(状況は圧倒的に不利だ)
無視できないダメージ。秒針を進める有限の時。常軌を逸した未知の強敵。
少女を援護し、女と戦うのはあまりにリスクが高すぎる。
そも、目の前にゴールがあるというのにわざわざ危険を冒す意味は無い。
少女の生存は絶対条件ではない。このまま見捨てたとしても何ら問題ない。
ヘリに乗り込み、ラクーンシティから脱出するのがベターな選択で間違いない。
「……」
この男に情は存在しない。
あるのはたったひとつの行動原理。任務を必ず達成するという忠義のみ。
その邪魔になるなら仲間だろうと切り捨てる。自分の命だってどうでもいい。
仲間の死臭は嗅ぎ慣れている。少女を切り捨てるなど、ハンクには造作も無いことだ。
ハンクはそうして生き残ってきた。ラクーンシティに来る前から、過酷な任務を全て成功に導いてきた。
――そう。全てだ。
ハンクが失敗したことは一度も無い。悉くを最善の形で叶えてきた。
例え隊が全滅しようと彼だけは生き残る。絶対に任務を成功させる。
ゆえにこそ、ハンクは死神と畏れられたのだから。
「…………」
別に絆されたわけではない。
憐れみも同情も、庇護欲だって一片たりとも存在しない。
これは
任務を完璧な形で成し遂げてきた、歴戦の兵士としての矜持なのだ。
アンブレラは望んだ。少女の生還を。
最優先事項でなくとも、アンブレラはそう望んだ。
ならば、その主命に忠を尽くそう。
例えこの身が果てようとも、主の願いを叶えよう。
それこそが、ハンクの持つ唯一無二の人間らしさなのだから。
失敗は無い。敗走も無い。
全ては与えられた責務のために。全てはアンブレラへの忠誠のために。
兵士は再び、戦場へ舞い降りることを選択した。
「ナイトホーク。ヘリには何を積んでいる」
『標準的な戦闘ヘリと変わらない。機銃に予備の物資、目ぼしいのは四連装ロケットランチャーくらいか』
「……了解した。ゴースト、これを持ってヘリに戻れ」
「隊長、何を考えて……?」
強引に押し付けられたサンプルの数々を手に、ゴーストは困惑を示した。
ナイトホークの下に行けとハンクは言う。目的の品を持って、ヘリコプターまで帰還しろと。
それはつまり、ハンクがこの地に残ることを示唆していて。
「騒ぎを聞きつけて感染者たちが集まりつつある。機銃で上空からカバーしろ」
「!」
「私は『LISA-001』の援護に向かう」
「――了解!」
ゴーストは力強く頷き、全速力で走り出した。
ハンクは佇む。暗く重い雨の中で、機械のように冷たい瞳を標的に向けて。
「ナイトホーク。猶予はどのくらいだ」
『……粘って15分が限界だ。それ以上は危険すぎる』
腕時計に手を伸ばす。タイマーを15分にセットする。
開幕の電子音が鳴動した。
「ダメ! ダメだよはんく! 今すぐ逃げて!!」
幼く甲高い声が雨空を衝いた。ハンクが立ち去っていないと勘付いたらしい。
けれど少女の制止は意味を成さない。元より耳を貸すつもりなどない。
「来ちゃ駄目なのっ!! おねがい……!」
必死に母を抑え込み、歯を食いしばりながら懇願した。
体を焼かれる痛みにも耐えて、今にも振り解かれそうな猛獣の如き剛力と戦って、振り絞るように訴えた。
――闊歩。
死神は水溜りを鋼鉄の意志と共に踏みしめる。
誰にも止められないと悟らせるほどの、重々しい一歩だった。
「本当に死んじゃうかもしれないんだよ……!? はんく、もうボロボロだもんっ! お願いだからっ……逃げてよぉっ!!」
「死なないさ」
刀のように鋭い否定が、雨を斬り払って少女へ届いた。
透き通るほど鋭い言葉だった。そんな心配は塵芥に等しいと、少女の憂いを断頭するような言葉だった。
ああそうだ。全くもってその通りだ。
紅色の双眼を闇夜に浮かべるこの男に、死などという安楽が訪れるものか。
どれだけ過酷な任務だろうと、どれほど困難な逆境だろうと、彼だけは必ず生き残ってきた。
腕を捥がれ足を千切られようと、この男だけは死が避けるのだ。
何故なら。何故なら彼は、
「ここは戦場だ……運命は自ら切り開く」
――死神は死なず。
◆
「はんく……」
無謀だと唇を震わせた。
勝てるわけがないと絶望した。
少女は他者の生体電気を受信し、様々な情報を
対象の大まかな位置に加え、バイタルサイン、感情、感染や疾病の有無……その応用性は多岐に渡る。
だからこそ、少女にはハンクの容態が克明に理解出来るのだ。
全身の内出血。蓄積し続けた疲労。誤魔化しても誤魔化しきれないダメージの数々が、少女の眼にはっきりと映り込んでいた。
満身創痍と変らない。戦闘服を脱げば、どれほど痛々しい痣と傷の苗床になっているか分からない。
「はんくっ……!」
ハンクはもう戦えない。戦える体じゃない。
彼はただの人間だ。秒単位で傷が塞がることもなければ、拳で岩を砕くパワーもない。動体視力を越えるほどの高速移動なんて出来るわけがない。
そのはずだ。そのはずなのに。
どうしてだろう。少女には、この男が膝を折る未来など欠片も脳裏を過らなかった。
「離れろ『LISA-001』。そいつの狙いは私だ」
「で、でもっ!」
「
意図を読み取れず、少女は一拍硬直する。
「屋上には貯水タンクがある。炎を掻き消すほどの大量の水だ。分かるか? 『LISA-001』。
「……!」
ハッとするように理解した。
前と同じ。確かにそうだ。その通りだ。
立ち位置がまったくの反対だが、
「3分! 3分だけ待ってて!」
「ああ」
「……信じて!」
「ああ」
少女は女の拘束を解き、一目散にその場を離れた。
雨に紛れて消えていく小さな後ろ姿を見届ける。
残されたハンクは、陽炎を羽織る女へ向けて銃口をかざした。
「アンブレラ」
女の瞳孔が不気味に開く。
雨を蒸発させるほどの炎熱。じゅうじゅうと水の悲鳴が焼べられ、足元の水溜りはあっと言う間に姿を消した。
右腕が鬼火のようにゆらりと燃ゆる。ドクドクと肉が拍動している。
少女と似た美しさに、醜悪な肉塊を添えた異形の姿。
しかし白煙を纏う女の瞳は、確かな理性を帯びていた。
「お前たちに恨みは無い。でも、あの子を連れて行かせるわけにはいかない」
声帯が馴染んだか、女の言葉は流暢だった。
かつての女研究者の面影はない、『LISA-001』と酷似したナニカ。人の心を捨ててアンブレラの傘下に下り、ウィルスに人間であることすら忘却させられた女。
その歪な旅路の果てに、姿も振舞いも、生前より人間へ近づいてしまったのは何たる皮肉か。
「リサは私と共に終わらせる。それが私に出来る、親としての最期の仕事。お前たちの傀儡にはさせない」
槍の腕を構える。
唇を引き裂かんばかりに牙を剥く。
「アァァンブレラァァァ――――――ッッ!!」
「ッ!」
絶大な咆哮を連れ、女は肉の砲弾と化した。
ドガンッ!! 地が爆ぜる。炎の軌跡を流星の如く闇夜へ刻み、蛇行しながらハンクの命を刈り取りにかかる。
槍の右腕が放たれた。ハンクは寸前で身を投げ出し、地面を転がって必殺を躱す。
体勢を立て直すと共に引き金を引く。落雷のような発砲が大気を裂き、50口径の凶弾が女の胸を抉り抜いた。
熾烈な反動が腕を伝い、肩を殴る。しかし放たれた弾丸は女を怯ませ、更なる連撃の隙を生み出す。
撃つ。限界間際の肉体に活を入れ、心臓目掛けてライトニングホークを叩き込む。
(妙だ)
血肉の華を咲かせながらも止まらない炎の女に、ハンクは一抹の疑問を抱いた。
(確実に心臓へダメージを与えているというのに全く衰える気配が無い。T-103より筋肉層の薄い女なら、弾は確実に深く届いているはずだ。何故少し怯むだけで済んでいられる?)
心臓はT-103ですら一気に弱体化するほどの急所だった。ナイフで刺し穿っただけで簡単に力を失い、溶鉱炉へ突き落とすことが出来たほどなのだ。
生物である以上、心臓を破壊されれば絶命は免れられない。それはB.O.Wであっても逃れられない宿命である。
場合によっては、的が小さく頑強な頭蓋骨に守られている脳よりも、効率的にダメージを与えられるだろう。
だというのに、女は全く弱る素振りを見せずにいる。
音速を越えて叩き込まれる50口径の銃創すら、数秒とたたずに塞がってしまう。
(『LISA-001』が背中から心臓を貫いた時も意に介していなかった。……まさか、
タイラントシリーズのように右に寄っているなどという話ではない。根本的に胸の中に存在しないのではないか?
炎の女は繭を経て変異した怪物だ。それを昆虫と似たシステムと仮定するなら、液状化した体組織が肉体を再構築したことになる。
仮説が芽吹く。外面は人間に近くとも、あの女の中身はヒトと全く異なる構造に進化したのではないかと。
(頭を狙おうにも、ただでさえ小柄なうえにあのスピードでは狙撃できん。胴が有効打に成り得ないなら別の弱点を探すしかない)
即座に戦法を切り替える。ハンクは攻撃の手を緩め、右手をあげて合図を送った。
上空に座するヘリコプター、周囲一帯の感染者を駆逐していたゴーストへ。
「掃射しろ! 奴を狙い撃て!」
「了解!」
瞬間、金属の豪雨が炎の女へ降り注いだ。
滅茶苦茶な炸薬音が津波と化けて雨を呑む。毎秒何百発というガンシップの自動機関銃が火を噴き散らし、夥しい弾丸を地表に向けて吐き出した。
「■■■■■■■■―――――――ッッ!!」
咆哮と共に女が消える。人間の動体視力を超越した速度を纏い、あろうことか銃撃の嵐へ突っ込んできた。
身を捩じり、逸らし、地を蹴って宙を舞い、踊るように女は弾の嵐を掻い潜る。ひとたび掠れば肉も骨もまとめてミンチに加工する死の落屑にも臆していない。
元がデスクワーカーの研究者とは思えぬほどの身体能力。ハンクの予想も上回る機動力をもって、女は瞬く間にヘリコプターの真下へと潜り込んだ。
「上昇しろ! ヘリを落とす気だ!」
『分かってる!』
ナイトホークに操られ、ガンシップが急激に高度を上げていく。
逃さんとばかりに女が跳んだ。アスファルトを全力で踏み砕き、迫撃砲の如く跳躍した。
すかさずナイトホークがスイッチを入れる。本来は誘導ミサイルを攪乱させるためのフレアをばら撒き、女の視界を奪うとともに焼き焦がす。
超人的な炎の女も空中では身動きが取れない。ゴーストはその隙を突き、機銃の掃射をもって迎え撃った。
「喰らいやがれ!!」
「ッ!!」
女は強引に身を捻り、到来する破壊の礫を背中で受け止める。
ザクロのように肉が弾けた。露出した骨まで割れ砕け、髄液が雨に溶け混じった。
だがしかし、傷は瞬時に消えていく。タイラントシリーズに匹敵、いやそれ以上の自己再生能力が、機銃すら致命まで届かせず防ぎ切っていた。
「アンブレラァァァッッ!!!!」
――その時、夜に太陽が降臨した。
大気を破裂させるほどの爆熱が迸り、信じ難い現象が巻き起こった。
女の全身が日輪の如き焔に覆われ、人の形をした業火と化したのだ。
あまりの熱に銃弾すら溶け落ちて、威力を大幅に削ぎ落されるほどの猛炎。それでも女は燃え尽きず、咆哮を轟かせながら隕石の如く着地する。
「なんなんだこいつは……!? こんなのどうやって倒せってんだ!?」
今までの怪物と次元が違う。認めざるを得ない特異点がそこにあった。
銃弾を削ぐほどの炎熱など正気の沙汰ではない。ましてやそれを一個の生物が操るなど。
(あまりに異常すぎる。自分自身を燃やして熱の壁を作るだと? いくら強靭な再生能力を持とうと不合理にもほどがある)
理に適っていない。端的に言えばそれが奇怪極まりないのだ。
自在に電気を操る『LISA-001』も、植物の規範を越えたプラント43も、自然を逸脱すれど生物としての枠組みを超えることは無かった。
デンキウナギやシビレエイのように、電気を操る生物は他にも存在する。驚異的な速度で葉を閉じるハエトリソウも、言ってしまえばプラント43の縮小版だ。
だがこの世界に有史以来、自らを燃やす生物が存在しただろうか?
いない。そもそもほとんどの生物は炎に耐えられるように出来ていない。
生態の一部に自焼を組み込んだユーカリのような種もいるにはいる。だがそれは、あくまで生存戦略の一環なのだ。
(この女は生存を重きに置いていない。明らかに命を捨てている。何が何でも終止符を打つつもりか)
比喩でもなんでもない。女は命を燃やしていた。
邪悪なアンブレラに娘を連れて行かせるわけにはいかない。ただそれだけを燃料に、例え灰になっても構わないという覚悟の体現。
全ては『LISA-001』のため。少女を呪われた運命から、死という免責をもって解放するため。
母を衝き動かす炎の意志が、闇夜を朱く焼き尽くすのだ。
(――弱点はどこだ)
観察に徹する。
炎を纏い、炎を散らし、炎に生きる女を掻い潜りながら。
(綻びが必ずあるはずだ。不死身の生物など存在しない。まして付け焼刃で体を作り変えた不安定なマザーなら)
考えられるのはスタミナか。あれほどの燃焼を続ければ『LISA-001』のようにいずれ枯渇する。それ以前に熱で自壊するのは必至だろう。
だが持久戦は選べない。こうしている間もタイムリミットは迫っている。一刻も早く始末しなければ全てが無に帰す。
(どこだ。どこにある)
火球が飛んでくる。全力で身を投げ出して躱し、物陰へと滑り込む。
ライトニングホークをリロードする。しかし闇雲に撃っても効果がない。やはり弱点を穿つしかない。
(――――)
ふと。
炎熱で歪む陽炎の海に浮かぶ、小さな小さな旗印に気付く。
(あの槍の腕……余所と比べて明らかに発火量がおかしい。
思い返してみれば最初に炎を吐いたのも槍の右腕だった。あの腕からは耐えず体液が染み出していて、空気に触れる度に燃え盛っていたのだ。
そう、体液。あれは体液の源泉だ。
(マザーは『LISA-001』への防衛反応から可燃性の体液を獲得した。
思考した時には既に、ハンクの足は動いていた。
全力疾走で雨を駆けた。行先は警察署の壁際、屋上のバルコニーへ繋がる梯子の元へ。
「逃がさない!!」
女が追ってくる。
鬼のような形相で呪詛を交え、ハンクを上回る圧倒的な膂力を爆発させて、風を裂く破壊と化してやって来る。
槍の腕が飛ぶ。ハンクは間一髪で滑り込む。
頭上擦れ擦れを槍が通過し、警察署の壁へ突き刺さった。
瞬く間に壁が溶け落ち、赤熱した粘土が雨を焼いた。
女は歯を剥き、己が身を焦がす炎の激痛すら意に介さず、ただただハンクを仕留めんと腕を振り回す。
「ガァアァアッッ!!」
「くっ……!」
振り返らず走り続け、遮蔽物を利用して爆熱を避けていく。
戦闘服では防げない熱波の洪水が背中を焼いた。燃えていないことが奇跡だった。
噛まれれば終わりなどという生温い次元の話ではない。女があと5mでも距離を殺せば、骨までグズグズに溶かされる焔の脅威が牙を剥くのだ。
「奴を撃て! ゴースト!」
「駄目だ隊長、その距離じゃあなたも被弾してしまう! 蜂の巣になるぞ!!」
「構わん撃て! 今しかない!!」
ゴーストは迷いを捻じ伏せ、機銃の引き金を振り絞った。
轟音絶叫。弾の嵐が女を跪かせんと降り注ぐ。
女は怒号と共に爆熱を滾らせ、生きる日輪へと変生していく。
「そのまま炎を吐かせ続けろ! オーバーヒートを狙え!」
「了解ッ!!」
ゴーストはハンクを巻き込むまいと、暴れ狂う機銃を腕が千切れんばかりに力を込めて制御する。
弾丸は女を射貫き続けた。しかし空対地機関銃の掃射能力であっても威力が足りない。
溶けた弾丸は肉の表面を削るだけで、女へ致命を与えない。
「おォォおおおおおおおああああああああああああああッッ!!」
それでも撃ち続ける。ハンクの判断に間違いはないと信じて、機銃が悲鳴を上げるほど撃つ、撃つ、撃つ!
だが次の瞬間、一発の跳弾がハンクの足を撃ち抜いた。
「ぐぁッ!!」
「隊長!?」
熱や壁で威力を殺されているとはいえ、大口径の凶弾には大腿の一部を吹っ飛ばす程度のパワーはある。
ボロキレのようにハンクは転がる。赤黒い血飛沫が足を伝って雨を染め、ハンクの自由を奪い去った。
対して女は笑っていた。「馬鹿め」と嘲笑するように、溢れる炎の底で頬を釣り上げていた。
「――ゴースト、よくやった!」
しかし、度重なるダメージが女を限界へと誘っていた。
炎が増すということは血を失うということだ。失血による身体機能の低下が顕れたのだ。
致命傷には至らずとも、度重なる銃撃の二重奏は女を鈍らせるのに十分過ぎた。
「まだ……だ! まだ終わってない……! アンブレラァ……!!」
女は荒々しく息を吐き、たまらずその場に膝を着く。
それでも二つの眼はハンクを離さず、雄叫びを張り上げて大きく右腕を振りかぶった。
ハンクはもう動けない。いくら女が弱っていても、金属を溶け崩すほどの熱塊を振り下ろされたらひとたまりもない。
だから、
「はんく!!」
梯子の上――警察署のバルコニーから、翼を得たように跳び上がる小さな影。雄々しく宙を舞う少女の姿。
巨大な金属の塊を持ち上げている。警察署の貯水タンクを捥ぎ取ったのだ。
電熱ブレードで切れ込みを植えられたタンクを、少女は全力で放り投げる。
タンクの中には、女の業火すら押し潰すほどの水が眠っている――――!
「!?」
咄嗟に女はタンクを受け止める。水を被らぬよう左腕だけで防ぎきる。
少女はそれは許さない。軽やかにタンクの上へ飛び乗ると、電熱ブレードを薙ぎ払った。
洪水の竜が、女を一息に呑み込んだ。
「■■■■■■ッッ!!」
夥しい水が女を襲う。
炎は膨大な水蒸気と共に打ち消され、肉の躰を露わにする。
「3分ぴったり!」
「上出来だ、『LISA-001』」
刹那、ライトニングホークが稲妻の如く猛り叫んだ。
銃弾が脈打つ右腕を穿ち抜き、女は悲痛な絶叫を張り上げる。
叫びが仮説を証明する。
ハンクは反動で肩を痛めることも構わず、両腕で銃を抑え、精密に叩き込んでいく。
凄まじい血潮が舞い散った。女は悲鳴をあげて腕を庇った。
しかし、脅威は死神だけに留まらない。
「しゃああああああッッ!!」
その一閃は雷光の軌跡。少女の電熱ブレードが、女の右腕を斬り飛ばしたのだ。
腕の形をした心臓を失い、女は急激に力を失う。
血は水のせいで発火することも叶わず、少女の接近を許してしまう。
――ぞぶり。
女の胸を、少女の刃が刺し穿って。
次の瞬間。落雷に匹敵する大電流が、二人を光の底へ突き落とした。
◆
「どう、して」
光が止んでいく。
心臓を奪われ、全身を電流で焼き切られ、それでも息を繋ぐ炎の女が、弱々しく少女の肩を掴みながら声を絞った。
「どうして分かってくれないの……! げほっ、アンブレラはっ、彼らは、決して善人なんかじゃないんだ! あなたを街から連れ出しても、救ってはくれない! あ、あなたは、かは、ひゅ、死よりも辛い眼に遭うだけなのに……どうして……!!」
悲哀と懇願の入り混じる、慟哭のような訴えだった。
女はアンブレラへの憎悪や復讐心で動いていたわけではない。ただ『LISA-001』の未来を憂いていただけだ。
アンブレラに従い、地獄を作る一端を担ってしまった、彼女だからこその願いだった。
アンブレラは外道だ。この世のどんな裏側も稚児に思えるほどの邪悪で出来た怪物だ。
目的のためなら人道を捨てることすら厭わない。かつて女もそうだったから解るのだ。
罪なき人を生きたまま怪物の餌にした。投薬とウィルス実験の苗床にした。ヒトとしての尊厳を徹底的に破壊してきた。
肉塊になっても死ねない被検体がいた。殺してくれとしか言わなくなった人間を見た。チューブと機械に生かされているだけの死者もいた。麻酔無しで頭を開かれる若者の叫びを聞いてきた。
あの限り無い悪夢に、少女をこれ以上巻き込むことが許せなかった。身勝手と分かっていても、拒絶せずにはいられなかった。
断言する。アンブレラに捕まるくらいなら死んだ方が遥かにマシだ。
だから命を狙った。U.S.Sを排除しにかかった。
「それなのに、なんで、どうしてあなたは、彼らに着いていこうとするの……!」
「まま」
少女は女をそっと抱き留めて、静かに地面に腰を下ろした。
もはや女に抵抗する余力は無い。命が終わりを迎えかけている。
もともと歪んだ進化の果てに生まれた泡沫の奇跡だ。どのみち長くは持たなかった。
ゆえにこそ、少女は残された彼女との時間を、対話に費やすことを選択した。
「大丈夫。わたしはあんぶれらの思い通りになんかならない」
「……え?」
ハンクに聞こえないくらい小さな声で、少女は女の耳に囁いた。
心を安心させるような、優しい力強さを孕んだ声だった。
「わたし、強くなったんだよ。自分を守れるくらい、強くなれたの」
「リ、サ」
「わたしは生きる。絶対に生きる。ままを忘れないために、ここで見てきたことを失くさないために、絶対絶対生き続ける」
まるでダイアモンドのような、純粋で強固な生きるという意志だった。
それは気弱で、大人しくて、いつも何かに怯えているようだった昔の少女とは違う、明らかな決意の焔だった。
――ずっと前から、少女は己の境遇を理解していた。自分の運命に『生』は無いのだと理解していた。
死ねばそこで終わり、生き残っても実験台という末路。
生きるか死ぬかの話ではない。そもそも少女に未来など無かった。
だから少女は簡単に命を投げ捨てられた。せめてハンクたちが生き残るなら、母と最期を共に出来るなら、後悔は微塵も無かったのだ。
そんな少女の諦念を払い除け、『生きる』と心から願わせたのは、死神が見せた決意と信念に他ならない。
ハンクは決して諦めなかった。絶望的な状況でも絶えず頭を働かせ、常に最善を選択し、不可能を可能に変えてきた。
眩しかった。例えそれが任務のためでも、少女を救うべく再び戦場へ戻ったハンクの姿が、あまりにも強く焼き付いた。
「もう大丈夫。運命は自分で切り開ける。ままを悲しませるようなことには、絶対にならないから」
「……そうか。あなたは、私が知る頃よりずっと」
女の笑みが零れ落ちた。自嘲ではなく、それは紛れも無い喜びだった。
生物兵器としての力を持っていても、少女は生まれて一年も経たない赤ん坊だ。女の知る少女は、ただ無垢に後ろをついてまわる子供だった。
それがこんなにも、眩しく逞しく育っていた。
仲間と共に協力し、ハンス・ウェスカーや女を討つほど、強く強く成長していた。
遠いところに行ってしまったという寂しさと、強くなってくれたことへの安堵が、女に微笑みを与えたのだ。
「間違っていたのは私の方か。あなたを信じることが出来なかった私のせいだ。私はまた、間違えてしまった」
「ううん、違う。間違いなんかじゃない。ままの気持ちは本物だった。間違いなんかじゃないもん」
「……ふふ、本物か」
少女は人の心を読める。だから純粋な真心だったと断言できる。
女にとって、その言葉は何物にも代えがたい救いだった。
――だったら、私の役割はもう決まってる。
――あなたが本物のお母さんと認めてくれるのなら、あなたを信じて送り出しましょう。
――それが私に出来る、最後の最善だと信じます。
「ねぇ。最後にお母さんと、約束してくれる?」
「うん」
「絶対にアンブレラに従っては駄目。どんな手段を使ってもいい、逃げなさい。必ず生きて」
「うん、うん」
「人に迷惑をかけちゃ駄目。私のようにはならないで。『LISA-001』という兵器じゃなくて、リサとして生きると約束して」
「ぜったい守る。やくそく」
「……本当に、良い子」
焼け溶けた左腕が頬を撫で、優しく銀の髪を梳いた。
喀血。女の体を赤黒く染めていく。
瞳が曇り始めていた。視線はどこか上の空で、既に見えているかどうかも怪しい。
刻限は近い。けれど女は、陽だまりに腰を下ろしたように微笑んでいた。
「リサ、リサ」
「……まま」
「生まれてくれてありがとう。これだけはあなたに伝えたかった。素敵なリサ、あなたのお陰で、私の心は……人に……戻……」
腕は花の落屑のように、力なく地に落ちていく。
命の蝋燭が、静かに燃え尽きた音がした。
もう二度と、握り返してくれることはない。
「っ、っ」
瞳が震えた。覚悟していたはずなのに、目頭が燃えるようだった。
胸の奥から今度こそ何かが喪われたという実感が貫いてくる。
噛み締めるように唇を結び、もう一度だけ手を握る。
けれど、涙は無い。むしろ優しく労うように、そっと母の瞼を降ろす。
「わたし、生まれてよかった。ううん、これからきっと、もっとよくなる。絶対よくして見せるもん」
震える声を必死に抑えて、少女はくしゃくしゃな微笑みを浮かべて立ち上がった。
本当は埋葬してあげて、花の一輪でも添えたかった。
それを時間が許さない。せめて雨に晒されないよう、木の陰へと亡骸を運ぶ。
「おやすみなさい。どうか安らかに」
母の死を看取るのはこれが3度目になる。
3度目でようやく、母は眠りに就くことが出来たのだ。
きっと安心してくれただろうと少女は信じる。だから最後は笑ってくれたと、少女は胸をぎゅっと抑えた。
「行こう、はんく」
前を向く。未来を視る。
必ず生きてみせると、心の底に炎を灯して。
「大丈夫? 立てる?」
「足をやられた。肩を貸してくれ」
「……ん!」
◆
「梯子を下ろせナイトホーク。速やかに帰還する」
『了解。ったく、ひやひやさせるなよハンク。死神が死ぬなんて冗談じゃないぞ』
「隊長、上がれますか? 今タンカーを」
「大丈夫、わたしが引き上げるから」
ハンクは足を撃たれて動けない。しかしここで少女の怪力が功を奏した。
貯水タンクを放り投げるほどのパワーだ。小さな背中に大の男を背負っても、何の苦も感じず登ってみせた。
「傷を手当てします。少し痛むかもしれません」
「ああ」
ハンクを受け取ったゴーストが、手早く患部を処置していく。
肉が一部吹っ飛んでいたが、致命傷ではない。感染症対策に消毒を施し、包帯を巻いていく。
――その時だった。
ガゴンッ!! とヘリが大きく傾いたのだ。
まるで巨人に掴まれたような衝撃が襲い掛かり、警報機器が一斉に叫び始める。
「なんだ!? 何が起こった!?」
「っ……! まさか!」
血の気を引かせ、真っ青になった少女がヘリコプターの下を見て。
驚愕のあまり、全細胞が停止した。
「しニガみぃイイいィいッッ!!」
腕だったものが怨嗟の雄叫びを張り上げながら、梯子を登ってきているではないか。
手の甲に眼球が生え、槍の先端が真っ二つに裂け、異形の口に変異している。
無数の牙が生え揃う極悪な蛇のようなソレは、明らかな意思を持って活動していた。
「嘘だろ、この声――ハンス・ウェスカー!? なんで生きてやがる!?」
いいや違う。ハンス・ウェスカーは確かに絶命した。女に捕食され、その命に幕を下ろしたのだ。
だがそこで予期せぬ事態が起こってしまった。女が体を突貫工事で再構築した際、ハンス・ウェスカーの強靭な細胞の一部が寄生虫のように残留してしまったのだ。
――ままじゃない。
――あなたは、誰?
炎の女を初めて見た時、少女はこう漏らしていた。
電磁波の異常な混沌に、怪訝を抱いたからこその言葉だった。
しかし断言する。あの腕は決してハンス・ウェスカーなどではない。
ウェスカーの執念を引き継いだ、怨霊のような残滓なのだ。
臓器移植を行った患者は、ドナーの精神に影響を及ぼされるという俗説がある。記憶転移と呼ばれる未解明の現象だ。
それに類似するナニカ。あるいは本物の記憶転移。
ハンクに対する並ならぬ憎悪が、邪悪を再び呼び覚ましたか。
「■■■■ッ!!」
不意にヘリが軽くなる。同じくして強烈な羽ばたきが到来した。
腕に翼が生えていた。それはもはや腕ではなく一個の生物として君臨し、歪な牙が鍵盤の如く並んだ口腔をガバッと開いて、ハンクたちを貪り喰らわんと襲い掛かる。
「撃て!」
号令に従い、すぐさまゴーストが機銃を握った。
だが次の瞬間、ハンス・ウェスカーの口から鞭のような舌が伸び、まるで木の枝を圧し折るかのように機銃を台座ごと捥ぎ取ってしまう。
「怯むな、ロケットランチャーだ!」
ハンクもまた応戦する。手早くライトニングホークの弾倉を換え、大口を開く怪物に向けて打ち込んでいく。
悲鳴があがる。効いていない。撃墜される様子がまるで無い。
『みんな掴まれ! 上空へ離脱する!』
「闇雲に高度を上げるな! 機銃を攫う膂力だ、あの舌で機体を抜かれたら全滅する! 牽制できるよう水平に保て、ここで叩くぞ!」
「ごーすと、これ!」
「助かる!」
受け取ったロケットランチャーを肩に担ぎ、ハンス・ウェスカーを狙い定める。
揺れるヘリコプターの中では照準がおぼつかない。少女がゴーストを固定しなければ担ぐことすら叶わない状況だ。
ナイトホークがヘリを動かし、爆風の余波が最小限に抑えられる距離を稼いだ瞬間、ゴーストは一斉にロケット弾を解き放った。
初弾は彼方へ消えていく。二射目は尋常ではない機動力で躱されてしまう。
三射目がハンス・ウェスカーを捉えた。白煙を噴きながら猛進し、螺旋を描いて着弾する。
思いもよらない出来事が巻き起こった。
ハンス・ウェスカーがロケット弾を舌で絡め取ると、大きく振りかぶって彼方へ放り投げてしまったのだ。
「テメエ、いい加減しつこいぞ!!」
「■■■■■■―――――!!」
歪な形態に関わらず、怪物の身体能力はかつてのハンスに勝るとも劣らない。凄まじい反射神経は弾道を予測し、弾を掴んで投げ捨てることすら可能としている。
残り一発。絶対に外せない最後の一射。
緊張が走る。これを外せば終わりだと、ゴーストの指が震えを帯びる。
けれど。
「必ず当てる……!! 当ててやる!」
震えを御し、恐怖を捻じ伏せ、ゴーストは猛禽の如き集中を体得する。
蜻蛉のように空を旋回する怪物の隙を待ち続け、ひたすら照準を合わせていく。
――そして訣別は到来した。
一条の赤い光があった。猛り狂う爆熱の咆哮があった。
源は遥か下。燃え盛る火柱が突如として地より現れ、ハンス・ウェスカーを蛇の如く呑み込んだのだ。
少女は視た。確かにその眼で見届けた。
左腕を掲げ、天へ向けて炎を捧ぐ、母の最期の雄姿を視た。
「今だ、やれ!」
閉幕の一射が放たれた。
ロケット弾は硝煙を連れ、一直線にハンスの元へ。
怪物は最後の悪あがきとロケット弾を口で啄む。恐るべき威力で猛進する砲弾の膂力を、渾身の力で抑え込む。
「『LISA-001』!」
己の角度からでは狙えないと判断し、ハンクは少女へライトニングホークを放り投げた。
ランチャーを持って下がるゴーストに代わり、空を舞う銃を掴み取る。
握る。まるで最初から手に馴染んでいた道具のように。
使い方は知っていた。ずっとずっと、彼らを見てきたのだから。
「もう二度と顔も見たくない! 大っ嫌い!」
轟く炸薬音。
銃弾は機械の如く精密に、暴れまわるハンス・ウェスカーのロケット弾を刺し穿つ。
裂光が爆ぜる。熾烈な衝撃が大気を殴り飛ばす。
ようやく帰ってきた静寂に、少女は深く吐息を零した。