「出来たぞ。さぁ飲んで」
「や」
「そう言わずに。ほら」
「や!」
「大丈夫だって全然苦くないし。甘いぞー」
ガスマスクを外し素顔を露わにしているゴーストは、小さな薬包紙を摘まんで中身を口へ傾けた。
カラフルな粉がサラサラと流れ込んでいく。ゴーストは喉を鳴らして呑み込み、軽快な笑顔を浮かべて口の中が空っぽになっているのを見せた。
「な? 大丈夫だって。ただの甘い粉だから」
「……ほんと?」
「ホントさ。この通り俺は平気だ」
「にがくない?」
「全っ然苦くない」
少女に差し出される薬包紙。
紙の上には緑、赤、青の三色に別れた色鮮やかな粉末が乗っていた。どうも乾燥した植物を砕いたものらしい。
少女は恐る恐る、さながら初めて見る奇妙な生物と触れあうような慎重さで薬包紙を摘まむ。
しかし自分で飲む勇気がなかったのか、ゴーストへ薬包紙を渡して目を閉じつつ、あーんと大きく口を開けた。
眉間に皺が寄っている。覚悟を決めたから入れてと言っているらしい。
ゴーストはすかさず流し込んだ。少女はギョッと眼を見開いた。
「~~~~っ!? にがっ、にがいーっ! うええ、ごーすとうそつき!!」
「はは、騙してごめんよ。確かにこいつはサイアクな味だ。でもよく効くんだ。すぐに傷が治る君でも、体にかかる負担を減らすことは出来るはずなんだよ。隊長に迷惑かけたくないだろう? だからな、ほら、あと半分我慢して」
「んうぅぅぅ~~!!」
目元に涙を浮かべながら、残った薬を一息に呑み込む少女。
けほけほと咽つつ、ゴーストから貰った柑橘の缶ジュースを流し込んで何とか攻略に成功した。
粉末の正体は、ラクーンシティ近郊アークレイ山地に自生する
身体機能の改善、治癒能力の促進といった東洋医学的効果があり、種類によっては解毒作用を持つものもある。
ラクーンシティでは古くから馴染みのある薬草だけあってか、NESTでもそこかしこで栽培されていたらしい。
きっと応急処置用だろう。それを拝借し、粉薬として加工したのがこれである。
ただし、味は子供舌を震え上がらせる脅威だったが。
「よしよし、偉いぞ。頑張ったご褒美だ、好きなのを選んでくれ」
ポーチから茶褐色のビニール袋が次々取り出されていく。かなり詰まっているのか、中身の輪郭が浮き彫りになっているものばかりだ。
パッケージの表記はMRE。即ち
「これはチョコレートバー、ウェットブレッドとピーナツバター。こっちはグリルチキンだな。あとはミートソースパスタと……ビーフシチューくらいか」
「? ??」
MREは戦地での栄養補給と士気の維持に貢献するため、1980年代と比べればかなり改良されている。
が、一般的な食事として見ればかなり劣悪な部類だ。見た目も味も劣るのはしかたない。
しかし、少女の眼はそういった期待外れの眼差しではなく、まるで異国の奇特な料理を目の当たりにしたかのような、怪訝に満ちた眼差しをしていた。
「……もしかして、食べたこと無いのか?」
「? うん」
「パスタも? 全部?」
「ぱすたってなぁに?」
きょとんとする少女。思わず目を泳がせるゴースト。
当然と言えば当然だった。彼女は兵器で、人間じゃない。
食堂のカウンターで小銭を出し、プレートに乗せられたジャンクフードとコーヒーのモーニングセットを静かに味わいながら眠気を覚ます――そんなごく当たり前の経験すら存在しないのだ。
きっと、例のゼリー飲料だけで過ごしてきたのだろう。
彼女の開発者が何かしら食べているところを見かけたかもしれないが、口にする機会はなかったのだ。
「……よし。じゃあパスタとシチュー、ブレッドを開けよう。気に入った奴を食べると良い」
幸い、この医務室で器には事欠かない。棚から手術用トレイを取り出し、ひとつひとつ盛っていく。
本来食器として用いるべきものではない金属プレートばかりだが、だからこそ滅菌もしっかりしている。ある意味、普通の食器より清潔かもしれない。
「このドロドロした汁物がシチューで、こっちの細い奴が纏まってるのがミートソースパスタ。で、これがパン」
念のため『LISA-001』用に小分けしてから渡す。
もし彼女が口に合わないと残した場合、それを処理するのはゴーストだ。『LISA-001』がウィルスで造られた兵器である以上、感染を避けるために同一の食器を使うことは出来ない。
真空パックからスプーンとフォークを出して少女へ渡す。しかし道具の使い方が分からないからか、木の枝でも貰ったかのようにしっかり握って受け取る少女。
ゴーストが使用方法を教えると、少女はすぐに理解した。慣れない手つきながらパスタを絡ませ、慎重に口へと運んでいく。
「……おいしい!」
「おっそうか。じゃあきっとこれも気に入るだろう」
苦い薬を飲まされたせいで半信半疑に包まれていた少女の顔は、見違える笑顔で満たされた。
ジェル状栄養剤以外に口にするのは初めての体験だ。味蕾に絡みつくソースの旨みは、疲れも相乗してか、例え軍用であっても格別に感じる。
気付けば容器は空っぽだ。名残惜しそうにソースを掬う様子を見て、ゴーストはパン以外を全て少女に差し出した。
付属薬品の化学反応でレーションを温めていく。少女は今か今かと待ちわびつつ、医務室の奥で椅子に腰かけながら見張りに徹するハンクに目を遣った。
「はんくはたべないの?」
「もう済んでいる」
あっさり両断された。
言われてみれば、傍の机に食べ痕のパッケージが放られている。
スティック状の食品だ。味を犠牲にする代わりに手軽さや栄養面へ力を入れた完全栄養食だろう。
薬包紙のゴミを見るに、ハーブも服用したようだ。
「…………」
「何だ」
「かお」
「……なに?」
「ますく。ぬいで」
食事のためにマスクを外したゴーストと、相変わらず漆黒の装備で肌ひとつ見えないハンク。
どうやら顔が気になるらしい。出会ってから一度もマスクの下を見たことがないせいだ。
ゴーストがマスクを脱いだせいもあって、余計に好奇心を刺激されたらしい。
少女は口元にソースをつけたまま、ハンクの元ににじり寄った。
当然ながら、ハンクがまともに相手をするはずもなく。少女を無視し、通気口や入り口のドアへ注意を――
「ぬいで」
「……」
「ぬーいーでー!」
脱がしにかかろうと伸びる少女の魔手を躱す。
時には叩き落とし、時には頭を抑えて鎮まらせる。
だが子供の好奇心は一度火が着くと止まらない。一向に収まる気配はなく、あの手この手でマスクを剥がそうと躍起になっていた。
B.O.Wとしての馬鹿力を発揮されないだけマシだが、鬱陶しいことこの上ないとハンクは唸る。
「黙れ。大人しくしていろ」
「……むー」
少女はこの3日間でハンクとの付き合い方を学習している。
これ以上は拳が飛んで来かねないと感じたのか、大人しくゴーストの元へ戻っていった。
「……」
精神的に成長している――あるいは
出会ったばかりの少女は人形と言っても差し支えない存在だった。
感情の機微に乏しく、陰鬱としていて、自発的な言動をせず、常々ナニカに怯える小動物のような脆さを帯びていた。
それが今はどうだ。機械的に従う傀儡のようだった少女に、ハンクにちょっかいをかけるほどの色彩が宿っているではないか。
哀しみしか無かった表情に喜怒哀楽がはっきり映るようになった。自ら言葉を発し、他者の損得を考えて行動するようになった。
精神的に成長している。それも恐ろしい速度で。
肉体の変異とは違う進化。歓迎すべきか否か、逡巡に値する成長である。
(精神の成熟は制御をより容易にする。
そこまで案じて、ハンクは思考を切り落とした。
ハンクの仕事は少女とGウィルスを回収すること。その後の少女は管轄外だ。考えるだけ無駄である。
強力な生物兵器を容易に操れ、任務を円滑に遂行できる――今はそれだけを視野に入れる。
利用価値が生まれるのなら精神の熟れだって大歓迎だ。悪いようにはならないのだから。
使えるものはなんだろうと利用する。それは幼児であろうが変わらない。
死神の芯は揺るがない。金剛の意志に亀裂はない。
兵士はただ、主命に忠を尽くすのみ。
◆
ソファですぅすぅと安らかな寝息を立てる少女。
コールドスリープから目を覚まし、動き続けることおよそ3日目。いくら生物兵器とはいえ、疲労の蓄積は相当だったに違いない。
満腹になった少女はうつらうつらと舟をこぎ始め、そのまま海の底へ沈んでいくかのように、深い深い眠りへ落ちていった。
(……無事にNESTから連れ出せたとして、この子はどうなる)
地獄に相応しくない安寧の微睡みを見守りながら、ゴーストは薄々と自問を投げかけた。
(彼女は
ゴーストは人並の人生を送れなかった人間だ。ある意味負け犬ともとれる人間だ。
そうでなければ、非合法な仕事を担う工作部隊に配属などされるものか。
U.B.C.Sのような捨て駒じゃないのが救いだが、だからと言って真っ当な別の生き方を選べたかと聞かれれば、静かに首を振らざるをえない。
銃を手に権力者の汚れを流血で雪ぐ人間が、日の元を歩む無辜の民と同列なはずがない。
高給と高待遇に眼が眩み、悪魔の狗となることを選んだのはゴーストだ。
時に殺人すら厭わないその悪性は、ハンクとなんら変らない。
そんなゴーストであっても、アンブレラの本質は唾を吐くに値する悪道なのだ。
無知で幼い子供だろうと、彼らは大義の元に容易く胎まで切り刻む。必要ならチューブと機械の苗床にだってするだろう。
生まれたことを後悔するほどの苦痛と屈辱を、彼らは平坦な表情で強いるのだ。
下っ端のゴーストは全ての情報を掴んでいるわけではない。それでも耳に入ってくる噂はある。
若者の頭を麻酔無しで切開し、脳の一部を切り取るという吐き気を催す違法手術。ウィルスへの適合性を持ってしまったがゆえに、人の形を留めなくなるほど人体実験を繰り返された『不死身の出来損ない』の話。
アンブレラに踏み躙られた犠牲者たちの墓標には、冒涜なんて言葉が生温いほどの非道な傷痕が刻まれているのだ。
(どれだけ楽観的に考えても、彼女の行きつく先は隷属だ。爆弾付きの首輪でもつけられて、お偉いさんの敵を葬る暗殺者にでも育てられるんだろう。私情を潰され、幸福の甘受も許されない肉の機械として擦り切れるまで働かされる。後継が生まれてしまえば、その時点で廃棄処分だ)
絶望的。それ以外に言葉はない。
どう見繕ったって少女は死ぬ。体は生きても心は死ぬ。それは最悪な結末に他ならない。
今のNESTは奈落の底だが、彼女にとってこの瞬間こそ幸福なのではと思えるほどだ。
ハンクとゴーストに保護されている現状が、彼女の感じる最後の安息なのではないだろうかと。
「……」
ゴースト自身、アンブレラに魂を売った外道に変わりない。
それでも、そうであっても、彼女の境遇はあまりに酷だと、胸を痛めずにいられない。
一片の同情も寄せずにいられるのはハンクくらいの例外だ。ゴーストは例外ではない。亡霊が死神になることは出来ない。
(どうすりゃいい。いや、俺が考えたところでどうなるってんだ)
タイラントを退け、医務室へ避難し、一時休息するとハンクの指示が下った時。途中で回収した『LISA-001』のデータや開発者のビデオメッセージなど、全ての情報がハンクによって共有された。
少女の母である研究者は願っていた。残酷な宿命の元に産んでしまったからこそ責務を抱いて、幸あれと切に願っていた。
(我ながらつくづく甘いな。隊長が俺の心を読んだらなんて言うか。……この仕事、向いてねえのかも)
「ごーすと」
ふと、眠っていたはずの少女がゴーストへ声を投げてきた。
向けば、なにやらソファに座ったままモジモジしている。どこかバツの悪そうな表情で、じっとゴーストに目を合わせていた。
「どうした? 今日は一日休憩するって隊長が言ったんだから、まだしばらく寝てていいんだぞ」
「う、んぅ。えっとね、おしっこいきたい」
「…………あー」
兵器とて彼女も生物。生理現象は当然ある。
今はゴーストが見張り番でハンクは眠っている状態だ。必然的にゴーストが連れて行くしかない。
幸いトイレはすぐ傍にある。ほんの少し席を外す程度なら問題ないだろうと、少女を連れて医務室を後にした。
(B.O.Wの世話係か。こんな体験、もう二度と無いだろうなぁ)
手洗い場の出入り口でぼうっと控えるゴースト。
この付近は電気の通りが悪いらしく、下層と比べて夜のように暗い。光源は薄ぼんやりとした夜間灯の緑くらいで、さながら廃墟の病院である。
「ごーすと。いる?」
「ああ。いるぞ」
時折確認の声が飛んでくる。たった独りでNESTを歩み、ゴーストまで辿り着いた少女でも、こういった状況には弱いようだ。
危篤のハンクのために我武者羅で動いてたんだろうと推察する。つくづく人間らしい子だと、生物兵器のトイレ番という奇妙な現状も合わさって笑みが零れた。
(それにしても静かだ。物音ひとつない。下層なんか戦場みたいだったのに)
最も大きく聴こえるのは自分の吐息と心音だ。沈黙の支配圏に立っているのがよく分かる。
このまま目を瞑れば、無音の暗闇に吸い込まれてしまいそうな静寂だった。
――そんな音無き世界を、一条の悲鳴が食い破った。
「?」
反射的に銃口を向ける。弛んでいた兵士としての感覚が一気に研ぎ澄まされ、鋭敏なセンサーとして覚醒していく。
足音が聞こえた。
ばたばたと、慌ただしく床を蹴っているのが聴こえる。
「なんだ……? こっちに向かってくる?」
15m先の曲がり角から聴こえる。サーチライトの射程距離外だが、何かが走っていることだけは確かだった。
やがて、音の正体が姿を現した。
男だった。顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、脇目も振らず一目散に駆け抜けてくる男だった。
白衣や戦闘服ではなく、ごくありふれた普段着に身を包む眼鏡の男。曲がり角からゴーストのいる道へカーブして、そのまま盛大に滑ってこけた。
(生存者だ。感染していない)
感染者はあんな生気ある動きはしない。顔を恐怖で汚されることなどない。
情けない悲鳴を上げて赤子のように這いずり回る成人の男は、ゴーストの軍用ライトを視認するやいなや座り込んで両手を上げた。
「待て! 撃つな、撃つな!! 私は噛まれてない! ずっと部屋のロッカーに隠れてやり過ごしてたんだ! 頼む助けてくれ、お願いだ!」
「動くな。何者か知らんがじっとしてろ」
「無理だ、無理だ、すぐにアイツが来る! 早く逃げなきゃ駄目だ!! なぁおい、あんた、兵士なら俺を助けてくれよ! その銃で奴を」
刹那。男はまるで影に連れ去れたかのように、悲鳴を上げながら闇の中へ消えていった。
一瞬にして汗が吹き出す。引き金へかかる圧が強くなる。
「おいおいおいおい……! お嬢ちゃん頼むから早くしてくれ……!」
少女を置いて立ち去るわけにはいかない。水洗の音が聞こえたから、すぐにでも外へ出てくるだろう。
それまで僅か十数秒を、正体不明と向き合いながら防戦する覚悟を決める。
(……いや、ちょっと待てよ)
けれど、緊張の死線に立つゴーストの脳裏を掠めたのは、まだ見ぬ強敵の出現や死の恐怖ではなく、一抹ばかりの違和感だった。
(奇妙だ。素人らしかったが、何故今の今まで生きてこれたんだ? 感染が始まってもう3日以上だぞ。しかも新品に近い私服姿。この地獄で武器も持たずに、着替える余裕まであったってのか?)
NESTの感染者はみな一様に作業着を着こなすスタッフばかりだった。
白衣、ツナギ、スーツと様々だが、プライベートを楽しむ普段着など身に着けている者は見たことが無い。
それは暗に、アウトブレイクが起こってから着替えに頓着する余裕など誰も無かった証左である。
(それにだ。アイツは俺が銃を持ってると一目で見抜いた。ライトで視界を塞がれてたはずなのに。何故銃を持ってると疑いもなく分かった?)
視認してからの状況把握が速すぎる。まるで事前に知っていたかのような口ぶりだった。
ゴーストの持つ軍用ライトは非常に強力なのだ。まともに浴びて視界を確保できるわけがない。
にも関わらず、ただのバイオ研究機関であるNESTの真っただ中、目を瞑されて何故ゴーストが兵士であると理解できた?
(肝心の敵の気配が無いのも引っ掛かる。気味が悪い、まるで墓の中にでも放り込まれたような気分だ。何かとてつもなくヤバい気がする! 俺には想像もつかないことが――――)
違和感。
視界の端に違和感。
何かが垂れている。ぶらんぶらんと揺れている。
鈍く光る、ブラインド状の四角い金属。
見間違えるはずもなく、それは通気口の蓋だった。
「あっ」
「ごーすと。おおきいこえきこえけど、だいじょうぶ? ………………ごーすと?」