一昨日の帰り道にハンカチを赤坂さんに渡したことを覚えていましたかと尋ねられれば、あぁそんなこともあったなと思い出しはするものの、当然ながらその事を常に意識しているはずが無い。
自分のことではあっても、そこらへんで千円ぐらいで買えるハンカチなんて付属品に深い感情を抱いている訳でもないし、なくしたところで別に命がなくなるような生命維持装置でも無いのだから。
人はハンカチがなくても生きていける、多少不潔ではあるけれど。
まあこれが渚からの贈り物だとか付加価値が付いていたら話は別なのだけれども、自分のハンカチはそんなに大それたものではない。
というかそんなものを日常的に使うはずが無い、机の奥底に大事に大事に宝物の様に仕舞っておくだろう。
ハンカチに感情があるなら、その待遇をどう思うのかとか、ものは使われることが使命であるとか、そんなこと知ったことでは無い。
閑話休題。
どうしてそんな事を突然語り始めたかといえば赤坂さんから、その話題にのぼったハンカチを返されたからである。
ちゃんと洗濯されきっちりアイロンをかけて、ぴっちり折れ目がついたバリバリの新品に見えるほどのそれは、最早別ものであった。
「どこをどうすれば赤坂さんにハンカチを貸すことになるのか、ボクとしては全くわからないところだけど」
「そういえば話してなかったけ?」
ハンカチから目を逸らして、渚の方を見てみれば紙パックのジュースをお手玉がわりに弄んでいる。
昼休みの教室。事の本人である舞さんは教室にはもういない、ハンカチだけ返すや否や再び何処かへと去ってしまった。
あいも変わらず仲が悪そうな二人を取り持つ妙案は、残念なことに自分の脳みそは灰色でも無いから閃かず、自分にできたことはただ漫然と見送ることだけだった。
「なんかさー、玲って見えてる地雷に突っ込む癖ない?」
「別にそんなことないと思うけど」
「別に他人の趣味嗜好に口出すほどボクは野暮じゃないけどさ、もうちょっと自覚ある行動をするべきだと思うんだ」
そう、ボクみたいにね。と誇らしげに胸を誇る彼女を横目になんとかアラを探してみるが見つからない。
及川 渚はいつも通りに変わりなく、完璧な女の子であった。
「で、話を戻してどうして赤坂さんにハンカチを貸すことになったのか教えて欲しいんだけど」
「別に大した話じゃないよ?」
偶然赤坂さんに遭遇して、偶々犬が自分に懐いてしまっただけのこと。よくある話とは言えないけれど、山も谷もないければ、綺麗なオチもない話。
「一昨日家に帰る途中で偶然散歩途中の赤坂さんに会って、彼女の連れていた犬が自分から離れようとしないから、仕方なくハンカチを犠牲に犬を引き離しただけだよ」
「偶然ねえ……」
偶然でないなら運命だとでもいうのだろうか。けれども渚は言葉を続けることなく、レジ袋からパンを取り出した。
「ま、そんなことは別にどうでもいいか。もう終わった話だしね」
「人に聞いといてなんて投げやりな……」
「まあ考えるべきことは色々増えたんだけどさ、とりあえずご飯食べなきゃ昼休み終わっちゃうし、食べながら話すことはできなくても考えることはできるからね」
言うほど深く考える必要のない話だとは思うけれど、彼女が言うならきっとそうに違いないのだ、多分。
なにかを考えてる様子の彼女を放っておいて、教室の雑音を聞き流しながらパンを食べる。
途切れ途切れにしか聞こえない話を脳内で補完していくことはそれなりに楽しいことだった。
今日、もっぱらの話題は恋愛談義である。
まあ高校生同士の等身大の恋愛談義は聞こえて来ず、アイドルやアニメの方に流れていくばかり。
「玲と赤坂さんがその駅であったってことは中学校同じだったりしたの?」
ようやく口を開いたかと思えばそんな問いが飛んできて、それに対して自分はふるふると首を振った。
「ないよ、ないない。赤坂さんがいたらよくも悪くも目立っただろうけれども、見た記憶はかけらも残ってないし」
もしも中学校の頃に彼女を知っていたのなら、今の自分のこの関係性とやらも変わっていたのだろうか。
自分を過大評価する原因はわかっていないけれど、あの頃の凡凡とした自分を見たらものすごい才能を隠してるなんて思うことはなかった様に思えた。
逆に、もし関わりあうきっかけがあったのならそれは。
「自分はね、赤坂さんって頭は良いけれど物凄く不器用な人だと思うんだ」
「なにをいきなり、どうしたの?」
「自分と渚と、下の名前を呼びあってるのは特に理由もなく、初めからじゃん?」
入学式の日からずっと、お互いに下の名前で呼ぶことは変わってない。特になんの賭け事もなく、けれども赤坂さんがそれを提案するには何らかのハードルがあった訳だ。
それの飛び越え方が赤坂さんには分からなかった、だから勝負の代償としてそれを選んだ。
「渚が休んでる間にさ、赤坂さんに下の名前で呼んでも良いかって聞かれたんだ」
「……へー、それで?」
「別に断る理由も無かったし、良いよっていったけれど」
美人で、勉強もできて、運動神経もいいけれど。赤坂さんは人間関係に疎すぎた。
下の名前で呼び合うことなんて、友達であればなんらおかしくないことなのに。
ならば自分と友達になってしまえばいいのに。
――友達になれば、下の名前で呼べる。
ああ、そうか。逆なのだ。そこに至って自分はようやく気づいた。
赤坂さんは自分と友達になりたかったのか。
そう思うと、やっぱり彼女はあまりにいじらしく、不器用すぎた。
本当に見抜いたのか、それともまぐれ当たりかは知らないけれど自分の実力を見抜いた底しれなさは、今となっては気にとめる必要もない気がした。
ならば今、自分が赤坂さんなら出来ることは何だろうか?
こういう役回りは渚の方が向いているけれど、でも赤坂さんに今一番近いのは間違い無く自分である。
「不器用だね、赤坂さん」
「ボクは努力しない人の方が悪いと思うけれどもね」
思わず苦笑いを漏らす。
彼女なりに努力してはいるのだろうけれども、それが遠回りだといえるのもまた事実だった。
「まあ赤坂さんのことはそこら辺にしてさ、部員どうするかってことでも考えようよ」
「……そうだね」
そちらの方が差し迫った問題であり、もう時間もあまり残ってない話であるからにして。とは言っても部員に心当たりはおらず、そもそも部活に後輩がいない時点で違う学年の友人なんて期待しないでほしいのだ。
同学年なら、といっても他クラスに広がるほど広い人脈を持ってるわけでもない、渚ならそれなりに立てはありそうだけれども。
渚に無くて、自分に有る繋がりを探すべき。
とは言ってもそんな都合のいい人居るだろうか?
居た。
居るじゃないか、1人だけ。一挙両得の素晴らしい解決が出来る人が。
絶対に無理そうだと諦めていたけれど、今ならば、もしかしたら。
「ねえ、渚」
「何?」
「もう一回、赤坂さんを部活に誘ってみない?」
渚がその時浮かべたあの表情。なんとも形容しがたい表情は、今となってもはっきりと思い出せるぐらい酷いものだった。