色の瞳が真っ直ぐに師を仰いだ。
その真摯な表情を見て、シャッハはようやく微笑んだ。
「……そうですか。わかってくれましたか」
「はい。よくわかりました。本当に、心の底からよくわかりましたとも」
全ての迷いを振り切った。花が咲くような笑顔で、
「やっぱり、シスターシャッハは格闘勝負にしか興味がない……恋する乙女の気持ちなんてこれっぽちも理解してくれない、生粋の女ゴリラだということをっ!」
言い切った。
言い切って、しまった。
「な……な、な、な」
「ばーかばーか! シスターシャッハのばーか! ヴォルケンリッター? 守護騎士? なんですか、さっきから黙って聞いていれば小難しい理屈ばかり! 立場があるのはわかります。ザフィーラさんが『普通』ではないのもわかります! そんなこと、今さら言われなくてもわかっているんですよ!」
あまりの暴言に唖然とするシャッハ、固まるはやて。そんな二人を睨み据えながら、フィアメッタは畳みかける。
「ですがっ! だからこそ! それを理由にわたしの好意を否定されることは、立場以前に……単純に一人の女として我慢なりませんっ!」
「っ……あなたはまた、そんな子どものような……」
「ええ、子どもですとも! 子どもで結構ですよ! どうせわたし、まだ処女ですから! 大人の階段上りきってないお子ちゃまですから!」
何事かと庭から戻ってきたシグナムが、そのあまりにひどいあけすけな一言につんのめってすっ転ぶ。しかしフィアメッタは、すっ転んだシグナムを気にもしない。
「大体、さっきから何なんですか本当に! 古代ベルカ時代の生きた証!? 教会にとって貴重な存在!? たしかに、ザフィーラさん達は古代ベルカの時代から生きてきた、わたし達とは少し違う存在なのかもしれません。でも、わたし達が今、この瞬間に話しているのは! 過去ではなく、ここにいるザフィーラさん達でしょう!?」
過去ではない、現在。
その一言に、はやての表情がはっと固まった。
「わたしがザフィーラさんを好きになったのは! ザフィーラさんが優秀な魔導師だったからでも、守護騎士だったからでもありません! あの時、わたしを助けてくれたのが……わたしの窮地を救ってくれたのが、他の誰でもない、ザフィーラさんだったからです!」
彼女を助けた時のことを、ザフィーラは思い出す。
狭い洞窟。何体いるかもわからない、ガジェットドローンの大群。そんな危険な場所に、自身のデバイスの特性が適していないことを知りながら、フィアメッタ・マジェスタは迷わず突入した。先に中へと侵入した、仲間の身を案じて。
ザフィーラは偶然、その場に居合わせただけだ。それは、運命というにはあまりにもただの偶然であったし、たとえ窮地に陥っていたのがフィアメッタ以外の誰かだったとしても、ザフィーラは迷わず救助に向かっていただろう。だから、彼女の言うことは、きっと正しい。
「逆に、ザフィーラさんがこの時代の人ではなかろうが、守護獣であろうが、普段は犬の姿であろうが、お姑さんがネチネチと面倒そうであろうが、そんなことは全部ひっくるめて関係ありません! それでもわたしはあの時、心の底からザフィーラさんに惚れました!」
自分が、フィアメッタ・マジェスタを助けたのは。
『守護獣ザフィーラ』という存在が、そう在るように設定されたプログラムだから……だとか。あるいは、力を持った優秀な魔導師であるから……といった、理念や理屈から成る道理が通った理由ではなく。ただ、本当に単純に。
あの時、あの場所にいた自分が、救いたいと思ったから。たったそれだけのことだった。
「聞いてください、ザフィーラさん!」
立場ではない。理屈でもない。それらは時に……否、大抵の場合、恋愛関係を構築する上での大切な要素となるのであろうけれど。
「わたしはまだ、ザフィーラさんのことを全然知りません! いきなり結婚なんて、少し先走り過ぎたのかもしれません。六課のみなさんにも、八神家のみなさんにも、わたしはたくさん迷惑をかけました。ですから、そのことに関しては心から謝罪します……でも、わたしはまだ答えを聞いていません! だから、もう一度言います!」
普通とは少し違った彼女は、
「ザフィーラさん、わたしと付き合ってください!」
そういったものを抜きにして、自分に交際を申し込んでくれているのだと。ザフィーラはようやく理解した。
我ながら、あまりにも鈍いと思った。
拘束魔法で吊るされたままの、どこまでも不格好な告白。だがその気迫は、はやてとシャッハを明らかに圧倒していた。女性が勇気を振り絞って紡いだ、熱を帯びた言の葉に。応えないのは、男ではない。
立ち上がり、四足歩行から二足歩行へ。獣の姿を解いて、人間の形態を取ったザフィーラは最初にレストランで会った時、そうしたように……フィアメッタの眼前で膝をついた。
鈍いのはわかった。口下手なのは自覚している。だから、ザフィーラは言った。たった一言、返答を口にした。
「よろしく頼む」
シグナムが、ぶっ倒れた。
しん、と空気が静まり返る。はやてもシャッハも何が起こっているのか意味が分からず、ただただ固まっていた。
返事をしたのに、それに対する回答がない。
そういえば、とザフィーラは止まった空気の中で考える。
彼女にまじまじと。こんなに近くで、人間の姿と顔を見られるのは、はじめてだったような……
「褐色……ケモ耳……銀髪」
まるで、熱に浮かされた子どものように。フィアメッタが呟いた。
決意は固まった。今さら、後悔はない。
いや。だが。しかし……
「やだもう……顔も超タイプ、です」
……本当にこの