――宙の名前 林完次 角川書店
右手につけている二つのブレスレットが乾いた金属音を立てる。
綿月依姫は月の都を超然と歩いていた。
都の大通りはいつものように賑やかだった。玉兎達の楽しげな声があちこちで聞こえる。
時折声を掛けてくる玉兎に軽く返事をし、華やかな通りを抜ける。次第に喧騒は背後で消えていき、深閑な住宅街へ入っていく。
依姫が向かう先は月兎の家だ。
この先は月兎が住まう住宅街であり、依姫のような月人と住む場所は明確に分けられている。
月の使者のリーダーの一人である依姫は、月都の防衛と地上の監視が仕事である。それだけではなく、依姫は私事で治安の維持や月人や玉兎の諍いの解決なども行っている。
今歩いている所は、いつもの仕事で訪れることはない。
呼び出しがあったからだ。
目的の場所は近い。道なりにしばらく進み、十字路を右に折れる。――と、こちらに手を振る人物がいる。
オレンジ色のシャツに、黄色のカボチャパンツ姿。いつも通りの服を着た鈴瑚が立っていた。月都防衛の前線で戦う玉兎の一人で若い方の部類に入る。
「依姫様、こちらです」
鈴瑚が手招きする。
「迷いませんでしたか?」
「いや、そんなに複雑ではなかったからな」
彼女が立っている先の家を一瞥する。どこにでもある普通の玉兎の家。
「清蘭は病院か?」
「はい。午後から仕事をすることになっていますよ」
つい先日、清蘭の母親が階段から落ち、足を骨折して病院に入院した。その見舞いらしい。
清蘭は鈴瑚の相方だ。彼女の同期で防衛職に就いている。この職に就ける玉兎は数少なく、生まれ持った能力により強制的に割り振られる。
能力上、鈴瑚はサポーター、清蘭はアタッカーの役回りになっている。
玉兎には月人とは異なる力(兎力という)をもち、鈴瑚は相手に触れることで力を供給することができる。これは他の玉兎も行える力だが、力は血液と同じく複数の型を持ち、相性がある。彼女はどの玉兎にも対応することができた。
また、食事による力の回復速度も速く、彼女のために小粒の携帯食が開発された
清蘭は物質を瞬間移動させる力を持つ。詳しく測定はしてはいないが、一度に数百もの物質を移動される事ができる。移動距離も長い。欠点は瞬間移動できる質量は一カ所につき最大五グラムまで。この為、清蘭は瞬間移動した弾丸を武器に戦う。ただし運動量は発生しないため、銃口から射出されたばかりの弾丸を瞬間移動させる。都の地下には彼女のために十万丁の銃が用意された部屋が存在する。
欠点はもう一つ、全てのものには固有のテリトリーがあり、その領域に移動させることはできない。石壁なら数ミリ、依姫なら三メートルほど、たびたびこの月都を襲う怨霊に対しては十数キローメートルとかなり異なる。それでも強力であることには変わりはない。
「状況は?」
「死亡した男女夫婦はすでに司法解剖の為、統差総合病院に搬送済みです。子供は眠らせてあります。これから病院へ連れて行く予定です」
鈴瑚は夫婦と子供の年齢を告げる。
「彼らの能力は?」
「夫婦の能力は大したことはありません。同質の力をもつ者はごまんといます。子供の方は不明です」
「検査を受けていないのか?」
「はい、ほとんど子供を外に連れ出すと行ったことがなかったようで――」
話していると、玄関の戸が開き、子供を抱えた月人が外に出る。
「少し待って」
依姫は月人呼び止め、幼兎を観察する。
薄紫色の長い髪の少女。水色の寝間着を着て、今はすやすやと寝息をたてている。依姫は月人に統差総合病院で子の能力検査をさせるよう命じた。
玄関から中に入る。廊下は真っ直ぐ続き、正面ドアが一枚、左手にある扉はキッチン兼ダイニングで、右手手前の扉はトイレ、次がバスルームへと続く。
依姫は左手の扉の先へと進む。
広々としたダイニング。一台のテーブルと椅子が三脚。壁掛けモニター。右手を見るとキッチンがあった。
生々しい血溜まりがある。床のあちこちに割れた食器の破片が散らばっている。
妻の方は包丁で、夫の方は鋏で互いを斬りつけ、亡くなっていたそうだ。
「夫婦仲は最近では良かったみたいです」と、後ろから鈴瑚。
「以前はそうではなかったと」
「ええ、子供が生まれてからしばらく経つまでは――両親からの援助もなかったそうですし」
「どういうこと?」
「二人共両親から絶縁状態なんです。珍しいでしょう?」鈴瑚は続ける。「夫婦共に両親が厳しくて、○○といえば、玉兎の間では有名な頑冥さですよ。北の○○、南の××って感じで……その反発と言うのでしょうか。遊びほうけていたそうで……出来婚、だそうですよ。珍しいですよね……」
玉兎の性格は、大体が穏やかでのんびりとした者が多い。自分に甘く、他人にも甘い。
「……あ、そこで、子供が泣いていたそうです」と、鈴瑚はダイニングの床を指す。
特におかしな痕跡などない。
「隣の家の玉兎が、朝から騒々しかったそうで様子を見に行って、発見したそうです」
左手の壁を見る。縁側に通じるドアのように大きなガラス窓がある。
「話を戻しますね。最初は子供を産むか産まないかで喧嘩があったり、子育てで喧嘩したりしていたそうですが、次第に子育てを楽しむようになってきたそうです」
黙って話を聞きながら依姫はリビング、キッチンを見、廊下の反対側の部屋へと入る。
洗面台に大きめの鏡。奥のバスルームにはバスタブにシャワーと鏡。部屋の上には小さな換気用の窓がある。
「子供を発見したときの様子は?」
「△△さんは、依姫さんも知っていますよね。笑わない△△って呼ばれている」
「ああ」と軽く返事をする。彼もまた、玉兎の中では珍しいタイプだ。仏頂面で口数も少ない。若いわけではないが彼の笑う姿など、誰も見たことがないという。
「その△△さんがですね。最初に子供に近づいたんです。さっきのように髪が長くて、泣いているのは分かるんですけど、その表情が見えなくて……△△さんが髪をかき分けて、顔を覗き込んだんです。そしたら、△△さんその子を見て、可愛いなぁって言って笑ったんです……そう笑ったんです」
興奮するように結尾を繰り返す。
「怖いでしょう?」
「………………そうだな」
否定をしようとしたが、それをすると話がこじれそうだったので依姫は肯定する。
「そうですよねそうですよね。皆さんそうですよね」
うれしそうに首を振る珊瑚に、依姫は彼が不憫に思う。
「△△さんのパートナーも、彼の意外な表情にキモッっといって、すかさず彼の頭をはたき落としたそうです」
「……」
この手の業務は基本的に二人一組で行動する。今話しているようにフォローができるからだ。今の依姫も本当は、パートナーがいるが――
「もちろん、そのあとすぐに麻酔薬を子供と△△さんに打ち込みました。その後、依姫様に来てもらった方が良いという話になって――」
廊下の先のドアを開ける。寝室だった。部屋の中央にダブルベッド。左手はクローゼット、右手には開かれたままの三面鏡と小さな椅子が一つにカートンが引かれた窓が一つ。
「――そうか――」
室内を一通り確認し、依姫は嘆息する。
「状況は分かった。私は病院に行く。鈴瑚はいつもの業務に戻ってくれ」
◇◆◆◆◇
統差総合病院は都の中心からやや東寄りに位置している。月都の病院は全部で三カ所あり、残り二つは、北西(第一統差病院)と南西(第二統差病院)に一つずつ配置されている。統差総合病院は軍関係者とその家族に対しての病院で、その他にも研究機関としての設備が整っている。
依姫は病院に入り、地下の解剖室へと向かう。部屋はすでに片付けの途中だった。
解剖はすでに終わっており、死亡診断書を作成中だそうで、依姫は解剖スタッフから話を聞く。
死因は二人共裂傷による大量出血による失血死だということ。それ以外に遺体に特徴的だったことが伝えられる。あと、両親は遺体と孫の引き取りを拒否したと言うこと。
簡単に状態を説明した検視員は、最後にこの惨状の原因の見立てを話した。
書き終わった死亡診断書を送るよう伝え、依姫は五階へと足を運ぶ。
病院の一階二階は各診断室で、三階四階は病棟、五階は研究棟になっている。
部屋プレートを確認することなく、部屋に入る。
様々な機器に接続された白いベッドの上に玉兎の子供が寝ている。監査の邪魔になるためか、長い髪は切られ、おかっぱ頭のすっきりとした感じになっている。前髪も綺麗に切りそろえられ、幼い表情を確認出来る。
その側には電子ボードを持った研究員の玉兎――
「依姫様、お久しぶりです」
彼女は部屋に入ってきた依姫に気がつき挨拶をする。
「結果はもう出ているのか?」
挨拶もそこそこに、依姫は芹音に問いかける。
「はい、ええっと……」
芹音は電子ボードを叩き、ウィンドウを依姫に見せる。それを見て、依姫は真剣な面持ちで呟く。
「――波長を操る力か――」
あらゆる波を支配する力。
「そうです。依姫様、夫婦の検死結果はまだですが――」
「ここに来る前に寄ってきた」
依姫は検視員から聞いた事を芹音に話す。
「じゃあ、やっぱり、そこで起きたことは――」
「そういうことだ。彼女、言葉は――」
「話せません。非常にまずいんですよね。意思疎通がきちんとできないと、力の制御を教えることができないんですから」
「そうだな。能力が強力すぎる――」
「原子振動を激しくさせて、躯を沸騰されたりなんて……考えただけでもぞっとしますぅ」
体を震わせる芹音。
「今は視線を媒介にして力を行使しているだけですけど、もし……これが玉兎感応通信網を介して行われたら……」
「――それも危険だが、もっと広範囲に影響も与えることができる……サグメ様と同様にだ」
月の八賢者が一人――稀神サグメ。
八賢者といっても千年以上前から一つ欠番がおり、今もずっと七名である。
銀髪にルビーのような赤い瞳。染み一つない白い顔。背中から生えた白の片翼。見る者にどこか神秘的な印象を抱かせる。そんな彼女を慕い、恋い焦がれる者は多い。
サグメの能力は口に出すと事態を逆転させること。おおよそのメカニズムは分かっている。
「……サグメル共鳴ですか……」
芹音が呟く。
サグメル共鳴。昔は別の呼び名があったが、すっかり廃れてしまった。月の地表と電離層との間で極極超長波の共鳴が起こっている。それ自体に何らかの影響はあるわけではないが、全ての月人と玉兎はこの星の脳波を受け続けている。
全ての星でこういった共鳴反応は起きており、穢れの星ではシューマン共鳴と呼ばれているそうだ。
稀神サグメの声には一定周期で同じ周波数が混じっており、月都の人々は無意識下に彼女の声を刷り込まれる。そこから、人々の何気ない無意識の行動群がバタフライエフェクトのように浸潤し、自体が反転する。それがサグメの能力とされている。
サグメル共鳴は別の事にも利用されている。考えたのは依姫だ。
昔から月の都を仇敵の如く襲いかかる怨霊がいる。百年ほど前、彼女に従う残念な精霊が現れた。この精霊の力を無効化、あるいは解除するためにサイレンにサグメル共鳴を利用した。
現在に至るまで、これは使われてはいない。
「さすがにそれは……ないとは思いますけど……」と、芹音の声が少しずつ小さくなっていく。
「――それならいいが、能力の範囲内であることは忘れない方が良い」
芹音は頷く。
「彼女の面倒は君が見る事になるだろうな」
「はい。今の彼女のために同じフロアに部屋を準備しています……でもかわいそうですよね、この子。誰も引き取ってくれないなんて」
「……引き取ることができても、この状況では無理だな。能力を制御できるまでは」
「そうですね」
「……このデータをこっちに送ってくれないか?」
「はい……あの、この間のクッキーはどうでしたか?」
見回りをすることもあり、芹音とは定期に会う。その時にいつも彼女は手作りのお菓子を渡した。
「美味しかったよ。豊姫がまた食べたいと言っていたよ」
「そうですか。良かったです」
芹音は表情を綻ばせた。
◇◆◆◆◇
「貴女の言う通りなら……その子、処分されるんじゃない?」
外での出来事を聞き終えた姉の豊姫の一声がそれだった。いつもの軽い声だった。服装は依姫とほとんど変わらない、仕事着だ。彼女は妹に仕事を任せっきりで、その日その日を自由に過ごしている。今日は家でゴロゴロとしていたようだ。髪に変なくせ毛が残ったままだった。
「…………まだ分からないが」
「でも、二人亡くなっているんでしょ? それに見受け人も決まってないんだったら、上はそう判断するでしょうね」
依姫は黙る。自分とて同じ事を予想していた。
「その方が上にとっては楽でしょうし、自分の所にまで火が飛ばないから。」
「――だろうな」
「それが嫌なら、リミッターでも彼女に付けてみたら?」
「リミッターか――あの歳で、か……」
リミッターとは、玉兎の罪人の脳に埋め込むチップである。逃走幇助を阻止するため、玉兎感応通信網にアクセスできないようにする。
「躯が小さいから、成長に合わせて何度も、手術をしないといけないだろうけど。それくらいかしら、私が思いつく方法は」
「私はそんなに危機感を持って対処しない方が良いと思うけど、のんびりやればいいんじゃない?」
姉に言葉を返さず、依姫は報告書を書き上げる。
上からの返信は遅いし、返答もたわいもない継続的観察となることが多い。
この報告書もさらりと流してくれればいいのだが、と思いながら依姫は送信のボタンを押した。
◇◆◆◆◇
問題の玉兎は今のも統差総合病院の五階に、仮眠室の一室を少しばかり改造した部屋に閉じ込め、芹音が付きっ切りで彼女の世話をしている。部屋には生活をするための一通りのものが揃っている。キッチンはない。食事は外から運んでもらっている。簡単な壁を一つ作り、
その小さな部屋を介して、食事を受け取っている。また、鏡は部屋に一切置いていない。また窓は簡単に塞いである。
玉兎には特殊なゴーグルを装着させている。世話をする芹音も。視覚から来る力を無効化させるためのものだ。
芹音は苦労をしているようだった。何しろ彼女はわがままだった。ろくに躾が成されていない。興味のあることにはすぐに飛びつくが、飽きも早い。
そんな事もあり、隔日で依姫は部屋を訪れた。代わりに豊姫にきつく警護の巡回するようにと命令して――
芹音の代わりに食事を口に運び、言葉を覚えるために本を広げて読み聞かせ、トイレの世話をし、体を洗いお風呂に入る。
そんな生活が一月ほど続いた。心配していた上の返答は要観察との事で、依姫の心配はとりあえず杞憂となった。相変わらずの我が侭ぶりの玉兎も少しずつではあるが、言葉を発するようになってきている。
お昼を食べさせ、椅子に座り一息ついていると、ドアをノックする音が依姫と芹音の耳に入った。部屋の入り口近くに依姫と芹音、部屋の奥のベッドに幼兎が座っている。芹音がドアを開けるよりも、来訪者が部屋に入ってきた。
「豊姫様!」
「お姉様、どうしてここに?」
入ってきたのは豊姫だった。幼い玉兎は初めての訪問者にビクリと体を震わせる。
「近くまで来たから、問題の子を見に来たのよ……この子がそう?」
「ちょっとまて! ゴーグルを……」
依姫は手を頭の後ろにやりゴーグルをはずそうとしながら、姉を止める。それよりも早く、豊姫は怯える玉兎の側まで歩いていた。
「あら可愛い。お姉さんに貴女の顔を見せてちょうだい」
膝を折り、豊姫は玉兎に顔の高さを合わせ、その顔を覗き込む。
「……ぅ……ぁぁ……ゃ……」
怯える玉兎のゴーグルに手を掛け、ずり上げる。
「ダメです! 豊姫様、今は――」
「あらっ、綺麗なひとみ――」
豊姫の言葉が途切れた。玉兎が豊姫から離れようとして、「きゅんっ」と、ベッドから転げ落ちた。
依姫がゴーグルを外すことに割いた僅かな時間で、部屋は一変する。
突風が起こり、壁を破壊する爆音と土煙――
砂塵の薄カーテンから覗く豊姫の手には、月の最新兵器の一つ――扇子が握られていた。