羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない 作:Washi
走る。全力で走る。革靴にも関わらず、猛烈なペースで駅に向かって走る。飛ばしに飛ばし、限界を越えて走る。
一時的ではあるものの、今ならきっと駅伝の選手とも張り合えるかもしれない。そう思えるほどの速度だった。
運動は苦手というほどではなく、平均よりちょい上くらいはある。でも、運動不足が祟って体力はそんなになかった。まだ学校から駅までの途中なのに、早くも息が上がってくる。
だけど止まらない。どれだけ足が痛くなろうと、気持ち悪くなろうと止まるつもりはない。それが今、僕にできる最大限の贖罪でもあるから。
駅に着いたときに、丁度ぴったりに電車が来るように祈りながら、僕は更にペースを引き上げるのであった。
***
もう間もなく、私たちの出番だ。ステージ裏からこっそりとお客さんのスペースを覗く。今までに見たことのないほどたくさんのお客さんが待っている。最前列には木下先輩の姿もある。
本来なら、驚きと嬉しさで胸がいっぱいになるところだ。でも、実際にはそんなことはない。心はモヤモヤとしたものを抱えたまま。
だって……木下くんが、ここには居ないから。
……なに言ってるんだろう、私。居なくて当然だよね。木下くんは今頃、学校で模試を受けてる筈だもん。そしてその背中を押してしまったのは、他ならぬ私なんだから。
「つぐ……平気か?」
流石に木下くんの不在に気づいたのか、巴ちゃんやひまりちゃんが難しい顔で私のことを見ていた。私が木下くんにチケットを送ったのはみんなが知っていることだ。
一瞬、言葉がつっかえたものの、私はなんとか笑顔を作ってみせる。
「うん、大丈夫だよ……! こんなにたくさんのお客さんに来てもらえたんだもん。これはもう、いつもの100倍は頑張らないとだね!」
「……そうだな。見せてやろうぜ、私たちの最高のライブ!」
「……うんうん! せっかくの『ガルスパ』だもん! 楽しんでいこーう!」
私の本心はきっと、みんなには見抜かれてる。それでも、みんなはそれに気づかないフリをしてくれた。私の言葉に敢えて乗って、モチベーションを高めようとしてくれる。今はその気遣いが、とてもありがたかった。
『ガルスパ』までの間、みんな私の為に色々と協力してくれた。特に、蘭ちゃんには感謝してもしきれない。
だから、その恩返しをしないといけない。たとえ木下くんがここに居ないとしても、最高のパフォーマンスを発揮しないといけない。それが、なによりの恩返しになるのだから。
それに、あんなにたくさんのお客さんがいらしてるんだもん。その期待には、ちゃんと応えないといけないし、応えたいと思っている。
「……よし!」
難しいかもしれないけど、気持ちを切り替えよう。今は目の前のお客さんに楽しんでもらうことだけを考えよう。
直接見てもらえないなら、せめて最高の出来の演奏を動画に残すしかない。動画越しでも伝わるような、熱い想いの籠もった演奏を。
……そうだよね。まだ諦めるときじゃないよね……きっと。とにかく、今は頑張ろう……!
そうやって自分を奮い立たせることで、開始寸前ながらもなんとか気力を取り戻すことができた。更に気合を入れるべく、両頬を手のひらで軽く叩いた。
「開始1分前です。スタンバイお願いします」
スタッフさんの呼びかけに応じて、いつでもステージに出れるようにする。
いよいよだ。ごくりと生唾を飲む。まだ始まってもいないのに、耳の裏の辺りからタラリと汗が1滴流れ落ちる。体に余分な力が入ってたのに気づき、すぐに抜く。
ライブは何度もやってきたけど、『ガルスパ』ほどの大舞台は初めてだ。流石に緊張してるみたい。
でも、大丈夫。みんながいるから。たくさん練習したから。絶対、成功させるんだ……!
「……行こうみんな。いつも通り、最高の演奏で」
蘭ちゃんの静かな激励の直後、スタッフさんが合図をする。それと同時に、私たちはステージに飛び出した。
空気が震えるほどの大歓声が響き渡り、厳しい残暑にも負けないほどの熱気が会場を包んだ。それを受けて、否が応でも私たちの士気は高まる。
みんなの顔つきが引き締まる。プロのスポーツ選手のような真剣な表情。必ず成功させるという想いが、私たちを1つにする。
私はキーボードの前に立ち、指をキーに添える。これでいつ始まっても大丈夫だ。
蘭ちゃんがギターを提げながらマイクの前に立つ。マイクが正常に動作していることを確認し、蘭ちゃんは挨拶を始めた。
「……来てくれてありがとう。今日は最高の演奏を届けるから……よろしく」
一斉に会場が沸いた。私たちは互いに顔を見合わせて、不敵な笑みを浮かべて頷く。
「それじゃあ1曲目……『ツナグ ソラモヨウ』」
しん、と静まり返り、空気が糸を張ったように張り詰める。でも、それは胃が痛くなるようなピリピリとしたものではなくて、丁度よく張られた弦のような、心地のよい緊張感。
——曲が始まった。みんなの音に溶け込ませるように、私はキーボードを鳴らし始めた。
***
電車移動の間に少ない体力を回復させた僕は、再び全力疾走をしていた。渋谷ということでかなりの人混みだ。苛立ちを募らせながらも、僕は彼らの間を縫って進む。しかし直後に信号に引っかかり、足止めを食らう。舌打ちをするも、状況に変化はない。
息を整えながら、スマホで時間を確認する。『Afterglow』の出番が終わるまで、残り15分を切った。つまり、残された時間は5分と少し。
もうちょっとで『ガルスパ』の会場だ。電車移動の際にステージの場所も確認済み。間に合うかどうかは五分五分といったところだ。
いや、五分じゃ駄目だ。絶対に間に合わせる。そう決めたんだ。だから信じるんだ、必ず間に合うって。
最短のルートを思い描きながら信号の色が変わるのを待つ。そして変わった瞬間、弾けたバネのようにスタートを切る。
もう全身は汗だくだ。喉は乾いてるし、暑くて暑くて仕方がない。足なんて、石になったかのようだ。ペースが落ちかけるのを、気力でなんとか支えている。
明日、筋肉痛になっても一向に構わない。なんなら体調を崩してしまったっていい。だから、お願いだ。今だけは動き続けてくれ、僕の足。
羽沢先輩の所に……どうしても行きたいんだ。
その願いに応えてくれたのかは分からない。でも、僕の足はどれだけ重さを増しても、決して限界を迎えることはなかった。壊れかけながらも、粘り強く稼働を続けてくれた。
……見えてきた。公園だ。ここからでも分かる。すごい盛り上がりを見せている。あちこちから音楽や歓声、ときには拍手が聞こえる。その中に、『Afterglow』のものもある筈だ。
僕は真っ直ぐ入り口に飛び込み、目当てのステージを目指す。人の密度が一段と増した為、人の流れに逆らうようにして掻き分けながら進んでいく。泥の中に浸かったまま歩いているみたいだった。
急げ、急げと己を急かしながら、少しでも前へと強引に進む。偶に近くの人から非難の目線を浴びせられるが甘んじて受け入れる。悪いのがこっちなのは分かっている。でも、そう思ってくれて構わないから、先に行かせてくれ。
どれくらい泥の中を掻き泳いだだろうか。いつまで経っても目的のステージが見えてこないことに焦りを覚える。人の壁が視界を阻み、泥に加えて濃霧の中に迷い込んでしまったかのようだ。
本当に、こっちで合っているのだろうか。合っている……ような気はする。でも、はっきりはしない。
仮に道を間違えていたら、すぐに引き返さないと間に合わなくなる。合ってるのだろうかと、悩む時間が長すぎても間に合わなくなる。
どうする……このまま信じて進むか、それともどこか目印になりそうなものを探すか。ここに来て判断に迷い、足の速度が緩む。
——そんなときだった。僕の耳が微かに、聞き覚えのあるメロディーを拾ったのは。その瞬間、数ヶ月前に見た『Afterglow』のライブ映像が脳裏に浮かび上がった。
メロディーが聞こえたのは、進行方向の先の方からだった。
「……『True color』」
……間違いない。僕はちゃんと正しい方向に進んでいた。もう、目と鼻の先の所まで来ている。
確信を抱いた僕は一気にペースを上げる。何度もぶつかってしまいながらも人混みを突破していく。
そして……演奏が止み、歓声が上がるのと同時に、僕はついに人海の壁を突破した。一気に視界が開け、大きなステージが目に入った。
……居た。ステージの上に、羽沢先輩が立っている。前のライブのときと同じ衣装で、あそこに居る。まだ遠目だけど……ようやく、一目見ることができた。体の疲れは、どこかに吹き飛んでしまった。
間に合ったのだ。少なくとも、新曲には。前屈みになり、息を整えながらも、頬が次第に緩み始める。走っていたのとは別の理由で、心臓が早鐘を打つ。
早く、羽沢先輩に知らせたい。僕はここに居るぞと、伝えたい。
でも、どうしよう。会場はたくさんの人でぎっしりだ。密度で言えば、さっきまでよりも遥かに高い。チケットがあるとは言え、ここから最前列まで行くのは……困難だ。ついでに、迷惑でもある。
「……次がラスト。新曲をやるから」
マイクで拡大された美竹先輩の声がタイミリミットが近いことを知らせる。急がないと。
なにか方法はないかと考えつつ、ステージを見る。可能な限り、羽沢先輩を視界に収めておきたかったからだ。
——そんなときだった。羽沢先輩と、はっきりと目が合った。まん丸に見開かれた先輩の瞳が、こんな遠くからでもくっきりと分かるのであった。
***
淀みなく指を踊らせ、キーボードを鳴らす。巴ちゃんのドラムが快音を響かせ、ひまりちゃんのベースが調和を司る。モカちゃんのギターの音が軽やかに舞い、蘭ちゃんの凛とした歌声が澄み渡って、お客さんを魅了する。
最後にギターの余韻とドラムが曲を締めくくり、演奏が終わった。再び、大きな拍手をしてもらえた。
ライブはとても順調だ。みんな、練習の成果が出てるし、私も十全の力を発揮できているという自負はある。ミスも、今の所皆無だ。
……いよいよ、最後の曲だ。私が初めて作詞を担当した新曲。私は演奏の準備を整えておく。
ある意味では、私にとってはここからが本番だ。ミスをしないのはもちろんのこと、込められる限りの情熱を演奏と歌に乗せないといけない。
簡単に喉の調子を確認する。うん、大丈夫。ちゃんと歌える。
「……次がラスト。新曲をやるから」
蘭ちゃんが新曲の存在を明かす。それだけで、会場は再び熱気を増した気がする。
この後、ちょっとだけ私にMCが回ってくる予定だ。なんの為に曲を作ったのか、話しておく為に。
再度、最前列を確認する。分かってはいたことだけど、木下くんの姿はない。それでも、ズキリと胸に鋭い痛みが走ってしまった。
パフォーマンスに影響が出るほどじゃない。だけど、やっぱり木下くんに居てほしかったという気持ちは今もある。
もしかしたら模試をすっぽかして、こっちに来てくれてるかも……なんて都合のいいことを考えてしまう。
例えば漫画だったら、たった今到着して最後列の方に居たりして……。
「……え」
お客さんの最後列からほんの少し離れた場所。そこに……居る筈のない人が立っているのが見えた。いや……まさかと、自分の目を疑う。きっと、私の妄想が生み出した幻に違いない。そう思って、ぱちくりと何回かまばたいてみる。
……でも、結果は同じだった。何度見ても……木下くんが、そこに居た。
なんで……ここに? 私は、来なくていいって言っちゃった筈なのに。ここから1時間近く離れた所で、模試を受けてる筈なのに。
疑問は尽きない。ただ、1つだけ確かなのは、木下くんがここに居るということだけ。
……学校の制服を着ている。模試を受けていたのは本当なんだと思う。
気になるのは木下くんの姿勢。両膝に両手を付いて、前屈みになっている。そう、まるで運動後で疲れ果ててるときのような姿勢。
……もしかして、走ってきたの……? 駅から、ここまで……? ううん、学校を出たときから……? だとしたら……すごく長い距離を走ってきたんじゃ……。
「ぁ……」
——木下くんが顔をこちらに向けた瞬間、目が合った。その刹那、まるで世界に私たちだけになったかのような錯覚に陥る。同時に、雷に打たれたような痺れが背筋を駆け抜けた。
……本来なら、確信を持ってそうだと言えるような距離じゃない。でも……なぜか、私は断言できた。木下くんと、目が合ったんだと。
来て……くれた、の……? 大事な模試を、放棄して……? そんなに疲れちゃうくらい、全力で走って……? 私の歌を、聞きに……?
……やった。……やった! 来てくれたんだ! 聞いてもらえるんだ! 直接……! 私が作詞した新曲を……! 私の想いを……! 生のライブで、正面から!
「っ……!」
また、視界が歪んできた。いけない……最近、涙腺が緩んでばかりだ。まだ、1曲残ってるんだからしっかりしないと。
でも、今までの涙とは違う。この涙は、私にいっぱい力を与えてくれる。全力を越えた演奏をする力を。今までの限界を軽く飛び越せるような力を。
「普段は私が曲を作ってるんだけど、今回だけは違う。今日披露する新曲を作ったのは、キーボードのつぐみ。……続きは彼女から」
ちょうど、蘭ちゃんが私にMCをバトンタッチしたところだった。蘭ちゃんは半ばまで振り向きながら、手のひらを私の方に向けた。
……零れそうになった涙を堪える。そして、自然と上がった口角と共に頷いて、口元をマイクに近づけた。
「こんにちは! 改めまして、キーボードを担当している羽沢つぐみです」
お店の接客のときのように元気よく声を響かせる。拍手と共に、お客さんの視線が私に集中した。その中には、木下くんからのものも含まれている。
私はそれらの視線をじっくりと見渡し、言葉を続ける。
「今回、初めて作詞というものをやってみました。蘭ちゃんに無理を言って、やらせてもらったんです。それには、理由があります。私にとっては、とっても大切な理由が」
視線を木下くんへと戻して、固定する。
「この前、お友達と喧嘩しちゃったんです。私が無自覚のまま、とても酷いことを言っちゃって、傷つけてしまいました。それに気づいたときには、ちゃんとお話もできなくなっちゃうくらい、心の距離が開いてしまいました」
細々とした部分を省きつつ、なにがあったのかを正直に告白する。懺悔をしているみたいだった。
「だから、この場に居るその人に音楽で伝えたいんです。私の今の気持ちを。そんな想いを込めた曲です」
蘭ちゃんたちが私のことを見た後、客席の方へ視線をやるのが見えた。きっと、私がさり気なく木下くんがここに居ることを教えたからだと思う。
視線が私の方に戻ったとき、みんなは胸を撫で下ろしたような顔をしていた。よかった、みんな木下くんのことを見つけられたみたい。
これで、演奏の準備は万端だ。
「それでは聞いてください! ——『Even Guilty』!」
始めよう、本日最後の音楽の時間を。楽しもう、『ガルスパ』という大舞台での演奏を。そして伝えよう、私の想いの全てを。
感情は声に、情熱はキーボードに乗せて。伝えたい言葉は歌詞として歌い上げよう。
身を焦がすように燃え上がったこの想い。押し潰されそうになった罪の意識。罪人でありながら尚も欲する卑しさ。そのどれもが私の本心だ。そんな表裏合わせた私の全てを、見てほしい。
罪人を鞭打つような激しいドラムがけたたましく暴れまわる。その痛みにのたうち回るような音色を、私は指を攣りそうな勢いで跳ね回らせることで実現した。それをベースが優しく宥めると、ギターが切なげに吐息を漏らした。
ロックバンドらしく、反抗的に。ペンキをぶちまけるように感情を喚き散らして。都合よく、我儘だけを言葉に変えて。
告解と告白の時間が、始まった。
***
『Afterglow』の演奏が始まった。その瞬間、魂の奥まで震えだす。幾重にも束ねられ、制御された音の暴力に圧倒される。今までイヤホン越しに聞いてきた音楽とは全く違う。
律動する音の反響。共鳴するメロディーが奏でる、何層にも折り重なった立体的なハーモニー。それに呼応するようにボルテージを上げ続けるステージと観客。
影が地面に縫い付けられたように、その場から動けない。こんなにも音楽はすごいのかと、目が乾くのも気にせずにステージを視界に捉え続ける。僅かな音も聞き漏らさないようにと、耳を澄ませる。
イントロが終わり、歌詞が加わった。
——『神様 私は罪を犯しました』
出だしの歌詞は、罪の告解。当事者だった僕にはすぐに分かった。羽沢先輩が僕に恋愛相談をしてから、事故で僕の気持ちを知ってしまったことまでを綴っていた。
棒で泥を掻き回しているような混沌としたメロディー。胸の内が無数の針に蝕まれているような痛みが走る。羽沢先輩の抱いている後悔を、一緒に感じているみたいだった。
——『気づくのが遅すぎたこの気持ち 一晩中枕を濡らす』
「気持ち……?」
心臓が跳ねる。健康診断だったら異常値だと診断されそうなくらい、心拍数が上がる。
淡い期待が膨らむ。いや……まさか、と思いつつも止められない。もしかしたら、もしかしたらと今だけは都合のいい方向に考えてしまう。
宝くじで確認した最初の数桁が一致していたときの、ぬか喜びを予感させてしまうような感覚。それでも、先の桁を確認するのを止められない。
——『どうすれば伝わるの どうすれば信じてもらえるの』
諦めたつもりでいたとき、僕は羽沢先輩を拒絶した。これ以上傷つきたくなくて、耳を強引に塞いだ。
でも、それが間違いだったのでは……と今になって気付かされた。羽沢先輩が伝えようとしたのは、もっと違うことだったんじゃないかと。
次第にメロディーが整い、ドラムがテンポを上げ、ギターが唸りを上げる。遠くへ跳ぶ為には助走をつけるのと同じように、サビに入る前の盛り上げの段階に入ったのだと分かった。
段差を飛ばして階段を駆け上がるように、どんどん熱気が膨れ上がっていく。でも、まだ爆発しない。熱気を溜め込んだ不可視の風船が膨らんで、膨らんで……まだ膨らむ。
まだか……まだなのかと、その瞬間を待ち続ける。想定していた限界はとうに越え、今にもはち切れそうだった。
——大地を叩き割るような怒号がキーボードから放たれた。その瞬間に最高潮に達し、一気に弾けた。爆発した熱気が大きく波打ち、僕の全身を突き抜け、突風が如く髪を揺らした。
——『私は最悪な罪人 決して許されてはいけない罪人』
……すごい。本当にすごい……! それしか、言葉が浮かばない。前に見たライブと比べても、圧倒的な完成度の演奏だった。音楽に疎い僕でもそれが分かるくらい綺麗な音だった。
新曲ということは、本番までそんなに時間はなかった筈なのに……一体どれだけの努力を重ねたのか、想像もつかない。しかも、羽沢先輩は僕に聞かせたくて、新曲を作ったと言ってた。その完成度が、新曲にかけた情熱を物語っていた。
……サビが終わり、熱が引いていく。熱の籠もり過ぎた空気を冷やすかのように、静かなキーボードソロが始まった。同時に、歌い手が羽沢先輩1人だけになった。
山奥の清流のようにひっそりとしたメロディー。まるで独り言を呟くような、どこか寂しさを感じる歌声。
空気が一気に引き締まり、まるで舞台の上で羽沢先輩にだけスポットライトが当たっているかのような雰囲気になる。もう、先輩の姿以外なにも見えなかった。
——『私は最悪な罪人 決して許されてはいけない罪人 それでも それでも……! 許されないと分かっていても……っ!』
サビにもあったフレーズ。でも、その後に続いた言葉が違っていた。
羽沢先輩の声に力が込められ、キーを叩くスピードが増していく。歩くような速度から、走るような速度に。加速し、再び空気が加熱していく……!
——と思ったそのとき、演奏が一瞬止まった。静寂が訪れたその刹那、羽沢先輩は一言だけポツリと、大きな声で囁いた。
——『……貴方が好きなんです』
「ぁ……」
世界が止まった。切り抜かれた映像の1コマのように、周囲が固まって見えた。
……いつの間にか、天気は晴れていた。雲の間から日光が差込み、神々しくステージを照らしている。そんな光の中……羽沢先輩は目を細め、柔らかな笑みを僕に向けていた。
僕にとってそれは、女神の微笑みそのもので……歴史上のいかなる偉大な芸術家にも表現できない、黄金比中の黄金比を成した美しさだった。
一目惚れしたときのことを思い出す。あのとき受けた衝撃も、なかなかのものだった。でも、今受けた衝撃はその比ではなかった。天と地の差とはこのことだ。
竹取物語において、かぐや姫はその魔性の美で数多の男を惹きつけた。男たちもまた、彼女の出した無理難題に応えようとした。それほどまでに、彼女の虜になっていたのだろう。
今なら、その男たちの心が手に取るように分かる。だって、僕も同じ気持ちだから。
僕はずっと勘違いをしていた。意識なんて全くされてないと思っていた。ただの友達としか思われてなかったのだと勝手に結論付けた。片思いだったのだと諦めていた。
しかし……そうではなかった。たった今、羽沢先輩は己の想いを明らかにしてくれた。好きだと言ってくれた。
その言葉が嘘でないことは、観客の反応を見れば明らかだ。偽りの言葉で、ここまで観客を盛り上がらせることなんてできるわけがない。
僕は羽沢先輩のことが好き。羽沢先輩もまた、僕のことが好き。
……頬を抓る。痛い。夢……じゃない……? じゃあ、ほんと……なんだ。ほんとのほんとに、そういうこと、なんだ……!
ぶるりと、体が震えた。抑えきれない感情の轟きが、心の内で激しく疼く。
この気持ちは、なんて表現すればいいんだろう……! 嬉しい……なんて言葉だけじゃ到底足りない。なら歓喜……? いや、それでも足りない。どんな言葉を以ってしても、この愛しさを表現することは叶わない。いかなる例えも、決して釣り合うことはない。
だけど、もし……今までの人生で最高だった瞬間を選べと言われたら……今この瞬間だと即答できることは確かだった。そしてそれは、今後一生変わることはないと断言できる。
……次は、僕の番だ。これだけのことをしてもらったのだ。だったら僕も、それに値するだけの勇気を出さないといけない。
今度こそ、ちゃんと正面から伝えよう。僕の精一杯の気持ちをぶつけよう。好きなんだと、はっきりと言葉にしよう。
——もう二度と、羽沢先輩からは逃げ出さない。