「こっち」
指差しで先導しながら、少女は明かりに乏しい廊下をすいすいと進んでいく。
ゴーストは銃のサーチライトで行く先を照らしつつ、従うままに歩いていた。
(奇妙な子供だな。こんな環境なのに全く怖がらないなんて)
明滅する電灯。不気味に反響する足音。白磁の壁を悪趣味なアートに変えた血痕の数々に、容赦なく鼻腔を突き刺す腐臭。貪られた死骸のフリーマーケット。
泣きだして蹲ったって、誰も責めやしない地獄街道の真っただなかだ。
にもかかわらず、少女は怯える様子など微塵も見せなかった。どころか勇猛果敢に先陣を切り、ハンクの元へ一刻も早く導こうと邁進しているほどだ。
(この惨状だ。隊長に保護される過程で、きっとたくさんの地獄を見てきたんだろう。感受性の強い子供なら心が麻痺してしまっても不思議じゃない。しかしどうも引っ掛かる)
銀箔の髪を肩まで靡かせ、瞳に黒曜を宿すこの少女は、
ひとつまみの不思議が脳裏に積もる。塵芥程度でしかないものの、清掃された部屋の隅で存在感を放つ埃のように、どうにも気になって仕方がない。
「……君はどうして隊長に保護されたんだい?」
ゴーストはぽろりと零すように言った。
立ち止まり、小首を傾げる少女。
「……?」
「あぁごめん、混乱させちゃったかな。そうだよな、君みたいな子供が俺たちの事情を知るわけがない」
「?」
きっと、保護の『理由』を知らされていないのだろうと推測する。
そもそも子供に小難しい事情を教える必要はない。ましてやU.S.Sのような、裏社会的側面を孕む組織であればなおさらだ。
ゴーストはU.S.Sに入隊して日が浅い。そもそも今回が初仕事だったくらいの新入りだ。隊員の事情に精通しているとは言い難い。
それでも噂ながらに耳にはしていた。同隊所属ながらあらゆるプロフィールが謎に包まれた男の、唯一知れ渡っている素性――『死神』と呼ばれるその
いわく、ハンクはアンブレラの命令を第一とする兵士である。目的を達成するためなら如何なる手段も選ばない。例え味方が負傷しようと、それが任務遂行の弊害となるなら即座に切り捨てる人物だ。
逆に、彼にはそれが出来る並外れた判断力と精神力が備わっているということになる。
だから彼は生き残る。どれほど過酷な戦場だろうが、仲間が全て息絶えようが、彼だけは必ず生きて帰る。
その人物像と数多くの実績が、彼に『死神』の異名を与えたのだ――と。
(実際、隊長は俺たちと同じ人間かどうか疑わしくなる時がある)
初めて相対した時、噂に違わず――いいや、噂以上に冷たく静かな、氷に近い印象を受けたことを鮮烈に覚えている。
人間味という暖かさを徹底的に排除して出来ているかのようだった。例えるなら機械だ。人間と同じ素材で造られた機械のようだと、ゴーストは寒気と共に感じていた。
(そんな隊長が理由も無く子供を保護するとは思えない。もしかしたら、俺のような末端が知る由もない任務を抱えているのかも)
ただでさえハンクは謎が多い。ゴーストが知らない裏事情のひとつやふたつ、持っていたって不思議ではないだろう。
そうこう思案しているうちに、ノースエリアから中央区画へ続く橋まで辿り着く。
「あれでしたにいくの」
「非常用エレベーターか。よし、早く隊長の元へ」
「ッ! はしって!」
「え?」
突然甲高い声を張り上げた少女に、何事かと呆気に取られるゴースト。
しかしその呆気は、更なる驚愕に塗り替えられることとなる。
オウム返しを口にするより先に、上方から衝撃を感じるほどの大音響が轟いた。
鋼鉄の壁がひしゃげ、無理やり叩き割られたかのような波濤だった。莫大な音は兵士の反射神経に火を焚きつけ、即座に銃口をもって補足させる。
ゴーストたちが数秒前まで立っていた場所へ、音の根源が姿を現す。
重々しく巨大な影が破壊と共に降ってきた。
「■■■■■■■――――――――ッ!!」
死人のような灰の肌。殺意を漲らせるおぞましい顔貌。ゴーストを見下ろすほどの堂々たる筋骨隆々な肉体。
そしてなにより、手榴弾によって刻み込まれたケロイド状の火傷痕。
ハンクがかつて撃退した最強の生物兵器が、空気を揺るがすほどの雄叫びを爆発させながら君臨する。
「こいつまさか、T-103か……!? 馬鹿な、何でこんな!」
「はしって、ごーすと!!」
少女の声がゴーストの雷管を打ち抜いた。
脱兎の如く橋を駆ける。床を踏み抜かんばかりに脚力を振り絞って、全身全霊で疾駆した。
遅れて背後から規則正しい重低音が迫ってくる。追いつかれれば最後、鉄柱すらへし曲げる怪力で人間を容易く挽肉に変えてしまう死の魔物が。
「はやく!」
いつの間にかエレベーターに到着していた少女が兵士を呼んだ。ゴーストは我武者羅に走り抜け、エレベーターの中へ滑り込む。
間髪入れず少女が降下のスイッチを押す。ドアは静穏を奏でて閉まり、下層へ移動を開始した。
瞬間、エレベーター全体に衝撃が走った。タイラントがその巨体を駆使し、一切のブレーキを掛けず体当たりを見舞ったのだ。
重機に匹敵するインパクトはシステムに障害をもたらしてしまう。エレベーターが緊急停止を引き起こし、慣性の法則を嫌というほど体感した。
「ちくしょう止まりやがった! あと少しだってのに!」
あと数秒猶予があったなら、彼らを乗せた揺り篭は何事もなく目的地に到着していたはずだった。
だが現実は最悪だ。下層まで1m以上距離が足りない。半ば合流しているドアをこじ開けても、せいぜい少女を潜らせるので精いっぱいだ。
かといって天井の非常口も使えない。T-103が上層のドアをこじあけ、エレベーターに降り立ってくるのも時間の問題なのだ。
「駄目だ、逃げ場が無い! エレベーターをぶち破るしか……!」
銃のセーフティを外し、強化ガラスへ照準を当てる。
上から打撃音が波のように伝わってくる。上層のドアが破られたら、最後のバリケードはエレベーターの天井だ。しかしそんなものは紙の盾に等しい。T-103は易々と天井を突き破り、狭苦しいポッドの中でいとも容易く二人を殺害するだろう。
汗が伝う。喉が干上がる。
死の緊迫が、限界まで交感神経を昂らせる。
「頭を庇って身をかがめるんだ! 跳弾に当たるぞ!」
「だいじょうぶ」
ほんの一瞬、電気が燥いだ音がして。
引き金を絞りかけた刹那、エレベーターが息を吹き返した。
ガクンと伝わる振動を受けて思わず引き金から指を外す。
何が起こったのか理解出来ず、ゴーストは少女の方を見た。
止まっていたはずのエレベーターが目的地に到着していた。
いつの間にか緊急ロックが解除されている。何事も無かったかのようにドアを開き、ハンクへ続く道筋を繋げているではないか。
「ッ」
どうして動き出したのか――そんな理由を考察している暇も余裕も無かった。
ただ走った。拓かれた存命の道へ身を投げるように、ゴーストは少女の手を引いて、猛然と通路を走り抜けた。
足音を聞きつけたか、どこからともなく感染者たちが現れる。その悉くを無視し、避けられぬモノだけ機関の咆哮で丁重にもてなしつつ、息が切れるまで突っ切った。
止まれば死ぬと心臓で感じた。新米たるゴーストでもタイラントがどんな兵器かは知っている。アンブレラの看板娘にして、戦車に匹敵する戦力を持った化け物だ。
しかしそれ以上に顔を合わせて実感した。無色透明の殺意を抱く瞳を見た時、この上なく実感したのだ。
アレには勝てない。ただの人間が豆鉄砲で勝てる存在じゃあない。生物として格が違い過ぎるのだ。
ゴーストの本能が、けたたましい警報を打ち鳴らしていた。
「お嬢ちゃん! 隊長の居場所はどっちだ!?」
「いちばんおく!」
眼前へ飛び出してきた感染者の膝を打ち、蹴り飛ばしながらゴーストは叫ぶ。
少女の案内に従って、ゴーストは通路の一角に飛び込んだ。
即座に鍵を掛け、ドアを抑える。
息を殺し、耳を澄ませ、追手の気配を探っていく。
「……ふぅ。大丈夫だ、ヤツらは追って来ていない」
脱力。肩に乗っていた鉄の重りが剥がれたかのような心地だった。
張り詰めていた線がゆるむ。深い吐息が自然と漏れていく。
無理もない。たった一回でも噛まれれば死なのだ。例え歴戦の老兵だろうと、動揺を持って然りと言える。
「ごーすと」
「ああ」
亡者の群れを掻い潜ったというのに、相も変わらず怯えもしない少女に一粒ばかりの不気味さを抱きながら、ゴーストは部屋の奥へ歩を進める。
広い部屋だ。PCの数からして個人研究室のようだが、かなりの面積である。豊富な器材を与えられているところをみるに、それなりに優秀な研究者だったのだろうか。
アメリカ――いいや、アンブレラらしい実力主義の表れと言えるだろう。
(馬鹿デカい柱みたいなガラス容器が鉄で出来たタコ足に絡め取られてるような機械が鎮座してる。培養器、ってやつか? ……この子はここが自分の部屋だといっていたが、家主は何を作っていたんだ)
ゴーストは生化学や遺伝子工学の専門家ではない。目に映る多種多様な機器がどんな働きをするのか見当もつかないが、人間として行ってはならない禁忌の気配は濃厚に感じとれていた。
得体の知れない悪寒を覚えると共に、
そんなことより、もっと重要な問題がある。
「隊長!」
休憩用と思しき真っ黒なソファーで、ハンクは横になっていた。
弱っている。一目でわかった。意識もなく、今にも途切れそうな呼吸を繰り返すだけのハンクからは、どんな状況だろうと必ず生き延びてきた『死神』の覇気など感じられない。
手早く処置に取り掛かる。衛生兵でないがゆえに専門的な治療は施せないが、兵士として最低限の応急処置は心得ていた。
「内出血が酷過ぎる。なんて打撲だ、まるでサンドバッグじゃないか。こんな体でよくここまで……」
幸い、体幹に目立った外傷は見当たらなかった。代わりに腕や足が手酷くやられている。
恐らく弱点へのダメージを四肢で防いできた結果だろう。もし心臓や肺といった重要器官が敷き詰められた胸腔にダメージを負っていたら、流石のハンクも助からなかったに違いない。
むしろ生きている現状は、ハンクがそれほど致命を躱せる優秀な兵士という証左である。
「はんく、だいじょうぶ?」
「ああ。安心とは言えないけど、骨も折れてないし内臓に大きな傷もなさそうだ。休めばきっと回復するよ」
もっとも、常人ならば立って歩くことも困難な怪我ではある。同じU.S.Sのゴーストですら、今のハンクと同じコンディションで動けるかと聞かれれば苦笑いする他にないくらいだ。
整った医療を施したいのはやまやまだったが、今のNESTは生者より死者の方が多い。おまけに医者でも何でもないゴーストに出来る治療なんて限られている。
今は睡眠こそが最大の薬と言えるだろう。
休息し、疲労を清算するひと時こそが、この場においてもっとも重要だ。
◆
「君も少し休むといい」
火器のメンテナンスを行いつつ、ソファーの上からハンクを心配そうに覗き込む少女にゴーストは言った。
「隊長は……ええと、頑固な人で有名でね。仕事人と言うべきかな。きっと目が覚めたらすぐに動き出す。そうなったら休む暇なんてそうそうないだろうし、NESTがこの有様だ。次に保証できる安全はない。今のうちに眠っておいた方がいいと思う」
「……」
「見張りは俺がやっておくから、安心してくれ」
「ごーすと、こわいの?」
心臓に針をちくりと刺されたように、ほんの少しだけ肩が動いた。
一拍ばかりの沈黙が生まれる。ゴーストは銃身を拭う手を止めて、視線は向けないまま独り言ちるように言った。
「怖いって、何が?」
「ふるえてる。はんく、ふるえてなかった。こわい?」
――少女の言う『震え』とは、きっと体が恐怖に揺れ動くことを指しているのではない。そも、ゴーストは身震いなどしていない。
生体電気の乱れ。肉眼では捉えられない精神面に発生した幽かなノイズ。少女はそれを言っているのだ。さながら噓を見抜く脳波測定器のように。
しかし『LISA-001』の正体を知らないゴーストは、子供特有の鋭い直感かと誤解する。
けれど、だからこそ、ゴーストは胸に溜まった汚泥のような本心を、幼い少女へ吐き出せた。
「……怖いというよりは、後悔かな。悔いてるんだ」
「?」
「いや、すまない。こんなこと君に言っても仕方のないことだ。今のは忘れてくれ」
雑念を払うように頭を振る。少女の瞳は、ゴーストから外れようとしなかった。
「ううん。はなして。むしろはなすべき」
「え?」
「んとね。わたし、あたまわるいから、ごーすとのいってること、ぜんぶはわからないんだ。けど、だからいいとおもうの。はなしたらきっと、すっとするよ?」
「はは、ありがとう。でも気遣いなんかいらないさ。これは俺の問題だ」
「いいたいこと、はっきりいえってはんくがいってた」
拙く、舌足らずな幼い言葉を覗かせる。
僅かな語彙を必死に集めて、少女は励ましの言葉を紡いでいた。
それはひとえにハンクから学んだ経験がゆえに。血みどろの地獄に相応しくない、無垢な心を持つがゆえに。
「……そうか。隊長らしいな。ああ、隊長が言ったのなら、それが正しいに違いない」
空笑いを飛ばし、天井を仰ぐゴースト。
無邪気が染みるようだった。一点の曇りもない、真っ白な善意だからこそ揺り動かされるナニカがあった。
割れたレンズの奥が、もの悲しい後悔の青を帯びていく。
「ここから先は独り言だ。君がお昼寝をしてると思って喋る、ただのちっぽけな独り言だ」
「うん」
「…………実は、仕事でミスをしたんだ。どれだけ謝ったって許されないくらい大きなミスさ。お偉いさんからクビ飛ばされた方が百万倍マシって言えるくらい、でっかいでっかいヘマをやらかしたんだ」
時刻にして3日ほど前の出来事が、脳裏へ鮮明に浮かんでくる。
ウィリアム・バーキンを包囲し、連行しようと詰め寄った一部始終。
ゴーストにとって、呪われた初仕事の追憶が。
「俺たちがNESTに来たのは、偉い学者さんを連れて帰るよう命令されたからだ。それが俺にとって初めての仕事だった。別に、難しくもなんともない仕事だったんだ。マッドなワーカーホリックをボスの所へ連れ帰るだけ。子供のおつかいみたいなモンさ。――それを、生物災害にまで変えちまったのが俺だ」
苦虫を口いっぱいに噛み締めたように、ゴーストは視線を落として吐き出した。
「自分でも何でやっちまったのかは分からない。ただ、博士に銃口を向けられた途端、ヤバイって思ったんだ。撃たれたら死ぬって、背中に嫌な汗が流れたんだ。戦闘服を着てるから、9mm弾程度じゃよほど当たり所が悪くない限り死ぬことはない。でも駄目だ。ブルッちまったんだよ。気づいたら引き金を絞ってて、博士は真っ赤な蜂の巣になっていた」
「……」
「あんなに怒ってる隊長は初めて見たよ。氷の彫像みたいなあの人が、それはもう凄い剣幕でさ。正直、素直に撃たれてた方がマシだと思ったね。実際ソッチのほうが遥かに良かったし、あの時の俺は間違いなく、サイアクの選択をしちまったんだ。隊長が怒鳴り散らしたのは正しかった。むしろそれで済めば、どれほど良かったことか」
悔いを吐く。後の過ちを嘆き叫ぶ。
けれど、起きてしまった過去を変えることは出来ない。この三日間で残酷な現実を誰よりも身に沁み込ませた彼だからこそ、ゴーストはやり場のないやるせなさに拳を握り込んだ。
「結果、バーキン博士が死に際に変異して、俺たちの部隊は壊滅。そのせいでクソッタレ殺人ウィルスがバラ撒かれた。あとはもう、御覧の有様だ」
皮肉を交じえた慟哭だった。
涙はない。だがそれは、間違いなく慚愧の叫びに他ならなかった。
自分の些細なミスが、仲間どころか広大なNESTで働く大勢の命を奪ってしまったのだ。
その事実、罪悪感は、並の人間に耐えられるほど軽い責ではない。
後悔の念に押し潰されたっておかしくないのだ。鍛え抜かれた屈強な兵士だろうと、ひとたび戦禍という地獄へ赴けば、PTSDを患い廃人となってしまうことも珍しくはない。
だというのに、自分そのものが地獄を生み出す元凶になったなど、いくら汚れ仕事を担うU.S.Sだろうが耐えられる所業ではない。
ましてや、入隊したばかりのゴーストが背負える十字架であるものか。
「ああ、そうだ。そうなんだよ。この地獄を作ったのは、俺なんだ。お、俺が、NESTを化け物の巣に変えちまったんだ。俺のせいで、仲間や関係のない人々が大勢死んだ。あの時、俺がビビッて博士を撃っちまったからっ……!」
頭を下げ、震える両手で顔を覆う。
大人の男が小さく見えた。少女を見下ろすくらい大きいはずなのに、とてもとても小さく見える。
圧し掛かる幾千幾万の責任に、ミシミシと押し潰されていくかのような背中だった。
自業自得とはいえ、それは一個人に押し付けるには、あまりに惨すぎる十字架で。
「……君、家族はいたのかい?」
顔は上がらない。
手で覆い、俯いたまま、ゴーストは絞り出すような声で問いかけた。
「君の境遇や生い立ちは知らないけれど、もし、ここに家族と呼べるくらい愛する人がいたのなら、すまなかった。全部俺の責任だ。君から一生恨まれたって仕方のないことをした。殺されたって文句は言えないくらい酷いことだ」
「……」
「すまない。本当にすまない。謝ったって許されることじゃない。本当に、なんて言えばいいか」
「ごーすと」
ぺたぺたと、小さな足音が近寄ってくる。
ゴーストの傍に立ち止まって、少女は隣へ静かに腰を下ろした。
「わたしね、むずかしいこと、まだよくわからないの。でも、ままがああなったのがごーすとのせいなら、ぜったいぜったいゆるせない」
「……ああ、その通りだ。絶対に許されることじゃない」
「でも、でもね。はんくがいったの。つねに
白い小さな手が、そっと膝に添えられる。
「きめたの。ままがしんじゃったこと、むだにしないって。だから、いまはなかなおり」
ゴーストは、油を差されたブリキのようにゆっくりと、頭を引き上げ目を合わせた。
驚愕に染まる、男の顔。
「き、みは。許してくれると、言っているのか?」
「……うん」
「君のお母さんを、殺してしまったも同然なのに……!? それでも君はっ……!」
「じゃあ、こうする。んしょ」
ぺちん、と。
小さな衝撃が、ゴーストの頬を走り抜けた。
屈強なガスマスク越しではほとんど何も感じないくらい、小さな小さな平手打ち。
酷く重く感じた。バーキンの一撃も遥かに超えた、魂に響く重みを伴っていた。
「いまはこれでおしまい」
「……っ」
「おそとにでたら、ままとあめのおじさんに、いっぱいいっぱいあやまってね。やくそく」
静かに差し出される、柔らかな五指。
幼くも確かな強さを宿した手のひらは、その小ささに似合わないくらい、遥かに大きなものだと感じた。
無論、少女とて完全に許したわけじゃない。これは一時休戦の握手だ。
今は争っている場合ではないと少女が理解したから、間接的にも母の仇であるゴーストを咎めずにいられるのだ。
闇の泥底を這いまわり、幾度の死別を乗り越えて、それでも前を向けるようになれたからこそ、仮初であっても少女はゴーストを赦せたのだろう。
ハンクと出会ったばかりの頃なら、我を忘れて暴れ回ったに違いない。
ゴーストもそうだ。例え赦すと言われようが、彼の立場を鑑みるに、救われたというにはあまりに烏滸がましい言い分である。
しかしそれでも、間違いなく。暗雲に閉ざされ、心臓に杭を打たれたようだった彼の心を、ほんの少しでも解きほぐせる一条の天日と成り得たのだ。
ゴーストは、優しく少女の手を握り返した。
「ああ、ああ! 約束する、絶対に償うと約束するよ……!」