家を出る前の茅野 カエデ(布団のなか)。
「今日もデー……って違う違うデートじゃないデートじゃない……って、デートって言っちゃった! あぁもう! あーあー!………………………………ふぅ、行く準備しよ」
「うわあ、渋谷混んでるね」
平日の午後だと言うのに溢れ帰った人混みを見て、渚は呟いた。
周囲から聴こえてくる単語は、ほぼほぼ似偏ったもの。
“心の怪盗団”。それから、“予告状”。
「もしかしたらまだ予告状残ってるかも!」
「見付けられたらラッキーじゃない?」
女子高生2人が、噂に群がるように笑いながら歩いていった。
「今日、心の怪盗団が現れるとかマジかよ!」
「いやいやデマでしょ。そんな都合の良い奴らいないって。アニメの見すぎ」
未だスーツに着られているような男性社会人たちが、心のどこかで何かを期待しながらも、入れる店を探す。
「ちっ、どいつもこいつも怪盗団怪盗団うっせえな……」
「ほんと暇人かよ、どいつもこいつも。何なの? ニートなの?」
擦れた大人たちが、渋滞する帰路を重い足取りで進み始める。
本日早朝、とある一報が東京をざわつかせた。
『心の怪盗団、出現予告!』。
芸術界の巨匠──斑目が自白謝罪会見を開く直前、開催中の個展会場に貼られていたことが確認されている、赤い予告状。関係者曰く、その予告状が来た後から斑目容疑者の様子は一変したのとこと。しかし両者の因果関係は定かでない。たった数枚の、何てことない文が書かれた紙切れが、良心の呵責に働き掛けたとは誰も思っていないからだ。
誰もが馬鹿にした。そんなものはただの噂だと。
だが、彼らを。“心の怪盗団”を。正義の味方を求める想いは、確かにあった。
“居ないだろうけど、居たら良いな。”
その想いや声に応えるかのように、彼らはまたしても舞い降りる。
しかも、“渋谷の至るところに予告状を張り付ける”という、いつ見付かっても可笑しくない程大胆で大々的に。
盛り上がらない訳がない。
事実、登校前に家でニュースを見た渚も、少しだけ好奇心を抱いた。
だがその一方で、疑念を抱いたのも事実だ。
「なんで怪盗団は、わざわざ予告をしたんだろう?」
「渚?」
「だってこんなの、見付けてくださいって言ってるようなものだよね」
“国”の恐ろしさを、彼らは知っている。
こんな形で公的機関にも喧嘩を売る行為自体が、渚にとって大きな謎だった。
言うまでもなく、警察などを下に見ている可能性もある。だがそれでも、挑発する理由にはならないだろう。
だとすれば怪盗団は、“治安維持組織に並々ならぬ感情を抱く人間か”、もしくは“ただ目立ちたいだけの馬鹿か”という話だ。
……まさか、怪盗に予告状は付きもの。とか考えてるわけじゃないだろうし。
──その思考、当たらずとも遠からず、である。
「うーん、取り敢えずどうする? 場所変える?」
考え込んだ渚に、カエデが提案する。
今日は以前までと違い、渚の発案で2人は集まっている。数日前、渚がカエデに伝えたのは、母の日のプレゼント選びに付き合って欲しい。という要請。母の日は過ぎてしまって、遅くなってしまったけれど送りたいと伝えれば、特に渋ることなく、カエデは了承した。
無論カエデを呼び出したのは、単に買い物へ行くためではない。母親との関係性が冷えきっていた数年前ならいざ知らず、仲直りをした今ではそこまで贈り物に悩むこともない。相談したいことがないわけではないのだが、そこまで選択に苦しんでいるという訳でもないのだ。ちなみに今年の母の日はきちんと当日にカーネーションを手渡ししている。
それに、いくら気心知れた仲とはいえ、危険の付きまとっている彼女を相談相手として連れ出す、などという愚行はリスクの高さからも選ばない。
カエデはまだ、渚がストーカーのことを知っていると気付いていないし、それの対策を裏で練っていることも勘づいていなかった。
「うーん……まあ、このままでも良いんじゃない? お店が混んでるわけじゃないだろうし」
だから、本来ならカエデの立場を気遣い移動を了承する渚が、異常なまでに渋谷に固執していることにも気付けない。例えば普段なら、誘った方の渚から、『混んでるみたいだし、場所変えよっか』くらいのことを言うはずなのに。
「そっか、そうだね。うん、じゃあ行こっ、渚!」
眩しい程の笑顔で先に歩みだした彼女を目で追い、1度スマホを確認した後、渚も足を踏み出した。
────
休憩と時間潰しの為に入ったファミレスで1人、茅野 カエデがスマホを弄っている。
その指が不意に止まり、視線が窓の外に向いた。
「……渚?」
カエデが違和感に気付いたのは、渚がスマホを耳に当てて『ごめん少しだけ出てくるね』と歩き出し、暫く。
一向に戻る気配のない彼を、心配し始めた頃。
──ちょうど潮田 渚に“叛逆の意志”が、芽吹いた時だった。
────
それは、十数分前のことだった。
「……それで、急にどうしたんだい? いきなり『こっちに来てください』って言われて来たは良いけど……何もないよ?」
「……」
路地裏。大通りの喧騒を少し遠く感じる程の距離。
渚はそこへと、1人の男の手を引いて歩いてきた。
男性に声を掛けられ、渚は歩を緩め、ゆっくりと手を離し、彼の方を向く。
「こんにちは、フリーのジャーナリストの筒内 透さん……ですね?」
「──……」
にっこりと、無害そうな微笑みで、初対面の男性の名前を言ってのけた少年。
それは本来異常な出来事だ。初対面の相手の名前を知っている訳がない。それを笑顔で明かせるわけがない。そんな逸脱した行為を、小柄で弱そうな少年が行っている。
言われて初めて、恐怖を抱いた。男は目の前の少年を少なからず警戒していたつもりだったが、認識が甘かったことを悟る。
目の前の男に動揺が見えて、渚は少し安堵した。
数日前からここに来るまでの長い間、検討を重ねて思い付いた交渉方法。
“最初に恐怖心を持ってもらう”。
対話する相手が得体の知れないものであればあるほど、無駄な勘繰りが入る。恐怖を抱けば、それだけ早く話を切り上げようとする。それを狙ってのことだった。
「一時期は世界を回って取材をしていて、ピューリッツァー賞の受賞候補として名前が上がったこともある実力派有名人。けれど、数年前から国内のゴシップライターに転身。以降、幾つかの国内賞の受賞経験がある。……すごいですね。間違いありませんか?」
何の原稿も持たずに、つらつらと己の形跡を語りだす少年の姿に、筒内は自身が用意周到な罠に嵌められたことを知る。
「……もしそれが本当だとして、どうしたというのです?」
その推測が当たっていることは明言せずに、筒内は渚の要求を聞こうとした。
尤も、渚が筒内の正体を看破したのと同様に、筒内も渚の思惑に大方の見当は付けているのだが。
「貴方が何を考えているのかは、僕には分かりません。けれど、彼女に関わるのだけは止めてもらえませんか?」
「それは無理な相談だね」
筒内はおどけたように両手を上げ、しかし口元には確かな笑みを浮かべながら、渚の要求を断った。
「茅野 カエデ──いいや、雪村 あかりは大事な“素材”なんだ」
「……」
茅野カエデと雪村あかりが同一人物であることに、まったくの疑いを持っていない筒内。彼が見せる自信に、渚も下手な誤魔化しが通じないであろうことを悟る。
汗に濡れる手を、握り締めた。
……でも、そんな言い方ない。
素材、という単語に拒否反応が出掛ける。なんとか飲み込んだものの、不快感は消せない。
とはいえまだ、渚の予想を越えてくる答えはなかった。それならば昨日までの1週間、必死になってシミュレーションした受け答え以上のものは必要ないであろう。
越えなければ、だが。
「それにしても、私の名前を知っているとは。さすがはあの“殺人生物”の生徒と言った所でしょうか」
恩師のことに触れられることは、カエデとあかりを同一視していることから読めていた。だから渚は、蔑称が出てきたとしても動揺しない。
彼が言えるのは、一言だけ。
「考え直して、もらえませんか?」
「ん? ああ、雪村さんのことですか? 先程も言いましたが、無理ですね。あんな上質な素材、見逃せませんって」
「……素材、とは?」
良い意味の言葉でないことくらいは分かっている。
渚が青みのかかった目を、まるで射抜かんとするかのよう力を鋭くして、問い掛けた。
「……くくっ、そうですね、こちらの方が面白くなりそうだ。……君に1つ、提案があります。茅野カエデの秘密をバラされたくなければ、代わりの情報として、君たちの“恩師”について語ってもらえますか?」
対して、筒内は表情の節々に悪性を滲ませつつ、渚に問いを投げる。提案というよりは、脅しだろう。
以前。対先生透過型レーザー兵器“天の矛”が起動された際のマスコミや、卒業式に押し掛けてきた記者たちを渚は思い出す。
隠しもしない悪意。下劣な表情。“自分に都合の良いように大衆を煽る快感を得た大人たち”。
そして、今対峙している男は、それ以上のナニかを渚の肌に感じ取らせた。
……落ち着け。
それがナニかは、渚には分からない。
とりあえず、跳び跳ねた心臓を押さえ付けるように、呼吸を静かに整える。
「話せることは、ありません。話せないことは、知っているはずです」
「存じていますよ、政府から箝口令が敷かれていることくらい。だからこそ、聞いているんです。キミは、友人と恩師、どちらを取るのかをね」
「……そんな。そんなのって」
「さあ、さあ! “極悪非道の殺人生物、その真の姿!” “中学最後の1年に訪れた、長き戦いの日々!” ネタはなんでも高く買いますよ!?」
「……お願い、です。どうか、お願いします! 僕たちに、関わらないで下さい!」
渚は必死に頭を下げる。下げる以外に取れる選択肢はなかった。
誰を裏切りたくもない。誰かを犠牲にしたくない。思い出を汚したくない。
だからこそ、明確な答えは返せず、筒内の気が晴れてくれて見逃してもらうという、万に一つの可能性に賭けるしかなかった。
そして、その行為は渚自身に、無力だった頃の──暗殺教室に入る前の自分を、想起させた。
「────ッ」
自覚をした途端に、渚の中に嫌悪感と羞恥心が沸き出てくる。
“理不尽な事が世の中にあるのは当たり前。それを恨んだり諦めているヒマがあったら……楽しんで理不尽と戦おう”。
その教えを、今の自分は守れているだろうか。
否だ。
……結局、僕は……
何も変わってないのではないか。弱いままなのではないか。“強さを与えられていただけではないのか”。
そんな自問を繰り返す。
愛すべき担任が居なくなって早々にこの事態。渚の自信に罅が入るのは、仕方のないことだった。
それもそのはず。確かに昨年の間で潮田 渚は“個”としても著しい成長を見せた。しかし彼が身に付けたのは、“問題に立ち向かう力”。“問題を解決する力”ではない。
そして立ち向かうにしても、個が発揮できる力には限度がある。得意不得意の類で言えば、明らかに渚が不得意とする分野だ。
……誰か。
仮に。
もし仮に、かつてのクラスメイトがいたら、誰かしらが口火を切って攻勢に出ることもできたかもしれない。
……誰か、助けて。
だが、あり得ない想定だ。この場所にいることは誰も知らず、ここで起きていることに誰も気付いていない。
……誰でも良いから、茅野を、先生を、みんなを──
だが、もし。もしもこの窮地をひっくり返せる何かがいるとすれば。
絶望的な状況を、存在1つで覆せる者がいるとすれば。
……──助けて。
「そこで何をしている」
それは、救いを求める声を掬い上げる──所謂、ヒーローと呼ばれる存在に違いなかった。
「……渚、遅いなぁ……」