前の記憶があるからなんでもできる、というわけではなかった。ちゃんと努力しなければ身につかなきゃいけないものもある。
例えば字を書くこと、とか。
字は心の鏡、そんな言葉がある。
はたして自分がその言葉を本当に信じているかといえば、別にそうではないのだけれども、字が綺麗であれば良い印象を与えるのは確かであり、そうなれば自分が字を上手くしようと取り組む事もまた必然だった。
ただ前世と同じように文字を書こうとしても身体の勝手は違う、そこら辺の子供と同じぐらいブレブレの文字を見た時は愕然としたものだ。
ただ努力をしなければ前に進まないのは分かっていたし、それから逃避する気はさらさらなかった。
そんなこんなで悪戦苦闘しつつも、努力の果てに綺麗な字を手に入れることはできた。やれば出来る、至言である。
懐かしい思い出だ、もしかしたら今までで一番苦労して成し遂げたことはそれかもしれない。結局それは役に立ったとも言えるし、肝心な時に役に立たないということもあった。
テスト返しも終わり、普通に進行する英語の授業。ぼんやりとシャーペンを無駄にカチカチとさせながら、そんなことを振り返っていた。
現実逃避だとは分かっている、目の前にある手紙はどうしたって消えることはない。
教科書とノートの間に挟み込み、自分しか見えないその招待状。
『昼休み、旧校舎にある外付けされた非常階段の入り口に来てください』
そんな綺麗な字が踊っている。これが朝、自分の下駄箱の中に叩き込まれていた。
字は人の鏡。それが正しいのであるならば、この手紙の差出人はきっと素晴らしい人物なのだろう。
なんとなく推察する。
これは俗に言う恋文というものではないか? つまり、ラブレター。名前が書いてないことがちょっとだけ不安だけども、差出人がきっと素晴らしい人物なら多分嘘ではないはずだ。
たしかに指定された場所は人がほとんどいない場所だからうってつけではあるけれど、まさか自分が対象だとは世の中に物好きもいたものである。
何ともなしにこの恋文の相手を推測し、ノートの余白に書き出そうとして、手が動かないことにため息を吐く。
全くわからない、自分もまた人の好意に疎すぎる。
でも、もしかしたら。そう脳裏に浮かんだ人を書き――すぐ横線を引いて消した。
まさかそんなはずはないだろう、ブンブンと頭を振って考えを頭から振り落とす。うん、渚の推理であり本当はもっと別の理由があるはずだ。
「佐々木、56ページの一行目から読んでくれ」
「はい」
挙動不審だったせいか、教師に指名された。言われた通り、教科書を持って立ち上がる。
赤坂 舞
ノートに残る、消しきれないそんな文字。
●
さて手紙を貰えば行かないわけにもいかず。
どうせわざわざ外に行くのだからと、自分の手にはパンが入った袋が下げられていた。
春のうららかな日差しが差し込む絶好の散歩日和である。いつもなら教室で昼食を取っていたが、久しぶりに中庭にあるベンチで食べることにした。
今から向かう場所と違って晴れていれば人気があるスペースだけど、先に渚が場所取りに向かっている。
ちょっと用事があるから先に行っててと彼女に頭を下げたのが数分前、サクサクと早足で進むことであっという間に目的地に着いた。
案の定、周辺に人気はなく手紙の差出人もまだ来てない様子。立っているのも疲れるし、日陰になることを厭わず階段へと腰掛ける。
もしこれが告白だとしたら、誰だろうと振ることは確定していて、目下の悩みはお腹が空き過ぎていると言うことだった。
袋の中のパンをちらりと見やる。真っ先に目に留まったのは、あんぱん98円(税抜き)。ちょっとぐらい食べてもバレないだろうか、きっとバレないだろう。
そんな誘惑に負けてパンを取り出したところで、ようやく目の前に一人男子が立っていることに気づいた。
まじまじと視線を送られてるのに気づき、仕方なくパンをしまう。
無音でやってくるとはタチが悪い。そんな八つ当たりに近い感情に苦笑いを浮かべつつ、立ち上がった。
そんな目の前の男子には見覚えがあった。と言うのも当然だろう、彼は今のクラスメイトだったから。
確か犬飼なんちゃらとか言う名前。下の名前はうろ覚えだから定かではない、たしか孝志とかそんな名前だった気がする。
持っている印象は普通の男子。特に悪いところもなく、たまに会話することを見れば、普通よりちょっと上かもしれない。
ただまあ、それが好意に達するかと言われれば絶対に否。
「この手紙を私に出したの犬飼くん?」
手紙を指差して尋ねると、彼は素直に頷いた。
相手が赤坂さんと言う予想は外れたらしい、それでも別に構いはしないのだけれども。
「じゃ、ここまで呼んで私に何の用?」
「そ、その……」
なんともまあ顔を赤らめて初々しいことである、もし自分が女の子であったなら一緒に顔を赤く染めていたかもしれないけれど、残念ながら中身は男であるから別に興奮することもない。あゝ無情。
「一目見た時から気になっていました! ……ええっと」
緊張から考えてきた言葉が吹っ飛んだのだろうか、ええっとの後に続く言葉はなく、沈黙だけが場に残されている。
それを冷やかすかのようにひゅるりと風が一つ吹いて、俺は体を震わせた。
しかたがない、自分が言葉を促させるしかないか。
「で、私のことが気になってどうしたの?」
「えっと、ここに呼び出しました!」
「そう……」
普通に話が終わってしまった。
いや、そこから話を広げるべきだろうと突っ込みたいが、なぜか満足げな表情をしている彼にそれを言うのも憚られた。
「私、もう行っていいかな? お腹減ってるし昼ご飯早く食べたいんだけど」
「どうぞどうぞ、って待ってくださいよ!」
「犬飼くんはツッコミがうまいねえ」
あがり症なのをいれてトントンだが。
ようやく話が進みそうなのを見て、再び腰を下ろした。
「じゃあさ呼び出して何をしようとしたのかを教えてよ。呼び出して目的終わりっ、じゃないんでしょ?」
「……俺は貴女のことが好きなんです」
ようやく吹っ切れたのか、先程よりは男らしい顔つきになった。あとは手伝わなくても自分で最後まで言ってくれるだろう。
一つ頷いて、先の言葉を促す。
「だから貴女のことがもっと知りたくて、告白することにしたんです。遠くからじゃ限界があるから、そして自分の中にこの気持ちを留めて置くのは限界だったから」
「……そう」
「僕は貴女のことが好きです、だから付き合ってください」
そう言いながらも彼は悲しそうな表情だった。自分がまだ答えを言っていないのに、それを予知したかのように。
でも告白されたからには答えを出さなきゃいけない。その答えを経て、一つ終わって、そこから始まるのだから。その覚悟を背負った彼もここに立っているのだ、彼が本心をさらけ出したのに自分が逃げるのは卑怯だ。
「告白されたのは初めてだからちょっとだけ驚いたよ、でもそれだけ。ごめんなさい、私は犬飼くんとは付き合えない」
「……そうですか。うん、そっかあ」
ほんの数秒、彼は空を見上げて、またこちらへと視線を戻した。
「時間をかけてごめんなさい。だけどもう一つお願いがあるんです」
「なに?」
「告白して振られた身から言うのも差し出がましいことだけど、これからも友達として相手してくれませんか?」
「……うん、いいよ。こちらこそよろしく」
それは自分から言うべき言葉だったけど、初めて告白されることもあって、言うのを忘れていた言葉。
返事をせず、無言で頭を下げて彼は去っていった。
それをなんとなく見送っていると、彼は不意に振り返った。
「佐々木さん!」
よく通る声だ。ほんの少し距離は遠いけど、ちゃんとこちらまで届いている。
「最後に一つだけ質問なんですけど、いいですか!」
「いいよ、答えられる質問なら!」
「佐々木さんは、好きな人いますか!」
ほんの数秒、躊躇する。嘘をついて別にいないと答えてあげるべきか、それとも。そんな考えをよそに答えは自然と口から出ていた。
「いるよ!」
「……ありがとうございます!」
その言葉を最後に振り返ることなく彼は走って行き、校舎の角を通り過ぎて完全に姿が見えなくなった。
早く中庭へ行き渚と合流するべきなのに、いまだ階段に腰掛けたままだった。
初めて告白されて気づいたことは、される側もなかなかにしんどいと言うことだった。赤坂さんとか渚は度々告白されたとか告白したとかの話題は聞いていたけれども、平気な顔をしてこんなことを淡々とこなしているのだから、女子とは凄いものである。
もしかしたら告白されているうちに慣れるものなのかもしれないけれど、自分は何度告白されても慣れそうにない。
そんなことを考えていると、自分がなんで好きな人がいると答えたのか、そんなことに考えが移り変わっていった。
無駄な期待を背負わせたくなかった、だろうか?
それは俺が身に染みているから、叶わない恋ほど辛いものはないと、心の底からわかっていたから。
俺が俺である限り、彼の恋が実ることはない。
それこそ記憶が吹っ飛びでもしない限りは。
「……そろそろ、行くかー」
うんと伸びをしてスマホを取り出す。告白なら直ぐに終わるかと思っていたけれど、予想以上に時間がかかった。
「隣、いいかしら」
「ああ、すいません。いま退きますんで」
立ち上がろうとしたところで後ろから声を掛けられた。非常階段を使って上から降りてきた人がいるらしい、ちゃんと道は半分開けてるのに、そう思いながら顔だけ振り返る。
瞬間、顔が引きつった。聞き覚えがある声だなとは思っていた、ただその先まで考える余裕も時間もなかった。
そんな自分をさておいて、彼女は俺の隣に腰掛ける。
「なんで私がこんな場所にいるのかって顔してるけど、習慣、つまり偶然よ」
「そ、そうですか……」
「まあ偶然会ったことも何だし、お話しましょうか」
絶対に逃がさないという意思を込めた笑顔に、自分ができることはただコクコクと首を振ることだけだった。
手紙の差出人は彼女ではなかったけれど、結果として待ち構えていたのは初めの予想通り赤坂 舞、その人であった。