【完結】The 5th Survivor   作:河蛸

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Umbrella must die

「ぐぁッ!?」

 

 激突、轟音。背中が砕け散ったかと錯覚するほどのインパクトに見舞われ、ハンクは肺の空気と苦悶の声を絞り出した。

 息つく間もなく、芥のように床を転がる。

 反射的に受身をとったまではいい。視界が切れかけの電球のように明滅し、これっぽちも足に力が入らないという『最悪』さえなければさらによかった。

 

(まずい……このダメージはッ……!)

 

 指一本も動かせない、というのはこんな状態なのだろう。ダメージのあまり神経が役割を放棄し、指令を失った体は荒々しい呼吸を繰り返すだけの肉塊と化す。

 だが問題は今にも内から破裂しそうな激痛ではない。震えだ。深刻な痛手を負った体が張り上げるエマージェンシーコールこそが問題なのだ。

 

 鋼鉄の意志に背き、膝が微かに笑っていた。眼球はノイズを訴え、耳鳴りは頭蓋をこじ開けてくるかのよう。腕は痙攣に呑まれ、まともに上がらない始末。

 濃厚な鉄の味が溢れてやまない。冷えた脂汗で背が滲む。もしかすると、叩きつけられた時に内臓をどこかやってしまったのかもしれない。

 

(ぐッ……くっ……!)

 

 渾身の力を込め、立ち上がらんと活を入れる。

 だが立てない。当然だ。ハンクはSF映画の超人ではない。人智を越えた膂力をもって弄ばれ、おもちゃにされたカエルの如くコンクリートに叩きつけられて無事でいられるものか。むしろ生きている方が不思議だろう。

 

 そもそもハンクは、丸一日昏睡に陥るほどの一撃をバーキンに見舞われていた。常人なら歩行すら満足にできない容態だったはずなのだ。それを鍛え抜かれた肉体と精神力で補っていたにすぎない。

 

 今、その臨界を越えてしまった。

 怪物たちとの死闘で酷使され続けた肉体が、先の痛打で決壊寸前まで追い込まれてしまった。

 絶体絶命。

 どす黒い未来が、大口を開けて嗤っている。

 

「りざ」

 

 響く。

 

「りざ、りざ、りぃいいぃざぁああああ」

 

 響く。響く。

 耳が腐り落ちかねない、汚濁の叫びが響き渡る。

 これがヒトの声なのだろうか。いいや違う。断じて違う。

 悪霊だ。地獄の底から泣き叫ぶ悪霊の声だ。

 

 ――――アンブレラの魔物が、腐肉の山から醜悪な歌を奏でて姿を現した。

 

 全体的に細い、針金のようなフォルムだった。

 腕や足、指に首。五体全てが細く長く、異様なまでに伸びきっている。吹けば折れてしまいそうな心細さと、何度でも立ち上がりかねない執念が癒着しあった風貌だ。

 

 皮は骨に張り付き、でこぼこした骨格が浮き彫りになっている。髪もバサバサで粘液にまみれ、まるで土砂降りの墓場から這い出たばかりの幽鬼のよう。

 顔は辛うじて原形を保っているものの、小刻みに震え、ぎょろぎょろと独りでに蠢く右目や、唇を失くし歯が剥き出しとなった口からは生前の端麗さなど微塵もない。

 

 だがしかし、真に目を惹くのは全貌ではない。

 

 下顎から胸の中央にかけて走りぬける、裂傷のような生々しい亀裂があった。

 包丁で力任せに裂いたような裂け目の中に、ナニカが蠢いているのがはっきり見えたのだ。

 まるで涎を吐き垂らす口のように、絶えず粘液を滴らせる傷口は、さながら別の生き物が喉に擬態しているのではないかとすら思わされる。

 

 惨たらしい変異の果てに、かつて人間だったはずの女は、まったく別の存在へと生まれ変わっていた。

 

 

「まま!」

 

 ハンクと異形を隔てる少女。痰を絡めるような不気味な音を垂れ流しながら前進する母の行く手を、両手をいっぱいに広げて妨害する。

 異形の動きが止まった。

 血走った左目で、少女をじいっと見据えていた。

 

「まま。わたしだよ。わかる?」

 

 沈黙が空気を澱ませる。ぎょろぎょろと動きを止めない右目に理性の片鱗はない。

 けれど、少女を見据える黄ばみきった左目は、微かな知性を宿しているようで。

 

「りさ」

「! ……うん、りさだよ、まま」

 

 一歩、少女は前へと歩み出す。

 そっと手を伸ばす。皮が腐り落ち、肉が剥き出しになった母の頬へ、触れるか触れないかの力加減で。

 

「まま、はんくはだめ。だめなの。はんくは、わたしをまもってくれたの」

「……?」

 

 ゴキン、と聞こえてきそうなほど折れ曲がる異形の首。

 支離滅裂に動き回っていた右目がピタリと止んだ。

 収縮し、黒点のようになった瞳孔は、左目とは違うただ一点を見つめている。

 少女の背後、黒づくめの特殊装備に身を包んだU.S.S(ハンク)の姿を。

 

「――ん、ブれら」

 

 鮮黄の唾液が、糸を引きながら落下した。

 

「あンぶ、れら、アんぶレら、あんぶれら、ガ、ごぉ、ォォ■■■■■■――――――ッ!!」

「まま……!?」

 

 血の塊を吐くかのような怒号だった。

 喉の亀裂から嘔吐を彷彿させる濁音が生まれる。胃をひっくり返しそうになる激臭の液を噴き出し、肉の痙攣が始まった。

 次の瞬間、亀裂がばっくり裂けたかと思えば、尖鋭なナニカが凄まじい速度で銛のように射出されたのだ。

 

 触手だ。少女の動体視力が捉えたソレは、牙を生やした蚯蚓(ミミズ)のような触手だった。

 喉を裂いて飛び出た触手は、それ自体が別の生物であるかのような金切り声を張り上げながら、少女など脇目も振らず吹っ飛んでいく。

 矛先は、壁に寄りかかっているハンク一点。

 

「っ!」

 

 ハンクは懐からナイフを引き抜き、反射的に投擲した。銀に輝く刃は吸い込まれるように突き刺さり、絶望の進撃を辛うじて食い止める。

 黒板を爪で思いきり引っ掻いたような奇声が轟く。同時に肉の先端から、筆舌に尽くし難い黄ばんだ膿が滝のように溢れ出た。

 

(こいつは……!) 

 

 腐食性の液体だった。人体をも無慈悲に溶かし尽くす、酸のような液体だった。

 グズグズと、ブジュブジュと。ケミカルな刺激臭と煙幕を無尽蔵に吹き上げながら、数多のゾンビを屠ったコンバットナイフを瞬く間に溶解させていく。

 異形の無感情な――いいや。殺意というどす黒さに埋め尽くされた狂気の瞳が、まっすぐハンクを射貫いていた。

 

(強酸性の体液、サソリの尾のような消化管――やはりこいつが元凶か。短期間でここまで変異するとは、一体何人の死体を食い続けた?)

 

 しかし、今更分かったからどうなるというのだ。

 ハンクは『LISA-001』のような生物兵器ではない。たった一呼吸で傷が治るように出来ていない。

 

 一度目はナイフで防げた。でも二度目は? 三度目はどうだ? 

 あの触手はすぐにハンクを仕留めにくる。煮えたぎる殺意を抱いて、眼にも止まらぬスピードで、五臓六腑をドロドロのスープに調理するだろう。

 満身創痍のハンクが、そんな怪物の猛攻を捌き続けるなど不可能に等しい。

 

 ――ああそうだ。ハンクならば不可能だ。

 

「ごめんなさい」

 

 一陣の閃光があった。

 稲妻を帯び、溶鋼に匹敵する熱を纏う、音すら切り裂く一閃があった。

 命を溶かさんと嘲笑う触手を、蛍火の軌跡を描きながら吹き抜ける、落花のような斬撃が。

 

 凪のような沈黙が支配した。

 時の流れにラグが生じる。一寸ばかりの間がひらく。

 遅れて、触手の輪切りが地に落ちて。

 

「……ァ? いァ、ガ、ギ、ギギギィィィィィアアアアアアアア――――!!」

「まま」

 

 焼き焦がされた断面から煤けた黒煙が立ち昇る。ビチビチとトカゲの尾のようにのた打ち回る触手が生々しい。

 異形の悲鳴が虚空を裂いた。しかしそれは激痛に喘ぐというより、予想外の反撃を喰らった驚愕とも取れる声色だ。

 

「ずっと、ずっと、あいしてる。ぜったい、ぜったい、わすれないから……!」

 

 ()()を囁き、ハンクを庇う小さな背中。

 粘つく床を、強く強く踏みしめて。かつて母だったモノと対峙する無垢な背中。

 その身は脆弱な童に非ず。姿と心は人形(ひとがた)でも、中身はウィルスが育んだ怪物だ。

 

 ――証を示すように、か細い両腕は人外の片鱗を発現していた。

 

 前腕部。橈骨と尺骨の間を突き破るように、腕から金属のブレードが飛び出していた。

 空気を焼くほど赤熱し、磁励音と酷似した波濤を放つ二振りの刃。幽かな稲妻を瞬かせる第六の爪。

 けれどそれは、爪と呼ぶにはあまりに洗練され過ぎていた。

 鋭く、気高く、悍ましい兵器像とかけ離れた姿は、まるで研ぎ澄まされた刀のよう。

 

(これが……植物の怪物(イビー)を細切れにしたカラクリの正体なのか)

 

 体内の金属質を凝集させ、骨組織を覆うことで電熱ブレードを実現させた異端の骨爪。

 雷電を帯び、灼熱をもって獲物を断つ、『LISA-001』の真骨頂。

 ハンクは彼女を抱えた時、予想外の重量に鉄塊でも仕込まれているようだと比喩していた。

 それは比喩ではなかったのだ。それこそが望外の真実だったのだ。

 

「……覚悟はいいか、『LISA-001』」

 

 死体のように不動のまま、ハンクは少女に言葉をうつ。

 母を正しく葬る覚悟。それと向き合う決意を、ただただ静かに問いかける。

 少女は真っ直ぐ、「だいじょうぶ」とだけ言葉を返した。

 

「ならば作戦だ。お前は時間を稼げ。ヤツの視線を奪い続けることに集中しろ」

 

 予想外の指示だったのだろう、少女はほんの少しだけハンクを伺うように振りかえった。

 少女に代わり、怪物から眼を逸らさぬままハンクは繋げる。

 

「その爪が絶大な破壊力を持つことは知っている。だがしかし、闇雲に振るえば日記ごと八つ裂いてしまいかねん。決着は私がつける。そのために隙を作れ」

「……ん。どれくらい?」

「3分だ。3分だけヤツを引き付けろ。出来るか?」

「うん」

「よし」

 

 それより先は言葉など不要。

 少女は異形を見据え、重く一歩を踏み出していく。

 熱を放ち、存在するだけで空気を焦がす、二振りの刃を携えながら。

 

「アンぶ、レらァァ……!!」

 

 焼き切られた触手の断面が怨嗟と共に溶けていく。

 次の瞬間、薬に漬けられた発泡スチロールのように泡立つ肉の中から、新たな触手がまるでトカゲの尾のように再生した。

 しかし様子がおかしい。以前と違う。

 無数の水疱に覆われて、絶えず強力な酸を染み出していた。あれでは触れただけで水膨れが破裂し、酸のシャワーを浴びかねない。

 それはまさしく、爆弾を宿したような変異だった。

 

「■■■■■■―――――――ッッ!!」

 

 餓えた獣より狂気に堕ちた、血潮も凍る雄叫びが炸裂して。

 瞬きよりも(はや)く、母子(おやこ)は互いを抉り合う砲弾と化した。

 

 

 

 

 肉を纏った死が迫る。

 獰猛な殺意を抱き、蝕まれた狂気で牙を研いだ怪物が、雷鳴のような咆哮と共に突撃する。

 

「ッ!!」

 

 大気を切り裂き、紅蓮の軌跡を刻みながら駆ける少女。

 爪の威力は証明済みだ。イビーを容易く細切れにし、人間を玩具のように屠る触手を豆腐のように斬り落とした力は舌を巻くほどである。

 

 その脅威を、ウィルスに冒された頭脳で学習してなお、異形は『LISA-001』を敵として認識しなかった。

 

 外見からは想像もつかない敏捷さで突っ切る異形の矛先は少女ではない。

 その背後。壁に寄りかかり、立ち上がろうとしているハンクのみが、血染めの視界を埋め尽くしていた。

 

「アァァァァあああああンぶレラァあァァァァアアアアアア――――――ッ!!」

「させない!」

 

 SF世界のビームサーベルが空を薙いだような静音が、少女の腕と共に描かれた。

 刃が向かう先は異形の足だ。蜘蛛のように伸びた足を、その膝下を。根菜を叩き切るが如く、真っ二つに両断したのだ。

 暗闇を広げるような絶叫が破裂する。異形は床の肉片たちを派手に散らかしながら転がった。

 しかし止まらない。殺意の獣は苦痛を介してなどいない。

 操り人形を彷彿させる不気味な挙動で立ち上がり、すぐさま猛進を再開した。

 

 ――立ち上がったその先に、鴉の男はいなかった。

 まるで腐肉から立ち込める脂の霧に撒かれてしまったかのように、忽然と姿を消していた。

 動揺。異形の原始的な脳が、不測の事態にブレーキを掛けて。

 

「ううああっ!!」

 

 混乱する異形の虚を突き、残された片足を少女の刃が焼き切った。

 巨体が崩れ落ち、芋虫のように這い蹲る。血脂に濡れた髪を振り乱して、硝子を砕いたような咆哮を爆発させた。

 

 次の瞬間。少女の視界が、ミキサーにでもかけられたかの如く縦横無尽に攪乱した。

 

「あぐっ!?」

 

 気付けば宙を舞っていた。気付けば壁に叩きつけられていた。

 油断などしていない。少女は完璧に女の死角を陣取っていた。足を狙って行動力を奪い、背後をとって虚を穿つ完璧な行動だったはずだ。

 

 見間違えでなければ、女の関節があり得ない方向に捻じ曲がっていた。

 腕が逆転したのだ。関節を真逆に付け替えた人形のような動きで背後の少女を掴み、一切の加減なく放り投げたのだ。

 

 爆発する鈍痛をこらえて立ち上がった時には、怪物は既に悠然と起き上がってしまっていた。

 治っている。切断された両足が、何事もなかったかのように戻っている。

 焼け焦げた断面からムカデのような触手がうぞうぞと這い出し、斬り落とされた足を()()したと知った時、少女の背に雪解けのような冷たい汗が流れ落ちた。

 

 けれど、襲いかかってくる気配はない。少しばかり様子がおかしい。

 頭を抱え、呻き声を上げて苦しんでいる。激しい頭痛に抗うようにのた打ち回り、ついには床へ額を叩きつけ始めていく。

 

 絶叫が奔る。 

 少女の鋭敏な聴覚は確かに捉えた。獣の咆哮に、微かなヒトの声が混じっているのをはっきりと。

 

「あああああ、りさ、りさ、ダめだ、わたシに、わタじに近づい、ちゃ、あ、ああああああああああああ……!!」

 

 ――答えを得た。

 

 怪物に成り果てたこの女は、僅かな理性で少女を襲うまいと、今の今まで抗い続けていたのだと。

 しかし女は今度こそ、ウィルスに呑まれ『LISA-001』を脅威とみなす。

 

 全身が浮き上がったどす黒い血管に埋め尽くされた。

 限界まで脈打つ血潮に耐え切れず、目頭や歯茎から重油のような流体が溢れ出す。

 醜悪さの暴走は留まるところを知らず、時を経るごとに人の領域から外れていく。

 生前の面影なんて、一握の砂ほども残らないほどに。

 

「……っ」

 

 ――視たくない。 

 ――これ以上、あなたが醜くなっていく光景を視たくない。

 ――だったら、わたしはどうすればいい?

 

「ふーっ、ふーっ」

 

 呼吸が荒くなっていく。自己主張を増した心音が頭蓋を揺らす。

 猛り吠える獣性が脳漿を冒してくる感覚があった。少女の中に潜むウィルス、その頭文字――暴君(タイラント)の性が、幼き遺伝子の奥底から産声を上げようとしているのだ。

 

 熱い。熱い。熱い。

 膨大な灼熱感が湯水の如く湧いてくる。

 叫びが聴こえる。血流に乗って耳まで届く。

 本能に還れと、眼に見えない暴君が囁いてくる。

 頭が蕩けて、心地よくなってくるほどに。

 

 

『思考を止めるな』

 

 

 けれど。それでも。少女は獣に堕ちはしない。

 例え無垢の裏に潜む怪物が、彼女を血みどろの世界へ手を招こうと。

 それを払う人がいる。鮮血の双瞳で暗闇を拓き、少女を守る人がいる。

 

「……わたしにできる、()()()()を」

 

 だから少女は人で在る。気高き人間で在るために、内なる獣を叩き伏せる。

 どうすればいい? ――そんなの、とっくに分かり切っていた。

 与えられた任務を果たす。それこそが、少女に出来る最善に他ならない。

 

「まま!」

 

 爪の熱を爆発的に引き上げて。稲光を明滅させて。

 変わり果ててしまった母へ、本当の恩返しをするために。

 生まれて初めて、少女は反旗を翻した。

 

「わたしを、みて!」

「■■■■■■」

 

 ゆらり。幽鬼のように細長い体が揺らめいて。

 生理的嫌悪を引き出す悪音を巻き散らしながら、異形の女は強酸を吹く大蛇を吐き出した。

 しかもひとつではない。根元からさらに姿を現し、首を切られれば増殖するヒュドラのように襲い掛かる。

 

「やぁあああああッ!」

 

 鉄板すら貫く怪物の一射を、常識を超えた反射神経で見切り、再び触手を切り飛ばす。

 体液が暴れるホースのように噴射した。骨すらグズグズに溶かす猛毒だ、触れれば当然ただでは済まない。

 少女は地を蹴り、溶解液のシャワーを浴びる前に戦前を退く。

 

 遅かった。

 いいや。そもそもが間違いだったと言うべきか。

 

「ぎッ……!! いづッ、うぅぅぅっ……!!」

 

 神経へ熱した油を注がれたような激痛が、あまりにも無慈悲に襲いかかった。

 浴びたのは刃だ。触手を斬り落としたブレードが沸騰し、夥しい水蒸気と激臭を噴き上げている。

 金属のコーティングが成す術もなく溶かし尽くされ、一気に侵食されていた。

 

 鋼の下は生きた組織だ。骨髄も神経も全て備わっている。

 それをまとめてグズグズに溶かされた。想像を絶する痛みが濁流の如く蹂躙し、一瞬にして脂汗が滝のように溢れ出す。

 しかも、爪だけでは終わらない。

 

(ひろがってる……! うでに、ひろがってくる!!)

 

 手を下げようが振るおうが、腐食液が爪を上って、腕まで侵略してくるではないか。

 体で毛細管現象を実験しているかのようだった。眼を見張るスピードで細胞から細胞へ伝染し、魔の手を着実に伸ばしている。

 濃硫酸が生易しく思えるほどの破壊力。まるで生きるモノを徹底的に壊すためだけに存在するかのような、邪悪さすら感じるほどの猛毒だ。

 

「ッ!!」

 

 腕まで溶かされるのはまずい――本能的に危機を悟った少女は、残された爪で病巣を一息に切断した。

 奥歯から血が滲みそうな痛みが、腕を中心に神経を八つ裂く。

 

(いっ……!! いたい、いたい、いたいよ、はんく……!)

 

 鮮血が断面から溢れ出す。

 しかし流石は生物兵器か、体内のウィルスがすぐさま凝固を促し、負傷組織をみるみる回復させていく。

 

 それでも痛覚が働かないわけではない。むしろゾンビや通常のB.O.Wと違って中枢神経が正常な分、より強烈なパルスを味わう羽目になる。 

 ある種、これが彼女の弱点といっても過言ではない。

 

 数値上、戦闘データがタイラントの平均を上回っていたとしても、『LISA-001』は戦闘向きの存在ではない。そういう精神構造をしていない。

 ハンクという支えが無ければ、ここで倒れ伏していた可能性すらあるほどだ。

 

(でも……あと、すこし……!)

 

 折れたブレードが伸びていく。あっという間に元の形を取り戻す。

 歯を食いしばって前を向き、全速力で駆けてくる異形の女を捕捉して。

 

(もうすこしだけ、がんばらなきゃ!)

 

 3分経過まで、残り1分。

 少女は敢えて、万物を腐らせる化け物の懐へ突っ込んだ。

 異形の腕が鞭のように振り下ろされる。少女は床を蹴り飛ばし、まともに喰らえばミンチのマンホールにされかねない致命の殴打を回避した。

 

 床が砕ける破壊の音を背に受けて、少女は思考を加速させる

 

 胴は狙えない。電気も使えない。

 たたでさえ腐った体液や腐肉の雨で異形の女はどろどろなのだ。これ以上日記を破損させるなど許されない。

 かといって頭部を狙うのは危険すぎる。異形の身の丈は3m近くあり、小柄な少女は跳ばなくては攻撃できないからだ。

 安直な跳躍は莫大な隙を生んでしまう。それを見越して、ハンクは少女へ『殺せ』と命令しなかったのだろう。

 

 だから、徹底的に足を狙った。異形の女の再生能力が追いつかなくなるほどに、ぐるぐる旋回を繰り返しながら鎌鼬のように切りつけた。

 敏捷さでは『LISA-001』に軍配が上がる。小柄な体躯と小回りを活かし、常に死角へ潜み、無尽蔵の斬撃を叩き込む。

 

「ガァアアアアアアアア―――――ッ!!」

 

 声帯から血を噴き出すような異形の咆哮が爆発した。

 腰を基点に胴体が真後ろまで捻じ曲がる。ちょこまか動き回る少女を、蜘蛛のような腕で捉えんと解き放つ。

 腕だけではない。顎の亀裂から二本の触手が、またしても金切り声と共に現れた。

 

 だがしかし、同じ手を食うほど『LISA-001』は間抜けではない。

 五感を研ぎ、動きを予測し、人間を凌駕した反射神経をフル稼働して、不規則な猛攻を見極めていく。

 

 右からの一閃。屈んで躱す。

 上と左から波状攻撃。腕は切りつけ、触手は触れずに転がって避ける。

 心臓目掛けて放たれた一射。床を蹴飛ばし、宙を回転しながら蝶のように回避する。

 強酸のスプレーは、全速力で異形の背後へ滑り込んで難を逃れた。

 

 隙を貫き、虚を破り、バランスを奪うために切り裂き続ける。

 回避を重ねるたびに異形へ傷が刻まれていく。即座に再生するが、それを上回るペースで斬撃を放ち続ける。

 

 無限に思える攻防の行きつく先はただひとつ。ハンクが示した約束の時。

 刻限が訪れるその時まで、異形の一挙一動を『LISA-001』は縛り続けた。

 

 

「――よくやった。そのまま後ろに跳べ、『LISA-001』」

 

 

 時は、無音のままにやってきた。

 

 異形の首が激しく動く。黄ばみ血濡れた瞳が、真っ先に殺害すべき獲物へ向けて見開いた。

 少女もまた、釣られて声の方角へ。

 そうして映した視界の先には、無数のチューブの中央に立つ、漆黒の死神の姿が。

 

「消灯時刻だ。永遠に眠れ」

 

 躊躇なく、重々しいレバーが引き下ろされる音がして。

 刹那。狂瀾怒濤の大寒波が、異形めがけてブリザードの如く押し寄せた。

 

 

 

 

 この部屋は元々、冷凍睡眠によって生体を保存することを目的とした特別施設だ。

 棺桶型の夥しい機械は、細胞を破壊することなく一気に凍結するほどの極低温を扱う代物である。

 いくつかは破損していたものの、大部分は()()()()()()()。異形が漏れ出す冷気で食料を備蓄できるほどに、絶えず吐き出し続けていた。

 

 ハンクはそれを利用した。装置から冷気供給管をありったけに掻き集め、凍てつく嵐を無尽蔵に見舞ったのだ。

 

「■■■■■■■■■■■■…………!!」

 

 一台ですらタイラントも瞬時に凍らせる極寒の暴力を、複数台の出力をもってまともに浴びれば、例え燃え盛る炎だろうと凍死する。

 それでも素直に凍らない。女は長い腕で頭部を庇い、執念の力でハンク目掛けて疾駆した。

 最後の一撃。猛毒の触手が、砲弾のように飛び出して。

 矛先がハンクへ達するよりも早く、女は霜を宿した氷像となって動きを止めた。

 

 悲鳴も凍り、静まり返る血反吐の世界。

 ハンクはレバーを上げ、彫像の傍へと歩み寄る。

 

「最後だ。お前の判断に委ねよう」

「……わたし、やる」

「そうか。ならば首から上を確実に狙え」

 

 少女はこくりと頷いて、過去の残影を振り払うように赤熱する刃を一薙ぎした。

 塊が落ちる。少女は手早くキャッチする。

 現実を呑み込むように瞳を閉じて、空白の果てに、そっと床へ安置した。

 

「……日記を回収する。おそらくここだ。少しだけ溶かせるか?」

「ん」

 

 ハンクの指示に従うまま、少女は異形の懐へ手を当てる。

 稲光。じんわり霜が溶け消えて、水滴が腕を伝って肘から落ちた。

 衣服の断片が解凍されると、ハンクは露わになったポケットへ手を突っ込んだ。

 感触がある。ビンゴだ。ハンクはそのまま、日記を壊さないよう引っ張り出す。

 

(……血脂で汚れている。やはり状態が悪い――が、どうにか解読は出来そうだ)

 

 ごわごわのメモを流し読みしたハンクは、一先ず研究室へ戻ろうと日記を仕舞い、いつもと変わらず歩き出す。

 静穏を取り戻したNESTを引き返し、エレベーターの中へ入って。

 上層へ進む。

 ボタンを。ボタンを。ボタンを。

 

「はんく?」

 

 鈍重な音が頭蓋中に響いた。

 視界が水面に落とした絵具のようにぐにゃりと曲がる。耳鳴りは鼓膜を射貫きそうなほどガンガン響き、聴覚を失ったかと錯覚した。

 

 おかしい。妙だ。

 立っていたはずなのに、視線が床と水平なのは。

 

「はんく……? はんく!?」

 

 少女のソプラノが。

 遠く、なって――――

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