羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない   作:Washi

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第4話 最初の一歩

「そんでさー、あんた、そろそろ羽沢さんとなんか進展とかないわけ?」

 

 バイトを始めてからそろそろ1ヶ月が経とうとした頃の日曜日、今日も今日とてバイトに向かおうと準備していた僕を、姉さんが呼び止める。そしてなんの前触れもなく、僕の心にナイフを突き立てた。

 

「いや……別に、ないけど……」

「はあ? マジで言ってんの? なんつーヘタレ……」

「うぐ……」

 

 その物言いに腹が立たないわけじゃないが、事実だけに言い返せない。既に結構な回数、羽沢先輩と一緒にバイトしたが、せいぜいがちょっとした雑談で他はほとんど仕事中のやりとりばかりだ。

 その程度で男女の仲が進展するなんて奇跡が起こる筈もなく、連絡先の交換が今の所の最高の戦果だ。

 

 ついでに言えば、悲しいことに……いや、むしろ当然か……羽沢先輩には全く意識されていない。その証拠に、仕事中に指が触れ合うなんていうラッキーなアクシデントがあったが、僕が慌てて手を離して謝罪した一方で、羽沢先輩は「ううん、大丈夫だよ。私こそごめんね」と平然としていた。あれは……ちょっとへこんだ。

 

「別に……今のままでいいよ。近くに居られれば、それで……」

「それは、羽沢さんに彼氏がいないからでしょーが。もし羽沢さんに彼氏ができたら、あんたそれでも今と同じこと言えるわけ?」

「ぇ……」

 

 姉さんの指摘に言葉を失う。もし……羽沢先輩に彼氏ができたら…………ぁ、うわ……無理、ダメージ大きすぎるかも……。だって、もしそうなったらバイト中に2人で店に来るかもしれないんでしょ? それをずっと見せつけられるんでしょ? そんなの生き地獄に決まっている。

 

「ほらやっぱり駄目なんじゃん。言っとくけど、あんた今相当ラッキーなポジションに居るんだからね? 羽丘は女子校だから学校にライバルは居ないし、バンドもガールズバンドだし。バイト先でも男子はあんただけなんでしょ?」

 

 た、確かに……姉さんの言う通りだ。考えれば考えるほど、自分がいかに幸運なのかが分かる。

 

「動くなら今の内っしょ。いい加減、デートにでも誘ってみたら?」

 

 姉さんの提案に、普段の僕だったらすかさず「無理!」と叫んでいたことだろう。しかし、先ほどの”最悪の未来”を聞かされてしまった以上、そうも言ってられなかった。

 

 デート……デートか……誘えるかな、僕に……。こういうときって、なにに誘えばいいんだろ。……映画とか? よく分からん。

 止むを得ず、姉さんに聞いてみた。

 

「まあ、映画は無難ちゃ無難だけど、相手の好みのがやってるとは限らないかな。ご飯も、なにかのお礼とかでもない限り露骨じゃない? 羽沢さんを交えてご飯に行ったこと、ある?」

「ううん、1回もない……」

 

 羽沢先輩以外の『Afterglow』との懇親会を除けば、さっぱりだ。

 

「うーん……だったら、最初はとりあえず勉強を教えてもらうとかの方がいいんじゃない? 先輩と後輩だからお願いする理由としては妥当だし、話も途切れにくいでしょ。羽沢さんは生徒会に入ってるくらいだから、極端に成績が悪いとかはないだろうし」

「……なるほど」

 

 思った以上に堅実で、実現可能そうな案が出てきた。勉強か……僕の学校は1学期の定期テストは期末のみらしいから、今すぐがっつりやる必要はないけど、羽沢先輩を誘う口実としては、一番現実的だ。

 

「ありがと。一応、その方向でやってみる」

「んー、頑張りな。上手くいったらお礼になんか奢ってね」

「はいはい」

 

 姉さんの言葉を適当に流しつつ、僕は残りの準備を終えてから家を出た。まだ店に着いてすらいないのに、なんだかもうドキドキしてきた。

 いや、大丈夫、大丈夫。勉強を教えて欲しいってお願いするだけだ。デートの誘いって思っちゃうと緊張するからこの際一旦忘れておこう。とにもかくにも、こっちから声をかけるのが大事なのだから。

 

 ……チャットツールを使おうともしたのだが、文章がなかなか纏まらず、その文章ができあがっても、いざ送信する段階になったら怖気づいてしまい、送信せずにそのままにしてしまった。こうなったら、もう直接言うしかない。

 道中、何度も深呼吸を挟みつつ、心の準備を進めておくのであった。

 

 

 『羽沢珈琲店』に到着し、着替えを終えてシフトの時間まで待機中の僕は、いよいよだぞと己に言い聞かせる。

 羽沢先輩に直接話を切り出すタイミングはそれほど多くない。待機中の今、休憩時間、そして上がった後だ。そのいずれかで誘う必要がある。

 

 うう……手が汗ばんできたし、心拍数はもはや異常な数値を叩き出している。なんか、なにもしてないのに息切れしてきたし。昔、授業の一環でプレゼンをやったことがあるけど、そのときの、クラス全員の前で発表するときの緊張感を何倍にも高めた感じだ。

 

「あ、木下くん、おはよう。今日も早いね」

 

 既に制服に着替えている羽沢先輩が姿を現す。最初のチャンスがやって来た……!

 

「おはようございます、羽沢先輩。……えっと、その…………」

「……? どうしたの?」

 

 話を切り出そうとする。しかし、喉になにかが詰まってしまったかのように続きが出てこない。ほら、行け、木下勇樹……! ”勉強教えてください”と言えばいいだけだ……今こそ、なけなしの勇気を振り絞って……!

 

「つぐみー、ちょっといいかーい?」

「お父さん? はーい、今行くー! ……ごめんね、木下くん。また後でね」

「ぇ……あ、はい……」

 

 ……駄目だった。突如マスターに呼ばれた羽沢先輩は、そのままキッチンへと行ってしまった。僕だけがポツンと待機所に取り残される。お前は敗北者だと言われているかのような静けさだった。

 

 いやいや、ここで折れちゃ駄目だ。さっきも話しかけるタイミングの確認はしたじゃないか。まだ後2回も残っている。大丈夫、必ずできる。

 

 ——そう、思っていた。だが、現実はそうは上手く行かなかった。

 

 まず、休憩時間。先週は休憩時間の一部が被っていたので、話す時間はあるだろうと見込んでいたのだが、今日はそうじゃなかった。見事に入れ替わりでの休憩となっていた。

 よって、休憩時間に話しかける案は挑戦することもなくボツとなった。

 

 そして、次にバイトを上がった後。このタイミングであれば時間に制限などないので、自由に話しかける機会を窺うことができる。なんだかんだ言って、このタイミングが本命ではあった。

 ところが、その目論見は大きく外れることになる。なぜならば……

 

「木下くん。今日はこれからバンドの練習があるから、お先に失礼するね。お疲れ様!」

「え……あ、はい、お疲れ、様です………………はぁ」

 

 ……と、まさかの先に上がられるという事態。このケースは全く想定していなかった為、虚を突かれた僕は咄嗟に誘うことができなかったのだ。

 

 結果として、この日は僕はほとんど会話することができず、”勉強を教えてもらおう大作戦”は見事に失敗に終わった。勉強のべの字も言い出すことすらできなかった。

 

 ……いや、まだだ。単に今日が失敗に終わっただけだ。必ず、誘うチャンスは来る筈だ。今回ばかりは、そう簡単に折れるつもりはない。なにせ、結構な危機的状況なのだから。

 

 

 ——こうして、僕は来る日も来る日も羽沢先輩を誘おうとした。誘おうとしたんだけど……結論から言えば、僕がいかにヘタレなのかを認識するだけの日々の連続だった。

 

 初日は、単に間が悪いだけだった。仕方がなかったと、言い訳のしようもあった。

 だけど、それ以外の日は話しかけるチャンスくらいならばいくらでもあった。実際、話しかける所までは行ったこともある。なのに、その後が続かないのだ。誘おうとする瞬間、断られたときのイメージが脳裏に浮かび、言葉を止めてしまう。そして、結局はどうでもいいことばかりを口から出してしまうの繰り返しだった。

 

 立ち止まっている場合じゃないことは分かってるのに、羽沢先輩ならきっと勉強を教えてくれるだろうことも予想がついているのに……まだ体験してもいない最悪な結末の空想の前に、僕は足を止めてしまった。

 

 ……やっぱり、僕には無理なのかな……恋人を作るなんて。そういうのは結局、もっと明るくて、気遣いが上手くて、話上手な人だけに与えられた特権なのかな。

 そんな風に考えが下向きになりつつあったとき、再び日曜日がやってくるのであった。もし、今日誘えなかったらもう絶対に誘えない気がする。そう考えてしまうほど、僕は追い詰められていた。

 

 

***

 

 

 日曜日。いつものようにお店を手伝うべく、制服に着替えた私は開店に備える。今日はイヴちゃんが居ないから、お父さんを除けば木下くんと2人でのシフトになる。頑張らなくちゃ。

 

 ……そういえば、その木下くんなんだけど、なんだか最近元気がない気がする。多分だけど……今週の半ばくらいからかな? ほんの少しだけど、いつもより口数が少ないのだ。今日も、まだ挨拶しか交わしていない。

 

 体調が悪いというわけではなさそうなんだけど、ちょっと心配だなあ。もしかして、なにか悩みとかあるのかな? もしそうだったら、どれだけ力になれるかは分からないけど、相談に乗ってあげたい。違うかもしれないから、無理に聞いてみたりはしないけど。

 

 せめて、今日はできるだけ木下くんの様子を気にかけるようにしておこう。もちろん木下くんのことは信頼してるけど、念の為。一応、先輩だしね。

 

「つぐみ、ちょっといいかい?」

「お父さん? どうしたの?」

 

 そんなことを考えていたとき、お父さんが近くまでやってきた。

 

「突然なんだけど、午後からしばらく外出しないといけなくなってね。多分、17時くらいまではかかるから……すまないんだけど、その間はつぐみがコーヒーの面倒を見てくれないかな?」

「え、私が? でも、いいの……?」

 

 ずっと練習してきたし、1年生の頃と比べれば上手に淹れられるようになってきたとは思うけど、それでも私1人でやるのは不安だなあ……。任せてくれるのはすごい嬉しいけど、大丈夫、かな……?

 

「父さんは大丈夫だと思ってるよ。まあ、これも経験ってことで、やってみなさい」

「……うん! 頑張ってみる!」

 

 よーし! せっかくの機会だし、精一杯やってみよう。私が1人でできるようになれば、お父さんももっとゆっくりできるようになるだろうし。

 私は両手で握り拳を作り、己を奮い立たせるのであった。

 

 

 午後になり、予定通りお父さんがお店を出た後、お店には私と木下くんだけになった。流石にキッチンかホールのどっちかに専念する余裕はなくなっちゃったので、私も自分で注文を受け、自分で淹れたコーヒーを自分でお客さんへと運ぶ。

 

「お待たせしました。オリジナルブレンドです」

「おや、ありがとう、つぐみちゃん。今日はお父さんの姿が見えないけど、これはつぐみちゃんが淹れたのかい?」

「はい! よかったら、感想とか聞かせてください!」

 

 カウンターに座っている常連のお爺さんの田中さんにコーヒーをお出しする。今日どころか、人生で初めてお客さんに飲んでもらうコーヒーだ。常連さんが相手とは言え、緊張する。お父さんとか、みんなには美味しいって言ってもらえてるけど……どうだろう?

 

「……うん、美味しいよ。いやー、あんなに小さかったつぐみちゃんが、もうこんなに美味しいコーヒーを淹れられるようになったのかー。時間が経つのは早いねえ……」

「そ、そういうのはいいですから……! とにかく……! ありがとうございます」

 

 うう、子供の頃から私のことを知っている常連さんは、事あるごとにこういう褒め方をしてくる。褒めてもらえるのは嬉しいけど……ちょっと恥ずかしいな……。

 

 なにはともあれ、常連さんに合格を貰えたので一安心かな。使う豆さえ間違えなければ、なんとかやっていけそう。

 

「いらっしゃいませ。3名様ですね、ご案内します」

 

 そんな風に考えながらキッチンに戻っている間も、新しいお客さんがいらっしゃる。2人だけというのもあるけど、今日は全体的に結構忙しい。ランチ系のメニューも、どんどん飛んでくる。

 

 本当は、もうちょっと木下くんの様子も気にしてあげたかったんだけど、そんな余裕はなさそう。それどころか、ホールにキッチンと縦横無尽に動いてもらっていて、現在進行系ですごく助かっている。

 木下くんも頑張ってるんだし、私も頑張らないと……! 

 

「あ……おっとっと……!」

 

 危なかった……体の向きを変えた拍子に、お湯が残っているドリップポットに右手が引っかかり、倒れそうになったのだ。急いで支えたおかげで、なんとか無事だった。淹れる為に少し冷ましてあるとは言っても、まだそれなりに熱いし、気をつけないと。

 

 ——そう思った矢先のことだった。なにか、肉が焼けるような嫌な音がした。直後、炎で焼かれたような鋭い痛みが左手の小指側の側面から感じた。

 

「っ!? ぁ……ッ!!」

 

 声を出さなかったのは奇跡だった。周囲を見渡してみるけど、気づかれた様子はない。よかった……。手を洗うフリをして、左手を水で冷やす。

 

 ……なにが起きたのかは、すぐに分かった。ドリップポットに気を取られすぎて、左手が湯沸かしに使ったやかんに触れちゃったのだ。沸かしたお湯がたっぷりと入っていて、まだ熱々のやかんを。それも、一時的にではなく結構な間。

 

 触れた部分が、赤くなってる。痛みで、ヒリヒリする。水で冷やしてから少しの間は痛みが和らいだものの、すぐに復活する。でも、我慢できない程じゃないかな。試しに手を開いたり閉じたりしてみる。……うん、大丈夫。ちゃんと動かせる。

 

「羽沢先輩。オリジナルブレンドが1つとアイスカフェラテです」

「ぁ……うん! 了解!」

 

 咄嗟に左手を木下くんから見えないようにしながら答える。今、お店に居るのは私と木下くんだけなのだ。せっかくお父さんにコーヒーを任せてもらえたのに、ここで抜けることは出来ない。

 

 こまめに冷やすようにすればきっと大丈夫。せめて、お父さんが戻ってくるまでは頑張らないと。

 その後、私は木下くんの目を盗むようにしながら定期的に手を冷やしつつ、仕事を続行した。

 

 …………したんだけど、私が思ってたよりかは深い火傷だったみたい。

 

「っ……ぅ……」

 

 痛い。最初はヒリヒリするだけだったのに、時間が経つにつれてジンジンと刺すような痛みに変わってきた。水ぶくれが出来ちゃって、患部がなにかに触れるだけでも痛い。手を拭くのに使うペーパーすら痛いので、止むを得ない場合を除いて自然に乾くのを待つようになった。

 

 ただ、お店が忙しくなるに連れて、手を冷やす余裕もどんどんなくなってしまった。そうなると、塞いでいた穴がジワジワと広がるかのように、痛みは強くなる一方だった。

 

 時計を確認する。まだ15時を過ぎたばかり。つまり、少なくとも2時間はこの状態が続く。流石に、それはちょっと辛いかも……。せめて、薬くらいは塗りたい。でも、飲食物を扱ってるのに薬を塗った手で作業するのは……。包帯巻いちゃったら、動かせなくなっちゃうし。

 

 ……あ、でも今、お客さんが2組退店された。それに、ちょうど注文も落ち着いたみたい。新しいお客さんが来るまでは、安全かな。今の内にもう1度手を冷やして……

 

「……あの、羽沢先輩?」

「ぇ、あ、ぼーっとしててごめんね! えっと、ご注文かな?」

 

 間の悪いって言っちゃうのはとっても失礼なんだけど、木下くんが近くに来てしまった。これじゃあ、手を冷やしに行けない。またもや左手を隠しながら、平静を装う。

 

「いや、そうではないんですけど…………っ…………その……今、ちょっといいですか?」

「うん、大丈夫だけど……どうしたの?」

 

 ……もしかして、本当になにか相談があるのかな? 今日は休憩時間が少しだけ被ってたけど、そのときはなにもなかったから、てっきり私の勘違いだと思ってた。

 

 キッチンで話し込むのもあまりよくないので、私達は一旦待機所へと移動する。と言っても、お客さんからの呼びかけには応えられるくらいの距離で。

 

 顔をしかめたくなってしまう痛みに耐えながら、木下くんの話を待つ。

 ……あまりにも痛みが酷いので、手短にしてほしいって思っちゃう自分が嫌になる。全部自業自得なのに、木下くんを責めちゃうのは違うよね。もし相談だったら、ちゃんと聞いてあげないと。

 

「えっと……ですね……」

 

 木下くんはしばらく言い淀んでいたが、やがて意を決したのか顔を上げる。これは……とても大事な相談みたい。ますます、きちんと聞いてあげないと。

 

「——間違ってたら、謝ります。……羽沢先輩、左手を見せてください」

「ぇ……」

 

 ギクリ、と背筋が凍った。予想もしなかった言葉に、私は呆然とするしかなかった。

 

 

***

 

 

 羽沢先輩の様子がおかしい。そう思ったのは、午後の仕事に入ってからしばらく経った頃だった。

 結局、休憩時間のときも話を切り出せなかった僕は、焦燥と諦めを同居させながらも残った僅かなチャンスを窺っていた。その為、普段より羽沢先輩をチラ見することが多かった。そして、だからこそ異変に気づけた。

 

 根拠となった要素は3つ。

 第1に、羽沢先輩が時計を確認する回数があまりにも多かったこと。そもそも、羽沢先輩が能動的に時間を気にかけること自体ありえない話だ。上がりの時間だと誰かに指摘されるまで仕事に没頭していることの方が圧倒的に多い。

 第2に、いつもより作業のスピードが遅いような気がしたこと。初めてコーヒーを担当している影響もあるのだろうけど、それにしても少し遅い気がした。普段は僕よりも遥かに手際がいいのに。明らかに妙だった。

 そして最後に、僕との受け答えの最中に限って左手を隠すこと。あまりにさり気なかったので最初は気づかなかったが、何度も同じ所作で隠されればいくらなんでも分かる。もし様子がおかしい原因があるとしたら、左手になにかあると考えるのが自然だ。

 

 こんな感じで、異変だと断じるだけの根拠はいくつもあった。しかし、実際にそれを確かめる為に羽沢先輩に声をかけるのには、随分な葛藤があった。

 もし違ったらどうしよう。無理に問い詰めて鬱陶しく思われたらどうしよう。そう思ったら、なかなか動き出せなかった。バイトを始める前の僕だったら、きっとそのまま諦めただろう。

 

 そんな僕の背中を後押ししてくれたのは、”懇親会”のときに美竹先輩や宇田川先輩が話してくれたとある話だった。

 曰く、羽沢先輩は1年前に無茶をし過ぎて倒れたことがあること。以降、本人も反省はして改善傾向にはあるものの、それでも頑張り過ぎるきらいがあること。だから、バイトで一緒のときはちゃんと見ててあげてほしいということを。

 

 仮に、本当になにかしらの問題が起きてて、それを見過ごすようなことがあったら……僕は、先輩方に顔向けができない。だからこそ、今度ばかりはなけなしの勇気を振り絞ることができた。

 

「え、えっと……なんのこと? 別に私、なんにも……」

「……なにもないなら、見せられる筈です。どうして駄目なんですか?」

 

 誤魔化そうとする羽沢先輩を問い詰める。話しかける前は半信半疑な所があったが、状況証拠的にはほぼ確定だ。僕は語気を強める。

 

 羽沢先輩は怯んだように顔を俯かせ、怒られた後の子供のような顔になってしまった。それでも、左手を見せようとはしてくれない。

 

 ……仕方ない。もし、間違ってたら土下座でもなんでもする。そう開き直った僕は、羽沢先輩に近づいて、強引に彼女の左肘辺りを掴んだ。「ぁ……」と微かに抵抗はあったものの、すんなりと彼女の左手を目の前に引き寄せることに成功した。

 

 ……羽沢先輩の左手の一部が、痛ましいくらいに真っ赤に腫れていて、水膨れが出来ていた。

 

「……これ、結構酷い火傷じゃないですか。いつからこんな……」

「……その、最初にコーヒーをお出しした後、沸かしたばかりのやかんに触っちゃって……」

 

 ……ということは、約2時間もの間、ロクに冷やしもせず、治療もしないでこのままずっと?   どうしてそんなこと……って、そうか。コーヒーを淹れられるのが羽沢先輩だけだからか。

 

「とにかく……ちゃんと治療して休んでください。せめて、痛みが引くまでは……」

「でも、それじゃあコーヒーが……」

 

 う、確かにその通りだ。僕にコーヒーを淹れることはできない。豆の種類や焙煎とかの基本的な知識は教わったけど、実践はまだだ。ドリップの際のお湯の注ぎ方が重要らしく、今この場で教わった所でいきなりできるようになるとは……………ん? ドリップ?

 

「……あの、羽沢先輩。ドリップの為にお湯を注ぐのって、片手でやりますよね?」

「……? うん、蓋を押さえたりすることもあるけど、片手でもできるよ」

「……なら、こうしましょう。まずは、治療してください。そしたら、左手は使わないでドリップだけやってください。他は全部僕がやりますので、やり方を教えてください」

 

 これなら、なんとかなる筈だ。豆を計って、挽いて、お湯の温度を調整する。そして、羽沢先輩がドリップしたコーヒーをカップに注ぐ。こうすれば、羽沢先輩は片手だけの作業で済む。火傷した左手を使う必要はない。

 

「で、でもそれって……! ホールもキッチンもほとんど木下くんに任せちゃうことになっちゃうよ!? これからまた忙しくなるかもしれないのに……!」

「……まあ、なんとか頑張ってみます。本当は、今すぐにでも休んでほしいくらいなんです。……お願いですから、無理しないでください。他の先輩方から去年のこと、聞いています」

「あ……」

 

 一向に納得してくれそうになかったので、僕はとうとう去年のことを持ち出した。目を丸くしている辺り、その点を突かれるとは思っていなかったのだろう。

 ……多分、僕は少し怒ってるんだと思う。無理をしていることに、そして僕を頼りにしてくれないことに。だから、普段だと言えないようなことまでも言えてしまう。

 

 しばらくの間、羽沢先輩からの返答はなかった。……だけど、どうやら僕の願いは通じたようだ。うん、うん、と頷くと、羽沢先輩は顔を上げた。

 その顔は、透き通るように綺麗な微笑みを浮かべていた。

 

「……うん、そうだよね。ここで無理しちゃったら、バンドの練習でも迷惑かけちゃうかもしれないんだよね。……ありがとう、木下くん。大変だと思うけど、お願いしちゃうね。すぐに戻るから、ちょっと待っててね」

 

 治療の為、羽沢先輩が一時的に仕事場を離れる。それを見届けた所で、ようやく僕は安堵のため息を吐いた。……はあ、すごい緊張した。もう絶対にあんなことしたくない。

 ……でも、納得してくれてよかった。とにかくこの後、頑張らなければ。そう、決意を新たにするのであった。

 

 ——そして、マスターが戻って来るまでの間、特殊な2人体制が始まるのであった。

 

「えっと、オリジナルブレンドのときはミディアムのモカ、ハイのコロンビア、それとフルシティのブラジルをこの割合で混ぜて……」

 

 ——左手に包帯を巻いた羽沢先輩の指示のもと、ブレンドした豆を挽いたり。

 

「挽いた粉から茶こしで微粉を取り除くの。そうすると、すっきりした味わいになるんだ」

 

 ——微粉を取り除いたり。

 

「お湯の温度はドリップポットに入っているときに87度くらいになるように調整するの。まずは一回こっちに移して……」

 

 ——ドリップ用のお湯の温度を調整したりした。

 

 ……大口を叩いたものの、はっきり言ってこの2時間の作業は地獄のように大変だった。来客対応、注文を取る、料理を作る、デザートを作る、コーヒーを淹れる準備をする、その他飲み物の準備、そしてそれらを運ぶ。再び客席が賑わってきたことも相まって、体がいくつあっても足りないかと思われるほどだった。

 

 結局、羽沢先輩はコーヒー以外の飲み物の用意など、片手でもできそうなキッチン作業も受け持ってくれた。ちょっと情けないことになってしまったが、あまりにも苦しかったので素直に甘えた。……まあ、羽沢先輩に無理をさせないという目的は達したので、トントンだろうか。

 

 それからしばらくして、17時ジャストにマスターが戻って来たことで羽沢先輩は完全に現場から下がり、休んでもらうことができた。現場もなんとか持ち直し、最悪の結果だけは回避できたのであった。

 

 

「お疲れ様でしたー」

 

 やっと、やっと終わった……今日は、ちょっともう、クタクタだ。帰って、早く休みたい。

 

「お疲れ。今日は大変な中、ありがとうね。すごく助かったよ。今度から、少しずつコーヒーの淹れ方の練習も始めようか」

「え……は、はい……了解です」

 

 なんと、本格的にコーヒーの講習を始めてくれるらしい。今日のようなことを再発させない為か、元々そういう予定だったのかは分からないけど。それでも、なんだかちょっとだけ認めてもらえた気がして嬉しかった。今日、豆挽いたりするのも楽しかったし。

 

 待機所に入り、更衣室で着替えを済ませる。そして、更衣室から出たそのときだった。

 

「木下くん、お疲れ様」

 

 横から声がかかる。体ごとそちらに顔を向けると、羽沢先輩が立っていた。左手には、今も包帯が巻かれている。そして火傷の為にマスターが戻った時点で上がった彼女もまた、既に私服だった。

 

「お疲れ様です、羽沢先輩。……その、具合はどうですか?」

「うん、さっきと比べればだいぶよくなってきたよ。……ありがとう、木下くん。今日は、本当に助かりました」

 

 そう言うと、羽沢先輩は僕に向かって丁寧に頭を下げた。それを受ける側の僕は、突然のことに慌てふためく。

 

「い、いや……! 結局、コーヒー以外でも色々と助けてもらっちゃいましたし、あんま大したことは……!」

 

 それに、もっと早くに羽沢先輩に声をかけてれば、今よりも軽傷で済んだかもしれないのに。あんな遅いタイミングで、あんな風に偉そうに羽沢先輩を問い詰めた自分が恥ずかしい。

 

「ううん、そんなことないよ。あのとき木下くんが私のことを注意してなかったら、多分だけど、私はお父さんが戻ってくるまで無理しちゃってたと思う。そしたら、もっと悪化しちゃって次のバンドの練習には間に合わなかったと思うの。だから、本当にありがとう」

「い、いえ、その…………どういたしまして」

 

 そこまで言われてしまっては、素直に礼を受け止めるしかない。ましてや、意中の相手である羽沢先輩からのお言葉だ。本音を言ってしまえば、嬉しくない筈がない。顔が熱くなるのを感じつつ、頷くのであった。

 

「あっ、それとね、ちょっと聞きたいことがあったんだ。木下くんってたしか、来週の土曜日はシフトから外れてるけど、なにか用事とかって入ってるかな?」

「え、土曜日ですか? いえ、今の所は……」

 

 即答する。そもそも、僕にそんなスケジュールとかいう高尚な概念はない。せいぜいが、ゲーセンで遊ぶくらいのものだ。もしかして、緊急でシフトに入ってほしいのだろうか?

 

「よかった。あのね、今日のお礼になにかごちそうさせてほしいの。ここから馬場の方に向かった所にショッピングモールがあってね。そこのどこかでどうかな?」

「……………………え」

 

 一瞬……どころか数十秒もの間、僕はその言葉の意味を理解できなかった。夢だと言われたら確実に信じていたであろうくらい、リアリティの感じられない提案だった。

 

 よく分からないまま承諾し……翌日に待ち合わせ等の詳細な連絡が届いたとき初めて、僕はデートの約束をしたことに気づいたのだった。……棚からぼた餅だ。

 その後、慌てて上原先輩とかに連絡して助言を求めたのはまた別のお話。

 

 

 

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