球磨型艦娘と多摩と提督のお話。

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ふたりっきり

「提督、酷い顔色にゃ」

 

 提督が目を開くと多摩がいた。正確に言えば多摩の胸があった。多摩は提督旗下の艦娘だ。

 

「……すまんな……倒れてしまったか?」

 

 提督は覚醒したてのぼやけた意識の中で状況を整理した。後頭部が温かく柔らかい何かに乗せられている。多摩の太腿だ。正座することで股下のスカートの裾がずり上がり、後頭部と太腿を遮る無粋な存在は一切ない。

 

 多摩の艤装は装甲艤装を除き全て解除されていた。艦時代、船体に施されていた北方迷彩を思わせる襟と袖口を赤いラインで装飾した白と黒のセーラー服型の装甲艤装は、多種多様で数多く存在する艦娘の中でも他に例を見ない多摩だけの一点物だ。それ自体がワンポイントとなる腰を締めるベルトのバックルが当たらぬよう気を使っていてくれた。多摩の声は提督を気遣ってくれる優しい声色だった。

 

 一見無表情に見える多摩は、猫の如き仕草で感情をストレートに表現する事が多い。提督が執務をしていれば、視界の隅に映り込み、声を掛ければ気づかぬ振りをする。かと言って姿を消すこともなく、執務室に設えた炬燵に潜り込み丸くなる。誘っているようだった。触れれば気持ちよさそうに目を細め、時には自ら触り返してくる。まるで猫だった。

 

 戦闘では北上や大井、木曽といった姉妹艦に直接的な戦闘力では一歩及ばないが、代わりに制空権の底上げや輸送任務、特殊な陸上型深海棲艦への特効といった、艦隊を支える縁の下の力持ちという印象があった。勿論戦闘力が低いわけではない。生まれ持った闘争本能でこれまでも多くの深海棲艦を沈めてきた。提督が心を預け、信頼を信頼で返してくれる最も頼りになる艦娘だ。と、言っても旗下の艦娘は多摩一人だったが。

 

「少しだけ気を失ってたにゃ」

 

多摩が提督の頭を撫でながら言った。多摩の意外と大きい胸が邪魔をして、提督の位置からは表情が見えない。だが声色は穏やかで頭部に触れる手の感触から確かめる必要を感じなかった。

 

「ここまで運んでくれたのか?」

 

 提督は辺りを見回した。自らの執務室だ。質素とも豪奢とも言えない執務机。最低限の装飾。冬の期間限定で、いつの間にか執務室に常設されるようになった炬燵。古めかしい石油ストーブに乗せられた薬缶の口から湯気がしゅっしゅと音を立てていた。

 

「自分で歩いてきたにゃ。扉を開けて直ぐに倒れたにゃ」

 

「……そうか」

 

 提督の記憶は埠頭で出港する船を見送ったものが最後だ。そこからの記憶が全くない。意識が戻り、目を開くと多摩の胸が目の前にあった。

 

「働き過ぎにゃ」

 

 過労だ。多摩の提督でもあり、北方海域にある泊地の司令官でもある提督は、日常から働き詰めであった。本土から遠く離れた泊地には少数の提督と旗下の艦娘が複数在籍している。彼ら、彼女らを束ね、深海棲艦と戦う日々。貴重な提督と艦娘を預かる司令官に気の緩みは許されなかった。

 

「偉くなるのも考えものだな」

 

「提督のために多摩は頑張ったにゃ」

 

「そうだな」

 

 艦娘の功績は提督の功績。逆もまた然り。かつては鎮守府で多摩を指揮していた提督は多摩が重ねた戦功で、北方海域にある泊地の司令官に抜擢された。

 

「提督もこの三日間良く頑張ったにゃ」

 

「そうか?」

 

「そうにゃ」

 

 大規模な深海棲艦の侵攻。

 

 秋津洲の二式大艇がその一団を発見したのが四日前。その時から提督は不眠不休で活動した。食事をまともに摂る時間もなかった。各所に矢継ぎ早の連絡、指示を出し遅滞させること無くやり遂げた。多摩も旗下の艦娘として獅子奮迅の働きを見せた。

 

 そうして全ての指示を終え、漸く落ち着いたのが先程だ。記憶はないが、執務室に戻り気が抜けたのだろう、糸が切れる様に意識を失い倒れてしまったのだ。後は冒頭の通りだ。多摩が倒れる提督を抱きとめ、大事無いと判断して体を横たえたのだろう。

 

 提督は多摩に甘えることにした。戦士とは到底思えない多摩の柔らかな膝枕の誘惑には勝てなかったからだ。

 

 窓の外を見れば雪が降っていた。緯度の高いこの泊地では冬になれば毎年雪が降る。寒くなるといつの間にか用意される石油ストーブと炬燵。泊地の冬の風物詩は何かと問われれば石油ストーブと炬燵と答える位しっくり来る。

 

 提督は頭部を撫でる多摩の手に自らの手を重ねた。しばらくの間、二人は無言のまま静かに降り落ちる雪を眺めていた。

 

 沈黙を破ったのは多摩だった。

 

「……二人っきりだにゃー」

 

「……そうだな」

 

 執務の他にも各施設の確認や打ち合わせ、司令官に休む間などない。人間のスタッフの他にも艦娘や来客で提督の周囲には常に誰かがいた。楽しそうに駆け回り報告を入れる駆逐艦。福利厚生を充実させた結果、飲みに誘ってくる重巡と軽空母。密かにフォローし、溜まる始末書。それに伴う大本営の叱責。めまぐるしい日々だった。

 

 窓の外にはしんしんと降り積もる雪の世界。騒ぐ者の声は聞こえず、耳に届くのはお互いの息遣いのみ。

 

 多摩と二人っきりになれたのはこれで三度目だ。一度目は提督になりたての頃。女を知らぬと馬鹿にされ、上官に悪所に連れて行かれた時だ。店の前で顔を真っ赤にして怒る多摩に連れ戻され、翌朝まで二人っきりだった。

 

 二度目は丁度一年前。

 

「ケッコン以来にゃ」

 

「……あの日も雪が降っていたな」

 

「にゃー」

 

 ケッコン。結婚。結魂。

 

 大本営が『ケッコン』と称する艦娘と提督を繋ぐ制度である。漢字をどう当てるかは公表されていない。どちらなのか知らないし、どちらも違うかもしれない。どちらでもいいと提督は思う。

 

 艦娘と信頼関係を結んでいることが大前提であるが、ケッコンは抜きん出た練度を持つに至った艦娘に指輪を渡す事で成立する。指輪は提督に任官された時に大本営から一組だけ渡されており、それを肌身離さず所持する事を義務付けられていた。

 

 ケッコンは、その指輪を艦娘と提督の同意の下、互いの指に装着することで成立する。どの指に装着するかは自由だが、左手の指に嵌める者が多い。

 

 ケッコンすることで僅かばかりだが艦娘の身体能力が向上する。死と隣り合わせの戦闘でその僅かな差が生死を分けることがある。提督は迷わず多摩に指輪を送った。

 

 艦娘にとってケッコンは特別なものだ。二人のケッコンを祝福する泊地全ての艦娘が協力してくれ、翌朝までの静かな二人っきりの時間をプレゼントしてくれた。

 

 提督の頭部で重なる二人の手の指には、ケッコンの証であるシンプルな指輪が嵌められていた。

 

「提督。メリークリスマスにゃ」

 

「……メリークリスマス、多摩」

 

 今日はクリスマス・イブだ。指輪を渡して丁度一年。つまりケッコン一周年だ。

 

「……」

 

「どうしたにゃ?」

 

 応えを返す提督の声に喜色の色は薄く、訝しんだ多摩は提督の顔を覗き込んだ。

 

 ケッコン一周年で、しかも多くの男女が浮かれるクリスマス・イブ。戦前の記憶を持つとは言え、現代の習慣に馴染んだ艦娘とて例外ではない。声色と同様に提督の顔に笑みはなかった。嬉しいのは自分だけかと多摩は不満を覚えた。

 

「なぁ多摩」

 

「何にゃ」

 

 多摩自身が驚く程、棘のある声が喉から出てきた。そんなつもりはなかったのにと焦る気持と、でも提督が悪いと開き直る気持が僅かの時間せめぎ合う。しかしそれは多摩の早とちりだった。

 

「多摩だけでも今から艦娘達()の所に行かないか?」

 

 提督の提案は、集合している艦娘達の所に多摩も行かないかというものだった。

 

 愚問だ。逆の立場だったなら提督は多摩を置いて行くのか? それは絶対にあり得ないと多摩は自信をもって断言する。

 

 二人の関係は昨日今日で出来たものではない。多摩が建造されてから二人三脚でこつこつと積み上げて来たものだ。時には悔しさで泣いた。時には歓喜で身を震わせた。恐怖で怯えた事もある。怯懦に打ち克ち、絶望に慄きながら何度も立ち上がって培ってきた関係だ。多摩が提督を、提督が多摩を、一人残して行くはずがない。

 

 馬鹿だにゃあ。

 

 心が溢れ、多摩の顔に笑みがこぼれた。愛すべき多摩の、多摩だけの提督。多摩がいなければ提督は一人になる。そんな寂しい想いを提督にさせるはずがないのに。本当は寂しい癖に、多摩を想って言ってくれたのだ。何故分かるのか? 逆の立場なら、寂しさを押し殺して多摩も同じことを言うに違いない。それに提督の事ならなんでも分かるのだから。

 

「多摩はここにいるにゃ」

 

「……そうか」

 

「そうにゃ」

 

 ほっとした様な、残念な様な複雑な声色だった。多摩は提督に追い打ちを掛けた。

 

「提督のいる場所が多摩の居る場所にゃ。知らなかったのかにゃ?」

 

「知ってた」

 

 二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。

 

 多摩は自ら望んでここ(提督の傍)にいる。提督も多摩の決断を覆すのは容易ではない事を長い付き合いから熟知している。多摩に二言はない。二人の間にわだかまりは無くなっていた。

 

「それとだな……言い難いんだが……今年のクリスマスプレゼントが用意できなくてだな……その……すまん」

 

 ささやかながら毎年交換するプレゼント。提督は事前に準備をしていた。しかし深海棲艦の侵攻に伴う混乱で定期輸送便が入港不可能になってしまった。便に紛れ込ませ、新しい炬燵をプレゼントするつもりだったのだ。

 

 毎年の事だ。多摩も事情は分かっている。多摩が準備していたプレゼントも入港しなかったのだから。形になるプレゼントは用意できなかった。しかしそれは。

 

「問題ないにゃ」

 

 多摩の瞳に熱が篭った。形あるものが無理なら代わりになるものがあるじゃないか。

 

「今から貰うにゃ」

 

 多摩の口角が攻撃的に吊り上がった。多摩は提督を。提督には多摩を。

 

 瞳を潤ませた多摩の顔が提督の顔に降りてきた。互いの唇が触れると同時に食み合い、どちらともなく舌を差し込んだ。

 

 多摩の闘争本能にも似た根源的な感情に火が灯いた。

 

「明日の朝まで二人っきりにゃ」

 

 吐息の届く距離。多摩は提督と視線を合わせながら、ぺろりと自らの唇を舐めた。

 

「提督には多摩をあげるにゃ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月後。

 

 球磨型一番艦、軽巡洋艦の球磨は瓦礫が散乱する大地の上に立っていた。剥き出しの大地は高熱で黒く焼け焦げ、溶けて所々ガラス化した地表が見渡す限り広がっていた。樹木は勿論草花一つなく、代わりに体の一部を欠損させ、黒く焼け焦げた深海棲艦の躯があちらこちらに転がっている。死の世界を彷彿させる悪夢のような光景だ。。

 

 かつてあっただろう人工建造物は完膚なきまでに破壊され、広く散乱し黒く炭化した瓦礫から大まかな位置だけは想像できた。

 

 視界を遮るもの一つ無い黒く焼け焦げ、躯を晒す大地。

 

 この景色を見る前は頭の片隅で、例え糸の様に細くとも奇跡が起こる可能性を信じていたかった。しかし今は違う。荒涼たる景色に甘い幻想はいとも簡単に打ち砕かれた。奇跡などあり得ない。あり得ないから奇跡と呼ばれるのだ。

 

「球磨姉さん……これじゃもう……」

 

「それ以上言うなクマ」

 

 球磨は同じ光景を見ていた大井の、思わず出てしまった言葉を強い口調で止めた。大井の顔は青ざめている。大井の後ろに続く木曽は厳しい顔で無言を貫き、いつも飄々としている北上は、常にない強張った表情で風景を眺めていた。

 

 彼女たちの思いも同じだろう。球磨も分かっている。地獄の様な風景の中、生き残れる者など、艦娘であろうとも皆無だ。しかしそれを口にする事は出来なかった。口にすれば認めてしまう。認めてしまえば、きっと感情を抑えきれなくなる。傷だらけでも生きているかもしれないと願って、しかしじりじりと湧き上がり続ける焦燥に耐えながら抑えていた想いが溢れてしまう。球磨型一番艦として、彼女たちの姉として、今だけはそれを自分に許すことは出来なかった。

 

「多摩……」

 

 北方海域の冷たい風が球磨の呟きをかき消した。

 

 幸か不幸か戦闘終結後、この海域には珍しく穏やかな天候が続いていた。一時は深海棲艦の支配下に落ちて赤く染まった海も深い青を取り戻し、太陽の欠片をきらきらと輝かせている。常なら荒れた海面は穏やかに凪ぎ、海だけを見れば、狂った様な戦闘が起こったとは思えない。

 

 大地を覆っていた雪は、破壊と火災、間断なく繰り返された艦娘と深海棲艦相互の砲撃と爆撃の応酬で溶けて大地に染み込み、凍土となり形を変えていた。

 

「行くクマ」

 

 球磨は自らの心を引締める為に、妹達に声を掛け歩を進めた。例え僅かでも妹艦、多摩の生きていた証を探すために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──敵、深海棲艦の大規模艦隊の接近を観測

 

 北方海域の泊地から第一報が大本営に入ったのは今から数えて三十四日前の事だった。泊地に所属していた水上機母艦が気まぐれに飛ばした飛空艇が大規模な敵性集団を発見した。そこは深海棲艦が存在しないはずの海域であった。

 

 数えるのも馬鹿馬鹿しいその集団は、整然と艦隊を組み進路を北方海域の泊地へを向けていた。泊地の戦力では到底敵うものではなかった。大本営は早々に泊地の人員と全艦娘の撤退を決めた。

 

 ──北方海域の泊地を放棄する──

 

 泊地の後方に各戦域から集めた艦娘を終結させ一大決戦の計画を立てた。全戦力を集める訳にはいかない。他戦域の崩壊に繋がるからだ。それでもこの作戦に参加する艦娘の総数は、ただ一つの作戦としては海軍史上類を見ない規模となる予定だった。

 

 球磨姉妹も作戦に参加し、急ごしらえの再編成を受けながら情報を集めていた。泊地から撤退しているはずの多摩も再編成を受けているはずだ。

 

 深海棲艦の襲来予想時刻は大凡の時間が判明していた。未明を過ぎて早朝から朝にかけてだ。一人の提督が総員撤退命令が出ている泊地の電探施設を使って深海棲艦の動向を見張っていたからだ。

 

「どこの提督だか知らねぇが剛毅な奴もいるもんだな」

 

 かつて無い大海戦を前に気合の入った木曽が武者震いと共に泊地にいる提督を褒めた。

 

 命令無視の独断。恐らく艦娘を旗下に入れていない提督だ。艦娘を失った、または艦娘を建造する前の提督だろう。大本営の撤退命令を無視して、艦娘を支援しようと残ったのだ。

 

 電探とて完全ではない。夜陰に紛れ少数で浸透されれば人員のいない泊地では撤退すら容易ではなくなる。艦娘は全て泊地から撤退しているのだから。

 

 刻々と入ってくる深海棲艦の情報は恐るべきものだった。集結しつつある艦娘艦隊の総数を大きく上回り、数を数えるのが馬鹿らしい程だ。大型の深海棲艦も複数確認された。

 

 深海棲艦との戦いは、陣取りゲームに似ている。深海棲艦が占拠した海域は赤く染まり、広域の探査は不可能になる。発生する霧により視界は妨げられ、無線の通信距離も極端に低下する。

 

 この海域が赤く染まっていないのは泊地に提督が残っているからだ。提督が一人残らず泊地からいなくなった瞬間に、泊地の全施設から妖精さんが消え去り、泊地を含む海域が深海棲艦の支配下とされてしまう事だろう。提督が泊地に残っていなければ詳細な情報を得ることは難しかったに違いない。

 

 大本営は早々に泊地の放棄を決定した。深海棲艦の支配する海域に攻め入ることはいつものことだ。陸上での慣れない防衛戦で艦娘に被害を出すより海戦を選択したのだ。

 

 球磨達先遣部隊の役割は遅滞行動だ。深海棲艦の侵攻を遅らせ、後方の海域に集まりつつある決戦艦隊が到着するまでの時間稼ぎだ。この海域をただで通すわけにはいかない。

 

 球磨を含めて妹達も沈んでしまうかも知れない。しかし深海棲艦との戦いで轟沈を恐れる者など球磨型には一人もいない。

 

「気合入れるクマ」

 

「よっしゃ!」

 

「おぉ~やっちゃいましょ」

 

「燃えちゃいます」

 

 返事を返す頼もしい妹達の声を聞き、球磨も覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一報から四日目の払暁。

 

 暁の水平線。昇る直前の仄かに明るい朝日を背景に深海棲艦の集団が浮き上がった。本隊を後方に、上陸部隊と迎撃部隊の三つに分けて。

 

 深海棲艦は本能だけで活動しない。そうであればとっくの昔に撃滅している。艦娘達がそうであるように深海棲艦も情報を収集していていた。

 

 ──深海棲艦侵攻開始せり

 

 泊地から伝えられた入電と同時に、深海棲艦が動き出した。立ち昇る朝日を背に影が蠢いた。

 

 両軍は激突した。

 

 当初思わぬ誤算だったが、戦況は艦娘艦隊に有利に運んだ。常なら赤い海の奥深く、深海棲艦の支配する海域に侵入し、海域全域を俯瞰する事は出来なかった。だが泊地が健在な今、海は青く海域を霧が包んでいない。広域での情報伝達を可能とし複数の部隊が効率的に、有機的に連携を取ることで数の不利を補っていた。個々の戦力が深海棲艦を上回っていた事も理由に上げられた。

 

 ──深海棲艦多数上陸

 

 深海棲艦が泊地に上陸した。泊地が陥落すれば海域は赤く染まる。視界は狭くなり広域の無線は遮断される。しかし艦娘艦隊には泊地防衛に裂ける戦力は無い。泊地の陥落は織り込み済みだった。

 

 泊地に敷設されたトーチカが火を吹き深海棲艦を攻撃する。据え付けの機銃がありったけの弾丸をばら撒き、上空を飛来する艦戦、艦攻、艦爆を迎え撃った。人ではない。妖精さんだ。

 

 提督は妖精さんに戦闘をお願いすることは出来ない。つまり。

 

「球磨姉さん! 泊地に艦娘(誰か)が残っているわ!」

 

 艦娘が最低でも一人、泊地で防衛戦を繰り広げている事になる。球磨の目に爆撃と砲撃の炎と砂煙の向こうで艦娘の砲撃らしき光が見えた。泊地の上空にはたった一機の零式水上観測機が深海棲艦の艦載機の群れを縫うように飛んでいた。

 

 大本営の命令は、全艦娘を含む総員の泊地からの撤退だ。泊地で戦う艦娘は大本営の命令を無視して提督と共に戦っていた。提督が泊地に残る事で妖精さんが宿る施設を稼働させ、深海棲艦の情報を艦娘艦隊に送り続け、残った艦娘が妖精さんに指示を送りながら深海棲艦と戦っていた。

 

 大井の悲鳴にも似た叫び声を聞きながら、球磨は身震いを抑えきれなかった。命令無視だとも、無茶な事をとも、羨ましいとも思いながら。

 

 これまでも大本営の命令は疑問に思う部分は多々あったが、自らの提督が従う以上球磨に否やはない。従うと決めた以上は命令に従い戦う。個々が自分勝手に動いていては勝てるものも勝てなくなるからだ。

 

 泊地に残った提督と艦娘は大本営の命令を無視した。しかし皮肉にも、泊地に提督と艦娘が残っていたからこそ海は赤く染まらず、当初は苦戦を予想していた遅滞作戦を優位に運べている。

 

 泊地に残った提督はもう助からない。それは泊地に残った提督が誰より理解しているだろう。砲撃と爆撃、灼熱と衝撃の中、ただの人間が無事に逃げ切れるはずなどない。例え艦娘が抱きかかえ逃げたとしてもだ。艦娘は違う。艤装を展開した艦娘の耐久性は人間とは比較にならない。だが可能性があるだけだ。相当な練度を持っていたとしても、逃げに徹したとしても困難であると言わざるを得ない。優位に戦闘を進めているが球磨達に泊地の艦娘を援護する余裕すらないのだから。

 

 そんなことは泊地で戦う提督と艦娘が誰より理解しているだろう。故に球磨は背中を震わせて羨ましいと嫉妬した。提督に従い、護り、戦う事は艦娘の本能であり喜びだ。大本営の命令に従うのも、提督が深海棲艦と戦う為には、大本営の管理下にあることが有利だと判断したからだ。提督の為に死ねる。それも有りだ。だが、死を覚悟した提督と共に戦い、護り護られ共に果てる。本懐ではないか。

 

 泊地の奮戦もここまでだった。

 

 ──深海棲艦の猛攻を受け防衛施設壊滅

 

 広域に切り替わった無線を全艦娘が受信した。泊地のトーチカは完全に破壊され艦娘の砲撃の火は見えず、たった一機で上空を飛んでいた零式水上観測機は黒い煙の尾を引きながら墜落していた。

 

 ──之より機密保持の為全施設を爆破処理す

 

 ──貴君らの必勝を祈願するもの也

 

 公式ではここまでが無線通信記録の最後だった。戦闘終結後、球磨がどれだけ記録を探しても見つからなかった。大本営が記録を削除したのだ。

 

 ──…………

 

 ──…………

 

 ──…………

 

 ──ただいまにゃ

 

 ──お帰り。お疲れ様

 

 ──これくらいなんでもないにゃ

 

 ──……多摩……今までありがとう

 

 ──それは多摩の台詞にゃ

 

 ──そうか

 

 ──そうにゃ

 

 ──……

 

 ──多摩、愛している

 

 ──多摩もにゃ

 

 ──……

 

 泊地に劫火の柱がいくつも立ち上がった。遅れて爆音と衝撃。炎と衝撃は泊地に上陸していた深海棲艦の尽くを飲み込んだ。衝撃波が球磨達艦娘を襲い、身を低くしてやり過ごすのが精一杯だった。泊地にほど近い深海棲艦は衝撃波に巻き込まれて吹き飛ばされていた。

 

 多摩は衝撃波をやり過ごし泊地を見た。赤黒い煙が、内に内に巻き込みながらもうもうと立ち昇っていた。

 

「──!!」

 

 球磨は多摩の名を叫んだ。一時的に聴覚が麻痺して自分の声さえ聞こえなかった。

 

「──!!」

 

 球磨はもう一度叫んだ。返事は帰ってこない。最後に多摩に会ったのはいつだったか。ケッコンして惚気けられた時だ。羨ましがる妹達を前に、左手の薬指に嵌めた指輪を見て照れ笑いしていたのが最後だ。

 

 ──テ・キ・コ・ン・ラ・ン・ウ・テ・ウ・テ・ウ・テ

 

 最前線で深海棲艦の頭を押さえていた西村艦隊から光信号が狂ったように発信されていた。見れば海域は一面赤く染まっていた。深海棲艦の支配下に落ちたのだ。こうなれば広域の通信は不可能だ。直に霧も発生し視界は塞がれてしまうだろう。当初の予定通りだ。何も問題はない。

 

 球磨は海上を駆け出して混乱から立ち直れない深海棲艦の集団の中に躍り出た。妹達も後に続いているに違いない。狙いを付ける必要はなかった。砲撃は面白いように当たり、魚雷は確実に深海棲艦を轟沈させた。後ろを見れば妹達が泣きながら深海棲艦を攻撃していた。

 

 そうだったのかクマ

 

 ずっと視界が滲んでいたのは、頬が熱かったのは泣いていたからか。不思議に醒めた思考が冷静に砲弾と魚雷をばら撒いていた。考えるのは後だ。今は目の前の敵を倒すことだけを考えろ。

 

 この日、補給を繰り返した球磨達は、一日の撃墜数記録を大幅に塗り替えた。

 

 深海棲艦上陸部隊の尽くを巻き込み、艦娘艦隊と交戦していた深海棲艦に大混乱を齎した泊地の大爆発は誘爆を繰り返し三日三晩燃え続けた。泊地を撤退する艦娘が持ちきれず余った燃料と弾薬の全てを使っての支援攻撃。独自作戦による大本営が上げた大戦果。大本営の記録にその一文があるのみだった。

 

 この日から一週間。球磨達は牽制と誘引、後退を繰り返し、後方の決戦艦隊との合流に成功した。艦娘艦隊にも甚大な被害が出た。特筆すべきは、常に最前線で戦線を支えていた西村艦隊が時雨を残して轟沈したことだ。その時雨も大破し後方に搬送された。他にも複数の大破、轟沈が出ていた。

 

 球磨達は幸いにも小破で済み、簡易の修理を受けた後に決戦艦隊と共に戦った。戦闘は二週間にも及んだ。相互に被害を出しながら最後は戦艦大和の一撃が泊地に居座った北方水姫の装甲をぶち抜き、深海棲艦は散り散りに逃散し、球磨達は掃討作戦に移行した。

 

 激戦地となった泊地の中心地は大爆発で廃墟すら残らず、相互の砲弾と爆撃が草木一つ生えない黒焦げの更地に変えた。掃討戦の終了後、球磨は泊地への上陸許可を求めた。作戦の功績もあり許可はあっさりと下りた。球磨は妹三人を伴って元泊地に上陸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「提督一人残って、泊地を死守ってなんだよ……」

 

 木曽が一際大きな瓦礫を蹴り呟いた。

 

 ──人員と全艦娘の退去──

 

 大本営の泊地放棄の決定にはもう一つ秘匿された命令が付随されていた。

 

 ──但し提督一人残して泊地を死守せよ。人選は司令官に一任するものとする──

 

 泊地の指令たる提督は、大本営の命令を伏せたまま人選に自らを指名した。泊地に所属していた提督達は司令官が最後に退去するものだと思わされていた。

 

「提督って真面目な人多いもんねー」

 

 北上の提督が同じ状況に陥ったらどうするだろうか。まず北上を退去させた上で自ら残るだろう。当然北上はその指示には従わない。多摩と同様に死を共にすることを選ぶ。悩む余地などなかった。

 

 小を殺して大を活かす。大本営の戦略は理に適っている。泊地が海域を押さえていたのは僅かな時間だ。しかしその僅かな時間で戦況は大きく変わった。泊地が海域を押さえていなければ被害は拡大していた事だろう。しかし理性では理解できても感情が許さなかった。

 

「大本営は相変わらず私達のことを分かってませんね」

 

 提督も艦娘も貴重だ。練度の高い艦娘は代わりが無いと言っても過言ではない。だが提督は拠点に最低限一人いればいい。その程度の認識なのだろう。現状艦娘は大本営の命令に従っている。提督から引き離した多摩も命令に従うと考えたのだろう。

 

 馬鹿な事だ。艦娘の建造が大本営の工廠でしか出来ないと思っているのだ。艦娘の建造などどこでも出来る。適当な資源と提督さえいれば。艦娘は提督の要請に応えて顕現するだけなのだから。何故艦娘が提督に従うか考えもしないのだろう。

 

 大本営は新しく建造する多摩を姉妹だと球磨達に紹介するだろう。艦時代の記憶を持ってはいても新しい多摩は姉妹ではない。同時期に建造され、それからの記憶を共有していないのだから。位置づけは従姉妹といったところだ。勿論可愛くないはずがない。同じ艦娘なのだから。しかしきっと違和感はあることだろう。

 

「前は雷だったな」

 

 木曽の言葉に何がとは言わない。全員が分かっていた。

 

「ねぇ、もういいんじゃないかしら?」

 

 大井の言葉に妹達が頷いた。

 

「ここいらが潮時ですかねー」

 

 北上の声に力はない。何かを諦めた感があった。

 

「お前達、いい加減にするクマ」

 

 静かに、しかし断固とした声で球磨は妹達の言葉を遮った。気持は痛いほど理解出来た。だがそれ以上言葉にする事を許せなかった。

 

「でも、姉さん!」

 

「多摩の提督の想いを踏みにじるつもりかクマ?」

 

 大井は言葉に詰まった。言い返せなかったからだ。

 

 人類を深海棲艦から護る為自らを犠牲にした多摩の提督。大井の提督もきっと同じことをすると気がついたからだ。大井だけではない。球磨の提督、北上の提督、木曽の提督、全員同じ事をするに違いない。彼女たちが選んだ提督は皆そういう者達だ。

 

 大井達の言葉は自らの提督の想いを裏切りかねないものだ。艦娘達も人類を護るという想いは強い。大本営は時に提督を遊戯の駒の様に扱い、艦娘を感情のない兵器として扱う。しかし多摩の提督の、自らの提督の心を思えば、一時の感情で軽々に口にして良い言葉ではなかった。

 

 謝罪の言葉を口にする妹たちに対して球磨はそれ以上何も言わず、ただ歩を進めた。

 

 目的の場所に到着した。

 

 更地だ。爆撃と砲撃で地面はえぐれ、黒く焼け焦げていた。瓦礫すら形を留めていないその場所は、かつて泊地の司令本部が置かれていた場所だ。つまり多摩と多摩の提督が最期を迎えた場所だった。

 

 球磨は導かれるように歩き出した。分かっていた訳ではない。ただそこにある。そう感じたのだ。素手で地面を掘った。妹たちが駆け寄り手伝ってくれた。黒く焼けた地面の層の厚さがいかに戦闘が激しかったかを思わせた。

 

 ざくりざくりと無心に地面を掘るとキラリと光る小さな物体が出てきた。

 

「指輪……」

 

 ケッコン指輪だった。

 

 大本営が任官時に提督に授与する破壊不可能な指輪だ。戦艦大和の主砲の直撃を受けても傷一つつかないことが実証されていた。大本営が艦娘に優位性を保つ為に製造方法は一切開示されていない指輪。

 

 嘘だ。艦娘達は知っていた。指輪は妖精さんが気まぐれに製作していた。大本営は指輪を見つけ確保しているだけだ。人間にケッコン指輪など作れるはずがなかった。同じ意匠の指輪は、球磨の指にも嵌められている。それは北上も大井も木曽も同じだ。

 

 元は独立した一組の指輪だったものが、どういう訳か一部が溶融して一つに繋がっていた。破壊不可能物体だ。この指輪はもう二度と離れる事はない。

 

「多摩ぁぁ……」

 

 妹達の前で泣くまいと決めていた。だが指輪を見て心が抑えきれなくなった。これは二度と会えない多摩を思っての哀惜の涙ではない。繋がった指輪の様に二度と離れる事のなくなった妹への祝福の涙だ。

 

 球磨の頬を伝い涙が止め処なく流れていく。黒い大地にぽたぽたと落ちる涙が大地に染みていった。気がつけば妹達も球磨に縋り付き、大声で泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「姉さん、いいの?」

 

 指輪は地面に埋め戻した。何を今更。いいも何も皆で決めた事だ。

 

泊地(ここ)が二人の墓標クマ」

 

 深海棲艦の一大侵攻。皮肉にも撃退に成功し人類の版図は広がった。泊地は破棄され、数百キロ先の地に新しい泊地が建設される事が決定している。多摩が望んでいた提督と二人っきりの時間。これからは存分に楽しんで貰おう。

 

「皆、戻るクマ」

 

 球磨は踵を返して司令本部跡に背を向けた。

 

 一頻り泣いて心が落ち着いた。きっと思い出した時に涙する事もあるだろう。でもそれは球磨の中で多摩が生き続けているということだ。誰も思い出さなくなった時が人の本当の死だ。成る程、人間はいいことを言う。

 

 球磨は魂なんてものがあるかなんて知らない。だから天国や地獄、あの世と呼ばれる概念世界があるかどうかなんて知るはずもない。だからこれは球磨の感傷だ。きっとそうあって欲しいと球磨のセンチメンタルな部分が聴かせた幻想だ。

 

 ──提督、これからもずっと一緒にゃ

 

 それは一際強く吹いた風と共に球磨の耳に届いた気がした。

 

「ねぇ? 今多摩姉さんの声が聞こえなかったかしら?」

 

「聞こえたような……気がする?」

 

「お前達もか?」

 

 妹達がひそひそと声を掛け合っていた。

 

「ふふふクマ」

 

 もし死した後に艦娘と提督がたどり着く世界とやらがあるのなら。

 

「球磨がそっちに行くまで二人っきりにしてやるクマ」

 

 そこにいるであろう多摩に聞こえるか聞こえないかは知らない。もし球磨がそこに行ったら当分は二人っきりになんてしてやらない。

 

 無線スイッチの切り忘れ。

 

 総じて優秀な提督にあるまじき人生最後の失敗にして壮絶なのろけ。そんなものを聞かされたせめてのもの意趣返しだ。

 

 あり得るかも知れない未来を想像し、心が軽くなった球磨は、自らの提督の下へ還るべく歩く速度を早めた。

 

 今日だけは二人っきりになって、たくさん甘えようと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                原作:艦隊これくしょん

 

 

 

 

 

                    (完)

 

 



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