【下弦の月-a waning moon-】
豊姫の瞳が依姫を見つめている――ようで見つめていない、そんな不思議な感覚を依姫は覚える。どちらにせよ、正気ではない。そこに表情はない。
依姫は素早く、右手で抜刀し、左手に持ち替える。乱暴だが蹲る芹音を右手で襟首を掴み、自分の元へ引き寄せる。芹音を抱き留めると同時に、剣を床に突き立てた。
瞬間、依姫を囲うように周囲の床から無数の刃が生え出た。すぐさま豊姫の放った衝撃波が弾かれ、爆音を立て壁に大きな穴を空ける。
「ひあぁー」
「ああああああああああーーっ!」
幼兎と芹音が同時に悲鳴をあげる。依姫は流れるような動きでスカート部のボタンを外し、スリットを広げ、戦闘準備に入る。
「頭がぁ――」
額を床に押しつけるように蹲る芹音。
「まさか――玉兎感応通信網を!」
砂塵の中、幼兎が壁の裂け目から部屋を出て行くのが見えた。
依姫は舌打ちし、地を蹴って真上に飛ぶ。それを豊姫は目で追う。
すぐさま依姫は右手を天に掲げて「天照大神よ」と、叫ぶ。右掌から十数センチ上を中心に固定された眩い白光が放たれる。
発光時間は短い。
依姫は着地すると、腰を低くし、豊姫に接近する。
こちらの動きに対応しきれていない豊姫の胸ぐらを右手で掴むと、そのまま背後の壁に叩き付ける。
かなり強く叩き付けたが、姉の表情は変わらない。気絶もしない。そして、右手で掴んだことを後悔する。豊姫の扇子を握っている右腕が動いている。扇子が依姫の胸先に近くにある。
依姫が掴んでいる右手を軸に床を蹴って体を捻る――同時に扇子から衝撃が放たれ、服を僅かに掠めた。
今度は、腕を振り下ろすように豊姫を床に叩き付ける。すぐさま、左足で右前腕を踏みつけた。扇子はいまだ豊姫の手の中。
依姫は刀を持った左手を振り上げる。
「金山彦命よ」
叫んだ途端、依姫の持つ長刀が一瞬で短くなる。刃――というのも忍びないほど――が三ミリほどの残った刀を、扇子を握っている掌の手根に押し付けた。
「痛ったぁー」
豊姫が悲鳴を上げた。痛みに顔を歪ませる姉を見て、依姫は手を離した。
「傷は浅くしてあるわ。必要なら自分で止血して」
吐き捨てるように言うと、依姫は芹音の周りの檻を消去する。
「芹音を見てあげて」
依姫は刃を元の長さに戻し、壁のできた穴から廊下へと出た。
◇◆◇◆◇
清蘭はその日、統差総合病院を訪れていた。母と少し話し、病室を出る。上司でもある豊姫から、依姫がこの病院にいることを聞いていた彼女は挨拶をするために階段を上ろうとしていた。
その時、破壊音と大きな揺れを感じた。発生場所はこの病院の上の階……そう感じた清蘭は駆け上がろうとするが、ずきんっと頭に痛みが走った。片手で頭を押さえ、手すりに掴まる。
魂を無理矢理、肉体から引き剥がそうとするような感覚。その感覚は数秒続き、ぴたっと止まった。すぐに動き出したかったが、三半規管がおかしい。体を手すりにもたれかりながら、ゆっくり立ち上がる。
再び、建物が揺れた。歪む視界が収まるまで、清蘭はゆっくり階段を上がる。
一分ほどで、視界が、平衡感覚が正常に戻り、清蘭は走る。
五階にたどり着き、廊下の曲がり角を曲がるその時、何かにぶつかる。
出会い頭にぶつかったのは子供だった。
背の低い玉兎は清蘭の膝に顔面をぶつけ、小さな体を脚で蹴り上げてしまう。
「あわわわっ」
咄嗟の出来事に慌てふためく。あの揺れから逃げ出してきた子供だろうか?
「やばいやばいやばいっ」
清蘭は倒れた玉兎に駆け寄る。涙に潤んだ大きな瞳。幼兎の鼻から一筋の血が垂れ流れている。信じたくはないが、この出血は私が原因だろう。
「ごめんね。大丈夫? って、対丈夫じゃないよね?」
介抱をしようと抱き上げ、清蘭は改めて玉兎の顔を見た。
◇◆◇◆◇
廊下は左右に分かれている。下へと降りるなら、左手だが、彼女がそれを覚えているのかどうかは定かではない。しかし――左手から音が聞こえた。音の元へと依姫は走る。角を曲がる。
目を引くのは非常ベルを鳴らすボタンの赤い発光。
そして、真っ直ぐ続く廊下の先のT字路に座り込んでいる清蘭を見つけた。僅かだが、駆ける幼兎が見えた。
「清蘭、その子を捕まえなさ――」
清蘭の様子がおかしいことに気がつく。
清蘭が立ち上がる。まるで揺れる柳のような力ない体配りで――その瞳は先程の豊姫と同じだった。
右腕を掲げ、人差し指を依姫に向ける。
清蘭の能力が展開する。
距離は十メートルほど。最低でも二回の攻撃をかわさなくてはいけない。
清蘭の力は遠距離向き。接近戦ではまったく使えない。すぐさま、距離を詰めるために依姫は腰を低くし駆ける。
依姫の前方に無数の弾丸が出現する。ぐっと重心を下げ、一気に跳躍する。再び、依姫の前に弾丸が現出する。壁を蹴って、床を滑るように
三度目はない。距離はない。使えば自身の体をも犠牲にしかねない。
清蘭は手に薙刀を構成させようとする。しかし、それを具現化しきる時には、すでに依姫は清蘭の目の前にまで接近していた。
依姫は清蘭の横を通り抜け、彼女の背後の壁にある警報器のボタンを柄で叩き付けた。
途端、町に据え付けられたスピーカー全てから、サグメル効果を利用したマインドコントロールを解除させる、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「うわわわわっ」
薙刀を落とし、清蘭が耳を塞ぐ。
依姫は左を見る。幼兎も清蘭と同じく、その場で倒れこむように耳を塞いでいた。
素早く玉兎に手刀を打ち込み、気絶させる。
その時、依姫のプレスレット青い光を発した。それは、敵が月都を襲う合図。
「面倒なことになったな――」
窓を見ると、都のあちこちで白煙が立ち上がっていた。
依姫は彼女を抱え、清蘭に近づく。
「はっ、私……」
「もうすぐ、サイレンが鳴り止む。十分ほどで奴が来る。清蘭、豊姫と鈴瑚と一緒に被害の状況と救助の応援を頼む」
「うぅっ……は、はい」
依姫は急いで部屋へと戻る。
サイレンは一分ほどで鳴り止んだ。
汚れた部屋で豊姫は芹音を介抱していた。
「敵襲だ」
姉は少し青い顔をしていた。
「お姉様は清蘭達と一緒に被害の状況と救助の応援をお願いする。私は先に行って攻撃の布陣をしく」
「あの――」
「話は全て終わったら聞くわ。芹音、至急スタッフにレイセンにリミッターの手術を頼んでくれ」
「えっ! でも――」
「状況は良くない。彼女には悪いが、上より先手を打った方がいい」
依姫は芹音の電子ボードに手術の要請を書き込んだ。
◇◆◇◆◇
八十六時間の戦いの末、敵はいつもように撤退した。
都の被害は、建物の被害が約五百棟。重傷者は十三名、軽傷者は二万強。××万人という玉兎の七割が、レイセンの能力によって暴れた。
建物の復旧はいまも続いている。
月に戻った依姫は、豊姫とは別々に審問会に出廷する。案の定、上はレイセンの処分を考えていたが、芹音の説得もあってか、綿月姉妹の審問で判断するということになっていた。
◇◆◇◆◇
「依姫様、大丈夫ですか?」
部屋に入ってきた依姫に芹音は小さな声で迎えた。
審問会が終わった足で、病院に寄った依姫はレイセンの元を訪れた。前とは別の部屋で、彼女は寝ていた。その姿は以前と大きく異なっている。
おかっぱの髪は全てなくなり、肌色の頭皮に産毛のような毛が生えていた。耳には留め具が付けられている。
手術の為に髪は全て剃り、耳を一時切除したからだ。
「ああ、少し眠いが――問題はない」
自らの風貌の変化に大泣きしていたが、ようやく落ち着いたところだそうだ。
「それで、彼女は――」
「レイセンは私の家で世話をすることになった」
「じゃあ、処分は取り下げられたんですね」
「ああ。それと、引き続き芹音にも彼女の世話を頼みたい」
芹音と話ながら、依姫は姉の話を思い出す。
「サグメ様を見かけたの」
彼女は姿を見せることはほとんどない。どうして、姿を見せたのか。
もし、上の指示で動いていたとするなら、これはなるべくして起こったことになるが――
リミッターの手術を行ったことも。
玉兎感応通信網を介した暴動も。
豊姫と清蘭が操られたことも。
芹音のお菓子ほしさに豊姫が病院に訪れたことも。
芹音と依姫がレイセンの世話をし続けたことも。
意図通りなのか。それを判断することはできなかった。
いずれにせよ――
依姫は思う。
この事態を招いたのは自分なのだと。
◇◆◇◆◇
レイセンが消えた。
それが、深夜まで続いた会議から帰った綿月姉妹に対する一報だった。
屋敷のメイドも夕食の後から誰も彼女の姿を見ていないという。依姫が真っ先に思いついたのは家出だった。誘拐は考えにくい。彼女には人並みの戦闘技術を教え込んでいるし、彼女の能力がやすやすとそれを実行できるものではない。なにがしかの大きな痕跡が残っていてもおかしくはない。
依姫はまず書斎へと向かう。重厚なデスクの引き出しの一番下の引き出しを見る。
鍵はかかったまま。施してある印はそのままで開かれた様子はない。
引き出しの中にはレイセンの両親の死についての報告書がある。
彼女の両親の死の原因は、失血死。ただ、脳内に異常なまでの量の×××××ニンという物質が検出された。
×××××ニン。マインドコントロール、あるいは精神操作による肉体と精神のジレンマによって生成される物質。
つまるところ、彼女の両親は恒常的に娘の能力を受けていた。
両親だけではない。レイセン自身にもかなりの量が検出された。恐らく鏡のせいだ。
レイセンの両親は仲が悪かった。しかし、ある時から一変する。
それは、レイセンの力であり、自身を庇護してもらうために、無意識にそのように作用したのだろう。
×××××ニンは分解されにくい。個人差もあるが、×××××ニンは精神操作への耐性にも繋がる。
あの日、レイセンの両親は、その能力の効果が切れ、今まで抑圧されたそれが、一気に爆発し――結果、あの惨状になった。
あの日、病院を訪れた豊姫は、レイセンにマインドコントロールをされない自信があった。前線で戦う豊姫は精神操作への耐性は高い。仮に精神支配をされても、レイセンを溺愛する事ぐらいだと思っていた。しかし、現実は違った。依姫らがレイセンにストレスを与えたため、彼女の力が騎士のような役割に変化した。それは清蘭も同様に。
レイセンはいまになって、それに気付いたのだろうか。それは彼女に会ってみなければ分からない。
唯一の屋敷の変化は、物置だった。
物置には使うことのないガラクタが置かれている。
綿月姉妹はここに入ることはほとんどない。メイドが掃除のために入る程度だ。
床に一冊の本が落ちていた。依姫はそれを拾う。
穢れの星の事を知るために手に入れた、穢れの星で出版された写本などが置いている。
依姫が方を拾う。芥川龍之介の藪の中という名の本。読んだことはあるが、たいして印象には残っていない。
穢れの星に降りていった? しかし、月の防衛ネットワークにそんな痕跡はないらしい。それに方法も分からない。
この事は、上に報告しなければならない。なぜなら、私達はレイセンの監視役でもあるから――
この失態の代償はどれほどのものになるのだろうか?
月都防衛の前線から外れてしまうのだろうか?
それは分からない。
暗い面持ちで依姫は本を元の場所に戻し、物置を後にした。
了