鞭のような蔦が迫る。牙を彷彿させる無数の棘が生え揃った、花弁状の捕食器官が襲い掛かる。
ライトで行き先を照らしつつ、ハンクは襲撃のタイミングを把握しながら緻密に動く。
左から薙ぐように襲来した蔦を滑り込みで避け、真上から覆い被さってくる花は身を投げて躱した。
しかし着地の瞬間、足場のフェンスを通り抜けた蔓の群れが蛇の如く絡みついてしまう。
間髪入れずナイフを振るった。二度、三度と叩き込み、死の桎梏から脱獄を果たす。
(ポイントまで目測10m)
観察を欠かさず、行動に余念を残さず、漆黒の男は機械的に闇夜を走る。一度の失敗が死を招くような極限状態だろうが、平静は一欠けらも揺るがなかった。
駆ける。駆ける。わずか十数歩ばかりの距離を、まるで短距離走の世界大会のように全力で駆ける。
敵に一切の隙を与えず動く。それが死中に活を開く鉄則だ。怪植物がハンクに追いつくよりも迅速に行動し、任務を完了するのみなのだ。
プラント43の目前まで到着する。ハンクは鉄柵に手を添えて、躊躇なく身を乗り出した。
落下と同時にポーチの中へ手を伸ばす。薬液の入った試験管を手に幹を伝い、一直線に根本の土壌へ降下して――
「!?」
地に足が着く、まさに刹那のタイミングだった。
樹冠から急速に成長した大蛇のような蔓がハンクの胴体に絡みつき、ワイヤーで貨物を釣り上げるが如く引き戻したのである。
「がッ……!」
万力のような圧がハンクを襲う。情など微塵も無い怪物の締め付けは人体が耐えられるものではなく、胸骨や内臓がミシミシと悲鳴を上げ、筆舌に尽くしがたい激痛が脳髄まで貫いた。
だが。だが。
それでも彼は諦めない。たかが肉体を引き絞られる程度の痛みなど、彼にとっては気付薬にしか成り得ない。
ナイフを蔓に突き刺し抉る。何度も、何度も、忌々しい蔓が力を保てなくなるまで止まることなく穿ち続ける。
緑色の液体がスプレーのように噴射していく。目に見えて力が弱まっていくのが分かった。体液を損失したせいで蔓の組織が軟化し、さながら萎れた葉のようにパワーを保てなくなっているのだ。
弱体化を察したハンクは一際強く傷を抉った。串刺したナイフを渾身の力で捻り、千切り飛ばすように切断してツルの拘束から脱出を果たす。
試験管を粉砕せぬよう受身を取り、すかさず現在位置を確認した。
少しだけ距離を離されていた。目測8mほどだ。ハンクは周辺の脅威を把握すると、再びプラント43へ向けて脱兎の如く駆け出した。
だが怪植物も黙ってはいない。捕食器官と化した毒々しい花弁が牙を剥き、ハンクへ襲いかかっていく。
植物故に心など存在しないはずだが、その篠突く雨が如き猛攻は、蔓を裂かれたことへの怒りに満ちているようにすら感じた。
(MPUの残弾は残り5発、全て叩き込んでも効果は見込められないだろう。かといって、LE5を無暗に消耗すれば今後の行動に支障をきたす。――ならば)
ナイフを仕舞い、腰元のフックから手榴弾を手に取った。
ピンを抜き、すかさず
けたたましい爆発音が響き渡った。花弁は内側から弾け飛び、夥しい体液を巻き散しながらもがき苦しむ。蜥蜴の尾のようにのたうち回る花弁だったモノは、やがて力を失くし倒れ伏した。
だがしかし、花弁を破壊したところでプラント43が絶命したわけではない。攻撃手段のひとつが潰れただけだ。
薬液を土壌へ染み込ませ、機動力を奪わない限りハンクを狙う猛攻が止むことは無い。
そうであっても、たかがあと十数歩程度の距離が、まるで果てしなく続く道のりのように感じられる。
(っ、あれは)
不意に行く先の違和に気づき、ハンクは反射的に急ブレーキをかける。
原因は、前方を阻むこの世のものではない異物だった。
柔らかな物体が無造作に叩きつけられるような生々しい音と共に、ハンクを立ち塞がるように姿を現したのである。
辛うじて人の形をした怪物だった。
全身に植物の支配が及び、苗床とされながらも歩く屍としての領分も揃えた異形の怪物。心臓のように脈打つ
不出来な人形のように体をくねらせつつ起き上がるそれは、まるで彼の末路が姿形を得たかのようで。
(なるほど、こいつが
気配を感じ、チラリと後方を見る。同じく薄気味悪い植物に支配された成れの果てが、ハンクを逃がすまいと立っていた。
範囲の定められた通路が仇となったか。左右に幅が無く、分岐も無いせいで逃げ道がない。完全に包囲されてしまっている。
すかさず前方の怪物へ三発銃弾を叩き込む。しかし弾丸が頭部や胸部を正確に射貫いたというのに、怪物は怯む様子すら見せなかった。
ぎこちない仕草を披露しながら詰まった排水口のような鳴き声を放ち、
(感染者より耐久性が高いな。手持ちの武器でまともに戦うのは愚策か。一方に構えば、もう一方の餌食になる)
頭部に走る垂直の亀裂が真っ二つに開いていく。内から覗く鋭い牙の数々が、感染者より遥かに悍ましい脅威を示していた。
ツタと化した腕に捕まれば最後、ハエトリグサのような頭に食まれ、惨たらしい最期を迎えるのは自明の理だろう。
形勢は不利と判断し、須臾の間に逃走を選択する。ハンクは右の手すりを乗り越えて、躊躇なく下層へ身を投げた。
柔らかな土の上へと着地し、同時に周囲の脅威を見定める。
振動で覚醒を促してしまったのか、左方の草むらに絡まっていたイビーが目覚め、藪を引き千切りながら活動し始めていた。ハンクが脱出した上方からは、2体の異形が彼を追って身を乗り出そうともがいている。
目視できる怪物は3体。プラント43の根元付近に脅威は無い。ハンクは柔らかく不安定な土を蹴り飛ばし、一気に投薬ポイントまで距離を詰めた。
膝を折り、薬液を取り出す。土壌を掻き分け、試験管のコルク栓を弾いてひっくり返すと――
「!?」
投薬まであと一歩だったその時、予期せぬ脅威が現れる。
頸動脈が悲鳴を上げる。酸素の供給が絶たれたせいか、視界に星のような光が瞬き始めた。
意識の輪郭が、泡沫のように曖昧になっていく。
(しまった、不味いッ……!)
人は首の動脈を絞められた場合、たった7秒程度で意識を失ってしまう。
そうなれば一巻の終わりだ。首を圧し折られ、背後からやってくる怪物たちの肥やしになるしか未来はない。
すぐにでも振り解かなければ死あるのみだ。しかし拘束を解く術が無い。根は茎より遥かに頑丈だ。ナイフで斬り払うより先に意識が落ちるのは視えていた。
だから、ハンクは敢えて絞首を度外視した。
明滅する意識の中、根に向けて試験管を思い切り叩きつける。漏れ出た薬液は産毛のような側根から吸収され、瞬く間にプラント43へと浸透した。
途端に根が暴れ出す。異物に対する反応なのか、まるで毒を盛られてもがき苦しむ人間ようにのたうち回り、たまらずハンクを解放したのである。
プラント43が台風に煽られたように大きく揺らぐ。それも束の間の出来事で、人を喰らう獣だった恐ろしい樹木は、植物としてあるべき姿を取り戻したかのように沈黙した。
(対象、無力化を、確認)
断たれていた血と酸素が戻り、激しく咳き込みながら意識の彩りを取り戻す。
朧だった視界が徐々に輪郭を帯びていく。あと数秒判断が遅ければ彼の命は無かっただろう。多少の倦怠感は残るものの、問題なく動けそうだと判断した。
一段落して、まずは呼吸を整える。
ただちに次のアクションへ。休息など全て終わってからでも十分だ。
(次は果実を退ける。そのまま『LISA-001』と合流し、メインシャフトへ帰還する)
酷使され泣き言を喚く肉体へ言い聞かせるように、脳裏で作戦を反復する。
膝に手を当て、力を込めて起き上がる。ハンクを追ってくる醜い植物人間を撃退するため、LE5のセーフティを解いた。
と、そこで奇妙な違和感がハンクを襲う。
(標的が1体のみ……他の2体はどこへ行った?)
眼前の脅威は先ほど目覚めたばかりの1個体のみだ。上の通路から追ってきていたはずの2体がどこにも見当たらない。
隠れているのかとサーチしたが確認出来ない。真上から奇襲をかけてくるわけでも、土壌を掘り進んできているわけでもないのだ。
一先ず、目先の脅威を排除しようと引き金を引く。
炸薬音が連続し、銃弾の雨が降り注いだ。球茎に被弾したイビーが悲鳴をあげて仰け反ったのを目撃して、黄色い腫瘍が弱点なのだと察知する。
全ての腫瘍を狙撃する。イビーは夥しい体液を散らしながら、ガラスを擦り合わせたような甲高い絶叫を轟かせて倒れ伏した。
(……まだ生きているようだ。じきに復活するか)
恐らく球茎は心臓のようなもので、全身へ体液を行きわたらせ活動能力を確保するための原動力なのだ。
つまり、全て破壊したところでイビーを始末出来たわけではない。いずれエンジンは再生し、再び起き上がって徘徊を始めるだろう。
倒れながらも未だ脈打つ異形を一瞥して、ハンクは通路へ戻るための梯子へ進んだ。
登り切ると、そこには何故か待機させたはずの『LISA-001』が立っているではないか。
「はんく!」
少女はハンクの姿を目に留めると、ホッとしたような笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
しかし当然ながら、ハンクが歓迎を示すことはない。
「何故ここにいる。待機しろと命令したはずだ」
「う……」
ハンクの言葉に歩を止め、口籠る少女。裾を握り締めながら、いたたまれなさそうにしょぼんと俯いてしまう。
「はんく、あぶないとおもったの。だから、だから」
「私は何も考えずに命令を下しているわけではない。同行が危険だと判断したから残したんだ」
「っ……」
「命令無視は排除したリスクを背負い直すことになる。お前の配慮がどうあれ、独断専行は命を脅かす愚行と知れ」
「……ごめん、なさい」
目頭に涙を貯める
「だが脅威を退けた点だけは評価する。助かった」
「!」
意外な一言に、今にも泣きだしそうだった少女は驚きに目を丸くした。
ハンクは背後にある散らばった死体を目撃したのだ。まるでパーツを外された玩具のようにバラバラになっている、醜い植物人間の死体たちを。
状況からして『LISA-001』がやったのは明白だ。ハンクを追って下層に落ちるより早く、少女が怪物を仕留めたのだろう。
死神は物事を全て対等に評価する。命令反故には叱咤を、脅威の排除には礼を。それが彼のやり方だ。
もっとも、精神的に幼子である『LISA-001』が、100%命令遵守することはないと理解していたのもあるかもしれないが。
「次から必ず命令を守れ。いいな」
「……うんっ」
表情に薄明かりを灯す少女。ハンクは手を仰ぎながら着いてこいと指示を出し、帰路のダクトへ向かって歩を進める。
感情を写さない無機質なマスクの下で、一抹の謎を噛み締めながら。
(奇妙だ)
思考の矛先は、『LISA-001』の仕業であろう解体された死体にあった。
懐中電灯しか光源が無くともはっきり確認できるほどに、それは目に留めずにはいられない異様さに満ち溢れていたのである。
(傷があまりに綺麗すぎる。異常なほど鋭利な切り口だ。まるで日本刀にでも輪切りにされたかのように)
怪力で無理やり引き千切ったり、ましてや粗雑な爪で裂いたような荒々しい痕跡ではない。
イビーの死骸は例外なく、美しいまでの直線を描く輪切りだった。さながら東洋の剣豪が、一太刀のもとに唐竹を両断したかのような有様なのだ。
おかしな点はそれだけに留まらない。断面が焼き焦がされていたのも気掛かりだった。そのせいか体液の散乱さえ見当たらない。
(レーザーカッターで焼き切ったような痕だが……何をした?)
少しだけ振り返る。ハンクが視線を寄越して不思議に思ったのか、少女はきょとんと小首を傾げた。
少女の――『LISA-001』の姿形は人間のそれと変わらない。髪が光を弾く銀髪なこと以外、いたって普通の幼い子供だ。リッカーのような爪や牙なんてどこにも無い。
いくら電気を操れるとはいえ、人体を容易く細切れに出来る武器など無さそうに見える。
(生物兵器、か)
アンブレラの獣は例外なく、人智を越えた怪物だ。一般的に愛らしい姿であろうとも、その事実は未来永劫変わらない。
彼女は発電能力以外にも何か爪を隠している。本人に隠しているつもりなど毛頭無いかもしれないが、これで仕込み刀の存在は明らかとなった。
その正体も、いずれ分かる時が来るだろうとハンクは踏んだ。
願わくばソレを拝むことにならぬよう祈りながら。
◆
プラント43の凍結を完了した。ダクトの中に巣食っていた植物も全て活動を停止し、ただ鬱陶しいだけの草が蔓延る様相となる。
ハンクはナイフを使って藪を切り拓き、易々とメインシャフトへ帰還を果たした。
停止した電力中枢を目前に手に入れたヒューズを取り出す。口を開けたまま固まっている機械に挿し込めば、暗澹に沈んでいたNESTがようやく息を吹き返した。
明滅の後、施設へ明かりが舞い戻る。そこかしこから機械の駆動音も聞こえてきた。
無事停電を解決したらしい。これでエレベーターや自動ドアも使えるだろう。
懐中電灯を切り、ハンクは次の行動を画策する。
(GウィルスはP-4レベル実験室にある。が、道中で先に『LISA-001』のデータを回収しておく方が効率的か)
P-4レベル実験室も、職員が言っていたデータ保管場所も、全て同じ西エリアにある。
ここからの距離を考えると『LISA-001』のデータを目指す方が近く、おまけにそのまま階を上がればP-4レベル実験室へ向かえる道順となっている。
先にデータを手に入れて、その後Gウィルスを回収する――ハンクの行動方針が固まった。
(弾薬のストックと代わりの武器も調達しておこう。このままでは戦力不足を解消できない)
今現在、ハンクの手持ちはMPUの弾薬が5発分とLE5の28発、ナイフ二振りに手榴弾ひとつしか残されていない。
NESTの潜在的危険性を考慮すればあまりに厳しい装備である。どこかで物資を集めなくては死期を早めるのは明白だった。
幸い、NESTは一部生物兵器の管理も担っていたアンブレラの施設である。いざという時の護身用や鎮圧用の武器が保管されていてもおかしくない。探索すればそれなりに見つかるだろう推測した。
「はんく」
ハンクが行動に移ろうとしたタイミングで、少女がおもむろに声を上げた。
視線を寄越せば、何故か気恥ずかしそうにもじもじしている。別段悪い事態ではなさそうだが、少し、いやかなり様子がおかしかった。
「どうした」
「あぅ……ぅ……」
「言いたいことがあればはっきりと言え。言葉とはそう使うものだ」
「ん、う。えっと、ね。おなか、すいた」
「……なに?」
「おなかすいたの」
きゅる、と腹の虫が相槌を打つ。照れ臭かったのか、腹部を抑えて俯く少女。
今は曲がりなりにも緊急事態だ。呑気に食事を楽しんでいる場合ではない。むしろハンクたちの方が怪物の食事にされるかもしれないくらいだ。
普通なら、『我慢しろ』の一言で斬り捨てていたことだろう。
しかし、発言主が『LISA-001』となれば話は大きく変わってくる。
何故なら彼女の正体は、見た目こそ人間ではあるものの、人食いの怪物となんら大差ない存在なのだから。
(自ら発言したということは、我慢の限界が近いか。なるほど、あの時怪物の死体から眼を離さなかったのは……)
少女を護衛するために3体のリッカーを屠った際、『LISA-001』は興味をそそられるような眼差しで亡骸をずっと眺めていた。
あれは怪物の死を悼んだとか、残酷な有様に嫌悪を示しただとか、真っ当な理由ではなかったのだ。ただ単純に、彼女の瞳には転がる肉塊がクリスマスのグリルチキンと同じように映っただけなのである。
足取りがおぼつかなかったのも空腹のせいだ。T型生物兵器ゆえの欠点か、彼女は見た目以上に燃費が悪いと推察できる。
(死活問題だな。このまま空腹を放置していれば、背後からいきなり襲撃される可能性がある。食糧の確保も考えなくてはならないか)
B.O.Wの取扱いにおいて、生命危機こそが最大の脅威と言える。特に餓えは不味い。感染者を見れば、その恐ろしさが如何なるものか猿でも理解できるだろう。
いくら懐いているとはいえ、少女にとってハンクは十分可食可能な存在である。空腹に耐えかねて知性が低下し、本能的に捕食されたとあっては笑い話にもならない。
「分かった、検討しよう。普段何を食っていたか覚えているか?」
人に対して攻撃的でないところを考えて、主食は人肉ではないはずだ。きっとウィルスによる驚異的な新陳代謝も補えるよう調整された専用のフードがあるだろう。
思惑通り、少女は名を口にする。
「ちゅるちゅる」
「……ゼリーだな」
「うん」
つまりジェル状の栄養補給剤だ。手軽かつ、保管も携行も容易とくれば理想的な形態である。
(男性職員の発言を信じるなら、『LISA-001』はNEST内でも秘密裏に開発された生物兵器だ。彼女を匿っていた場所に栄養剤が保管されていても不思議ではない)
食糧調達も鑑みると、やはり西エリア中層の探索が最優先だと判断する。
そうと決まれば行動は早く、ハンクは『LISA-001』を連れてエレベーターまで向かおうと――
「はんく!」
――唐突な少女の絶叫が、彼の足に釘を刺すように縫い留めた。
絶叫の源は背後からの異変だった。メインシャフトの天井が突如悲鳴をあげて崩壊し、まるで大重量の物体が墜落したかのような衝撃が爆発の如く拡散したのである。
硝煙と共にメインシャフトへ降り立った未知の物体。暗赤色のレンズ越しに捉えたハンクは、感情を表に出さない彼にしては珍しく、忌々しそうに舌打ちした。
それはこのNESTを捜索するうえで、最も遭遇したくないと警戒を寄せていた存在で。
(……よりによって、満足に装備も整っていない時に現れるとは)
毛髪の無い丸められた頭。死人を彷彿させる灰色の肌。人間ベースとは思えぬほど肥大化した筋肉の鎧。そして、一切の感情を写さない虚無の顔貌。
ハンクを見下ろすほどの巨躯をもった大男が、悠然と二人の前に君臨した。
それはアンブレラの象徴にして最高傑作。暴君の
コードネームを
「振り返るな! エレベーターに向かって走れ!」
寸分の迷いもなく引き金を絞る。自動機関銃が雄叫びを上げ、無数の弾丸が解き放たれた。
このタイラントはアンブレラによる制御加工が施される前段階の個体なのか、対弾・対爆仕様のトレンチコートを纏っていない。剥き出しの肉体だ。
即ち銃弾が直接通用する。ハンクはそこに賭けたのだ。
だがしかし、怪物は銃撃の嵐を浴びようが物ともしない。まるで小石を投げられた程度でしかないかのように、威風堂々とハンク目掛けて走り出した。
重々しい足音と共に重戦車のような巨体が迫る。まともに喰らえば人体など豆腐の如く砕き散らすだろう、凶器の拳が振り上げられた。
叩き降ろされる直前、ハンクは間一髪でタイラントの股下を滑り抜ける。暴君のハンマーパンチは床の金網を粉砕し、絶大な破壊音と共に金属の亡骸を生み出した。
硝煙と火花が舞う。床から腕を引き抜いたタイラントは、光の無い瞳でハンクを睨む。
(一撃でも貰えば終わりだ。骨も内臓もまとめて挽肉にされる。動きを読み、隙を突け)
全神経を集中させ、死神は暴君と相対する。
しかし応戦できる時間は残り少ない。あと数秒足らずで弾薬が底を尽きるからだ。
刻み付けた銃創が現在進行形で再生しているというのに、残り十数発程度の弾丸でこの怪物を仕留めるのは不可能に近い。そも、タイラントを絶命させるには対戦車砲クラスの火力が要る。
(勝利条件は始末ではない。任務遂行と生存を第一に考えろ)
顎に手を当て、首の骨を鳴らすタイラント。対するハンクは最後の手榴弾を手に取り、一息にピンを引き抜いた。
まだ
――その時だった。
「やああ――っ!!」
甲高い少女の叫びが響き渡ったかと思えば、目を焼くほどの眩い光と共に、タイラントが苦悶の絶叫を張り上げたのだ。
背後から少女がしがみ付いていた。そのままありったけの大電流を爆発させ、容赦なくタイラントを感電させている。
流石の怪物も雷撃の猛威を受けてはただでは済まない。肉を焼かれ、神経伝達を滅茶苦茶にされ、痙攣を起こして膝を着いてしまう。
だがタイラントはアンブレラの傑作だ。この程度でそう簡単にやられはしない。
満足に言うことを聞かない腕を伸ばし、首にしがみついている幼き叛逆者を掴み取った。そのままボールを扱うが如く、渾身の力で投げ飛ばす。
「あぐっ!?」
勢いよく壁に激突し、派手な音を立てながら崩れ落ちる少女。
電撃による莫大なダメージを受けたものの、代謝機能を改良されたタイラントの前には無力に等しい。瞬く間に体力を回復させ、膝に手を着いて立ち上がった。
標的がハンクから『LISA-001』へ移行する。予想外の反撃に怒りを滲ませ、伏して呻く少女へとどめを刺さんと走り出し、
「おい」
耳元から聞こえた男の声が、タイラントの思考をほんの一瞬鈍らせた。
刹那、死神の刃が容赦なく首元目掛けて突き刺さる。
肉が裂け、血潮が湯水の如く噴出した。
たまらず暴君は悲鳴を上げる。怯んだ隙にハンクは駆け出し、苦痛に喘ぐ『LISA-001』の元まで辿り着くと、そのままそっと抱きかかえた。
「■■■■―――ッ!!」
悍ましい暴君の咆哮が爆発する。思い通りに仕留められないちっぽけな獲物に対する、明確な憤怒の発露だった。
ナイフの落ちる音がした。既に首の傷は塞がっていて、出血まで完全に止まっている。
(急所への射撃。内臓を焦がすほどの電撃。ナイフでの刺突。これだけやって止まりもしないか)
驚異的な生命力を目の当たりにしたせいか、ある種の感動すら抱くハンク。
けれど、もはや狼狽える必要はない。
何故なら、既に決着はついていた。
(所詮、知恵の無い獣に過ぎん)
着々と肉体の再生を進め、今にも飛びかからんと奮い立つタイラントの足元に転がる異物。
手のひらサイズほどしかない、黒くて小さな丸いもの。
人間の悪意が造り出した、紛うことなき殺傷兵器が。
死神は静かに踵を返す。
静寂を食い破る爆発と、地獄の底に響くような叫喚を背にしながら。