死んだはずだった。
(ウィルスの力がこれほどとは……既存のデータを遥かに超えている。見通しが甘かったか)
NESTの一室に立て籠り、ハンクは体中を苛ませる打ち身に緊急用医療スプレーを吹きかけていた。
散布された経皮薬が鎮痛抗炎症作用をもたらす。
ひやりとした冷感を過ぎれば、ずいぶん体が軽くなった。多少痛みは残っているものの、行動に支障はないだろう。
――事の顛末は、ほんの少し時間を巻き戻すところから始まる。
迫りくる魔の手から逃れ続けていたハンクは、前触れもなく爆発した壁の雪崩に呑み込まれた。
一呼吸の暇もなく、飛び散った無数の瓦礫が散弾の如く肉を打ちのめし、無視できないダメージを一瞬にして叩き込んだのである。
瞬く間にハンクを窮地へ追い込んだモノの正体。それは確かに葬ったはずの生物兵器――T-103の変異体だった。
生きていたのだ。数えきれないほどの実弾を浴び、心臓を破壊され、脳天をナイフで貫かれた挙句、煮えたぎる溶鉄のプールに突き落とされたT-103が、生きて再び現れたのだ。
岩石の如く硬質化したどす黒い皮膚に覆われた体。
鎧のように肥大化した筋肉。
ただでさえ巨大だった体躯が膨張を遂げ、もはやベースが人間とは思えぬほどの異形の進化を遂げた生命体。
変異が著しかったのは両腕だ。異常発達した剛腕に、大型の猛獣すら赤子と思えるほど巨大な五爪が備わっていた。
強固な壁をも豆腐のように破壊した圧倒的なパワーは、変異前と比較にならない脅威を燦然とハンクに示した。
不幸中の幸いか、硝煙に紛れて逃げおおせ、今に至るわけだが。
(タイラントクラスのB.O.Wを葬るには溶鉱炉では無理か。一撃で半身を吹っ飛ばすほどの火力が必要だ。携行式のランチャーでもあればいいが……)
探している余裕はない。そもそもいくらNESTと言えど、研究室にロケットランチャーなどあるわけがない。
あるとすれば、ゴーストや『LISA-001』が捕まったターンテーブル付近だ。あそこは物流の中枢で、必然的に物資が多い。入荷された武器のストックがある可能性も高い。
(問題は……奴らの眼を潜り抜けてターンテーブルに行く術が無いことか。戻り道にはT-103に
電子制御され、機械的に動くがゆえに行動パターンを読める刺客だけならまだしも、予測不能な暴走タイラントまで相手にするのはあまりに酷と言わざるを得ない。
そもそもタイラントシリーズは白兵戦において戦車級の脅威を誇る怪物である。
ましてやスーパータイラントなど、最新装備で固めた精鋭ぞろいの小隊ですら撃破できるか怪しい化け物だ。
「……」
手持ちを確認する。
LE5、MUPともに残弾は余裕がある。
しかし相手が相手だ。今は戦力不足と断じざるを得ない。マグナム弾に関してはたったの3発だ。
変異前のタイラントすら瀕死に追い込むまで相当数を要した。雀の涙に等しいだろう。
(ナイフは無い。破片榴弾も底を尽きた。あるのはゴーストが残した
非殺傷武器だ。致命を与えるには程遠い。
だが活躍の場は広い。むしろ、この状況では通常火器より役に立つ。
ただし、タイミングを誤れば死は免れないが。
(……まずは奴らの行動パターン、癖を把握する。分析をもとに新たな作戦を構築する。少なくとも1体は確実に始末せねば)
今後の脱出を考えるなら、怪物との戦闘は避けて通れない茨の道だ。決行する他にない。
ハンクは脳裏に軌跡を描きながら、緩やかに闇の中へと這い出ていく。
辿り着いた先は怪物たちを眺められる死角だ。曲がり角や障害物の影を使い、斥候のよう息をひそめる。
観察する。さながら標的を監視し続ける暗殺者のように、気配を完全に殺しながら、徹底的にB.O.Wを観察する。
B.O.Wは人智を越えた脅威だ。
鉄を飴細工のように扱う膂力もさることながら、引っ掻き傷程度の僅かな負傷からウィルスを侵入させる致死率の高さが悉く厄介である。
おまけに生命力も段違いときた。ただの感染者なら中枢神経を破壊できれば行動不能に追い込めるが、タイラントシリーズともなれば、頭を丸ごと消し飛ばすほどの火力が無ければ太刀打ちできない。
パワーとタフネス。そして
人間を殺すという点において、タイラントシリーズはあらゆる兵器を凌駕する。
しかし、少なからず弱点は存在する。
それは知性だ。有り余る力と引き換えに失った、論理的思考能力の欠如こそが最大の弱点なのだ。
(制御加工済みのT-103をタイラントA、暴走状態のT-103をタイラントB、異形化した女研究者をマザーと仮称する)
死神は闇に紛れながら観察を続ける。
真紅の双眼は怪物たちをしっかりと捉え、一挙一動を脳の海馬に刻んでいく。
よく見れば、彼らはそれぞれ個別のルートでハンクを探し、NEST中を徘徊していると気付いた。
おまけに、ある種の法則性まであるようだ。
(タイラントAは最も機械的だ。恐らく側頭部のチップからの指令で動いている。一定の規則、一定の速度で移動するのが特徴か。マザーは伸縮自在の肉体を活かしてダクト中も移動するが、ランダムではない。行動に法則がある。コンピューター制御で命令に従順になる代償に、アクションが単調になっているのだろう)
忘れてはならないのは、思考がゼロになっているわけではないことだ。
僅かな物音や生物の気配に反応し、最短最速の経路で距離を殺そうとする。ひとたび手掛かりを掴めば虱潰しに探そうとする。
逆を言えば、だ。
音や痕跡による誘導が可能で、移動コースも予測可能ということになる。
(次はタイラントB)
少し距離を取る。
自動ドアを抜け、別の区画へ身を移す。
遠方にスーパータイラントの姿があった。苛立ったように唸り声をあげながら周囲を見渡し、時折癇癪を起しては暴れている。
不意にゴミ箱を殴りつけた。爪で輪切りにされた籠と中身が宙を舞い、壁や天井に叩きつけられる。
こちらに気付いた様子はない。ただ暴れているだけだ。行動も不規則で、ただただ衝動のまま暴れ狂っているだけに見える。
(奴の予測は難しい。タイラントAやマザーと比べてイレギュラーを否めない。しかし、制御個体が積極的に他の生物を攻撃しないのに対し、タイラントBは目につく感染者やリッカーを躊躇なく殺害している。まさに暴君といったところか)
しかしだからこそ、ハンクにとってこの上なく好都合と言えるのだ。
(タイラントAとマザーは互いに敵対しない。コンピューターがターゲットとして認識させないからだ。だがBは違う。奴は無尽蔵の破壊を繰り返す。……つまり)
――――作戦は決まった。
◆
撃つ。
(残り60秒)
撃つ。撃つ。撃つ。
限りある弾を惜しむことなく引き金を引き、撃鉄と炸薬の咆哮を轟かす。
照準は、怒り狂いハンクを細切れにせんと迫りくるスーパータイラントへ、ピッタリと定まっていた。
「■■■■■■■■ッッッッ――――――――――!!」
鼓膜が破裂しそうなほどの、獣が如き絶叫が爆発した。
怒りが音に乗って撒き散らされるようだった。恥辱を味わわされた死神へのどうしようもない憤怒が、喉から吐き出されたものがこの咆哮だ。
(40秒)
空を切り裂く弾丸豪雨が、鋼の肉体に音速の螺旋を伴って突撃する。
穴が開く。赤黒い液が噴く。
通用しない。無意味だ。肉の砦と見紛うタフネスを前に、対人兵器など何の意味も成さない。
「■■■■■■■ッッッッ!!」
瞬間、大気が圧倒的な力によって引き千切られた。
腕を振るわれただけだ。タイラントが両腕の鉤爪で薙ぎ払っただけなのだ。
たったそれだけで、軌跡が可視化されるほどの衝撃波が、無慈悲なまでに産声を上げてしまう。
「ッ」
咄嗟に屈む。身を逸らす。
床や壁を蹴り、空間全てを利用して、あらゆる手段で必殺を躱す。
掠るだけで終わりだ。爪の先端が服をほんの少し引っ掻けるだけで、ハンクは玩具のようにバラバラにされる。
(20秒)
極限状態の中、殺意の爪がハンクを葬ることはなかった。
寸前を空振り続けている。その度に、修羅のような暴君の顔貌が怒りの熱を更に滾らせ、攻撃を苛烈にさせていく。
一撃で殺せるはずのネズミが殺せない。どころか、チンケな豆鉄砲で抵抗される。
苛立ちがタイラントを煽り続けているのだ。それが加速度的に、暴君から冷静さを奪い取っていた。
(3、2、1)
不意に。
死神は逃げるのをやめた。
ここぞとばかりにタイラントが爪を振りかぶる。
牙を剥き、唾を飛ばし、白濁した眼球で獲物を定め、全力の一撃を見舞う。
(ゼロ)
爪の軌道からハンクが消えた。
ハンクが突如、こと切れたように後ろへ倒れこんだせいだ。
なのに、暴君の爪は骨肉を裂き、咽ぶほどの血の華を暗闇に咲き誇らせている。
――ハンクの代わりに、音を聞きつけてやってきたタイラントAを、出会い頭に切り伏せる形で。
(クリア)
ハンクは天井を見上げるように、タイラントAの頭が宙を舞い、吹っ飛んで転がる様を床から眺めていた。
事故ではない。計算だ。ハンクは両者の距離、移動経路、速度を全て計算し、この曲がり角で鉢合わせするよう仕組んだのだ。
鉄骨の如き強度を誇る暴君の
常識を超えた怪物も、頭と胴が離れてしまえばただの肉塊に過ぎない。
計画通り。冷えた鉄のような頭脳が判決を下す。
ならば、次の一手を着実に打つまで。
(ここだ)
タイラントが動揺を拭い、再び寝転がるハンクへ狙いを変えたタイミングで、閃光手榴弾のピンを抜いた。
放る。タイラントの鼻頭に缶が当たる。
刹那、頭が内側から破裂せんばかりの光と音の津波が襲い掛かった。
真上の通気口から蛇のように口を開けて現れた、マザーまでも巻き込んで。
「■■■■■■■■――――――――――!!」
目と耳を潰されたタイラントが滅茶苦茶に腕を振り回す。
限界まで研ぎ澄まされた刃のような爪が、天井から降りてきたマザーを引き裂いた瞬間、状況は嵐のように一変した。
――そこから先は地獄の顕現だった。
腹を裂かれたマザーが赤子のような金切り声を張り上げる。反射的に鞭の如くしなる腕でタイラントに絡みつくと、大蛇のように締め上げた。
顎が外れる嫌な音が木霊する。ズラリと並んだ無数の歯やうねる舌が露わになる。
バックリと大口を開けたマザーは、そのまま黄褐色の胃液を滝のように吐きつけた。
「■■■■■■■■ッ!?」
人間をジュースに変えるほどの強酸を頭から浴びたタイラントは、たまらず耳を劈くほどの悲鳴を炸裂させる。
しかし、暴君は倒れない。
皮膚も肉も神経もドロドロに崩される激痛に喘ぎながら、圧倒的な腕力で拘束を無理やり捻じ伏せる。
瞬時に右爪を槍のように収束させて、マザーへ怪力と共に叩き込んだ。
大穴が穿たれる。夥しい血飛沫が舞う。
死なない。腹を抉られた程度で絶命しない。
マザーはひたすら血と共に酸液を吐き出し、同時に老婆のような指から爪を引き延ばして、タイラントを滅多刺しにせんと襲い掛かった。
「……」
もはや両者の眼中にハンクはない。
ただただ目の前の敵を葬り去らんと雄叫びを上げる怪物が、互いに互いを貪り合う地獄が広がるのみだ。
死神はゆっくりと、街を散策するような静かな足取りで消えていった。
◆
一歩先を歩く少女と共に、ゴーストは周囲を警戒しながら進んでいた。
少女はゴースト救出後の合流場所をハンクと決めていたらしい。後はハンクさえ無事なら、そのまま問題なくNESTから脱出できるだろう。
「ごーすと」
「ん、何だ?」
「お外ってどんなところ?」
疲労による沈黙を破って、少女がおもむろにゴーストへ問いかけてきた。
ラクーンシティのことではない。NESTの外――つまり、少女の知らない世界のことだろう。
少女は外の世界を知らない。地下深くで生きることを余儀なくされていたせいだ。
小銭で買えるミートソースパスタすら、少し前に軍用の携帯食料で食べたのが初めてなくらいだ。
そんな少女が興味を抱くのは当然と言える。そして、今は外を知る人間が傍にいる。しかしハンクに聞いたところでロクな答えは返ってこない。
だからゴーストと二人きりな今、沈黙が辛かったのもあっただろうが、胸の内の好奇心を明かしたのだろう。
「そうだなぁ」
ほんの少しだけ、ゴーストは答えるのに戸惑った。
何故なら。NESTから出たとしても、少女は結局アンブレラの奴隷になってしまう運命にあるからだ。
(本当のことを教えるべきなのか。残酷すぎる自分の未来を)
少女は自分の結末を――醜い大人の都合というものを知らない。
知らないままに、命を落とした親愛なる者たちの想いを背負って、必死に生きようと足掻いている。
そんな少女を、さらに突き落とすような真似ができるのか?
(……今は隊長もいない。今だけは、俺はゴーストじゃなくていい)
ふわりと零れる青い吐息。
覚悟が固まる。
「えーっと外は色んなものがあるところだ。美味しいもの、楽しいもの、綺麗なものがわんさかある」
「本当? すごい!」
ゴーストと目を合わせながら、子供らしい期待にキラキラと輝く笑顔を向けて、少女は笑う。
「わたしね、わたしね。ここから出たら、美味しいものいっぱい食べたいな」
「ああ、山ほど食べられるさ。外に出たら連れて行ってやるよ。良いレストランを知ってる」
「……れすとらん?」
「あー。お金ってものを出せばな、美味しい料理をいくらでも食べられる所だ」
「本当!? ぱすたも? しちゅーも?」
「あるとも。他にも嬢ちゃんが見たことない美味いもんがたくさんあるぞ」
「行く! 絶対行く! 約束!」
ぴょんぴょんと喜びを表して、少女はもう一度「絶対!」と念を押す。
微笑ましさに、思わずマスク越しに笑みが零れた。
こうしている時だけは、彼女は生物兵器ではなく、ただの女の子と変らない。
「でもな、その約束を守るためには、嬢ちゃんに知ってもらわなきゃいけないことがある」
「?」
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。…………俺たちはな、嬢ちゃんを助けるために来たんじゃないんだ」
「――」
立ち止まって。膝を折って。視線の高さを合わせて。
ゴーストは、少女に全てを告白した。
ハンクやゴーストが所属する組織。何故NESTに来たか、その動機。
そして少女がどうなってしまうのか、結末も含めて、全て、全て。
「……」
少女は真摯に、ゴーストの言葉へ耳を傾ける。
一拍の沈黙。そして、花のようにはにかんだ。
「ん。知ってるよ」
「え?」
知っている。確かに少女はそう言った。
自分の境遇も、これからどうなるのかも、全て理解しているのだと。
理解した上で、少女はハンクたちに着いてきたのだと。今、確かにそう言った。
「わたしね……別に死んでもよかったんだ」
少しだけ俯いて、少女は懺悔をするように告白した。
か細い声で、震える手を抑えながら、頑張って胸の内を絞り出すように。
「ままも、優しくしてくれた人も、みんなみんな死んじゃって。独りぼっちで。暗くて。怖くて。もうどうでもいいやって」
それは、真の孤独を知った悲痛で。
「でもはんくが助けてくれた。泣くことしか出来なかったわたしに、人の在り方を教えてくれた。死んだらままの死が無駄になるって教えてくれたの」
暗雲に光が差し込んだ微笑みで。
「ごーすともそう。いっぱいいっぱい、教えてくれたでしょ? 楽しいこと。美味しいこと。綺麗なこと。……だから、生きたいって思えるようになったの。わたしは、人間になれたの」
己が背負う業もこれから起こる未来も、全てを受け入れた強い覚悟で。
「思考を止めず、常に最善の選択を――これがわたしの選んだ最善の道。別にはんくもごーすとも恨んでないよ」
「ッ……!」
「だから、ね? そんな悲しそうにしなくていいんだよ」
「嬢ちゃん、君はッ」
強く、強く、包み込むように、ゴーストは少女を抱きしめた。
破滅の未来を受け入れながら、今の状況が嘘偽りと知りながら、それでも覚悟と共に生き続ける。
そこに後悔は無いのだと、少女は強く言葉にした。
(ちくしょう、ちくしょう、なんてこった。この子は全部受け止める気なんだ。脱出したら逃げるなんて考えも無い。逃げれば俺たちが咎められると分かっていて。隷属させられても、それでも生き続けようとっ……!!)
――ゴーストは兵士だ。金で雇われた薄汚い人間だ。大金を積まれれば、人殺しだって辞さないろくでなしだ。
それでも、ここで彼女の背中を、先人の一人として押さずにはいられない。
ここで力を添えなかったら、ゴーストはきっと人ですらなくなってしまう。
「嬢ちゃん。俺も約束を守るから、嬢ちゃんもひとつ約束をしてくれないか」
「?」
「逃げるんだ。ここから脱出したら、なりふり構わず逃げてくれ。約束してくれ」
少女は驚いたように瞬きをした。
「でも、そしたら皆が」
「俺は仕事を辞める」
少女の肩を掴み、向き合いながらゴーストは言った。
「正直、俺には合わない仕事だったと散々思い知らされたよ。全部片付いたら終わりにするつもりだ。だから君が逃げるのも、隊長の責任も、全部負ってアンブレラから消えてやる。隊長にも迷惑はかからないようにする。だから、約束してくれ」
「……うん」
複雑そうで、けれどちょっぴり嬉しそうに少女は頷く。
どれだけ心が強くなっても、不安に襲われていたのは確かだ。ゴーストの言葉が、未来への希望になったのかもしれない。
ゴーストは銀の髪を一度撫でて、「よし」と気持ちを入れ替えながら立ち上がる。
「ひとまず話は終わりだ。あとは隊長と合流して、それから」
「ッ!? ごーすと!! 逃げ――――」
晴天の霹靂が如く。
少女の言葉を理解するより迅く、ゴーストの体が、玩具のように吹っ飛んだ。
◆
前触れなんて無かった。
予兆なんて存在しなかった。
気付いた時には、隣にいたはずのゴーストが消えていた
「がふッ!? ば、あがぁッ!?」
肉が滅茶苦茶な力で叩きつけられたような轟音が迸る。ゴーストの苦悶が、少女の鼓膜をザクザクと抉る。
血の温度が消えた。四肢末端にいたるまで悪寒が張り廻って、言いようのない震えが襲い掛かった。
「ごーすとっ!!?」
駆け寄ろうと地を蹴り飛ばして。
行く手を阻むように立ち塞がった影に、少女は思わず二の足を踏んだ。
「……甘いな。実に甘い。観察力も洞察力も何もかもが足りていない。だからこうして隙を晒す。死神ならこうはならなかったろうに」
「――あ、なた、は」
それは。その声は。その姿は。
もう二度と、目にも耳にもすることは無いはずの――
「馬鹿な……! げほっ、なんで、生きてやがる!? ハンス・ウェスカー……!!」
散弾を真正面から食らい、少女に腹から肩まで真っ二つに切り裂かれ、完璧に絶命したはずの男が、さも当然のように立っていた。
ずいぶん雰囲気が変わっている。お茶らけて、常に不気味な笑顔を張り付けていた道化のような男が、まるで極圏の氷塊のように冷ややかな、凍て刺すほど冷たい気配を纏っていた。
薄闇でほんのり光る紅色の瞳も、一層人間離れした空気を醸す。
(この人、
「そもそもの話をしようか」
舌で唇を舐め、眼を天井に向けて、頭の中から言葉を掘り起こすように口を動かす。
「私と会った時、こう思わなかったかい?
血に染まり、ボロボロになった上着をおもむろに脱ぎ捨てるハンス。
露わになった男の躰が、その面妖さを如実なまでに曝け出す。
傷が塞がっていた。少女に切断された半身が繋がって、古い手術痕のような名残だけが残されているではないか。
「シッッッ!!」
少女は本能で即断した。脳が理論理屈で判断するより速く、体が動き始めていた。
この男は危険だ。以前と比べ物にならないナニカを感じる。ここで確実に始末しなくてはならない――と。
躊躇は無かった。躊躇は決意に掻き消された。
砲弾の如くすっ飛んで、一直線に首を狩り取る。
「人の話は最後まで聞きたまえ」
「あぐッ!?」
パァンッ――と、乾いた音が響き渡って。二度、三度。暗澹の廊下を転がった。
床を舐めたのはハンスではない。電熱ブレードを振るい、豪速で飛びかかった少女の方だ。
(痛っ、ぅ、何、が……!?)
何が起こったのか理解出来ない。
全く見えなかったのだ。そも、男は一歩も動いていなかった。
少女が切りかかった瞬間、ハンスの腕が一瞬霞のように消えたかと思えば、意味も分からず吹っ飛んでいた。
ひょっとして殴られたのだろうか? ただ殴られただけなのか?
「T-ウィルスは遺伝子に作用する。その性質上、遺伝的に免疫を持つ人間がたびたび居てね。ああ、セルゲイ大佐のような完全適合者とは違うよ。空気感染や接触感染を起こさないだけだ。確率もたった100人に1人程度。で、私がその体質だった。別に不思議なことはあるまい」
這いつくばる少女の背を踏みつけ、動きを封じる。
ポケットから煙草を取り出すと、手慣れた様子で火を着け、紫煙を静謐に吐き散らす。
「少し話を変えよう。君は『L-adapter』を知ってるかな?」
――『L-adapter』。
いわく、ウィルスの恩恵を万人に与えることを目的としたものだったという。
「あれは目的こそ素晴らしいが未完成でね。『LISA-001』……君と遺伝子が近くなければ、拒絶反応を起こして異形化する重大な欠陥があった。しかも近縁なだけでは駄目ときている。事実、子宮を通じて遺伝情報が混じったはずの君の血が、
では足りないのは何か? 男は少女の背中に煙草を落とした。
「免疫さ。ある程度ウィルスに抵抗できる素養が必要だった。となると、おや? ここに適切な材料があるじゃないか」
自分の胸を親指で指す。口角を三日月に裂きながら、悪魔のような形相を象り嗤う。
重苦しさに喘ぎながら、少女は言葉を理解して、ゾッとするほどの寒気を味わった。
呼吸が死んだかと錯覚する。背骨から全身へ波紋する身の毛がよだつほどの嫌悪感が、膿のように沸いて出た。
この男は、他人どころか自分そのものも実験台にしていたのだと。
「生まれて初めて博打というものを体験したよ」
踵の圧が増す。
踏み躙られた骨肉が悲鳴を上げ、少女は顔を顰めて歯を食いしばった。
「君たちとやりあったのも、肉体を覚醒に追い込むためだった。ウィルスは死に瀕すれば瀕するほど活性化する。しかし自殺は非効率だ。身体能力、再生能力、その他あらゆるデータを計測できないからね。だから狂人のフリまでやった。死神と離れ離れになるようにも仕組んだ。彼の場合、感付いて私を焼く可能性があったからね」
理解し難いどれもこれもを、さも当たり前のようにハンスは言う。
そこに内包された狂気など、まるで存在しないかのような口ぶりで。
「おかげで私は人間を越えることが出来た。『L-adapter』は完成した。君のお母さんの夢がひとつ叶ったんだ。全て君たちのお陰だよ、ありがとう」
本当に、本当に、心から気持ちを込めたような感謝。
端から滲み出すはどす黒い執念。『L-adapter』を完成させるため、他人どころか自分の命すら駒として扱う冷酷さ。目的を達成するためならどんな手段も選ばない、常軌を逸した執着。
新たなアンブレラの創設? 違う。『LISA-001』の奪取? 違う。
そんなもの、ハンス・ウェスカーにとってどうでもいいものだった。
本当の目的は、ウィルスを使って人間という枠組みを超越することだったのだ。
ああ、だから彼はNESTに居残ったのだ。
邪魔な人間は消え、設備は使い放題。彼のホームグラウンドが屍の上に出来上がった。だからハンス・ウェスカーは、自身の欲を叶えるためにずっとずっと
狂っている。この男は根本的に狂っている。
出会ってからずっと感じていた嫌悪感の正体がこれだ。
もはや心が人ではない。どんな生物兵器よりも悍ましい怪物は、この男としか言いようがない!
「うぎ、ぎッ……!」
「ん? ほう、この体勢から立ち上がるか」
「うがああああああッ!!」
ありったけの力を込めて立ち上がる。生物兵器としての筋力を解放し、牙を剥き、まずは足を切断せんと振り回す。
しかし少女の爪がオレンジ色の軌跡を描いた時には、既にハンスは5mも離れていた。
(速い! わたしよりもずっと!)
挙動は視えた。ただ少し歩いて移動しただけ。
それでも、少女の動体視力でようやく認識できるほどのスピードだった。
これが『L-adapter』の――いいや、ウィルスの力。遺伝子を進化させる力が正当に働けば、人はこれほどの能力を獲得できるのか。
「しゃああああああ―――――――ッ!!」
喰らい付く。ここで確実に仕留めんと、全力全霊で斬りかかる。
我武者羅ではない。思考をもって殺意を振るう。床を、壁を、天井を、その場全てをフィールドとし、立体的な機動をもって跳弾のように襲い掛かる。
「やはり膂力は君が上か。金属の骨格、それを支える筋肉の爆発力は伊達ではない」
斬る。薙ぐ。突く。蹴る。刃を返し叩き斬る。
当たらない。どれもこれも紙一重で躱されてしまう。
ハンスの反射神経、動体視力、そしてスピードは、少女を遥かに上回っていた。
「そういえば、『LISA-001』」
心臓を狙って突いた腕を掴まれた。
視界を男の顔が占拠する。血染めのように赤い瞳がぬらりと光る。
「彼……あー、ゴーストなんだが。さっきからピクリとも動かないね。心配しなくて大丈夫かい……?」
心臓が凍った。
「ほら見ろ、何だかぐったりしてるぞ! ずいぶん具合が悪そうじゃないか、どうしたんだろうな?」
「――――――――」
少しだけ視線を動かして。床に倒れて動かないゴーストへ焦点を定めて。
小さな小さなソレが、少女の黒い瞳に、大きく大きく映り込んだ。
首元に突き刺さった、細くて小さな注射器が。
ウィルスの入った注射器が。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」