馬鹿は風邪をひかないという言葉は、風邪をひいたとしてもその鈍感さから症状を自覚しないということから来ている。
そこまで馬鹿でもないし、鈍感でも無いと思っていた。けれども風邪をひいたのは、いつぶりだったか思い出せないほど久しぶりのことだったから。
そんな訳でなんとなく喉が痛いし、気怠い気がすると思っていても、それを綺麗に無視していた。
きっと気のせいだろう、そんな楽観。
念の為、行く前に一度だけ熱を測ってみようとしたのがファインプレー。38度をほんの少し超えた体温計の表示にあえなくストップをかけられた。
昨日の今日で休むのはなんとなく嫌な予感がしたけれど、クラスメイトに風邪をばらまくわけにも行かない。
泣く泣く風邪薬を飲んでベッドへUターンを決めて布団に潜り込めば、あっという間に睡魔に飲み込まれた。
自分が思っていたより弱っていたのだろう。昼ご飯を食べることもなくこんこんと眠り続けて、及川 渚の半日は特に何事もなく浪費されたのだった。
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「……さんじゅーななどごぶ」
目がさめるとそこは一人っきりの部屋だった、というのも当然のことで、家にいるのは自分一人だけ。
鼻をすすりながら体温を読み上げた声は誰に聞かれることもなく、それに対して何も思うこともない。
明日には学校に行けそうだ。そう思いながら体温計を枕元に戻してアイマスクをつけようとしたところで、そういえばとスマホを確認してみることにした。
朝に玲へ休むと送ったし、おそらく返信が来てるだろうから。開いてみれば案の定、お大事にとメッセージが飛んできている。
特に返す言葉も思いつかず、再びアイマスクを付けて寝ようとしたところで再び端末が振動した。
『お見舞いに行っていい?』
思わずあーと声が漏れた。
玲の家と自分の家は学校の最寄り駅を中心に逆方向にあって多少面倒な手間になろうとも、確かに彼女の性格ならお見舞いに来るだろう。及川 渚が体調を崩すのは珍しいことだから、尚更。
選択肢は2つ。
良いよと返信するか、そのまま見なかったことにして無視するか。
多分、何も返信しなければ寝てるだろうと判断してくることはないだろう。来なくても大丈夫というのはなかなか自分のキャラらしくない、及川 渚とはそういうキャラだから。
一人っきりの時間を手放したくないな、そう思っていた。風邪だからとかそんな思考に至ったわけではない、多分どんな時でもそう考えていただろう。
無理にこうであれと飾り付ける事は疲れるから。
スマホを体温計の隣に放り込んで、再びアイマスクを付けて横たわる。じわっとした湿気と寒気を感じながら。
玲は今頃何をしてるんだろうか、スマホを握って返信が来るのを今か今かと待ち構えているのだろうか?
脳裏にその光景がありありと浮かんで、クスリと笑う。返信、送る気ないんだけれども。
仕方がないと額までアイマスクを上げてメッセージを開く。
『来なくても大丈夫、多分明日には学校行けそうなんでよろしく!』
これでいいか。体調が悪い人が送る文には見えないけれど、むしろなんか凄く元気が溢れてそうだ。
二、三度ほど見返してうーんと首をかしげる。
それでも改良する点を思いつかず、送信しようとしたところで不意にぐーっとお腹が鳴った。そういえば昼に何も食べていない、何か家に食べ物残っていたっけ。
何もない、気がする。
冷蔵庫の中身を確認もせず、送ろうとした文を180度改変させることにした。
『我、救援求む。家、飯無し。お金、後で払う』
ちょっと冗談めかした文を一度読み返し、一つ頷く。これで、よし。
先ほどの文に比べて送信ボタンはずっとずっと軽かった。
『すぐに行く!』
送信を終えてスマホを枕元へと置く前に返信がやって来て、自分の予想がちゃんと当たっていたことに気づいた。
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すぐに行くとの言葉通りに、30分後には自分の部屋に学校から直接来たのか、制服のままの玲がいた。
ちょっと早すぎるんじゃないかと思っていた、すぐに行くと送った時には最寄駅に着いていたんじゃないかと思うぐらいに。
それでもずいっと渡された、そこそこ大きなビニール袋を前に何も言えず、ペコペコと頭を下げてぽんぽんと中身を広げていく。
2リットル入りのスポドリ、冷えピタ、冷凍ドリア、林檎。マスク越しにくぐもった声で一つ尋ねる。
「ちょっと思ったんだけど、買いすぎじゃない?」
「……そんなことないと思うよ」
すーっと顔を逸らして、玲は目を見ようとしない。
ご飯を買ってきてほしいとは行ったけれど、なんか色々余分なものが混じっていた。
自分の言葉が足りなすぎたのだろうか、それとも意識が朦朧として余分な文を送っていたのか。
それでもお粥とか病人食じゃないのは嬉しいことだった。送るのを忘れていたけれど、普通のものを食べたいと思っていたから。
「お粥とか作って女子力示してあげようかと思ったんだけど、自分作り方わからないからさ。初めての実験台とか嫌でしょ?」
「やめてよね、ほんと」
もらった冷えピタをぺたりと額に貼り付けつつ、そう返す。人は自分の料理の腕前をちゃんと自覚しているべきなのだ。積み重ねもないのにいきなり料理が上手くなるはずもない。
冷凍食品ならどんなに下手くそでも、レンジに入れてボタンを一つ押すだけで全員同じ味を出せる。なんて素晴らしい文明の利器だろうか!
飲み物は置いとくとして、後はやってもらおうと冷凍食品と林檎を渡したところで一つ疑問が浮かんだ。
彼女の料理の腕前はひとまず置いといて、林檎を剥くことは出来るのか?
「玲って果物ナイフで林檎剥けるの?」
「……」
「……玲さん?」
「……いける、多分」
「絶対手を切るやつじゃん、それ」
「絶対できる、カレーでジャガイモとかニンジンの皮とか剥いたことあるし」
絆創膏はどこに置いてあったけ、あらかじめそう考えるぐらいには信用がない言葉。
カレーで使うのはピーラーだし、ジャガイモやニンジンの皮を剥くのとはレベルが違うと玲は分かってるのだろうか。
「……まあやるだけやってみればいいか、物は試しだし」
少なくとも林檎の切り方で味が変わるなんてことはないのだから。ほんの少しの不安を抱えつつ、彼女と一緒に台所に向かう。
レンジにドリアを入れるの横目に、果物ナイフとまな板を取り出し準備完了。
「無理そうだったらピーラー出すよ」
「果物ナイフで出来るって、絶対」
多分という言葉を一度使ってる時点で、信用は地に落ちている。皮付きで良いから八等分言ったところで玲が意固地になるのは見えていたし、もう自分にはぼんやりと横で眺めることしか出来なかった。
目を閉じて、すーっと一つ深く深呼吸をした。
「……佐々木 玲、行きます!」
「林檎には勝てなかったよ……」
自分がやっておいてこの惨状に目を当てられないのか、1人林檎を残して彼女は顔を覆っていた。
残ったのはだいぶスリムに、そしてやたら角ばった形をした無残な林檎だった。
1つなぎにして皮を剥けるはずもなく、バラバラと一片ずつ切り離されていった結果がこれである。
なんて様、それでも特に馬鹿にする気は無かった。
「でも、まあいいんじゃない?」
悪くはない。手を切らなかったことだし、十分上出来である。顔を手で覆ってる玲を横目に、忘れてるようなので最後の芯取りだけ自分がやる。
四等分に分割して、芯を取り除き、さらに二分割。そこまでやったところでちょうど電子レンジがチンと鳴った。
「ごめん、レンジ終わったから出して頂戴」
「アッハイ」
皿になるべく美味しく見えるようによそってみたけれど、やっぱりローポリゴンの林檎といった感じだった。
それでもコップにスポーツドリンクを注いで、手前にドリアを置き、一番遠くに林檎を置けば、なんとなく上等な食事に見えた。
使い捨てのマスクを付けて向かいに座る玲を他所に、一人パクパクとスプーンを進める。
「渚の親って共働きだっけ?」
「そ、前に来た時もおんなじこと話した気がするけど」
及川 渚の家を知っていて、なおかつ訪れたことがある人はかなり少ない。高校では玲一人だけだった。
去年一度だけ、彼女を家に招いたことがある。その記憶に従って玲は家に来たのだろうけれど、よく覚えているものだ。
「なんか学校で変わったことあった?」
「いや、なーんも。強いて言うなら渚が居なかったことかな」
「もしかしてボクが居なくて寂しかった?」
「まーまーかな、渚が居ないの高校に入って初めてだったし」
そう言って彼女は目を細めた。多分マスクの裏では恥ずかしそうに笑っているのだろうけれど、あいにくながら見ることはできない。
「でも一つだけあったな。渚の好きな体育の授業でさ、まー……」
「まー?」
「……赤坂さんがめっちゃバレー頑張ってたよ、うん」
「あっ、そう」
赤坂さんに興味はないし、強いて言うならはじめに言おうとしていた『ま』の続きが何になるのか気になって仕方がないのだけれども、ゴニョゴニョと濁した言葉はマスクに遮られて聞こえず、玲はそれについて何も言わなかった。
言い澱むような言葉がなんかあったか、少し考えるも熱のせいか頭が働かない。ほんの少し不機嫌になったのを察したのか、慌てて玲が口を開いた。
「ねえ、どれぐらい調子悪い?」
「もう死にそう」
「本当は?」
「明日には学校行けるぐらい、そこまで悪くはないよ。朝よりだいぶ熱は下がったし」
「てっきり明日も休んで、四連休にするのかと思ってたけど」
「四連休は魅力的だけどね、でも部員集めがあるし」
たった一人、されど一人。
来週の火曜日までに見つけなきゃ廃部という現実は、風邪を引こうとも御構い無しにヒタヒタと迫ってきている。
「まあ、無理だったらまた朝にメッセージ送るさ」
「来ないことを祈ってるよ、心の底から。もし自分が風邪引いてたらこっちもメッセージを送ってあげる、救援求むって」
「そしたらボクがお見舞いに行ってあげるよ」
皮剥きとはなんぞやを見せつけに、一繋ぎの林檎の皮で彼女の首をしめに行ってあげるとしよう。
そのときはどうかよろしくと言いつつ、林檎の一片を指でつまんで、玲は一口それを齧った。