羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない 作:Washi
あの雨の日の決意以降、僕は羽沢先輩の支えになるべく、もっと頑張ってみることにした。まず、今すぐにでもできそうなことから取り組み始めた。
第1に、バイトに入る日数を増やした。そうすれば必然的に羽沢先輩は休みやすくなるし、一緒に働いていたとしてもサポートができる。マスターの指導を受ける機会が増えるのも大きなメリットだ。
次に、バイト以外の時間にもコーヒーの勉強をするようになった。『羽沢珈琲店』は紅茶も出しているが、やっぱり主力はコーヒーだ。僕が少しでも早くコーヒーを担当できるようになれば、作業を羽沢先輩と分担しやすくなる。
勉強をするにあたって、有名なバリスタによるコーヒーの教本を何冊か購入した。すぐに必要じゃないけど、焙煎に関する知識も取り入れ始めた。元々勉強は得意な方だ。特に問題なく学習は進んだ。
さらに、コーヒーを淹れる為の道具を一式揃えた。手の届く範囲のものを購入した為、業務用の設備には及ばないけど、練習には十分のものを揃えたつもりだ。
練習は基本的には、焙煎済みの豆を挽いて、ドリップするの繰り返しだ。焙煎はまだ試してない。
試飲は姉さんにやってもらった。最初の方の感想は「インスタントよりは美味しいんじゃない?」と散々だった。だけど、試飲を繰り返してもらう度に評価は上がり、今は「コンビニの奴よりは美味しいんじゃない?」までにはなった。ついでに、バイト代も消し飛んだ。
そんなこんなで、非常に充実した2週間を送ってきた。暑くなってきたので学校の制服も夏服に切り替え、気分も入れ替わった。着実に進歩しているというのを久々に実感しながら、日々を過ごしていくのであった。
……だけど、このときは、実はとんでもないことを忘れているということに、僕はまだ気づいていなかった。
*
日曜日。いつも通りにバイトをこなし、閉店となった後のこと。一通りの清掃を済ませた僕は、キッチンに立ってコーヒーを淹れていた。
お湯の温度を調節し、しっかりと蒸らしを挟んでからお湯を注ぎ、ドリップさせていく。ブレンドされたコーヒー豆の香ばしい匂いがふんわりと広がり、鼻腔をくすぐる。よし、いい感じだと思う。これまでの練習の経験からすれば、今回の出来は結構期待できそうだ。
抽出が終わったコーヒーを温めてあったカップに注ぐ。それも2人分。均等に注いだそれをトレーに乗せると、カウンターで待っていてくれた2人……マスターと羽沢先輩のもとへと運んだ。
「お待たせしました、マスター、羽沢先輩」
「お、ありがとう。さて、今日はどんな感じかな?」
「ありがとう木下くん。いただくね」
それぞれの席の前にカップを置くと、2人から礼を言われた。2人がカップを眺めているのを、後ろから見守り結果を待つ。
実はこれ、マスターと羽沢先輩にコーヒーの試飲というか、テストをやってもらっているのだ。頻度としてはシフト4回に1回くらい。マスターは毎回参加だが、スケジュールの関係で羽沢先輩はまだこれで2回目だ。
この試飲会は僕の方からマスターにお願いしたことだ。なるべく早くコーヒーが淹れられるようになりたくて個人で練習もしてるから、テストしてほしい、と。とはいえ、この頻度はちょっと予想外だった。自分としては月2くらいをイメージしてたから。
マスターはブラックのままカップに口を付ける一方で、羽沢先輩はミルクと砂糖を入れてから飲んでいた。前回羽沢先輩が参加したときに知ったのだが、先輩はブラックが苦手らしい。
前回はブラックのままコーヒーを口にして、苦そうに顔をしかめていた。喫茶店の娘なのにブラックが駄目なのだと知られたくなかったかららしい。そんな所まで頑張らなくてもいいんじゃないかと、あのときは思った。
「……ふむ」
息を呑み、マスターの感想を待つ。はっきし言って、マスターの評価は姉さんより厳しめだ。言葉そのものは優しめなんだけど、付ける点数は低めというか。その辺りはやっぱりプロなんだなと思う。
「……うん、店でお出しするにはまだもう少しかかると思うけど、この2週間で随分よくなったと思うよ」
その言葉に、口元が緩むのを感じた。合格点ではないものの、間違いなく今までで最も高い評価をいただけた。練習は無駄ではなかったようだ。
「私もそう思うな。前より雑味が減って、すっきりしてて飲みやすいよ。木下くん、すごい頑張ってるね」
「あー、まあ……だいぶお世話になってるんで、これくらいはやらないとかな、と思いまして……」
花が咲くような羽沢先輩の笑顔に、半ば照れ隠しのような返事をしてしまう。頑張っている本当の理由を羽沢先輩にだけは言えない、というのもあるけど。
「ごちそうさま。それじゃあ、奥で経理回りのことをやってるから、残ってる分の片付けをお願いね」
「はい。お疲れ様でした」
コーヒーを飲み終わったマスターが奥へと姿を消す。僕は、少し遅れて飲み終えた羽沢先輩のカップも回収し、シンクに持っていく。残った洗い物を済ませ、コンロを閉じればおしまいだ。
「あ、コンロは私がやるね。洗い物だけお願い」
……と、思ったらコンロは羽沢先輩に取られてしまった。まあ、お湯沸かすのに使っただけで、既に簡単に掃除はしてあるので、大した負担ではない。お願いしても問題ないだろう。ここで変に仕事を取り合っても時間の無駄だろうし。
「そういえば木下くん、最近すごいたくさんシフト入ってくれてるよね? イヴちゃんが忙しくてあまり入れなくなっちゃったからとても助かってるんだけど、大丈夫?」
「……? ええ、特に無理してるとかではないですけど……」
忙しいのは事実だけど、ちゃんと自分で決めてやっていることだ。むしろ充実してるし、思っていた以上にコーヒーの勉強は楽しい。実際、自分用のコーヒー豆も欲しいなと思っていたりする。
「そっか。ならいいんだ。変なこと聞いちゃってごめんね?」
僕の表情か、返事の仕方か。なにが要因かは分からないけど、僕の言葉を信じてくれたようだ。あっさりと質問を切り上げて、羽沢先輩は作業に戻った。
それからは作業も滞りなく完了し、僕は上がって帰宅するのであった。
*
家に帰り、リビングに入ると先に帰っていたらしい姉さんの姿があった。テレビのオンデマンドで映画を見ているようだ。
「ただいま」
「おかえり。夕飯できてるから食べちゃいな」
「あれ、姉さんが作ったの? 母さんは?」
「なんか用事あるって2人で出かけたよ。深夜までかかるって」
ああ、だからテレビを独占してるのか。
まあ、こういうことは時々あるので驚きはない。僕は席につき、テーブルに置かれた料理を見る。チャーハンだ。僕の帰りが遅いので冷めてはいるだろうけど、十分美味しそうだ。
「ありがとう。お礼にコーヒーでも淹れる?」
「お礼って……あんたが練習したいだけでしょ」
「まあ、そうなんだけど。でも、今日はマスターにも結構褒められたよ」
「ふーん。あんだけ練習してたしね。当然ちゃ当然か。一応、期待しておいてあげましょう」
試飲の約束を取り付ける。今日はどういうブレンドにしようか。せっかくマスターに褒められたばかりだし、ここは『羽沢珈琲店』のオリジナルブレンドがいいかな。
「ところでさ、あんた最近コーヒーの勉強とかバイトばっかりしてるけど、試験の方は平気なの?」
「ん、試験って?」
「いや、期末のことに決まってんでしょうが」
ああ、期末。期末試験のことね……………………ん? え、あれ、期末?
「え、ちょっと待って。今日って何日だっけ……」
「7月1日。私は再来週の月曜からだけど、あんたは?」
「……5日から」
つまり、4日後。そして、今日は既に夜。しかも3日から8日までシフトを入れちゃっている。トドメに、ここ最近はコーヒーやバイトに夢中で最低限の勉強すらロクにやってなかった。試験勉強なんて論外のレベルだ。
肝が冷える、という表現は今このときの為に存在するのだということを知る。進学校で、初めての定期テストで、試験勉強してなくて、あと4日しかない。……やば。
「……あんた、忘れてたでしょ」
姉さんの呆れた目線。その通りだ。完全に忘れていた。今までにない充実感を味わっていたせいか、意識に全く上がらなかった。
しかし、これはまずい。本当にまずい。まずい通り越して絶体絶命だ。僕がバイトやらゲーセンやら自由にできているのは、親の求める成績の水準を保っているからというのが大きい。もし大きく順位を落とすようなことがあれば、きっとバイトを辞めさせられてしまう。
しかも、中学のときとは違って今通っている高校は進学校なのだ。必然的に、上位にはかなり勉強ができる人たちが集まっている。高校になってから難易度そのものも上がったので、相当頑張らないと上位は厳しい。
……もしかして、羽沢先輩が今日、僕のシフトを心配してたのってこれが理由? だとしたら、僕は嘘ついた。すいません、羽沢先輩。全然、全くもって大丈夫じゃないです。
「あー、えっと、ごめん。コーヒーはまた今度でいい?」
「いいから、さっさと食べて勉強しなって。成績落ちたら、お父さんうるさいよ?」
「うん、分かってる……」
こうなってくると、バイトに時間を取られるというのは非常に苦しい。だけど、1度シフトを入れた手前、直前で取り消すのはなしだ。
……普通に勉強してたら、絶対間に合わない。特に、日曜である今日をほぼ潰してしまったのは痛い。日程的に早くに始まる科目を優先しつつ、睡眠時間を極限まで削る……というかほぼ寝ずに勉強するしかない。
徹夜なんてゲームでもやったことないけど……もう覚悟を決めよう。今まで通り、バイトを続けられるように。
流し込むようにしてチャーハンを平らげた僕は、家に蓄えられていた栄養食をいくつか拝借し、部屋に籠もって勉強を始めるのであった。
*
……眠い。立っているにも関わらず、瞼が重くて閉じそうになる。平衡感覚も若干怪しい。あくびを噛み殺し、涙を瞬きで誤魔化す。
7月3日。今はバイト中でキッチンに入っている。つまり、猛勉強を開始してから2日が経過した。そして、徹夜に慣れてない僕は早くも疲労を感じ始めていた。
一応、少しは寝ている。1日1時間ちょっとくらい。でもなんというか、少し目を閉じてたら起きる時間になってたって感じで、全然休めている気がしない。
時間を重ねれば重ねるほど睡魔が強くなり、集中力が加速度的に奪われていく。バイトの継続という目標があるから頑張れてるけど、そうじゃなかったらとっくに寝落ちしている。
「羽沢先輩。4番卓のホットサンドです」
皿に盛り付けた料理を台に置く。近くにいた羽沢先輩が料理を取りに来る。
「ありがとう。……あれ? 木下くん、2番卓のフライドポテトが先に入ってたと思うけど、そっちはどう?」
「え……?」
少し前に羽沢先輩から受け取った伝票を確認する。……本当だ。少し先に、フライドポテトの注文が入っていた。フライヤーには……なにも入っていない。
「す、すいません! すぐにやります……!」
「うん、お願いね」
やってしまった。仕事である以上、疲労なんて言い訳にもならない。僕は急いで冷凍のポテトをカゴの中に入れて、油の中に沈めた。あまり時間のかかる注文じゃなかったのは不幸中の幸いだ。器とソースを用意して、揚がるのを待つ。
「……ねえ、木下くん。ちょっといいかな?」
そんな最中、ホットサンドを届け終わった羽沢先輩が戻ってきた。その表情は、少しばかり曇っているように見えた。多分、今の注文ミスに関してだと思う。
「……はい。さっきはすいません。もっと気をつけます」
「あ、えっと、そうじゃなくてね……あ、ううん、もちろん気をつけてはほしいんだけど、それとは別に気になることがあって」
「気になることですか?」
なんだろう? 店内の様子を見る限り、特に普段と大きく変わった部分はないように見える。
「うん。……木下くん、目の隈がすごいことになってるけど、大丈夫? ちゃんと寝てる?」
「……あー、これは……ですね」
僕のことだった。まあ、そりゃ気づくに決まっているか。朝、鏡の前に立ったとき、自分でも驚いたくらいなんだから。
「ほら、試験前じゃないですか。高校で初めての期末なもんですから、できるだけいい成績を取ろうと勉強してまして。そしたら昨夜、ちょっと張り切り過ぎたと言いますか……」
適当に、今思いついた理由で誤魔化す。試験があることを忘れてて、親が納得する成績取る為に今慌てて勉強してます、なんて恥ずかしくて絶対に言えない。
「そうなんだ。でも、あまり無理しないでね? もし駄目そうなら、バイトお休みにしても大丈夫だから」
「はい、ありがとうございます」
もちろん、そんな無責任なことをするつもりはない。試験最終日の7日まで頑張れば、ちゃんと休める。そこまでは、なんとか粘らないと。
羽沢先輩に疑われないよう、今度こそミスが出ないようにしないと。注文に抜けがないことを厳重に確認しつつ、眠気と戦いながら仕事を続けるのであった。
危ない場面もあったが、今日はひとまずそれ以上のミスを出すことはなかった。
*
翌日。つまりは試験前日。1つ、うっかりしていたことがあった。少々、困ったことになった。
実はうちの学校、試験前日は半日授業だったのだ。現在は13時の少し前。掃除を終えた僕は、予期せぬ自由時間を得た。まあ、それ自体はよかった。ただでさえ足りないと思っていた時間を得られたのだから。
問題は2つ。1つはカンニング対策で校内に残っての自習が禁止されていること。そしてもう1つは、今日もバイトがあることだ。
校内で勉強できない以上、外で勉強するしかないのだが、どこかの店で勉強するのは好きじゃない。他の人が居るのが気になってしまうのだ。
普段なら家に帰ればいいだけなのだが、そこでバイトが問題になる。今日も通常授業だと思っていたので、シフトの時間が夕方からなのだ。つまり、一旦家に戻った場合、再度家を出る必要があるのだ。移動時間を考えると、それは完全な無駄だ。
どうしたものか。そんな風に頭を悩ませていると……『羽沢珈琲店』の待機所を使わせてもらうことを思いつく。あそこなら他の人はいないし、移動時間のロスも発生しない。ついでに商店街なので昼食の調達も簡単だ。
まあ、もし駄目だったら、妥協して客として店内で勉強しよう。そう思い、店に向けて出発するのであった。
*
店に着いた僕は、早めの到着に驚いていたマスターに事情を説明する。ちなみに、羽沢先輩の姿は当然ない。姉さんの情報が正しいのなら、羽丘はまだ通常授業だろう。
マスターは待機所を使うことを快諾してくれた。それどころか、まかないのホットサンドまでいただいてしまった。本当に、マスターには頭が上がらない。
手早く昼食を終えた僕は、早速勉強に取りかかった。今日はもう初日の科目に全力投球だ。問題集を解いては、分からなかった部分を確認していく。初日は得意の理系科目が集中しているということもあり、比較的順調だ。
……ただ、1時間半くらいが経過したところで、3日で蓄積された睡魔がついに本気で牙を向いてきた。食後ということも大いに影響しているのだろう。前日の比ではないレベルの眠気が僕を苛む。
頭上に岩でも乗せられているのかと思うくらい頭は重いし、ほんの少し気を抜いただけで意識が飛んでしまう。目なんて、開いているのか、そうでないのかが曖昧だ。かろうじて数文字が読める程度の視界。多分、1秒以上目を閉じたら寝てしまう。
手のひらに爪やシャーペンを刺すことによる痛みで、かろうじて意識を繋ぎ止める。だけど、それは言うならば電池の少なくなったスマホの節電モードと同じだ。持ちこたえる時間を幾らかは伸ばせるが、いずれは必ず電池が尽きる。
フラフラと、船を漕ぐ。意識の暗転と覚醒の間隔が短くなる。問題の内容が頭に入らない。文字を書くことすらできない。睡魔に抵抗することに全ての力を注ぐ。それでも、1度ヒビの入ったガラスが元通りにならないように、どんどん割れ広がっていく。
……駄目だ。寝ちゃ…………駄目だ。今、寝ちゃったら…………試験、が…………バイト、が…………………
***
放課後となり、私は寄り道することなく帰宅した。もう試験1週間前だから、勉強に集中しないといけない。あと数日もしたら、お手伝いも一旦お休みかな。
店の裏口から家に入り、お父さんに帰宅を伝えてから自室に向かおうとする。裏口は待機所と繋がっているため、まずはそこを通ろうとする。
その待機所のテーブルの方を見たときだった。そこに、背中を向けながら伏せている、白いワイシャツを着た人がいることに気づいた。
「……木下くん?」
今日のバイトのシフトからして、木下くんくらいしか考えられない。試験前は生徒会の仕事もないので、学校から家までの距離が近い私の方が先に着くと思ってたけど、そうじゃなかったみたい。
側まで近づいて様子を窺ってみる。気持ちよさそうに寝ている。起こすのが忍びないくらいぐっすりだ。男の子の寝顔をこんな間近で見るのって、初めて。気の緩んだ木下くんの寝顔は、なんだか可愛かった。
本当はこのままずっと寝かせてあげたいけど……うーん、もうすぐシフトの時間だよね。かわいそうだけど、もう起こしてあげないとかな。
「木下くん、起きて。あと少しでシフトの時間だよ」
指先でトントン、と軽く肩を叩く。起きる気配はない。次に、もう少し強めに叩いてみる。これでも起きる気配はない。
仕方がないので、今度は肩を揺すってみる。うう……これも駄目みたい。心を鬼にして、かなり強く揺すってみたけど……全然駄目。一向に目を開いてくれない。
そういえば昔、モカちゃんに寝たフリをされて、延々と肩を揺らしては声をかけることを繰り返したことを思い出す。もしかして、木下くんもそれをしてるんじゃ……と思った所で首を横に振る。あの真面目な木下くんがそんな悪戯をする筈がないもん。
……そんなとき、あるものが目に入る。私は「あれ?」と首を傾げる。木下くんの頭の下にあるのって……参考書とノート? しかも開きっぱなし。試験勉強をしてたんだとは思うけど、休憩するなら普通は一旦閉じて除けておくよね?
なんか……おかしいな。そう思ったとき、私はあることに気づいた。木下くんの右手だ。芯が出たままのシャーペンを握ったままだった。その軸先の下には、開いたままのノートのページが広がっていて、紙には赤ん坊の落書きのようなグルグルの黒い線が錯綜していた。
それともう1つ……これが、最も重要なことなんだけど……目元の隈が消えていない。ううん、昨日よりもずっと酷くなってる。昨日もあまり寝ていないであろうことは、明らかだった。
……そっか。休憩して寝てたんじゃなくて、勉強している途中で寝落ちしちゃったんだ。それも状況からして、すごい頑張って抵抗してたんだと思う。
一旦、キッチンの方に行ってお父さんに聞いてみたら、試験前日で半日授業だったのを忘れていたようで、待機所でシフトまでの間勉強しているらしい。
なんでかは分からないけど、木下くんはこの数日、ほとんど寝ないで猛勉強してたみたい。それも、こんな体勢で寝てるのに体を強く揺すっても起きないくらいの寝不足になってまで。
「……大丈夫だって、言ってたのに」
思わず、言葉が溢れてしまった。木下くんのこと、信じてたのに……やっぱり無理してたんだ。昨日、無茶はしちゃ駄目だよって言った筈なのに。相談すら、一言もなかった。
なんで、言ってくれなかったんだろう。なんで、無茶してたんだろう。頑張りすぎがよくないって最初に言ったのは、木下くんの方なのに。
色々と言いたいことが浮かんできた……それはもう、止め処なく。今すぐ木下くんを起こして、言い聞かせたいくらいだ。
……けど、それは後にしよう。今は、寝かせておいてあげよう。今、無理に起こしたら、きっと慌ててシフトに入っちゃうから。
私は自室に行って、余っているタオルケットを引っ張り出す。柄がちょっと男の子に合ってないけど、そこはしょうがない。寝てる木下くんが悪いんだから。
そのタオルケットを持って待機所まで戻り、木下くんにかけてあげた。夏ではあるけど空調が効いてるし、じっとしてたら冷えちゃうかもしれない。せめて、これくらいはしてあげないと。
……うん、ぐっすり寝てる。これなら、もうしばらくは休んでてもらえるかな。本当はソファやベッドに移動してほしいけど、起こさずにそれは無理なので、諦めるしかない。
「ねえ、お父さん。木下くんなんだけど……」
タオルケットが落ちないのを確認した私は、お店の制服に着替えた後、お父さんにあることを頼みにキッチンへと向かうのであった。
***
……痛い。主に首の辺りが痛い。それと左手が痺れているのか、感覚がない。体がだるい。でも、頭はちょっとだけすっきりした気がする。
えーっと、なにしてたんだっけ…………たしか、半日授業で……早めに店行って……それで、勉強してて…………って、やば!? もしかして寝てた!? うわ、なにこれ、涎がノートに……!?
慌てて体を起こす。慌てすぎたせいでガタン、と椅子が派手な音を響かせてしまったがそれどころじゃない。
スマホは……あった。時間、時間は…………ぇ……17時半? 今日はシフトが16時半からだから……もう1時間も過ぎてる。勉強が進まなかったのもやばいけど、バイトに遅れる方が何倍もやばい。
血の気が引くのを感じる。心臓がバクバクと鼓動を速め、胸が苦しくなる。背中に虫を入れられたかのような悪寒が走り、嫌な汗が吹き出す。
なんて様だ。まかないを作ってくれたマスターに合わせる顔がない。
とにかく、早く着替えて今からでもシフトに入らないと……! そう思って立ち上がろうとしたとき、肩になにかがかかっているのに気づいた。
「……タオルケット?」
非常に可愛らしい柄のタオルケットだ。僕のものではない。ありえるとしたら……もしかして、羽沢先輩?
「あ、起きたんだ。おはよう、木下くん。よく眠れた?」
「は、羽沢先輩!? あ、いや、あの……! ……すいません! すぐシフト入りますから!」
突然現れた羽沢先輩に、僕はなんと返事をすればいいのか分からず、しどろもどろになった末……とにかく謝罪することを優先した。
そして、タオルケットを椅子にかけてから更衣室に飛び込もうとしたとき、「あ、待って」と羽沢先輩に呼び止められた。
「シフトは大丈夫。お父さんに言って、今日は外してもらったから。……ううん、今日だけじゃなくて、今週分は全部」
「……え? 外したってどういう……」
シフトを外した? どうして……と混乱する僕を他所に、羽沢先輩は微笑を浮かべつつ、淡々と次の言葉を紡いだ。
「その説明の前に、少しお話しよっか。そこに座ってもらってもいいかな?」
「っ……」
一見すると、いつも通りの優しい声音。だけど、その声には有無を言わせぬ迫力があり、到底逆らえるようなものではなかった。その背中から、尋常じゃない圧力のオーラが見えた気すらした。
……僕は大人しく、席に戻った。その対面に羽沢先輩が座ると、早速先輩の方から話を切り出してきた。
「木下くん、どうしてそんなに無理して勉強してたの?」
羽沢先輩の真剣な眼差しに、僕は言葉を詰まらせてしまうのであった。
***
私の質問に、木下くんは顔を俯かせていた。無茶をしていたという自覚はあったみたい。これはますます、どういうことなのかと問い質さなくては、と決意を新たにする。
「本当は昨日よりも前から全然寝てなかったんだよね?」
「それは……」
連日の睡眠不足の辛さは、私もよく知っている。意識が不明瞭になっちゃって、信じられないくらい集中力が落ちちゃうのだ。それはとっても、危険な状態だ。
「どうして寝なかったの? 昨日だって、結果的には調理の順番のミスで済んだけど、もしかしたら私みたいに火傷してたかも……ううん、もっと酷いことになってたかもしれないんだよ?」
「っ……」
私は語気を強める。昨日、私は睡眠不足なのではないかと指摘したし、木下くんもそれは認めていた。なのに、きっと昨日も徹夜に近いことをしていたのだろう。
睡眠不足がどれだけ危ないのかは昨日の失敗で自覚していた筈なのに、結局それを無視したということになる。
……自己管理が全くなってない。思わず、眉間にシワを寄せてしまった。
多分、私は怒ってるんだと思う。無茶をしていたことに。嘘をついていたことに。こうなるまでなにも相談してくれなかったことに。先輩と後輩ではあるけど、今では木下くんのことは大事なお友達だと思ってるのに。
だから、今日は容赦はしてあげない。ちゃんと問題が解決するまで、ここを動くつもりはない。お店の方は、しばらくお母さんにお願いした。
「……木下くんが理由もなくそういうことする人じゃないのは分かってるよ。そう思ってるからこそ、なにがあったか教えてほしいの」
今度は一転して、なるべく優しく、諭すような調子で語りかける。沈痛な面持ちの木下くんを見て、後悔しているのは分かったから。
答えを急かすようなことはせずに、じっと返事を待ち続ける。
時計の針の音が今日はとてもよく聞こえる。普段だったら気にならないくらいの大きさなのに。思わず、回数を数えちゃうくらい。
……秒針が40回くらい動いたとき、ついに木下くんの声が部屋に響いた。
「……すいません。こんなことになるつもりは、なかったんです」
「うん、分かってるよ」
「……実は」
——木下くんはポツリポツリと呟くような調子で、なにがあったのかを教えてくれた。映画とかで見る、懺悔室での一面のように。
お店の力になりたくてコーヒーの勉強を頑張っていてくれたこと。バイトをできるだけ増やしてくれたこと。そしたら試験前なのを忘れていたこと。もし上位の成績が取れなかったらバイトを辞めさせられるかもしれないこと。でも、バイトを直前で休むなんて無責任なことができなかったので、ほぼ徹夜で勉強していたこと。纏めると、そんな感じだと思う。
「だからって……!」
思わず、立ち上がりそうになってしまった。感情に任せたまま、身を乗り出す。
勉強が大事なのは分かる。お店のことを大事に思ってくれるようになったのは嬉しい。でも、本当にそんなに無理をしないといけなかったのだろうか。そもそも、体を壊したら元も子もないではないか。
そんな感じのことを衝動的に言ってしまいそうになって…………寸前で思い留まった。なぜそんなに頑張ってしまったのかを……察してしまったからだ。
「……ごめんなさい。私が言えたことじゃないよね」
水を被ったかのように、急速に心が落ち着いてくるのを感じた。木下くんに謝ってから、姿勢を正す。
……気づいてしまったのだ。今の木下くんは、1年前の私と全く同じだということに。不安に押し潰されそうになって、あれもこれもやらなくちゃと無理しすぎて、本当に倒れてしまったときの私と。
同じ過ちを犯した私に、木下くんを責めたり叱ったりする資格はなかった。
今の木下くんの風貌は……あんまりよくない。目元の隈は今もすごいし、顔色は明らかに悪い。誰がどう見ても、体調を崩しているようにしか見えない。そんな姿の木下くんの目を通して、1年前の自分の姿が見えた気がしたのだ。その私の姿も……酷いものだった。
——そっか。みんなには、頑張りすぎているときの私はこんな風に見えてるんだ。ようやく、その深刻さに気づいた。
あのときとは逆の立場に立ったことで、かつての自分を客観的に見ることができた。なるほど、確かにこれは心配になるし、無茶をするなと叱りたくもなるよね。
……もっと自分を大事にしないといけない。本気で、そう思った。今まではきっと、分かっているようで分かっていなかった。だから、火傷のときみたいなことも起きてしまった。でも、これからは大丈夫……だと思う。
「あの、本当にすいませんでした。変に意地を張らないで、相談すべきでした……」
「……ううん。お店のことを大事に思ってくれたってことだもんね。私も、きっと同じことをしちゃってたと思う。……ありがとう、話してくれて。バイトを辞めない為に頑張ってるって言ってくれたの、とっても嬉しかったよ」
今にも罪悪感で押し潰されそうな表情をしていた木下くんに、僅かばかりの笑顔が戻った。よかった、少しは安心させられたかな。
とにかく、木下くんにはなるべく早く休んでもらわないと。ほんのちょっと前まで寝てたとはいえ、テーブルの上じゃあんまり疲れはとれない。ちゃんとベッドで横にならないと。
「えっと、それじゃあ今日はもう帰って休もっか。勉強はしてもいいけど、今夜は早めに寝てね。それとさっきも言ったけど、今週はシフトは全部なしにしたから、勉強に集中して大丈夫だよ」
「了解です。でも、その……いいんですか? さっきはああ言いましたけど、大丈夫だって言っちゃったのは僕の方なのに……」
木下くんが申し訳なさそうにこちらを見る。そんな彼の心配を吹き飛ばすかのように、私は精一杯の笑顔を浮かべた。
「うん、平気だよ。私は試験は来週だし、試験前とかは元々お母さんにお願いして代わってもらってたりしてたから。心配しないで」
だから無理をしない程度に一緒に頑張ろう。最後に、私はそう告げた。
*
結果だけ言ってしまうと、木下くんは私との約束をきっちりと守ってくれたようで、来週会ったときには目の隈はすっかり消えていた。
さらにそれからしばらくして、木下くんはチャットを通して、無事にバイトを続けるのに十分な成績を出せたと教えてくれた。まだ私が学校にいたときに届いたメッセージだったから、結果が分かってからすぐに送ってくれたんだと思う。
よかった。これからも木下くんと一緒に頑張れる。そう思うと、安堵で自然と頬が緩むのであった。