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自分の好きな香りといえば、真っ先に思いつくのは焼きたてのパンの香ばしい香りだ。
自宅から駅へと向かう途中にあるパン屋があって、帰りに店の中を覗くといつも客が1人か2人ぐらい入っているのが見える。
近隣の住民に愛されて、今も昔も変わらずに、自分が小学生の頃からある店。もしかしたらもっと昔からあったのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいいことで。
開店時間は10時なので、昼ご飯にそこのパンを買っていくなんてことはできないのが唯一無二にして致命的な弱点だった。
そんな店の前に今日も今日とて通りかかり、ふと足を止める。流石に閉店間近だからか空白だらけのショーケース、余り物とはいえまだまだ美味しそうに見えるパンが並んでいた。
店のドアを開けたのはほんの気まぐれ、たまには妹にお土産でも買っていこうと思っただけのこと。カランカランと響く鈴の音、それを聞きつけた店員の元気のいい挨拶に軽く頭を下げつつ、手頃なものを見繕う。
狙うは晩御飯の後に食べるちょうどいい感じのデザート、店の一押しらしく『オススメ!』とデカデカと吹き出しをつけられたアップルパイを一つ取ってレジへと運ぶ。
そんな時、ふと店の外から犬がワンと鳴く声がしたのだ。100円硬貨を二枚渡しながら耳を澄ましても、もう鳴き声は聞こえなかった。
「ポイントカードはお持ちでしょうか?」
「いや、持ってないです」
半ば意識が犬へと逸れながらも受け答えはちゃんと出来るもので、その返事を聞いて店員はレシートと一緒に赤いカードを差し出した。
なんでもポイントカードは最近始めたシステムらしく、ポイントが貯まると何か良いことがあるらしい。
良いこととだいぶぼんやりとした情報だけ言われても困るのだけれども、別にそこを突っつく気も無く店を後にする。
扉の外はすっかり陽が落ちていて、パン屋から漏れ出る明かりがあたりを照らしていた。
春の日はそこそこ長いとはいえ、途中でファミレスに寄ったからそれも当然のことだろう。まあとりあえず早く家に帰るべきだ。そう歩き出そうとした自分は、しかしながらすぐに足を止めることになった。
暗がりからパン屋の前の明かりに向かって、何かがバタバタと近づいてくる。人とは思えないほど小さい、けれども動きは早く、真っ直ぐこちらに近づいてくるではないか。
野良猫だろうか? そう当たりをつけてみる。
そんな予想はあっさりと裏切られた。明かりに照らされたのは白いトイプードル、それもリード付きの。
多分先ほど聞いた鳴き声は多分こいつのものなのだろう、そう出来事を結び付けているとその犬は自分の前でピタリと足を止めた。
どういう理由でこの犬が逃げ出したのは分からないがチャンスらしい、再び逃げ出さぬよう驚かさないようにそっと近づく。
つぶらな瞳はこちらをじっと伺っていたものの、それでも逃げることは無く無事リードを拾い上げることが出来た。
ほっと一息を吐き、どうするか考える。
リードが付いてたということは散歩中にこの犬が逃げ出したのだろう。つまり飼い主も多分この犬を探している筈だ。
じゃあ自分はどうするべきだろうか。犬がやってきた方向へ向かうべきか、それとも犬を追って飼い主がここにやってくるのを待つべきか、それともとりあえず交番に行くべきか。
何をするわけでも無くトイプードルを見下ろす。貴方のいうことに従いますよと言わんばかりに、犬もこちらを見上げていた。
そんな顔をするならお前の飼い主のいうことをちゃんと聞いてあげてやれば良いじゃないか、それともお前は飼い主を認めてないのか?
目は合おうともお互いの気持ちは通じない。そんな数秒の視線の交錯の後、犬は自身がやってきた方向へと目を向けた。
「クドー?」
綺麗な声、そして聞き覚えのある声。犬の尻尾がブンブンと揺れているのをみるに、クドーというのがこの犬の名前なのだろう。
さて話は感動の再会、そしてクライマックスと至るのだが、こちらとしてはどうしてこうなったのかリードをほっぽりだして逃げたい気分だった。
恐らく犬の姿を見えたのだろう。慌てて駆け寄ってくる足音は聞こえたものの、その足音もこちらの姿を見えたのか止まった。
「……佐々木さん?」
「いいえ、違います」
「……」
赤坂さんの冷たい視線が酷く痛かった。
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さて犬を引き渡して話が無事解決と行けば良いのだけれども、先ほどの落ち着きは何処へやら、自分が離れようとするたびに犬が暴れ始め、また同じことがないよう足止めを食らっている最中である。
犬、改めクドリャフカ、改めクドー。成る程、確かにクドーの方が呼びやすい。そう頷きながら赤坂さんの悪戦苦闘を観戦中。
「ごめんなさい、いつもはもっと大人しいんだけど。ほらクドー、帰るわよ」
ワン、ワンと吠え返して全く落ち着く様子は無い。本当に飼い慣らせているのだろうか?
「……まあ、そういう時もあるよ」
「……その沈黙、全然信用してないでしょ」
「ソンナコトナイヨー、ホントダヨー」
目は合わせない、考えてることが見透かされる気がしたから。言葉が通じてるのか、クドーもワンワンと相槌を打つ。2人の間に気まずい沈黙が流れる。
そんな沈黙になる度に、なんとなく話を繋げなければという焦りに追われるのは自分だけだろうか?
ちょうど良いことに疑問が一つ頭の中に浮かんで来て、それを言葉にすることに躊躇なんて無かった。
「赤坂さんってもしかして学校行く時もこの駅使ってる?」
「……当然でしょ」
散歩にいくぐらいの距離なのだからこの駅を使うことは当然という意味だろうか、そんなわかりきったことを聞くなとばかりに赤坂さんは不機嫌そうに顔を歪めた。
「で、それがどうしたの?」
つっけんどんな言葉に思わず怯む、そこまで気を害する言葉だっただろうか? よくある会話じゃないか。
「いや、今日まで会うことがなかったからさ。もしかして気づかないうちにすれ違ったりしてた?」
「さあ、わからないけど。すれ違っていたとしても興味がないなら気付かないのも当然なのじゃないかしら」
先ほどのはしゃぎっぷりとは打って変わって、ご主人様の機嫌を読み取っているのか、クドーも悲しげにクーンと唸っている。
これ幸いと赤坂さんもリードを引っ張るが、小さい体はその場からピクリとも動きそうになかった。
ご主人様もその家族も何を考えてるのか、こちらにはさっぱりわかりそうもない。ただただ空気が重くなるばかりで、とにかくこの犬を動かす案を出さなければいけないのは確かだった。何より自分も早く家に帰りたい。
「クドーが動かない時はいつもどうしてるの?」
「前例がないからわからないわ。まあ、好物で釣れば動くかもしれないけど」
好物で釣る、成る程良い案かも知れない。
「クドーって何が好きなの?」
「……佐々木さんじゃないかしら」
「じゃ、それを餌に……ん?」
「ワン!」
その通りとばかりに1つ鳴く。
「いやいやおかしいでしょ、その犬と自分は初対面だって」
「でも私からみると佐々木さんに物凄い懐いているように見えるわ」
なんかクドーに餌でもあげたかという質問を聞かれ、ふるふると首を横に振る。懐かれる覚えは全くないのに懐かれる矛盾。もしかしてこれが俗に言う運命の出会いというやつだろうか?
しゃがみこんで鼻先に手を差し出してみれば、おもむろに手をペロペロと舐め始める。
「もしかして自分、美味しい餌扱いされてない?」
「長く一緒に暮らしてたけど悪食趣味だとは知らなかったわ」
つまり、自分で釣るということは赤坂さんの家まで一緒に行くということだろう。
「赤坂さんの家ってどっち方向?」
「あっちね、一緒に行ってくれるの?」
「あー、それは……」
そう赤坂さんが指差した方向は自分が出てきたホームの方向で、高架を通り越して反対側にあるということだろう。
遠回りだ、そう思ったのとほぼ同時にスマホが揺れた。
多分妹からの連絡、早く帰って来てねということだ。さてどうするべきか、怒られることを覚悟して送ってから帰るべきか。
答えを出すための時間も無限ではないのがもどかしい。
「しかたがない、それじゃあ一緒に――あっ」
人は追い詰められると超能力が発現するらしい、というのをまともに信じてるわけではないけれど、追い詰められたお陰で良い案を閃いたのは確かだった。
怪訝な目でこちらを見つめる赤坂さんを他所に、ポケットからハンカチを取り出して犬の前にぶら下げてみれば、案の定物欲しげな目で見つめてくる。
「成る程、そういうことね」
「1人で納得しないで欲しいのだけど」
「たぶんクドーは自分の匂いが好きなんじゃないかな」
クドーが好きなのは『佐々木 玲』本人ではなく、その匂いだと分かれば解決方法は簡単だ。
トイプードルの首にハンカチを優しく結んであげれば、嬉しそうに一つ鳴いて、用は済んだとばかりにテクテクと歩き始めた。
「待ちなさいっ、クドー! 佐々木さんごめんなさい、お礼はまた明日でいいかしら、……ちょっとッ」
「本当にいつも言うこと聞いてるの、それ」
「聞いてるわよ!」
思わず笑ってしまったがそれも無理もないことだろう。幸いこちらを怒るほど彼女に余裕は無いのだから、これぐらいは許されて然るべきだ。
「それじゃ赤坂さん、また明日」
「ええ、また。佐々木さん」
彼女の姿が曲がり角は消えていくのを見届けて、自分も家へ向かって走り始めた。