昔々、とはいってもそれほど遠い昔ではない。人類が初めて、自らの力で空へと飛び立ってから少しした頃の話である―――
「天使の国」と呼ばれる国があった。本当に天使が棲むわけではなかったが、そんな呼ばれ方をするだけの理由がある。どんな国よりも、人々の空にかける思いが強かったのだ。
気球、飛行船、そして飛行機。人を空へと運ぶ技術の研究が盛んで、もちろんどこよりも進んでいた。狂ったように空を目指す姿が、天へ帰ろうとする天使のようだと、近隣諸国から尊敬と皮肉を込めてそう呼ばれるようになったのだ。
そんな「天使の国」を支えているのが、国の中枢を担う優秀な頭脳たちと、それを育てる教育機関だ。
とりわけ、幼少期から高等部、あるいは大学までを一貫教育とする「学園」と呼ばれる四校は、トップクラスの人間を世に送り出す教育機関として知られている。政治家、資本家、発明家、技術者、そうした職業になりたいと望む者は、すべからくこの学園で学んでいる。一種のステータスではあるが、入学も、進学も、厳しい試験が課される。この学園を卒業できるということは、相応の学力を身に着けているという証明にもなるのだ。
ただ、元は貴族の子息令嬢のために設立された教育機関である。階級制度の廃止によって、表向きはあらゆる人間に対して開かれていることになってはいるが、いまだ当時の名残がある。高額な入学金が事実上の足切りになっており、よって入学者は元貴族階級か政治家、財閥などの子息令嬢に限られる。一般階級に唯一開かれた特待生は、年に数人しか合格しない狭き門であった。
秀知院学園もそうした学園の一つである。幼稚園から大学までが揃った一貫校、学園の中でも最も古い歴史を持つ学校だ。歴史と伝統ある学校であり、貴族の頃から代々この学校に通っているという家も少なくない。
であるから、爵位持ちの貴族出身であり、四大財閥の一つ「四宮」の令嬢である、四宮かぐやが秀知院学園に通うのは、ごくごく当然のことであった。
高等部二年。家柄もさることながら、かぐや自身の輝かしい来歴もあり、学園の中でも一目を置かれるほどの少女だ。容姿端麗、博学多才、絵に描いたようなお嬢様である。
そんなかぐやは今、高等部の学舎を出て、どこかのんびりと、学園の第二運動場を歩いていた。
白い空気を孕んだ風が抜けて、運動場の草を揺らす。冬の香りを漂わせ始めた風が、コートの上からかぐやの身体を刺した。寒い。せめて風を防げるところへ行きたいものだ。
コートの前を一層合わせ、白い息を吐きながら、かぐやは歩き続ける。目指す先は一つ。第二運動場の端、学園のもっとも奥まった場所にある、随分と痛みの入った倉庫だ。およそ四宮かぐやという少女に似つかわしくない風情だが、あそこがかぐやの目的地で間違いない。
倉庫には、すでに明かりが灯っていた。普段は真っ暗で、事実半年前まではただの物置倉庫であったが、今はそこに明かりを灯す人間がいる。かぐやもその一人に変わりはないが、大抵はある一人であった。かぐやが要件のある人物でもある。
わずかに開いた倉庫の隙間から、かぐやは中を窺った。予想通り、中には白銀御行がいた。床にシートを広げ、何やら模型らしきものと格闘している。
かぐやと同じく、高等部二年。この白銀御行という男子もまた、かぐやに負けず劣らず有名な人物であった。秀知院学園には特待枠で高等部から編入してきた所謂「混院」、外部生である。それも、かぐやから学年一位を奪うほどの秀才ときた。
何より、白銀を有名にしているのが、彼がこの倉庫で行っている活動である。
さて、知力、知名度、ともに学園随一の女子と男子である白銀とかぐや。だが元々、二人にはこれと言って接点はなかった。お互いのことを風の噂程度に耳にすることはあるものの、クラスが違えば学園で接点など生まれない。
そんな二人の出会いは、半年ほど前に遡る。その時のことを、かぐやは今でも鮮明に覚えていた。
◇
ボーイ・ミーツ・ガール。所謂「親方、空から女の子が!」系文学が流行るのは、空への憧れが強いこの国で必然的なことであった。予想だにしない出会い、突然の非日常、そうしたものに焦がれ、多くの者が本を読む。それは真正のお嬢様であるかぐやも相違ない。
だが、かぐやと白銀の出会いは違う。むしろ、その逆だ。当世の流行に正面から逆行している。
ガール・ミーツ・ボーイ。空から降ってきたのはかぐやではなく白銀の方であり、変哲のないかぐやの日常を鮮やかな非日常へと変えたのもまた、彼に他ならなかった。
春の日差しの中、かぐやはその日、何とはなしに学園の運動場で佇んでいた。目的もなく、ただ無感情に、風に揺れる草を眺めていた。
その時である。
「危ないっ!」
声が頭上から降ってきたと思った時にはもう遅かった。大きな影がかぐやに迫る。あまりに急な出来事に腰が抜けて、草の上に倒れ込んでしまったほどだ。
かぐやの頭上を掠めた何か。それこそが、白銀の操るグライダーであり、警告する声の正体が白銀御行であった。
「怪我はないか!?」
「え、ええ」
数メートル先に着地するなり、慌てて駆け寄ってくる白銀。答えるかぐや。それが、二人の交わした、最初の言葉である。
白銀は終始おろおろしていた。余程こちらのことが心配なのか、痛いところはないかと執拗に訊いてくる。そのせいで逆に冷静になったかぐやは、白銀が空から降って来た理由に思い至った。
航空研究会。最近、白銀が中心となって設立された、学園の研究組織である。当然ながら、その研究対象は航空技術、具体的には飛行機だ。会員は三名。かぐやの友人でもある藤原千花と、一年生の男子が一人。
学園の中で、白銀がグライダーを飛ばす理由など、航空研究会の活動以外に考えられなかった。
グライダーを引きながら歩く白銀に、「せめてお茶ぐらい出させてくれ」と誘われたかぐやは、そのまま会の研究室まで案内された。
薄暗い倉庫。簡素な照明。裸のガスコンロ。用意された椅子と机も、どこかから引っ張って来たらしい、古いもの。出されたお茶は白銀が淹れてくれたもので、それも普段家の給仕が出してくれるものとは、比べ物にもならない。
けれども、決して悪くないものに、かぐやは思えた。
煩雑で、ともすれば薄汚い倉庫の景色が、かぐやにはとても新鮮なものだったのである。それがかぐやのうちに燻っていた好奇心を刺激した。
だが何よりも、決定的だったのは、航空研究会について語り出した白銀の表情であった。
話を持ち出したのはかぐやである。俗世とはかけ離れた、狭い箱の中で育てられたかぐやとて、年頃の少女。飛行機の研究をしている研究会の創設者であり、今少し前に空から舞い降りてきた男の話が気にならないわけがなかった。
そして案の定、白銀の空にかける想いは、並大抵のものではなかった。時に情熱的に、時に理論的に、空とは、飛行機とはを熱弁する白銀の表情が、眩しかった。有り体に言ってしまえば、その熱量に当てられてしまったのである。
かぐやが研究会への加入を決めるのに、それほど時間はかからなかった。入会と同時に倉庫を訪れたかぐやに対し、白銀は不敵な笑みを浮かべていた。
「ようこそ、航空研究会へ」
◇
白銀との出会いを回想しているうちに、コンロにかけていたやかんでお湯が沸く。紅茶を振舞おうと、かぐやが沸かしていたものだ。とりあえずは二人分。まだ現れていない藤原と石上には、来てからもう一度淹れればよい。
お湯が程よく冷めるのを待ち、まずはカップを温める。それからお湯を茶葉の入ったポットへ入れ、しばらく待機。長年の勘でタイミングを計り、かぐやは二人分の紅茶を注いだ。今回もいい出来栄えだ。
「会長、お茶が入りましたよ」
「ああ、ありがとう」
模型と格闘を続けていた白銀が立ち上がる。かぐやが紅茶を淹れるのは、休憩の合図だ。そんな暗黙のルールが、この半年で形成されている。
二人で席につき、カップを取る。お茶請けなどない、質素なティータイム。しかしこれこそが、この研究会の日常である。
「ああ。四宮の淹れる紅茶はうまいな」
一口飲んだ白銀が、深い息を吐くとともに、呟く。かぐやは薄く微笑むことでそれに応えた。
「今日は何をされていたのですか?」
「そろそろエンジンを見建てようと思ってな」
白銀は背後を振り向いて言う。
半年前までガランとしていた倉庫には今、白銀たちが制作した飛行機の模型やグライダーが並べられている。しかし、それらよりも遥かに多くの床面積を占有しているのが、倉庫の中央に鎮座する一機の機体。実寸大の航空機である。
基本設計は白銀。木製布張り、単葉の機体である。必要な資材は、学校で出た廃材をもらう、あるいはかぐやや藤原の所有する山から材木として切り出すなどして確保していた。ここまで製作するのに、学園から支給された活動費と、各所から集めた支援金の半分も使っていない。というのも、残った予算は全てエンジンの購入に費やすつもりであったからである。
白銀はいよいよ、エンジンの見積もりに入ったのだ。
「近々、中古の航空機部品を扱う見本市がある。そこなら予算内でそこそこの性能があるエンジンを見つけられるだろ」
「なるほど。でしたら、誰が参加するのかを、決めなければいけませんね」
「そうだな。それはまあ、四人揃った時に決めればいい」
何気ない会話とともに、カップの中身が減っていく。残る二人の会員が現れるまで、二人きりの時間が穏やかに過ぎていった。
エンディングは、最後のところが好きですね。歌詞もそうだけど、起こされたかぐや様がふんわり笑うところが何とも言えない・・・