間隔を空けて村を囲むように近づいてきている人影は、手に何の武器も持たず鎧さえ装備してない。しかしその全員が、背中から翼の生えた人型のモンスターを連れていた。
「天使か……しかも初めて見る種類だな。数も多い……厄介なことだ」
建物の陰からそれを見つめるガゼフが忌々しそうに呟いた。相手の数は味方の倍以上で、天使まで数に入れるなら考えるのも馬鹿らしい兵力差だった。
「これだけの兵を使って、二度も襲撃をかける程の価値がこの村にあるとは思えないのだけど」
ガゼフの近くで様子を見ていたサトリが呆れたように肩を竦める。
「サトリ殿に心当たりは?」
「この土地にはついたばかりだと言ったはずだけど」
「あなたのような女性を手に入れる為なら、千里を越えて追っ手を差し向ける男は幾人もいるでしょうな」
この世に名高い美女は何人もいるが、特に有名なのは、このリ・エスティーゼ王国の第三王女ラナー姫だ。その美しさに加えて、聡明で優しい性格から国民に圧倒的な人気があり、周辺国家にもその名が知られている。
ガゼフも王宮で何度となく顔を合わせているが、「黄金」の二つ名に相応しい美しさであり、彼女に並ぶ女性などいないと思っていた。この奇妙な魔法詠唱者に会うまでは、だが。
「ふふっ。あなたの方こそ心当たりはないの?」
「王国戦士長などやっていると、そういう相手には事欠かないもので」
「そう。有能な男には敵も味方も多いもの」
「かたじけない。あなたに味方になっていただければ百万の敵よりも心強いでしょう。さて、状況から見て相手はおそらくスレイン法国の特殊工作部隊、噂に聞く六色聖典でしょう」
ガゼフに勝算はなかった。相手が雑兵ならば、あるいは万全の装備が揃っていれば、自分一人で蹴散らす自信もあるが今はそうではない。練度も装備も兵数も全てにおいて圧倒的に不利だ。自分が死ぬことは覚悟しているが、このままでは自分についてきた部下達や罪のない村人まで殺されることは目に見えている。
あまりにも絶望的な状況であった。ここからひっくり返せるような援軍や手段などある訳がない。普通に考えればそうだ。だが今ガゼフの目の前には、未知の力を持つ魔法詠唱者がいた。
(この娘に協力してもらえれば……あるいは)
ガゼフがじっと様子を窺うと、サトリは村を包囲している敵を見て何かを考え込んでいるように見えた。夕日に照らされたその美しい横顔に、ガゼフはまっすぐ向き直って姿勢を正す。
「サトリ殿。良ければあなたの力を貸していただけないか?報酬は望むままの額をお約束しよう」
サトリは優美な眉を持ち上げて目を見開いた。先程までの言動や態度からは想像できない素直な表情に、そんな顔もするのか、とガゼフは少し意外に思う。
「嫌」
「その理由をお聞かせ願っても?」
「嫌だから嫌」
サトリはにべもなかった。それは仕方ない。誰だって勝ち目の薄い戦いに参加したくはないだろう。だがガゼフとしても、はいそうですかと引き下がる訳にはいかないのだ。
「……王国の法を用いて強制的に、というのはいかがかな」
「私を力ずくで言いなりにしたいと?そんなことをされたら必死で抵抗するしかないわ……ふふ、とっても面白そう」
直立不動で僅かに目を細めるガゼフと、笑みを深くしたサトリの視線が交差して張りつめた空気が漂う。
泡を食ったのは、ユグドラシルのものとそっくりな天使を見て思考に没頭していた鈴木悟だった。
(キャラに合わせて適当に喋ってたら決闘寸前になってる!?確かに引き下がるような設定のキャラクターじゃないけど、まずくない!?この人すごく強そうだし!)
といって今ロールプレイを止めようものなら、鈴木悟は人間の尊厳的な意味でとてもまずいことなりそうな予感がしていた。ガゼフのような人間と平然と睨み合えるような胆力は元一般人の悟にはない。剥がれそうになる仮面を必死の思いで顔に押し付け、「闇のサトリ」になりきることで動揺を抑え込もうとする。
一触即発の状態が続くこと十数秒あまり。ガゼフが先に目を逸らした。
「怖いな。争えば我らの一人とて助かるまい。あなたの魅力はその美しさだけではないようだ」
「あら、残念」
ガゼフの心の中で警鐘が鳴っていた。最初の名乗りからして尋常ではないと思ったが、現実離れした美貌も、自分の気当てにまったく動じない精神も、まだ少女と言っていい歳の女とは思えない。魔法の実力は未知だが、戦えば一瞬で殺される。ガゼフの歴戦の勘がそう告げていた。
ガゼフが見る限りサトリが身につけている品々は、王家や大貴族の家宝として代々伝えられている宝物すら、玩具に見えてしまうほどの超一級品ばかり。ネックレス一つとっても王国の国庫を空にしても足りないだろう。
「いつまでも呆けていて良いのかしら?王国戦士長ともあろう者が、怖いの?」
少女の形をした底知れぬ存在が、可愛らしく口元に手を当ててくすくすと笑っている。黒い布地が張り付く豊かな胸は、ガゼフほどの男でも気を付けないとつい目で追ってしまいそうになる。
引き締まった腰とそこから太腿にかけての曲線も、輝くような黒髪も、瑞々しく滑らかな肌も、全てが目を惹きつけて止まない。微かに漂う芳香は先程からガゼフの理性を容赦なく削ってくる。
ガゼフとて壮年の男なのだ。遠征任務中にこんな美女と間近で向き合わされてはかなわない。
(本当に何者……いや、何なのだ
強さも裕福さも若さも美しさも、1つ2つ飛び抜けているだけならばまだわかるが、全て兼ね備えている人物などそうはいない。それこそおとぎ話に出てくる英雄を除いて。
ガゼフが再び目を合わせるとサトリは相変わらず微笑みを浮かべていた。ラナー王女に匹敵する輝くような美貌にガゼフは一瞬時を忘れる。気づかないうちに美しさに飲まれ始めていた。ガゼフでなければ膝を折って愛を囁くか、獣欲に任せて襲い掛かっていただろう。無論結果は分かり切っているが。
しかしガゼフには使命がある。王命に従いこの国の民を守るという任務があるのだ。その矜持が、サトリの持つ魔性の美から彼の精神を守り切った。
「それではこれで。サトリ殿もお元気で。この村を、無辜の民を救ってくれたことに感謝する。本当に感謝する。そして出来ることなら彼らをもう一度だけ守ってほしい。今差し上げられる物はないが、どうかこの願いを聞き届けてほしい!」
ガゼフの必死の懇願を前にサトリの表情がきょとんとした物に変わる。そして、それまでとは全く違った凄惨な笑みを浮かべた。世界を隔てる壁に亀裂が入ったような笑みだった。
「なら、私の足を舐めなさい」
(ちょおおおおっ!?何言ってんの俺!?)
己の心と尊厳を守るため、鈴木悟が精神力を振り絞って作り上げた仮面は、それがあまりにも強固な意志で作られたが故に、そして
「何?」
「あなたは無辜の民を守るためなら何でもするのでしょう?私の足を舐めれば考えてあげるわ」
サトリは無詠唱化した
そしてサトリがその気になれば、おそらく誰一人として犠牲を出さずこの状況を切り抜けることができるという事も。
「ほら。迷う事なんてないでしょう?」
靴を脱ぎ捨て、白く美しい素足を差し出すサトリの前で、眉間に皺を寄せたガゼフは目を閉じる。その目が再び開かれた時、そこには力強い意志の輝きが宿っていた。
「それは出来ない」
「それでいいの?あなたが意地を張った結果、命を懸けて守ろうとした民が死ぬことになっても」
「私は王国戦士長。王の剣だ。その名を汚すことはできない。ただの平民だった私を取り立ててくれたばかりか、王家の至宝を与える程に信頼してくださる王の為に」
「……そう。私の誘いを断るなんて。せいぜい後悔するがいいわ」
サトリは一切の表情が消えた顔で呟いた。そして、中身が切り替わる。全身から発光する訳でも身体を震わせるでもなく、静かに、だが確実に別物に変わるのだ。
「……あ?!戻った、戻ったぞ!なんでロールプレイを止めるだけでこんな苦労するんだ……役にはまりすぎたのか?」
「サ、サトリ殿?」
「あ……これは、その……失礼しました。少し訳がありまして」
今のサトリからは、先程までの絶対的強者たる覇気は消え失せていた。はにかみながら手を振る様子は年頃の少女と大差ない。一瞬で別人になったとしか思えない激変を目にしたガゼフは、そこに言いようのない悍ましさを感じて背筋が寒くなった。
「そ、そうですか」
「それより戦士団の皆さんの所へ戻りましょう。村長さんにも話をしないと」
「な!?それは手を貸していただけるということか!?しかし先程は……」
「ええ。その。色々事情がありまして……」
「……なにやら複雑な事情がお有りのようだ。しかし手を貸していただけるというのなら、これほど心強いことはない!」
ここで男同士なら握手の一つもしたいところだが、女性に対して男から握手を求めるほどガゼフは礼儀知らずではない。仕官してから一番苦労したのは礼法だったのだ。というか今もそうである。
それに汗と革の臭いが染みついた己の手があの美しい手に触れるというのは気が引ける。そんなことを考えていたガゼフの前に、ごく自然にサトリの手が差し出された。
「臨時パーティ結成ですね。よろしくお願いします。ガゼフ戦士長」
ハッとしたガゼフの目と鼻の先に大輪の花が咲き誇るような笑顔があった。
(これは……まいった)
ガゼフは慌てて両手のガントレットを外し、予備の麻布で入念に手を拭ってからサトリの手を握った。その手はガゼフからすると赤子のように瑞々しくて柔らかだった。
「こちらこそよろしく頼む。サトリ殿」
◆
「おかしい……」
スレイン法国が誇る六色聖典の一つ、陽光聖典の長、ニグン・グリッド・ルーインは目の前の戦況に違和感を感じていた。確実にガゼフを仕留めるため入念に計画された必勝必殺の作戦だったはずだ。なのに戦況は圧勝どころか膠着している。
ここまでの計画にしくじりはなかった。標的のガゼフ・ストロノーフは王家の四宝たる強力な武装を剥がされ丸腰も同然。ガゼフ配下の戦士団もこの場にいる数は少なく、障害にならないはずだった。
それに陽光聖典の隊員が召喚する天使達は通常の武器による攻撃に耐性を持っている。対抗策は魔法が込められた武器か、一部の武技だけだ。前者は高価すぎて末端の兵士に支給できる品ではなく、後者に至っては一部の強者しか使えない。もう一つ対抗策はあるが、それは彼らには決して用意できないものだ。
ガゼフの部下達などカカシも同然のはずだ。しかし現実はそうなっていない。
「おらあああ!」
戦士団の一人が振るう剣が鎧を着た天使の体を易々と両断する。二つになった天使の体は光の粒となって空中に溶けていった。耐性どころの話ではない。剣で甲冑ごと天使を真っ二つにするなど、ガゼフはともかく常人でしかない人間に出来ることではない。
「魔法ってすげえんだな!癖になっちまいそうだ!」
「ガゼフ隊長とサトリちゃんがいれば、帝国軍にだって勝てるぜ!」
「サトリ様だろうが!ぶっ飛ばすぞ!」
よく見ればその戦士の剣だけが特別なのではなかった。他の戦士が振るう武器も陽光聖典が召喚した天使を容易に斬り伏せている。その様子をじっと観察していたニグンは、彼らが持つ何の変哲もない武器全てが、魔法の力を宿しているのに気づいた。
(
リ・エスティーゼ王国は魔法というものを軽視している。隣国のバハルス帝国は大陸中に名前を知られる大魔法使い、フールーダ・パラダインをトップに据え、国を挙げて魔法研究と魔法使いの育成に力を入れているが、王国はといえば王都や幾つかの貴族領に魔術師の私塾がある程度。魔術師組合はあるが国家の補助など微々たるもので、魔法使いの数は少なく質も低い。
そんな王国で貴重な魔法使いが、平民上がりのガゼフ率いる戦士団に配属されるわけがないのだ。かの王国はそういう国だ。
「うおおおおっ!」
思案に耽っていたニグンを、凄まじい雄叫びが現実に引き戻した。
「!……おのれ!ガゼフ!!」
ニグンの見つめる先でガゼフが剣を振るっている。その動きは凄まじいの一言だった。数々の武技を同時に発動させながら、天使達の間を突風のように駆け抜けると、数体の天使が光の粉となって消えていく。例の四宝を装備している時でさえ、あれ程の強さはないだろうと思われた。
ニグンもさほど詳しくないが、法国の最精鋭部隊、漆黒聖典に匹敵するのではと思わせるほどの一騎当千ぶりだった。強大な魔法詠唱者の支援を受けているのは間違いない。しかしそこまでの実力を持つ魔法詠唱者など、近隣一帯ではフールーダしかいない。そして帝国の重鎮たるかの魔法詠唱者が、王国に与する筈がなかった。
「全員よく聞け!ガゼフに力を貸している魔法詠唱者がいる!今の所姿は見えないが万が一ということもある!ガゼフへの圧力を維持しつつ準備を整えろ!」
ニグンは部下たちに警告を送り、自らにも対抗魔法をかけていく。
(ガゼフよ。どこの魔法詠唱者の力を借りたのか知らんが、足掻いたところで結果は変わらんのだ)
ニグンの読み通り、辛抱強く戦っていたガゼフ配下の戦士達が一人、また一人と倒れ始める。いくら強化魔法を受けていても、術者の魔力が続く限り何度でも生み出され、疲れを知らない天使相手では分が悪かった。陽光聖典の隊員も少しやられはしたが、自軍が圧倒的有利な状況は変わらない。
戦士達が倒れるにしたがってガゼフを取り囲む天使は増え、さすがのガゼフも処理が追い付かなくなってきている。この機に一斉に攻め立てれば仕留められるように思われた。しかしニグンは決して焦らず警戒を強める。
ガゼフと部下達には
(ガゼフに力を貸した魔法詠唱者……参戦するとしたらこのタイミングしかあるまい。飛行か、短距離転移か、そしてなにより……)
「使え!
等間隔に円陣を組んでいた陽光聖典の隊員達が、ニグンの号令に合わせて一斉にマジックアイテムを使用した。発動した魔法は使用者を中心に球状の範囲で見えない存在を発見する力がある。効果範囲は狭いが、陣形を組むことでその欠点をカバーできるのだ。
「くく、ネズミは見つかったようだな?」
振り返ったニグンの眼前に見知らぬ黒髪の少女の姿があった。
「バレバレだったか!?
少女が広範囲の精神系魔法を行使してくるが、対象となった陽光聖典は入念に準備を整えていたこともあって辛うじて抵抗に成功する。それでも数人が抵抗《レジスト》に失敗して魔法の影響下に置かれ、無事だった隊員に取り押さえられた。
「糞っ!」
己の奇襲が失敗したことを悟ったのだろう、悪態をつく少女を陽光聖典の隊員が素早く包囲した。ガゼフは30体近い天使に囲まれていて身動きが取れない。生き残りの戦士達も天使の攻撃をどうにか凌いでいる状況だ。もはや大勢は決したのだ。
ニグンは奇襲を仕掛けてきた相手の姿を素早く観察する。まだ年若い少女だ。あどけなさの残る美しい顔が一際目を引いた。均整のとれた魅力的な身体を見せつけるように、身体の線がよくわかるドレスを着ているが、それが神々の遺産にも匹敵する強力で高価な魔法の品だとニグンは見抜いた。
(……若いな。装備も超一級品と見た。この若さであれだけの力を得たというのか?)
実力ある魔法使いは寿命すら延ばすことができるので、彼女の本当の年齢は定かではない。だが身のこなしやちょっとした素振りを見る限り、外見と食い違いがあるようには思えなかった。
「残念だったな、小娘。お前の作戦などお見通しだ」
策を破られ包囲されているというのに少女に慌てる様子はない。むしろ周りを取り囲む陽光聖典の隊員たちを面白そうな顔で眺めている。ニグンは微かに感じた違和感を頭の隅に追いやった。もはや相手に伏せ札はないのだ。
「お前の力は認めよう。だが人を見る目がなかったな。ガゼフなどに肩入れするからお前はここで死ぬことになるのだ」
これだけの美貌だ。低俗な連中なら殺す前に楽しもうとするのだろうが、屈指のエリート集団であり、神に忠誠を捧げた使命の使徒である陽光聖典の隊員には、任務を放り出して淫蕩に耽るような愚か者はいない。
「ガゼフらに色々と魔法をかけていたようだが、あれだけの魔法を使えば魔力はほとんど残ってはいまい。もはやお前達に勝ち目はないぞ。諦めて横になれば苦痛なく殺してやる」
「あなたたちが六色聖典とかいう連中?」
己の敗北を悟ったのか、黒いドレスの少女はやけに落ち着いた様子で話しかけてきた。
「答える義理はないが、お前の実力と若さに免じて教えてやろう。そうだ。我らは六色聖典の一節、陽光聖典。人類の守護者たるスレイン法国の刃だ」
「なぜ人類の守護者があの男を狙うの?」
「この過酷な世界で脆弱な人類が生き延びるには、団結して己を鍛え上げねばならん。その義務を放棄するばかりか、亜人との融和などという世迷い事をほざき、腐敗して周囲に毒を垂れ流す王国は滅ぼさねばならんのだ。ガゼフはその障害になる。故に排除する」
「ふうん。ところでそれ
「ほう?我らの魔法に詳しいようだが、それがどうした」
「誰からその魔法を教わったのかしら」
今の魔法体系が出来たのは数百年前だと言われている。その起源ははっきりしないが、魔法という偉大な恩恵をもたらせる存在など神しかありえない。そして神といえばスレイン法国で篤く信仰されている六大神のことを指す。それ以外の神など
「何かと思えばくだらんことを聞く。そのような奇跡を起こせるのは偉大にして慈悲深き我らが神以外にいるはずがなかろう。さて、おしゃべりは終わりだ、小娘」
「まだ聞きたい事は沢山あるんだけど、まあいいわ」
言い終わるなり、少女は
それはニグンの想定内だった。
「やはり若いな!死ね!」
召喚魔法は原則的に1体しか使役できない。新しいモンスターを召喚すると古い方は帰還してしまう。そして呼び出された存在は基本的に術者のすぐ傍に現れ、即座に行動を開始するのだ。ガゼフを取り囲んでいた天使の半数が帰還し、新たに召喚された天使が剣を振りかざして少女に殺到した。
「さて、交代。ここまで手伝ってあげたのだから、役に立ちなさい。ガゼフ」