羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない   作:Washi

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第10話 壊れかけの関係

 スマホの画面に表示された上原先輩のメッセージの通知。羽沢先輩から受け取ったときには、もう画面は点灯していた。それはつまり、このメッセージを先輩も読んだということを意味する。

 ……僕が羽沢先輩のことが好きであることが明示されている、この一文を。

 

「……見たんですか?」

 

 自分でも驚くくらい、声が低かった。もしその声が自分自身に向けられたら、怖いと思うくらいには。なのに、その声を……女子で、先輩で、想い人である羽沢先輩に対して発してしまった。

 

「っ……」

 

 返事が言葉として返ってくることはなかった。代わりに、羽沢先輩は顔を俯かせたまま……微かに頷いた。

 ……表情は見えない。だけど、両手を前で重ね、両肩を痛ましいくらいに縮こまらせていた。

 

 今まで、そんな姿を見たくなくて頑張っていた筈なのに……そんなことは忘れたとでも言うかのように、腹の底で煮えたぎったものが渦を巻き、胃が酸で灼けるかのように熱かった。

 

「ご、ごめんなさい……私、その……」

「なにに対して謝ってるんですか」

「っ……それは……」

 

 どうしても、険のある言い方になってしまう。それでも完全な大声までは出さないのは、店の裏にいるからという最低限度のストッパーがかかっているからだ。本当であれば、今すぐにでも叫んでしまいたい。

 

 さっきの、スマホを受け取るまでのやり取り。あれですらも、僕はかなりの無理をして平静を装っていた。紛れもなく、限界ギリギリだった。

 そこに、羽沢先輩への想いが知られるという事故が起きた。その瞬間、僕の中で留めていた色々なものが爆発してしまった。もう自分でも、抑えようがない。

 

「なんで……僕に、相談なんかしたんですか……! なんで、我慢しようって決めた途端にこんなことになるんですか……! なんで、こんな……!」

 

 正当な怒りじゃない。完全に八つ当たりだし、言ってることも支離滅裂だ。ただ、僕の心はもういっぱいいっぱいだった。一度に受け止められる感情の許容量を越えてしまった。とにかく、どのような形でもいいから発散したかった。

 

「羽沢先輩の答えはもう分かってるのに……どうして、知っちゃったんですか……! 知らなければ、知らないままだったのに……!」

 

 羽沢先輩はなにも悪くない。間が悪かっただけだ。スマホを忘れるのが悪いんだと、片隅に残った理性が語りかけてくる。でも、そんなの知ったことではない。激情という名の拳で理性を握りつぶし、子供のように喚き散らす。

 

「……っ! なんで、黙ってるんですか……!」

 

 謝られても苛つく。静かにされても苛つく。もう、なにをされてても苛ついてしまう。今の僕はどうしようもなく子供で、錯乱してて……みっともなかった。

 怒りに任せて、沈黙したままの羽沢先輩に詰め寄る。なんて言ってほしいのかも分からなかったが、とにかく黙った状態なのが不快だった。

 

 ……だったのだけど、近づいたことである異変に気づいてしまった。それは、僕の心を急速に冷やすのに十分すぎるほどの異変だった。

 

「っ……ぐすっ…………ぅぅ……っ、ひっ……く……ぅ」

「……っ!?」

 

 嗚咽。あの羽沢先輩が嗚咽を漏らしていた。最初はすすり声だけだったのが、やがて声が大きくなり、ポロポロと顔から雫が落ちては床を濡らし始めた。

 それを見た僕は、あまりの衝撃にその場で固まってしまった。

 

「ご、ごめ……っ……ごめん、なさい……! ぅ……っ……ごめ……なさい……っ……!」

 

 羽沢先輩は両手で口を押さえ、肩を痙攣させる。声が震えており、大粒の涙が次々と落ちる。何度も何度も、謝罪の言葉だけを繰り返す。見てるこっちが苦しくなってくるほど、痛ましい光景だった。

 

 ……怒りは、完全に霧散してしまった。そして残ったのは、羽沢先輩を泣かせてしまったという、死刑でも足りないほどの罪悪感だけだった。

 

「す、すいません、羽沢先輩……! ぼ、僕、そんなつもりじゃ……!」

「違うの……ぐすっ……ぅ……木下くんはなにも悪くないの……! ごめ……なさ……ぃ……私が……私が全部、悪いのに……っ……卑怯だよね、私……!」

 

 とにかく泣き止んでもらおうと、ハンカチを持っていない僕は代わりにテーブルの上のティッシュを何枚か取り、小さく畳んで差し出す。しかし、一向に受け取ってくれる気配はない。ティッシュを持った僕の手が、所在なさげに宙に浮く。

 こちらから無理に拭うことも考えたものの……今の弱々しい気配の羽沢先輩はガラス細工かのようで……少しでも触れたら、壊れてしまいそうで……手を動かすことが、できなかった。

 

 ……泣かせたかったわけじゃない。謝ってほしかったわけでもない。ただただ、僕がやり場のない感情をぶつけてしまっただけ。僕の心が弱かっただけ。その結果が……これだ。

 羽沢先輩にだって心の許容量があることを考慮もせずに当たり散らして、追い詰めて……最低だ、僕。こんなの、羽沢先輩の気持ちに関係なく、付き合う資格なんてないじゃないか。

 

 羽沢先輩が涙を零している間、僕はなにもできなかった。ただ側で、自己嫌悪に苛まれながら、意味があるのかも不明な慰めの言葉をかけることしかできなかった。

 

 結局、なにやら様子がおかしいことに気づいたらしいマスターが待機所にやってきて、場を収めてくれるまで、その状態が続いた。

 羽沢先輩が一旦自室に引っ込んだ後、マスターの娘を泣かせた僕は激しい非難を受けることを覚悟してたけど、そんなことはなかった。マスターはコーヒーを1杯出してくれただけで、なにも聞こうとしなかった。そしてその顔は、穏やかだった。

 その意図は掴みかねたけど……相変わらずコーヒーは温かく、美味しかった。それが今の僕の心の醜さを浮き彫りにしているようで、却って辛かった。

 

 その後、僕は再び羽沢先輩と話す勇気が持てず……マスターに挨拶だけして店を去るのであった。

 

 

***

 

 

 ……なんで、涙なんか流しちゃったんだろう。お父さんに促されて自室に戻ってしまった私は、ベッドの上で膝を抱えて座りながら、自分を責め続けていた。

 

 全面的に、私が悪いのに……あそこで泣いちゃうなんて……私はズルいよ。まるで、木下くんが悪者みたいにしちゃって……。あのとき、泣きたいのは木下くんの方だった筈なのに、あんな風に困らせちゃって。涙こそ止まったけど、流した量に比例して、罪悪感は増すばかりだ。

 

 木下くんの怒りは、正当な権利だった。木下くんの想いに気づかなかったのもそうだし、気づかずに恋愛相談をしてしまったのもそうだ。

 それが、どれほど辛い立場だったのか…………想像するだけでも、胸が張り裂けそうだった。さっき、大声を出さなかった木下くんはすごいと思う。私だったら……自信、ないかも。少なくとも、泣き出していたとは思う。事実、加害者側なのに泣いてしまったのだから。

 

 どうやって、償えばいいんだろう。どうすれば、許してもらえるんだろう。

 許してもらおうなんて考え自体、おこがましいのかもしれない。でも、やだよ……こんなに仲良くなれたのに、おしまいだなんて。嫌われたく……ないよ。

 

 側に置いてあった自分のスマホを取って、写真のアルバムを開く。何度かの操作を経て、目的の写真を表示する。それは、一昨日撮った内の1枚。調査用に撮ったスイーツの写真とは別の、自分用の1枚。そこには、木下くんが写っている。

 3店目で撮ったものだ。木下くんがコーヒーのカップに口を付けてる瞬間を狙って横から撮ったもの。写真の中の木下くんは、撮られる寸前にカメラに気づいたのか、目を点にしていた。スイーツの調査に来てたのに、コーヒーの味まで調べようと少しずつ飲んでは無言になってたのがおかしくて、思わず撮ってしまったのだ。

 この写真を見てるだけで、不謹慎だと分かっていても頬が緩み、顔に熱が籠もる。心に、僅かばかりの余裕が戻る。どうしても……目が離せなくなる。

 

 ……私は、なんて鈍いんだろう。馬鹿なんだろう。どうして、加藤くんに告白されたときに気づけなかったんだろう。どうして、木下くんに相談したくなったときに気づけなかったんだろう。そうすれば、こんなことにはなっていなかったのに。

 

 後輩であることを忘れちゃうくらい、頼りになる男の子。とても真面目で、頑張り屋さんの男の子。心配で放っておけなくて、ついつい支えちゃう男の子。側に居てくれるだけで、安心する男の子。

 

「っ……そっか、私……」

 

 お友達だと……ずっと思っていた。でも、そうじゃなかった。そうじゃなくなっていた。そのことに、今になってようやく気づいた。

 

「……好き」

 

 ストン、と胸に落ちる心地だった。ずっと足りなかったパズルのピースを埋めるように、その言葉はじんわりと私の胸の内に溶け込んだ。

 

 考えてみれば、簡単な話だった。例えば、カップルシート。あのときは恥ずかしさはあったものの、あれだけ密着してしまう座席にも関わらず、すんなりと木下くんを受け入れていた。

 もし、あれが加藤くんだったとしたら……彼には申し訳ないけど、きっと一般の席が空くまで待っていたと思う。

 

 その違いが、明確に答えを指し示していた。相談のときに木下くんの顔が思い浮かんだのはきっと……本心を知っていた無意識からの警告だったのかもしれない。本当にそれでいいのか、と。

 

 最初は、普通のお友達と思っていた。それは、間違いない。でも、いつの間にか……お友達として好きという感情の中に……僅かに、一欠片だけ…………異性として好き、という感情が混じり始めていたのだ。そして、それは日に日に大きくなっていった。ところが、私はその変化に気づけなかった。

 

 クイズ番組で、写真の一部が少しずつ変化するタイプの問題がある。あれと一緒だ。変化前と変化後を見れば違いは一目瞭然なのに、変化している間、その場所に意識が向いてないと、なにが変わっているかが全く分からない。そんな感じで、ずっと焦点がズレていた。

 

 ……その焦点が、先程の件でぴったりと合ってしまった。あまりにも遅く、残酷なタイミングで。

 

「……っ、でも……私なんか……駄目、だよ…………資格、ないよ……」

 

 心に温かいものが灯りそうになったその瞬間、私はそれを消し去るようにかぶりを振った。喜んじゃ駄目だと、己を強く戒める。その好きな人になにをしたのか、忘れたのかと。

 

 膝をより強く抱え、組んだ腕の中に顔を埋める。視界が真っ暗になった。

 

 自分の想いを自覚もせぬまま、考えうる最悪の方法で木下くんの心を抉ってしまった。そんな私が、木下くんの隣に立っていい筈がない。彼を支えられる筈がない。

 きっと、私なんかよりも木下くんに相応しい人が居るに決まっている。少なくとも、私は相応しくない。大人しく、身を引くべきだ。……それが、最善だ。

 

「っ……ぅ……ひっく…………ぐす」

 

 だから……だから……お願いだから……”嫌だ”……なんて我儘、言わないで。

 

「ぁぁ……っ……! ぅ……ぁ……っく、ぅ………ッ!」

 

 なんで……っ……また、涙が…………そんな資格、ないって言ってるのに……!

 

 止まらない。堰が切られたように涙が止まらない。洪水のように溢れては、服を濡らす。理屈で抑え込もうとした感情が止め処なく噴き出す。

 自業自得だとか、それが木下くんの為だと言い聞かせても、感情が納得してくれない。自覚するまでに恐ろしいくらいの時間がかかった癖に、往生際が悪い。

 

 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! なんで、私、こんな……鈍感なの……っ! もっと、早く気づきたかった……! そしたら、今頃……!

 

 ……結局、私は泣き疲れて眠ってしまうまでの間、ずっと自己嫌悪で蹲ったままだった。シフトに入ることも忘れ、夕飯も食べず、その日はずっと部屋に閉じこもってしまった。

 

 部屋から出て、ちゃんとご飯が食べられるようになるまでに…次の日の夕方までかかってしまうのであった。

 

 

 あの日……私が木下くんの気持ちを事故で知ってしまって以降……私たちの関係は、大きく変わってしまった。

 残りの夏休みの期間中、何度かシフトの時間が重なった。一緒に働いている間、表面上はこれといった問題は起きなかった。でも、それだけだった。普段の私たちを知る人から見たら、問題だらけだったと思う。

 

 お互い、顔をまともに見れなくなった。正確には、木下くんが顔を合わせてくれなかった。羞恥心によるものではない。戸惑いと、拒絶と、後悔。そんな感情が複雑に入り混じっているのがすぐに分かった。だって、私も同じようなものを抱えているから。

 

 口数が減った。というより、最低限の会話しかできなくなってしまった。シフトに入るときの挨拶とか、注文の伝達や料理が完成したときの連絡とか。仕事に支障が出ない程度の事務的なやり取りしかしなくなってしまった。

 なにか声をかけようと思っても、ごちゃ混ぜになった負の感情が言葉を封じてしまう。また、傷つけてしまうかもしれない。今度こそ、完全に拒絶されるかもしれない。木下くんの本心を知るのが怖くて、声が出なくなってしまった。

 

 話せないならばと、チャットツールを利用しようとしたこともある。でも、媒体が変わっただけで、結果は同じだった。どんなに慎重に言葉を選び、丁寧な文章を打ち込んでも、恐怖が消えることはなかった。送信ボタンを押すことができず、今も文章は残ったままだ。

 

 言うなれば、膠着状態。お互い、本心では曝け出したいことがたくさんある筈なのに、口を噤んだまま。ちゃんと話し合うべきなのに、心を閉ざしたまま。

 それは、息が詰まるような時間ではあったけど……同時に、私は安堵もしていた。木下くんに非難されていないことに。一緒に、仕事ができていることに。

 

 そうしている間にも時間は過ぎていく。1日、2日と経っていき、夏休みが終わろうとする。しかも、最後の方は宿題やら『ガルスパ』に向けた練習やらで大忙しで、木下くんとの一緒のシフトがほとんどなくなってしまった。

 

 そして、私たちのすれ違いによる弊害は、確実に大きくなっているのであった。

 

 

 8月31日。始業式前日。私たちは『CiRCLE』で、夏休み最後の練習に臨んでいた。『ガルスパ』に向けて、音合わせの練習を繰り返す。

 そんなとき、不意に音が止んだ。止めたのは、蘭ちゃんだった。

 

「——つぐみ! また音が遅れてる!」

「ご、ごめん、蘭ちゃん……」

 

 身を縮こまらせてしまう。始めたばかりなのに、注意されるのはこれで3回目だ。明らかに多すぎる。あの日以降、日を重ねるにつれて、ミスの頻度は上がり続けていた。

 『ガルスパ』まで、そんなに時間は残されていない。本番に向けて、少しでも完成度を高めないといけない時期だ。なのに……私の演奏は精彩を欠く一方だった。

 もちろん、個人での練習はしている。夏休みだったので、普段よりもずっとたくさん練習していた。なのに……木下くんとのことが頭の片隅に残って、集中しきれない。ふとした拍子に木下くんとのことを考えてしまって、気づいたら演奏が遅れているのだ。

 

「さっき、キーも少し間違えてたし……どこか悪いの?」

「ううん、そうじゃないの……本当に、ごめんね」

 

 一転して心配そうにこちらを窺う蘭ちゃん。その姿を見ていると、申し訳なくて仕方がなかった。具合が悪いわけじゃない。でも、問題を抱えているのも事実だった。

 

「つぐ、ほんとに大丈夫? もしかしたら知らない内に疲れてるのかもしれないよ? なにか、あったんじゃない?」

 

 次に声をかけてくれたのはひまりちゃんだった。彼女の声音はとても優しく、本気で私を気遣っているのが分かる。その気持ちは、とても嬉しかった。思わず事情を漏らしてしまいそうになるくらい、嬉しかった。

 

「だ、大丈夫……! 今度こそ、ちゃんとできるように頑張るから!」

 

 でも、言えない。『Afterglow』のみんなにだけは言えない。特に、ひまりちゃんには。もし事情を知ったら、ひまりちゃんはきっと自分を責めちゃう。ひまりちゃんだけ内緒にしたとしても、どこかで漏れてしまうかもしれない。だから心苦しかったけど……話せなかった。

 

「うーん、そっか。でも一応、次で早めの休憩にしよっか」

 

 またもや気を遣わせてしまった。後ろめたさを感じつつも、再度キーボードに指を添える。今はとにかく、目の前の練習に集中しないと。

 

 その後、私はなんとかみんなの演奏に喰らいつけるようにはなったものの、出来がよくないことに変わりはなかった。

 

 ……このままではいけない。そう思うも、依然として解決策は見えてこなかった。

 

 

 練習後、各々の用事があった為、『CiRCLE』で解散となった。みんなの姿が見えなくなったのを確認した後、1人になった私は肩を落とし、溜め息をつく。

 

 ——と思ったら、突然後ろから誰かが抱きついてきて、肩を跳ね上げてしまった。

 

「ひゃっ!?」

「つぐ〜、一緒に帰ろ〜」

「も、モカちゃん!? 用事があったんじゃ……」

「ふっふっふ〜、トリックでした〜」

 

 身動きできないので、顔だけを後ろに向ける。するとそこには、不敵な笑みを浮かべたモカちゃんが居た。わざわざ嘘をついてから私の所に戻ってきたみたいだけど……なんでだろう?

 

 本音を言えば、1人で帰りながら色々考えたいという思いも少なからずあった。でも、理由は分からないけど、そうしてまで一緒に帰ろう行ってくれるモカちゃんを無碍にできるわけがない。私はすぐに頷いた。

 

 2人横に並んで道を歩く。モカちゃんは練習前にやまぶきベーカリーで買ったらしいパンを歩きながら食べていた。

 

「はむはむ……いや〜、練習終わりのパンは最高だね〜」

「あはは、モカちゃん、本当にやまぶきベーカリーのパンが好きなんだね」

「それはもう〜、古今東西のパンの中でも、至高の美味しさだからね〜」

 

 モカちゃんの言い回しに笑みが溢れる。マイペースなモカちゃんとの会話で、気持ちが少しだけ楽になる。やっぱり一緒に帰ってよかったかも。

 ……そう、思ってたんだけど、次のモカちゃんの一言で私は顔を強ばらせることになる。

 

「それでー、つぐはゆー君となにかあったのー?」

「ぇ……」

 

 ぎくり、と胸が締め付けられた。再度モカちゃんの方を見てみると、既にパンは食べ終わっていて、いつもの緩んだ顔でこっちを見ていた。でも、幼馴染の私にはすぐに分かった。その瞳が真剣味を帯びていることに。

 

「ど、どうして……」

 

 本来ならば、ここで知らんぷりをするべきだった。でも、一足飛びで悩みの核心に触れられてしまった私は、動揺のあまり図星であることを認めてしまった。

 

「この前つぐのとこに行ったときー、なんだか2人の様子がおかしかったからー。こう……余所余所しい?」

 

 う、と呻き声を漏らしてしまった私を許してほしい。だって、あまりにもドンピシャだったから。意識的に作っていた笑みが崩れて、顔が曇っていくのが分かる。

 

 そういえば、前に加藤くんのことで相談したとき、モカちゃんは意味深なことを言っていた。もしかしたら……私の気持ちに、気づいてたのかもしれない。

 

「モカちゃんは、すごいね……」

「それはもう、名探偵モカちゃんですからー。それで、なにがあったのかなー? モカちゃんが聞いてしんぜようー」

 

 その微笑みに、私は白旗を上げた。ううん……本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。『Afterglow』のみんなには言えないって思ってたけど、モカちゃんなら、こういう大事なことは絶対に他人に漏らさないだろうし……きっと大丈夫。

 

 観念した私は、モカちゃんに全てを白状した。事故で木下くんの気持ちを知っちゃったこと、自分の気持ちを自覚してしまったこと。でも、自分にそんな資格はないと思っていること。なにもかも全部話した。

 それを、モカちゃんは口を挟まずに、時々相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。

 

 話し終わったとき、モカちゃんは目を細めて、うんうんと頷いていた。

 

「……そっかー。ゆー君が好きなルートかー。青春だね〜」

「やっぱり、モカちゃんはあのとき気づいてたんだね……」

「好きだからーが8で、意識してないーが2くらいだったかな〜。もちろん、8の方に賭けてたよー。大当たり〜」

「……あはは、8の方なのに大当たりなんだ?」

 

 苦笑いになってしまう。ものすごく真面目で深刻な話をしているのに、モカちゃんと話してると不思議と空気が弛緩してしまう。だからか、なんでも淀みなく話せちゃう。

 

「うーんと、つぐは、ゆー君のガールフレンドになりたくないのー?」

「ガール……っ!? お、お付き合いってことだよね……その、分からないの」

 

 聞き慣れない単語に一瞬鼓動が跳ねるも、思ったままの言葉を口にする。

 

「やっぱり……嬉しいよ? そういう風に思われてるのは。でも、私なんて……」

「さっき言ってたー、資格がないってことー?」

「……うん」

 

 結局のところ、そこに行き着く。木下くんを知らない内に追い詰めてしまった。あんな怒気を孕んだ表情を見せてしまうくらいに。今でもあの顔は、鮮明に思い出せる。

 また、あれをやってしまうかもしれないと思うと……。

 

「でもさー、資格があるかどうかなんて……付き合いたいかどうかとは関係ないようなー?」

「え? そんなこと、ないような……」

「だって〜、あたしはお金がピンチなときでも、やまぶきベーカリーのパンが食べたくなるときはいっぱいあるよー?」

「ぁ……」

 

 モカちゃんの例えに、ずっと混乱していた心の一部が一気に整理された。水と油のように、綺麗に切り分けられた。

 ……切り分けられた、けど。

 

「……うん、そうだね。好き……だとは思うよ。その、そういうことになれたら、とっても嬉しいとも思う。だけど、資格がないことには変わりはないよ……」

 

 どれだけ欲しくても、お金がなければパンは買えない。それと同じだ。

 

「じゃあーさ、資格をゲットしちゃうのはどうかなー?」

「えっと……ゲット?」

「お金がないならー、バイトで稼ごーう。資格がないなら合格目指して勉強しよーう。……漫画とかでもあるでしょー? 何回負けても、不合格になっても諦めないでー、つぐってつぐってつぐりまくってー、最後には勝利〜って感じでー」

 

 ええっと……つまり、今からでも遅くない……って言いたいのかな? そう、なのかな……まだ、やり直せるなんて都合のいいこと、あるのかな……。疑念は晴れなかった。

 

「……ほんとに、そう思う?」

「もちろんですともー。つぐは今まで『Afterglow』でなにがあったかー、もう忘れちゃったのかなー?」

「……? …………あ!」

 

 そういえば……1年前……みんなが蘭ちゃんの成長に置いていかれちゃって、焦ってたことがある。いつも通りがいつも通りじゃなくなったような気がして、蘭ちゃんと一緒に居てもいいのか、不安になったことが。

 でも、紆余曲折はあったけど、最後には乗り越えて……私たちの新しい、いつも通りが生まれた。今となっては、懐かしい思い出。

 

「……そっか。そうなの、かも……」

 

 意外と、なんとかなっちゃうのかもしれない。実は、今抱えている問題も、後になって振り返ってみれば、ただの思い出になっているのかもしれない。

 一見どんなに解決不可能に見える問題も……そんなこと、全然ないのかもしれない。まだ……手遅れじゃないかもしれない。

 

「……よし」

 

 疑念が完全には晴れたわけじゃない。けど……なんだか、モカちゃんの話を聞いている内に元気が出てきた。うん……そうだよね。いつまでも悩んでても、しょうがないよね。

 

「……ありがとう、モカちゃん。資格のことは……まだ迷ってるけど……とにかく、1回木下くんとちゃんとお話してみるね!」

「……うん。ファイト、つぐ」

 

 話の終わり際……モカちゃんが見せてくれた柔和な笑みは、慈愛に満ちていて……ちゃんと見守ってるから、って言われているようだった。とても心強くて、勇気が出てきた。

 

 明日……時間は少しズレてるけど、木下くんとシフトが重なっている。そのどこかでいいから、絶対に直接話し合う約束をしよう。

 そんな決意を秘めつつ、残りの帰り道をモカちゃんと一緒に歩くのであった。

 

 

***

 

 

 始業式となってしまった。僕と羽沢先輩の問題に解決の兆しがないまま、新学期を迎えた。

 

 始業式と言っても、なにか特別なことがあるわけじゃない。全校集会、宿題の提出、模試の日程などの細々とした連絡。その程度のものだ。

 だからHRの間も、僕の意識は羽沢先輩のことへと向けられたままだった。

 

 あの日以来、先輩との関係はぎくしゃくしたままだった。先輩を泣かせてしまった後ろめたさ、そして再発を恐れるが故に、僕は先輩に話しかけることができなくなってしまった。なにか会話のきっかけが生まれそうなときでも、事務的な会話に留めて逃げてしまった。

 

 羽沢先輩と一緒のシフトが、酷く憂鬱だった。それでまではずっと、少しでも長く一緒に居たいと思っていたのに、今となっては少しでも早く終わってほしいと願うようになってしまった。

 

 今、羽沢先輩からは僕はどういう風に見えてるんだろうか。そう、つまり……僕のことをどう思っているんだろう? 過程はどうあれ、僕の気持ちを知った羽沢先輩は、それをどう受け止めているのだろう?

 

 羽沢先輩と過ごした時間……間違いなく、楽しかった。それは今でも確信を持って言える。先輩も、少なくとも友人として信頼を寄せてくれていたのは確実だ。その一方で、異性として意識されていなかったのは、知っての通りだ。

 僕の気持ちを知って……その認識に、なにか変化のようなものはあったのだろうか。ほんの少しでも、そういう想いが混ざってはくれなかっただろうか。

 

 ……いや、止めよ。こんなこと未練がましいこと。あんなことをしておいて、未だになにかを期待するなんて、最低だ。これ以上、羽沢先輩になにかを求めるなんて間違っている。

 こんな子供の癇癪を起こしてしまうような人間より、もっと相応しい人が居る筈だ。それが加藤とやらなのかは分からないけど、他に誰かきっと居る。

 

 ……いっそのこと、バイトを辞めてしまおうか。このままだと、羽沢先輩を苦しめるだけだ。

 

 いや、でも、羽沢先輩との関係が悪化したから辞めるなんて、あまりにも無責任だ。代わりの人が居ない段階で抜けたら、シフトが崩壊する恐れがある。それに、元々人手不足の解消の為に雇われたのだ。羽沢先輩の負担を考えると……うん、駄目だ。

 

 よっぽどの理由がない限り、突然辞めるなんてことはしてはいけない。そう、どうしても辞めなければいけないなにかが起こらない限り。

 

「それじゃあ、最後の連絡です。一部の校則が変更となったので、該当する部分の生徒手帳の新しいページを今から配ります。ちゃんと、入れ替えて確認しておいてください」

 

 担任の声が耳に入る。どうやら、校則が変わったらしい。前から回されてきた数枚の新しいページを受け取る。

 変わったと言っても、自分になにかが影響することはないだろう。そう思いながらも、一応は内容に目を通しておく。

 

 ……結果的に、それがよかったのか、悪かったのか……答えはない。

 

「ぁ……」

 

 その呟きにどのような感情が籠もっていたのか、自分でも分からなかった。ただ1つだけ確かなことがある。

 それは……”よっぽどの理由”が、そこに書かれていたことだった。

 

 

***

 

 

 HRを終え、掃除を終え、生徒会の仕事を終わらせた私は、ショッピングモールに寄ってから、自宅に向かっていた。

 私の手には紙袋の紐が握られていて、その中には先程ショッピングモールで購入した商品の包みが入っていた。中身は、焙煎されたコーヒー豆とクッキーの詰め合わせ。せめてものお詫びにと、用意したものだ。

 最初はケーキにしようと思ったのだけど、以前の調査のときにスイーツはしばらくはいらないと言ってたのを思い出し、甘さが控えめで、日持ちするクッキーに切り替えた。

 

 緊張する。喉が渇くのは、暑さだけのせいじゃないと思う。道中、頭の中で木下くんに話しかけるときのイメージトレーニングを繰り返す。

 

 本当のことを言ってしまうと……なにを話したいのかはちゃんとは纏まってない。謝罪、励まし、償い……断片的には思い浮かぶけど、どこか違和感を覚えるのも事実だった。もっと、大事なことが抜け落ちているような、そんな気もする。

 でも、そんなの関係ない。きっと、話している内に纏まってくると思っておく。とにかく、今は木下くんとちゃんと向き合った形で話したい。

 

 お店が見えてきた。シフトの時間はまだだけど、木下くんはもうすぐ開始だったと思う。今なら、おそらくは待機所に居る。

 

 裏口に辿り着く。裏口の扉……いつもなら簡単に入れるのに、今だけは重い鉄の扉のように見えてくる。ドア全体が拒絶の意思を放っているかのようだ。

 ただ、ドアノブを回すだけなのに……それがどうしようもなく、緊張する。

 

「すー……はー……」

 

 胸元に手を当てて、深呼吸。大きく吸っては止めて、ゆっくりと吐いていく。それを何度か繰り返す。どれほど効果があったかは分からないけど、多分、きっと、ちょっとくらいはよくなったような気がしなくもない。

 

「よ、よーし……!」

 

 私だってシフトはあるのだし、いつかは開けなくちゃいけないんだ。そうやって自分を奮い立たせて、いよいよドアノブに手をかける。

 そして、臆病風に吹かれてしまう前に一気にドアを開けた。

 

「ぉ、おはよう、木下くん……! …………あれ?」

 

 居なかった。待機所のどこを見渡しても、木下くんの姿はなかった。更衣室のカーテンも開いたままだ。視界を妨げるようなものはなにもない。つまり、本当に木下くんはここには居ないということになる。

 

 ……遅刻? でも、そういった事務連絡なら今でもちゃんとしてくれる。スマホを確認してみても、そんな連絡はなかった。

 

 ならば早めにシフトに入っているのかとキッチンを覗いてみるも、お父さんしか居なかった。

 

「ああ、つぐみ。お帰りなさい」

「ただいま。えっと、木下くんってもうすぐシフトの時間だよね? お父さんは、なにか聞いてる?」

「……それなんだけどね、ちょっと言っておかないといけないことがあるんだ。こっちで話そうか」

 

 お父さんはオーダーがないことを確認してから、私を待機所に連れて行く。えっと、なんだろう? 風邪かなにかでお休み、って雰囲気ではなさそうだけど。

 

「木下君ね、実は30分くらい前まで来てたんだ。そしたら、話があるって言われてね」

 

 相槌を打つと、お父さんは一旦そこで言葉を切る。なんだか、すごく話しづらそうだ。その場でじっと続きを待つけど、一抹の不安を覚えつつあった。無意識の内に、紙袋の紐を握る力が強くなる。

 

「……木下君の通っている学校、校則が変わってね。バイトが禁止になったそうなんだ」

「…………ぇ」

 

 今……なんて……?

 

「——だから、バイトを辞めることになった。事情が事情だからね。今日からもう、木下君をシフトから外すことにしたよ」

 

 ……当たり前だと思っていたものが、当たり前じゃなくなった瞬間だった。それだけは起きないだろう、と高を括っていたことが、現実になってしまった。

 

 バサリ、と紙袋が床に落ちた。衝撃で紙袋が倒れ、丸い形をしたクッキーの缶がコロコロと不規則な軌道を描いて転がっていった。

 

 

 

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