「うぅ……結婚ねぇ」
実家から送られてきた手紙を視界の外へ追いやりながら、ため息一つ。
どうやら我が愛しき両親は私に早く結婚してほしいらしい。どうして?これでも首都配属の花騎士団団長で、実家にも金銭的に負担なんてかけちゃいない……というより、むしろかなぁり余裕のある生活ができるくらいの仕送りはしているはずなのだけど。
「親心、というものでは?団長からすれば一方的な話かもしれませんが、ご両親も団長が働いてばかりで恋愛の一つもしていなければ心配になるというものでしょう」
呟き一つから手紙の内容まで読み取ったというのか、秘書はそんなことを言ってくる。ははは、まだ16歳だからと余裕ぶった顔をしおってからに…いやまあ、両親に悪意なんか無いのは私だって分かっているのだが。
「結婚したくないってわけじゃないけど、誰か気になってる異性がいる訳でもなし。そもそも結婚生活とかのイメージとか無いのよねぇ」
「相手もいないのに結婚生活なんて考える必要が……?」
「言うわね……」
「……あ、こちらは団長と違ってお付き合いしている相手がいるので、その『あなたも男なんていないんでしょう?』とでも言いたそうな顔はやめてください」
「えっ」
嘘でしょう?この、私より若くて活力に溢れてて文武両道才色兼備の秘書に彼氏ぃ?騎士団の財政管理を一手に担う上最近は魔力の扱いにも長けてきて害虫討伐にも目覚ましい功績をあげ住民から大人気のこの子にぃ?
妥当すぎる。
「……あ、あのぅ」
「はい?」
団長と秘書、あるいは団員という立場にはなにも変わりがないはずなのに無意識に下手に出てしまった。い、いや、だがここはちょっとばかしの恥を忍んで質問を……。
「け、っこんを、前提に?」
「まぁ、そうですね。まだ家族に紹介したりはしていませんが」
「ならその、結婚してからはどんな感じの生活をするつもりで……?」
「あぁ、イメージとやらが知りたいと。そうですね……彼は王宮で財務官をしているのですが」
「わぁしっかりした相手」
「となると、私以上にデスクワークの連続です。気を配っているようですが、体調を崩すこともしばしばとか。ですので、せめて家ではくつろげるように家事は私がしたいですかね……幸運にも害虫退治でストレスは吹き飛びますし」
魔法で遠距離から吹き飛ばされる害虫の断末魔を記憶の片隅に封じ込め、少しばかり想像を巡らせてみる。
そう、私たちみたいに外での仕事も体を動かすこともなく、一日中書類仕事漬けで疲労しきった旦那を、暖かい部屋と出来立てのご飯でお出迎え……思わずほころぶ旦那の表情……うん、なかなかいいものではあるのかもしれない。結婚しなくちゃいけないなら、理想はこんな感じよね。
「でも団長は家事出来ませんし参考になりませんねこれ」
「お前ーッ!」
妄想の中でくらい好きにさせなさいよ!こ、この!恋人一人の存在だけで精神的に上位に立ちおって……。
「いいわよ。私だって……そりゃあすぐになんて無理だけど、家事の一つや二つすぐ覚えられるわ?」
「一つや二つという表現が既に危ういんですけれど……あぁ、それならいっそ、誰かに習ったらどうです?私は嫌ですけど団員の中には私より家事が上手な子もいますし」
「む、確かにそれは良い手かも……えっ嫌って言った?」
「それに、うちの騎士団には凄腕がいますし」
しれっと協力を拒否されながらも、秘書の言う『凄腕』の姿を思い浮かべる。
「スイレン……!確かにすごいよね、お仕事に含まれてないのにいつの間にか寮の掃除終わらせてたり、私たちが遅くまで仕事してるところにカニのパイ差し入れしてくれたり……あれ本当においしいのよ」
「戦闘中に破れたりほつれた服もすぐ繕って頂きました。夫婦としてのそれではありませんが、スイレンさんのように素晴らしいメイドとしてあれるのなら、家事について不安などはなくなるでしょう」
「というか、実は私、よく仕事とは関係ない所で家事のお手伝いしてもらってたり……まぁ、あそこまでの完璧さは求めてないし、ちょっとの間師事するだけでも随分変わるかも。
ただ、非番の時はバナナオーシャンで働いてたり、そうでなくても私のお手伝いしてくれてるし……性格からして無理してるわけではないと思うけど、忙しそうではあるから頼み込むのもちょっと気が引けるかな」
「ならいっそ、休暇でも出してみればよろしいのでは?」
そういうことになった。
彼女もまた害虫討伐での功績が大きい。また、彼女が普段から騎士団内で率先して様々な雑務をこなしていることは有名だし、私自身の私的な仕事まで手伝ってくれる特別の休暇を数日間与えることになった……秘書も同時に、だが。まあ彼女もよく働いてくれているし、より自然に休暇を出せるようになったからもう気にしない。自由にいちゃついて来ればいいのよ……。
休暇について伝えるためにスイレンを執務室へ呼び出してもらうと、数分後には扉が軽くたたかれる音がした。
「入って、どうぞ」
「失礼します。ご主人様?休暇をいただけるという事でしたが……何か、粗相をしてしまいましたか?」
「えっ?」
驚いてスイレンの顔を見てみれば、彼女にしては珍しく本気で心配そうな表情をしている。
「い、いやいや!粗相なんてこれっぽっちも!スイレンさんは普段から人一倍働いてくれてるから、褒美を出そうって……話になったんだけど、うん、やっぱり誤解してたわけじゃなくてからかってるんでしょ」
「ふふっ、ばれちゃいましたか」
「ばれちゃったって……まぁいいや」
スイレンの表情にうっかり騙されてしまったが、あの秘書が彼女に褒美としての休暇だと伝えていない筈もなし。どうやらまたからかわれてしまったらしい。
団長としての面目が立たない……なんてことは気にしていたってしょうがない。そもそもスイレンはこちらより数年――正確には不明――年上なのだ。手玉に取られて当然当然。
とりあえず、休暇を五日出す。これが僻地の騎士団であれば厳しい日程ではあるが、ここ数週間は大型の害虫も現れたという報告もないらしく、私たちの騎士団が首都周辺に救援を行う分の戦力にも十分余力はある。
「五日間、ですか?思っていたより長いのですね」
「うん、ご褒美ってこともあるし……実は一つ、個人的にお願いしたいことがあるの」
「おや……ご主人様からのお願いは、久しぶりかもしれませんね。何なりとお申し付けください」
「えっと、実は……」
どうやら私から何か頼まれることが嬉しいらしいスイレンに、結婚やらなにやら包み隠さず話す。きっと彼女なら快く協力してくれるはず。
「……そう、ですか」
あれ?
「それでは、準備しておきたいものもありますので、三日後でいかがですか?」
「え、ええ。助かるわ。よろしくお願い。汚しちゃうかもしれないから、町はずれにある私の借家に来てね」
「はい。……それでは三日後に会いましょう、ご主人様」
「ええ。その時の私はご主人様じゃなくて、スイレンの弟子とか、後輩になるのかしらね」
「んふっ♪それはそれは、とても楽しみですね」
スイレンはそのまま、一礼して執務室を出ていく。言葉の通りに楽しそうだったのだが……なぜだろう。一瞬だけ雰囲気が暗かったような気がしたのだ。
やはりあれか、大型の休日をもらえたと思ったら上司に付き合って一日潰さなければいけなくなったから……それまでの二日間で準備するって言ってたから三日潰してるじゃん!それは怒るよね、私だって休暇に王宮でパーティとか開かれたらストレス溜まるし。あーあ、バナナオーシャンのパーティなら堅苦しさとかなさそうなものなんだけど。
「さて、私も仕事終わったしそろそろ帰ろうか……あっ」
いつの間にか少しだけ開かれていた扉。その隙間から怪しく光る瞳がこちらを覗く。
「団長様ぁ……?」
「げぇ!ニチニチソウちゃん!」
「げ、げぇって……いえそんなことより!スススススイレンさんにお弟子入りするんですか!?私は駄目なのに!?」
「ち、違うこれは短期のやつで……言葉のあやみたいな……」
――結局、どんなことを教えてもらったのかは私からニチニチソウにも伝えるという約束をすることで、どうにか許して(?)貰った。普段からスイレンに師事したがっているニチニチソウに対して配慮が足りない行動であったが、メイドそのものになろうとしているわけではないので大目に見てもらう。どちらが上司かわかったものじゃない。
一日私が離れていても問題ないよう手続きを終え、どうやらすでに二日ほど休暇をエンジョイしきったらしい秘書に仕事を押し付けたのち、借家でスイレンの到着を待つ。
借家といってもかなり大きい……というか、古くなった貴族の邸宅を騎士団の慰安を名目に安く貸し出しているのだ。実質強制的に。だが代わりに、うっかり壊したり汚したりしても元々取り壊す予定でもあるらしく、何もお咎めはない。
価値のある壺やら絵画なんてものはとっくに回収されているので、家事の練習を従っていたニチニチソウに何度か貸していたこともあるのだ。だからこそ今回ここを使おうとおもったのである、が。
「思ったより汚れてるなぁ…いや、私も普段ここ使わないし、半年くらい誰も入ってなかったかも……」
「えぇ、掃除から始めるべきですね」
「ひゃぁ!」
埃っぽいからと開け放っていた扉から、いつの間にかスイレンが入ってきていたらしい。耳元で囁かれ、妙な声を出してしまう。
「す、スイレン早いね。私も大分早く来たつもりだったんだけど」
「いえ、私もご主人様をお待ちしようと思っていたので……」
そういうスイレンの手には、かなり大きく膨らんだ手提げ袋が二つ。その片方には、どうやら一着のメイド服が入っているようだ。……あっ。
「もしかして、そのメイド服は」
「まずは形から、とも言います。ご主人様にもきちんとしたメイド服に身を包んでいただき、雰囲気を感じてもらわなければ」
「雰囲気?」
よくわからないが、せっかく用意してくれたのだから着てみよう。スイレンが普段からきているメイド服は綺麗で可愛いし、普段着にしたいとまでは思わないが、正直着てみたいとは思っていたのだ。が。
「あの、スイレン?別に着替えまでは手伝ってもらわなくても……」
「いえいえ、メイド服は意外と複雑な構造が多いのです。私がお手伝いした方が早く終わりますから」
そう言われると断れない……が、複雑な構造とはいったい。ファッションセンス抜群とは言わないまでもおしゃれには気を使っているのだけど、メイド服はそんな恐ろしい構造をしているのだろうか?
言われるがまま、上着をはらりはらりと脱ぎ捨てていく。こういう時自然と服を畳めたりすると家事能力が高そうなものだけど、まあ今の私はこんなものね。
「それではこちらを」
「ああ、うん、上からね」
子供のように両腕を上げ、少し前かがみになりながら服を着せてもらう。スイレンは私より少し背が高いから、あっさりと袖を通すことができた。どうやら背中に紐があるらしく、数度引っ張られて服がちょうどよく締まる。……サイズはぴったり。
「でもこれ、スイレンのと比べて体のラインが凄い出てるね」
露出はかなり少ないが、肌に張り付くような素材と縫製。少し恥ずかしいけれど、まあ、外で着るわけでもないし構わないわね。
スイレンがスカートを手に持ったので、そっと右足から上げ、通す。地面にこすりそうなくらい長いスカートだ。膨らみはなく、見た目はあまり意識していないもののよう。普段のスカートは左右に大きめのスリットがあるから大股でもあるけるけど、これだとお上品な歩き方になりそう……それも習慣にした方がよさそうね。さすがスイレン頼りになるわ。
「これでおわり?」
「いえいえ、エプロンとカチューシャを」
「ああ、確かにそうね」
スイレンが用意してくれた真っ白なエプロンとカチューシャは、何処にでもありそうな普通のもの。個性的な飾りつけなどは何もない。ふふ、これで私も――見た目だけは――メイドさんってわけね。別に憧れていたわけでもないけど、可愛い服とは思っていたから悪い気はしない。
「はい、これで完成です。それでは、まずはお掃除から」
「そうね。……でも、全部きれいにしようと思うとかなり時間がかかりそうね。というか、正直に言って広間、キッチン、それと寝室。一階の大きな部屋を掃除するだけで半日必要かも」
私が周囲を見渡しながらそう言っている間に、スイレンは手提げの中からはたきを取り出し、窓を開けていた。仕事が素早い……というか、私がやらなきゃ意味ない。もっと積極的に動かなければ。よし、ここは気合を入れるためにも――。
「師匠!よろしくお願いします!」
そう言って、頭を下げる。まあ、スイレンの言う通り、形から入るという事でもある。
スイレンの方を見ると、こちらの方を見ていて……なぜだろう。普段より少しだけ口角の上がった微笑みを浮かべている。
「ご主人様が今日のことについてご相談なさった時、私の弟子、あるいは後輩のようなものになる……と仰いましたね?」
「はい」
「しかし、準備している最中に考えたのです。何の負担もなくご主人様だけを弟子として認めるのでは、普段からわたしに師事を求めているニチニチソウさんに失礼というものではあります」
そのことについては、一応ニチニチソウとの間で話はしている――と言おうとしたが、珍しいことにスイレンが私に口を挟ませずに話を続けていく。
「そこで、です。ご主人様が家事に失敗するごとに、私から一つお仕置き……と称したイタズラをするというのはどうでしょう」
「ほほう……ほほう?」
楽しんでいらっしゃるわね……。いやまぁ、スイレンの言う通りあくまでもイタズラなのだろう。そこまでひどいことはされないだろうし、結果的に私のモチベーションを高めることにもつながりそう。
「いいんじゃないですか?師匠の意見に従います!」
もうこうなったらとことんロールプレイよ。一日中スイレンの弟子として、出来る限り技術を吸収していく。
「ありがとうございます。それでは、まずは掃除から。基本的な話として、まずは上にあるものの埃から落としていきます」
「は、はい!」
◇◇◇
――失望。その感情をこれほどまでに強く抱いたのはいつが最後だっただろうか。
「ご主人様……まさか窓ガラスだけでなく窓枠までお壊しになるとは」
「いや、その……本当に面目ないです」
「お仕置き」確定である。いやそんなことより、いつの間に私の家事技能はここまで劣化していたのか。実家で暮らしているときはある程度の家事を自分で行っていたし、町に出てきてからは一人暮らしだったからなおさら……あ、騎士団長になってからは寮の食堂でご飯食べたり、遠征中の掃除は任せっきりだったわね……そっかぁ。
「お仕置きと行きたいところですが、いくら何でもガラスの破片を片付けない事にはどうにもなりません。一度下がってください。すぐに片づけます」
スイレンが素早くガラスの破片を集め、襤褸布に包んでひもで縛り、さらに別の襤褸布を濡らして床を拭く。
「はい、終わりました。もう気にしなくても大丈夫ですよ」
「いえ……気にします!」
いきなり大声を出した私に驚いたのか、珍しくスイレンが瞳をまんまるに見開いてこちらを見つめている。
「よく考える間でもなく、私は家事関係でここ数年間いろんな人、特にスイレンに頼りすぎなんです。だからこうして、更にスイレンに負担をかけることでしかそれを直すことができてない!
だから、私的にするスイレンへのお願いはこれを最後にするつもりで頑張る!勿論すぐには無理だけど、自分一人で勉強すれば他の人に頼らず全部できるように――」
「だめです」
「……えっ?」
私と目を合わさないまま、スイレンが何かつぶやいた……のだがいまいち聞き取れない。でもあまり喜ばれてはいないらしい。
「え、えっと、スイレンみたいにすぐできるなんて思ってないよ?でも、自分の生活を自分で出来るようにはならなきゃだし!」
「……次は、お料理ですね。食材は準備してありますから、台所へ行きましょう」
「はい」
いそいそとスイレンの背を追う。スイレンは食材が入っているのが分かる大きな袋をもってすぐ台所へ入っていってしまった。いけない、怒らせてしまったようね……どうしよう。いつの間にかスイレンから「ご主人様」と呼ばれるようになって以降こんなふうに険悪な空気になったことが無いから、どうしていいかわからない。うぅ、この三日間の間にどんどん嫌われていってるんじゃないかしら。
――そんな動揺があったからか、料理もうまくいかない。調理が遅いこと自体は私の腕前が落ちているだけなのだが、食材をうっかり落としたり、火力の調整を失敗したり、食器を割りかけたりと失敗続き。あまりの多さにスイレンも呆れ果てたのか、お仕置きのことすら口にしない。
結局、食事が出来上がったころには太陽が半分沈んでいるような時間になっていた。この屋敷は街はずれで城壁も近く、暗くなるのは余計に早い。エプロンだけは外して、部屋の明かりを灯して料理を二人分、机に並べる。
「お、遅くなったけどご飯にしましょう」
「もちろんです。ご主人様と一緒に作ったご飯を食べるのは、これが初めてですね」
「そ、そうだね」
駄目だ料理作る前より話し方は普通だけどいつもの雰囲気と違う!はっきり言って暗いわ!
あ、でも料理はおいしい……。レシピとかじゃなくて、道具の使い方とか、手順の考え方を教えてもらえたのは正直に言ってとてもありがたい。これなら普段から、もっと簡単なものになるけど自分でも料理をしていけそう。
などと考えつつも、スイレンとの間に会話を弾ませることもできないまま食事を食べ終えてしまう。だが、そこでスイレンが視線を真っすぐこちらへ向けてきていることに気が付いた。
「ご主人様。『お仕置き』の件ですが」
スイレンの方からお仕置きの件について切り出してくれた。良かった……と考えていいのかは分からないけれど、それまでなかったことにされると休暇明けでどう声をかけていいのかも分からなかったので、謝罪の意味を込めてお仕置きは粛々と受けることにする。
「私自身が想定してたより失敗多かったし、結構厳しめな内容かな?」
「そう……ですね。ですが、あまりにも内容が多くてはご主人様の負担になってしまいます。ですので、一つにまとめてみようかと」
「おお、一つに」
「はい。ご主人様?これから一晩だけ――ご主人様のことを、私の自由にさせていただけませんか?」
「成程ね。いいわよ」
ちょっと待ってほしい。よく言っていることが分からないのだけれど。だが聞き返すよりも先に抱きかかえられてしまあっお姫様抱っこ……。
「ススススイレン!?どういうこと?」
駄目だわざとらしく「んふんふ」と笑うだけで説明が何も無い。私は抱えられたまま広間から出て、寝室へ運ばれる。
――『一晩だけ』、『自由に』、スイレンの言葉がフラッシュバックする。まさか……とは思うが、性的な意味で自由にされてしまうの?
気が付くと、既にベッドの上に横たえられていた。スイレンは身を翻して、足早に部屋を出ていく。逃げられる?
いや、でも逃げていいのかな……。お仕置き自体は約束通りなんだし、さっき何を言われても受け入れるって考えたばかりなのに。それに、スイレンが本当に嫌なことを私にするとまでは思えない。ここはスイレンのことを信じるのが団長として、何よりスイレンの思うご主人様としては正しい!筈!
「お待たせしました」
そう言って戻ってきたスイレンは手提げ袋を持ってきていた。それを少しだけ離れたところに――想像よりも鈍い音を響かせながら――落として、今度は掛け布団を私にかけてくれる。いやいや、でも寝かしつけてくれるってわけでは……ないよね?
「ふふっ、失礼します」
そういうと、スイレンは布団に潜り込んできて、私の体にそっと腕を回す。
「……これが、お仕置き?」
私に触れる指先が、脇腹からゆっくり、なぞるように胸へと移動する。お仕置きは終わりでないと言外に伝えてくる――でも、スイレンがそれを楽しんでいるようには思えなかった。
お仕置きとかイタズラとか、していい状況なら彼女は私がちょっと困るようなことだって――もちろん、後に引きずるようなことは別だが――する。だがそれは楽しいと思ってやるだろうし、私にとっても後々には楽しい記憶に変わっているようなものばかり。灯りも消して布団まで被って、表情を隠して……。
「ご主人様は……結婚、したいんですよね」
「そう……よ?」
声が震える。接触はいつしか愛撫へと変わっていた。私に経験はないけれど、スイレンはたぶん、とても巧い。服を脱がさないまま、力も入れずに私の奥から疼きに似た快楽を汲み上げてくる。幾度かその指先が先端部に触れ、そのたびに隠しきれない衝撃が体を震えさせる。本能的な抵抗か足も強く反応して動いたが、スカートの空間はとても狭く、スイレンには邪魔な動きとも感じなかったよう。
あぁ、そっか。この肌に張り付くような服は愛撫を簡単にするために用意してたのか……用意周到ね。……どうやらこの不機嫌は今日が発端というわけではないらしい。結婚についての話が原因なのかしら……などと考えているうちにもスイレンは私にどんどん体重を預け、もう一方の腕を背中に回して強く抱きしめてくるようになっていた。接触は多く、強くなっていく。
体の火照りを抑えるために、布団の外に出たままの頭を少し振る。それに反応するようにスイレンは私のことをより強く抱きしめてくる。私よりもほっそりとした腕なのに、とても力強い。
少しだけ向きの変わった視線の先、スイレンが落とした手提げ袋が、扉から漏れてくる灯りに照らされて、何か細いものが飛び出ていることがわかる。あれは、ベルト?ひょっとして、私を縛るための物だったりするのかしら。もしそうなら……それは、少し怖い。
ただ同時に、やはり思ってしまうのだ。スイレンはきっとそんなことを望んでいない……無理やり相手を縛り付けるなんてことは、冗談でもしない人だから。
「スイ、レン?私が、結婚するの……いや?」
手が止まる。
「そんなことは、ありません。ご主人様がお幸せになるのなら、私は」
「じゃぁ……あぁ、そっか」
馬鹿だな、私。こんなことに気が付かないなんて。スイレンはずっと答えを言っていたようなものなのに。
「私がスイレンに頼ったりしなくなる……つまり、ご主人様じゃなくなるのがいや、かな」
返答はない……正解、かな。
一応、ではあるけどつじつまが合う。不機嫌になったのは、私が結婚を目指して家事を覚える――つまり、スイレンが私のメイドとして仕事外でしてくれていることを拒否することを、よりにもよってスイレン本人に言ったことが原因だろう。
でも、スイレンを嫌いになったなんてことは全くないのだけれど。
そう考えていると、抱き着いたままだったスイレンが、顔を少しだけ浮かして、また話し出してくれた。
「勝手な話、なんです。私は……ご主人様を、一生ご主人様と呼び続けたいと思っていて」
「……うん」
「ですが、ご主人様は将来誰か殿方と結婚し、そして自分で家事をするのだとおっしゃいました。……私は、邪魔者になってしまいます」
スイレンの言いたいことは分かる。……それと、彼女の言う「ご主人様」という言葉は、私の思っていたそれと比べてずっと重い言葉だったことも。あぁ、上司に対する彼女なりの呼び方程度にしか思っていなかったことは正直悔やまれる。
スイレンがこれだけ思い悩んでいるのなら、まず、団長として私はそれを解決しなければいけない。それに、彼女にご主人様と呼ばれ慕われていることは本当に嬉しいのだ。
そっと、両肩に触れる。わずかな震えが伝わる。
「……ひどい言い方、するけどね」
「ッ……」
「スイレンさ、考えすぎ」
「へ?」となかなか聞けない間の抜けた声を出したスイレンは、こちらを見つめたまま硬直していた。可愛い。私より年上の彼女にそんな感想を抱くのも妙な話ではあるけれど。
構わず話す。とりあえずは誤解なのだから。
「私に今恋している相手がいる……ってわけじゃないのは、スイレンにもわかってるとは思うけど。別に結婚に焦っているわけですらないんだよね、実際のところ」
「……そ、それではどうして、急に家事のお勉強を?私はあの時、てっきりそれを急がなければいけないのかと」
「うん、まあ、実家の両親が手紙で『いい相手はいるのか?』って結婚を薦めてきてて、ちょっとした話の流れだね。私自身家事ができないこと自体は問題だと思ったし」
私がそういうと、スイレンは再び顔をうずめてしまった。これはたぶん、恥ずかしがってる。
ただ、それでも全部の不安がなくなったというわけではないはず。
「それにね、別に結婚したいと思ってるわけでもないの。だから……そうね、スイレンもそんなに焦らなくていいと思う。だって、スイレンの気持ちはよくわかったし、少なくとも考えが変わったとして、伝えないなんてことは無いよ」
そう言ってスイレンの背中を優しくさすりつつ、ふとした違和感に気が付く。
『スイレンの気持ちはよくわかった』といったが、本当だろうか?ついさっきまでわかっていなかった多くのことを理解したのは間違いないのだけれど、それは全て?例えば……私に対するお仕置きが、えらく性的だった理由、とか。
「ご主人様……」
再び顔を上げ、こちらを見つめるスイレン。扉から漏れた光は、熱っぽく濡れる彼女の瞳を妖しく浮かび上がらせた。
……なるほど、私が思っていた以上に「慕われて」いたみたいね。
でもどうしてだろう。私は同姓にそういう意味で興味はなかったはずなのだけど……なんだか、とても愛おしく感じて。
両腕に力を籠め、そっと彼女と体勢を反転させる。少しでも抵抗されれば私にそんなことはできないが、――彼女もそれを望んでいるかのように――あっさりと、私は彼女を組み敷いた。
何か言おうとしたのかうっすらと開いた唇を唇で塞ぎかえす。とても下手な口づけ。けれど、彼女はそれを受け入れてくれる。それはとっても、たまらなくって。
……私は家事より先にアプローチの勉強をするべきだったかもしれない。……きっと、彼女も。
◇◇◇
「え、どうして団長の休日はたった一日なのに彼氏ができるんですか」
「ふふふ、私の相手はびっくりするくらい凄い人なんだから」
胡散臭いものを見る視線をこちらへ向けてくる秘書からそっと視線を外すと、扉が軽く数度叩かれる。
「ご主人様、紅茶をお持ちしました」
「ありがとスイレン。そろそろ来てくれると思ってたんだ」
カップを受け取り、漂う香りを堪能する。うん、やはりスイレンの入れてくれる紅茶は格別ね。
「スイレンさんと家事の勉強をしてきたにしては、団長、余計にスイレンさんに頼ってるように見えるんですけど……」
「んふっ♪こうしてご主人様に尽くすことが私の喜びですから!」
秘書はいつもより上機嫌なスイレンの姿にも違和感を感じてはいるようだったが、結局何も感づいたりはしなかったようで、紅茶を飲みながら仕事を続けていた。
スイレンがトレイをもって部屋から出て行こうとしたので、呼び止める。
「はい、ご主人様」
「今夜、スイレンの作ったご飯が食べたいな、って。どう?」
「……はい!もちろん大歓迎です!カニのパイ、ご準備しておきますね!」
どうやら私も彼女も、どこか変わってしまったらしい。だが、全く悪い気はしなかった。こんなふうにずっと彼女と過ごしていく人生は、きっと楽しいものになるだろう。そんなふうに信じられるのだ。
――さて、両親になんて手紙を書くべきだろうか。