羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない   作:Washi

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長くなりそうだったので分割。次回はちょい短いかも。


第13話 本当に大切なもの

 午前8時40分。学校の教室で出席番号順に座った僕は、前から問題用紙と解答用紙が回ってくるのを待つ。

 待っている間、外の方へと視線を向ける。今は窓際には座ってないのでチラリとだけ。

 ……どんよりと曇っている。雨こそ降ってないものの、空一面灰色だ。

 

 結局、僕は『ガルスパ』ではなく校内模試の方を選んでしまった。チケットは今も鞄の中にあるけど、それだけだ。この場ではなんの意味も持たない。

 『ガルスパ』のやっている公園までは、ここから向かうと大体50分くらい。道中走ったりすれば、40分まで縮められるかもしれない。いずれにせよ、まだ余裕で間に合う時間だ。

 そう……今から向かいさえすれば。

 

 今も、迷いは消えていない。行った方がいいのでは……いや、でも……と頭の中で右往左往してしまっている。

 どうしよう、どうするべきだろうと思っている間にも、試験の準備が着々と整いつつある。そしてついに、僕は問題用紙と解答用紙を受け取ってしまう。

 それに、教室内ではクラスメイト全員が着席しており、担任の先生が教壇に立っている。試験前特有の、ピリピリとした空気も感じる。

 ここから抜け出すのは精神的にかなり困難だ。風邪でもないのに体調が悪いと嘘をつくこと自体にも抵抗がある。

 

 ……だけど、羽沢先輩だって、僕のことを待っているに違いない。もし、時間になっても僕がライブの会場に居なかったら……なにが起きてしまうのだろうか。

 ……いくら先輩でも、今度ばかりは本気で怒るに違いない。失望するに違いない。本当に、縁が切れてしまうだろう。羽沢先輩の厚意を踏みにじる結果になるのだから、当然と言えば当然だ。

 胃が酸で灼ける。心臓が締め付けられる。羽沢先輩が抱くであろう怒りと失望を想像するだけで、生まれたての子鹿のように手足が震える。

 

「それでは、始めてください」

 

 そんなことを考えている内に、試験が始まってしまった。反応が少しばかり遅れ、周囲がページをめくる音でようやく現実に引き戻される。ちなみに、最初は数学だ。

 慌てて筆記用具を手に持って問題を解き始めるものの、内容がほとんど頭に入らない。全くと言っていいほど、集中できない。解答のペースが通常の半分以下な上、計算ミスも頻繁にしてしまう。急いで消そうとしたせいで、消しゴムを数回机から落としてしまった。

 

 結局、僕の頭の中は終始羽沢先輩のことでいっぱいで、数学の試験の出来は散々だった。結果を待つまでもなく、とんでもない点数であることは明らかだった。

 

 続けて、国語の試験に入ったものの、僕の調子は相変わらずなのであった。

 

 

***

 

 

 『ガルスパ』はライブだけを行うイベントなのではなく、一種のお祭りのようなイベントだ。いくつかのライブ用のステージがあって、その周辺にたくさんの屋台が出店している。

 

 えっと、つまりなにが言いたいかというと……私たちの出番までの間は、私たちも純粋に『ガルスパ』を楽しむ側だということ。

 今は午後の12時を回ったくらい。ちょうどお昼どき。周囲はたくさんの人で賑わっていて、天気が曇りであることを忘れそうになるほど各ステージのライブが盛り上がっているようだった。

 そんな中、私たちはお昼ご飯の確保の為に、周辺の屋台を回っていた。

 まあ、私たちと言っても、私とひまりちゃんと蘭ちゃんの3人でだけどね。モカちゃんと巴ちゃんは飲食スペースで席を確保して待ってくれている。

 

「あ! 見て見て! あそこに牛タンがあるよ! 買ってきていいかな!?」

「うん、平気だよ。行ってらっしゃい、ひまりちゃん」

「あ、ひまり。ついでにモカに頼まれてた分もお願い。8枚入りの奴って言ってたと思う」

「りょーかーい! ではでは、行ってきまーす!」

 

 そう言うや否や、ひまりちゃんはお目当ての屋台の方へ一直線に向かって行った。

 『ガルスパ』当日だからなのか、お祭りの雰囲気のせいなのか、ひまりちゃんはいつも以上に元気いっぱいだった。

 

「蘭ちゃんはなに食べるか決まった?」

「まあ、ライブ前だから軽めのものにしようとは思ってる。つぐみも、今回は結構歌うことになると思うから、あんまり食べない方がいいよ」

「あ、そっか。そうだよね、食べすぎないようにしないと」

 

 お腹いっぱいになると声が出にくくなっちゃうもんね。気をつけないと。

 うーん、そうなると……もしかしたら1人分でもお腹いっぱいになっちゃうかもしれないから……。

 

「……そうだ! 蘭ちゃん、半分こにするのはどうかな?」

「うん、そうだね。それがいいと思う。つぐみはなにがいいの?」

「えっと……あ! あれとかどうかな? ローストビーフ丼だって」

 

 視線の先に映った屋台の看板を指差す。屋台で売っている食べ物の中ではさっぱりしてそうだし、写真を見る限りでは量もそんなになさそうだ。なにより、とっても美味しそうだし。

 

「いいんじゃない?」

「よかった! じゃあ、私が買ってくるね」

「お願い。その間に、私は巴に頼まれた分を買ってくる。お金は後で返すから」

「うん、了解。それじゃあ、また後でね」

 

 その場で蘭ちゃんと別れて、私は目的の屋台の列を目指す。結構並んでいる。買うのに、ちょっと時間がかかるかも。でも時間はまだあるし、大丈夫かな。

 

 えっと、最後尾は……あそこ、かな? 人が多いから、少し分かりにくい。

 うーん、ちょっと聞いてみようかな。私は、最後尾と思しき所に立っている女の人に声をかけてみることにした。

 

「あの、すみません。ローストビーフ丼の最後尾ってここで合ってますか?」

「ええ、合ってますよ……ってあれ、羽沢さん?」

「え……?」

 

 最後尾であることを確認したはいいものの、それを聞いた相手の人に名字を呼ばれて、疑問が生じる。相手の人の顔をよく見てみるけど、知らない顔だ。

 ……初対面、だよね? 私が忘れちゃってるだけなのかな……? ……あれ? でも、どこかで見たような気も……。

 

 そんな風に頭を悩ませていると、私の考えを察したのか、女の人は苦笑いを浮かべていた。

 

「ああ、ごめんなさい。私が一方的に知ってるってだけで、初対面だよ。木下勇樹は知ってるでしょ? あいつの姉なの、私」

「……えっ!? 木下くんのお姉さんですか!?」

 

 驚きのあまり、大声を上げてしまう。幸い、周囲の喧騒のおかげで注目を浴びることはなかった。でも、すごい偶然だ。まさか、偶々話しかけた人が木下くんのお姉さんだなんて。

 

 確かに、言われてみれば……顔立ちがどことなく木下くんに似ている。見覚えがあると思ったのは、兄弟故の面影を感じていたせいだったみたいだ。

 そういえば、木下くんはお姉さんが私と同じ羽丘に通っているって言ってた。ということは、学校の先輩ということになる。

 

「えっと、木下先輩……で、いいですか?」

「うん。好きな呼び方でいいよ。私の方も羽沢さんで大丈夫?」

 

 私は「もちろんです」と笑顔で頷く。すると先輩は「よかった」と返してくれた。

 

「ところで、勇樹がバイトするようになってからあんまり店には行けてなかったんだけど、どんな感じだった? 本人はあんまり語りたがらなかったんだよねえ……」

「えっと、きの……勇樹くんには、バイトでいつも助けてもらってました。すぐに仕事覚えて、コーヒーまで淹れられるようになっちゃったので、びっくりでした」

 

 嘘偽りなく木下くんのことを伝える。好意云々を抜きにしても、木下くんはとても貴重な戦力だった。

 

「へえ……そうだったんだ。あいつも頑張ってたんだねえ……。あ、そういえばごめんね、勇樹のバイトのこと。私の方から連絡しといて、あんなことになっちゃって」

「あはは、確かに急で驚いちゃいましたけど、大丈夫です。今はシフトもなんとか持ち直してますから」

 

 本当は木下くんが辞めちゃったとき、すごいショックを受けてたのは隠しておく。先輩がどの程度まで事情を知っているのか分からないので、当たり障りのない範囲に留めておく。

 それからしばらくの間、木下先輩と他愛のない会話を楽しむ。そうしている内に列はどんどん進み、すぐに私たちの番となった。

 先輩は2人分買い、私は1人分を買って余分に器とスプーンを貰う。本当に、あっという間の時間だった。

 

「それじゃあ、羽沢さん。ライブ頑張ってね。後で見に行くから」

「ありがとうございます! お待ちしてますね。あ、そうだ! 先輩、今日は何人で来てるんですか?」

「友達と2人でだけど、どうして?」

「よかったら、これどうぞ。私たちのライブだけですけど、最前列で見れるライブの招待チケットです」

 

 ちょうど2枚だけ残っていたチケットを懐から出して、先輩に渡す。バンド繋がりのお友達の何人かが来れなくなってしまった為、余っていたのだ。

 

「え、いいの? わざわざありがとね」

「いえ、余らせてももったいないだけですから。勇樹くんにも同じチケットを渡したので、もしかしたら一緒になるかもしれませんね」

 

 私としては、それとなく木下くんも誘っていることを伝えようとしただけだった。

 だけど、それを聞いた先輩は予想外なことに、突然顔を曇らせた。

 

「え? 勇樹のこと、誘ってるの?」

「はい、そうですけど……?」

「……羽沢さん。今すぐ勇樹に連絡した方がいいよ。多分、まだここに居ないから」

「えっと……? でも、まだ私たちの出番まで時間はありますし……」

「ああ、そういうことじゃなくてね」

 

 私の考えを否定するように先輩は首を横に振る。

 なんだろう、と首を傾げていると……先輩は衝撃的な事実を私に告げるのであった。

 

「勇樹の奴、なんか大事な模試があるとかなんとかで、今朝制服で出てったよ。今頃、学校に居るだろうから早く連絡しないと来ないかもしれないよ」

 

 このとき、私はまた木下くんに難しい選択を迫っていたことに気づいた。

 

 

***

 

 

 国語の試験が終わり、昼休みに入る。今は12時40分。残っている英語は1時間後の13時40分から準備に入る。

 ……もしその時間を過ぎれば、もう引き返せない。ライブに間に合う可能性は完全に閉ざされる。

 諦めがつくから早くその時間が過ぎてほしいと思っているのか、それともまだ間に合うことに安堵しているのかも分からないまま、僕は学食で昼食を食べることにした。

 校内模試とはいえ、1学年しか登校していない為、学食は結構空いていた。カレーを購入し、適当に席に座って食べ始める。

 

 午前中の試験のことを振り返る。酷いものだった。そもそも最後の問題まで辿り着いてないとかそういうレベルで酷かった。こんなこと、初めての経験だ。

 

 駄目だな……僕。羽沢先輩の誘いを無視しているにも関わらず、そのことが気になって模試の方でも力を発揮できないなんて。中途半端な態度が、そのまま結果に現れている。

 

 憂鬱な結果にげんなりしながら、20分くらいのスローペースで食事を終える。

 そして座席に留まりながら、試験中は電源を切っていたスマホを起動する。昼休みが終わるまで、適当に弄くり回していようと思ったのだ。

 起動時のセットアップが完了し、ホーム画面が映る。

 

 ——その直後、チャットのメッセージの通知が飛んできた。どうやら、切っている間に届いていたらしい。

 恐る恐る、差出人を見る。姉さんからだった。そのことに安心したのも一瞬のこと。メッセージには、今最も触れてほしくない話題が書かれていた。

 

『ちょっとあんた! さっき偶々羽沢さんと会って、聞いたよ! ライブ誘われてたんだって!? なに呑気に模試なんか受けてんの! とっととこっち来なさい!!!』

 

「……簡単に言わないでよ」

 

 こっちの気も知らないで、と苛立ちが募る。その決断が簡単に出来るようなら、こんなに悩んでいないし、罪悪感も感じてない。

 送り主が姉さんであることで変に意気地になってしまったからだろうか、結局そのメッセージは既読無視してしまった。

 

 ——だが、それから10分後に届いたメッセージは無視することができなかった。差出人を見た瞬間、すぐさまアプリを開いた。……差出人は、羽沢先輩だった。

 

『木下くんのお姉さんから聞いたよ。木下くん、今日は大事な模試だったんだね。知らなくてごめんね。困っちゃったよね、突然ライブのチケットなんか貰っちゃって。こっちのことは気にしないで! ライブの映像は後々ネットにアップされるらしいから、そっちを見てくれれば大丈夫だから! それじゃあ、模試頑張ってね!』

 

 どうやら姉さんが模試のことを話したらしい。余計なことを、と思うももう遅い。

 

「……羽沢先輩」

 

 僕だってそこまで馬鹿じゃない。羽沢先輩が気を遣ってこんなメッセージを送ってくれたことくらい、分かっている。

 ……でも、その言葉に甘えてしまおうとしている自分がいる。表面上は怒っている様子がないことに安心してしまう自分がいる。

 

 どんどん楽な方に流されようとしているのを自覚しつつも、麻薬依存のようにそれから抜け出せないでいることに情けなさを感じ始めるのであった。

 

 

***

 

 

 13時20分。既にライブ衣装に着替え終えた私は、ステージに併設されている楽屋スペースのすぐ外から、スマホでメッセージを送った。

 相手は木下くん。ライブのことは気にしないで模試に集中してほしいという旨のメッセージを送った。

 

「うん……これで、いいかな」

 

 これで、木下くんも安心して模試に臨める筈。流石に、模試の予定をライブなんかで潰しちゃうわけにはいかないから。

 それに、動画がアップされるというのは本当なので、ちゃんと後でライブを見てもらうことはできる。なら、問題はない。

 

 だから……これでいい筈だ。いい……筈なのだ。

 

「っ……」

 

 ……なのに、なんでなんだろう。目の奥から熱いものが込み上げてきちゃうのは。倒れてしまいそうなくらい、胸が痛むのは。

 

 駄目……駄目だよ。もうすぐ出番なんだから、泣いちゃ駄目。そう思うのに、涙はどんどん瞼の上に溜まってきて……遂に、頬を伝い始めた。

 声こそ出さないものの、その代わりと言わんばかりに涙が洪水のように溢れ出した。抑えきれない感情が肩を震わせる。どうしてこうなるのだと、心の中で叫ぶ。

 

 悲しくて仕方ない。悔しくて仕方ない。木下くんが模試なんかを選んだことが。ライブを選ばせることができなかったことが。振り向かせることができなかったのが。

 なにがいけなかったの? 熱意が足りなかった? やっぱり遅すぎたの? それとも……単に運が悪かっただけ?

 ……こんなにも本気で取り組んだのに、必死だったのに……運が悪いだけで、全部台無しになっちゃうの? そんなの、あんまりだよ……。

 

「つぐみ、モカが戻ったらライブ前の最後の打ち合わせ……って、つぐみ!? どうしたの……!?」

 

 しまった。様子を見に来た蘭ちゃんに気づかれてしまった。慌てて涙を手の甲で拭う。

 

「な、なんでもないよ……えへへ」

「そんなわけ、ないでしょ……! また木下とのことで、なんかあったんでしょ……?」

 

 誤魔化そうとしたけど、やっぱり遅かった。

 蘭ちゃんは心配そうな顔で私に駆け寄り、持っていたらしいハンカチで涙を拭いてくれる。同時に、背中までさすってくれた。とても、優しい手つきで。

 

「つぐみがものすごく頑張ってたってこと、一緒に作曲した私はちゃんと知ってる。だから、無理して隠そうとしないで……」

「っ……! 蘭ちゃん……!」

 

 それが限界だった。背中をさすられたことで気が抜けたせいか、逆に我慢しようとしていた分の涙まで出てきてしまった。

 視界が歪んで、蘭ちゃんの姿がおぼろげになる。そして気づいたら、私は蘭ちゃんに抱き締められていた。

 

「っ……木下くんね……今日、模試があるからって……っ!」

「うん」

「だから、私ね……っ……気にしないで模試に集中してって連絡しちゃったの……っ! 本当は、ライブに来てほしかったのに……ッ!!」

「……そうだよね」

「私、あんなに頑張ったのに……ぐす……っ……なのに、選んで、もらえなかったの……っ!」

 

 いきなりこんなことを言われても、蘭ちゃんだって困るだろうに、言葉が止まらない。ここまで言ってしまった以上、もう全部吐き出してしまいたかった。

 

 その間、蘭ちゃんはただただ相槌を打ちながら、背中をさすり続けてくれた。

 

 

 5分ちょっとくらい経っただろうか。ようやく落ち着いた私は、そっと蘭ちゃんから離れる。

 いざ落ち着いてくると、今度は恥ずかしさが込み上げてくる。……さっきの蘭ちゃん、まるで巴ちゃんみたいだった。

 

「……どう、平気?」

「うん……ありがとう。ちょっと、楽になった……かな」

 

 気持ちが晴れたわけじゃないけど、それでもさっきよりは全然大丈夫だ。突然、涙が込み上げてくるようなことはない。

 

「蘭〜、つぐ〜。どうしたの〜?」

「っ、モカちゃん!?」

 

 気が緩みきったところで、突然後ろからモカちゃんに声をかけられた。びっくりしちゃって、飛び跳ねるようにして蘭ちゃんから距離を取ってしまう。

 

 モカちゃんは飲み物を買いに行ってたようで、その手には中身の入ったペットボトルが握られていた。もちろん、既に衣装に着替えている。

 

「あれ〜? もしかして、お邪魔だったかな〜?」

「そんなわけないでしょ。なんでもないから、早く楽屋に戻って。打ち合わせ始めるよ」

「はいは〜い」

 

 それだけ言うと、モカちゃんはトテトテと楽屋に入って行った。なんだか、急に嵐が来て、急に去ったみたいな感じだった。

 

「つぐみも、もうちょっとしたら楽屋に戻ってて。私もすぐ行くから」

「うん。……あれ? でも蘭ちゃんは?」

「私もやっぱり飲み物買ってくる。だから先入ってていいから」

 

 そういうことならと、私は頷く。まだちょっと目が赤くなってるだろうし、もう少しだけここに居ようと決める。

 蘭ちゃんと別れた私は、楽屋の壁に背中を預けながら時間を潰すのであった。

 

 

***

 

 

 教室に戻った僕は時計を確認する。13時35分。後5分で、タイムリミット。仮に今から向かったところで、羽沢先輩たちの出番はほとんど終わっている。

 

 今、どんな気持ちなのだろうか、僕は。この板挟みの状況からようやく解放されるという期待感? それとも、取り返しのつかないことをしてしまった後悔? なんだかごちゃ混ぜになっていて、よく分からない。

 

 残りの5分が経てば分かるのだろうか。そう思ったとき、スマホが振動しているのをポケット越しに感じた。

 危ない。昼休みに起動してそのままだった。僕はスマホを取り出す。

 

 ——しかしその瞬間、僕は画面を見て固まってしまった。

 着信だった。ただし、それは羽沢先輩からではなく……美竹先輩からだった。

 

 ……正直、迷った。出るべきか、出ないべきか。もうすぐ昼休みも終わるし、スマホの電源を切っておかないといけない。それに、なんの為の電話なのかも想像がつく。

 だけど……今まで散々不誠実な行為を続けていたからだろうか。積み重なった罪悪感がそれを阻んだ。いい加減にしろと、心のどこかからか聞こえた気がした。

 

 僕はスマホを手に持ったまま、廊下に出て通話ボタンを押した。

 

「もしもし……あの、美竹先輩?」

『……木下。時間がないから、1回しか言わない』

 

 僕の応答は無視されたが、有無を言わせぬ威圧的な声に押し黙ってしまう。美竹先輩の顔は見えないけど、分かる。絶対……怒ってる。初めて会った日に詰め寄られたときの顔を思い出す。あのときは、本当に怖かった。

 一体どんな罵声が飛んでくるのだろうかと、身構えてしまう。

 

 ……だけど、飛んできたのは罵声ではなかった。

 そして、その声のトーンは怒りを孕んでいるようなものではなく、責めてはいつつも……どこか、僕を諭すような感じだった。

 

『……つぐみ、さっきまで泣いてたよ』

「え……?」

 

 泣いてた……? 羽沢先輩が……? まさか、あのメッセージを送った後に……?

 

 ……ひんやりとした汗が、背中を伝った。その間も引き続き、美竹先輩の声が電話越しに聞こえる。

 

『つぐみはこのライブの為に、ほぼ徹夜で新曲を作った。なんでか分かる? あんたに聞いてもらう為だよ』

 

 え……新曲? それも、僕の為に……? どうして……? ……いや、もしかしなくても、ライブで僕になにかを伝える為……? 

 だから、あんなに来てほしいと念押ししてたのだと理解する。その新曲を、『ガルスパ』という大舞台で聞いてほしかったのだと。

 

 ……そして、次の美竹先輩の言葉で、僕の価値観は大きく揺るがされることとなる。

 

『私は、あんたがどんなことを考えているのか知らないし、悪気があってのことじゃないことくらいは分かっている。でも……あんたが受けてる模試って、つぐみを泣かせてまでして優先したいことなの?』

「……っ!?」

 

 天地がひっくり返った気分だった。ずっと目の前に置いてあった探しものに、たった今ようやく気づいたかのような感覚。

 

『……私からはそれだけ。後は、あんた次第だから。……じゃあ、切るから』

 

 直後、通話が切れた。僕は、ゆっくりとスマホを耳から離した。そして、ぼーっとしたまま画面を眺めていた。

 

 ……すると、今度は青葉先輩からメッセージが来た。アプリを開く。

 

『ちなみに〜、これが証拠の動画〜。それと、新曲は最後にやる予定〜』

 

 まるで美竹先輩との電話を聞いていたかのようなタイミング。

 メッセージに書いてある通り、動画が添付されていた。サムネには、羽沢先輩の姿が。ごくりと唾を飲み、震える指先で再生ボタンを押した。

 

 ……本当だ。羽沢先輩、泣いている。これ……青葉先輩が撮ったのだろうか。いや、そんなことはどうでもいいか。

 とにかく、先輩が泣いているのだ。……僕のせいで。

 

「……馬鹿だ、僕」

 

 美竹先輩の言っていた、羽沢先輩を泣かせてまで模試を受けたいのかという問いかけ。なんで、こんな簡単な比較を思いつかなかったのだろうか。

 

 ……答えは決まっている。ノーだ。羽沢先輩に、泣いてほしくなんてない。

 ずっとずっと、笑顔でいてほしい。そう思ったからこそ、先輩を支えようと頑張ってたんじゃないか。

 

 あんなメッセージを断腸の思いで打っていたであろう羽沢先輩の気持ちを思うと……申し訳なくて仕方がない。こんな最低な男に、ここまで気を遣わせてしまった。

 大体、なにが絶対に怒るだ。失望するだ。僕が行かなかったとしても、羽沢先輩がそんな風に考えるわけないじゃないか。それくらい、優しすぎる人なんだから。恐怖に駆られて、僕の目は完全に曇っていたらしい。

 

 もう間もなく、昼休みが終わる。ライブの開始には間に合わないけど……もしかしたら、新曲には間に合うかもしれない。

 

 ……心は決まった。この後、どれだけ怒られようと、非難されようと、罰を課されようとも、知ったことか。

 まあ、それに……どうせ最後の英語で満点を取れたとしても、総合で30位以内に入るのはもう無理だろう。それくらい、午前中の出来は酷かった。だったら、受けようと受けなかろうと同じことだ。

 だからというわけじゃないけど……決断した。羽沢先輩の所に行こう。今すぐに。

 

 教室に戻り、急いで荷物を纏める。突然帰り支度を始めた僕に、クラスメイトたちが怪訝そうな視線を向けているのが分かる。普段なら萎縮してしまうだろうけど、今に限っては別だ。怯まずに、支度を済ませる。

 そして、偶々視界に入った隣のクラスメイトの人に一言告げる。

 

「稲垣さん。体調悪くなったから早退するって先生に言っておいて。それじゃ」

「ぇ……え!?」

 

 返事は聞かずに、再び廊下に出る。急がないと先生が教室に来てしまう。鉢合わせになったら面倒だし、さっさと行かないと。

 

 道中走りながら向かえば、約40分。なんとしてでも新曲が始まるまでに辿り着くべく、僕は廊下を駆け、靴を履き替え、学校を飛び出すのであった。

 

 

 

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