渚がぼんやりと机の前に立ったまま、何かを考えている様子だった。こちらが馬鹿だという説明をオブラートに包んで言うべく、頭を回しているのだろうか。
その間に宿題にざっと目を通す。初めから分かっていた通り、特に間違っている様子もない。丁度それが終わる頃に「よし」と渚が呟やく声を聞こえて顔を上げる。
うんうんと頷いて、渚は答えを裏付けるためか一つ質問をした。
「玲は別に赤坂さんのこと嫌いじゃないんだよね?」
「まあ、普通だよ」
「そっか、それじゃあさ」
そこで言葉を切り、突然渚は自分の席の後方へと歩き始めた。慌てて椅子の向きを変え、彼女がどこへ向かうか姿を追う。
立ち止まったところは空席。気取ったターンを決めて、クルリとこちらは振り向き、渚はコンコンと机をノックした。
その席が誰のものかなんて自分も当然知っていた。
今の話題の赤坂さんの席、渚が今いるところがちょうどそこなのだ。慌ててこっちに戻ってこいと手を振るも、黙ってゆるゆると首を横に振る。
それどころか机に直接よっこらせと腰を下ろす始末。
すぐにでも引っ張って連れ戻すべきだ。そう判断したのも早かったがそれより早く、ガラリと扉を開く音が耳に届いた。身体の動きを止め、恐る恐る視線だけをそちらに向ける。
なぜかシーンと静まり返る教室。彼女以外であってくれという願いと裏腹に、その入り口に立っていたのは赤坂さんだった。
なにかまずいことが起きているというクラス一同の空気なんて御構い無し。『私、今ものすごく不機嫌です』そう自己主張するかの様に響く足音、それと共に席へ向かうのを見て、思わず天井を仰ぐ。
ああ、終わった。
でも渚の自業自得なのだ。
赤坂さんが不機嫌そうなのは渚の行動が関係ないと思うほどおめでたい性格はしていない。当然関係あるに決まってる。
そんなの深く考え込む必要もないだろう、自分の机を椅子代わりされてるのをみれば。その不快な行動をとってる相手が自分の嫌いな相手であれば。
赤坂さん自身が渚のことを嫌いだから。
畢竟、不機嫌の理由がわかるというものだ。
けれども慌てず騒がず、渚はじっと彼女が近づいてくるのを待っていた。
はたして赤坂さんの反応が想定通りなのか、それとも今更逃げても無駄だと観念したのか。
まあ渚なら自分でなんとかできるだろう。信頼というより思考放棄に近いそれを胸に抱いて、自分はこの行く末を見守ることにした。
緊張からか、自分のゴクリと唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。
もし自分が助けに来ることを予定に入れていたのならば少し困ってしまうが、彼女はちらりともこちらを見ようとしなかった。
「そこ、退いてくれない?」
怒りの色を見せることなく、無感情にシンプルに――それが逆に怖いのだけれども――必要最低限の言葉を放つ。
「ん、ごめんごめん」
机からは退いたが1ミリたりとも悪びれる様子もないことにひやりとしたものの、それに拘泥する事なく赤坂さんは席に着いた。
一件落着。ほんの少し教室の空気が緩くなった気がしたのは、多分気のせいではないだろう。自分の耳が確かなのならば、ほっと息を吐く音が確かにいくつも聞こえた。
一安心して赤坂さんから視線を外したものの、渚の行動になんの意味があったのか尋ねなければと決めた。少なくとも意味のない行動ではないと思うぐらいには渚のことを信頼しているのだ。だからこれにも理由があったはず、多分。
「なんでまだいるの?」
だからそんな言葉を聞いて慌てて振り向いたのは、まだ話が終わってないと気づいたから。
今度は赤坂さんの前の席へと渚は腰掛けていた。それを見てすぐに分かった、自分と赤坂さんの立場を入れ替えて入学式と同じ様なことをしている。そしてまだ残ってるということは話が終わってないということ。
これまでが前振りで、これからが本題なのだ
渚の表情をこちら伺う事は出来ない。けれどもいつものように人が良い笑みを浮かべてるのは容易に想像がついた。
「そりゃ、初めから赤坂さんに用があって来たからに決まってるじゃん」
「それは今すぐ言わなきゃいけないこと? もうすぐSHRが始まると思うけど」
「ややっ、つれないねえ赤坂さん。あんなに玲と話してたってのにボクとは話さないっていうのかい?」
「時と場合、それに相手によるわ。今は貴女と話したくないの」
やんわりと、それでいてはっきりとした拒絶。
こんなことになるならばあらかじめ赤坂さんは渚のことを嫌ってると伝えればよかったか、そう思うも後の祭りである。
でも、そんな言葉を柳に風とばかりに渚は笑って受け流す。
「まあすぐ終わる話だからさ。手早く話をすませようか、そろそろ先生も来そうだし」
「話をすることを止める選択肢は?」
「そんなものは、ない」
パンっと一回大きく手を叩き、渚は言った。
「赤坂さんを手品部に勧誘しに来たんだ、ボクは」
何を言ってるんだ、
そんなツッコミを思わず口にしそうにして、思わず口を手で押さえる。
その言葉に意表を突かれたのは自分だけでなく、赤坂さんもまた同じだった。されど流石学年一の頭がいい彼女、豆鉄砲を食らったような表情を浮かべたのも数秒。すぐに言葉を切り返す。
「なんで私を?」
「なんとなくだよ。帰宅部だしやる事もなく暇そうだから、赤坂さんなら入れてあげてもいいかなって」
なんで上から目線なのか、それが自分には理解できない。
赤坂さんならって条件を付ければプラスに働くと見ているのだろうか。残念ながら1ミリたりとも赤坂さんにその言葉が響いてないことは、続く言葉を聞けばすぐに分かることだった。
「申し訳ないけど、私は部活に入る気は一切ないわ」
「そう、そりゃ残念だなぁ。なかなかいいアイデアだと思ったんだけれどな」
案の定、答えはNO。それ以上言葉を繋げても無駄だと分かったのか、いかにも残念そうに肩を落として今度こそ席を立った。
こちらを向いた顔を見てほんの少しだけ驚いた。勧誘に失敗して、少しでも凹むかと思えばまったくそんな様子を見せることはない。どちらかといえばやるだけやって満足したという表情だったから。
そんな背中に追い打ちをかけるように赤坂さんが追撃の言葉を飛ばした。
「及川さん、今のうちに言っとくけど私は貴女のこと嫌いよ」
「そう、でもボクは赤坂さんのこと別に嫌いじゃないけどね」
もう感情を隠す気もない悪意しかない言葉。それでもダメージを受ける様子もなく、ゆらりと顔だけ向けてそんな言葉を打ち返す。
それ以上会話は続けられる事はなく。何も知らない教師がやってくるまでなんとなく気まずい空気が教室に充満していたのは、紛れもなく渚の失敗だっただろう。
●
「いやー、ボクともあろうことがあっさり失敗しちゃったよ」
「その割にはなにも残念だと思ってなさそうだけど」
あっはっはっと渚が笑い飛ばしているのを横目に、カフェオレ片手に溜息を吐いた。
時刻は昼休み、話すにしても赤坂さんが教室にいる状況で先ほどの振り返りもできるはずがなく、結局昼休みまで待つ事になっていた。
彼女の姿は教室には見えない。昨日のようにあの階段に今日も向かっているのだろうか。
できればなんとかしたいと思うけれども、今優先するべきは情報の整理である。そもそも赤坂さんの話は今日1日2日で解決できるようなものか、そもそも自分が解決するべきものなのかそういう問題もある。
そんなややこしい思考を打ち消して、確認するべく口を開く。
「で、本気で赤坂さんを手品部に入れようとしてたの?」
「半分ぐらいね、まあ断られても仕方ないかなーとは思ってたけどさ」
思いついたのは朝、玲と話してるところを見たときさ。そう語るのを適当に聞き流しながら、メロンパンを一口大にちぎり口に放り込む。
「ボクと、とはともかく玲とは十分仲良くやれそうだからさ丁度いいかなって思ったんだけど」
「自分に言ってくれれば、こっちから赤坂さんに話を通したのに」
「それじゃあ意味無いんだよ、入ってから赤坂さんとボクが意思の疎通を取れなくて部活が空中分解とか嫌だろう?」
箸を使い器用に黒豆を掴んで口へと放り込んだかと思えば、卵焼きを掴みこちらの口の前に突き出した。
間接キスを極力意識しないようにありがたくいただく。甘めの味付け、自分の好みでは無いけれど、これはこれでいいものだ。
よく味わい、話を逸らされかけたことに気づいて慌てて話を戻す。
「それはわかるけどさ」
「それが先に起こるか、後に起こるかって問題だけだよ。遅かれ早かれ赤坂さんが部活に入ったら起きただろうさ」
「起こさないように努力するって選択肢は?」
「あったらよかったんだけどねえ、こちらが努力するだけじゃなくてあちらも頑張る必要があるし、なかなか難しかったと思うよ?」
「それもそうかぁ……」
今日話していきなり嫌いという感情を抱いていたわけではなく、前から嫌いという事実を知っててからこそ、渚が全部悪いと言い切れないのはわかっていた。
それでももうちょっとやりようがあると思うけれども。
「赤坂さんは確実に無理。他になんか良さそうな人、玲は心当たりない?」
「あったらとっくに勧誘してるよ」
「だよねー」
赤坂さんが渚のことを嫌ってなければ真っ先に勧誘していたのに、世界は早々上手くはいかないものだ。
渚が勧誘して手酷く失敗したのもまた痛い。人一人が一度決めた判断をひっくり返すほど自分に話術があるわけでもなく。
こういうところで前世の記憶は全く役に立ってくれないのが恨めしい。
「とりあえずやるべきことは放課後終わった後、すぐに校門前に行って勧誘とかかな、玲も来る?」
「当然でしょ、部員として手伝わないでどうするのよ」
「助かる、ありがと」
はにかみながら、彼女はそう言った。
別に感謝する必要もなく、当然の責務だと踏ん反り返っていてもいいのに、渚はそうすることはない。
「放っておいたら赤坂さんの時みたいに失敗しそうだしさ」
「失礼な、ボクがそうなんども失敗するはずがないだろ?」
「さっきのやり方を見る限り成功する確率はほとんどないと思うけど、わざと失敗させようとしてるかと思うぐらい酷かったよ?」
その言葉を聞いて言葉を返すことなく、彼女はクスリと小さく笑みをこぼした。