東風谷早苗の初体験 ーわたし不思議なクスリでトんじゃいます♥ー   作:夢野ベル子

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中編

 不良がタバコを吸いたくなる心理はどこから来るのだろう。

 

 あるいは、鶴の恩返しで襖を開けるのは?

 

 それは好奇心がなせる業だ。

 

 人間はなべて老い先短い命。

 

 妖怪に比べれば、限界まで生きても、たった100年ぽっちしか生きられない。

 快楽を健康的に享受できる年齢はもっと短いだろう。

 

 単純な快楽なら、べつにタバコに限られることではないし、多種多様ないろいろな快楽が現代社会には存在している。べつにそれは幻想郷であっても同じだ。人間も妖怪も、きっと新しい何かを探していることに変わりはないから。

 

 タバコを吸うというのもその数え切れない快楽のうちの一つに過ぎない。

 

 それでもなお、吸いたいと思うのは、やはり初めての快楽に身を浸したいからだ。

 

 初めての快楽。

 

 覚え始めの、あの快楽。

 

「あっ♥」

 

 なまじっか記憶としては識っているため、その欲望には抗いがたいものがある。

 

 早苗はさっそく快楽へと身を浸した。

 

 右手は白く細い腕を、ウンっと伸ばし、

 

 時折、ピクピクと身を震わす。

 

 彼女が握っているのは何の変哲もない漫画本だ。

 

 けれど、早苗にとっては初めての感動が津波のように押し寄せてくる。

 

 その感動は、けっして初めて空を翔んだ感覚に劣るものではない。

 

 脳内のシナプスを微小なパルスが駆け巡り、早苗は口を半開きにして、細かい呼吸を繰り返している。

 

「しゅごい♥ この作品しゅごしゅぎぃ。エロしゅぎいいいい♥」

 

「早苗!?」

 

 部屋の前で神奈子の声がした。

 

 けれど、興奮しきった早苗の元へ届かない。

 

 なにか異変があったのかと心配した神奈子が部屋に入る。

 

「早苗……」

 

「あ、神奈子しゃまぁ……えへ♥ 見てくださいこの本……すごくえっちくてぇ」

 

 神奈子は愕然とした。

 

 清純を絵に描いたような早苗の手には淫猥な……淫猥な?

 

「早苗。それ……コミックボ○ボ○じゃないの」

 

 少年誌であった。

 

 どちらかといえば低年齢向けの少年誌である。

 

 わが子同然の早苗の、あんまりといえばあんまりの痴態に、神奈子は自分の顔を手で覆ってしまった。

 

「早苗……、あのクスリ。まだ飲んでたんだね」

 

「ハァハァ……あい♥ たまらなくおもし……ハァ……んっ♥」

 

「落ち着いてから話しなさい」

 

 早苗が落ち着くまで、たっぷり五分以上かかった。

 

 

 

――コ○コ○よりボ○ボ○のほうがエロいつも大変お世話になっております――

 

 

 

「失礼しました」

 

「いや。いいんだけどさ……。身体におかしなところはないんだね?」

 

「はい、大丈夫です。さすがは永遠亭印のおクスリですね」

 

「身体に変調がなくても、あまりよくないと思うんだけどねぇ」

 

 神奈子は首をひねっていた。

 

 なんとなく腑におちないと言いたげな様子。

 

 早苗は無垢な子どものように笑った。

 

「なんの問題もありません。だってこれは感動を掘り起こしているんですよ」

 

「感動?」

 

「そうです。感動です。わたしはこのおクスリを飲んでみて、初めてわかったんです。私がどれほど恵まれた環境にいたのか。どれだけ上澄みの部分だけを掬って鑑賞してきたのか。いかにわたしの感性が鈍っていたのか。それらのことがはっきりと理解できたんです」

 

「おまえの感性は歪められていないんだね?」

 

「いませんよ。むしろ日常こそが毒だったんです! わたしの感性はいつも現実という風塵にさらされています」

 

 早苗は年頃の少女にしては、大きくたわわな胸に手をあてて、感動を反芻している。

 

 ああ、こんなにもうれしいことはない。

 

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「神奈子さま。わたしはずっと前から、好きな物語の創作小説を読むのが趣味でした」

 

「んん? まあそれは知ってるよ。ずっと見てきたんだからね」

 

「けれど、最近は感動が薄れてきてたんです」

 

 ガッカリ顔の早苗である。

 

 神奈子はじっくりと考え、おもむろに言った。

 

「早苗が成長してきたということだろう」

 

「違うんです。きっとそれは純粋な感性がなくなってきたからです。賢しらぶった知識が、その作品を曇りなき(まなこ)で鑑賞することを阻害してしまっているんですよ!」

 

「考えすぎじゃないかい?」

 

「いいえ。考えすぎじゃありません。だって考えても見てください……。こっちの作品は擬音だけで剣戟の様子を表してます。ぶくぶくと知性で太りきった豚のような感性では、この描写の素晴らしさは受け取れません」

 

 早苗はその小説の該当箇所を開いて見せた。

 

「キンキンキンって……、これはまたいろいろと省略した描写だね」

 

「素晴らしい省略です。ああ、わたしの脳内には彼らの音を越えた剣戟が見えます。詩的で軽やかでこんなにも自由な描写をわたしは知りません」

 

 早苗は恋する乙女のように小さな本をかき抱き、楽しげにステップを踏んだ。

 

 楽 し く て た ま ら な い ♥♥♥

 

「うーむ。だけど、早苗はべつに記憶がなくなったわけではないんだろう?」

 

「そうですよ?」

 

 早苗はきょとんとした。

 

 神奈子が何をいいたいのかわからなかったからだ。

 

「つまり、この作品以外にも他にもいろいろと好きな作品とかあるのだろう?」

 

「そうですね。もちろん作品の出来といいますか、質については記憶を参照にするところが大きいです。わたしの中のランキングはきっとずっと変わらないと思います。でもですよ。一番好きな作品は記憶を消してもう一度読み直したいってあるじゃないですか。このオクスリをのめば、それが叶うんです。記憶は残したまま感性だけが最初に触れたときみたいになるんですよ」

 

「なるほど……、好奇心を刺激するクスリか。言いえて妙かもしれないわね」

 

 神奈子の視線が鋭くなる。

 

 早苗は、えへ顔ダブルピースをしそうなほど、頭ん中がハッピーセットまみれになっている。

 

「早苗……、そのクスリを飲むのはもうやめなさい」

 

「え、どうしてですか? どうしてそんなこと言うんですか!」

 

「そのクスリは好奇心を刺激しているというが、その実、好奇心を鞭打っているのだろう」

 

「よくわかりません」

 

「好奇心の原初的な駆動因は何か知っている?」

 

「わかりません……」

 

「死だ」

 

 神奈子は言う。

 

 タナトス?

 

 死がどうして好奇心につながるのか、早苗にはわからない。

 

 だって、こんなにもキラキラしているのだ。

 

 世界は輝いていて死の臭いなんか一切しない。

 

 抗議の眼。

 

 早苗は神奈子に押し迫る勢いだった。

 

「神奈子様は神様だからわからないんです」

 

「おまえも半分は神様だろう」

 

「だって、神奈子様は不変の存在じゃないですか」

 

「確かにそうかもしれない。けれど、わたしは早苗に幸せになってほしい。神様としても人間としても」

 

「やっぱりわかりません」

 

「そう……」

 

 神奈子はぬっと動き、それから部屋を出ていった。

 

 早苗は言い知れない恐怖を感じる。

 

 けれど、抱いたままだった本をぎゅっと握り締め、やっぱり思う。

 

 こんなにも生に溢れているものはない。

 

 世界は希望に満ち溢れている。

 

 知らず知らずのうちに磨耗した感性が再び復活し、目の前にあるのだ。

 

 死なんてどこにもない。

 

 死なんてどこにも。

 

 だって、そうじゃないか。人間の感性は長ずるに従って、つぶれたエアパックみたいにどんどんなくしていくものだ。

 

 初めての感覚こそが至上であり、あとは堕落していくだけ。

 

 価値観も感動も感性も、瑞々しさを失い、乾いた砂のようになっていく。

 

 それが……人間じゃないか。

 

 神奈子さまはずるい、と早苗は思った。

 

 神様も妖怪も人間よりもずっと可塑性が強く、したがって変化に対して耐久力があり、いつまでたっても子どものようにあれるのだ。

 

 対して、早苗は半分は神様であるものの肉体的には人間である。

 

 したがって、その変化は神や妖怪の比ではない。

 

「だって、人間なんて――、どんどん時間が加速していくだけだし」

 

 小学校の頃。

 

 早苗の時間は長かった。家の裏にある山間をトトロを探して駆け回った頃。日中は気が遠くなるほど長かった。

 

 それは、すべてが初めての体験だったからだ。

 

 すべてがものめずらしく、触れて、聞いて、嗅いで、全身で感じるのに忙しく、脳みそは常にフル回転。

 

 つまり、潰すべき暇なんてものはなかったから。

 

 だから時間は限りなく引き伸ばされていた。

 

 中学に上がる頃には、その時間は少しずつ加速していく。

 

 ほとんどの経験は、一度は通った道。

 

 珍しいこと、初めてのことはどんどんとなくなっていき、過去の出来事を参照して、比べるようになる。

 

 どいつもこいつもありきたりという名のフォルダにしまわれてしまって、最初に感じた奇跡のような出会いを忘れてしまう。

 

 たとえ、ミステリーではありきたりなネタであったとしても、そのとき初めて読んだネタであれば、びっくりするだろう。

 

 このクスリは記憶をなくすわけではないが、そのとき感じた、その『感じ』を思い起こさせてくれる。

 

 オリジナル主人公がチート能力を使って大好きな物語に介入する話を始めて読んだときの感動とか、初めてファイナルファンタジーがポリゴン仕様になったときの感動とか、ジェットコースターで引っ張られたときのあのゾクゾクするような加速度とか、それらのきらめくような閃光を、二度と、決して手に入らない残光を、もう一度手にすることができるのだ。

 

 神様のお日様は沈まない。

 しかし、人間のお日様は沈んでいく。

 

 斜陽にある存在を、神様がわかったような気になっても、きっとたどり着けない。きっと見えない。ずるい。神奈子様はずるい。妖怪もずるい。こんなにも怖いのに。

 

 だから――、この体験は人間だけのものだ。

 

 早苗は陶酔しきった顔になる。

 

 やっぱり、わたしは間違っていない。

 

 早苗はそう思った。

 

 

 

 5

 

 

 

「いひ♥」

 

 早苗は瓶を無造作に振って、クスリをいくつも手のひらの上に出した。

 

 水も呑まず。嚥下する。

 

 畳とは、なんと精緻な存在なのだろう。

 

 その目を見ていくと、無常の悦びにひたされるのを感じる。

 

 だって、この編みこまれた模様のなんと美しきこと。

 

 部屋という構図も美しい。

 

 だって、人工的なこの直角は、人の叡智が作り上げたものだ。

 

 文化人類たる早苗は、自身がいかに刺激に慣れ過ぎていたのかを悟る。現代人と過去人の受けとっている刺激量は比べ物にならないだろう。

 

 光と音の電子ドラッグ。

 くたびれた脳を揺さぶるようなもっと強烈な刺激。

 脳がグツグツに溶けるような刺激がなければ、現代人は翔べない。

 

「だからぁ。いひ。もっと。初めての感覚を見つけなきゃ……」

 

 もちろん、早苗の精神状態はまったくもって正常であり、一点の曇りもないことはここに記しておこう。

 

 彼女はいわば初体験に興奮しているだけであり、その判断能力や理性が麻痺しているわけではない。

 

 ただ、依存はしていた。

 

 クスリは早苗の始原的な感性をくすぐりつづける。

 

 その刺激にすら慣れ始めていた早苗は、始原的な感性のなかでもとりわけ刺激的なものを求めるようになっていった。

 

 妖怪退治――という名の合法的な暴力である。

 

 景気よくクスリを十錠ほどキメたあと、早苗は空を駆ける。

 

 神奈子が何か叫んでいたが、ほとんど気にならない。

 

 そんなのはノイズで。早苗は遊びたい。

 

 精神は常に遊覧し、現実以上に翔んでいる。

 

 あははははは――と、通常のタガがはずれているのは、まるで酔っ払いか狂人のソレであり、太陽の盛る時間だというのに、湖の周りは静まりかえっている。

 

「おかしい……ですね」

 

 冷たい目だった。

 

 もとより涼しげな瞳は、今は獲物を狩る残酷性のためか冷え切っている。

 

 すっと地面に降り立ち。

 

 誰かいないか探す。誰か。いないか。

 

 それはきっと小学生よりも前に、意味も無くバッタを探していたときに似ている。足をもいで遊んでいたあの頃に。意味もわからず。命の意味もわからず。死ぬことの意味もわからず。

 

 ただ好奇心にまかせて。

 いや、好奇心にあかせて。

 湯水のごとく湧き出る好奇心と

 尽きることない時間の浪費によって。

 

――遊んでいた。

 

 湖の周りは森に覆われていて、遮蔽物に隠れた獲物たちが、どこぞで息を潜めている。

 得もいわれぬ緊張感。

 楽しくてたまらない。ドキドキしてたまらない。

 早苗の真っ白い脇の下を、透明な汗がしたたりおちていく。

 まるで幼稚園の頃にしたカクレンボのように思われてくる。

 

 初めて鬼になったときの薄暗い気持ちを覚えているだろうか。

 

 早苗のやっていたカクレンボは、鬼ごっこもかねていて、見つけたあとも走って逃げることができた。

 

 だから、追いかけて、捕まえるまでが鬼だった。

 

「みぃーつけた」

 

「ひっ」

 

 それは大妖精と呼ばれる、他の妖精より少しばかし力の強い妖精だった。しかし、異常といえるほどの個体ではない。

 

 妖精は殺しても死なない。

 

 早苗は、理性的に考えて――。だから逆接として殺してもいいと考えた。

 

 妖精こそ、まさに真の不変なる存在だ。

 

 妖精は自然そのものであり、永遠のピーターパンだ。

 

 不意に。

 

 恐ろしいまでの純粋な殺意が湧き、早苗は半月の形に唇を歪めた。

 

 この殺意には正当性がある。

 

 なぜなら、人間の持つ感性はとがりきった好奇心を理性によってまるめこみ、なだめすかすことでようやく現実世界に定着するものだからだ。

 

 抜き身の好奇心とは、バッタの足をもぐ残虐性に他ならない。

 

「ぴちゅーんしちゃいますよ」

 

「や。やです。た、助けてチルノちゃん!」

 

 身が震えるほどの完璧な抵抗だった。

 

 大妖精の弱々しい抵抗は、早苗のゼロにまで引き戻された感性にとっては、分化される前の性欲のように意味を持たない、グチャグチャの刺激となっている。もちろん、早苗は性を知らない年頃ではない。だが、感覚的には性の目覚めに近い。生の脈動に近い。

 

 意味がない刺激。

 言葉にならない言葉。

 

「ハァハァ……いひ♥……退治……しなきゃ」

 

 何度も記載する。

 早苗の内心は、まったくもって平常の状態である。

 理性は必死にシグナルを鳴らし、記憶は彼女の行為を押しとどめようとしている。

 

 けれど好奇心はそれを凌駕した。

 

 わたしは死んだらどうなるのだろうという素朴な疑問が、現象としての他人の死を追い求めることになった。

 

「だから」早苗は平静に結論づける。「死んでください」

 

 大妖精が逃げ出した。

 

 鬼ごっこの鬼の気持ち。

 

 初めて友達の背中を追いかけたときの気持ち。

 

 追いついたときの気持ち。

 

 征服し、支配し、屈服させる感覚。

 

 克服しなければならない。『 』を。

 

 だから、死ね。

 

「怯える妖精を無理やり手篭めにしようだなんて……。あんたいつから妖怪になったわけ?」

 

「誰?」

 

 早苗は振り返った。

 

 そこには幻想郷の公平な裁定者――博麗霊夢が浮いていた。

 

 




久しぶりに短編書いたら、いろいろと感覚忘れてるような気がしないでもないです。
もやっとしたまま後編に突入します。
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