黒いチューリップ 1   作:castlehill

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     CAST

 黒川 拓磨  14歳 君津南中学2年B組 転校生 小柄 
 
 黒川 剛史      拓磨の父 トビ職 
 
 黒川 佳代      拓磨の母 建設会社の一人娘だった

 加納 久美子 28歳 君津南中学 英語教師 2年B組担任  
         
 安藤 紫   29歳 美術教師 
  
 西山 明弘  30歳 学年主任 レガシイ・ワゴン所有
 
 高木 将人  42歳 教頭 株式投資 
 
 東条 朱里  28歳 保健室 代議士岩城三郎の愛人
 
 桜井 優子  28歳 平郡中学 英語教師 旧姓 木村優子    
 
 桜井 弘       優子の夫  
 
 望月 良子      平郡中学校 庶務係
 
 安部 進       平郡中学校 教頭 
 
    
板垣 順平  15歳 サッカー部のストライカー 長身

 佐野 隼人  14歳 サッカー部のキャプテン 

波多野 孝行  14歳 篠原麗子に好意

波多野 正樹  38歳 孝行の父 君津署 生活安全課 刑事 

 新田 茂男  14歳 波多野 孝行の親しい友人

 新田 京子      茂男の母 養護学校の園長  

 山岸 涼太  15歳 不良グループのリーダー 霊感強い

 関口 貴久  15歳 家が焼失 九州へ引っ越す

 相馬 太郎  14歳 小柄 不良グループ

 前田 良文  14歳 不良グループ 見張り役

 鶴岡 政勝  14歳 左のミッド・フィルダー カメラが趣味
    
 鮎川 信也  14歳 鶴岡のライバル
    
 秋山 聡史  14歳 小柄 夜尿症 佐久間渚に好意

 五十嵐 香月 15歳 映画同好会 女優になりたい 長身

 佐久間 渚  14歳 映画同好会 佐野隼人と交換日記 
 
 山田 道子  14歳 映画同好会 黒川拓磨に好意 

 篠原 麗子  15歳 早熟な女の子 

 手塚 奈々  14歳 脚が長くスタイル抜群 長身 
       
 古賀 千秋  15歳 学級委員 生徒会長への野心 

 小池 和美  14歳 書記 大柄なのを気にしている 

 奥村 真由美 14歳 サッカー部のマネージャー 

 土屋 恵子  15歳 山岸たちから金銭を要求

土屋 高志   17歳 恵子の兄 高校中退 無職
         
 森田 桃子 17歳 先輩 水商売


episode 01 - 29

 

 鏡だった。

 女の祈祷師が取り出したのは、とても武器と言える代物ではなかった。しかし、それはただの鏡ではなくて虹色に輝いていた。瞬時に危険を感じた。逃げようとしたが、それを祈祷師が掲げて太陽の光を反射させる方が僅かに早い。光線は左の耳に当たって、強烈な痛みが頭に走った。

 肉が焼ける異様な臭いが鼻を突く。熱いというよりも身を切り刻まれる痛さだ。叫び声が無意識に出た。動けない。体から力が抜けていく。もうダメだ、と思った瞬間だった、光線が消えた。厚い雲が太陽を隠してくれたらしい。助かった。この場から急いで逃げようとしたが傷が大き過ぎた。意識を失ってしまう。

 気づくと棺の中に閉じ込められていた。呪縛を掛けられて身動きできない。自由を失う。そのまま長い歳月が過ぎた。自分が持つ力を過信して油断した結果だ。

 だが復讐の魂は滅びない。怒りと憎しみは消えずに残った。いつか蘇る日が来ると信じて待ち続けた。

 どんなに災いが悲惨で、どれほど秩序を取り戻すのが困難だったのか、年月が経てば人々の記憶は薄れていく。いずれ欲望が自戒の念を凌駕するだろう。彼らの心に邪悪な魂が入り込む余地が生まれるはずだ。

 棺は何人もの手に渡り、その度に場所を移した。蔵の奥に押しやられて埃をかぶった。厄介な物として扱われていく。今は多くが、この棺が存在する理由すら知らない。

 とうの昔に女の祈祷師は亡くなった。虹色に輝く鏡だけが残っていた。忌々しい。いずれ自由を取り戻したら、早々に始末しなければならない。

 おっ、人の声だ。

 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」

「そんなこと、どうでもいい」

「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」

「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」

 目を開けた。すでに視力はない。意識を棺の外に集中させる。久しぶりに聞く。声が若い。きっと子供らだ。好都合。この干乾びた身体を蘇らす為には、連中の瑞々しい肉体と新鮮な血が必要だ。何も知らずに近づいて来る。

 今度こそ、今度こそ自由を取り戻せるかもしれない。

 

 

   01  1985年 この年の暮れに日本で映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が公開された

 「畜生、せっかく--」

まずいと知っていながら声が出てしまう。廊下を、こっちへ歩いてくる足音に気づいたからだ。これから始めようという時に--。青い作業服姿の男は急いでカーテンの裏へと身を隠すしかなかった。一人じゃなさそうだ、やって来るのは二人だ。話し声も聞こえてきた。

 「だって前にも言ったでしょう。あんたにはショートが似合わないって」

「え、うそ。初めて聞いたけど、あたし」

「ううん、何度も言ってる。あんたが人の話を聞いてないだけよ」

 看護婦二人が新生児室の前を通り過ぎていく。前の日に美容院へ行った同僚のヘアスタイルを、もう一人の女が酷評していた。

 早くしろっ。そんな事は、どうだっていい。早く向こうへ行ってくれ。男の額に汗が流れる。

 産まれたばかりの赤ん坊が寝ている新生児室に一人でいた。母親ですら許可なく入っちゃいけない場所だ。姉ヶ崎の建設現場から直に来た。一目で不審者と分かる場違いな格好だった。

 やるべき事は何一つ終わっていない。今、見つかるわけにはいかなかった。二人の足音が遠ざかって行く。額の汗が床に落ちた。 

 産まれてきたのは、やはり双子の男子だった。あの老人が言った通りだ。男は、そのうちの一人を他人の赤ん坊と交換しなくてはいけなかった。だから妻が妊娠すると、いい加減な警備しか施されていない産婦人科医院を探した。誰も見ていない時に勝手に新生児室へ入れることが条件だった。

 隠れていたカーテンから首を出して廊下に誰もいないこと確かめると、さっさと行動に移った。取り替える赤ん坊はどれでもいい。どうせ直ぐに殺してしまうんだ。

 男は自分の息子である双子の前に立つと、一人を隣のカプセルに

寝ていた他人の赤ん坊と交換した。すぐに手首に付けられた両方の青い名札も取り替える。女の子は赤い名札で、隣にいたのが男の子でよかったと思う。幸い、血液型も同じだった。次は二人が着ている青いガウンだ。親の氏名がマジックで書かれているので交換しないわけにはいかない。これには手間取りそうだ。小さ過ぎて遣りづらい事はなはだしい。額に流れる汗の量が一気に増えていく。

 いいか、何としてでも遣り遂げるんだ、男は自分に言い聞かす。やっと老人との約束を果たす時がやってきた。失敗するわけにはいかない。すべてが……そうだ、すべてがここから始まるんだ。

 

   02

 

 老人と会ったのは5年前で、それが最初で最後だった。

 当時、男は鳶職の見習いとして地元の小さな会社で働いていた。高い所での作業がほとんどで、常に危険と背中合わせ。こき使われて辛いのに給料は少ない。いつ辞めてやろうかと思いながら出勤する毎日だった。面白くない。もっと金が稼げて楽な仕事を見つけて転職したい。

 中学二年の夏から付き合っていた女だけが唯一の心の拠り所だった。水泳部で一緒で、お互いが学校の代表選手だ。女は運動だけでなく頭も良かった。男が高校進学を諦めて働き出したのは、金を稼いで早く二人で所帯を持ちたいからだ。それが突然、「会社に好きな人ができたの」と言われて、あっさり捨てられる。相手は営業でトップの成績を叩き出す二十代後半の先輩だと言う。木更津駅前の分譲マンションに一人で住み、週末は新車で買った黒いセリカのコンバーチブルを乗り回しているらしい。マジかよ。そんな奴には逆立ちしたって勝てるわけがないぜ。「お前の好きにしてくれ」と言って立ち去るしかなかった。

 本気で愛していただけに酷く落ち込んだ。派手に遊んで気を紛らわしたいところだが、金がないからそれも出来ない。賭け事に手を出して一攫千金を夢見たが僅かな有り金を失ってしまう。友人から借金して負けた額を取り戻そうとしたが損失だけが増えた。何をしても上手くいかない。八方塞がり。不満は募り、世の中に嫌気がさして自暴自棄に陥る寸前だ。何の希望もなかった。このままで人生が終わるんだろうか。それなら何か大きな悪事を働いて社会に復讐したいという気持ちが強くなっていく。

 それしか自分の存在を示す方法がない。このままだと社会の小さな歯車として消耗させられて、無意味に一生が終わってしまう。だったら、そうなる前に世の中に対して衝撃を与えたい。

 八月の暑い日だった、男は親方に「久しぶりに実入りのいい仕事が見つかったんだ」と言われて東京の高円寺まで連れていかれた。うちの会社が扱う現場にしては遠すぎると、みんなが思う。雇い主の笑顔と社員の待遇は大抵が反比例だ。きっと大変な仕事に違いないと覚悟していた。が、古い一軒家の解体作業で別に難しい作業ではなかった。

 東京にしては家の土地が広く、道路に面した間口もそこそこあるが住居までの奥行きが長かった。敷地の回りには高い木々が立っていて、近所とは隔離された別の世界を作り上げていた。晴れていても、その場所だけは薄暗い。どこかに巣があるのだろうか、何羽もカラスがいて、その泣き声がうるさい。どことなく異様な雰囲気だった。

 いつもと違って同僚たちは無言で仕事を始めた。馬鹿な冗談、卑猥な言葉が全く飛び交わない。動きも鈍くて朝から疲労困憊しているみたいに見えた。すると、すぐに一人が何でもない作業で手を切った。続いて、また一人が急に気分が悪くなって座り込む。頻繁にカラスが奇妙な泣き声を立てた。昼までには残りの連中ほとんどが気味が悪い家だと言い出して仕事を拒んだ。親方は手当てを増やして社員を働かせるしかなかった。

 作業中に同僚たちが話している内容を耳にすると、この古い家の解体はどこの会社にも敬遠されて、とうとう千葉県の君津に住む親方に仕事の話が回ってきたらしかった。仕事を断られる度に、家を解体する提示額が上がっていったのだ。

 男は見習いで仕事を拒めるような立場になかった。不満を口にすれば殴られるだけで手当てなんか増えない。午後の休憩時も社員全員の飲み物を近くのスーパーまで買いに行くという雑役が待っていた。

 二十本近い缶ジュースを入れたビニール袋を抱えて現場まで戻ってきた時だ、敷地内の片隅で高い木と木の間に隠れるように中学生ぐらいの少年が立っていることに男は気づく。何だ、こいつ。手で左の耳を押さえているぜ。こんな所で何をしているんだ。「どうした?」声を掛けたが返事はなかった。よく見ると耳を押さえた手に血が付いていた。「ちょっと、待ってろ」

 男は同僚に缶ジュースを入れたビニール袋を渡すと、急いで少年のところへ戻った。「すぐそこにガキがいて、怪我をしているみたいなんだ」と言ったのに不思議なことに誰も関心を示さなかった。立ち上がって各自、自分の飲み物を取ると静かに元いた場所で休む。口すら利かなかった。何だよ、冷てえ連中だなあ。改めて、この会社が嫌になった。

 「お前、怪我しているんじゃないのか?」

 少年は同じ場所でしゃがんでいた。男は横に腰を下ろして傷の具合を見てやろうとした。ところが、それを待ち構えていたように少年が素早い動きで身を寄せ、男の肩に手を回してきた。とっさに逃げようとしたが体勢が悪かった。その場に、少年とは思えない強い力で押さえらてしまう。抵抗できなかった。恐怖で体が固まる。何をされるのかと恐る恐る少年の顔を窺うと、その目が一瞬だが赤く光った。こいつは人間じゃない。蛇に睨まれたカエルのように動けない。ダメだ、殺される。

 少年の口が開く。噛み付かれると思って反射的に顔を叛けた。ところが、そうじゃなかった。話し始めた。驚いたことに、しゃがれ声だった。まるで老人のような……。

 話し続けた。男は弱々しく頷くしかできない。しゃがれ声が発する言葉を黙って聞いた。少年なんかじゃない、かなり歳を取った老人だ。そう確信した。

 この場所に男が来るのを老人は何年も待っていたと言う。なぜ、どうして? 理解できない。意外なことに協力を求めていた。こ、このオレに? な、何を?

 何か恐ろしいモノに襲われたという恐怖感は薄れていく。だが言われたことには逆らえそうにない思いは強かった。最後は、外見こそ少年だが中身は老人である男への同意を示すために、彼の手に付着した血を舐めさせられた。

 うっ。

 強烈な痺れが舌先から全身に走った。ただの血じゃない。毒じゃないのか? 騙されたらしい。目の前が真っ暗になって、意識が遠のいて行く。なんとか気を失わないように必死に堪えた。

 しばらくすると遠くから声がした。「おい、大丈夫か?」次第に、その声が近づいてくる。「しっかりしろ」「おい!」「起きろ」激しく体を揺さぶられて男は目を開けた。地面に寝ていた。そばにいたのは会社の同僚たちだ。みんなが心配そうに自分を見ていた。どういうことなんだ? 首を回して少年の姿をした老人を捜したが、どこにもいなかった。「あの老人--いや、違う。あの少年はどこ?」男は仲間に尋ねた。

 「お前、大丈夫か?」尋ねたことには誰も答えてくれず、逆に親方が訊いてくる。その声には本気で心配している響きがあった。

「……は、はい」真剣な表情に圧倒されて、そう答えた。

「意識が戻って良かったな」

「……」良くも悪くもない。ずっと意識はあった。何も変わっちゃいない。だが立ち上がろうとすると体に鈍い痛みが走った。えっ、何でだ?

「おい、無理するな」、「まだ寝ていろ」、「動くんじゃない」と病人に対して言うような言葉を次々に浴びる。

「……」連中の言う通りだ。痛みで動けそうになかった。老人の血を舐めただけで、こんな事になるのか?

「どこが痛い?」

「体が……、こ、腰のあたりが……」

「頭はどうだ、目眩はするか?」

「いいえ、しません」どうしてだ。なんで、そんな質問を次から次へとしてくるのか……。「あの老人、あっ、いや、少年は、どうしました?」一番、気掛かりなことを訊いた。

「……」みんなの顔が困惑している。

「あの少年は、どこにいるんです?」繰り返す。

「少年、て誰のことだ?」

「誰って、……耳を怪我した少年です」

「そんな奴はいないぜ」

「いや、そんなことは--」

「俺たちの他には誰もいない。お前は頭を打って錯覚しているんだ」

「いえ、頭なんか--」

「覚えていないのか? お前は屋根から落ちたんだ」

「え?」

「足を滑らせて屋根から落ちたんだよ、お前は」

「……」それで体が痛いのか。少し納得する。

「気を失っていたからな。それで頭が混乱しているんだろう。どうだ、医者に行かなくても大丈夫そうか?」

「は、はい……、大丈夫です」もし医者へ行けば面倒な事になる。金も掛かる。後で嫌味を言われるに決まってる。

「よし。お前は少し休んでいていい。動けるようになったら呼べ」

「わかりました」

 男は一人になりたかった。混乱している頭の中を整理したい。屋根から落ちたという記憶はなかった。でも仲間は、自分が屋根から落ちたと口を揃える。そして少年の姿は見当たらなかった。さっぱり分からない。夢だったのだろうか。確かに老人の話は突拍子も無いものだったが。『鏡を探し出して破壊しろ』、また、『双子の子供が産まれてくる』とか……。

 男は身体を恐る恐る動かしてみた。うっ。痛みは走るが、さっきよりは良くなっている。打撲だけで骨折はしてないようだ。軽傷で助かった。『休んでいていい』と言われて休んでいられるほど甘い会社じゃなかった。なんとか立ち上がれた。少しでも早く仕事に戻らないと。作業服に付着した土を払った。その手を無意識に口元に運んで唇を拭う。濡れているみたいな不快感があったからだ。戦慄が走った。戻した手に赤い血がついていた。頬、口元、口の中と切り傷を探してみたが、どこにもない。自分の血液ではなかった。もしかして……。うっ。舌で唇に触れてみると、痺れるような苦い味がした。やっぱりだ、あの老人の血だ。間違いない。

 うわっ。

 驚いて首を竦めた。真後ろでカラスが死の恐怖に怯えるような声で鳴いたのだ。

 

 

   03

 

 それ以後、男は老人の存在を日増しに強く感じるようになっていく。聞かされた話を信じたわけではなかったが、すべての事が都合よく回り出す。早く辞めたいと思いながら勤めていた会社では、ベテランの従業員が家の事情や病気、喧嘩などを理由に次々と辞めていった。おのずと親方は男を頼るしかなくなる。どんどん仕事を覚えさせて任せていく。一人前になるのに時間は掛からなかった。それなりに給料は上がり、専務という役職まで得た。そして婿養子として迎えられて親方の一人娘と結婚する。ハワイへの新婚旅行中だった、帰国する前日の早朝に親戚からシェラトン・ワイキキの部屋に国際電話が掛かってきた。親方夫婦が運転するベンツが東名高速で起きた多重衝突事故に巻き込まれたという知らせだ。自動車は飲酒運転をしていた大型トラックの下敷きになって大破。二人とも即死だった。男の肩書きは専務から代表取締役に変わった。

 ある日のこと、木更津にあるスーパーで従業員数人を連れて買い物をしていると、三年前に別れた女に出くわした。車椅子に乗る男と一緒だった。向こうも動きを止めたから、こっちに気づいたのは間違いない。でも、すぐに女は視線を逸らした。手にしていた洗剤を商品棚に返すと足早に通り過ぎて行く。慌てて車椅子の男が追いかける。驚いたことに女は、すっかり若さを失っていた。初々しかった色気は影も形もない。タイトなジーンズを好んで穿いて腰から太股のラインを強調していたのに、その日は身体の線が見えないジャージ姿だった。背中まで伸びた自慢のストレート・ヘアも普通のショート・ボブに変わっていた。連れて歩きたいと思わせる女ではなくなっていた。捨てられて悔しかった思いを長く引き摺っていたが、それが一変に消えてなくなる。帰りに駐車場で、また顔を合わす。車を停めた場所が近かったのだ。女は車椅子の男が助手席に座るのに手を貸しながら、もどかしいのか「もう、早くしてったら」と辛辣な言葉を吐いた。そして急いで運転席に座ると、逃げるように色褪せた赤い軽自動車で立ち去った。それを男は義父の保険金で購入した白いメルセデス・ベンツ230Eのウインドウから見ていた。女がターンしてスーパーの駐車場から出て行くとき、一瞬だが目が合ったような気がした。

 この時ほど老人の存在を強く意識したことはなかった。男は約束を果たす為に子作りに励んだ。妻が妊娠すると医者に超音波検査を急がせた。腹部と経膣の両方で子供が双子だと分かると、課せられた役目に気持ちが高ぶった。とうとう出番が回ってきた。産まれてきた子供にオレが『血の洗礼』という大切な儀式を行うのだ。

 その犠牲は大きい。精神の錯乱、または心神喪失を主張しても認められる可能性は低いだろう。殺人だから、まず執行猶予は期待できない。十年以上の懲役刑を食らうことになりそうだ。

 でも男に、それを老人への報いとして行うという気持ちは少しもなかった。確かに老人に会わなければ社長という地位につくことはなかったに違いない。メルセデス・ベンツという高級外車のハンドルを握ることも考えられない。こき使われ続けて惨めな人生を送っていたはずだ。だから感謝はしている。しかしそれが大きな代償を払う理由ではなかった。男は老人の魂を世に送り出す手助けが出来ることに大きな喜びを感じていた。

 忌々しい鏡によって老人は棺の中に閉じ込められたらしい。それが取り除かれた今、再び蘇ろうとしている。楽しみだ。出来ることなら男は鏡を探し出して永遠に葬り去りたかった。そうすれば老人が恐れるモノは存在しなくなる。

 産婦人科の新生児室で行う行為を考える時、決まって二つの鳥類の生態を思い起こす。イヌワシとカッコウだ。イヌワシは卵を二つ産むが孵化する日をずらす工夫をしている。最初に孵ったヒナは遅れて孵ったヒナの頭をクチバシで突いて殺す。母親は見て見ぬ振りだ。つまり遅れて孵ったヒナは、最初に孵ったヒナが上手く育たなかった場合のスペアに過ぎない。厳しい自然界で確実に子孫を残していこうとする術らしい。

 カッコウは托卵という習性を持つ。ホオジロ等の巣に卵を産み付けて育ててもらうのだ。カッコウのヒナは短期間で孵化するので、ホオジロの卵やヒナを巣の外へと押し出して殺してしまう。我が子を殺されながらカッコウのヒナにエサを与え続けるホオジロ。これらの事はテレビの番組を見て知った。こんなに残虐で犯罪的行為が自然界に存在するとは驚きだった。だから忘れなかった。まさかテレビの番組を見たとき、いずれ自分が同じような行為をするとは夢にも思わなかった。

 

    04

 

 手放す方の息子に、やっと青いガウンを着せるのが終わった。三つの小さなボタンには手こずった。一息つく。額の汗を作業服の袖で拭った。ごめんよ。他人に育てさせる我が子に心の中で謝った。

 ずっと今まで子供なんか好きじゃなかった。うるさく騒々しいだけの存在で、近所で遊ぶガキどもを怒鳴ったことが何度もある。それが、どうだ。自分の息子が産まれた途端に気持ちは逆転した。愛おしくて仕方がない。出来ることなら二人を手元に置いて育てたかった。

 お前を手放すことになるが、愛していないわけじゃない。もちろん、お前をスペアの息子とも考えていない。いつか会いに行くからな。お前の成長した姿が見たい。それまで精々、好きなだけ悪事を働いてくれ。

 えっ、ウソだろ?

 男は驚きに一瞬だが身を引く。赤ん坊が目を開けたのだ。それもハッキリと。まるで父親の謝罪を受け入れたかのように。その目つきは好奇心に溢れ、聡明さを窺わせるものがあった。こいつは賢くなりそうだ……。ああ、しまった。急に後悔の念に襲われる。こっちを手元に残すべきじゃないのか。そうだ、そうしよう。早く終わらせる事が最も大切なのは分かっているが、男は着せたばかりのガウンを脱がせ始めた。初めから遣り直しだ。時間はなかった。いつ見回りの看護婦がやっくるか分からないのだ。ラチェットでクランプを鉄パイプに取り付けて足場を作っていく作業とは勝手が違い過ぎる。ちっ。上手く行かない。手先は器用じゃなかった。デリケートな細かい仕事には向いていない。どんどん焦る。この三つの小さいボタンが憎い。額に流れた汗が目に入った。畜生っ、ダメだ。男は諦めた。優秀な子を手元に残すことよりも、誰にも見つからずに赤ん坊の取り替えをやり遂げることが大切なのだった。このままで行く。それしかない。

 雑念を振り払うかのように、取り替えた他人の赤ん坊に自分の息子のガウンを急いで着せようと身を屈ませた時だ。甲高い声を背中に浴びた。

 「何、してるんですか?」

 全身が凍りついた。絶体絶命。その声からして小太りの口うるさい婦長に違いなかった。嫌なヤツに見つかっちまったもんだ。この女もこの場で殺すか? 一人殺すも二人殺すも、こうなったら同じ事だ。ポケットには小型のナイフが忍ばせてあった。仕事で使うヤツで、持っていても不自然じゃないように仕事を終えたばかりの作業服姿で産婦人科病院へ来たのだ。

 「この部屋に入ってはいけませんよ」婦長が近づいてくる。「何をしてたんですか? 誰ですか、あなたは?」

「……」男は返事ができない。体を動かすこともできなかった。

 この状況をどう打開すべきかと必死で考えた。でもパニックで何も頭に浮かばない。汗すら止まった。もう寒いくらいだ。このクソ女も殺すしかなさそうだ。

 「警備員を呼びますよ」背が低いくせに、この時とばかりに高圧的な態度だ。

 そうか、なるほど。新生児室まで入ってくるまで気づかなかったのは、婦長がスニーカーを履いていたからだ。これじゃ、足音は聞こえてこない。男はポケットの小型ナイフを握った。

 「す、すいません。黒川と言います。子供のガウンが脱げていたので着せてやろうと思って--」マジかよ。信じられねえ。自分でも驚きだ。こんな上手い嘘が咄嗟に口から出てくるなんて。

「え? あら、本当だ」婦長の厳しかった表情が少し和らぐ。男の手から赤ん坊の青いガウンを取り上げて、胸のところに書かれた名前を確認した。「お父さんですね。困りますよ、勝手に入ってこられては」

「すいません。風邪でもひかれたら大変なことになるかと--」

「ここは冷暖房完備です。ご心配には及びません」言いながら婦長は手早く赤ん坊にガウンを着せていく。「後はやりますから、出て行ってください」

「わかりました」男は大人しく踵を返した。『血の洗礼』は日を変えてやれば……。

 え、……ちょっと、待てよ。

 ドアに向かって一歩を踏み出したところだった、ある考えが頭に浮かんだ。この新生児室に何か赤ん坊を殺す凶器になりそうな物はないか? 姿勢はそのままにして目だけで探す。近くにピンセットが置いてあった。これは使えそうだ。無意識にも口元が緩む。今日のオレは冴えてるな、そう思うとポケットに忍ばせてあった小型ナイフを取り出し、振り向いて一気に婦長に襲い掛かった。

「ぎゃーっ」

 

 

   05 

 

 「ねえ、ちょっと危なくない?」

 横を歩く高校三年生の女が訊いてきたので少年は答えた。「心配ない、大丈夫さ。ここには何度も来ているんだ」

 四つ年上の女が怖がっているのは当然だった。二人は夜の八時半を過ぎた富津岬の展望台にいた。人から無理やり借りた白いクラウンを駐車場に停めて、展望台の階段まで歩いて来る途中で何台かの若い男たちが乗るスポーツ・カーの前を通り過ぎた。好奇の目を注がれているのを強く感じた。若い女を連れた中学生くらいの男子が無免許で車を運転して来たのは誰の目にも明らかだ。暇を持て余した連中にとっては、ちょっかいを出す格好の獲物に違いなかった。

 「帰ろうよ」女が言う。

「どうして? せっかく、ここまで来たんだぜ」

「駐車場にいた連中ったら、あたしたちのことジロジロ見てたわよ」

「それが、どうしたのさ」

「何だか怖いわ」

「平気さ。ここからの夜景は綺麗だぜ。絶対に見て帰るべきだ」

「……」

「しっかりしてくれよ。いつもの潤子さんらくしないぞ」

「……わかった。じゃ、早くしよう」

「そうこなくっちゃ」

 高校三年生の潤子と二人だけで会うのは今日が三度目で、少年はモノにする気でいた。ただし今回は、いつもと違うやり方を用いるつもりだった。

 初めて潤子を見たのは君津にあるアピタのマクドナルドだ。数人の友人達と一緒にハンバーガーを食べていた。タンクトップにジーパン姿の男が隣にいて、そいつは態度から潤子に好意を持っているのが窺えた。でもボーイフレンドではなさそうだ。

 目鼻立ちがハッキリしている潤子はグループの中で特に目立っていた。本人も自覚しているようで、ワンレングスの黒髪を優雅に揺らして誰よりも大きな声で笑い、仲間のフレンチフライを勝手に取って口に運んだり、全く遠慮することがなかった。まさに笑いの中心。頭も良さそうで好みのタイプだ。大人の女になりつつある身体が発散させる初々しい色気にはそそられた。

 少年は潤子がアルバイトをしている地元のスーパー・マーケットを探り出して、そこで働くことにした。すぐに仲良くなった。映画に誘うと、ちょっと驚いた様子を見せた。当然だろう。少年は身長が百六十センチしかなくて、潤子よりも五センチも低かった。彼女としては可愛い弟みたいな存在として見ていたのに違いない。だけど中学生にしては自信に満ちた態度と、頭の回転の早さに不思議な魅力を感じていたはずだ。

 その日は白いクラウンで彼女の家まで迎えに行く。中学生なのに自動車を運転していることで、助手席に乗ることを最初は躊躇う。「大丈夫だよ。兄貴の免許を借りてきているんだ。警察には捕まるもんか」そう嘘を言って安心させた。映画『ドクター・ドリトル』を見た後はファミリー・レストランへ行ってお喋りを楽しんだ。

 私はお姉さんよ、という目上の接し方は少年が優しくエスコートすることで次第に対等な立場に変わった。会話の中で豊富な知識とユーモアを披露すると尊敬を得るまでになる。この子は普通の中学生じゃないという認識を彼女に植え付けた。

 そうさ、オレは潤子がこれまでに付き合ったことがない、また想像もしたことがない特別な男なんだぜ。

 食事が終わってクラウンに乗り込む時には少年が年上みたいな立場に逆転していた。お互いに楽しいひと時を過ごす。だけど潤子は貞操観念の堅い女で、身体には触れさせようとはしなかった。キスをしようとすると何か話を持ち出して雰囲気を変えた。

 ま、いいさ。この次があるんだ。

 大抵の女は、少年が赤い目で視線を注ぐだけで簡単にモノにできた。少年は女好きだ。ただ賢い潤子には、この手を使わないことにした。甘い言葉で口説いたりしないで、恐怖心で服従させることにしよう。

 しかし特別な女、つまり本命と目星をつけた、優れた女は自分だけの能力だけでは無理だった。仲間を募って全員の意識を集中せさて大きなパワーを得る必要があった。

 

 富津岬の夜景は星が沢山見えて期待通りに綺麗だった。だけど潤子は早く帰りたがっていて十分に楽しんだ様子はない。

 「坊や、小学校の帰りに寄り道しちゃダメじゃいか」

 案の定だった。駐車所で男連中の前を通り過ぎると後ろから言葉を浴びた。体の大きそうな奴が黒いインプレッサのボンネットに腰掛けていた。キザな野郎だ。長髪で、サングラスを額に掛けて前髪が下りてこないようにしている。そいつの声に違いなかった。合図したように仲間が、ドッと笑う。四人だ。他には誰もいない。連中は夜の富津岬に刺激を求めに来ていて、未成年の男女が展望台から帰ってくるのを首を長くして待っていたのだ。梅雨に入る前の初夏みたいな陽気と適度な湿度は、愚か者が理性を失って取り返しのつかない行動に出るのを後押ししていた。潤子は少年が何も言わずに無視してくれると思っていたはず。なのに気持ちを裏切る言葉が富津岬の夜に響く。

 「バカヤロー、うるせいっ」唾を飛ばすような辛辣な言い方だった。相手を怒らせるには十分だろう。

 一瞬、静寂が流れた。

 連中は期待もしていなかった言葉が返ってきたので虚を突かれた様子だ。横で潤子が身を堅くするが分かった。一番驚いたのは彼女に違いない。恐怖に凍り付いたらしい。

 「てめえ。おいっ。今、何て言った?」

 体の大きいリーダー格の男が直ぐに近づいてきて、少年の襟首を掴んだ。そのままクラウンに押し付けられて爪先立ちを余儀なくされる。

 「謝って、黒--」

「喋るなっ、潤子」少年は女の声を途中で遮った。

「小僧、女の前だからって粋がってんじゃねえぞ。おいっ」男は中学生みたいな子供から罵声を浴びて逆上している。どう落とし前をつけるのか仲間が後ろから見ていた。

「……」

「おい、何とか言えっ」 

「……」少年は返事をしない。

「御免なさい。許して下さい」潤子だ。残りの三人もやってきて回りを囲まれていた。絶体絶命の状況。

「黙っていろ」少年が声を出す。

「おい、小僧。よし、オレが目上の人に対する口の利き方を教えてやろうじゃないか」そう言うとリーダー格の男は襟首から手を離して、右手の拳を振りかざした。「むぐっ」

 それが狙っていた相手の頬に突き刺さるよりも早く、少年の左拳が脇腹に飛んできた。衝撃で身体が二つ折りになった。顔が歪む。肝臓が痙攣を起こし、苦い胃液が逆流して口の中に溢れているはずだ。呼吸困難。額には冷たい汗が広がる。そのまま腹を抱えて倒れこんだ。「うっ、うう」陸に打ち上げられた魚みたいに全身を波打たせて苦しみ始めた。

 「あっ」仲間の一人が声を出す。

「てめえ、ふざけた真似しやがって」他の一人が続いた。

 そして残った三人が一斉に少年に襲い掛かった。慎重に考えればリーダー格の男をボディブロー一発で倒されたのだから、目の前の相手は体こそ小さいが相当に喧嘩慣れしていると気づくはずだ。だけど馬鹿ほど理性よりも衝動が先に立つ。少年の思う壺だ。潤子が顔を押さえて震えているのが横目で見えた。今にも泣きそうだ。

 少年の動きは早かった。ステップは軽く、上半身を巧みにスイングさせて向かってくる一人ひとりの顔に、両方の人差し指と中指を突き出す。迎撃の全てが一瞬で連中の眼球を砕く。ほぼ同時に三人が顔を手で押さえて、その場に崩れ落ちた。視力を奪われた愚か者たちは途端に戦意を失う。強烈な痛みが追い討ちを掛ける。頭の中では恐怖が生まれているに違いなかった。押さえている手を濡らしているのは生暖かい血だ。これは涙じゃない。もしかしたら目が見えなくなるかもしれない、という。

 その通り。軽い気持ちで起こした馬鹿な行為が一生を闇の中で暮らす悲劇を生んだのさ、お前ら。おめでとう。

 リーダー格の男は苦しみながらも一部始終を見ていた。仲間全員が両目に手をやってしゃがみ込んでいる。

 「おい、江藤。どこにいるんだ?」

「ここだ、井口。目が、……目が見えねえ、助けてくれ」

「だめだ、オレも見えないんだ」

「痛え。すげえ、目が痛え」

 びっくりした様子で潤子が佇んでいた。さあ、ここからがショーの始まりだ。

 少年はリーダー格の男の前に立った。すると男は腹を抱えながらも地面を這って逃れようとする。そいつの痛がっている腹に横から強烈なキックを見舞ってやった。「ぐえっ」人間のものとは思えないような声が聞こえてきた。動かなくなる。少年は腰を落とすと、恐怖の表情を浮かべて苦痛に喘いでいる男の両目にも二本の指を突き刺した。卵が割れるみたいな感触が指先に伝わる。すぐに真っ赤な血が目があった場所から溢れてきた。「ぐえっ」そいつの片手が脇腹から顔面へと移る。その瞬間、立ち上がった少年が二度目の蹴りを脇腹に入れた。今度は呻き声すらない。意識を失ったか? まだ早いぞ。これで終わりじゃない。オレに牙を剥いた代償だ。無力で無防備の愚か者に向かって容赦なく蹴り続けた。

 「死んじゃう。もう止めて、黒川くん」潤子が見るに耐えかねて声を出す。

「黙れっ、喋るんじゃない」少年が叱りつける。名前は言ってほしくなかった。

 目が見えなくなったから、こいつらが自力で富津岬から帰ることは無理だ。ここに誰かがやって来るのを待つしかない。きっと救急車を呼ぶことになるだろう。警察が事件として扱うことになるはずだ。そこで何を言うかは知らないが、たまたま夜の駐車場で出合った少年と女子高校生を指差すことは不可能に近い。女が口にした名前は手掛かりになるかもしれないが決定的ではない。それに切っ掛けを作ったのは連中だ。新聞が記事にしないことを期待しよう。自分の父親に知れなければそれでいい。

 「よし、帰ろう」少年は言った。

 潤子は小さく頷いて従う。不良たちに襲われるという恐怖は今、この子は何をしでかすか分からないという少年への恐怖に変わっているはずだった。このままモーテル『オアシス』へ直行だ。行きたくなくても、怖くて嫌とは言えないだろう。久しぶりに清々しい気持ちでクラウンのハンドルを握れそうだ。うふっ。何度も繰り返して聞かされる父親の小言を思い出す。

 「いいか。出来るだけ大人しく、静かにしているんだ。絶対に目立つような振る舞いは止めろ。能力を見せびらかすような行為は、お前自身を滅ぼしかねないんだ」

 わかったよ、もう二度としないから。そう答えて父親を黙らせるのが常だった。だけど現実的にそれは無理だ。たまにはこうして愚か者たちに制裁を加えてストレスを発散させないと。上手く誰にも分からない方法でやれば大丈夫なんだから。暴力は大好きで、愚かな連中を苦しめるのは楽しかった。

 

 

  06 14年後の1998年 ワールド・カップ フランス大会が開催された年 12月 

 

 期末試験の最終日で午後になると、午前中の喧騒が嘘のように校舎は静かになる。平郡中学を我が物顔に支配しているのはカラスの泣き声だった。

 職員室にいる教員の誰もが校舎に残っている生徒は一人もいないと考えていた。三階にある二年一組の教室で女教師と男子生徒が対峙していることは誰も知らない。その場所だけは空気が張り詰めていた。

 「先生、どうする気だ?」左の耳たぶが欠損している生徒が訊いた。顔には笑みが浮かんでいる。

「もう、あんたの自由にはさせない」二年一組の担任で英語を担当する女教師は答えた。「ここで最後よ」表情は強張っている。

「馬鹿なことを考えるんじゃない。先生の身体には--」

「うるさいっ。黙れ」こいつの言葉は、もう何も聞きたくない。女教師はポケットから、ゆっくり鏡を取り出す。

「……」生徒の顔から笑みが消えた。

「驚いた?」

「それをオレによこせっ」

 生徒が鏡を奪おうと向かってくると咄嗟に身を翻して窓際まで逃れた。パンプスでなくてスニーカーで来たのは素早い動きが出来るようにだった。捕まえようとして失敗した生徒が体勢を整える為に間ができる。その瞬間を逃さない。女教師は反対のポケットから、今度はシャンプーの容器を出して中の液体を生徒に噴射した。教室はガソリンの強い臭いで充満する。

 「うっ、畜生」可燃性の液体を浴びて染みが付いた学生服を見ながら生徒は言った。「オレを焼き殺そうっていう気か?」

「その通り」これからしようとする事を考えると震えが走るほど怖かったが、窓を通して背中に当たる太陽の日差しは暖かかった。

「無理だ、先生には出来ない」

「あら、そうかしら」強気を装った。

 生徒の言う通りだ。出来そうにない。相手は人間の姿をしているのだ。ガソリンをかけて火をつけるなんてことは、とても自分には無理だった。だけど、こいつを滅ぼさないと大変なことになることも分かっていた。

 転校してきてから僅か三ヶ月で、平郡中学の二年一組は崩壊したも同然だった。ほとんどの生徒が何かしらの問題を抱え、また精神的に病んでいた。このままでは学年が、次には学校全体がこいつに支配されてしまう。

 女教師は窓から差し込む太陽の光を鏡で反射させて生徒に当てようと試みた。神主から聞かされた話では、これで邪悪な存在を無力にさせられるらしい。

 「えっ」自分の目を疑う。鏡に映った生徒の姿が、自分の目で見ているのとは大きく違っていたのだ。映っているのは枯れ木のような老人の姿だった。やっぱりだ、こいつは悪魔に違いない。焼き殺さないと大変なことになる。女教師は覚悟を決めた。向かって来ようとする生徒に向けて太陽の光を反射させた。

 「あうっ」いきなり生徒が顔を押さえて苦しみだす。

「……」え、本当? 女教師は反射した光が相手に与える効果に驚く。 

 信じられない。鏡が反射した太陽の光が生徒に届いて、その部分を焼いていた。まさか、……こんな小さな鏡に、それほどの威力があるのか?

 相手の苦しみように怯んで、思わず鏡を持つ手を下げてしまう。光の反射が外れると生徒の苦痛も止まった。

 「ゲウウッ」人間の声ではなかった。獣の唸り声だ。

 生徒が手を顔から退けると、すっかり容姿も変わっていた。髪が真っ白で半分ぐらいが抜け落ちた。皮膚は死を迎える老人みたいに干からびて黒ずむ。女教師を憎しみに満ちた表情で睨むが、その目は赤く光ったと思うと直ぐに消えたりと点滅を繰り返す。弱っているのが明らかだ。

 ここで止めを刺すべきだ、と女教師は気を取り直した。鏡が反射した太陽の光で苦しむのは、相手が人間じゃない証拠だ。こいつは災いをもたらす呪われた存在なのだ。良かった。ガソリンを掛けて焼き殺す必要はなさそうだ。そこまで残酷には、とてもなれなかった。しかし滅ぼさなければならない。鏡で太陽の光を再び当ててやろと身構えた。

 ドスンッ。

 背後に大きな音がして注意を削がれた。教室の大きな窓に黒い布みたいなモノが張り付いている。その回りに飛び散る赤い液体も目に入った。血のようだ。うそっ、信じられない。外からカラスが勢いよく窓に追突したらしい。こんな事って有り得るの? でも急いで振り返った。止めを刺さなくてはいけないのだ。「だっ、誰?」

 目の前に知らない男が立っていた。そいつが両手を伸ばしてきて身体を押さえられた。「い、いやっ。だ、誰なの?」

「……」返事はない。

「は、離して。お願いっ」会ったこともない男だ。生徒に危害を加える女教師に気づいて止めに入ったのか?

 それなら勘違いもはなはだしい。こいつは生徒なんかじゃない。災いをもたらす呪われた--。女教師は恐怖に凍りつく。

 知らない男は床に落ちていたシャンプーの容器を手にしていて、残ったガソリンの全部を女教師に掛けたのだ。

 「拓磨、大丈夫か?」

 男の声を聞いたとき、絶望感に襲われた。父親だ。間違いない。

「ガウッ」

「ここは任せろ。お前は逃げるんだ」

「……」躊躇を見せる。

「いいから早く。とっとと出て行けっ」 

 生徒は頷くと意を決したように足を引き摺りながら教室を後にした。逃げられた。もうダメだ。女教師の身体から力が抜けていく。

 男がポケットから何かを取り出すと同時にマイルド・セブンの箱が床に転がった。手にしたのはライターだ。親指がレバーに掛かるのが見えた。今度は逆に自分が焼き殺されてしまう。そう思った女教師は反射的に男の手首に噛みつく。「あうっ」悲鳴が男の口から漏れる。思い切り顎に力を入れた。こいつの手首を噛み切ってやろうという気持ちだ。

 「うっ、畜生。このくそアマっ」女教師は怯まない。自分の歯が相手の肉に深く食い込んでいくのが分かった。大量の血が溢れてきた。全身が返り血で真っ赤になっていく。

 苦しい。

 女教師の身体が酸素を求めていた。口から呼吸したくて、顎の力を緩めるしかなかった。男はチャンスを逃さない。相手の手首に力が入るのが顎を通して伝わってきた。あっ、大変。ライターが点火する音が耳に届く。

 女教師は激しい爆発の衝撃で身体を吹き飛ばされた。机の角で背中を打ち、床に叩きつけられた。男から解放されて自由の身だ。逃げられる。しかし炎が自身を包んでいた。熱くて目が開けていられない。全身をナイフの刃で切り刻まれるみたいに酷く痛い。髪が皮膚が肉が焼かれる強烈な臭いが鼻を突く。息も出来ない。燃え上がる炎が回りの酸素を全て奪っているのだった。

 

   07 

 

 霊感が強いとは知らなかった。それを隠して我々を油断させたわけだ。なんて女だ。危ないところだった。息子が次からは気をつけてくれることを期待する。

 この裏切り者の女教師と一緒に焼死だ。同時に女が手にしている忌々しい鏡も焼けて割れてしまえだろう。もう使いものにはならないはずだ。そして息子は生き延びる。老人との約束がすべて果たせたことになる。オレの役目は終わりだ。好きなだけ贅沢もさせてもらった。もう悔いはない。

 他人に預けた息子にも二ヶ月前に会って話をすることが出来た。素晴らしい子供になっていた。左の耳たぶが無かったのは、老人の魂を受け継いでいる証拠だ。   

 十四年前に、この子を手元に置くべきじゃないかと思ったが、それは正しかったようだ。礼儀正しさの中に隠れた狡猾さ、頭の回転の早さ、レストランで食事をしていて随所に現れた。このオレが電気屋へ行く道順なんか訊いていないことは初めから見破っていたにも関わらず一言も触れない。つまらない世間話に、ずっと付き合ってくれた。なかなかだ。『私がキミの本当の父親なんだ』と告白して強く抱きしめたい誘惑を抑えるのが大変だった。

 うっかり一言、「そっくりだ」と口にしてしまう。それほど十九年前に会った老人の姿に容貌から仕種まで似ていたのだ。瓜二つと言っていいくらいに。この息子の反応は早かった。何一つ聞き逃さない注意力を持っていた。すぐに「何でもない。忘れてくれ」と否定したが信じてないのは明らかだった。用心しながら喋らないと大変なことになりそうなほど賢い奴だ。

 だかららと言って、教室から出て行った息子を見限っているわけじゃない。あれも大変な能力を秘めた子だ。愛しているし、期待もしている。ただ自分の力を過信したり、見せびらかしたりすることに不安を覚えた。

 小学校の低学年で因数分解を解いてみせたり、流暢な英語を披露したりして周りを驚かせたことがあった。注目を集めて気を良くしていたのを強く叱りつけた。中学に上がると喧嘩沙汰を度々起こすようになる。生意気な態度が気に入らないと上級生たちから目を付けられるからだ。体の大きな連中を倒して、クラスメイトから賞賛を浴びているのを嗜めた。虚栄心は弱点になる。つまり油断に繋がるのだ。

 炎に包まれた男の意識が遠退いていく。生きたまま体を焼かれる激痛にも関わらず、その表情は安らかだった。

 

 

  08 1999年 ノストラダムスが世界の終わりを予言した年 1月 

 

 へえ、なかなかやるじゃない。英語教師の加納久美子は、職員室で小テストの採点をしていて嬉しい驚きを覚えた。自分が担任を務める二年B組の転校生が満点を取ったのだ。完璧な回答だった。この子は一般動詞とBe動詞の区別を、しっかり理解していると感じた。中学二年生で、これはなかなかだ。

  クラスの副委員長である佐野隼人の点数が今回も悪くて、心配していたところだったので、沈んだ気持ちを少し回復させてくれた。成績が急に落ちていることで佐野隼人とは早急に話をしなければならなかった。

 三時限目は授業がなくて空き時間だ。職員室には加納久美子の他は高木教頭がいるだけだった。何かと話しかけてくる学年主任の西山先生がいなくて幸いだ。

 一月の半ばで天気は良く、窓からの日差しが加納久美子の背中を容赦なく照らしていた。椅子に座った時は心地良い暖かさを感じたのが、今では焼けるように熱かった。

 もう限界。席を立ち、カーテンを閉めようと窓際に近づく。校庭では体育の授業中で二年A組とB組でサッカーの試合が行われていた。加納久美子の頭に、去年のワールド・カップ フランス大会で日本代表が三連敗した苦い記憶が蘇る。アルゼンチンとクロアチア戦は仕方がないとしても、ジャマイカ戦はがっかりさせられた。

 サッカー好きで知られるタレントのジェイ・カビラは、日本代表がアルゼンチンに勝つかもしれないと試合前にニュース・ステーションでコメントしていたが、それには驚いた。ワールド・カップ初戦で、『マイアミの奇跡』の再現か? まさか、それは有り得なかった。

 あら、……まあ。校庭で行われていたのは、あまりにも一方的な試合だった。加納久美子のB組がA組を完璧に翻弄していた。あ、そうか。うちのクラスには4人もサッカー部のレギュラーがいることを思い出す。司令塔の佐野隼人、エース・ストライカーの板垣順平、ミッド・フィルダーの鶴岡正勝と鮎川信也だ。四人の連係プレーは巧みだった。ほとんどA組の生徒はボールを持たせてもらえない。動きも緩慢で、やる気すらなさそうにも見える。4-0と表示されたスコア・ボードを見て、その理由も分かった。 

 英語の小テストで満点を取った転校生の姿が目に入った。ハーフライン近くにポジションを取っていたが、ゲームに関わるようなプレーはしていなかった。チーム・メイトからボールのパスもなく、もっぱらこぼれ玉を追っている感じだった。勉強の成績はいいけど運動神経の方はイマイチっていうタイプかしらと加納久美子は思った。大きな事故にでも遭ったらしく、額に数センチの傷と左耳には怪我の痕があった。からかわれたりしていないだろうか、と心配もした。

 味方のゴール・キーパーからボールを受けた鶴岡が少し間をためて、敵のフォワード二人が近づいてきたところで鮎川にパスを出した。スペースに余裕が出来てボールをもらった鮎川は逆サイドにいた板垣に精度の高いロング・パスを送る。板垣は早いドリブルで敵陣内へと走り込む。その時、加納久美子の目にも相手ゴール前で待つ佐野隼人の姿が入った。左サイド奥まで切り込んだ板垣はバックスを引き付けると敵ゴール正面にクロスを上げた。フリーになった佐野隼人のヘッディング・シュートに期待したキックだ。しかし相手ゴール・キーパーは大柄で動きも早かった。完全に一対一だ。難しいシュートになりそうだ、と加納久美子は思った。どうなるか、と誰もが動きを止めて見ていた。そこに、いきなりB組の一人が走り込んできた。そしてボールが佐野隼人の頭に届く途中で、ハイジャンプすると強烈なヘッディング・シュートを放った。キーパーは反応できない。皆が呆気に取られた。ボールはゴールの隅に突き刺さり、5点目を決めた生徒はそのままネットに倒れこんだ。

 すごいっ! だれ?

 静寂。驚き過ぎて誰も声を上げない。遅れて体育教師のゴールを告げる笛が鳴った。倒れた生徒が、ゆっくり立ち上がる。小柄だ。え、うそっ。ゴールを決めたのは転校生の黒川拓磨だった。我に返ったB組のチーム・メイトが歓声を上げながら走って彼に詰め寄っていく。加納久美子も校庭へ飛んで行きたい気分になった。でも相手ゴール前で一人、まるで主役の座を降ろされた役者みたいに佐野隼人が佇んでいるのに気づいて気持ちは冷えた。

 「すごいじゃない」

 うわっ、びっくり。いきなり背後から声を掛けられて慌てた。そのハスキーボイスは、美術の安藤紫(ゆかり)先生に違いない。職員室へ入ってきたのは知らなかった。「やだ、驚かさないで」

「あ、ごめん。ごめん」

「見てたの?」相変わらずセクシーな姿の安藤先生だった。華奢な身体つきなのにバストとヒップは女らしく存在感を強調している。肩まで伸びる髪は少しだけウェーブがかかっていて、清楚な顔立ちと共に優しそうな雰囲気を醸し出していた。今日はチャコール・グレイのスカートに、キャメルのジャケットで決めている。中のポロシャツはライムカラーだ。完璧なファッション。どうして、こんな人が教師でいるの? 場違いも甚だしい。もっと華やかな場所で輝いているべき女性だ、と加納久美子は常に思っている。この君津南中学で知り合って、それ以来ずっと仲良しだ。

「見てたわよ。すごいヘッディング・シュートだった」

「見事としか言いようがないわ」

「勉強の成績はどうなの?」安藤先生が訊いた。

「優秀よ。英語に関して言えば先週に行った小テストで一人だけ満点だったわ。ほかの教科の先生たちも、これまでのところ黒川君のことはベタ褒めって感じだもの」

「ふうむ」

「いい転校生が来てくれたと思っている」

「良かったわね」

「……」それだけ? 当然、安藤先生が担当している美術での評価が返ってくるものと思っていた。それじゃ、優秀ではないってことなのかしら。「あなたの教科では?」加納久美子は訊いた。

「……」

「ねえ?」返事を促す。

「……彼って、すごく絵も上手なのよ」

「へえ」やっぱりか。だけど安藤先生が答えをもったいぶるところが腑に落ちなかった。どうしてなのよ、彼女らしくもない。

「中学生とは思えない」

「え」

「上手なんだけど……、すごく暗くて重い絵なのよ」

「どういうこと?」

「今にも嵐がやって来そうな荒れた海を、少女が一人で高台に立って眺めている絵よ。ほとんど色を使わなくて黒を基調にして描かれているの」

「……」加納久美子は黒川拓磨の父親が去年の暮れに亡くなっていることを思い出した。母親が学校に提出した書類を、教頭の高木先生から渡されたとき指摘された。まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないと驚いたのだった。きっと心に深い傷を負っているに違いない。

「どう、見たい?」

「え?」

「黒川君が描いた絵を見てみたくない?」

「う、うん」加納久美子は頷いた。「見せて」 

 あと数分で休み時間のチャイムが鳴るところだった。二人は三階の美術室へと急いだ。

 

    09   

 

 「えっ、……こ、これ、彼が描いたの?」

「そう」

「……」

 中学生が描いたとは思えない重苦しい絵を前にして、加納先生は言葉を失った様子だった。

「どう思う?」安藤紫は訊いた。彼女の意見が聞きたい。

「……」聞こえてないみたいに黙っている。

「ねえ?」

「……、すごい」

「でしょう」

「中学生で……こんな」

「彼、絵の才能を持っているわ」

「この女の子って誰なのかしら」加納先生は独り言のように言う。

「……」描いたのは自分ではない。だから答えようがなかった。

「きっと誰か特別な子なんでしょうね。だって彼女の肩には傷があるもの」

「そうだと思う」安藤紫は相槌を打つ。

「兄妹っていうことはないわ、彼は一人っ子だもの」

「あら、そう」安藤紫は嘘をつく。その事実は、とっくに知っていた。

「ええ」

「……」もっと何か加納先生が言ってくれるのを待った。ところが三時間目の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。

 「そろそろ職員室へ戻るわ」

「うん」会話が続けられなくなっていて、加納先生はホッとしたみたいだった。安藤紫は彼女を促すように応えた。「じゃ、またね」

 

   10

 

 転校生の黒川拓磨が描いた絵を前にして安藤紫は美術室に一人だけになってしまった。おのずと過去の苦々しい記憶が蘇ってくる。こんな状態に陥る自分を止められない。

 黒川拓磨の絵に対する加納先生の意見を聞こうとしたが時間の無駄に終わった。絵を見せたいがために、あえて会話をその方向へ持っていったのだ。聡明な女性で芯の強さを持っているから僅かでも期待を抱いていたのだが、やはり彼女には霊的なインスピレーションはなさそうだ。

 きっと描いた絵に父親を亡くした影響が現れているのだろう、と加納先生は思っているに違いなかった。でも、そうじゃない。けっして、そうじゃない。安藤紫は断言できた。

 なぜなら重苦しい絵に描かれた、左肩に傷のある少女は間違いなく中学二年のころの自分だからだ。

 空には黒い雲、風は強く、今にも大雨が振り出しそうだった。夏の蒸し暑い日で、肩の傷が露わになろうが構わずにタンクトップを着ていた。痛々しい痕が残って、その所為で自分は醜い女になってしまったと感じた。自暴自棄だ。誰かに見られて何と思われようが気にしない。もう、どうでもよかった。

 台風の接近で海は大荒れだった。千葉県の富浦にある祖父の家を、こっそり一人で飛び出して海岸までやってきた。死にたかった。これからどうなるのか、という不安に耐え切れなくなっていたのだ。

 物心ついたころから、ずっと母親は父親の女癖に悩んでいた。家庭に諍いは絶えなかった。母親が泣きながら父親に物を投げつける場面を何度も見せられてきた。それでも二人が離婚しなかったのは一人娘の存在だった。

 両親は紫を愛してくれた。父親と母親、どちらも大好きだった。それが故に二人が言い争うのは酷く心が痛んだ。

 父親はスーツが良く似合う細身の体に、白髪交じりで苦み走った鋭い顔をしていた。多くの女性が憧れるのも無理もないと思った。母親は何度も泣かされ、その度に謝罪を受け入れて許してきた。

 会社の上司だった父親の見栄えに一目惚れした事務員の母親だったが、それが彼女の人生を不幸に変えてしまう。

 安藤紫が中学一年の三学期を迎えたころ、クラスに転校生が入ってきた。背が高くて綺麗な子だった。母子家庭で、両親は父親の暴力が原因で離婚したらしい。彼女の母親と安藤紫の母親とは同じ年だった。父母会の役員をしていた母親は色々と相談を受けることになる。すぐに二人は仲良くなり、可哀そうと感じた母親は何かと世話を焼くようになった。親同士が親しいので次第に紫と転校生も仲良くなり、親友と呼べるようにまでなった。二つの家族が自宅で一緒に夕食を食べることも何度かあった。

 転校生の母親と自分の父親が不倫していることが発覚したのは中学二年の一学期だ。学校に来ていた母親の軽自動車のワイパーに誰かがメモを挟んで教えてくれた。これは今までとは違って、紫の母親を徹底的に打ちのめした。とうとう離婚を決意する。最後の話し合いをする為に、三人が自宅に集まった。安藤紫は二階にある自分の部屋にいて待つ。何をする気にもなれない。大好きな父親が家からいなくなる話し合いだ。気まずくて親友とは口を利かなくなっていた。ただ辛くて悲しい。アイワのミニコンポにプリンスの最新アルバムをセットしたが一曲目の『レッツ・ゴー・クレイジー』の途中で止めた。読みかけだった『アンネの日記』を開いてみたが内容が頭に入っていかなかった。

 居間から叫び声がした。人が争っているような物音が続けて聞こえてきた。母親のことが心配になって急いで階段を降りた。

 信じられなかった。母親と転校生の母親が掴みあっている姿が目に飛び込んできた。お互いに血まみれだ。父親は側で横たわり両手で自分の首を押さえている。何がどうなっているのか分からない。でも争っている二人の母親のどちらかの手に包丁が握られているのに気づく。お母さんが殺されてしまう。慌てて二人の母親の間に入って止めようとした。体当たり。三人が食器戸棚にぶつかり床に倒れ込む。安藤紫の肩の傷は、その時に出来たものだ。包丁を振り回していたのは自分の母親の方だった。わが子を切りつけたことを知って、やっと我に返る。父親の方は出血が酷くて意識がなかった。 

 母親は話し合っているうちに怒りが込み上げてきたらしい。席を立ち、台所から包丁を掴むと愛人へ襲い掛かった。しかし咄嗟に気づいて転校生の母親を守ろうとした父親を刺してしまう。それでも母親は怯まなかった。血を流して床に崩れる夫には目もくれず、愛人の方へ包丁を振りかざしたのだ。

 父親は搬送された病院で息を引き取り、転校生の母親は身体に何ヶ所も切り傷を負う。安藤紫の母親は逮捕された。裁判では過度のストレスによる心神喪失を訴えたが認められなくて服役することになる。安藤紫は祖父の家に引き取られた。一度に二人の親を失った思いだ。何度か刑務所に面会に行ったが母親は人が変わったみたいに何も喋らない。一人娘と目を合わそうともしなかった。拒絶されていると安藤紫は感じた。

 将来に対する夢や希望もなくなり、死にたいという気持ちが日増しに強くなっていく。その思いが、近づく台風の影響で荒れた海を一望できる高台へと安藤紫を歩かせたのだ。

 ジャンプすれば死ねる。ジャンプするだけで死ねるんだ。その考えが頭の中をグルグル回った。背中を押し続ける強い風に身を委ねるタイミングを計っていた。

 え、どこから? 

 子猫の鳴き声に気づいたのは、そんな時だ。 辺りを見回すと足元の側にダンボール箱が置かれていた。ミャー、ミャーという声はそこからだ。急いで歩み寄り、蓋を開けると中には汚れたタオルに包まれた黒い子猫がいた。差し伸べた安藤紫の手に頬を摺り寄せてくる。   

 うわっ、可愛い。きっと誰かが捨てたんだ。こんなところで可哀そう。このままでは飢えて死んでしまう。安藤紫の頭の中にあった『死にたい』という気持ちは『この子猫を助けてあげたい』という思いに変わった。

 子猫を飼いたい、と言うと祖父母は快く承諾してくれた。少しでも孫娘が元気になってくれるなら、という思いからだろう。事実、子猫の世話をすることで新しい生活環境に慣れて物事を前向きに考えられるようになっていく。

 黒川拓磨の絵には、黒い子猫が入れられていたダンボール箱までしっかり描かれていた。背筋がゾクゾクするほど怖い。どうして、そこまで知っているのか? 

 理解できない事はまだあった。美術の授業で生徒たちに絵を描かせるとき、安藤紫は教室内を歩き回って彼らに色々と感想や助言を与え続ける。やる気を促すためにだ。だから生徒たちがどんな絵を描いているのか最初から把握している。ところが黒川拓磨の絵に限っては、回収して一枚一枚に評価を付ける段階まで何も知らなかった。つまり授業中に彼の席を素通りしていたことになる。有り得なかった。どうして? 

 黒川拓磨。一体、お前は何者なの? 会って、直に話しを訊くべきだろうか? いや、怖い。まだ、とてもそんな勇気はなかった。

 あの計画はどうする? 続けていけるだろうか。

 ずっと安藤紫は一人の生徒を探していた。君津南中学二年生の中にいることまでは分かっている。一年八ヶ月前に行われた彼らの入学式で、あの女を見たのだ。校舎から体育館へ行く通路で出くわした。安藤紫が職員室へ戻ろうと逆方向に歩いていたとき、数メートル先で急に立ち止まる父兄に気づいた。不自然な動き。反射的に顔が向く。目が合った。

 背が高くて綺麗という印象は変わりがなかった。さらに磨きがかかっている。色気があって大人の女の魅力に溢れていた。見ただけでは不十分だったろうが、相手の挙動が安藤紫に確信を持たせた。

 立ち止まったのは一瞬で、すぐに女は気を取り直して足早に横を通り過ぎて行く。もちろん挨拶はない。会釈すらしなかった。体育館の方へと向かった。

 その日、あの女の姿を二度と見ることはなかった。つまり入学式が始まる前に帰ったということだ。

 偶然にも再会して、あの女の子供が自分が美術を教える生徒の中にいるという事実を知って安藤紫の心に怒りが蘇った。

 あいつの母親の性衝動が原因で自分の人生は大きく狂った。死にたくなるほど苦しんだ。なのに、あの女は結婚して子供を産んでいる。反対に安藤紫自身は、いい男すら見つけられていない。ずっと幸せな家庭を持つことを夢みているにも関わらずにだ。

 これは不公平だ。いけない。是正されなければならない。これまで安藤紫の肢体で快楽を貪りながら、性欲が満たされた後に不誠実な行動を見せた男達は全員が罰を受けている。あの親子が何事もなく生きていていいはずがない。

 多くの男たちが結婚の話を持ち出した途端に態度を変えた。そして、いつも同じような台詞を聞かされた。

 『今は経済的に難しい』だったらベッドに誘う前に言ってよ、バカ!

『結婚生活を続けていく自信がない』あら、ベッドに入る前は自信満々におっ立たせていたじゃない!

『まだ結婚は早いって、親が反対しているんだ』いきなり親の話を出してきて、あんた小学生だったの!

 腹が立っても頭に浮かんだ言葉は一言も口にしない。『いいわ、わかった。だけど、それでもあなたが好きなの。こんなふうに時々逢ってくれたら、それだけで嬉しい』これが見切りをつけた時の台詞だ。都合のいい尻軽女を演じてやる。男は女の身体だけを目的に連絡してきた。逢うたびに安藤紫はペナルティと名づけた毒薬を男の飲み物に混ぜた。 

 殺しはしない。身体に障害を負わすのが目的だ。死んでしまったら面白くもない。       

 『最近になって急に視力が落ちてきたんだ』

『近ごろ疲れが酷くて』

 それらの言葉が聞かれたら毒薬の効果が出てきた証拠だ。負った障害は決して回復しない。ここで尻軽女の演技は終わる。

 『残念だけど、もう逢えないわ。あなたほど素敵な人じゃないけど、あたしを好いてくれる人がいるの。その人と結婚しようと思っている』これが別れの言葉だ。中には厚かましい男がいて、最後に一発やろうとせがんでくるのがいる。

 『だめよ。だって、お腹に赤ちゃんがいるの』そう言って身体には指一本触れさせない。

 失望させた男は全員が健常者でなくなる。残りの人生を障害を負って生きるのだ。安藤紫は浮気を繰り返す夫を何度も許した母親とは違う。受けた苦痛は何倍にもして相手に返してやる。あの親子にも同じ罰を受けさせてやりたい。ターゲットは奴らの孫であり子供である、この君津南中学に通う生徒だ。

 母親を確認できた生徒の名前を名簿から一人ひとり消していく作業が続いた。あの女の子供だ、きっとそれなりの顔立ちをしているに違いなかった。また、成績が良くない生徒、だらしなさそうな生徒は始めから除外した。一年半ほど掛かったが、その数を十人ぐらいに絞れた。見つけ出したら失明させてやりたい。生徒に罪はないが、これがあの親子に大きな苦しみを与えられる唯一の方法だから仕方がない。愛する孫、愛する子供が障害児になって、そこで美術教師の安藤紫が何かしたんじゃないかと、少しでも疑いを持ってくれたら大成功。だけど安藤紫は逮捕はされない。証拠は何一つ残すものか。怒りに我を忘れて刑務所に入れられた母親みたいな真似はしない。疑わしきは罰せず、だ。奴らには、あたしの恐ろしさを死ぬまで感じて生きてほしい。美術室にある机の引き出しには、その生徒のために用意したペナルティの白い粉末が用意されていた。

 だけど計画は思ったようには捗らず時間は残り少なくなりつつあった。一日でも早く生徒を捜し出して、一緒にインスタント・コーヒーを飲めるぐらいに手懐けないといけないのに、だ。黒川拓磨という転校生が現れたのは、新年を迎えて見直した計画を急いで進めようとしていた矢先だった。

 

   11

 

 放課後、職員室にいる加納久美子のところへ生徒が代わる代わる顔を見せる。部室の鍵を取りに来る水泳部の部員、担任するクラスの掃除が終了したと報告に来る生徒、大学入試レベルの英語で分からないところを訊きに来る優秀な生徒などだ。顧問を務める水泳部のクラブ活動が終了するまでの時間は、明日の授業で使うテキストを整理したりと準備を行う。 

 職員室のドアがノックされた。「失礼します」という声の後に生徒が入って来る。佐野隼人だった。サッカー部のキャプテンをしているだけに、痩せてはいてもアスリートらしい身体つきで、身のこなしには素早さが感じられる。学級日誌を届けに来たのだ。いい機会だ。手遅れになる前に成績のことで話がしたい。

 「何か変わった事ある?」いつも同じ質問をする。

「いえ、別に」いつも同じ答えが返ってきた。

「あ、そう」視線を合わそうとしない。避けている。成績が良かった頃の彼とは大違いだ。

「失礼します」

 「ちょっと、待って」加納久美子は生徒を引き止めた。

「……」

「勉強のことで話がしたいの。一体、どうしたのよ? すごく成績が落ちているじゃない」

「……」生徒が下を向く。

「何があったの?」

「いえ、別に」

「いえ、別に、じゃないでしょう」この言葉ほど嫌いな言葉はなかった。しかし生徒から最も聞かされるのが、この言葉なのだ。「心配しているのよ。どうしたの? 聞かせて」

「……」生徒が顔を上げた。でも言葉はない。

「ちゃんと教会には行っているの」加納久美子は話題を変えようと考えた。佐野隼人はクリスチャンだった。

「はい」

「そう」少し安心した。もし信仰心も無くしたとなれば事態は深刻だった。「何かに悩んでいるの?」このぐらいの歳になれば悩むことが手にあまるほど増えてるはずだった。恋愛、容貌、勉強、進路、親との関係、学校生活など数え上げたらきりが無い。それらに、どう対処して生きていくかが問題なのだ。

「……」顔は上げたままだった。

「ねえ?」加納久美子は促す。

「……先生」

「なに」何か言おうとしている。突破口が開けるかもしれない。

「先生は」

「うん」

「霊感ってありますか?」

「……、はあ?」一体、何の話よ。調子抜けしてしまう。

「……」

「どういうこと?」それと勉強と何の関係があるの?

「そのう……、つまり……、先生には霊的な体験がありますかっていうことです」

「なんで?」

「いえ、……ただ、訊いただけです」

「……」からかっているのか、という思いが頭を過ぎる。いや、そうでもないらしい。生徒は真面目な表情のままだ。ここは相手に付き合うべきだと考え直す。「ないわ。と、いうか良く知らないの」

「じゃあ、先生は金縛りに遭ったことってありますか?」

「寝ていて体が動かなくなったりすることね?」

「そうです」

「いいえ、ないと思う」

「そうですか」がっかりした様子を露骨に見せる。

「あなたは、どうなの?」

「僕ですか? はい、あります。霊の存在を感じることがあるんです」

「そう」それしか言いようがない。それとも、凄いわ、とか言うべきだったのか。

「ええ」

「ねえ、成績のことなんだけど--」話を戻さないといけない。

「先生」言っている途中で言葉を挟んだ。「転校生して来た黒川なんですが」

「え?」

「黒川拓磨のことです」

「どうかしたの、彼が?」

「あいつ、怪しいです」

 いきなり何を言い出すのか。「どういう事、……怪しいって?」

「何て言うか……」

「何かされたの?」

「いいえ」

「じゃあ、どうして、そんな事を言うの?」

「……」

「あなたらしくないわ。理由もなく人のことを悪く言うなんて」

 加納久美子の頭の中で、午前中に見たサッカーのゴール・シーンが蘇る。佐野隼人はシュート・チャンスを転校生の黒川拓磨に横取りされていた。それで腹を立てているのかしら、という考えが浮かぶが直ぐに否定した。そんな狭い了見の子じゃなかった。

「あいつは--」 

 生徒の顔は真剣そのものだ。その迫力に圧されて次の言葉を待つ加納久美子だったが、別の声に名前を呼ばれてしまう。

 「加納先生、一番に電話です」学年主任の西山先生だった。

「……」生徒が口を閉ざす。

「……」どうしていいのか分からず、間ができた。

「加納先生、板垣順平の母親から電話です」返事がないので西山先生が繰り返した。

「はい」加納久美子は佐野隼人の顔を見たまま声を出す。「ごめんなさい。また後で話しを聞くわ」生徒に謝って、右手を躊躇いがちに電話に伸ばした。

 

   12

 

 オレらしくなかった。オレがするような事じゃない。キャプテンの佐野がすべき事だろう。

 板垣順平は行動を起こすのに時間が掛かった。他の生徒に頭を下げるような行為はしたことがない。サッカー部のエース・ストライカーで、身長は百八十センチを超える。学校での存在感は抜群で、いつも周囲の注目を集めていた。こっちが知らなくても多くの生徒が会釈する。とくに女生徒からされると嬉しい。可愛かったり、美人だったりしたら尚更だ。しかし笑顔は見せない。常にクールを装う。

 下校途中、前方に転校生の姿を認めた。ショルダー・バッグを重そうにして歩いていた。体育の授業で見せてくれた、あのヘッディング・シュートの興奮が蘇る。あれは本当に凄かった。よっぽどの運動神経がないと出来ないプレーだ。身長は百六十センチぐらいだろうか、身体つきも痩せて華奢だった。それでいてゴール前に走り込んだ俊敏な動きとジャンプ力。人は見かけによらないと言うが、その通りだと実感した。

 さっそく休み時間にサッカー部のキャプテンである佐野隼人に、あいつを入部させようと提案した。ところが返ってきた言葉は、『うん、そのうちな』という乗り気のないもので、がっかりした。

 劇的なゴールを決めた転校生が、今こうして目の前を一人で歩いている。自分が声を掛けて、サッカー部への入部を誘ってみようかという気になっていた。

 三週間後には富津中学との練習試合がある。前の試合では2-3で逆転負けていたので、次の試合では絶対に勝ちたかった。

 その自信はある。なぜなら前回の試合では彼らの技量に負けた訳ではないという気持ちがあるからだ。個々のテクニックとチームワークは君津南中の方が上だ。

 負けた原因は一つで、それは富津弁だ。試合が始まると直ぐに、恫喝するような汚い言葉が飛び交い始めた。相手チームが仲間割れでも起こしたのかと思った。彼らが彼らなりに普通に意思を伝達しているだけだと知るまで時間が掛かった。けんか腰に喋ってるとしか感じられないのだ。観客の富津弁での声援も独特のものだった。いつものプレーが出来ない。方言に翻弄されて敗れた試合だ。

 鶴岡政勝はビビッて動きに精彩を欠く。クリアミスして失点。あのバカは役に立たない。司令塔の器じゃなかった。

 自分は自転車での転倒事故から体が完全に回復していなかった。前の試合は欠場を余儀なくされて感覚も鈍っていた。

 次の試合は君津南中学で行われる。絶対に2点差以上のスコアをつけて相手をギャフンと言わせてやりたかった。もしチームに転校生が加わってくれたら、もう鬼に金棒だ。

 板垣順平は歩調を速めた。「おーい」

 声を掛けると転校生は振り向いて、怪訝そうな顔を見せながらも足を止めてくれた。追いつくと同時に相手を褒めた。「さっきのヘッディング・シュートは凄かったじゃないか」言いづらくて舌を噛みそうだった。褒められることには慣れているが、飼っている犬のルルを別にして誰かを褒めることはした記憶がない。

 「ありがとう。だけど君が精度の高いクロスを上げてくれたから出来たプレーさ。感謝するよ」

「あはは。そんなことねえよ」その謙虚さ、気に入った。なかなかいい奴らしいな。こりゃあ、幸先いいぜ。「家はどこだい?」

「大和田だよ」

「そりゃあ、ちょっと学校からは遠いな。自転車通学の許可が下りるんじゃないの? 加納先生に頼んでみたら」

「うん。ほかの奴からも同じことを言われた。考えてみるよ」

「そうしろ。オレの家も学校から近いとは言えないけどな。途中までは一緒だ。実は話があるんだ」

「何だい」

 板垣順平は転校生と並んで歩き出した。身長で二十センチも違うとかなりの体格差だ。こんなに小さい奴が、よくもあんなプレーが出来たもんだと再び感心する。が、バルセロナのメッシとかイニエイタにしても他のサッカー選手と比べると小柄な方だった。それに気づいて身体の大きさは関係ないと納得する。相手のショルダー・バッグのチャックが開いていて中身が見えていたが、無視して入部の誘いを開始した。「前の学校では、サッカー部だったのかよ」もしそうなら話は早い。

「いいや」

「……」残念。そう上手く話は運ばないらしい。最短で、周西小学校の前を通り過ぎるまでに話は決まるかもしれないと期待したのだったが。

「部活はしていなかった」

「おい、おい」意外な答えが返ってきた。ちょっと待て、あの運動神経を眠らせていたっていうことか? まさか。「でも、何か運動はしていたんだろう?」そうでもしなけりゃ、あんなヘッディング・シュートは出来るもんか。

「ううん、別に」

「マジ? それで、あのプレーかよ。ちょっと信じられないな。すごいの一言だよ、本当に。ところで、こっちの中学では何か運動部に入るつもりはあるの?」

「わからない」

「どういう事だよ、わからないって? その運動神経を、どこかの部活で生かすべきだろう」

「そうかな」

「そりゃ、そうさ。もったいないぜ」何なの、この欲のなさ。理解できねえ。サッカー部に入って、今日みたいなゴールを決めればオレみたいにヒーローになれるっていうのに。

「ところで、ちょっと訊きたいんだけど」

「なんだよ」何でも教えてやるぜ。君津南中じゃオレが一番顔が広いんだから、という気持ちだった。

「ここでは映画同好会っていうのがあるって聞いたんだけど」

「はあ?」予想もしていない質問だった。自信が崩れる。そのカテゴリーは守備範囲外だ。

「映画同好会だよ」

「止めとけ」

「どうして?」

「女しか入っていないぜ」

「それがどうした?」

「B組の五十嵐香月と佐久間渚、山田道子の三人が始めたクラブなんだ。じっとして、ただ映画を見ているだけだぞ」そんなのに興味を持つなんて、どうかしてるぜ。

「だから映画同好会っていうんじゃないのか?」

「ん……ま、そうだけどな。しかし退屈だろう、二時間近くも動かないで座って映画を見ているなんて」

「映画は嫌いなのか?」

「好きじゃない。『タイタニック』を見に行ったけど字幕が早くて読むのに疲れた」

 渡辺香月と二人で初めて出かけたのが、その映画鑑賞だ。三時間近くも彼女の肩に腕を回していられたのは感激だった。香月の艶のある長い髪から漂ってくる甘酸っぱい香りに酔いしれた。座席から身を起こしたのは一度だけで、ローズがジャックの前で服を脱いだ時だ。香月に振り向かれて照れ臭い思いをした。あの頃に再び戻れたらいいのにな、と思った。

「誰と行ったんだよ?」

「え?」その質問も意外だった。

「誰と『タイタニック』を観に行ったのか訊いているんだ。まさか一人じゃ行かないだろう、あんな映画。ましてや好きでもないのにさ」

「うん。友達とだよ」

「女とだろ、一緒に行ったのは?」

「……」

「デートだったんだろう」

「よく分かるな」こいつ、なかなか鋭い。

「そりゃそうさ。誰だ、相手は?」

「誰にも言うなよ」声を落とす。もう学校中に知れ渡っていたが、お前だけには教えてやろうという態度を装う。

「もちろんさ」

「五十嵐香月だ」

「へえ。なかなか美人だよな、彼女は」

「まあな」心の中では、すっげえ美人だと絶賛している板垣順平だった。

「まだ付き合っているのか?」

「いいや、もう別れた。オレが振ったんだ」ここは声のトーンが高くならないように慎重に言葉を口にした。悔しさが滲み出ては威厳に傷がつく。

「どうして? もったいないじゃないか、あんなに綺麗な女を」

「いやあ、しつこくて参ったよ。毎日、電話してくるんだ。勉強も手に付かなかったぜ。女って、みんなあんな風なのかな」まったくの嘘で、香月から電話がないと不安で何も手に付かなかったのが事実だった。

「ふうむ」

「まさか五十嵐香月に気があるんじゃないよな?」もし、そうだったらヤバイ。よりを戻したいと願っている自分にとってライバルが一人増えることになる。負けるとは思わないが競争相手は少なければ少ないほどいいに決まっている。

「いいや、興味ない。もっと魅力的な女がいる」

「えっ」聞き捨てならない言葉が耳に届く。「誰だい?」

「……」

「おい、教えろよ。オレだって秘密を打ち明けたんだぜ。その女ってB組にいるのか?」

「うん」

「誰だ? うちのクラスには不思議なくらい綺麗で可愛い女が揃っているのは事実だけどな。わかった、篠原麗子か?」

「違う」

「じゃあ、佐久間渚だ。でも彼女は佐野隼人と交換日記している仲だから--」

「それも違うな」

「奥村真由美だろ?」

「ううん」 

「待てよ。まさか、手塚奈々かよ?」あの軽薄な女を選んだとしたら、こりゃ笑える。お前も手塚の長いセクシーな脚に心を奪われた男の一人になるわけだ。

「いいや」

「え、じゃあ誰だよ。目ぼしい女は全て言ったぜ」

「一人、残っている」

「はあ? わからねえな。五十嵐香月、篠原麗子、佐久間渚、奥村真由美、手塚奈々のほかにも誰か魅力的な女がいるって言うのか?」

「そうさ」

「B組だよな?」

「うん」

「さっぱり、わからない。教えろよ」

「いいよ。でも条件が一つある」

「なんだよ」

「その女とオレが仲良くなれるように祈って欲しいんだ」

「祈るって、どう?」

「難しいことじゃない。ただ心から願ってくれたらいいのさ」

「いいけど。そんなんで効果があるのか?」

「ある」

「……」すっげえ、自信あり気じゃねえか。理解できねえな、こいつ。ちょっと不気味な感じ。関わりを持たない方か無難かもしれない。でも、その女の名前は絶対に知りたい。「教えてくれ。願ってやるから」

「本気か?」

「ああ、もちろん」それは嘘。ただ本気で知りたいだけ。

「加納久美子」

「えっ?」

「驚いたのか?」

「あ、当たり前だろう。先生じゃないか。歳が違い過ぎるぜ。無理だよ、そんな……」こいつ、バカじゃないの。その言葉は、あの見事なヘッディング・シュートに免じて口には出さなかった。けど、サッカー部へ誘う気持ちは一瞬にして消えた。付き合っていられねえ、こんな奴とは。

「それがどうした」

「オレ達みたいな子供を加納先生が相手にするもんかよ」

「恋愛に歳は関係ないぜ」

「そうは言っても、それは大人の世界の話だ。無理だ、諦めろ。お前と加納先生では釣り合いが取れなさ過ぎるぜ」

「君がオレを信じて願ってくれたら何とかなるんだ」

「……」バカらしい。なんてこった。キャプテンの佐野隼人は正しかった。オレが間違っていた。こんな奴をサッカー部に入れたら大変なことになりそうだ。試合に勝つために練習しないで祈祷でもしかねないぜ。これ以上もう話すだけ時間の無駄に思えてきた。「あれ?」

 数百メートル先に同じ中学の生徒が何人か歩いているは知っていたが、それが全員B組のクラスメイトであることに気づく。

 「うちのクラスの連中だよな?」転校生も気づいたらしい。

「ああ、そうだ。でも……、変だな」

 B組で不良グループと思われている山岸涼太、相馬太郎と前田良文の三人に意外にも土屋恵子が一緒だった。不思議な組み合わせだった。学校では口を利いてる姿を見たことがない。しかも山岸と前田の家は逆方向のはずだ。こっちが後ろから歩いてくるのに気づいたらしい、連中は周西小学校の隣にある公園の中へと足早に入って行く。

「どうして?」転校生が訊いてくる。

「いや、なんでもない」こんな事、一々説明していられるか。連中のことなんかオレには関係ないし。「用事を思い出した。オレ、急ぐから」そっけない口調だった。もう構うもんか。こいつとは二度と話さないかもしれないし。

「じゃあ、また明日」

「うん」

 板垣順平が歩調を速めようとした時だ、転校生が抱えたショルダー・バッグの中にCDケースが入っているのが見えた。それだけなら何でもなかった。だけど、そこに『バイタル・ハザード 3』という文字が書かれていたのだ。『2』は知っているが、まだ『3』は発売されてないはずだった。見過ごせない。「それ、何だよ?」

「え?」

「そのCDケースだよ」

「ああ、これか。『バイタル・ハザード』の新しいやつだよ。試作の最終段階で、試しにプレーしてれって頼まれたんだ」

「……」ええっ、何だって? 耳に届いた言葉が衝撃的すぎて百八十センチの体が硬直。

「ゲームはやるのか?」転校生が訊く。

「え?」

「ゲームは好きなのか?」

「おい、……あのな」転校してきて間がないから仕方ないか。そんな質問をする奴は学校中に一人としていない。オレからゲームを取ったら何も残らない、そういう覚悟でコントローラーを操作する板垣順平だ。そんな質問はオレに対する侮辱でしかない。しかし、ここでは敢えて文句は言わずにおく。もっと重要な解決すべき問題が持ち上がったからだ。「誰に頼まれたんだ? 試しにプレーしてくれなんて」

「父親がゲーム関係の仕事をしているんだ。それで発売される前に不具合とかがないか調べる目的でプレーを頼まれるのさ」

「マジかよ。すっげえな」

「この『バイタル・ハザード』の新しいやつは前作よりも面白くなっているぜ」

「どう?」

「プレイする度にゾンビやアイテムの配置が違う。それに敵の攻撃を瞬時に避けられる『緊急回避』や、一瞬で後ろを向く『クイックターン』ていう操作が追加されているんだ」

「……」

「イージー・モードだと最初からアサルトライフルが用意されていたり、初めて『バイタル・ハザード』をプレーする奴にはやり易いはずだ」

「面白そうだな」

「ああ」

「でも、どうして学校になんか持ってきたんだ?」

「鶴岡に貸してやったのさ」

「えっ、鶴岡って、……あの政勝か?」思わず声が大きくなった。

「そうだよ」

「……」

「どうした?」

「信じられねえ」ほとんど独り言に近い。

「何が?」

「いや、何でもないけど……」これについても話が長くなるので説明できなかった。

 板垣順平は裏切られた思いで怒りを感じていた。ふっざけた野郎だ、あの鶴岡は。『バイタル・ハザード 3』の試作品を転校生から借りていながら自分には何ひとつ言わなかった。クラスは一緒だし、同じサッカー部員でもあった。一日に話す機会は何度もある。  

 富津中との試合で奴がミスして逆転負けするまでは、チームの左サイドバックとして信頼していた。部室でナムコの『鉄拳3』について話をしたのは昨日じゃなかったか? 確かそうだ。それなのに『バイタル・ハザード 3』のことは黙っていた。鶴岡政勝に対する考え方はいっぺんに変わった。「それを、オレにも貸してくれないかな?」気を取り直して転校生に訊いた。

「いいよ。本気で願ってくれるならな」

「え? 何を」

「忘れたのか? さっきの約束だよ」

「あっ、ああ。い、いや、忘れてなんかないよ」すっかり忘れていたぜ、そんなバカバカしいこと。

「祈ってくれるよな」

「もちろんさ」

「それならいい。貸してやるよ」

「いつ返せばいい?」

「いつでも構わない。飽きたら返してくれ」

「本当かよ?」それじゃあ、貰ったも同然じゃないか。

「ああ」

「ありがとう。悪いけど、用事を思い出したから急いで帰るよ」

「わかった」

「また明日な」

 板垣順平は走り出した。用事なんかなかった。ただ早く家に帰って、この『バイタル・ハザード 3』で遊びたいだけだ。

 理解できないところはあるが、父親がゲーム関係の仕事をしているなんて凄い。これからは新作のゲームを発売前にプレーさせてもらえるかもしれない。サッカー部に入らなくても、ずっと仲良くしていくべき奴だ。順平の友達ランキング・リストに転校生の黒川拓磨が赤丸初登場で一位に君臨する。それまで長く一位をキープしていた親友の佐野隼人は二位に転落した。

 

    13

 

 「板垣の奴に見られたかな?」不良グループの中で小柄な相馬太郎が、並んで歩くリーダー格の山岸涼太に小声で訊いた。

「別に見られたっていいだろ」山岸涼太も小声で答えたが口調は強く、お前は余計なことを喋るなという意味を示唆していた。

「……」

 へえ、怒ってら。という感じで相馬は後ろから付いてくる長身の前田良文の方を振り返ったが、聞こえてないようだった。

 三人は土屋恵子を誘って周西小学校の隣にある公園の中に入ったところだ。

 これから始める交渉のことに山岸涼太は考えを集中していた。余計なことを言って話し合いをぶち壊しにされたくない。相馬太郎は口が軽くて、何度か苦い思いをさせられてきていた。

 三人は土屋恵子から恐喝されていた。多額の金品を要求され続けて身も心も疲れ果てた。表向きこそ普通の中学二年生だが、実情は失業して多額の借金を抱えた中年男性と変わりなかった。未来が無く、惨めな日々が続いていた。

 毎日、学校へ行くのが辛い。土屋恵子から声を掛けられるのが怖い。顔を合わすのすら嫌だった。

 

 山岸涼太と関口貴久、それに相馬太郎と前田良文の四人は小学校からの仲良しだ。みんな勉強が大嫌い。いい成績を取って、いい高校へ進学したいなんて気持ちはなかった。放課後は日が暮れるまでサッカーや野球をしたりして遊んだ。中学生になると行動範囲が広がり、興味の対象も多くなって、どんどん金銭の必要性を強く感じるようになる。映画や音楽鑑賞の楽しみを知り、お洒落もしたくなった。新聞配達や様々なアルバイトをして小遣いを稼いだ。

 しかし働くのは苦痛で、長い時間こき使われても賃金は安く、逆に買いたい物のリストはどんどん長くなっていく。

 「金は欲しいけど、何とか楽して稼ぐ方法はないのか?」

 その思いは常に四人の頭の中を占領した。解決策としては悪事を働くこと以外には何も思い浮かばない。でも強い躊躇いがあって、なかなか行動には移せなかった。背中を押してくれたのが土屋恵子の兄貴で三年先輩の土屋高志だ。高校を中退すると地元の工務店に就職したが一ヶ月ぐらいで辞めて、その後はガソリン・スタンドや飲食店なんかでバイトしたりしていた。

 去年の初めに本屋のブックバーンで久しぶりに顔を合わせたのが事の始まりだ。四人は関口貴久が安室奈美恵の新しいCDを買うというので一緒に来ていた。土屋高志の方はレンタル・ビデオを返しに来たところだった。どんな映画を借りたのか興味を持ったので、ビニール・バッグの中を見せてもらうと、樹まり子主演『背徳の令嬢』というタイトルが目に飛び込んできた。うわっ、と相馬太郎が声を上げる。さすが土屋先輩だと、四人は羨望の眼差しを注ぐ。それまでは「土屋高志みたいになったら御仕舞いだぜ」、が仲間うちでは一つの合言葉みたいになっていたのだが。

 学校の更衣室で財布を盗んで高校を一ヶ月もしないで退学になった話はすぐに広まった。その後はバイトをしたり辞めたりの生活。女の子への悪戯とか下着泥棒を繰り返して警察には何度も捕まっていた。悪い噂は常に絶えない。「土屋高志みたいには絶対になりたくない」、というのが四人の共通した意識だった。年末から始めた焼き鳥屋のアルバイトも一週間前に辞めていて、毎日ぶらぶらしているらしかった。

 「オレに任せろ」 

 土屋高志は、関口がCDを持ってレジへ向かおうとするのを、横から取り上げて言った。四人が見ていると素早くウインド・ブレーカーの前を上げて、CDをズボンのベルトに挟んでしまった。そして何食わぬ表情で店内から出て行く。

 「CDとか漫画なんかは、しばらく買ったことがねえな」君津駅の方向へ歩いて本屋から十分に遠ざかると土屋高志は自慢した。「お前ら、まだ何か欲しいモノがあるか?」 

 その問い掛けに真っ先に反応したのが相馬太郎だ。「オレも安室奈美恵のCDが欲しい」すぐに前田良文が続く。「オレも」山岸涼太と関口貴久の二人は黙っていた。相馬も前田も音楽には興味がないはずだ。タダで手に入るなら何でも欲しいという二人だった。

 昼メシは浮いた金で、四人と土屋高志でルピタにあるマクドナルドへ行った。万引きが成功したことで仲間意識が生まれていた。ハンバーカーを食べながら、当然の成り行きで、これからどうするかという話になる。 

 「俺たち五人が手を組めば絶対に上手く行く。前田、お前は背が高いから見張り役にぴったりだ」と、土屋高志は力強い口調で説得を始めた。今まで見たことがない姿だった。山岸涼太は、こんな男にリーダーシップを握られたんじゃ不安だと感じたが、欲しい物がタダで手に入るならと黙っていた。

 「盗んだ商品を金に返られないかな?」という相馬太郎の問い掛けにも土屋高志は、「いい考えがある。お前らが学校の友達から注文を取って来るんだ。その商品をオレたちが盗んで、そいつに定価の半値で売ってやろうぜ。どうだ?」と、すでに用意していたみたいに間を置かずに答えを出してくる。

 マクドナルドの店を出た時には五人の窃盗グループが出来上がっていた。やる気満々だ。もう好きな時に欲しい物が何でも手に入る能力を身に付けたような気になっていた。

 万引きは面白いほど上手く行く。前田良文が見張り、山岸涼太と関口貴久が大きな声で喋りながら店員の注意を引く、実行するのは土屋高志と相馬太郎だ。ヤバいと感じたら五人は絶対に一緒に逃げない。その場でバラバラに散らばる。何を盗むか前もって計画を立てた。同じ店に何度も足を運ばない。山岸涼太と関口貴久が中心になってルールを作った。学校で注文を取るのも二人の仕事だ。

 国道127号線沿いに大きなカジュアル・ウエアーの店がオープンした時は最大の収穫を上げた。初日の特売に大勢の客が押しかけて店内はごった返し、万引きのやり放題だった。すぐに盗んだ商品で持ち込んだリュックはいっぱいになり、何度も家に戻らなければならなかった。この時だけはルールを無視して、五人が手当たり次第に商品をリュックに詰めた。

 万引きした商品を学校の友達に売る計画は、考えていたほどの値段では捌けなかっが貴重な現金収入をもたらした。

 少しでもヤバそうだと感じたら店を出る。危険は冒さない。常に用心を心がけた。しかし相馬太郎だけは上手く行けば行くほど行動が大胆になっていった。

 

 公園の隅まで来て立ち止まり、山岸涼太の三人と土屋恵子が対峙した。

 「話って何よ? こっちは急いでいるんだから。早くしてよ」いつものことだが、今日も土屋恵子は機嫌が良くないらしい。教室では無口な方だった。痩せてもいないし、太ってもいない。身長は百六十センチ足らずか。笑った顔を見せることは少なくて、いつも無表情。金を要求する姿は堂に入っていた。チンピラみたいな兄貴よりも悪事にには長けている感じだった。

「実はさ、あのう……、金のことなんだ」山岸は低姿勢で話す。

「だめ、だめ。今週分は待てないよ。もう使い道が決まっているんだから」

「だけど毎週一万円なんて、もう無理な話だ。そんなに簡単に上手く行く仕事じゃないんだから。もう関口はいないし」

「うそ言うんじゃないよ。あんた達が手塚奈々や古賀千秋に、ワコールの下着を売って稼いでいるって聞いたけど」

「でも安くしか買ってくれないんだ」

「幾らで売っているのよ?」

「もう定価の半値以下さ。稼いだ金は、ほとんど渡しているっていうのが実情なんだ」

「じゃあ、今週は幾ら出せるのよ」

「三千円が精一杯だ。頼むよ、それで勘弁してくれ」

「たった三千円?」

「そうなんだ」

「ふざけないで。それっぽちじゃあ、とてもディズニーランドへ行けない。オバアちゃんの誕生日だって近いのに」

「……」そんな事に俺たちが稼いだ金は使われるのかよ。バカらしい。山岸涼太は首を回して仲間の顔を窺った。連中の表情から同じ意見だと理解した。

 「あんた達のことを黙っていられなくなるかもよ」

 その脅し文句を待っていた。要求された金額を渡せないと毎度のように聞かされる言葉だった。山岸涼太は用意してきた切り札を口にする。「それも仕方ないと思っている。もう限界なんだ。でも、そしたら一円も持って来れなくなるぜ」

「……」土屋恵子が黙る。

 思ったとおり効果があったようだ。言葉を続けて一気に畳み掛ける。「学校があるから週末にしか仕事は出来ないし、いつも上手くいくとは限らない。もう疲れたよ。好きなようにしてくれても構わないと思っているんだ」

「じゃあ,幾らだったら持って来れるのよ?」

「わからない」

「そんなんじゃ、こっちの予定が立たないわ」

「そう言われたって、オレ達だって困るんだ。その時その時で稼ぎは違うんだ。約束なんて出来るもんか」

「じゃあ、どうしよう。いつまで兄貴を黙らせていられるか分からないわ」

 土屋高志のことは疑わしかった。警察に捕まったことは聞いていたが、その後どうなったのか誰も知らない。それに兄貴を黙らせておくのとディズニーランドやオバアちゃんの誕生日に、一体どんな関係があるというのだろう。山岸涼太は強気に出ることした。

 「オレ達から言えることは、稼いだ分の七割を差し出す。それぐらいしか出来ない」

「あんた達が幾ら稼いだか、どうやって確かめられるの?」

「オレ達が言うことを信じてもらうしかないな」

「そんな」

「だって、それしか方法がないだろう」

「……」

「納得がいかないなら、好きにしていい」

「考えさせて」

「そうしてくれ」

 その言葉を最後に土屋恵子は公園から出て行こうとしたが、何かを思い出したように振り返った。

 「相馬、お前は土曜日の朝に迎えに来な。オバアちゃんを足の治療で病院へ連れて行くんだから」

「無理だよ」同級生なのに目下扱いだ。でも何も言えなかった。

「どうして」

「もうセルシオは手放した」

「バカじゃないの、お前は。まだまだ手伝ってもらいたい事が沢山あるのに」

「盗んだ車なんだ、長く持っていられないよ」

「また盗めばいいじゃない。とにかく土曜日の朝には迎えに来てくれないと困るの」

「ダメだ、行けない。そんなに都合良く車なんて盗めるもんじゃないんだ」

「……」

「ナンバーが登録されているから、早く乗り捨てないと警察に捕まっちまう」

「まったく。お前たちって本当に使えない連中ばっかりだ」

 土屋恵子が不機嫌に立ち去って行く後ろ姿を、三人は黙って見守った。最初に口を開いたのは相馬太郎だ。

 「畜生っ。あの女、ぶっ殺してやりてえ」

「本当だ。ガソリンでも頭から浴びせて火を付けてやろうぜ」と前田良文が応えた。

「だけどな、お前が教室でセルシオを盗んだなんて自慢するからいけないんだ。あの女は地獄耳だって覚えておけ」

「わかった。で、これからどうなるだろう」

「オレ達の提案を呑むしかないと思う」

「土屋高志が警察に喋ったりしないかな」

「大丈夫じゃないかな。もうオレは信じていない。土屋のバカ兄貴は警察に捕まったけど、きっと釈放されているぜ」

「じゃあ、今どこにいるんだ?」

「わからない」

「それでもオレ達は金を土屋恵子に払い続けなくちゃならないのか」

「しばらくはな」

「畜生、あの女がいなくなってくれたら、どんなに嬉しいか」

「ところで関口から連絡はあったか?」前田良文が二人の会話に割って入った。

「いや、ない」と山岸涼太が答える。

「どうしてんだろう」と相馬太郎。

「もう二度と会えないかもな。なにしろ九州へ行っちまったんだから」

「ちぇっ、寂しいな」

「仕方ないぜ。火事だもんな」

「だけどさ、あいつ、その日の学校で、もう金の心配はしなくていいかもしれないって言ってたんだぜ」前田良文が言った。

「うん、そうだった」と、山岸涼太。

「そう言えばそうだ」相馬太郎が続く。「思い出した」

「どういう意味だったのか気にならないか?」前田良文は二人に向かって訊いた。

「そりゃ、気になるぜ。その理由が知りたい」相馬太郎が応えた。

「言われた時は冗談かと思って真剣に受け取らなかったが、今は凄く気になってる。なにしろ直後に家が火事で全焼だからな」山岸涼太が言う。

「関係があるのかな?」

「わからない」

「なんとか知る方法はないのか?」

「こっちからは連絡の取りようがない。関口から電話が掛かってくるのを待つしかないんだ」

「……」山岸涼太の返事に相馬太郎と前田良文の二人は黙った。僅かな希望も失われた思いだった。

 

 五人の窃盗グループの全盛は、土屋高志と連絡が取れなくなったことで終焉を迎えた。どうしたんだろう、と四人が不思議に思っていると、学校で女子が噂を口にしているのを耳にした。奴が何かを盗んでいるところを、パトロール中の警察官に見つかって逮捕されたらしいという内容だった。まさか。これはヤバイ。自分たちのことも白状するんじゃないかと、四人は震え上がった。毎日が気が気でない。いつ警察が逮捕に来るか分からない状況だ。兄貴がどうなっているのか土屋恵子に訊きたかった。しかしそうすればオレたちの悪事がバレてしまう。

 ああだ、こうだと四人で話し合っても情報が全くないのだから何の進展もない。ただ怯えて毎日を過ごすだけだった。

 「ちょっと話したいことがあるんだけど」ある日、山岸涼太が土屋恵子に声を掛けられた。昼休み、四人は体育館の裏で彼女の前に集まった。

 「あんた達が、うちの兄貴と組んで万引きをしていたのは知ってるよ」

「……」誰も返事はしない。

「今さ、うちの兄貴が警察に捕まっているんだけど、それは聞いているだろ?」

「……」

「しらばっくれんじゃないよ。あんた達の為にならないよ」

「どういう意味さ?」山岸涼太が訊いた。

「日曜日に、あたしが留置場まで面会に行ったんだ。兄貴は警察の取調べが厳しいって嘆いていたよ」

「それで」

「安心しな。あたしが兄貴に、あんた達のことは黙っているように頼んでおいたから」

「本当かい?」土屋恵子の言葉に跳び付くように相馬太郎が反応した。

「当たり前じゃないか。捕まるのは一人で十分さ」

「ありがとう。助かったよ」と、相馬太郎。

「ただし、……」

「え?」

「こっちが助けてやるんだから、あんた達にもそれなりに協力してもらわないと」

「……」そんなことだろう、と山岸涼太は思った。関口貴久の方を向くと、やはり頷いて見せた。

「協力って?」と、相馬太郎。

バカヤロー、そんなこと訊くまでもないだろう、と山岸涼太は怒鳴りたい気分だった。

「金だよ」子供を諭すみたいな感じで土屋恵子が答える。

「……」

「それなりのモノを留置場にいる兄貴に差し入れてやりたいんだ。あそこは冷暖房もないし、食事も粗末なもんさ」

「幾らだ」関口貴久が訊いた。

「週に三万円で、どうだろう? 留置場へ行くにもタクシー代が要るんだ」

「とても無理だ。そんな金を毎週なんて」

「じゃあ、二万円してやってもいい。その代わり--」

「そんなに稼げない。もっと安くしてくれないと」

「じゃあ、幾らだったら持ってこれるのよ」

「……」

「バカみたいな金額だったら、きっと兄貴はすべてを白状すると思うよ」

「わかった。週に一万円でどうだろう」関口貴久が答えた。

「たった一万円かよ。もう少し、どうにかならないの?」

「もし稼ぎが良かったら、その週は増額する。それで勘弁してくれ」

「……」

「頼むよ、お願いだから」

「じゃあ、しばらくの間は一万円で許してやろう。でも稼げたら、もっと持ってくるんだよ。いいね」

「わかった。そうする」

 話は終わったと判断して土屋恵子がその場から去っていくと、残された四人は今後のことを考えなければならなかった。 

 「オレたち、週に一万円も稼げるかな?」前田良文が言った。

「まず難しいな」答えたのは関口貴久だ。

「じゃあ、週に一万円にしてくれなんて何で言ったんだ?」と相馬太郎。

「仕方がないだろ。それがあの女を納得させられる最低の金額だ。それ以下だったら話はまとまらなかった」山岸涼太が代わりに答えた。関口貴久がやった交渉を理解していた。

「これからどうするんだ、オレたち」と、前田良文。

「まず持ち金を集めて、そこから一万円づつを土屋恵子に支払っていく。仕事は続けるが得た金は関口が管理する。もう一円も自由にならない。それで時間を稼ぐんだ」

「時間を稼いでどうする?」

「こっちの考えをまとめて再び交渉しよう。事態が好転するかもしれないし」

「どういう意味だ?」

「土屋高志が釈放されたら事情は変わるだろう」

「釈放されるのか?」

「わからない。あのバカがどれほどヤバい事をしでかしたに係っている」

「釈放されなかったら、奴は刑務所へ行くんだろうか?」

「いや、それはないだろう。きっと少年院だと思う」

「げっ、少年院かよ」相馬太郎が大きな声を出して、山岸涼太と前田良文の会話に割って入る。「もしバラされたら、オレたちも行くことになるのか?」

「そうだ。怖くなったのか、相馬?」冷やかすように山岸涼太が訊く。

「オ、オレ、……少年院はイヤだ。絶対に」

「行きたい奴なんているかよ、バカだな」

「オレ、聞いたんだ。どんなに酷いところか、少年院が」

「誰から?」

「知り合いだ。あそこじゃ、看守に酷い虐めに遭うらしい」

「ぶん殴られたりするのか?」前田良文が口を挿む。

「違う、そんなんじゃない」

「じゃ、どんな?」

「看守のチンポコを銜えて精液を飲まされるんだってよ」

「げっ、……マジかよ?」

「……」山岸涼太と関口貴久は黙っていた。

「本当だ。ガキどもはニューヨークで、ハンバーガーの屋台を地下鉄の階段から滑り落としたイタズラで警察に逮捕されたんだ。それで少年院へ直行だ」

「えっ、ニューヨークだって?」驚いて前田良文が訊き返す。

「……」

「それって外国の話かよ?」関口貴久が続く。

「お前、今、確かニューヨークって言ったよな?」山岸涼太の言葉には、いい加減な事を口にした仲間を咎める咎める響きがあった。

「違う、間違えた。ち、千葉だよ」

「おい、千葉に地下鉄はないぞ」

「あ、東京だった。思い出した」

「お前の話はウソくさいなあ」

「映画かなんかの話じゃないのか?」

「違う。本当なんだ。信じてくれよ」 

「……」誰も返事をしない。

「オレ、知らない奴のチンポコなんかしゃぶりたくねえ」仲間の三人から疑わしい目で見られて、もはや相馬太郎の言葉は独り言に近かった。

「バカ、知ってる奴のでもヤダぜ、そんなの」関口貴久が言った。

 信憑性は疑わしかったが、相馬太郎の話は仲間を震え上がらせるのに十分だった。少年院へ行けばホモの看守に餌食にされるという恐怖が頭に焼き付く。翌日からは土屋恵子に対して、腫れ物にでも触れるような接し方になった。

 遅れることなく月曜日には一万円を支払う。目の前を通り過ぎる時は必ず頭を下げた。文句を言われないように注意を怠らない。

 相馬太郎が教室で、としまや弁当の駐車場でドライバーがロックをしないで車から離れた隙に、黒塗りのセルシオを盗んだと自慢すると、その話を聞きつけた土屋恵子はショッピングの送り迎えを要求してきた。もう言いなりだ。

 ところが、そんな従順な態度が逆に土屋恵子を付け上らせる結果を生んでしまう。三週間が過ぎた頃だ、新たな要求を突きつけられた。

 相馬太郎が仲間を集めて言った。「おい、来週は建国記念日らしいぜ」

「それがどうした?」

「あの女が御祝儀として五千円ぐらい持って来いって」

「マジかよ」新しい要求をするのに土屋恵子はビクビクしている相馬を選んだんだ、と仲間は合点がいった。

「五千円なんて出せるもんか。分かった、オレが話をつける」関口貴久の出番だった。

 リーダーは喧嘩の強い山岸涼太だが、誰かと交渉するとか何かを計画するのは関口貴久の役目だ。細かい事に気がつき、どんなことにも常に慎重だった。

 前回は丸め込まれたと考えたのか、土屋恵子は強気できた。五千円を二千円まで下げさせたが、すべての祝日に祝儀を差し出すことになった。

 「つまり一万円のほかに祝日には二千円を差し出せっていうことか?」

「そうなんだ」

「ちっ、なんて欲張りな女だ」

「がめつ過ぎるぜ」

「じゃ、次は春分の日かよ?」

「そうなるな」

「おい、待てよ」

「どうした」

「だったら五月の連休はどうなるんだ?」

「……」

「昭和の日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日って続くんだぜ」

「マジかよ」

「……」全員が暗澹たる気持ちになった。

 その数日後だ、関口貴久が仲間に希望を持たせるようなことを言い出す。

 「もう金の心配はしなくていいかもしれないぜ」

「どういうことだ?」山岸涼太が訊く。

「まだ今は詳しいことは言えない。全額でなくても、オレたちの負担を減らせる可能性が出てきた」

「本当かよ」

「ああ」

 しかし現実には何も変わらなかった。その晩に関口貴久の家が全焼して九州へ引っ越してしまったからだ。金の負担は同じで逆に仲間が三人に減ってしまった。一体何の話だったのかも分からず仕舞いだ。

 関口貴久の抜けた穴は大きい。仕事が以前のようには上手くいかない。チームプレーが機能しなかった。理由を説明して土屋恵子には支払いを少なくして、残りは借りという形にしてもらう。利息としてワコールの下着や洋服を盗んでくるように要求された。

 交渉は成立したが安心は一時的で、どんどん借金は増え続けていく。支払う気力を失わせるほどの大きな金額になるのに時間は掛からない。厳しく催促はされるが、どうにもならなかった。

 仲間三人は疲労困憊して、お互いに口も利かない状態になっていると、土屋高志らしき人物を見たという情報が学校に流れた。真偽は確かめられなかったが、もし警察から釈放されたなら自分たちの悪事をバラされる恐れは去ったことになる。一気に土屋恵子への支払いがバカらしくなった。

 毎週月曜日には数千円づつでも金を渡し続けたが、がめつい女への憎しみはどんどん大きくなる。殺してやりたい。せめて学校からいなくなって欲しい。

 「もう万引きなんてやりたくない」相馬太郎は決まって仕事の前に、この言葉を吐くようになった。

「オレもだ。もう疲れた」前田良文が続く。

「……」山岸涼太は何も言わない。愚痴を口にしても事情は変わらないからだ。

 話し合ったわけではないが、いつか土屋恵子から解放されたら二度と万引きしない、という気持ちで三人は一致していた。

 

  14 

 

 君津南中学からの帰り道、市役所通りに出たところの交差点が五十嵐香月と佐久間渚、それに山田道子が立ち止まってお喋りをする場所になっていた。小学校の高学年から続く習慣だ。ここから三人は別々の道へと別れなければならない。背が高くて大人びた雰囲気を持つ五十嵐香月が中心的な存在だった。お洒落で、服のブランドとか流行に詳しかった所為だ。二人は服を買うときは香月に意見を求めた。 

 小学校の五年生だったと五十嵐香月は記憶している。忘れもしない。ここで山田道子が衝撃的な内容を口にした。それは「赤ちゃんの作り方なんだけど……」という言葉で始まった。

 それまで香月は性については無関心というか、全く考えたことがなかった。家でも二人の両親が性のことで何か言うのを聞いたことがない。そうだ。子供って、どうやって作るんだろう。と思ったのが最初の反応だ。さすがにコウノトリが運んでくるなんてことは、もう信じていなかった。ただし自分が知らない事を山田道子が知っているという事実は気に入らなかった。

 「あたし、男の人とセックスすると赤ちゃんが出来るって聞いたことがあるけど」と渚。

「そう。だけどセックスって一体何をするのか、渚は知ってる?」

「よくは知らない。男の人と裸で抱き合ってキスとかするんじゃないの?」

「それだけじゃないらしいのよ」

「何するの?」佐久間渚は興味津々という態度を隠そうともしなかった。

「それが、……あたし、びっくりしちゃって」

「何で?」と渚。

「昨日、たまたま森田先輩と杉浦書店で会っちゃって、それで教えてくれたんだけど……」

 え、森田山崎って、あの森田桃子のこと? いつもヤボったい服しか着ていなかった、あのブス? 上総高校に進学して夏休み直前で中退してから、あちこちバイトを転々としているって聞いたけど。そんな女が……。

「それで」渚が先を促す。

「それがさ、あたし達のOOOに男の人の……」山田道子は声を落として言った。

「え、……そ、それってどういうこと?」

「わからない? つまりね、家のコンセントに掃除機のプラグを差し込むみたいな感じよ」道子の口調には、こんなこと何度も言わせないでという響きがあった。しかし例えは分かりやすかった。

「うそっ。そ、……それって痛そう」渚が驚きの声を上げる。

 香月は顔から一気に血の気が引く。もう少しで、ギャーッ、死んじゃう、と大声で叫ぶところだった。しかし心のどこかで合点がいく。だから、あんなふうに形が違っていたんだ、きっと。ずっと不思議に思っていた。だ、だけど……。

 小学二年生になるまで香月にとって、男の人にはシッポがついているという認識でしかなかった。幼い時にカブトムシのオスとメスを飼っていて、男女の体に違いがあることは知っていた。男はシッポでオシッコするんだと思った。その間違い正してくれたのが、当時は仲良しだった手塚奈々だ。

 「そうよ。それに森田先輩の話だと、あれは大きく硬くなるらしいの」

「マジ? それって」

「そう、あたしも最初は信じられなかった。だけど森田先輩は中学一年で初体験してるんだって」

「え、初体験って、……つまり生まれて初めてセックスするっていうこと?」と渚。香月が知りたいことを代わりに訊いてくれるので助かる。

「うん」

「それって、ちょっと早すぎない?」

「と思う。でも、あの森田先輩のことだから……」

 そうだ、有り得る話だ。彼女なら万引きで警察に捕まろうが、放火で捕まろうが、親殺しで捕まろうが別に大して驚きもしない。そういう女だった。

 山田道子は佐久間渚に向って得意げに話し続けた。いつもは二人からファッションとか勉強について教えを請う立場だが、この日は違う。

 それでさ、男の人って何か変な白い液体を飛ばすらしいのよ、と道子が付け加えた。ふん、まっさか。昆虫じゃあるまいし。香月は信じなかった。それは嘘だろう。道子ったら調子に乗っていい加減なことを言い始めてる。

 「香月も知ってたの?」いきなり渚が振り向いて訊いてきた。

「え?」

「道子が言ったことよ。ねえ、香月も知ってたの?」

「う、うん。……そりゃね」こう言うしか選択肢はない。知らなかったとは、この二人に向って口が裂けても言えるものか。

「何で教えてくれなかったのよ」

「だって、もう知っていると思ってたから」

「知らなかったわよ。もう、びっくり」

「ごめん」そう言いながら香月の両脚はスカートの下でガグカクと震えていた。

 信じられない。そんな野蛮で変態な行為から子供が作られるなんて。む、……無理、絶対に無理よ。あんなモノが自分の大切なところに入ってくるなんて。そんなことしたら、あたしが裂けて死んじゃうもの。それに道子の話だと、もっと大きくて硬くなるらしい。だったら尚更ムリに決まっているじゃないの。もっと小さくなるんだったら、それは分かるけど……。

 家に帰っても、ずっとその事を考え続けた。夕飯は大好きなスパゲティ・ナポリタンだったけど、ゴムひもを食べている感じしかしなかった。フォークにパスタを絡めながら、このぐらいの太さだったら何とかなりそうだけどと考えた。

 無理、無理、無理、無理。あたしは母親になれない。セックスなんて絶対に怖くて出来ません。それが結論だった。

 以来、山田道子を見る五十嵐香月の目には、この女によって自分は家庭を持てない女だと分かったんだという思いがあった。それは中学二年になるまでの三年間ずっと続く。

 

 「道子、今日は黒川くんと仲良さそうに話してたじゃない」と佐久間渚。お喋りは昨日に続いて転校生の話から始まった。

「え、そんなことないよ。ただ宿題のことで向こうから訊いてきただけだもん」

「すっごく楽しそうだったわよ」

「もう、やだ。よしてよ、渚」

「あはっ。赤くなってる、道子ったら」

「からかうからでしょう」

 山田道子が転校生の黒川拓磨に好意を持っているのは三人の間では秘密ではなかった。しかし香月のような美しさ、渚のような可愛さを持たない道子は恋愛に対して積極的になれない。「だったら、渚はどうなのよ。佐野くんとは上手く行ってるの? 最近は交換日記やってないみたいだけど」と道子の反撃。

「……、変わりないよ」

「あれ、声が小さい」香月が鋭く突く。

「そうだよ。渚、どうかしたの?」

「大丈夫です。上手く行っています。心配しないで」今度は声が大き過ぎた。何か変、と二人が気づく。

「渚、話しなよ。何かあったんだろう?」

「何でもないったら。本当に大丈夫なんだから」

「もしかして、また下着泥棒?」

「ううん。最近はないよ」

 佐久間渚は中学二年の夏休みごろから、何度か干してあった下着を盗まれる被害に遭っていた。母親のサイズが大きい方はそのままで、渚の可愛い絵がプリントしてあるブラジャーとパンティだけがなくなった。お揃いで三人が買った赤いチューリップ柄の下着は難を逃れているが、香月と道子から絶対に盗られないようにと注意を受けていた。

「じゃあ、何よ」

「何でもないったら」

「本当?」

「うん」

「じゃあ、いいよ」話したくないらしい。今日は聞き出すのは無理みたい。

「ところで、まだ電話してくる?」渚が香月に話しを振った。

「あいつ?」

「うん」

「してくるよ。しつこいったらありゃしない」

「なんて?」

「富津中との試合を見に来ないか、だってさ」

「来月だっけ? やるらしいね。香月は何て答えたの?」

「決まってんでしょう。サッカーの試合なんか見に行くもんか。くっだらない」

「じゃあ、断ったの?」

「もちろんよ。もう電話してこないで、って言ってやったわ」

「よく言える、そんな酷いこと。香月らしいけど」

「どうして?」

「だって板垣くんにはルもりたルピタで散々、服とか買わせたじゃない」

「違う、違うよ。あれは板垣の奴が勝手に買ったの。あたしは貰ってやっただけ。でもセンスがなくて気に入らないのばっかりなんだから」

「あれ? この前だけどブルーの水玉模様のワンピースを着ていたじゃないの。すっごく似合っていたよ」

「ああ、あれ? ……うん、あれだけだね。あたしが着られるっていうのは。でもさ、もう板垣順平の名前は聞きたくないの。あいつの話しを持ち出さないでほしい、お願い。あの時はワールド・カップ熱に浮かれちゃって、ちょっと付き合っただけなのよ。ジャマイカ戦で日本代表が負けて目が覚めたわ」

「わかった。もうしない」と渚。「あ、さようなら。秋山くん」

 三人の前を同じクラスの男子、秋山聡史が通り過ぎていく。佐久間渚の言葉に軽く会釈を返す。が、五十嵐香月と山田道子の二人には目もくれない。男子にしては小柄で学生服とカバンが大き過ぎるという印象が強かった。

 「あんな奴に何で挨拶するのよ? 渚は」秋山聡史が十分に遠ざかってから、意外という感じ香月が訊く。

「いい子だよ、秋山くん」

「そうかしら? なんだか陰気で気持ち悪いけど」と道子。

「無口で大人しいから、そう見られちゃうかも」

「あたし、あの子が笑ったところ見たことない」香月が言う。

「あたしも」

「去年だけど、乗っていた自転車がパンクして困っていたのを助けてくれたことがあるんだ」と、渚。

「へえ」

「どうやって?」

「その場で秋山くんが修理してくれたの」

「え。あの子が近くにいたの?」

「そう。たまたま通り掛かったみたい」

「ラッキーだったじゃないの、渚」

「うん」

「そんな技術を持っているんだ、あの子」

「すぐに簡単そうに直してくれたよ」

「ちょっと驚き」

「じゃあ、挨拶するのは当然かもね」

「で、しょう」二人を納得させたことに気を良くした佐久間渚は、別の話題を持ち出した。「ところでさ、今日の体育の授業で転校生の黒川くんが凄いシュートを決めたらしいよ」

「ヘッディング・シュートでしょう? あたしも聞いた」と道子が即座に応える。

「またサッカーの話? もう聞きたくない」と五十嵐香月。

「大丈夫だよ。あいつの話はしないから」

「頼むよ」

「ちょっと、いい? あたし、香月に訊きたいんだけど」山田道子が真面目な口調で言う。

「何よ?」

「香月は黒川くんのこと、どう思っているの?」

「どういう意味?」

「どういう意味って、つまり好みのタイプかなって訊いているんじゃないの。とぼけないで」

「ふっ、よしてよ。全然タイプなんかじゃないわ」そう言うと山田道子の顔が嬉しそうに微笑んだ。

「本当?」

「うん」当然と言えば当然だが、山田道子が香月の気持ちを尊重するところは好ましい。

「よかったね」と、佐久間渚。五十嵐香月が仲良くなりたいと思う男子には近づけないという暗黙の了解が出来ていた。

「うん」山田道子が大きく頷く。

「ねえ、だったら黒川くんに手紙を出してみたら?」

「ええっ」驚く山田道子。「……そんなこと」

「そうだ。いい考えじゃない」と、香月が続く。

「無理だよ、絶対に」

「大丈夫だと思う、今日の雰囲気なら」と、佐久間渚。

「え、……いいよ」

「でも仲良くなりたいんでしょう?」

「そりゃあ、……まあ」

「だったら行動を起こさなきゃダメよ」香月が畳み掛ける。

「何て書けばいいのか分からないもん」

「友達になって下さい、でいいのよ」

「え、だって、もう友達みたいなもんだよ」

「バカねえ、道子。わざわざ手紙で出すことに意味があるんじゃないの。親しい仲になりたいっていう意思が伝わるのよ」香月のアドバイスが続く。

「……でも」

「でも、何よ?」

「あたしなんか相手にしてくれないと思う」

「行動を起こさなきゃ分からないじゃないの。そんな消極的な態度じゃダメよ。ダメで元々っていう感じで手紙を渡せばいいの」

「香月の言う通りだわ。道子、あたしが代わりに手紙を渡してあげてもいいよ」と渚。

「……」

「ついでに渚に返事も聞いてもらえばいいじゃない」

「……」

「どうする、道子」

「本当に?」

「うん。道子のためならやってあげる」

「ああ、ダメ。自信ない」

「仲良くなりたくないの?」

「なりたいけど……。もし拒否された耐えられそうもない」

「じゃあ、このままでいいの?」

「……わからない」

「あの黒川くんが酷い言葉で女の子を失望させるような事を言うとは思えないけど」と、渚。

「そうね。なかなか彼は優しそうだよ」香月が続ける。

「わかった。待って。家に帰って考えさせて、お願い」

「いいよ、そうしな。一人になって、試しに手紙を書いてみるといい。いい文が書けるかもしれないじゃない」

「ありがとう。そうする」

「ところで、……あたし、そろそろ帰らないと」渚が言う。

「え」と、道子。

「どうして?」渚が続く。二人とも驚きを隠さない。いつもより三十分ぐらい早かった。

「ごめん。親が家庭教師を雇ったのよ。今日が初日で、早く帰って色々と準備しないと」

「男の人? 大学生?」

「そうみたい」

「へえ。だったらイケメンだといいね」

「期待はしていないわ」

「わかった。じゃ、また明日ね」

「うん。バーイ」

 

 

   15

 

 秋山聡史は佐久間渚が挨拶してくれたことで、この上なく幸せな気分だった。あの子より可愛い女の子は世界に存在しない。いつの日がガールフレンドになってもらいたい。彼女に相応しいのはサッカー部の佐野隼人なんかじゃない、このオレなんだ。

 恋に落ちたのは中学一年の二学期で、席は隣同士だった。英語の授業が始まる前の休み時間だ。渚の「単語、調べてきた?」という一言で、宿題を忘れたことに聡史は気づく。ちぇっ。仕方ない、また叱られるんだと覚悟した。ところが彼女が、「あたしのノートを写してもいいよ」と助けてくれたのだ。

 女の子から、いや誰からもそんな親切を受けたことがなかった。

ノートは数分で写し終えたが、隣の席に座る佐久間渚の存在は依然とは全く別のモノとなった。

 確かに可愛い子だ。そういう女は特にオレに対して冷たく当たるのが常だった。だけど佐久間渚は違った。こんなに優しい妖精のような女の子の隣に座っていたんだ。まったく気づかなかったオレはバカか。

 本当に可愛い。毎日、オレに挨拶してくれる。学校へ行くのが楽しくなった。日増しに彼女への思いが強くなっていく。

 仲良くなりたい。だけど、どうアプローチすればいいのか分からなかった。出来ることは朝の挨拶ぐらいで、それも軽く会釈するだけだった。帰りの「さようなら」なんか声に出して言えない。佐久間渚が言ってくれた時に頭を下げて教室から出て行くだけだ。

 好きだ、大好きだ。仲良くなりたい。でも、どうすればいいのか分からない。

 土曜日、日曜日はもちろん、普段の日でも時々は彼女の家の周りを自転車で走った。遠くから家の様子を双眼鏡で観察もする。公園があって、そこが高台で絶好の場所になっていた。家から出てきた彼女の写真を撮ったりした。もはや佐久間渚が趣味と言ってもいいくらいになっていく。カメラは鶴岡政勝が新しいのを買ったので、古いのを安く譲ってもらう。

 なんとかして彼女に近づきたい。そう思い詰めてアイデアが浮かぶ。そうだ、自転車にパンクの細工をしよう。

 気に食わない板垣順平に仕掛けて上手くいった。いつもオレを馬鹿にしやがる。鶴岡も試合のことで、奴には頭にきていたらしい。二人で野郎の自転車に穴を開けて下校途中に転倒させた。怪我をして次の試合には出られなかった。自転車は壊れて徒歩での通学になった。いい気味だ。死んでもよかったのに。

 その週の土曜日に佐久間渚が赤い自転車に乗るのをずっと外で待ち続けた。今にも雨が降り出しそうな曇りの日で、そんなに期待はしていなかった。家の玄関に注意を払いながら、する事と言えばマイルドセブンを吸うだけだ。でも長く待った甲斐はあった。出掛けてくれたのは午後三時過ぎで、秋山聡史は気づかれないように後を付けた。行き先はルピタだった。渚が駐輪スペースに自転車を停めて店内に入って行くのを確認してから行動開始。聡史は隣に自分の自転車を停めると、しゃがんで横にある彼女の後輪タイヤに針を刺した。

 板垣の場合は前輪をパンクをさせてハンドルを利かなくさせた。佐久間渚には怪我をさせたくない。後輪なら大事に至ることはないはずだ。

 穴には小さくカットした黒いガムテープを貼り付けて、すぐに空気が抜けないように細工する。仕事が完了すると、その場から離れた。物陰に隠れて佐久間渚が店から出てくるのを待つ。買い物を終えた彼女が自転車に乗って家に帰るのを、距離を保ちながら追いかけた。

 渚がパンクに気づいて自転車から降りるのに五分と掛からなかった。作戦大成功。すぐにも助けに行きたい気持ちを秋山聡史は抑えて、三分してから偶然を装いながら憧れの佐久間渚に近づく。

 「あっ、秋山くん」

「どうしたの?」自転車を降りて聡史は訊いた。

「パンクしちゃったみたいなの。どうしよう、困ったわ。早く帰らないとアイスクリームが溶けちゃう」 

「見せてみな。直せるかもしれない」

「え、本当?」

「うん」

 赤い自転車の後輪を調べる振りをしながら貼り付けた黒いガムテープを探す。穴の位置をバルブからの距離で頭に入れる。佐久間渚の目の前でタイヤレバー、ゴムのり、パッチ、紙やすり、携帯の空気入れ、それら全てを路上に広げた。

 「いつも修理の道具を持って自転車に乗っているの?」

「そうだよ。いつパンクするか分からないから」ふん、そんなの嘘だよ。今日だけ特別さ。

「へえ。どう? 直せそう」

「やってみないと分からないな」直せるに決まってら。穴の位置は分かっているし。だって針を刺したのは、このオレなんだから。

「お願い」

「ああ」ひゃーっ。憧れの佐久間渚から頼られているって最高の気分。もう死んでもいいぜ。

 タイヤレバーを使ってチューブを取り出すと、はっきりと穴の位置が見えた。これなら簡単だ、空気を入れて探す必要もない。その部分を紙やすりで擦り始めた。すると突然--。

 「秋山くんて凄い」佐久間渚から賞賛の声。

「……」口が痙攣して返事が出来ない。無表情を装いながら穴の部分にゴムのりを薄く塗りつけたが、気持ちはマッハのスピードで大気園外へと飛び上がった。

 ひょっとして次に『あたしの家で一緒にアイスクリームを食べない?』なんて言葉が聞こえてきたりして。聡史の期待は膨らむ。

 彼女の家に上がれば、きっと両親は大切な娘の窮地を救ったクラスメイトを大歓迎してくれるはずだ。VIP待遇は間違いない。母親は『良かったら夕飯を食べてって』と言ってくるだろう。ご馳走を振る舞ってもらった後は彼女の部屋でビデオ鑑賞といこうか。

 『ローマの休日』なんかを二人でソファに並んで見たら感激だ。グレゴリー・ペックの姿がオレとダブって彼女の目に見えてきたりして。そしたら帰り際に玄関の外に出たところで、両親に聞かれないように声をひそめて『秋山くん、あたしと付き合ってくれない』と交際を迫られちゃうかも。答えは決まっている、『いいよ。オレでよかったら』だ。だけど、ここは男として何も言わずにキスで応じるべきじゃないのか。映画のシーンみたいにな。きっと佐久間渚は驚く。秋山くんで見かけによらず大胆で男らしいと。

 聡史は自分の想像に酔った。初めてのキスだけど、上手く出来るんだろうか。すごく不安だ。ああ、でも楽しい。ずっとこうしていたかった。でも手早くパンクを直してカッコいいところを見せないと。チューブをタイヤの中に戻して後輪に空気を入れると、言いたくない言葉を口にした。「直ったよ」

「うわー。ありがとう、秋山くん。助かった」

「うん」さあ、アイスクリームのお誘いをお願いします。

「本当にありがとう。あたし、悪いけど急いでいるんだ。買ったアイスクリームが溶けちゃう。だから早く家に帰らないと。また月曜日に会おうね。じゃあ、さようなら。ありがとう、秋山くん」そう言い残して佐久間渚は走り去った。お誘いはない。振り返りもしなかった。ちぇっ。

 すっげえ、がっかり。

 一人になった聡史は路上に散らばったパンク修理の道具を見つめるだけだ。集めてケースに入れる気にならない。このまま捨てて帰ってしまおうか。 

 宇宙まで舞い上がっていた気持ちは、イチローのバットにジャストミートされたかの様に地球に逆戻り、そのまま地面に叩きつけられた。天国から奈落の底。今の、あの幸せに満ちた気分は何だったの? あの期待に満ちた想像は何だった? ああ、虚しい。

 額に雨粒が当たった。雨が降り始めて、やっと体が動く。道具を拾い集めて自転車に跨った。本降りになりそうな気配だ。走りながら色々と考えた。一緒にいられて楽しかった。さて、これからどうしよう。どうにかして自分を好きになってほしい。ペダルを強く踏んでスピードを上げると少しづつ前向きな気持ちになれた。  

 よし、分かった。パンク修理だけでは足りないのだ。何かもっと凄いことで彼女に強い印象を与えないとダメだ。すると思いつくのは火事から彼女を救い出す場面だった。

 秋山聡史の趣味にもう一つ、火遊びというのがあった。小学三年の時に、父親がゴキブリをティッシュで捕まえると、「聡史、面白いモノを見せてやろう」と言って、それに火をつけたのだ。丸めたティッシュが燃え上がると、焼き殺されるゴキブリのキィーという呻き声が中から聞こえた。見ていて異常な興奮を覚えた。メラメラとティッシュが燃えていく様にも我を忘れた。

 自分でもやってみたい。それからはライターを使って色々なモノを燃やした。紙、木材、衣服、ブラスチック等だ。何度かボヤ騒ぎを起こして、その度に酷く叱られた。父親は何かあると皮のベルトで叩いて言う事を聞かせようとする。でも止めなかった。隠れて続けた。こんな楽しいこと止められるもんか。

 火をつけて燃やすことで気分は高揚した。自分が支配者になったような気になれた。そして、どう関係しているのか分からないが夜尿症が治った。それまでは、また布団を濡らすのではないかと寝るのが怖いほどだった。見つかれば父親の皮のベルトが待っている。あのバカは強く叩けば夜尿症が治ると信じているようで、一撃一撃と、どんどん力が増していく。母親は助けてくれるどころか完全に無視だ。横でテレビの芸能ニュースを夢中で見ていた。聡史は痛みで学校へ行けないことが何度もあった。そういう日は満足に食事もさせてもらえない。

 度々、両親は夜に息子の夜尿症を持ち出しては夫婦喧嘩をおっ始める。

 「いいか。こんな尻癖の悪いガキになったのは、お前の育て方が悪かったからだ」と酒に酔った父親が言う。

「冗談じゃないよ。聡史がバカなのは、あんたんところの遺伝に決まってるさ」

「何だと」

「そうだろ。あんたの父親はサラ金の借金で首が回らなくなって蒸発だし、母親は医者も見放すほどのアル中じゃないか」

「それは関係がない」

「あるさ。金に溺れた父親と酒に溺れた母親の因果が聡史なんだ」

「ふざけるなっ」

「ふざけちゃいないよ。大体あんたんとこの家族って異常じゃないかしら。妹にしたって風俗でしか働いたことのないバカ女だしさ」

「うるせい」

「恥かしくて、あたしは親に本当のことが言えない」

「もう黙れ」

「もし誰かにバレたらどうしようって、いつも心配している、あたしの身にもなってよ」

「この野郎っ」この言葉で父親は母親に平手打ちを食らわす。

「あ、殴ったな。畜生」叩かれて怯む母親じゃない。灰皿を持って立ち向かう。

 二人が取っ組み合いの喧嘩を始めて間もなくだ、「聡史、外で遊んで来い」という声が聞こえてくる。寒い夜であろうが、雪や雨が降っていようが家を出て行かなければならない。尻癖の悪い息子がいなくなると夫婦喧嘩はセックスへと昇華するのだ。聡史は近くの公園で一時間ぐらい過ごす。恥かしくて家の近くにはいられない。母親の喘ぎ声が嫌でも耳に届くからだ。

 こんな時間に自分たちの都合で子供を外に追い出す親が他にいるか。狭い借家なんだからセックスしたければ時間を選ぶとか、場所を変えてヤってくれ。両親に対する怒りは強い憎しみになり、いつか奴らをテッシュ・ペーパーに包んで焼き殺せたらいいなと思うようになっていく。

 普段の火遊びでは様々なモノを燃やしていくうちに、お気に入りが決まる。紙とマッチ棒を組み合わせて作った家の模型だ。平日に作成して、週末に貞元グランドの人気のない場所へ行って火をつける。

家の構造を複雑にすると燃え方もリアリティが増して面白い。設計にもこだわるようになった。次第に人が住んでいる民家を燃やしてみたくなる。

 だけど、これは火遊びじゃなくて完全に犯罪行為だ。警察には捕まりたくない。やりたい事はやりたいが、そこまでの勇気と決断は持てなかった。

 佐久間渚の家に放火して彼女を救い出す。

 いや、これはどう考えても問題外だ。自分がヒーローになるには最高の場面になるかもしれないが、彼女は住む家を失う。洋風のモダンな造りで燃やすにはもったいない。また、新しく住むところが近くとも限らない。転校して行く可能性が高い。これはマズい。ダメだ。

 じゃあ、どういう方法で彼女と親密になる切っ掛けを作ればいいのか。色々と考えたがパンク修理みたいにいいアイデアは浮かばなかった。難しい。ああ、もどかしい。どんどん佐久間渚への思いはエスカレートしていく。

 そんな時だ、衝撃的なニュースが教室で聡史の耳に届く。憧れの佐久間渚がサッカー部のキャプテンである佐野隼人と交換日記を始めたというのだ。

 何だと! 畜生っ、ふざけやがって。オレの女を横取りしやがった。てめえの家を燃やしてやろうか、このヤロー。よし、これで決まりだ。最初に放火するのは佐野隼人、お前の家だ。君津南中学から追い出してやるぜ。

 いつ、どうやってやるか計画を練り始めた。こんなことで警察には捕まりたくはない。いつか佐久間渚と恋人同士になるという将来が台無しなってしまう。慎重に考え続けた。学校では何度か佐野のバカが渚にピンク色のノートを渡すところを見せられた。もはや他人の目を憚ることもしない。お前ら公然の仲か、畜生。無性に腹が立った。

 渚も渚だ。パンクを直してやったオレを差し置いて、あんなバカと付き合い始めやがって。恩を仇で返すとはこういうことを言うんだ。いいか、交換日記までだぞ。キスはするな。キスは絶対に許さん。佐久間渚の身体には指一本触れさせたくない。聡史の悶々とした日々は続いた。

 いいアイデアというのはは平穏な時より逆境から生まれてくるらしい。いきなり閃いた。交換日記よりも、もっと佐久間渚と親密になれる方法を思いつく。下着を盗むことだ。

 彼女の家を観察していて、可愛らしいパンティとブラジャーが干してあるのを何度か見た。きっと渚のだ、と思った。

 佐野隼人には負けたくない。お前は交換日記までだが、オレは渚の下着を持っているんだという優越感が欲しかった。

 最初はハートがプリントしてある白いパンティを盗んだ。家に帰って誰もいないことを確かめてから机の上に広げた。物凄い興奮を覚えた。これを佐久間渚は穿いていたんだ。なんて愛おしい。手にとって頬ずりした。匂いを嗅ぐ。洗剤の臭いが強いが、微かに佐久間渚の匂いもしないでもない。嬉しかった。これは宝物だ。その後はパンティとブラジャーを一枚づつ盗んだ。大切なコレクションにした。

 家では厳重に保管しなければならない。父親に見つかれば、『どっから盗んできやがった、こんなモノ』と、怒鳴られて皮のベルトで叩かれる。母親に見つかれば取り上げられて、あの女のことだから自分で穿いてしまうかもしれない。冗談じゃない。あいつの汚いケツに使われたんじゃ、たまったもんじゃないぜ。

 あの女ときたら隣りの4号室から出て行ったババアになりすまして、二つ目の再春館のドモホルンリンクルの無料お試しセットをせしめたことがあった。呆れるぜ。そこまでするかよ。欲しかったら買え。その後も何度か4号室の郵便受けから小包を取り出す母親の姿を見た。

 佐久間渚の下着は自分しか分からない場所に隠した。家で一人になれた時は必ず机の上に広げた。頬ずりして匂いを嗅ぐのは必ずやる。これを身につけている佐久間渚の姿を想像しては股間を硬くした。

 ある日のことだ、ブラジャーとパンティを眺めていて思いつく。

秋山聡史は自分の衣服を脱いで全裸になると、佐久間渚の下着を手に取って身につけてみた。隣の部屋にある母親の鏡台の前に立つ。          

 「うわっ」誰もいない部屋で声が出てしまう。

 しばらく動けない。憧れ女性の下着を身につけた自分の姿にうっとり。似合っている。サイズはぴったりだし、これはもう間違いない。渚とオレは結ばれる運命じゃないのか。すごく嬉しい。もう脱ぐ気がしなかった。そのまま聡史は上からユニクロの白いポロシャツを着て、アディダスの紺色のジャージを穿いた。心地いい。大好きな女と一体になれた気がした。こんな幸せな気分は今までになかった。よし、明日はこれを着たまま学校へ行こう、そう決心した。

 佐久間渚の隣りに座って授業を受けながら、『オレ、今日はキミのブラジャーとパンティを身につけているんだぜ』と、心の中で何度も繰り返した。最高の一日だった。ときどきこうして学校に来ようと決めた。ところが、だ。

 B組にはゴロツキというか、居ない方が良かったと思えるバカ連中がいる。山崎涼太と関口貴久、それに相馬太郎と前田良文の四人だ。教室でバカ騒ぎを起こす。くだらない冗談を言って笑わせようとするが全く受けない。最近やったパフォーマンスは、『二年B組でAV女優として成功しそうな女子ランキング』だった。バカらしい。大人しくしているなら許せるが、四人が集まって騒ぐから迷惑は甚だしい。だから無視してきた。しかしそうできない事態になった。

 非常に不愉快なことだが秋山聡史と相馬太郎は背丈が似ていた。髪形も同じようで、何度が間違われたことがあった。それが、たまたま佐久間渚の下着を身につけて登校した日に起きてしまう。 

 聡史が廊下を歩いていた時だった、後ろから関口貴久に抱きつかれた。仲間の相馬太郎が目の前にいると勘違いしたらしい。くすぐってやろうとしたのだろう、奴の汚い手が聡史の学生服の中へと侵入した。

 やばいっ、と思った時にはもう遅い。廊下に倒れ込むだけで逃れる隙もなかった。「やめろっ」聡は怒鳴った。それでもバカは人違いだと分からない。奴の手は背中を伝わってブラジャーのホックに辿り着く。違和感を覚えたのに違いない、それが何なのか確かめるように奴の指先が動く。そして静止。すっと手が引っ込められた。

 関口貴久は体を離して、くすぐろうとした男子生徒が誰なのか確認するように聡史を見た。その顔に驚いた表情が浮かぶ。やっと人違いだと分かったのか。そして何も言わずに立ち去った。

 どうする? 授業中ずっと秋山聡史は今後の対策を考え続けた。関口のバカはオレがブラジャーをしていたことに気づいたはずだ。だけど、その場でみんなに言いふらさなかった。奴らしくもない。何事もなかったことにして忘れてくれるのか。いや、それは無いと思う。すぐに聡史はトイレに駆け込んで、着ていたブラジャーを脱いだ。これで後から言いふらされても、そんなことはないと否定できる。黙っていろと自分から言うのもやめた。あの時はブラジャーをしていましたと認めてしまうようなものじゃないか。そんなバカじゃないぜ、オレは。  

 「おい、秋山。話がある」

 やっぱりだ。下校しようと教室から出て行くところで、関口貴久に呼び止められた。大人しく廊下の隅まで付いていった。近くに他の生徒はいない。二人だけだ。奴は切り出した。「お前、ブラジャーをしてただろう?」

「……」聡史は否定も肯定もしない。

「ブラジャーをしてたな? お前」

「……」言い方を変えても同じだ。バカと話すつもりはない。何を企んでいるのか知りたいから来ただけだ。

「まあ、いいさ。このことは、お前の為に黙っててやろうと思う」

「……」で、その代わりに何を要求する気だ、このバカが。

「それでだ、今週中に三万円を持って来い。そしたら永久に忘れてやる」

「……」そんなこと信じられるか、このバカ野郎。

「分かったか」

「……」

「おい、何とか言え」

「……」

「今週中に三万円を持って来ないと、クラスのみんなにバラすことになるからな。いいな」何も言ってこないのに不安を感じたのか、口調は荒くなった。

「……」聡史は沈黙を貫き通す。頷きもしない。そして踵を返して廊下を階段の方向へと歩き出した。

「忘れんなよ、秋山」

 関口貴久の最後の言葉は背中に浴びた。ふん、三万円だと、このクソ野郎。ふざけんな。持って来たら永久に忘れてやるだと? バカ野郎、そんな言葉をオレが信じるか。上手く行ったら何度でも金を要求してくるに決まってら。よくもオレから金をふんだくろうなんて考えられたな。その代償は高くつくぞ。お前の家が燃えるんだからな。犯罪だろうが関係ない。お前の家に火をつけて恐怖を味あわせてやろうじゃないか。

 佐野隼人の家に放火する計画をそのまま関口貴久の家に変更してやった。恐喝を受けた日の二日後、三万円を持って来いと言われた期限の一日前。その夜に計画を実行に移した。初めての放火だ。

 家の三箇所に灯油を撒いてライターで火をつけた。ボヤで終わらせない為だ。上手く行けば火が火を呼んで一気に家を炎で包む。これは本を読んで知った。

 火をつけた後、聡史は急いで現場を離れた。あまりの明るさにたじろぐ。やばい。これでは簡単に見つかってしまう。近くに停めた自転車まで走り、急いで跨った。ペダルを踏み始めて間もなくだ、けたたましいサイレンの音が夜空に響いた。ちょっと早過ぎるぞ。もしかしたら失敗だったかもしれない。チクショー。通り掛りを装いながら、ゆっくり現場に戻った。

 あ、いい感じに燃えている。こりゃ、悪くないぜ。

 すでに家の周りに人だかりが出来ていた。炎が上がって、遠くにいても熱が伝わってくる。聡史は自転車を電柱にワイヤー・ロックで固定すると、歩いて野次馬の中に入って最前列へと進む。特等席は当然の権利だろう。だって火をつけたのは、このオレ様なんだから。      

 あれ、余計なことをしやがって。

 近所の人たちだろう。バケツに水を汲んで一生懸命に火を消そうとしていた。バカ野郎、せっかくの全焼モードを台無しにするんじゃねえ。負けるなよ、火。

 しかし反面、慌てふためく大人たちを見て愉快に感じた。自分が放った火によって町内に大混乱をもたらしたのだ。オレは全能の神か。

 「すっげえ火事だな」

「こんなの初めてだ」

「一気に燃え上がったぜ」

 人だかりのあちこちで賞賛の声が上がる。気分がいい。『凄いでしょう。オレがやりました。初めてだったけど、なかなか上手く行ったと思います。みなさん、どうぞ楽しんで下さい』人だかりの前に出て、そう挨拶したいくらいだ。きっと拍手が沸き起こるに違いなかった。

 サイレンの音と共に消防車が着いた。防火服を着た消防士が素早く降りてきて、「危険ですから退いてください」と言いながら野次馬連中を強引に後ろへ下がらせる。そして何人かで黄色いテープ張っていく。ここから前へ入るなということか。ちょっと遅れてパトカーも到着。数人の警察官とツナギ服を着た男たちが降りてきた。記念撮影でもするのか、大きなカメラを持った奴もいた。

 『おい、大人たち。いいか、この火事の演出者はオレなんだぞ。退けとは失礼じゃないか』そう言いたいところを我慢して秋山聡史は指示に従う。

 と、その時だ。場所を移動する動きの中で自分と同じ中学生ぐらいの奴の姿を認めた。誰だろう? 見覚えが--あっ、やっぱり関口の野郎じゃないか。ラッキー。

 そっと近づく。ふっ、思わず噴出しそうになった。バカはポケモンの黄色い寝巻き姿だった。袖のところが少し黒く焦げてる。中学にもなって、アニメ・キャラに執着か。サンダルは片方だけ、それも大人のサイズだ。大事そうに猿の縫いぐるみを抱えてる。まだガキか、お前は。寝癖か、それとも燃えたからか、髪の毛はクシャクシャ。まるでホームレスみたいじゃないか。辛うじて火事から逃げてきたって感じがありありだった。笑いを堪えて後ろから声を掛けた。「おい、関口」

 奴が振り向く。「……」放心状態だ。口は開いているが言葉が出てこない。よく見ると唇が震えていた。この前とは逆だ、オレが喋る番だな。

 「なあ。明日、いくら学校に持ってくればいいんだっけか? あっはは」ついでに滅多に人に見せない秋山聡史様の笑顔を拝ませてやった。

 この後は二度と関口貴久の姿を見ることはなかった。祖父がいる九州へと引っ越してしまった。

 ああ、でも火事は最高だった。あの燃え方、あの熱気、あの家が崩壊していく様、観衆の期待と興奮、すべてが素晴らしかった。またやりたい。やっぱり次は佐野隼人の家しかない。この君津からクソ野郎を追い出したい。九州でも、どこでもいい。佐久間渚の前から消えてくれ。あの女はオレのモノなんだ。その証拠に下着のサイズがぴったり一緒だろう。いずれオレたちは恋人同士になるんだ。

 それにしてもだ、気に入らないのは彼女が五十嵐香月と山田道子の二人と仲良しだっていう事実だ。ぜんぜん佐久間渚に相応しくない。

 五十嵐香月なんていう女は最も嫌いなタイプだ。お高くとまりやがって、お前は何様のつもりだ。いつだってオレのことを無視しやがる。いつか家が燃えても知らねえぞ。この女の性格の悪さが渚に伝染しないか不安で仕方ない。

 山田道子を一言で表すとすれば、それは『普通』という言葉しか見当たらない。美人であるわけではなく、また可愛いという形容詞は相応しくない。まあ、ブスでもなかった。全く印象のない女。記憶に残らない女。その他大勢の中の一人。居なくなっても誰もにも気づかれない女。究極の『普通』だ。

 どんなに高価な服を身につけても、安っぽい着こなししか出来ない女。いつも野暮ったい雰囲気を漂わせている。似合うのは、しまむらのバーゲン品かDマートのワゴン・セールで買った服だけだろう。

 もし誰かから『山田道子って、どんな女?』と訊かれたら、もちろん、『普通な女』としか答えられない。『それじゃあ、よく分からない』と言われたところで出てくる答えが、『足の臭そうな女』だった。実際に嗅いだわけではないが、そんな感じがした。

 憧れの佐久間渚が山田道子と一緒にいると、なんだか果汁100パーセントの美味しいオレンジ・ジュースに、不注意にも水道の水が注がれて、どんどん味が薄くなっていくみたいで嫌だった。

 交換日記をする相手に佐野隼人を選んだのも気に入らない。サッカー部のキャプテンだからか? それがどうした? 佐久間渚を本気で好きなのはオレだけなのに。何で、どうして、それが分からない?

 いずれ恋人同士になった時に教えてやろう。渚のブラジャーとパンティを身につけたオレの姿を見せてやるんだ。『キミのことが大

好きだから、キミの下着が欲しかった』という言葉を添えて。一目でサイズがピッタリなのは分かるだろう。秋山聡史こそ運命の人だと気づく瞬間だ。きっと渚は目に涙を浮かべて感動するはずだ。こんなにも自分を愛してくれた人がいたんだと。

 そこで、もう少し佐久間渚の下着をコレクションしたかった。三枚くらいじゃあ本気で好きだったと証明するには不十分に思えた。

 だけど彼女の家では、洗濯物を盗られないように警戒している様子が窺えるようになった。干しても数時間で部屋の中に入れてしまう。これでは盗みようがなかった。ただ眺めているしかない。向こうの気が緩むのを待つしかなかった。もどかしい日々が続く中、いきなり赤いチューリップ柄の下着のペアが目に飛び込んできた。

 えっ、何だ。うわっ、すげえ。一目で欲しくなる。あれを絶対にコレクションに入れたい。

 その下着を盗むことだけに秋山聡史は集中した。ほかのモノには目もくれない。隙を見つけて盗む。それ以外にない。しかしチャンスは訪れない。分かったことは滅多に渚は、その下着を着用しないということだ。だから洗濯する回数も少ない。タンスに仕舞い込んでいるらしい。洗っても外で干すのは一時間以内に限られていた。盗られないように細心の注意が払われているのだ。これじゃあ、手も足も出なかった。

 ミッション・インポッシブル、つまり不可能に近い作戦だ。これが成功したらトム・クルーズ主演で映画化されても、ぜんぜん不思議じゃない。もしかしたら永久に手に入らないかもしれなかった。その可能性は強い。諦めるべきなのか。でも忘れられそうになかった。そう考えると、より一層欲しくなっていく。あのチューリップ柄のブラジャーとパンティが手に入るなら何でもしてやろう、そんな心境だった。

 どうしよう、あいつに相談するか? いいや、それは最後の手段だ。本当に信用できる人間なのか、まだ分からない。出来ることなら自分の力でなんとかしたかった。

 週末のある日、いつものように遠くから双眼鏡で佐久間渚の家を観察していて気づく。他にも誰かが同じように彼女の家を双眼鏡を使って見ていたのだ。そいつは大胆にも路上で自転車に跨ったままの格好だった。

 一体、誰だ? 「あっ、……あいつだ」まさか。信じられない。何で、どうして? 

 あっ、やばい。と思った瞬間、もう手遅れ。突然そいつが双眼鏡を持ったまま回転を始めたのだ。聡史の方向を通り過ぎてから、不自然に動きが止まって少し戻った。畜生、見つかったらしい。双眼鏡を通して目が合った状態だ。二人とも動けない。聡史の全身から汗が噴出す。秘密を知られてしまった思いだ。どうしよう。ブラジャーをしているところを関口貴久に見つかった時よりも動揺している。動けない。呼吸すら満足に出来なかった。緊張して何も聞こえない。苦しい。双眼鏡を持つ両手が痛い。

 あ、あ……助かった。 

 幸いにも、そいつが先に行動を起こしてくれた。双眼鏡を下ろすと、何もなかったように自転車で走り去って行く。姿が見えなくなると、その場に聡史は腰を落とした。深呼吸。それを何度も繰り返す。疲れた。すべての体力を使い切った気分だった。もう今日は帰ろう、と立ち上がったところで、佐久間渚の家の物干さおにチューリップ柄の下着がペアでぶら下がっているのを目にする。ちっ、マジかよ。こんな時に限って……。ダメだ。そんな気力は残っていない。行動に出ればドジを踏むに決まっている。渚の家族に見つかれば取り返しのつかない事態を招く。間違いなく両親は下着を盗もうとした男と娘の交際を快くは思わないだろう。仕方ない。聡史は泣く泣く帰路についた。

 家に帰って考えたのは、あいつのことだ。これからどうなる?

これからどうしよう。秘密を知られたからには、家に火をつけて君津から追放してやるしかないのか。関口貴久の時みたいに金を要求してくるだろうか。だけど今回は前と違って自分も奴の秘密を知ったということだ。どう向こうが出てくるのか待つことにした方がいい。こっからは何も言わないと決めた。

 「秋山くん」月曜日の昼休み時間、教室に生徒の数が少ない時を見計らって奴は小声で話しかけてきた。「驚いたな、キミも佐久間渚に夢中だったのか」

「……」オレは否定も肯定もしない。

「あんなに可愛い子は他にいないぜ」

「……」ああ、その通り。

「キミもチューリップ柄の下着を狙っているのか?」

「……」えっ、マジかよ。こいつも渚のブラジャーとパンティに興味を持っていたらしい。やばいな。

「だったらオレは諦めようかな。キミと勝負して勝てる見込みはなさそうだ」

「……」本気で言っているのか、お前。まさか誘導尋問じゃないだろうな。

「しかし、あの下着をゲットするのは難しいだろうな。一人じゃ無理だと思う。良かったら、いつでも協力するぜ。いいアイデアあるんだ。考えてみてくれ」

 そう言い終ると奴は振り向いて、その場を離れた。オレは黙ったままだったが、なかなか内容のある話だった。佐久間渚のことは諦めてくれるらしい。ライバルが一人でも減ってくれるなら、それはいい事だ。チューリップ柄の下着を盗むことは一人では難しい、とも言った。それも同感だ。だけどオレは誰の助けも借りたくなかった。

 それから数週間が聡史の目的が達成されないまま過ぎた。苛立ちと焦り、募る欲求。次第に頭の中で協力を求めるという考えが大きくなっていく。悩み続けた。あのチューリップ柄の下着さえ手に入れば、佐久間渚の心を捉えたも同然という錯覚が秋山聡史を支配する。何が何でも早く欲しい。

 あいつに……、いや、人には頼みたくない。だけど、このままでは手に入れることは不可能だ。どうしよう。

 朝起きて、まずその事を考える。学校へ行きながら、その事を考え続ける。授業中もその事しか考えない。佐久間渚の近くにいる時は尚更だ。家に帰って夕飯を食べながらも、頭の中は渚のブラジャーとパンティでいっぱい。デレビを見てても、ずっとその事に思いを集中させている。

 今日、下校途中で佐久間渚と挨拶を交わした。嬉しかった。この問題を早く解決したいという気持ちは強くなった。あいつに……、「あ」と思わず口から声が漏れる。

 道の反対方向から同じクラスの篠原麗子が足早に通り過ぎて行ったのだ。何で、どうして。学校に忘れ物でもしたか。いや、そんなんじゃない。何か切迫した雰囲気があった。聡史と目も合わさなかった。彼女らしくない。

 あの女は嫌いじゃなかった。優しくて素直な性格で、それが顔立ちにも表れていた。誰からも好かれている。身長は百六十センチを超えていて、女らしい身体つきだった。ここ最近で、すごく色っぽくなった感じがした。制服を着ていなければ、もう大人の女性と変わらない。ボーイフレンドでも出来たんだろうか。そいつと喧嘩した直後だったりして……まあ、いいや。どうせ、オレには関係ない事だ。それより佐久間渚の下着の問題だった。もう待てない。一刻も早く解決したい。あいつが言う、いいアイデアというのを一度聞いてみたい気になっていた。それがオレを納得させられるものだったら、その時は協力を頼もう。それがいい。

 秋山聡史は久しぶりに気持ちが楽になった思いだ。さっそく明日の朝、あいつに声を声を掛けようそう決心した。

 

   16

 

 五十嵐香月は仲良し二人と別れて、自分の姿が彼らから見えなくなる場所まで来ると歩調を速めた。もう気兼ねすることはない。気分はウキウキ、ルンルンだった。スキップさえ踏みたい気持ちだ。今日これから受けるレッスンのことを考えると、身体が火照るのを抑えられなかった。

 親が雇った家庭教師というのはウソだ。両親が知らない家庭教師だった。今日、彼が家に来ることだって知らない。

 彼と親しくなったのは一ヶ月前で、場所は国道127号線沿いにあるレンタル・ビデオ店だ。その日、香月は『ディープ・インパクト』のVHSビデオを借りたくて来ていた。しかし新作コーナーの棚に並ぶケースすべてにレンタル中と書かれた青い札が掛けられていた。

 がっかり。

 あのモーガン・フリーマンが出演している新作だけに人気は高かった。期待はしていなかったけど……、もしラッキーだったらという思いだった。見落としはないかと、しばらく棚の前に佇む。ひょっとして店員がレンタル中の札を外しに来るかもしれない。

 準新作コーナーには『タイタニック』が並んでいて、ほとんどが借りられる状態になっていた。いい映画だった。あんなに感動した作品は他に『ショーシャンクの空に』しか思いつかない。

 夜は赤川次郎の『三毛猫ホームズ』でも読んで過ごすしかなさそうだ、と諦めて帰ろうとしたところで誰かに呼び止められた。

 「五十嵐さん」

「あ」振り返ると同じクラスの男子生徒だった。その手には店の青いビニール・バッグが握られていた。何を借りたんだろう、と咄嗟に思った。

「見たい映画はあったかい?」

「……」香月は首を横に振って答えた。この男子とは口を利いたことがない。背は高くないし、顔つきも子供っぽくて、好きなタイプじゃなかった。

「それは残念だ」

 香月は背を向けた。話したくない。言い寄ってくる多くの男たちにはうんざりしていた。たいしてカッコ良くもないくせに、付き合ってくれないかと訊いてくる。いい加減にしてよ、あんたとあたしで釣り合いが取れると思っているの? そうハッキリ言ってやりたい場面は何度もあった。たまたまレンタル・ビデオ店で会っただけなのに、ナンパのチャンスと考えている愚かな男にしか思えなかった。

 「今、『ディープ・インパクト』を借りたんだけど、良かったら先に見るかい? でも映画同好会の五十嵐さんのことだから、もう見ちゃってるかな」

 香月を再度、振り返らすのに十分な言葉だった。

「これなんだけど」と言って青いビニール・バッグを差し出す。

「……」え、どうしよう。

「もう見ちゃったかい?」

「ううん」今度は言葉で答えた。

「それなら月曜日に学校で返してくれたらいいよ」

「え、見ないの?」

「いいや、それはない。親から頼まれていた用事を思い出して、今日は時間がなさそうなんだ。月曜日の夜にでも見ようかなと思っている」

「本当?」

「ああ。五十嵐さんが先に見ればいい」

「ありがとう」うわ、ラッキー。

 五十嵐香月は嬉しい気持ちで自宅に帰れた。あいつ、なかなかいい奴かもしれない。でも、もし付き合ってくれなんて言ってきたら即座に拒否。自惚れるじゃないわよ、たかがビデオを又貸ししてくれたぐらいでさ。口を利くぐらいならいいけど、それ以上は絶対にダメ。

 月曜日の朝、登校すると佐久間渚と山田道子の二人が近くにいない時を選んで、借りたビデオを彼に返した。もし見られたら、『どうしたの? 何があったの?』と徹底的に事情を聞かれる。きっと『ビデオを借りただけよ』と正直に答えても二人は信じない。あたしと彼が付き合っているらしいと、勘ぐるに決まっていた。山田道子に限っては香月の秘密を知ったと得意になるかもしれなかった。     

 映画はモーガン・フリーマンの出番が少ないことが不満に感じたが、内容は悪くはなかった。

 「これ、ありがとう」

「どうだった、この映画?」

「面白かった」

「それは良かった。今夜が楽しみだな」

「うん。ありがとう」そう言って、自分の席に戻ろうとした時だった。思いがけない言葉を背中に浴びた。

「五十嵐さんは本当に綺麗だなあ」

「……」え、どう応えていいのか分からない。そこまでハッキリと同級生から外見に対する賛辞を伝えられたことはなかった。

「やっぱり将来は芸能界へ進むつもりなんだろう?」

「え……」芸能界……うん、そう思っていた。……だけど。「わからない」なんとか五十嵐香月は声を絞り出す。

「わからないって、どういう意味だい? それだけ見栄えがいいのに、まさか無駄にするつもりなのかい」

「……」げっ。ずっと香月が悩み続けている問題の核心を、いきなり突かれた。

「五十嵐さんが、『プリティ・ウーマン』みたいな映画のヒロインを演じて、大スターになるのは想像に難しくないよ」

 え、ちょっと待って。お願い、待って。その言葉よ、まさしくその言葉だわ、あたしが期待していたのは。母親の口からは聞かれなかった、紛れもない、その言葉。

 ずっと自分は、そうなりたいと願っていた。そうなるのに相応しい美しさが、自分にはあると思っていた。君津のDマーケットで、もしくはルピタで、芸能界に関係した人からスカウトされないかしらと期待していた。しかし声を掛けてくるのは、ダサい格好の不細工な男たちだけだった。

 「お姉ちゃん、ドライブしない?」図書館からルピタへ歩いて行く途中で声を掛けられたことがある。お気に入りの青い水玉のワンピース姿だった。振り向くとサングラスをした長髪の男が黒いインプレッサを超スローで運転していた。明らかに自分で自分を凄く格好いい男と錯覚している超バカ者。もう、最悪。冗談じゃない。この服で、そんな暴走族みたいな車の助手席に座ると思ってんの? 家にあるのがフォルクス・ワーゲンの白いゴルフEなの。品のない自動車はお断り。

 おしゃれな格好をして出歩いても、それに反応して群がってくるのは田舎臭い阿呆連中だけなのが悔しかった。

誰にも言わなかったが芸能界への憧れは幼い頃からだ。最近は女優の中山エミリを強く意識していた。すごく可愛くて綺麗だ。彼女が写真週刊誌フライデーに、西麻布での路上キスをスクープされた記事を見たときは驚いた。なかなかやるな、と思った。女優たるもの常に注目を集めるために、話題を提供し続けなければならない。さしあたり自分だったら、と考えてみた。体育館の裏でキスを見つかったり……いや、ダメだ。男子の喧嘩じゃあるまいし、あそこはナメクジが多くてロマンチックじゃない。なら、保健室だったらどうだろう。西麻布には負けるが、ベッドは置いてあるし、みんなの想像をかき立てるには学校の中では最高の場所かもしれない。だけど……、どこにもキスするに相応しい相手がいなかった。ここは田舎すぎる。

このままではダメだ。この君津で、このまま埋もれて一生が終わってしまいそう。たぶん袖ヶ浦か天羽の高校を卒業して、ちっぽけな地元の建設会社の事務員になるのが関の山だろう。イヤだ、そんな人生。

 中学二年に上がって危機感を抱いた五十嵐香月は決断する。もはや自ら行動に出るしかない。母親に相談して芸能界に進みたいことを初めて伝えた。

 「お前の熱意は分からないでもない。だけど、かなり厳しい世界らしいよ。きっと辛い事は沢山あるよ。テレビに出られる人なんて僅かだろう。ほとんどが途中で挫折して辞めていくんだ。それでも挑戦してみたいのかい」

 散々否定的な意見を聞かされた。それでも香月が頷くと、ため息をつきながらも母親は出来る限り協力してくれると言ってくれた。

 その日のうちに杉浦書店へ行って、それに関係した雑誌を買う。エントリー用紙が付いていたので、それに必要事項を記入した。 

 週末は自宅のリビングで上半身と全身の写真を、父親のデジタル・カメラを使って撮った。気に入った服すべてで何度もシャッターを切る。朝から夕方まで、ほぼ一日を費やす。ベストの写真は、やはり青い水玉模様のワンピースだった。大人っぽくてセクシー。スタイルの良さも分かってもらえそうだ。二枚の写真をエントリー用紙に添えて港区の芸能プロダクションへ送った。

 返事は、すぐに来た。学校から帰ると、笑顔で母親が午前中に電話があったと教えてくれた。来月に行なわれるオーディションへ来てくれと言う。つまり書類選考に通過したということだ。すごく嬉しかった。『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツに近づいた思いだ。

 だが嬉しい思いはオーディションの日が近づくにつれて小さくなり、どんどん不安が大きくなる。会場は港区の事務所が入るビルの5階だった。青い水玉模様のワンピースで行くことにした。この服しかない。

 その前日だった。親戚に不幸があって、母親が一緒に行けそうにないと言い出す。じゃあ、一人で行くしかない。気持ちは沈んだ。

 君津駅から内房線に乗って蘇我駅まで行く。そこで京葉線に乗り換えた。次の電車が出発するまで時間があったので、駅ホームの自動販売機でシャキッと元気に行きたい思いでリアルゴールドを飲んだ。うまい。だけど喉の渇きを癒すには量が少なかった。香月は続けて自販機にコインを投入すると、次はドクター・ペッパーを選んだ。これも美味しかった。

 地元から遠ざかることで不安が増大していく。東京メトロの麻布十番駅に降りた時には、なんだか自分がアメリカのニューヨーク五番街に辿り着いたような思いだった。言葉は通じるかしら。

 何人かの人に道を聞いて会場を探し当てた。ガラス張りのエレガントな十二階建てのビルで、エレベーターに乗って5階へ上がる。降りた廊下には近くにデスクが置かれていて、ストレートの黒髪が綺麗な三十歳ぐらいの素敵な女性が立っていた。白いブラウスにグレーのタイトなスカート姿で、いかにも仕事が出来そうな感じだ。ベルトはブラックでゴールドの大きな丸いバックルが引き立っている。うわ、お洒落。そこが受付けだった。オーディションの順番を表す、番号札を渡された。二十五番だ。え、そんなにいるの? 

 受付けの横が待合室だと教えられて、そのままドアを引いて中へ入った。話し声が止む。一瞬の静寂。広さは学校の教室の半分ぐらいか。二十人近い人が四隅に備え付けられたソファに座っていた。全員の視線が五十嵐香月に集中。

 みんなが母親を連れて来ていた。友達同士で来ている子たちも何人かいる。やっばり、一人で来たのは香月だけらしい。

 視線に耐えられない。空いているスペースを見つけて、急いで腰を下ろした。バッグを開けて中から何か探す振りをして誰かと目が合うのを避けた。

 横目で周囲を観察する。若い綺麗な女の子たちばかりで、男の子は一人だけだ。痩せっぽちで、太った母親の横に大人しく座っていた。こんな女だらけのところに、よく居られる。どんな神経をしているのか。

 女の子たちの美しさは目を見張るほどだった。服のセンスは抜群で、これからステージに上がっても可笑しくない格好の子もいる。

タイトな服を着て身体の曲線を強調した超セクシーな子は特に目立った。悔しいけど凄く似合っていた。

 君津南中学校では美貌を誇れた五十嵐香月だったが、ここでは普通の女の子に成り下がってしまう。まるで二年B組の山田道子になった気分だ。最悪。どうしよう。

 斜め向かいには肩を寄せ合って座る女の子二人がいて、少し話しては何度もケラケラとよく笑う。こんなところで一体、何を話しているんだか。バカじゃないの。

 いきなりドアが開くと受付にいた女性が現れて、「二十番の人」と声を掛けた。長身でスタイルがいい、まるでモデルみたいな女の子が立ち上がって部屋から出て行く。あと五人もいるのか、と自分の順番が来るまでを数えてうんざりした。

 香月は、バッグの中から何も書いていないノートを取り出して読む振りをした。みんなの視線を集めたくないので、出来るだけ身体

を動かさない。

 時間が経つのが遅かった。まだかしら。少しでも早く、ここから立ち去り……。

 うっ、……しまった。ああ、どうして? オシッコがしたい。急に尿意を催す。蘇我駅のホームで二本も缶ジュースを飲んだのがいけなかった。このビルのエレベーターに乗り込む前にトイレに行くべきだった。後悔の念に駆られる。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。  

 トイレに立てば部屋にいる全員の視線を集める。いやだ。恥かしい。我慢できるか、……いや、出来そうにない。

 斜め向かいに座る二人が、またケラケラと口を押さえて笑った。

むっ。く、悔しい。あたしの事を笑っているに違いなかった。千葉県の君津から出てきて、オーディション会場でオシッコがしたくて我慢している、あたしを笑っているのだ。

 もし、こんな場所でオシッコを漏らしたら……。大好きなチューリップ柄のパンティを穿いていた。濡らしたくない。

 もうダメだ、限界。五十嵐香月は意を決して立ち上がった。ケラケラ笑っていた二人が驚いて顔を上げる。唾を吐きかけてやりたいと思ったが、そうしないで早足で部屋から出て行く。受付けの女性が、どうしたのというような表情を見せたが、無視してエレベーターへ急いだ。案の定、その近くにトイレがあった。

 もう、あの部屋には戻りたくない。みんなが、あたしを軽蔑して敵視しているんだ。用を足しながら香月は、そう思った。トイレを出ると、そのままエレベーターで下まで降りた。外に出て麻布十番の駅まで歩く。足取りは重かった。

 君津へ戻る電車の中で気分は最悪だ。もうダメだ、あたしは。人生が終わった。『うん、そうらしいね』と、他の乗客たちも心の中で思っているみたいな気がした。

 「どうだった?」玄関の扉を開けて、家の中に入った途端に母親が訊く。

「わからない」用意していた言葉で答えた。それしか言いようがない。色々と訊きたがる母親に、「すごく疲れた」と言って自分の部屋へ逃げた。一人になりたかった。

 なのに母親は一緒に二階まで上がってくる。無下にも出来ない。「三十人ぐらい、女の子がいたわ」

「まあ、そんなに。それで何て訊かれたの」

「色々と。趣味とか、やっているスポーツとか」

「へえ。でも、香月が一番きれいだったでしょう?」

「……、さあ、わからない」親ばか、そのもの。世間知らずなんだから、まったく。

 まあ、そう言う自分も今日、芸能プロダクションの事務所へ足を運ぶまでは不安もあったが、かなりの自信も持っていた。それが全て打ち砕かれてしまった。

 「疲れたから、もう寝るわ」

「え、夕飯は? 香月の大好きなスパゲッティにしたのよ」

「ありがとう。でも明日にするわ」

「そう」

 娘の沈んだ様子から空気を読み取って欲しかったが、そうは行かないのがうちの母親だ。そのあと何度も、それも毎日のように、うんざりするほどオーディションの話を持ち出す。「結果の知らせが遅くない? どうだったのかしら」とか。そもそも受けていないのだから、結果の知らせが届くわけがない。

 「さっき電話があったの。オーディションは受からなかったみたいだわ」次の日曜日、母親が買い物から帰って来たときに、そう言って嘘をついた。これで終わってほしい思いだった。

「え、どうして? 変じゃない、香月が落ちるなんて。どういう訳なのか、お母さんが電話してみようか」

「いい。いいから、お母さんは黙ってて。お願い」

「お前、そんなこと言ったって……。ここで引き下がっちゃダメなのよ。世の中、押しが大切っていう事もあるんだから」

「いいの、自分で何とかするから。ほかの芸能プロダクションを当たってみるわ」

「お前がそう言っても、お母さんは納得できない。失礼にもほどがある、うちの娘を落とすなんて。文句を言ってやらないと」

「止めて、お母さん。お願いだから」

「いい子で素直だから、お前は何を言われてもそのまま受け入れてしまう。だけど、それは時と場合によるの。理屈に合わないことをされて黙っていれば、相手を付け上がらせるだけなのよ。さあ、電話番号を教えて。お母さんがガツンと言ってやるから」

「違うの、お母さん。よく聞いて。まだ落ちたと決まったわけじゃないのよ」こう言うしか母親を止める方法はない。

「え、どういうこと?」

「最初の企画には通らなかったけど、他にも企画があるから、そっちで選考するから待ってほしい、って言うことだったの」

「……じゃあ、完全に落ちたわけじゃないのね」

「そ、そうなの」

「なあんだ。はっきり香月が説明しないから、お母さん、勘違いしちゃったじゃないの」

「御免なさい」

「でも良かった。まだ可能性はあるわけね」

「うん」

「期待できるわよ。香月ほど綺麗な子なんて滅多にいないんだからさ」

「……」

 この場は何とか収まった。だけど母親に協力を求めたことを強く後悔した。これからどうなるのか。

 芸能界には入れそうにない。だけど母親は頻りにオーディションの話を持ち出す。ノイローゼになりそうだった。これからの人生は長いのに目標がなくなった。何もする気が起きない。毎日だらだらと過ごしていくだけの自分。

 少し元気になったのは、日本代表がフランス・ワールドカップ出場を決めた時。最後は延長戦での岡野のゴールデン・ゴールだ。現実から逃避する思いでサッカー熱に酔った。

 初めて見た試合が四年前のドーハの悲劇で香月は小学三年生だった。その頃は父親が大好きで一緒にソファに座って観戦した。プレーを見ながら分かり易くルールや試合の運び方を説明してもらう。楽しかった。ロスタイムで同点にされた時は何が起きたのか理解できない。ただ父親の失望する姿から、すごく悪いことが起きたんだと感じた。その通りで、ワールドカップには出場できなかった。アメリカ大会では日本代表の代わりとして、サッカーの神様と言われるペレが推した、アスプリージャを擁するコロンビア代表を応援したが、初戦のルーマニアに続いて米国にも負けて,一次リーグ突破も叶わなかった。

 今では父親とは距離を置いて、ほとんど話をしない。

 「お父さんに、いつでもべったりなんだから」小学四年生の頃だったと思う、いきなり母親から言われた。そうしちゃ悪いみたいな言い方をされて戸惑う。

 「お父さんと仲良くしたらいけないの?」香月は訊いた。

「そんな事は言ってないわよ」と母親の答え。理解できない。

「だって、そんなふうな言い方だったじゃない」

「言ってません。お父さんと仲良くしたければ、すればいいのよ。あなたの勝手よ」突き放すような言葉を返されて、どうしていいのか香月は分からない。仕方なく父親とは口を利かないようにした。

 しばらくすると、「お父さんと仲良くしなさいよ。いい子なんだから、香月は」と母親。態度は一変して口調も優しい。一体、どうなっているのか。

「お父さんと何かあったの、お母さん?」

「何もないわよ」

 そう言われても香月は納得できない。しつこく何度も訊くと別の答えが返ってきた。「香月は子供だから知らなくていいの」

 やっぱり何かあったんだ。子供だから知らなくていいと言うけれど、お使いには「もうお姉ちゃんなんだから、このぐらいのお手伝いが出来なくてどうするの」と言われて行かされる。

 都合のいい時はお姉ちゃん扱いで、都合の悪い時は子供扱いらしい。

 母親に嫌われたくないし、両親の仲を窺いながらも面倒なので、いっそのこと香月は父親と距離を置くようになっていく。だからジョホールバルの試合は自分の部屋で一人で見た。

 日本代表がフランス大会の出場を決めたことで、君津南中学のサッカー部も注目を集めるようになった。特にストライカーの板垣順平は女子の憧れの的だ。回りが、キャー、キャー言うものだから香月も彼を意識するようになった。

 確かに背は高い。顔も悪くない。運動神経は抜群だ。女の子に人気があるのも頷ける。だけど……うむ、しかしだ、彼の家は中古車屋だった。新車のディーラーではない。それに彼の言動からは知性というものが感じられなかった。本を読んだり、洋楽を聴いたり、洋画を鑑賞したりするとは思えない。結論として自分のボーイ・フレンドには相応しくなかった。

 理想のタイプは痩せていて背が高く、ハンサムな男。運動が出来て知性に溢れている。そして青年実業家であったら最高。グリーンのベンツEクラスを所有していたりすれば尚うれしい。まあ、BMWの3シリーズでもいいけど。あ、でもベンツのCクラスは嫌い。だって小ベンツなんて名前で呼ばれてよばれいるから。

 当たり前だけど、この君津南中には一人も該当者はいなかった。将来そうなりそうな人物も見当たらない。こんな田舎じゃ無理なのか……。

 それでも友達に誘われてサッカーの試合には応援に行くようになる。何もする事がなかったし、少しでも外に出れば自分が元気になれるかなと思ったからだ。

 観戦していて不思議なことに何度も板垣順平と目が合う。その理由を教えてくれたのは佐久間渚だ。彼女はサッカー部のキャプテンである佐野隼人と仲がいい。

 「板垣くんたら、香月のことが好きらしいわよ」

 あ、そうなの。最初は、その程度の反応だった。言い寄ってくる大勢の男達の一人としてとしか意識できない。恋愛感情は持てなかった。

 だが、それが噂となり広まっていくと、板垣順平を憧れる多くの女子を失望させた。香月は気分がいい。あたしは、みんなと違う。優越感に浸れた。オーディションで味わった悔しさを八つ当たり出来るチャンスかもしれない。もっとガッカリさせてやりたくて、みんなが見ている前で板垣順平に馴れ馴れしく声を掛けたりした。効果はてきめんだ。

 香月も好意を持っていると思った板垣順平は行動に出る。ちょくちょく用事もないのに電話してくるようになった。佐野隼人と佐久間渚と一緒に四人で出掛けようと誘ってきた。

 そんな気はさらさらない香月は、のらりくらりと生半可な返事を繰り返した。突然のプレゼントが気持ちを変えるまで。

 放課後、掃除当番をしていた香月に板垣順平が近づいてきて包みを手渡した。ソニー製のミニ・ディスク・ウォークマンだった。録音も出来るやつ。すぐに佐久間渚が教えたんだと悟った。

 その数日前だ、香月は小雨の中で飼い犬のリボンの散歩途中に、手に持っていたミニ・ディスク・プレーヤーを水溜りに落としてしまった。仲良しの犬に気づいたリボンが走り出そうと、いきなりリードを引っ張ったからだ。すぐに拾ったが内部に雨水が入ったらしく二度と再生はしなかった。買ってから半年も経っていなくて、ずっと大事に使ってきたのに。泣きたいほど悔しい。翌朝、佐久間渚と顔を合わせると一番にその話をした。「渚、ちょっと聞いてよ。昨日、リボンの散歩をしてたら……」

 それが板垣順平の耳に伝わって、突然のプレゼントという結果をもたらす。うれしかった。「うわっ、ありがとう」 

 と、同時に心の隅で理性が働く。同級生から、ましてや付き合ってもいないのに、こんな高価な品物を受け取っていいのだろうか。返す気は少しもなかったが、口からは礼儀をわきまえた言葉が出てきた。「本当に貰ってもいいの? こんな高いモノ」

 五十嵐香月の最大の弱点は、百円程度のモノでもプレゼントされると相手に好意を持ってしまうことだ。とにかくモノを貰うことが大好きだった。後になって、そんな安価なモノで自分が心を動かしたことに気づいて情けなく思うことが少なくなかった。

 今回はソニー製のミニディスク・ウォークマンだ。アイワ製じゃない。とても百円では買えない。お返しとして、四人で映画﹃タイタニック﹄を見に行くことを承諾した。彼は電車賃からファミレスでの食事代まで全てを支払ってくれた。お金を更に使わせることになってしまったが、そうすることで彼は喜んでいた。

 うん、なかなか紳士じゃない。そんなに中古車屋って儲かるのかしら。一人息子は親から小遣いをたっぷり貰っているようだ。ちょっと付き合っていいかも。そんな思いから二人だけのデートが始まった。ララポート船橋には何度も行く。いつも何か買ってくれた。ロキシーのロゴが入ったTシャツから始まり、ポロシャツ、青い水玉のワンピース、ハイレグ水着へと進み、とうとうブラジャーとパンティまで買わせた。それが当たり前になった。

「香月ったら、一体いくら板垣くんに使わせたのよ」と、見かねた渚が注意してきた時に、ちょっとだけ良心の呵責を感じた。しかし週末に立ち寄ったマツキヨでは、順平がエアーサロンパスを入れた買い物カゴをレジまで持って行く途中で、生理用ナプキンを忍ばせてしまう。

 板垣順平はモノを買うことで二人の関係を深くしようと考えていたらしい。しかし香月は身体には指一本触れさせない気だった。手を何度か握られたが、直ぐに払い除けた。

 とうとう「キスさせてくれ」と迫ってきた時は、「あたしたち、まだ中学生だから」と言って拒否した。すると思いも寄らない情報が耳に飛び込んできた。

 「何、言ってんだ。もう佐野と佐久間だってしてるんだぜ」

 えっ、マジで? 驚いて順平の顔を見ると、﹙しまった、言っちゃった﹚というような表情で口元を手で押さえていた。「おい、今の聞かなかったことにしてくれ。頼む」

「……」驚きは顔に出さない。しっかり無表情を保つ。

「お願いだから、聞かなかったことにしてくれ」

「……」無言のまま。こういう場合、出来るだけ長引かせることが肝心。交渉術には長けているつもりだ。

「香月、頼むよ」

「……いいよ。わかった」不満たらたらという感じで頷くが、心ははニンマリ。香月にとっては好都合。これで当分の間は順平がキスを迫ることはないだろう。このタイミングで、ミスティウーマンのショート・ブーツをねだれば買ってくれるかも。それに渚の秘密を知った。

 あの女、可愛い子ぶっていながら隅に置けない。あたしに黙って佐野隼人なんかとキスして。お互いの口の中に舌を入れて絡ませ合ったんだろうか。うわっ、気持ち悪い。あたしだったら絶対にしない、そんな不潔なこと。まあ、グリーンのベンツを運転する理想の彼氏が求めてきたら別かもしれないけど

 それにしても未だに報告がないのはどういうことか。ずっと黙っているつもりなのかしら。腹が立つ。異性との関係で自分より早く一歩前に踏み出したことも気に入らない。

 初潮のときはあたしが一番で、その二週間後が道子だった。渚はなかなか来なくて、「あたし、ダメかもしれない」と嘆いて心配するのを、「大丈夫、きっと来るから」と言って慰めて励ましたのだ。

 どこで調べたのか知らないが道子の方は安心させるどころか、「もしかしたらロキタンスキー症候群じゃないかしら」と、不安を煽る始末。生まれつき子宮がない女性のことだと説明を聞くと渚は泣き出した。「余計なことを言わないで」と、得意げに知識を披露する道子を嗜めてやったのは、このあたしじゃなかったか。それなのに、この仕打ち。仲間に対する裏切り行為に他ならない。絶対に許せなかった。

 あの可愛い顔で、よくもそんな大胆な行動に出たもんだ。だったらあの二人、もしかしてセックスするのは時間の問題じゃないかしら。きっと両親や兄弟がいない時に、渚か佐野隼人のどちらかの家にしけ込んで、アソコとアソコを丸出しにして裸で抱き合うんだ。まあ、いやらしい。でも、もしそうなったら、どうヤッたのか全てを知りたい。その知識で自分もセックスが出来る女になれる可能性がありそうだ。

 気持ちの整理がつかない。しばらく渚とは少し距離を置いて、道子と仲良くするようにした。時には彼女の家を訪れた。渚と佐野隼人とのキスの一件を教えてやろうかと迷い続けたが、タダで言うにはもったいない情報なので止めた。映画『シックス・センス』の大事なネタを見る前にバラされて、面白味が半減した恨みも消えていなかったし。

 芸能界へ進むという夢は砕けたままだったが、山田道子の家で別の世界への道が一つ見つかる。それは彼女の兄が捨てるために山積みした古い週刊誌の一冊を、たまたま手に取って開いた記事からだった。

 内容は、あるAV女優が税金を逃れる為に所属していた会社に預けた三千万円と、未払い金の二千万円を踏み倒されたということだった。合計で五千万円。げっ。そんなに稼げるの、AV女優って。

 香月の頭の中は五千万円という金額でいっぱいになった。す、凄い。すご過ぎる。五千万円て、いったい一万円札が何枚になるのかしら。さっぱり見当がつかなかった。セックスするところを見せるだけで、そんな大金がもらえるなら、……ぜひやりたい。こうなったら、なんとしてでもセックスが出来る女にならないと。

 家に帰って、おもむろに父親に訊く。「お父さん、この家って幾らしたの?」

「土地と建物で三千万円ぐらいだったな。でも、あの頃はバブルが弾けて値段が下がり……」

 へえ、三千万円だって。その後に続く父親の説明は、もう聞いていなかった。五千万で二千万円もお釣りがくる。こんな家がキャッシュで買えるんだ。父親は三十年ローンを組んだらしいけど。やっぱり、五千万円で凄い。こうなったら行動開始。

 翌日、休み時間に板垣順平を捕まえて頼みごとをした。そのAV女優が出演しているビデオを借りてきて欲しいと伝えた。仕事の内容を詳しく知りたい。

 「えっ。オレが、かよ」

「そうよ。女のあたしが借りるのは恥ずかしいもの。あんなカーテンがしてあって仕切られているのに、その奥に入って行く勇気はないわ。お願いだから。だって順平は借りたことあるんでしょう」

「な、ないよ。そんなの借りるか、このオレが。バカ言うなって」

「嘘、言わないで。この前、学校に持ってきて鮎川くんに渡したじゃないの。光月夜也の『スチュワーデス暴虐レイプ』とかいうやつよ。あんた達がイヤらしそうにニヤニヤしてたもんだから、昼休みに道子が黙って鮎川くんのリュックを開けて見たんだから」

「マジかよ、それ」

「道子ったら、勝手に家に持って帰って、奈々と一緒に見たらしいわよ」

「そうだったのか。あれには参ったぜ。鮎川の野郎がビデオが無くなっている、なんて言ってきやがって慌てたんだ。加納先生に見つかったのかもしれないと心配してたら、翌日には机の中に戻っていたから安心した。一日分の延滞料金を支払うだけで済んだ。だけど山田道子って女は何をしでかすか分からない奴だな」

「そうよ。学校にアダルト・ビデオを持ってきても、みんなの前に出しちゃダメよ。道子は詮索好きで、勝手に人のカバンの中を覗いたりするんだから」

「……」

「だから、お願いだから借りてきて」

「わかった。だったら、そんな名前も知られていないAV女優よりも、やっぱり光月夜也のビデオを推薦するな。うふっ。お前に似ているんだよ。あ、いや、ごめん。お前の方がずっと綺麗だった。その女優の『令嬢教師強制登校』とか、『夫の目の前で犯されて』なんかは良かったぜ」

「それじゃダメなの。このAV女優のビデオが見たいのよ」

 この男には呆れる。その光月夜也とかいうAV女優のセックス・シーンを見ながら、あたしのヌードを想像しているらしい。まあ、いやらしい。お前に似ているんだ、と言ったところでニヤけながら目付きがギラギラと変わる。すごく美味しそうなケーキを目の前にして、今にも涎を垂らしそうな表情だった。

 「じゃあ、探してくるよ。でも見たことないぜ、そんな名前は」

「鮎川くんとかに訊いてみたらどうかしら」

「いや、オレが知らないんだから他の連中に訊いても無駄だろう」

「あら、そう」

 この男って本当に信用できない。アダルト・ビデオなんか借りたこともないって初めは言いながら、結局は相当に詳しいみたいな口振りに変わった。

 探すのが難しそうな言い方をした順平だったが、次の日には学校に持ってきた。えらい。なかなか使えるじゃない。信用は出来ないが、ここは評価しよう。当然、山田道子と佐久間渚がいないところで手渡してくれた。借りてきてくれたのは二本で、タイトルは『スチュワーデス ぐしょ濡れ直行便』と『愛と腰使いの果てに』だった。うわ、なんか凄そう。

 「参ったぜ」

「どうしたのよ」

「君津になくてさ、木更津まで行って借りてきた」

「本当に?」

「ビデオ屋を何軒も回ったぜ。もう疲れた。これって古すぎるんだよ。どっから見つけてきたんだ、この名前。どうして、このAV女優にこだわるのか分からない。ミス東京か何か知らないけど、光月夜也だって負けちゃいないぜ。ロシア人との混血なんだ。ビデオの内容にしたら、オレは光月夜也の方がいいと思う。お前に似ているのは、こっちの方だ。犯され方はリアルっぽいし、画質だって全然いい。アダルト・ビデオっていうのはな、もちろん女優の見栄えは大切なんだが、画質とかシーンの撮影の仕方で違ってくるんだ。いかに女優を綺麗に……」

 板垣順平、この男はアダルト・ビデオを語らせたら止まらないって感じ。得意な分野はサッカーだけじゃないらしい。「見たの?」香月は訊いた。

「え」

「この二本のビデオを見たってことなの?」

「う、うん。……まあな。オレも見ておくべきだと思ったんだ」

「どうして?」

「ど、どうしてって……そう、言われても」

「なんで見ておくべきなのよ、順平が」

「それは……なかなか綺麗な女優だったし、少しは香月に似ているなと思ったからだよ」

「へえ。順平がアダルト・ビデオを選ぶ基準ていうのは、どれだけ女優があたしに似ているかなの?」

「う、うん……そうだな」

 男ってヤることしか考えていないって、いつか先輩の山崎桃子から聞いたけど本当らしい。もし自分がAV女優になった場合、確実にファンは一人いるってことか。でもやるからには絶対に五千万円は稼いでやろう。

 あたしが出演するアダルト・ビデオを順平が見て楽しむのは、それはそれでOK。でもヤるのは絶対にイヤ。モノを買ってくれるのでデートはするが、身体には指一本触れさせたくなかった。

家に帰って、さっそく借りてきてくれた二本のビデオを自分の部屋でマックロードにセットした。母親には宿題をするからと言って、二階に上がってこないように釘を刺す。音量はギリギリまで落とした。

 生まれて初めてアダルト・ビデオを見る。なんか、大人の世界に一歩足を踏み出すみたいでゾクゾクした。心臓がドキドキ。あっ、すっごく綺麗な女の人が画面に映りだされた。うわっ、スタイルも抜群じゃない。この人がこれから裸になって男の人とセックスするの? 信じられない、こんな素敵な女性が……。

 えっ、……うわ。す、凄い。見ていて身体が火照ってくる。これほど綺麗な女性が、あんなに恥かしいことをするなんてと驚く。やっぱり五千万円を稼ぐのって大変そうだ。ただしアダルト・ビデオを見てもセックスの仕方は良く分からなかった。モザイクが掛かっていて肝心のところが見えないのだ。

 山田道子は正しかった。男の人って白い液体を出す。だけど女優が男の人のアレを口に含むのには参った。そんな下品なこと自分に出来るかしら。五千万円を稼いだ綺麗な女の人は白い液体を口の中に出されたり、顔に発射させられたりしていた。

 どうしよう。ちょっと自分に出来るかどうか自信をなくす。やっぱり地元の建設会社の事務員ぐらいしかなる道はないのか。将来への不安に再び襲われる。

 そして日本代表がワールドカップ・フランス大会でジャマイカに負けた時、大きな失望と共に、順平と一緒に出歩く気持ちも失せてしまう。趣味が合わなくて、好きでもない男と仲良くするのは、もうイヤだ。苦痛しかなかった。いくらモノを買ってくれても、もう限界。自分にウソはつけない。その晩に順平から電話が掛かってくると、開口一番に「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」と言ってやった。

「え?」

「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」もう一度繰り返す。

「え、どうしたんだ。何があった? 分かった、あのアダルト・ビデオがいけなかったんだろう。やっぱり、古すぎるんだよ。だったら光月夜也のビデオを見て欲しい。きっと--」

「アダルト・ビデオは関係ない。何もないの。今、言った通り。ただ、それだけ」

「おい、ちょっと待ってくれよ。何があったのか教えて--」

「何もないって言ってるでしょう。もう一緒に出掛けたくないの、ただそれだけよ。もう電話を切るから、さようなら」

「おい、待ってくれ」

 長々と話したくないので電話を切った。その後は何度電話が鳴っても受話器は取らなかった。具合が悪いので誰とも話したくない、と母親に言って電話を取り次がないようにしてもらう。

 翌日、学校へ行くと真っ先に佐久間渚が「香月、どうしちゃったの?」と真剣な表情で聞きに来た。順平から仲を取り持つように頼まれたのは間違いない。正直に答えた。最初から好きではなかったこと、一緒に出歩くことが耐え難い苦痛になっていることなど。

 渚が、「じゃあ、どうしてあんなに沢山のモノを買わせたの?」と痛いところを突いてきた時は黙って聞き流して、すぐに自分の主張を繰り返した。趣味が合わない、タイプの男じゃないと言葉を並べて彼女から順平に、しばらくそっとしてあげた方がいいと言ってくれるように頼んだ。

 それでも回数は減ったが、順平からの電話は続いた。ああ、しつこい。「何かプレゼントしたい」と言ってきても、はっきり「いらない」と拒否した。

 よりを戻したいからだろうが、学校で声を掛けてきたり、帰り道に偶然を装って待ち伏せをされたりするのが、うざったくて仕方ない。どんどん嫌いになっていく。憎しみを覚えるほどだ。

 芸能界へ入るのにもう一度オーディションを受けに行こうか、それとも男の人のアレを口に含むことを我慢してアダルト・ビデオに出演しようか、と悩む日々が続く。こんなこと、とても渚や道子には相談できなかった。彼らに秘密は守れない。とくに山田道子は信用ならない。香月は一人で思い苦しむ。そんな時だ、転校生の男子生徒に容姿を褒められたのは。

 その響きに気持ちは揺らいだ。綺麗だ、可愛いとか言われることは少なくない。だけど全ての褒め言葉が、五十嵐香月と付き合いたいという下心から生じたものだ。でも転校生のは違った。あたしのために言ってくれたと感じた。そして『プリティ・ウーマン』という大好きな映画まで口に出して褒めてくれたのだ。この人だったら相談できるかもしれないと、すぐに思った。

 「オーディションを受けに麻布まで行ったんだけど……あたし、怖くなって何もしないで帰ってきちゃったの」

 誰にも言わなかった事実を二年B組の教室で、転校してきたばかりの男子生徒に告げてしまう。自分でもビックリ。あたし、どうしちゃったの。

 「……」

 だけど相手は無言。ああ、言うんじゃなかった。きっと情けない女だと見下しているに違いない。他人に弱みを握られるなんて絶対にイヤ。うそ、うそよ。それは冗談です。と今から否定しても遅くはない。こんな男子に思わず口を滑らせてしまった自分がバカだった。取り繕うつもりで口を開きかけたが--。

 「分かるよ」

「え?」

「その気持ち、分かるな」

「……」意外な言葉が返ってきた。なんか凄く嬉しい。

「無理もないよ。初めてだったんだろう、オーディションなんて」

「そう」

「五十嵐さん」

「なに」

「一度や二度の挫折なんて当たり前さ。それを乗り越えて成長していくんだから」

「本当?」なんか凄い説得力。

「初めっから上手く行く人なんて、ごく限られた人間さ。色々と苦労を乗り越えて、また様々な経験を積んでこそ、実力が付いて人間的にも魅力が増していくのさ」

「へえ」

「たかが一度のオーディションで逃げ出しちゃったとしても、五十嵐さんの美貌を棒に振ることはないよ。もったいない。いつか有名になった時、それが過去のエピソードとして笑い話になるんじゃないのかな」

「……」うわあ、勇気づけられる。

「実は、僕の父親が洋画に関係する仕事に携わっているんだ」

「え、それ本当?」うわっ、なんてこと。

「ああ。色々とハリウッドの面白い話を聞かせて--」

「あ、待って」香月は、渚と道子が教室へ入ってくるのが見えて急いで相手の言葉を遮った。「ねえ、その話は後で詳しく教えてくれない。お願いだから」

 その週末、五十嵐香月は転校生を家に呼んだ。異性を自分の部屋に入れるなんて初めてのことだ。自分を勇気づけて欲しい、再び挑戦する新たな力を得たいという気持ちが強かった。

 父親は長期の出張中で、母親は必ず土曜日はオバアちゃんの所へ行く。自宅には香月と飼い犬のリボンが居るだけ。転校生に来てもらうには丁度いい。

 金曜日の夕方、ルピタへ行ってスナック菓子とドリンクを用意した。二千円も使った。もてなしは最上級だ。不思議なのは帰ってくるなり、飼い犬のリボンが自分に向って唸り声を上げたことだ。何か機嫌でも悪いのだろうか。

 二年前、近くの公園に捨てられていた子犬のリボンを家に連れて帰ったのは香月だ。すぐに懐いてくれた。今では香月の左脚を好んでマウンティングする。あまり気持ちのいいものではないけれど、あたしを愛している証拠なんだと思って我慢していた。ところが図書館へ行って犬の飼い方の本を読んで調べてみるとビックリ。犬は自分よりも下位の生き物に対してマウンティングすると書いてあったのだ。つまりリボンは保護してくれた恩人の香月を今では自分よりも下の地位として考えているらしい。一体、いつ立場が逆転したのよ。

 それ以来、リボンがマウンティングしてくると、なんだか風俗嬢にされたみたいな気分になってイヤだった。

 機嫌を直してもらおうと、お気に入りの左脚を出してマウンティングを促す。だけど見向きもしなかった。なにかヘン。土曜日、転校生が家の呼び鈴を鳴らしたところで、リボンの興奮は一層激しくなった。吼えて吼えて吼え捲くる。一階のリビングに閉じ込めるしかなかった。普段、お客さんが来ると好奇心いっぱいにして大はしゃぎでシッポを振るのに、この日は違った。

 「なるほど、な」部屋に入って椅子に腰を下ろすと転校生は言った。

「え、どういうこと?」自分の部屋に異性と二人だけなんて、なんだか恥かしくてぎこちない。テーブルの上にスナック菓子とコカ・コーラを用意しながら場をもたしていた。彼の言葉に戸惑う。意味が分からない。

「うふ。五十嵐さんらしい家だし、この部屋にしても五十嵐さんそのものって感じだ」

「そう?」どうしよう。お礼を言うべきなのか。ただ悪い気はしなかった。「ねえ、ハリウッドの面白い話ってどんなの?」

「今年のアカデミー主演女優賞候補になったグイネス・パルトローは、『恋におちたシェークスピア』での演技が認められた結果なんだ」

「うん」

「あの役のオファーは最初、ウィノナ・ライダーに来たんだって。だけど当時一緒に住んでいたグイネス・パルトローが台本を見つけて読んで、プロデューサーに自分を売り込んで役を横取りしたらしいよ」

「本当? つまり友情よりも自分キャリアを優先したってこと」あんなに綺麗な人が、なかなか凄いことをする。「じゃあ、その後の二人の仲は?」

「もちろん決別さ」

「ウィノナ・ライダーって、『シザーハンズ』に出た人でしょう。すごくキュートな女優だと思った。『若草物語』では主演女優賞にノミネートされたわ」

「そうだ。もし役を横取りされなかったら、今度こそ賞を獲れたかもしれない」

「悔しかったでしょうね」

「そりゃ、そうさ。アカデミー主演女優賞なんて獲れたら一気に仕事は増えて、ギャラも上がるからね」

「へえ」

「演技の上手な役者は沢山いるけど、なかなか世に出るのが難しくて大変なんだ。ほとんどがアルバイトをしながらの生活で、食べていくのが精一杯。華やかなのはトップに登り詰めた僅かな連中だけさ」

「厳しい世界だって聞くわ」

「多くが日の目を見ることなく終わっていく。当たり役に巡り合うことが出来るかどうかに掛かっているんだ。例えば『風と共に去りぬ』のビビアン・リー、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン。それと『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツ、『ショーシャンクの空に』のモーガン・フリーマンとか」

「実力の他に運が必要ってことね」

「その通り」

「あたしなんかが、やって行けるかしら」

「自分に半信半疑じゃ難しいだろうな。絶対になるっていう強い信念を持っていないと。その強い信念が幸運を引き寄せるんだから」

「……」ああ、自信がなくなる。

「どうした」

「不安だわ」

「五十嵐さんらしくないぜ」

「そうかしら」

「だって学校では、自信に満ちていて我が道を行くって感じだぜ」

「あんな田舎の中学校だからよ」

「あはは。麻布のオーディション会場だって、いつかそう思える日が来るさ」

「……」そんなふうに考えたことはなかった。でも言えてるかも。

「演技の勉強をしたりして、少しづつ自信をつけるといい」

「そうする」

「五十嵐さんが成功することを信じているよ」

「ありがとう」少し勇気が湧いてきた。

「五十嵐さんの美しさは、どこへ行っても通用するさ」

「そう言ってくれると凄く嬉しい。あたし、芸能界は無理だと諦めて、AV女優になろうかと考えたこともあったんだ」

 ああ、言っちゃった。この転校生の前だと無意識に自分を曝け出しちゃう。

 「どうして」

「だって、……お金が稼げそうだったから」

「いや、今は難しいみたいだぜ」

「そうなの」

「うん。AV女優になりたいっていう女の子が沢山いるらしい。当然だけど、反比例してギャラは安くなっていく。よっぽど綺麗でスタイルも良くて、その子ひとりでアダルト・ビデオが企画できるなら話は別だろうけど」

「へえ」この子って何でも詳しいみたい。すごい。

「やめた方がいいよ。寿命は短くて、すぐに飽きられていく。失うモノの方が多い。一度でも出演したら、元AV女優という肩書きが一生ついてくる。リタイアした後で、もし誰かに美しさを褒められても自慢できないぜ。子供だって諦めるしかない」

「え。どうして、子供が産めなくなるの?」

「母親が元AV女優だと知ったら悲しむさ」

「黙っていれば……」

「無理だな」

「なんで?」

「世の中には、おせっかいな連中が沢山いるぜ。どっかからか調べてきて子供に母親の素性を教えるさ。証拠として、しっかり裸の写真を持ってきてな。きっと学校中に知れ渡るようにするだろう。そうなったら引っ越すしかない。奴らは他人の家庭が崩壊していくのを見て楽しむのさ。それって悲しくないか?」

「言う通りだわ」

「でも……」

「でも、何?」

「ポルノ映画に出演したけど成功した俳優も何人かいるんだ」

「えっ。誰、それ」

「キャメロン・ディアス」

「えっ、あの『メリーに首ったけ』に出た女優?」

「そうだ。彼女が十九歳の時だった」

「信じられない。嘘みたい」

「ほかにはマリリン・モンローとかヘレン・ミレンとか、女優じゃないけど歌手のマドンナだって」

「へえ」

「ポルノ映画じゃないけど、『猿の惑星』でチャールストン・ヘストンの相手役を演じた女優は、あの役をもらう為にプロデューサーと寝たらしい。だけど台詞はもらえなかったんだ」

「そうだ、あの女優は映画の中で一言も喋らなかったわ」

「ほかにも『猿の惑星』にはエピソードがあるんだ」

「教えて」

「五十嵐さん、となりに座ってもいいかな」

「え」どういう意味? となりに座るって、こんなに近くに居るのに?

「その方が話し易いんだ」

そう言うなり、彼は椅子を持って真横に腰を下ろす。「じゃあ、いいよ」香月の承諾は後からで全く意味がなかった。

「ありがとう。実は、あの映画の猿は日本人がモデルかもしれないんだ」

「えっ」

「原作を書いたフランス人の作者は、第二次世界大戦の時に日本軍の捕虜にされて、フランス領インドシナで収容所生活を強いられたらしい」

「へえ。それで、あの物語のアイデアを思いついたの?」

「そうみたいだぜ」

「まあ」

「じゃあ、五十嵐さんが一番好きな映画を教えてよ」

「うーん、色々あるけど……やっぱり一番は『ショーシャンクの空に』だわ。あんなに感動した映画ってないもの」

「あれは素晴らしい作品だった。僕も大好きだ。スティーヴン・キングの原作よりも面白かった」

「え、小説も読んだの?」

「うん。最初に小説を読んでいたんだ。タイトルは確か〛刑務所のリタ・ヘイワース』っていう短編で、それほど面白いとは思わなかった。だから映画は二の足を踏んでしまったよ」

「へえ」なかなか知的な趣味を持つ少年なんだ、この子は。勉強が出来るのも頷けるかも。

「あの映画なんだけど……」

「うん。何?」

「ブラッド・ピットに出演をオファーしたけど、スケジュールの都合で叶わなかったんだって」

「へえ。じゃあ、あのアンディの役を、もしかしたらブラッド・ピットが演じたってこと? なんかイメージが浮かばないなあ。ティム・ロビンスで良かったよ」

「いや、違う。トミーの役さ」

「え、トミーって」

「アンディの妻を殺した奴を知っていると所長に話して、看守に銃で撃たれて殺された若い男だよ」

「あのイケメンの人?」

「そうだ」

「へえ」--あっ。いきなり彼の手が伸びてきて、香月の左足に触れた。そのまま動かない。ど、どうして。今度は承諾を求めてもこなかった。こ、困るんだけど。

「小説よりも面白い映画っていうのは滅多にないんだ」

「そ……そうなの」返事を口から搾り出す。左の太股に乗ったままの彼の手が気になって何も考えられない。どうして退けてくれないのか。こんな時って、どう行動すればいいの? ジワジワと彼の体温が手を通して、香月の下半身に伝わってくる。不安。 

「例えばルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だな」

「……」頷くだけで精一杯。アラン・ドロンの出世作だと知っていたが相槌すら打てない。言葉が口から出てこなかった。心臓はドキドキ。彼の手が静かに太股を撫で始めている。

「原作はパトリシア・ハイスミスっていう人が書いたんだけど面白くなかった。がっかりしたよ」

「ふう……ん」か、か、身体が……熱い。何なの、この感覚は。

「五十嵐さんは小説を読むの?」

「……」ううん。急いで首を振った。質問に対する返事というより

も、身体に起きている異変を振り払うかのように。で、でも……ダメ。効果がない。なんだか身体が溶けていくような……。

「それは残念だ」

「は、はあ」ため息が口が漏れる。

「『スリーパーズ』という映画を覚えているかい?」

「……」え、スリーパーズ? あたしのこと? 目が虚ろになっているかもしれないけど、眠いわけじゃないのよ。

「ほら、ニューヨークに育った四人の少年たちが少年院に送られて看守に虐待される話だよ」

「あ、……ああ」それなら覚えている。なかなか面白かった映画だもの。確かブラッド・ピットが出演していて、他にも何人か有名な俳優が……。ああ、ダメだ。頭がボヤけてハッキリしない。

「あの映画そのものは悪くなかった。だけど原作となった小説の面白さには足元にも及ばないな」

「……」へえ、……そうなの。な、なんか映画の話なんか、どうでもいいような……もう興味がない。それよりも、こ、この……甘ったるい感じ……。

「『マジソン郡の橋』だって--」

「あっ、……あう」

 もう彼の言葉は耳に入ってこなかった。無意識にも香月の首は後ろに仰け反った。腿を撫でられることに違和感を覚えていたが、それが今は消えた。続けて……もっと続けて。あたしを撫でて。こんなに気持ちがいいのって初めて。「は、は、はあ」

 彼の手が動く。スカートの裾から中へと、奥の方へ進んでいこうとしていた。これって……もしかして、いけない事じゃなかったかしら。「はあ、はあ」そうだったかもしれない。恥かしいところに届いちゃう。だけど香月に拒絶する力は残っていなかった。逆に彼の手がスカートの奥で動きやすいように太股を広げてみせた。身も心も甘く溶けてしまう直前、一階のリビングに閉じ込められた犬のリボンが激しく吼えるのが聞こえた。

 

 演技のレッスンって、気持ちが良くて楽しい。女優はラブシーンで真価が問われるって言う彼の意見は正しいと思う。二人で土曜日をレッスンの日に決めた。だけど今週は水曜日に母親が上手い具合に出掛けることになった。「香月、ごめん。ご飯の用意はして行くから。帰ってくるのは、早くても木曜日の夕方になりそうなの」

 「いいよ、仕方ないもの」と面倒くさそうに答えたものの、心は宇宙に飛び上がるぐらい舞い上がった。彼を家に呼べる。泊まってくれるかも。そしたら朝までずっと--。想像するだけで下腹部がムズムズしてきた。顔はニヤけて火照りそう。そこをなんとか堪えて、難しそうな表情を保つ。頑張れ、香月。

 えっ、これってアカデミー賞級の演技じゃない、もしかして。『恋におちたシェークスピア』のグイネス・パルトローにも負けていないはず。

 きっとレッスンの成果が出ているんだ。それが実感できる。あたしって凄い。

 待ちに待った水曜日の下校時間だった。これから家に帰って、演技の先生を迎える用意を急いでしないといけない。ああ、嬉しくて死にそう。

 そうだ、明日は学校なんか休んじゃえばいいのよ。彼を朝まで帰したくない。香月は無断欠席にならない方法を思いつく。母親のマネをして学校に電話をすればいいのだ。加納先生は難しいかもしれないが、他の教師や事務員の女だったら絶対に騙せそう。これこそ、あたしの演技力が試される場面じゃないかしら。 

 やってみるべきだわ。頑張れ、香月。アカデミー主演女優賞を目指す、その第一歩だ。

 五十嵐香月が十四年の人生において、一番の生きがいを感じた瞬間だった。

 

    17

 

 ああ、どうしよう。困った。 

 学校が終わって家に帰ってみると、まず目に入ったのは駐車場に停まっている義父の軽自動車だった。色褪せた赤いスズキのアルトだ。何で、こんな時間に家にいるの?

 家はセキスイハウスで建てた新築で、親子三人で暮らすには十分な広さがあった。でも、あの男と二人だけで家に居るのはイヤ。何をされるか分かったもんじゃない。

 「お母さん、再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど」

 そう言って、母親が国道沿いにあるデニーズで紹介してくれた男は、ハゲ頭の背が低い中年だった。

 がっかり。なんで、こんな男が母親と? 何も言えない。挨拶すら口から出てこない。結婚って、男と女がエッチなことをする約束みたいなもんなんでしょう。あたしのママが布団に入って、こんな汚らしい中年男と……。ああ、イヤだ。気持ち悪い。

 あたしが幼少の頃に別れた本当の父親は、写真で見る限りだけど、すっごく背が高くてハンサムな人だった。笑顔が優しそう。こんな素敵なパパと何で別れちゃったのか理解できない。会いたかった。一緒に歩いて友達に見せたい。

 写真を目にする度に母親に、「どうして?」と訊いた。いつも決まった答えが返ってくる。「あんたは子供だから知らなくていいの」、だ。

 きっと何か、子供には話せない、大変な理由が出来て、仕方なく離婚しなければならなくなったんだろう。でも二人は心の中で今でも愛し合っている。きっと、そうだ。だって、あたしのママとパハだもの。そう篠原麗子は、ずっと信じてきた。

 母親から再婚したい相手がいると伝えられた時は、信じていたものが崩れていく思いだった。じゃあ、あたしのパパのことはどうするの? と、訴えたかった。

 新しい父親を受け入れるのには強い抵抗があった。自分を納得させる為にも本当の父親に似た人であって欲しいと願った。

 デニーズに遅れてやって来て、テーブルの向かいの母親の隣に腰を下ろした男を見て、この人を好きになるのは、どんなに努力しても無理だと直感的に思う。

 ハゲ頭の中年男は、あたしの機嫌を取ろうと食事中よく喋った。学校のこと、将来のこと、友達のこと、興味もないくせに色々と訊いてくる。ああ、うざったい。つまらない冗談しか口にしない。今どき、そんなの子供にも受けないよ。大好きな和風ハンバーグが全然美味しくなかった。

 馴れ馴れしくママの肩や手に触ることも気に入らない。もう、腹が立つ。見ていられない。辛いのは、それを母親が嫌がらないことだ。どんどんママが自分から遠ざかっていると感じた。

 デニーズからの帰り、自動車に乗ってすぐに母親は訊いてきた。

中年のハゲはいない。二人だけだ。「どう? あの人。なかなかイイ人でしょう」

「……」え、どこ……がっ? 何も言えない。正直に言ったら、母親がどんな反応をするのか分からないし。

「あの人って見掛けは良くないけど優しいのよ。それに市役所に勤めているの」 

「……」娘の沈黙を拒否反応と悟ってくれたらしい。市役所、そうなの。それが再婚の決め手らしい、と麗子は理解した。

「結婚したら家を建てるって約束してくれたのよ。車も外車にするって言ったわ。麗子も色々なモノを買ってもらえるわよ」

「……」いらない。何も欲しくない。アパートでいいから、ママと二人だけの生活を続けたい。

「どう、嬉しくない?」

「……」全然。モノを買ってくれなくていいから、あの人とは一緒に住みたくない。

 娘の返事を待っている様子だ。でも何も言えなかった。間が空いて、次に口を開いた母親の口調は一変していた。「あんた、あの男のことをまだ想っているの?」

「……」そう。だって本当の父親だもの。頭から消し去るなんて無理。公園で楽しく遊んでくれたことを覚えてる。

「あの男は、あんたのことなんか何も気にしてないわよ」

「……」その言葉、麗子の胸に突き刺さる。そんなのウソだわ。

「だから会いに来ないのよ。娘のことを想っているなら、ちゃんと養育費とか払ってくれるはずでしょ」

「……」気分は奈落の底へ。悲しい。

「あんなダメな男はいないの。お金にはルーズで、女にもルーズだった。仕事は何をやっても中途半端で投げ出す始末だから。背が高くて見栄えはいいけど、それだけよ。無責任でだらしない男。お母さんが、あいつのお陰でどれだけ苦労--」

「わかった。もういい」もうパパの悪口を言わないで。お願いだから。「あの人と結婚していいから」そう言うしかなかった。

「そう?」

「……うん」目から溢れた涙が頬を伝わって落ちてくる。

 (再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど)あの言葉って何だったの。

 「あんたの気持ちは分からないでもないのよ。あたしだって、あの人のことを心の底から好きとは言えないもの。理想の男性には程遠いわ。だけどね、現実を見なきゃダメよ。女手一つで、あたし達が二人で暮らしていくって本当に大変なんだから。この結婚は麗子の為を思って決断したとも言えるのよ。あんたも大人になれば、きっと分かる」

「わかった。ごめんなさい」自分の意に反した言葉を口にしなければならないことに涙が止まらなかった。

「いいのよ。わかってくれて嬉しいわ」

「……」

「すぐに家を建てるわよ。あたしの気が変わらなければ、今月中にも新昭和住宅と契約を交わすつもり。夢のマイホームよ。もうアパート暮らしじゃなくなるの。お母さん、車はBMWかベンツを考えているけど。麗子は、どっちがいいと思う?」

「どっちでもいい。ママが好きな方を選んで」

「わかった。そうする」母親の機嫌が直ってくれて安堵。「お前は、いつでも素直でいい子だから好きよ。お母さん、絶対に麗子のことを悲しませたりしないから。それだけは約束する」

「……」ああ、意味がわからない。これが悲しませることじゃないなら、もし母親が本気で娘を悲しませようとしたら、一体何をしてくるんだろうか。それを考えると怖かった。

 母親は再婚して姓が変わったが、あたしは篠原のままでいた。せめてもの抵抗だ。篠原麗子、この名前は好きだ。愛する人と結ばれるまでは変えたくない。

 義父は頼みもしないのに色々なモノを買ってくれた。母親とは初婚で、いつか誰かと結婚するつもりで給料のほとんどを貯金をしていたらしい。そのお金を今、母親が自由に使っている。お洒落な洋風の家を建てさせ、そしてグリーンのベンツを買わせた。義父は古い軽自動車のままだ。

 お父さんと呼んで欲しいのだろう、いつも義父は麗子の機嫌を伺っていた。無理、それは無理。パパとは呼べない。

 何も買ってくれないでいいから、馴れ馴れしくしないで。そう、はっきり言いたかった。

 新しい家に住み始めると、義父は母親にするのと同じ調子で麗子の身体にも触ってきた。嫌悪感。すぐに逃げた。でも笑っている。嫌がっているのが分からないみたい。鈍感な男。やめてくれるように母親に言おうかと考えた。だけど母親は新築のマイホームと新車のメルセデス・ベンツを手にして、ものすごく嬉しそうだ。衣服、靴、アクセサリーが高価なモノに変わった。こんなに生き生きしている姿は見たことがない。言い出せなかった。

 麗子は二階の日当たりのいい部屋をあてがわれた。嬉しかった。天井はモスグーン、壁紙はベージュにした。机と椅子、ベッドは木更津のニトリで気に入ったのを選んだ。値札を見ないで買い物をするなんて今までになかったことだ。

 ペットが欲しい。兄弟がいない寂しさを紛らわしてくれるだろうと期待した。隣の家ではイヌを三匹と二匹の猫を飼っていた。みんな人懐っこくて、すごく可愛かった。遊びに行くと麗子を大歓迎してくれた。

 言えば二つ返事でペットを飼わせてくれるのは分かっていたが、借りを作るのがイヤだった。義父の馴れ馴れしさは悩みの種だ。それが助長される恐れがあった。ただ自分の部屋に居れば何もない。学校から帰ってくれば直ぐに閉じこもった。お風呂と食事以外はリビングに降りていかない。

 三人家族になって二ヶ月ぐらいが経った晩、自分の部屋で寝ていると麗子は物音に気づいて目を覚ます。

 え、なに? 気の所為? 夢だったの?

 目は開けずに、じっとしていた。何もなければ再び眠りに落ちるだろうと--、額に冷気を感じた。え? 部屋のドアが開けられていることに気づく。人の気配を感じた。きっとママだ。でも、どうして何も言ってこないのか。ヘン? そしてお酒のニオイが漂ってきて、全身に衝撃が走る。ママじゃない、義父だ。あの中年男があたしの部屋に黙って入ってきていた。

 何をしているの? 何かを盗もうとしているの? 

 理解できない。ここには何も高価なモノなんてないのに。義父の息遣いを感じた。何か興奮しているみたいな。怖かった。早く出て行ってほしい。

 完全に目は覚めた。でも恐怖で動けない。しばらくすると義父はいなくなったが、麗子は朝まで一睡もできなかった。

 翌日、部屋に鍵を掛けたいと母親に言ってみると、「どうして?」と訊かれた。

「……あのう、……その」答えはしどろもどろ。

「そんなの必要ない」と一蹴されてしまう。

 母親を納得させるだけの理由を用意していなかったのが間違いだった。何か悪い事を企てているんじゃないかと誤解されたらしい。  

 ああ、困った。どうしよう。

 その後は頻繁に義父は、お酒のニオイをプンプンさせながら部屋に入ってきた。ベッドに近づいて寝ている麗子の様子を窺う。義父の目的が分かった。この、あたしだ。あたしの身体に興味があって部屋に入って来るんだ。

 驚愕。いやらしい。どうして? こんなに歳が離れているのに。

 夜、寝るのが怖い。義父に何をされるか分からないからだ。睡眠不足の日が続く。

 この早熟な身体が原因らしい。中学二年になって急に大人びてきた。胸のふくらみ、ふくよかな腰まわり、もう二十歳過ぎの女性と変わらない。外で歩いていても男性の視線をすごく浴びる。お茶でも飲まない、と何度も声を掛けられた。まだ十四歳なのに、だ。

 麗子の理想は加納久美子先生だった。あんなスレンダーな体型に憧れた。アスリートみたい。知的な顔立ちも素敵。それなのに風呂場の鏡で見る自分の姿は、男性向けの雑誌を飾るピンナップガールみたいだった。

 麗子はクラス・メイトの手塚奈々みたいに、長い脚を自慢して露出する勇気はなかった。山岸くんたちが作った、『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』のランキングでは二位にされて恥ずかしい思いをした。だけど奈々ちゃんは嬉しそうに両手を挙げて男子の拍手を全身に浴びた。よくあんなことができる、と感心してしまう。

学校では何度も男子から手紙をもらって戸惑ってもいた。文面はどれもほぼ同じで、『ぼくと付き合って下さい』だ。何て返事していいのか分からなくて困った。

 意思に反して急速に大人っぽくなっていく身体が異性を惹きつけた。誰もが美味しそうな和風ハンバーグ・ステーキを見るような目で自分に視線を送ってくる。なんか怖い。それなのに家では危険な男と一緒に住んでいる状態だ。警戒は怠れなかった。

 ところが、ある日を境にして、よく眠れるようになる。寝不足の疲れが溜まっていたからだろうか。いつものようにホットミルクを飲んでベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。いつ義父が部屋に入ってこないか心配しなければならないのに、強い眠気には勝てなかった。

 朝までぐっすり。部屋のドアが開けられる音に目を覚ますこともない。これまでと違うのは毎晩のようにエッチな夢を見ること。誰かに身体を触られて気持ち良くなっている、自分の姿だ。朝、起きると汗びっしょり。下着にはシミ。ああ、恥かしい。

 これって思春期だから? 年頃になると、こんな夢を毎晩のように見るの? だったら二年B組の女子みんなが、こういう夢を見ているのかしら。もしそうなら学校で、よくあんな真顔でいられる。いつもと同じように友達同士で喋って笑って……。自分なんか恥かしくて、もう相手の目を見て話すことが出来なくなった。

 え、でも……もしかして、麗子の頭に別の考えが浮かぶ、これって病気だったりして。

 だったら大変。お医者さんへ行かなくちゃ。ガンじゃないけど早期に治療しないと、手遅れになって今より悪くなる可能性だってありそう。

 もし症状が悪化したらどうなるんだろう、これ? 夢だけじゃなくて、起きている時もずっとエッチなことを考えてる状態になるのかな。冗談じゃない。そんなのイヤだ。

 病院へ行くなら、これって何科になるの? 内科、違う。外科、違う。耳鼻咽喉科、ぜんぜん違う。産婦人科、いや、子供を産むわけじゃないし。あっ、精神科じゃないかしら。たぶん、そうだ。

 だけど病院へ行くのに母親に何て言う? 「あたし、毎晩のようにエッチな夢を見て困っているの」なんて口が裂けても言えない。  

 たとえもし病院へ行けても、多くの医者は男性だ。母親よりも言い難い。

 きっと若くてハンサムな独身の医者は、びっくりして目を丸くするはずだ。近くにいた超美人の看護婦は思わず手にしたカルテで顔を隠して、鼻で笑う。「きゃはっ」そしてナース・ステーションへ駆け込むのだ。滅多にない愉快な話を同僚たちに伝えるために。

 「ねえ、ねえ。ちょっと、みんな聞いてよ。今ね、〇X先生のところに、エッチな夢を見てばかりいる女子中学生が来ているんだ。うふっ。すっごく面白くなりそうよ。どう、見に来ない?」こんな調子だ。診察室は好奇心に満ちた看護婦たちで、ドアが閉められなくなるほど満員になるだろう。

 難しい手術をしていたドクターは、傍にいたはずの看護婦が一人残らず姿を消してしまったので、仕方なくセルフサービスで執刀を続けることになると思う、きっと。

 「診察しますから、シャツのボタンを外してくれるかな」、なんて若くてハンサムな独身の医者に言われたらどうしよう。え、精神科なのに服を脱ぐんですか? そんな疑問を持っても、中学生の自分は先生の言葉には逆らえない。思春期を迎えて女らしくなった身体が、好奇心に満ちた看護婦たちの視線の集中砲火を浴びるのだ。誰もが息を止めて、篠原麗子の指の動きを見守っている。張りつめる空気。彼女たちの唾を飲み込む音が耳に届いてきたりして。診察室では一言も口に出さないけど、きっとナース・ステーションへ戻った時は篠原麗子の話題で持ちきり。

 「あんなにマセた子は、あたしは知らない。エッチな夢を見るのは無理ないわよ、あんな大人びた身体をしているんだもの。一体いくつなの、あの娘?」

「驚かないで聞いて。十四歳になったばかりよ」

「えっ、まだ子供じゃない。信じられない。それで、あの色気?

もう世も末だ」

「びっくりよ。見た? あの尻の丸み」

「もちろん。もう男を咥えたくてウズウズしてるって感じだったじゃないの」

「いやらしい。親の顔が見てみたい」

「きっと母親は亭主の目を盗んで、ラクビー部の男子高校生なんかと朝から夕方までズッコンバッコンさ。じゃなかったら娘が、あんなふうに育つわけがないもの」

「そりゃ、言えてる」

「うちなんか年頃の息子が二人もいるだろ。あんな小娘が丸い尻をプリプリさせながら街中を自由気ままに歩くと思うと、心配で心配で仕事に集中できやしない。医療ミスでも起こしたら大変なことになるっていうのにさ。それから来年は次男が受験なんだよ。もし志望校に入れなかったら、あの女の所為だ」

「将来が恐ろしいよ。どこまで淫らな女になるんだろう」

「男なしでは生きられないってな感じじゃない。あの歳であの身体だもの、どスケベな母親を超えるのは間違いないよ」

「君津警察に通報してやろうかしら。刑事に知り合いがいるんだけど」

「何て?」

「重大な性犯罪を誘発させそうな淫らな小娘がいますって言うつもり。あの女は公然わいせつ罪と同じだよ」

「でも素っ裸で歩くわけじゃないから難しいかもよ。どんな対策をして欲しいの? あんた」

「あの子の腰の回りにモザイク処理を施してくれと頼みたい」

「そりゃ無理じゃない。写真とかじゃないし、聞いたことないよ」

「だけど放っておけば絶対に何かが起きるよ。これだけは言っておく。あの小娘の丸い尻で、きっと誰かが命を落とすことになるだろう」

「あんた、そこまで言う?」

「あたしには分かるんだ。この病院で嫌というぐらいに沢山の人たちを見てきたから」

 そんな会話が聞こえてきそう。ああ、耐えられない。病院へ行くのは無理だ。自分で治すしかない。篠原麗子は悩み続けた。

 エッチな夢を見る原因のヒントを見つけたのは、加納先生の英語の授業中だった。

 席を立って古賀千秋が教科書を朗読していた。流暢な英語で、しっかり勉強しているのか窺えた。その前が手塚奈々の番で、英語なのか韓国語なのか分からないような読み方だったので尚更だ。

 麗子は教科書のセンテンスを目で追っていたが、突然だった、寝る前に飲むホットミルクのことが頭の中に浮かぶ。

 幼稚園の頃からの習慣だった。家族が三人になると、「いいね。オレも欲しいな」と言って義父も飲み始めた。今では義父が先に用意してくれて、それを二階の寝室まで持って行く。

 「あっ」思わず声が出た。何事かと古賀千秋が朗読をやめる。二年B組全員の視線が麗子に集まった。た、大変なことをした。

 「篠原さん、どうしたの?」と、加納先生の声。

「す、すいません。何でもありません」そう言葉を搾り出す。下を向く。恥かしくて顔を上げていられない。みんなの注意が早く授業に戻って欲しかった。

「大丈夫?」

「はい」顔を上げて加納先生を見ながら答えた。大きく頷いて安心させないと。

 しかし精神状態は大丈夫からは程遠かった。心臓はドキドキで、胸から飛び出しそう。

 睡眠薬。

 篠原麗子の頭の中にホットミルクの次に浮かんだ言葉がそれだ。認めたくないけど辻褄が合う。

 睡眠薬を混ぜたホットミルクを飲まされていたらしい。夜中に部屋に入ってきて、あの中年男は好き勝手に熟睡している自分の身体を弄っていたんだ。間違いない。きっとそうだ。

 卑劣。なんていやらしい。最低の人間がすることだ。いや、人間じゃない、あんな奴。

 そんな男に触られて、仕組まれたとは言え、気持ち良くなっていた自分が情けない。悔しくて涙が溢れ出た。下を向いて回りの生徒たちに悟られないようにしないと。身体が震えてくる。汚された身体から義父の手垢と指紋を取り除きたい。涙が膝の上に置いた手に落ちてきた。

 「篠原さん、これ使って」

「……」え?

 声を掛けてくれたのは隣に座る転校生の黒川くんだった。差し出されたのはポケット・ティッシュ。ありがたかった。頷いて受け取った。そのまま何も言わない優しさが嬉しかった。麗子は一人で静かに泣き続けた。

 英語の授業が終わると、すぐにトイレに向った。誰とも喋りたくない。一人でいたかった。また泣いた。休み時間が終わって教室へ戻った麗子は、もう自分が回りにいる生徒たちとは違う存在になった気がした。前みたいに一緒に喋って、ゲラゲラ笑うことは出来ない。あたしは汚れた女なんだから。すごく悲しかった。

 「篠原さん。もし何か悩みがあるなら、僕で良ければ相談に乗るよ」また黒川くんが声を掛けてくれた。

「うん」続く有難うと言う言葉は口から出てこなかった。でも感謝はしている。泣いているのを、みんなから隠してくれたから。

 義父から渡されたホットミルクは二度と飲まない。隠れて流しに捨てた。強い眠気は襲ってこなくなった。

 思った通りだ。夜中に義父は麗子の部屋に入ってきた。心臓が破裂するぐらにドキドキ。そして布団の中に手が差し込まれる。背中に触れた時、「いやっ」と声を上げて反対側へ逃げた。義父が手を引く。そのまま動きが止まった。驚いているらしい。

 静寂。

 窓の外からスクーターが通り過ぎる音が聞こえてきた。しばらくして義父は部屋から出て行った。

 朝だ。ほとんど麗子は寝ていない。これからどうなるの、とずっと考え続けた。今日は休みたい。窓から見下ろすと駐車場に義父の赤い軽自動車がなかった。恐る恐る、足音を立てないでリビングへ降りていく。義父はいつもより早く市役所へ出勤したと母親から聞かされた。少し、ホッとした。でも夜には顔を合わさなくてはならない。嫌だ、あんな奴と。母親に言うべきか。どう母親が反応するのか、それも怖かった。

 とにかく学校へ行くことにした。

 次々と否定的なことが思い浮かぶ。もうボーイフレンドができて楽しくデートすることも、結婚して幸せな家庭を築くことも不可能だ。ハゲで中年のデブに汚された女を誰が相手にしてくれる?

 母親に言ったとしても、あの卑劣な男はきっと否定するだろう。

証拠は何もないのだから。その後で、どんな仕返しをしてくるか分かったもんじゃない。怖い。母親から新築の家とグリーンのベンツを奪ってしまうかもしれない。

 誰かに相談したい。最初に頭に浮かんだのが加納先生だ。次に美術の安藤先生。二人ともタイプは違うが美人で優しい憧れの先生だった。

 安藤先生とは最近になって急に親しくなる。切っ掛けは、「篠原さん。あなた、美術部に入る気はない?」という誘いだ。

 え、あたしが? びっくり。どうして? 絵は下手で芸術のセンスなんか全くないと思っていたのに。

 「下手とか上手とかは別にいいのよ。あなたの絵には何かインスピレーションを感じるの。描いていて楽しく思えることが大切なんだから。どう? 美術部に入って一緒に楽しく絵を描いてみない」

 褒められて嬉しかった。「考えてみます」と答えたが気持ちは決まっていた。

 幼なじみの山田道子に誘われて映画同好会に入っていた篠原麗子だったが、何でも仕切りたがる五十嵐香月の性格が嫌で、集まりには行かなくなっていたのだ。 

 美術部に入って正解だった。安藤先生は優しくしてくれる。すごく気が合った。

 家庭のこと、将来の夢、趣味、好きな食べ物、とか色々と聞いてくれた。気に掛けてくれているのか分かった。そんな話の流れで、ある時、安藤先生は「あなたのお母さんの結婚する前の名前は何ていうの?」と訊いてきた。

 え、何で?

 違和感を覚えた。そんなこと訊く必要もないのにと思った。答えると安藤先生は驚いた様子を見せながらも、何も言わずに立ち去って行く。その後は麗子の生活に関して何も訊ねてこなくなる。不思議だった。

 美術部は絵を描くことよりも、コーヒーを飲みながら安藤先生と会話する方が楽しかった。何度か佐久間渚を誘った。そのうち彼女は映画同好会と美術部を掛け持ちするようになる。

 美術部の活動は麗子に家庭での嫌なことを忘れさせてくれた。家に帰りたくない、という気持ちすら芽生えていた。

 近ごろでは、母親と義父が言い争う声が二階の自分の部屋まで届く。

 「オレたち夫婦じゃなかったのか?」

「すごく疲れているの。何度も言わせないでよ」

「お前なあ。疲れている、疲れているって、もう一ヶ月にもなるじゃないか。一体いつになったら元気になるんだ」

「医者に行って診てもらうわ」

「何だと。まだ行っていなかったのか?」

「忙しかったのよ」

「ふざけんな。じゃあ、夜の仕事を辞めればいいだろう。贅沢しなければオレの給料で十分にやっていけるんだから」

「そう言うけど、これから色々とお金が掛かることが続くのよ。麗子の高校受験だってあるし。もし公立に受からなかったら私立よ。幾ら掛かるか分かったもんじゃない」

「だったらベンツを売れ。あんなモノ、家庭の主婦が乗るもんじゃない」

「イヤよ。あれは絶対に手放さないから」

 こんな調子だった。二人の言い争いが始まると、ステレオのボリュームを大きくして聞こえないようにした。でも、もし義父が母親に暴力を振るうことがあったらと気が気でなかった。

 数日後、麗子は用事があって昼休みに佐久間渚と一緒に美術室へ行く。コーヒーを御馳走になって教室へ戻ったが、授業が始まる直前になって気分が悪くなる。学校を早退した。

 家に近づいた時だ、玄関から母親と長身の若い男が出てきて、グリーンのベンツに乗り込むのを目撃してしまう。

 あ、パパだ。と最初は思った。写真で見る実の父親と似ていたからだ。しかし直ぐに違うと気づく。あれは自分が幼稚園の頃に撮られたはずだ。容姿がそのままとは考えられない。若過ぎる。母親と一緒だった男は知らない人だ。誰だろう。自宅に呼ぶなんて、よっぽど親しい仲に違いなかった。もしかして母親は浮気をしているの? その考えが麗子の頭を過ぎる。母親との距離感が更に遠くなった。

 

 義父の赤い軽自動車が玄関の横に停まっているのを見て、慌てて家路を逆戻りした日、麗子は美術の安藤先生に相談する気でいた。

こんな情況、もう一人では耐えられない。そんな思いだった。しかしどこを探しても見つからない。仕方なく街中をブラブラして時間を潰すしかないと考えた。校門を出たところで転校生の黒川くんと出会う。

 「どうした?」すぐに彼が心配そうに訊いてきた。よっぽど心の不安が顔に現れていたに違いない。

「……」でも何も言えない。

 返事を待っていたが麗子が答えられないでいるのを見て彼は言った。「ルピタのフード・コートへ行こう。一緒にジュースでも飲もうよ」

 その言葉に篠原麗子は首を縦に振った。うれしかった。

 安藤先生に相談したかったことを、すべて彼に話す。涙が止まらなかった。話すことで気持ちが少しづつ楽になっていく。そして彼は問題を解決する方法としてアドバイスをくれた。

 え、そんなことできない。

 とても無理だと思った。そんな勇気は自分にない。「分かった。考えておく」とだけ言って、ルピタのフード・コートを二人で出た。家に帰っても安全な時間になっていた。

 事情が変わる出来事が起きたのは数日後だ。

 幼なじみで近所に住む山田道子が泊まりに来てくれた時のことだった。義父は親睦会の旅行に行っていた。夕食を終えて、リビングで母親を交えて三人でデザートを食べていた。義父がいないと家は楽しい。そこで新居に合わせて買ったサンヨーの大型テレビが衝撃的なニュースを流す。

 再婚した妻の連れ子である義理の娘に、性的な虐待を繰り返していた父親が警察に逮捕されたという内容だった。麗子は身体が固まる思いだ。

 「酷いっ、酷すぎる。許せない、こんな奴は絶対に許せない」と声を張り上げて非難する山田道子。強く同意を求めていた。だけど麗子は弱々しく頷くことしか出来ない。早く次のニュースに変わって欲しいと願うだけだった。無意識に横目で母親の様子を窺う。

 えっ。

 麗子と同じように身を固くしているのだ。無表情でテレビを見つめている。デザートを乗せたスプーンは宙に浮いて止まったまま。山田道子の言葉に反応できない。娘の視線に気づくと何も言わずにリビングから出て行った。

 この瞬間、母親は自分の娘が義父から性的虐待を受けていることを知っているんだと確信した。頭のてっぺんから足の爪先へと百万ボルトの電流が一気に突き抜けた感じ。

 麗子もリビングから出て自分の部屋へと急いだ。そこで心の動揺が顔に現れなくなるまで待つ。少し落ち着くとリビングへ戻って、「どうしたの?」と訝る山田道子に、急に気分が悪くなったと言って帰ってもらう。一人になりたかった。

 悲しい。自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになって泣いた。

 どうしてっ、どうして? どうして、助けてくれないの? どうして、何もしてくれないの? 

 あたしよりも新築の家やグリーンのベンツの方が大切だったらしい。ずっと愛してきた母親は、そんな人間だったのか。ズタズタに傷ついた。もう絶対に回復しそうにない。麗子は心を閉ざした。

 これからどうしよう。これから、どう生きていけばいいのか。

 翌日から母親は罪の意識を感じたのか、びっくりするほと優しくなった。いつも声を掛けてくれて、何でも買ってくれようとする。だけど逆に、それが麗子の怒りに油を注ぐ。もう大嫌い。上辺だけの優しさだ。肝心なことを話そうともしない。ウヤムヤにする気らしい。決心した。あのアドバイスを実行するしかない。今ならできる。それだけの勇気があった。

 篠原麗子は計画を練り始めた。  

 

   18

 

 佐野隼人は悩んでいた。すべてが上手く行かない。サッカー部のキャプテンであったが、その務めすらどうでもよくなっていた。

 あいつの所為だ。それは強い霊感の所為で理解できた。しかし、どう対処すればいいのか分からなかった。

 霊感の強さを知ったのは小学校へ上がる前だ。山に囲まれた父親の実家へ行った時のこと。日が暮れてから祖母に連れられて何軒か先の家へ用事があって出かけた。帰り道だ、祖母は急に立ち止まって孫の手を強く握ると言った。

 「隼人」いつもの優しい声じゃなかった。

「なに、オバアちゃん」手を通して緊張感が伝わってくる。

「お前、あの人たちが見えるか?」

「うん」

 道路を境にして山沿いの片側は民家で反対側は田んぼが広がっていた。そこで、この暗さにも関わらず農作業をしている人たちがいるのだ。全く言葉を話さず黙々と仕事を続けている。声だけじゃなくて何の音も聞こえてこない。異様な雰囲気が漂う。

「見えるのか、お前?」と、念を押す祖母。

「うん、見えるよ。どうして?」

「そうか」がっかりしたような声だった。「お前な、あの人たちとは絶対に目を合わすな。もし話し掛けられても返事はするな」

「どうして?」

「なにも訊くな。ただババが言った通りにしろ。分かったか」

「うん。じゃあ--」

「じゃあ、何だ?」何も訊くなと言ったばかりじゃないか、そう咎める響きが言葉にあった。

「オバアちゃんの横に立って、血を流している人とも話しちゃいけないんでしょう?」

「ひえっ」

 悲鳴に近い声を上げると、その場に祖母は腰を落としてしまう。慌てて立ち上がると孫の手を引っ張って逃げるように家に帰った。

 「この子は霊感が強い。あたしの比じゃないよ。まわりが気をつけてやらないとダメだ」

 両親に向かって、そう言ったのを覚えている。警告するような感じだ。その晩から祖母は体調を崩して床に伏す。亡くなったのは一週間後だった。

 霊感が強いのは災いの元らしい。「隼人。もし変な人たちが見えたら、すぐに言いなさい」両親は心配した。

 幸いにも、その後は異様な体験をすることはなくなった。祖母が絶対に目を合わすなと言った人たちを見る回数が、次第に少なくなっていく。霊感というのが自分から消えていく感じがした。

 去年の十二月、期末テストが終わって家で開放感に浸りながらネスカフェのゴールドブレンドを飲んでいる時だ。心臓を鷲づかみされるような感覚に襲われる。病気じゃない、すぐに霊感が蘇ったんだと分かった。これまでで最も強い。どうして? 今になって。

 その日から毎日、何か悪いことが近づいているという思いに悩まされることになる。訳が分からなかった。どうすればいいのかも分からない。ただ目の前に何かが現れるのを待つだけだった。

 気になって勉強が手につかない。成績は落ち始める。ぎくしゃくし始めた佐久間渚との仲も、なかなか元に戻らない。

 キスまでは早かったが、そこから先が進まなかった。肩から背中を触って、ゆっくり手を彼女の腰の方へ近づけると、「もう、やめて」と強く拒絶されてしまう。「いいじゃないか。もう少しだけ」そう頼んでも首を横に振るだけだった。

 何だよ、オレたち恋人同士じゃないのかよ。オレのことが嫌いになったのか。交換日記なんて面倒くさいことがやめたくなる。

 たまに板垣順平の奴が訊いてくる。「隼人、どこまでいった?」

「順調さ。オレは焦っていないから」と、誤魔化すしかなかった。反対に、「お前と香月はどこまでいったんだ?」と訊いてやる。するとその話は、そこで終わりになる。あいつら二人はキスまでいかないで別れたことが明らかだった。

 順平は相当な金を五十嵐香月に貢いだ。初めのころは、「デートに三万円も使ったぜ」と笑っていたが、そのうち何も言わなくなる。渚から聞いた話しだと、水玉のワンピースから始まって、スカートやシューズ、下着、更には生理用品まで買わされたらしい。中学生の交際レベルじゃなかった。奴は香月と親密な関係になりたくて、どんどん金を使ったのだ。隼人が「佐久間渚とキスしたぜ」と秘密を打ち明けたことが切っ掛けに違いない。つまり順平の奴は金の力で女をものにしようとしたのだ。バカな奴だ。

 金で自由になるような女は手塚奈々ぐらいなもんだろう。スタイルのいい長い脚だけが取柄で、頭の中は空っぽだから。佐久間渚にしても五十嵐香月にしても、そう簡単に身体を許すような女じゃなかった。

五十嵐香月は順平に多額の金を使わせておきながらキスもさせずに、一方的に理由も言わないで別れたんだから、ある意味で凄い女だ。

 いつかオレも渚に捨てられるんだろうか。そんな不安が頭を過ぎった。なんとかして交換日記を始めたばかりの、ときめいた頃に戻りたかった。金でものにするつもりはないが、何かプレゼントをして渚を喜ばせるべきかもしれない。そう気づいた。

 さて、どこで何を買おうか。

 佐久間渚の嬉しそうな顔を想像しながら、色々と頭の中で品物を選んでいた。ところが今は、そんなことを考える気持ちになれなかった。

 何か悪いことが近づいているという感覚は年が明けて、ますます強くなっていった。すべてが明らかになったのは三学期の初日だ。転校生。こいつが恐怖の原因だった。

 加納先生に連れられて二年B組の教室に入ってくるなりだ、隼人と目が合う。驚いたことに笑みすら浮かべて見せた。休み時間になると向こうから接してきた。

 「待たせたな」

「……」ど、どういう意味だ。

「オレが来たからには、お前は邪魔者だ。すぐに消えてもらうからな」

「お、おい、……なにを」

 こっちの返事を聞こうともしないで自分の席へ戻っていく。隼人は呆気に取られるだけだ。

 あいつは君津南中学に佐野隼人が通っていることを知っていたような口振りだった。会ったこともないのに。まったく理解できなかった。どうして、オレを敵視するんだ。

 佐野隼人はキリスト教徒だった。小学校の四年生ぐらいまでは、いつも日曜日のミサに行っていた。最近は足が遠のいて熱心な信者とは言えなかった。転校生から酷い言葉を浴びせられると、何だか知らないが無性に教会へ行きたくなった。

 日曜日、久しぶりにミサに出る。よかった。教会の荘厳な雰囲気の中に身を置くと、心が清められる思いがした。参列者全員で聖歌を歌うと、自分は神と共にあるんだという安心感を得られた。来週も来ようと決めた。

 月曜日、登校すると下駄箱のところで転校生が待ち構えていた。

 「お前が昨日どこへ行ったか知っているぞ」

「……」いきなり何だ。顔を見るのも嫌な奴なのに、朝から。すぐに教会のことを言っているのは理解できた。

「二度と行くな。わかったか」

「どうしてだ? お前には関係ないだろう」

「あるのさ」

「……え」ど、どういう意味だ。

「あの場所へ通うバカ者が近くにいると、オレの力が削がれてしまうんだ」

 それだけ言うと転校生は、その場から去って行く。佐野隼人は下駄箱の前に残された。耳にした今の言葉を頭の中で反芻する。二年B組の教室に入って自分の席に座っても考え続けた。

 あいつはオレが教会へ行くのを嫌がっている。つまりキリスト教が弱点なんだ。これで邪悪な存在であることがハッキリした。それなら懲らしめる為に毎日でも教会へ行ってやろうかという気になった 隼人は決心した。みんなの前に奴の正体を暴いてやろうじゃないか。--あっ。

 うれしい。もう少しで声が口から出そうになった。その姿を目にしただけで気持ちが楽しくなる。開いた教室のドアの向こうに佐久間渚が見えたのだ。なんて可愛い女だろう。今日こそは優しい言葉を掛けてやろうと思う。彼女の横には五十嵐香月がいて、廊下で誰かと立ち話をしていた。山田道子かな? いや、違う。男子生徒らしい。黒い制服の一部が見えて分かった。少し不安になる。

 相手は誰なんだ。すごく気になっていく。それは渚の顔が嬉しそうな表情をしていたからだ。まるで恋人と喋っているみたいに見えた。不安が嫉妬心へと変わる。

 男子生徒の全身が見えたとき、佐野隼人は鋸山の展望台から背中を蹴られて突き落とされた気分になった。マ、……マジかよ。

 転校生の黒川拓磨だった。よりによって、あいつだ。あんな奴と何で楽しそうに喋っていられるんだ。

 渚の奴、オレからあいつに乗り換えようとしているのか? こっちが、せっかくプレゼントでもして喜ばせてやろうとしていたところなのに……。なんて女だ。

 もしかしたら自分の思い過ごしで、これからも佐久間渚は自分のガールフレンドでいてくれる。そんな心の片隅に僅かに残っていた期待が、彼女が次に取った行動で完全に打ち砕かれてしまう。

 手紙を、あいつに手渡したのだ。ラブレターに違いなかった。それも教室の横の廊下でだ。大胆過ぎるぜ。もう誰に見られても構わないってことらしい。畜生っ。オレにはラブレターなんかくれなかったのに。嫉妬心は憎しみへと変わった。ふざけた女だ。オレをコケにしやがって。絶対に許してやるもんか。自分の席に座りながら悶々とした気持ちだった。

 「佐野くん」

こんな時に呼ぶんじゃねえ、バカ野郎が。「……」声で小池和美だと分かったが無視した。

「ちょっと、佐野くんたら」

「何だよ」近くにこられて返事をするしかなかった。大柄な女で目立つのに、最近はレンズの大きな玩具みたいなメガネを掛けて余計に注目を集めてる。それ似合っていないから外したら、と誰か言ってやる奴がいないのかよ。 

 不思議なことに、そのメガネを掛け始めてから小池和美の態度が自信に溢れた感じに変わった。理解できない。本人はカッコいいとでも思っているらしい。

 「ボランティアの件だけど」

「それが?」

「どっちに行くか今日中に決めて知らせないといけないの」

「あ、そう」

 そんなことオレが知ったことかよ。委員長の古賀千秋と書記の小池和美、お前ら二人が勝手に決めたことだろう。高校受験で内申書を良くしたいが為だ。

「佐野くん、だから前に出てクラスの意見をまとめて」

「なんでオレが?」ふざけんな。オレは関係ないだろう。

「千秋が休みなのよ」

「……え」

「風邪らしいの」

「ウソだろ」冗談じゃない。今はそんな面倒なことをする気分じゃなかった。

「早く」

「お前がやってくれよ」

「いやよ。あたしは書記だもん」 

「じゃあ、明日でもいいだろう」

「ダメ。今日中に、って言ってるでしょう」

 この強情な女。言い出したら絶対に妥協しない。隼人が嫌がっているのを知っていて、心の中では面白がっているんだ。

「ちっ」佐野隼人は渋々だが立ち上がった。小池和美の声が大きくて周りの注目を集めていたからだ。早く終わらせて席に戻ろうと考えた。

「おい、佐野。ちょっと、いいかな?」

「何だ」教壇に立とうとしたところで、山岸涼太と相馬太郎の二人に呼び止められた。こいつらか、という思いだ。また何か、くだらないことをしようとしているのが、連中のニヤニヤした表情から明らかだ。

「アンケートの結果が出たんだ。発表させてくれ」と、相馬太郎。

 すぐに数人の男子生徒から声が上がる。そっちが先だ。山岸と相馬の話が聞きたい。そうだ、先にやらせろ。

 ここは引き下がるべきだと佐野隼人は判断した。「分かった。早くしろよ」そう言って自分の席に戻った。

 小柄な相馬太郎が山岸涼太を従えて教壇に立つ。右手に紙を持っていた。「前回の『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』は、当然ですが投票権は男子に限られました。それで今回は『AV女優になりそうな二年B組女子生徒』のアンケートを行って全員に協力してもらいました」

 相馬太郎は生徒全員の反応を確かめながら話す。得意げだ。こういう場面では輝いていた。

 「では発表します。第三位は篠原麗子さんでした」一斉に拍手が起きる。『ベスト・オナペット』では二位でしたが、今回は順位を一つ落としました。でもさすがですね。おめでとうございます」

 拍手は続いた。視線が篠原麗子に注がれる。本人は恥ずかしそうに下を向く。その顔が次第に赤くなっていくと、逆に拍手は大きくなった。おめでとう、という声も上がって、はやし立てた。

 「第二位は五十嵐香月さんです。ベスト・オナペット第三位から一つランクを上げました。映画鑑賞で演技に対する感性が身についていると判断されたのでしょう。おめでとうございます」

 同じように拍手が起きたが、本人は注がれる視線に軽く笑っただけだった。

 「第一位は--」と相馬太郎が言い出すと、大きな拍手と共にクラス全員の視線が手塚奈々に集まった。「そうです。手塚奈々さんです。『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』に続いての連覇を達成しました。おめでとうございます。みなさん、盛大な拍手をお願いします」

 相馬太郎の言葉に応えて手塚奈々が席を立つ。両手を挙げて勝利の喜びを表現した。「ありがとうございます。AVデビューしましたら、ぜひ応援して下さい」そして挙げた手を頭の後ろで交差させると身体を捻ってセクシーポーズを取って見せた。

 それが男子に受けて拍手が大きくなった。会釈して彼女が席に腰を下ろすまで続く。どんなに冷やかしても手塚奈々は期待を裏切らない。軽率な女に扱われて嫌がるどころか、反対に調子を合わせておどけて見せるので男子から絶大な人気があった。

 しかし今回のアンケートの結果発表は前回ほどの盛り上がりはなかった。ランキングに入る女子生徒に代わり映えがなかったからだろう。三度目は無いなと思った。相馬太郎と山岸涼太から、終わったと合図を送られてオバア佐野隼人は席を立って教壇へと進んだ。

 「ボランティアの件なんだ」その一言で教室は静まり返った。まったく関心がないという証拠だ。隼人は続けた。「南子安にある老人ホームか坂田の福祉施設のどっちへ行くか決めたいと思います。これから票決を取りますから手を上げてください」

 ……。 

 何の反応もない。山田道子が隣に座っている奥村真由美に話し掛けるのが見えた。ボランティのことで何か言うのかと思ったら、英語の宿題どこまでだった、という声が聞こえてきた。隼人は一気に進めて早く終わりにしようという気持ちを強くした。「老人ホームでいいと思う人?」

 誰も手を上げない。どころか誰も、こっちを見ていない。嫌な予感が脳裏に走った。「じゃあ、坂田の福祉施設?」

 ……。

 やはり誰も手を上げなかった。完全に無視されていた。畜生、古賀千秋の奴が休んだりするから……。「おい、どっちかに決めなきゃならないんだ」言葉に怒りが滲んでしまう。「どっちかに手を上げてくれないと困るだろう」

 ……。

 教室は静かなままだ。これは大変なことになった。きっと長引きそうだ。佐野隼人に対して残りのクラス全員が対峙するという図式が教室に出来上がった。どうやって連中を説得させて、どっちに行くか決めさせるか。この状況から早く脱出したかった。 

 「ちょっと、いいかな?」やっと誰かが反応してくれたかと思ったら、それは黒川拓磨だった。

「何だよ。お前は関係ない」反射的に喧嘩腰の言葉が口から出てきた。心の中では、お前が転校してくる前に決まったことなんだよ、口出ししないで大人しく座っていろ、と怒鳴っていた。オレの彼女だった佐久間渚を横取りした憎い奴だ。

「そんなことはないと思うな。オレだって二年B組の生徒の一人なんだぜ」

 確かにその通りだ。苦々しい思いで隼人は応えた。「じゃあ、何だよ。言ってみろ」

「どちらにも行かないという選択肢はないのかな?」

「ふ、ふざけんな。どっちかに行くってことは決まってるんだよ」

「そう言うけど、みんなは行きたくないみたいだぜ」

「……」何も言えなかった。クラスの全員が興味深く二人のやり取りを見守る。佐野隼人は明らかに劣勢に立たされていた。教室の空気が張り詰めて時間だけが流れた。

 静寂。

 小池和美が立ち上がった。「黒川くんの言う通りだわ。どちらにも行かないという選択肢もあっていいと思う」

 隼人は自分の耳を疑った。こっ、このやろう。なんて女だろう。どっちかに決めろ、と指示を出したのはお前じゃないのか。全身が怒りで震えた。「おい、小池。お前と古賀の二人が勝手にボランティア活動を--」ことの経緯を明らかにしようとしたが、最後まで言わせてもらえない。

「そんなことは、もうどうでもいいの。どちらにも行かないという選択肢も加えて、全員の意見を聞くべきよ。ねえ、みんな」

 そうだ、そうだ、そうだ、という声があちこちから上がった。佐野隼人は一人、悪者にされた気分だ。無意識に親友の板垣順平の方を見て助けを求めた。ところがだ、奴は顔を下に向けて無関心を装っていた。いつもだったら、みんなに手を上げろよ、とか助け舟を出してくれてるはずなのに。今の奴の態度が信じられない。もはや孤立無援だった。「……じゃあ、どちらにも行きたくないと思う人は?」黒川拓磨の意見に従うしかなかった。当たり前だが、か細い声になっていた。

 ほぼ全員が手を上げた。それを見て佐野隼人は黙って自分の席に戻った。

 なんてこった。最悪の月曜日の朝だ。今日一日、誰とも話したくない。そう思った佐野隼人に声を掛けてきた女子生徒がいた。佐久間渚だった。

 「佐野くん、これ」

 オレを裏切った女だ。その手には交換日記帳を持っていて、差し出す。ムッときた。黒川拓磨にはラブレターで、オレにはこんな面倒くさいモノを持ってくるのかよ。もう続けていられるか、馬鹿野郎。怒りが爆発した。「うるせえっ」佐野隼人は彼女の手から交換日記帳を引ったくるように奪うと、思いっきり床に叩きつけた。

 教室が静まり返った。

 どうした? 何があった? 離れたところに席があって事情を知らない連中から声が上がる。

 佐野くんが渚に怒鳴ったのよ。渚のノートを床に投げつけたわ。問い掛けに答える声も聞こえてきた。二人が付き合っていることは周知の事実だった。二年B組において大スキャンダルと言ってもいい。もし君津南中学校で女性週刊誌が刊行されていたら、次号の表紙を飾る言葉はこれで決まりだろう。『二年B組の佐野隼人と佐久間渚が破局。本誌だけが知る赤裸々な事実』だ。そしてメディアの取材攻勢が始まるのだ。

 佐野さん、今のお気持ちは? 去年ですが二人だけになった放課後の教室でキスまでいったというのは事実ですか? もし傷心の彼女に声を掛けるとしたら、どんな言葉が浮かびますか? 別れた理由の一つに新たな男子生徒の存在があると聞きましたが本当なんですか? 佐久間渚が妊娠しているという噂がありますが、それについて一言お願いします。彼女のパンティとかブラジャーが頻繁に盗まれていますが、破局と関係がありますか? 

 ふざけんな。絶対に誰にも何も喋ってやるもんか。そして佐久間渚が静かに床に落ちた交換日記帳を拾って自分の席に戻っていくのが音で分かった。

 可哀想なことをしたな、という思いはなかった。ざまあみろとしか思わなかった。

 渚、大丈夫? と問いかける五十嵐香月の声が教室の後ろから聞こえてきた。それに続いて、佐野くんて酷い、という誰かの言葉が耳に届く。女の子に八つ当たりするなんて最低じゃない? 佐野くんて男らしくない。非難の言葉が二年B組の教室に飛び交う。

 佐野隼人は自分の席に座ったまま、何一つ身動きできない状況に追い込まれてしまう。何もかもがイヤになった。このまま家に帰りたい。仮病を使って早退しようか。

 しばらくして、ほとぼりが冷めたころを見計らって、顔を上げて正面を向いた。目だけで回りを見ると、ほとんどが佐野隼人と顔を合わそうとしていなかった。……たった二人を除いて。

 一人は黒川拓磨で、薄笑いを浮かべたので直ぐに目を逸らした。オレがこんな目になって愉快なのが明らかだ。畜生。いつか殺してやるからな、覚えていろ。もう一人は意外なことに、根暗の秋山聡史だった。こっちを見てニヤニヤした表情をしていた。何やってんだ、馬鹿野郎。こいつには睨みつけてやった。

   19

 

 君津南中学校で二学年の主任を務める西山明弘は悩んでいた。最近まではすべてが順調だった。何もかもが上手く行く感じだ。しかし、ここにきて人生における最大の決断を迫られていた。

 始まりは去年の春に学年主任になれたこと。就任が決まっていた人物が交通事故に遭って休職を余儀なくされて、自分に白羽の矢が立つ。周囲からは、君津南中学校で最年少の学年主任だと祝福された。卒業したのは二流の大学だったが、ここで一気に出世コースに乗れたんじゃないかと自信を得た。目標にしていた教頭を通り越して、上手く行けば校長という地位に就けそうな気がしてきた。これからはヘマをしないで、しっかり職務を全うすることだと自分に言い聞かせた。学校、とくに二学年において絶対に不祥事は許されない。何かが起きれば管理責任を問われてしまう立場だ。イジメや暴力に対しては常に目を光らせた。

 主任手当てとして毎月の給与に五千円がプラスされたことは嬉しい。学生時代からの借金があって生活は苦しかった。中古で買ったレガシィのローンだって残っている。今にしてスズキかダイハツの軽自動車にすべきだったと後悔していた。自動車税は高いし、燃費はリッターで10キロに届かない。それにハイオク仕様だった。遊び仲間が大学卒業と同時にフォルクスワーゲンのゴルフGTIを買って、それに対抗意識を燃やしたのが拙かった。車自体は運転していて楽しいのだが、今の自分には維持していくのが大変だ。

 家賃を削るしかなかった。三軒目に訪れた不動産屋が探し出してくれたのが築三十五年を過ぎた木造アパートだ。ここでレガシィのローンが終わるまでは我慢するしかないと諦めた。

 もちろん外観はそれなりで古い。住んでみても多くの場所で不具合が見つかった。歩くだけでミシミシと建物自体が揺れる感じだ。もし大きな地震がきたらどうなるのかと不安だった。ただし入居者が少ない。両隣は空室で静かだった。

 意外なことに家賃は銀行振り込みではなくて、月末に一階の最も日当たりの悪い部屋に住む大家が自ら取りに来た。今時そんなの有りかよってな感じだ。五十代の母親と年頃の娘の二人暮らしで家賃収入だけで生活しているらしい。

 二度目のときに娘が家賃を取りに来た。洒落っ気のない普通の女だった。魅力を探すとしたら若いことだけだ。財布から出した金を受け取りながら、「学校の先生をしていらっしゃるんですか」と訊くので、「そうです」と答えた。すると娘の顔が、目の前に神が現れたかのような畏敬の表情に変わった。教師をしていると言って、そこまで崇められたのは初めてだ。同時に、このアパートにはロクでもない奴しか住んでいなさそうだと思った。

 事実、ほかに住んでる連中は建築現場の作業員みたいな汚い格好で部屋から出て行くか、生活保護を受けて一日中ぶらぶらしている年寄りしか見なかった。オレが唯一まともな人間らしい。

 三度目も娘が家賃を取りに来た。今度は少し世間話をした。いい感触だったので来月分も娘が取りに来るなと思った。その通りで、試しに西山は娘を食事に誘ってみた。丁度、新聞の折り込みでファミレスの割引券を見つけていたし。

 娘は、びっくりした様子だった。急に黙りこくって恥ずかしそうに頷いてみせた。デートに誘われたのは初めてらしい。

 土曜日の夕方、レガシィの助手席に乗り込んできた女の格好には西山がたじろぐ。まるでこれから結婚式に行くみたいな姿だった。ウエストに大きなリボンをあしらったピンク色のパーティー・ドレスだ。それがまるっきり似合っていない。サイズも大き過ぎるような気がした。化粧は歌舞伎役者ように厚かった。西山自身は紺色のチノパンツにサン・サーフのアロハだ。これから畑沢にある中華のファミレスへ行こうとしていたのに気が滅入った。知り合いには会いたくない。会えば、あのとき一緒にいた女の人は誰ですかと訊かれるにきまっている。きっと心の中では、あんなセンスの悪い女とよく一緒に食事ができるもんだと笑っているくせに。仕方なく同じ割引券が使える市原の店まで足を伸ばすことにした。

 食事中の会話は悪くなかった。女が西山を崇拝していたからだ。何を言っても興味深く聞いてくれた。気分がいい。その日のうちにアパートで肉体関係を結んだ。予想した通りで、処女だった。

 翌日から女が夕飯を用意してくれるようになる。これには助かった。味は不味いが金が浮く。セックスも毎晩のようにした。どんどん女が積極的になっていく。もうオレなしでは生きていけないってな感じだ。

 やばい。

 西山は女と所帯を持つことなんて考えていない。これ以上は親密になってはいけないと危機感を持つ。が、距離を取ろうとしても肉体関係は続けたいので難しかった。

 本命の女が勤め先の君津南中学校にいる。美術教師をしている安藤紫だ。一目惚れだった。ルックス、香り、笑顔、優しい性格、すべてに心を奪われた。

 特に、桃みたいな丸い尻が素晴らしい。ウエストの細いくびれと長い脚が更に魅力的に見せている。去年の夏だった、落とした何かを拾おうとして上半身を屈めた時、西山は幸運にも彼女の真後ろにいたのだ。ワンレングスの艶のある髪、華奢な背中、白いブラウスにブラジャーのラインがうっすら、そして大きなヒップが目に飛び込む。西山明弘は安藤先生のセクシーな尻に、しゃぶりつきたい衝動に駆られた。なんとか理性で自分を抑えたが、絶対に二度目は無理だと思った。

 なんてケツだ! こんなムチムチしたケツは見たことがない。今にもスカートの布がはち切れそうじゃないか。

 後ろから彼女を押し倒し、紺色のスカートの裾を捲くって頭を中に潜り込ませる。パンティの上から安藤先生の尻に顔を押し付けたかった。あのセクシーな尻に埋もれてみたい。

 しかし公立中学校の職員室で、いきなり女教師の尻に抱きつくことは日本国憲法が許してなかった。蚊がとまっていました、そんな嘘もこの場合は通用しないだろう。残念。欲望のままに行動すれば懲戒免職に直結するのだ。法律を守りながら生きていくってことは本当に難しい。  

 ああ、ヤりたい。ヤりたい。ヤりたい。安藤紫先生とヤりまくりたい。その日からは、ずっと頭の中で魅力的な美術教師の裸の後ろ姿を想像し続けた。授業中であろうが、食事中であろうが欲望の火が消えることはない。もしかしたら彼女は素っ裸よりも、衣服を着ていた方が逆に色っぽいかもしれないと思ったりもした。

 職員室にいれば、自然に目が安藤先生へと向いてしまう。仕事に集中できなかった。小テストの採点をしながらも頭の中では、安藤先生を四つん這いにさせて、後ろから大きな尻を両手で抱えて、オレの強力なミサイルを突っ込んでいるところを想像した。

 なんとかして親密な関係になりたい。何度も食事に誘った。しかし未だにいい返事をくれない。オレが嫌いなのか? いや、それはないだろう。なぜなら、ときどき親しげに話し掛けてきたりするからだ。オレが言った冗談にも笑って応えてくれるし。

 もしかしてオレは彼女の好みのタイプじゃないのか? 恋愛の対象にならないとか? だとすると問題の解決は難しい。

 優しく接して彼女の気持ちが変わるのを待つしかない。これは時間が掛かるので気が滅入る。手っ取り早いのは、やっぱり、オレにヤらせてみろよ、だ。すぐにタイプの男になれるだろう。これまでがそうだった。どんな女もオレに背後からミサイルを打ち込まれたら我を失う。持っていた自尊心は粉々に崩れて快楽の奴隷に成り下がる。ヒーヒー、ハアハアと喘ぎ声を漏らして、その目は虚ろ。タイミングを見計らって、オレがミサイルの核弾頭を破裂させてやると、女は身体を弓なりにして歓喜に悶えた。

 しばらく余韻に浸って、声が出せるようになって最初の一言は決まって、「もう一度して」だ。もはやオレの虜だった。

 安藤先生にも同じことが起きるのは間違いない。オレのミサイルを味わった途端に後悔の念に襲われるのだ。ああ、もっと早く食事に付き合うべきだった、と。

 あの手この手で西山明弘が、美術教師からデートの約束を引き出そうと画策していた矢先だった。君津南中学校は何人かの新任教師を迎い入れて、そこで計画が大きく狂うことになる。

 加納久美子、英語教師として赴任してきた女が西山の集中力を乱す。一目見た瞬間に気持ちが舞い上がった。

 憧れていた安藤先生とは全く違うタイプの女だった。痩せてスレンダーな肢体は、何か運動で鍛えられたアスリートという印象が強い。オッパイやヒップが特に大きいわけではない。安藤先生みたいに女らしい身体じゃない。それでも、どこか凄くセクシー。目つきとか仕草とか、男を引き付ける魅力を待ち合わせていた。

 知的な顔立ちは意思の強さを醸し出す。この女を口説くのは大変だと思った。それが故に西山は自分のミサイルを突っ込みたい強い衝動に駆られてならない。難攻不落な女ほどミサイル攻撃をしてみたかった。

 職場に二人のターゲットだ。これは拙い。高校の時にクラスに付き合っていた女がいたにも関わらず、他の女に手を出したことがあった。上手く行っていたのは一ヶ月だけだ。すぐに、どっちの女に何を話したか、どっちの女に何を約束したか、頭の中で混乱してしまう。最後は両方の女に二股がバレて破局した。

 安藤紫と加納久美子、どっちかを選ぶべきなのか。食事に誘っても未だにいい返事をくれない安藤先生を諦めようか……。いいや、それはできない。あの魅力的な尻を忘れられるもんか。ミサイルを撃ち込んでもいないのに。オレが諦めれば誰か他の男がミサイルを撃ち込むことになるのだ。そんなこと絶対に許せるもんか。俺が目をつけた尻だ。誰にも渡したくなかった。

 じゃあ、加納久美子を忘れるべきか。ああ、それも難しい。あの女は安藤先生みたいな尻を持っているわけじゃない。だけど、あの痩せた女には何か新鮮な魅力があった。若々しく、活力に溢れていて、躍動感に満ちていた。

 乗っている車はエアバックやABSも付いていない、十年以上も前のフォルクスワーゲンでマニュアル仕様だったが、それをサングラスを掛けて運転するする姿が実にスポーティでカッコいい。絵になっている。乗っただけで古い色褪せた乗用車をスタイリッシュにしてしまう女なんて、オレは今までに知らない。

 西山明弘は悩み続けた。超いい女が二人も自分の職場にいる。この幸運が信じられない。もしかしてこれは、どんなにブスでもしっかり女の相手をしてきたオレに対する神様からのご褒美か? それとも神様がオレに与えた試練なんだろうか。ここで、どう対処するかでオレの今後が決まったりして。

 可能性は低いかもしれないが、上手く立ち回って安藤先生と加納先生の二人をモノにするという期待は捨てていない。まるっきり有り得ない話じゃない。「あたし、二股でも構わないわ。これからも抱いてくれるなら」なんていう言葉を両方の口から言わせたら、これは最高だ。大成功。きっと神様も喜んでくれるに違いない。オレは人生の勝利者と言っていい。

 その勢いに乗って一気に教頭に、そして校長へと上り詰める。その後は教育委員会に迎えられて、もはや地元の名士と言っていい存在になるだろう。

 しかし問題は金だった。それなりの女を口説くには、それなりに軍資金が必要なのは経験から知っている。今のオレには、それが全くない。超いい女が二人もいるのに総攻撃を仕掛けられないもどかしさ。ここは手堅く、どっちか一人をモノにするというスタンスで行くべきなのか。

 上手い具合に加納先生には、自分が頼りになる男だと証明するチャンスが巡ってきていた。

 放課後、職員室で加納先生が生徒の佐野隼人と話しをしている時に掛かってきた電話だ。相手は板垣順平の母親だった。加納先生の顔から何か問題が起きたらしいと悟ったオレは、すぐに受話器を置いた彼女に話し掛けた。「どうしました」

 「……」

「何があったんです?」話すべきか躊躇っている加納先生にオレは強く促した。

「生徒のことでした」

「聞かせて下さい」

「うちのクラスの手塚奈々なんですが……」

「彼女が?」脚が長くて魅力的な女生徒だ。もしかして性犯罪に巻き込まれたか。

「板垣くんのお母さんが言うには、彼女、お好み焼き屋さんでアルバイトをしているみたいなんです」

「本当ですか?」何だ、そんな事か。

「いえ。まだ本人から話を聞いていないので、ハッキリしたことは分かりません」

「しかし知らせてくれたのは板垣順平の母親でしょう?」

「そうでした」

「だったら間違いはない。父親は中古自動車の販売を手広くしていて、地元の商工会では副会長を務めたこともあるらしいです。君津の商店街については知らないことは無いはずです」

「明日、手塚奈々に聞いてみます」

「加納先生」

「はい」

「お好み焼き屋のアルバイトなんか今だけですよ。すぐに稼ぎのいいスナックやバーで働くようになるでしょう。行き着く先は風俗店です。早いうちに辞めさせた方がいい」

「そうですね」

「ここは僕に任せてくれませんか」

「西山先生が手塚奈々と話をするということですか?」

「そうです。ただ叱るだけでは逆に反感を募らせてしまう。上手く彼女を説得してアルバイトを辞めさせてみせます。まだ中学生なんだから仕事なんかよりも学業に精を出すべきでしょう」

「それは、……そうですけど」

「加納先生、ここは学年主任の自分に任せて下さい」

 二年B組の担任である加納先生は当然だが、まず自身で対処したい様子だった。そこで自分は学年主任だということを強調した。

「わかりました。結果は教えて下さい」

「もちろんです」

 西山明弘には考えがあった。手塚奈々を言い聞かせてアルバイトを辞めさせれば、加納先生に自分は頼りになる男だという印象を与えられることだ。オレに対する見方が変わるはずだ。

 それともう一つ。あの手塚奈々という女生徒と話がしてみたかった。

 長い魅力的な脚をしていて、成長と共に最近は非常に目立つ存在になった。急に背が高くなった為にスカートの丈が短くなってしまう。見たくなくても視線は、その長い脚に惹きつけられた。

 スタイルは抜群だ。今すでにイイ女と言えた。これが数年後、女らしく色気づいて、化粧を覚えて、髪を肩ぐらいまで伸ばしたら、もう目が飛び出るほどセクシーな女になるんじゃないかと期待できた。そう考えると自分と歳が離れ過ぎていることが、とても残念でならない。

 だけど将来に何が起きるかは誰にも分からない。年月が経てば二人の歳の差は、どんどん縮まっていく。この機会に言葉を交わして少しでも親しくなっておくことはいいことだと思った。

 お好み屋のアルバイトなんて大したことない。そのぐらいの校則違反は誰でもやることだ。西山自身も中学時代から新聞の配達、御歳暮や御中元の配達で小遣いを稼いできた。

 叱ったりはしない。その長く美しい脚で目の保養をさせてもらっている恩義がある。働いているところを、口うるさい板垣の母親なんかに見つかったのが拙かったんだ。運が悪かったと思ってバイトはしばらく止めろ、と説得するつもりだ。ほとぼりが冷めたら、また始めたらいい。オレは味方なんだ、という印象を手塚奈々に残したい。西山先生は物分かりがいい思ってもらいたい。

 歳の差なんか関係ない。魅力的な女生徒と親しくなることは、キツくて単調な教員生活を少しでもバラ色に変えてくれる。西山明弘は手塚奈々を呼び出して話をすることが今から楽しみだった。

 

   20

 

 「うっ」

 鼻血だ。小池和美は用意してあったティシュに急いで手を伸ばした。大好きなチョコレートを食べると、いつも鼻血が出た。

 久しぶりだったので大丈夫かなと思ったが、やはりダメだった。チョコレートと鼻血は切っても切れない縁になっているらしい。

 痩せたくて、しばらく嗜好品を口にするのは控えていたのだ。その間は欲求不満で気が狂う思いだった。チョコレートのことが、ずっと頭から離れない。

 小池和美は身長が百六十八センチで、体重は七十三キロと女子の中では大柄だった。背の高さを低くすることは不可能だが体重は落とせる。このままでは永久にボーイフレンドなんかできそうにないと考えて、ダイエットを始めた。十キロぐらい落とせば痩せた女というイメージを周囲に与えられるんじゃないかと期待した。

 二年B組には不思議なくらい綺麗な女の子が集まっていて、おのずと美意識を刺激された。五十嵐香月、佐久間渚、手塚奈々、篠原麗子、奥村真由美の五人だ。タイプは違うが、それぞれが魅力的だった。そして担任の加納久美子先生。こんなに知的で美しい人は見たことがなかった。

 当然だがクラスの中で自分の存在は薄い。男の子からは見向きもされない。大柄過ぎて恋愛の対象にならないのだろう。口には出さないが山岸くんたち不良グループが行った、『二年B組女子ベスト・オナペット』に選ばれた女の子たちが羨ましかった。

 小池和美は書記というクラスでの役にしがみついていた。三人いる役員の一人だというプライドだ。委員長の古賀千秋に寄り添うことで自分も彼女みたいに頭がいいのだという印象を作りたかった。

 彼女が学級委員長に立候補したときに、「あんたは書記をやりなよ」と誘われて和美も手を上げたのだ。

 「三年生になったら生徒会長に立候補するからね」が、古賀千秋の口癖だった。つまり、あんたも書記として付いてきなという意味だ。何度も聞かされて、和美もその気になっていく。

 今の時点で彼女に対抗できる候補は他にいない。当選は確実だろう。学校の成績は抜群。見事に整理され、マーカーで色刷りされた学習ノートは見たことがなかった。ここまでしないとトップの成績には届かないのか。古賀千秋のノートは完璧すぎて逆に小池和美の学習意欲を削ぐ。あたしには、とても無理だ。

 こんな頭のいい子と仲良くなれて嬉しかった。それだけじゃなくて、彼女は均整の取れた身体をしていた。学校では学生服のサイズが合っていないのか、何となく野暮ったい感じがした。それが秀才っぽい雰囲気を醸し出しているけど。

 日曜日とかに二人で会うときのカジュアルな格好では、スタイルの良さが際立っていた。ファッションにも詳しい。何を着ても似合いそうだから当然かもしれない。顔立ちだって悪くない。それなりに可愛いかった。『二年B組女子ベスト・オナペット』で五人と争える容姿を持っていた。男子が気づいていないだけだ。それとも頭が良すぎて恋愛の対象としては敬遠してしまうのか。

 この子とずっと友達でいたい、そう小池和美は願った。友情を保つ為にと、マクドナルドなんかで食事した時は和美が二人分の代金を支払った。

 痩せたくてダイエットを始めたのも、少しでも容姿を彼女に近づけたいからだ。五十嵐香月と佐久間渚の美人二人と仲良くしている山田道子みたいにはなりたくなかった。あれは、ただの引き立て役じゃないの。すっごく惨め。女として生まれてきて、あまりにも情けない。本人は頭が悪いから気づいていないのだろうけど。

 二十キロぐらい体重を落としたかった。そうすれば斜め四十五度から鏡に映った自分の横顔を、髪を強風で乱れた感じにすればだけど、ぽっちゃりした藤原紀香に見えなくもないはずなのだ。身長だって、ほぼ同じだし。

 勉強は頑張って東高校か君商には合格したい。ファッション雑誌にも目を通して服のセンスを身に付けたかった。男の子が恋愛の対象としてくれるような女の子になりたい。

 ただし二つだけ問題があった。一つはチョコレートだ。食べないでいられるか自信がなかった。あたしからチョコレートを取ったら何も残らない、それが本音だ。痩せたい。でもチョコレートは食べ続けたい。量を減らそうとしたが上手くいかない。思い切って一切口にしないことにした。

 もう一つはプロレスだ。誰にも言っていないが不沈艦スタン・ハンセンに憧れていた。ラリアットを相手に見舞うところが凄くカッコいい。あたしも、あんなふうにやってみたいと密かに思ってしまう。

 父親がプロレスの大ファンでリビングのテレビで、しょっちゅう試合のビデオを見ていた。最初は大嫌いだった。格闘技なんて野蛮な人たちだけが見るもんだと思った。汗まみれで血を流しながら、男同士で取っ組み合うなんて不潔で嫌悪感しか覚えない。スポーツ観戦そのものに興味がなかった。ワールドカップ・フランス大会で日本が惨敗したときも全く悔しくない。終わって良かった、これで静かになるとしか考えなかった。

 それがリビングの床に寝っ転がって、何気なくテレビの画面に映るプロレスの試合を見て気持ちが変わる。スタン・ハンセンとジャイアント馬場のPWFヘビー級選手権だった。すごく面白かった。試合はスタン・ハンセンがスモール・パッケージ・ホールドで負けてタイトルを失ったけど、彼のファンになった。あの荒々しさに魅力を感じた。興奮して和美自身も汗をかいてしまう。シャワーを浴びようと浴室へ行って、脱衣場で鏡に映った自分の裸体に驚く。何となく体型がスタン・ハンセンと似ているのだ。男の子たちが好むような女らしい体じゃないけど、悪い気はしなかった。ラリアットを見舞う動作をしてみる。うわー、なんてカッコいいの。すごく様になっていた。ああ、誰かにやってみたい。誰か憎らしい奴に食らわせてやりたかった。いつかチャンスが来るかもしれない。風呂場で、ラリアットとエルボー・ドロップの真似をするのが習慣になった。

 でもダイエットは止めない。自分はプロレスラーになりたいわけじゃないから。男の子から女の子として認められたいのだ。ただし女の子らしくないけどプロレスの試合は見続けることにした。

 なかなか体重が落ちなかった。ちょっと落ちても直ぐに元に戻ってしまう。ああ、何なのこれって。あたしに対する嫌がらせ? ずっとチョコレートのことが頭から離れないし。もうノイローゼになりそう。学校では秋山聡史とか相馬太郎なんか小柄でバカな男子を見ると、正面からラリアットを見舞ってやりたい衝動に駆られる。

 男のくせにチビなんてバカじゃないのかしら?

 小池和美は自分よりも背が低い男子を人間として認めていなかった。奴らは消耗品だ。生きていく価値もない。掃除当番は順繰りではなくて、連中の義務にすべきじゃないだろうか。テストの点は二十点引きにして、それを背の高い女子生徒たちに振り分ける。こういう意見を、どうして誰も言い出さないのか不思議でしょうがなかった。

 もし古賀千秋が生徒会長に選ばれたら、書記のあたしが提案するしかないのだろうか。いくつか考えを持っている。まず、背の低い男子全員から生徒手帳を取り上げる。お前らは正規の生徒として認めてやらない。彼らの学校での言動と行動は制限する。胸元には目立つ黄色いバッヂを、そして腰のベルトには鈴を付けさせよう。いつ、どこにいても誰もが分かるようにする為だ。お喋りは不可。言葉は挨拶だけに限らせる。あいつらから笑顔を奪いたかった。将来の夢も希望も持たせない。背の高い女子と目を合わすことは禁止。廊下ですれ違う場合は一歩退いて、相手の通行を妨げないようにする。教室とか校庭、トイレも一般の生徒と別に設けよう。いずれは財産の没収も視野に入れて校則の強化を図りたかった。

 背が低い男子への暴力や略奪は校則違反にならない。ストレスの発散として黙視される。廊下ですれ違いさま、いきなりラリアットを食らわせてやろう。ああ、面白そうだ。後ろに引っくり返って気絶するかも。そしたら即座にエルボー・ドロップで止めをさす。このコンビネーションが、プロレス技では大切なのだ。

 チョコレート、チョコレート、チョコレート、チョコレート。食べていないのに体重は減らない。もうダメだ。この鬱憤を学校で誰に晴らさないと、こっちが死んでしまう。教室で自分の席に座ってラリアットを食らわせてやる獲物を選んでいた時のことだ。隣に座る転校生の黒川拓磨くんから話しかけられた。

 「小池さん、ダイエットしているんだって?」

「……」驚いた、突然で。何で知っているんだろう。

「増やすのは簡単だけど、減らすってのは本当に苦労するんだぜ」

「どうしてダイエットしているって知ってるのよ?」

「古賀さんから聞いた」

「えっ、本当?」あたし、千秋に言ったのかしら。ぜんぜん覚えていない。

「食べたいモノを控えただけじゃダイエットは成功しないぜ」

「……」今の言葉、聞き捨てならない。「どういうこと?」

「つまり心にイメージ作りをするんだ。いつも頭の中に自分の痩せた姿を思い浮かべながらダイエットすると効果があるらしい」

「へえ、そうなの。でも自分の痩せた姿なんか見たことないから想像できないけど」

「その通り」

「……」なに、こいつ。期待を持たせやがって。やっぱりチビだから馬鹿なのかしら。意味のない話なんかして。

「だけど、もし自分の痩せた姿を見る方法があったら、どうする?」

「え、どうやって? そんなの聞いたことないよ」

「それがあるんだ」

「マジで? どこに?」

「これなんだ」

「え」冗談かと思ったら、転校生はポケットに手を入れると取り出して見せてくれた。「なによ、それ? ただのメガネじゃない」

「うん。たけど普通のメガネじゃない」

「……」からかってんの、あたしのこと? レンズが丸く大きくて玩具みたいな白いメガネだった。確かに、そういう意味なら普通のメガネじゃなかった。ホームセンターにあるサービス・カウンターの横でレジャー用品として売られているようなやつだ。

「これを掛けて鏡に映った自分を見てみなよ。きっと驚く」

「……」

「次の休み時間にトイレに行って試してみるといい」

「あたしのこと、からかっているんでしょう?」

「まさか。そんなくだらない奴に見えるかい、このオレが?」

「……」チビだけど勉強が出来て真面目で静かな男子、それがこれまでの印象だ。女の子にイタズラをして喜ぶような生徒ではなかった。それなら騙されたと思って話に乗ってやるのも面白いかもしれない。失うモノは何もないんだし。「わかった。次の休み時間にトイレで試してみるよ。その代わり何もなかったら、あんたにラリアットを食らわすよ」

「え、なに? ラリアットだって?」

「いいの、こっちのこと。気にしないで。次の休み時間に試してみるから」

「よかった。気に入ってくれたら嬉しいな」

 小池和美は転校生からメガネを受け取った。プラスチックで出来た安っぽい作りだった。ちょっと期待したが手にした途端に萎んでしまう。こりゃ、きっとダメだ。じゃあ、ラリアットか。

 授業終了のチャイムが鳴って、しばらくしてからトイレに向かった。誰も見ていないところでメガネを掛けるつもりだった。一人になるのを待つ。最後の女子がドアの外へ行くと、小池和美は鏡に向かった。ポケットからメガネを取り出し、そっと掛けてみる。

 「うわっ」思わず声が出て、反射的に後退りしてしまう。鏡には別人が映っていたのだ。だ、誰なの、この子? びっくりした。これってマジック? 綺麗な子だった。呼吸の乱れが治まってから、恐る恐る再び鏡の正面に立つ。この子の正体が知りたい。

「あれ?」何でだろう、あたしに似ている。あたしの面影があるじゃん。ま、まさか、……もしかして、これが自分の痩せた姿だったりして。でも、こんなに綺麗なはずが--。

 試しに小池和美は首を振ったり、何度も口を開けたり閉じたりしてみた。鏡に映った美しい少女も同じ動きをする。驚いた。これで確信した。な、なんて綺麗なんだろう。自分の痩せた姿に見惚れてしまう。

 ちよ、ちょっと待ってよ。こ、これって見方によっちゃあ、もしかして……もしかしてよ、まさかだけど……藤原紀香に勝っていない? 驚きの発見に額が汗ばむ。呼吸も乱れる。はあ、はあ。息苦しい。やだーっ。勝ってるよ。マジで、勝ってる。信じられない。もう嬉しくて嬉しくてトイレの中で奇声を発したいくらいだった。ラリアットでトイレの全てのドアを破壊したい。この喜びを表現するには、それしかない。感動で涙も出てきた。もう絶対に痩せよう。断食してでも痩せて--。あ、やばいっ。

 ドアが開く音がして女生徒がトイレに駆け込んできたのだ。小池和美は急いでメガネを外した。今、掛けている姿を見られちゃマズいと思った。

 手塚奈々だった。このメス猫野郎、人の邪魔をしやがって。バカだから、こんな時間になってオシッコをしに来るんだ。彼女が中に入って閉めたトイレのドアに向かって、小池和美は心の中で言い放った。「あんたが男の子たちに、ちやほやされなくなるのも時間の問題だよ。このあたしが次回の『二年B組女子ベスト・オナペット』で一位になるんだから」

 教室に戻って自分の席に座る前に転校生の黒川くんと目が合う。自然と笑みがこぼれた。それを見て相手が頷く。

 「どうだった?」

「これって、すっごい」

「だろう」

「あたし、買いたい。幾らなの?」ゆうちょの通帳に十万円の残高があった。

「いいよ、お金は。小池さんにあげるよ」

「うそっ」

「もう僕は使わないから」

「えっ、黒川くんも使っていたの? そんなに痩せているのに?」

「以前は太っていたんだ。ほら、証拠を見せよう」

 生徒手帳を取り出して、ページの間に挟んであった写真を見せてくれた。「ええっ」あたしよりも太っているじゃない。「こ、これが黒川くんだったの?」

「そうだよ」

「いつごろ? これって」

「半年ぐらい前かな」

「本当? たった半年で、こんなに痩せられるの?」

「そうなんだ。頭の中に自分の痩せた姿を常に思い浮かべていたからだと思う」

「イメージ・トレーニングが大切なのは聞いていたけど……、そこまで効果があるなんて」

「それにさ、食事なんかは同じ量を食べ続けていたんだぜ」

「え? ちょっと、待って」今の言葉もう一度、聞きたい。しっかり確認しないと。「つまり、食べたいモノを控えなくていいってこと?」

「うん」

「うわっ、信じられない」大好きなチョコレートが今まで通りに食べられるんだ。涙が出るほど感激。「黒川くん、本当にもらっちゃっていいの?」

「いいよ」

「ありがとう。すごく嬉しい」

「小池さん、そこで一つお願いがあるんだけど」

「何でも言って」あたしのヌードが見たいって思ってるなら、上半身は脱いでもいいわよ。下半身は自信がないけど、オッパイは両腕を使って寄せれば女らしいんだから。

「三月十三日の土曜日に『祈りの会』を開く予定なんだ。ぜひ出席して欲しい」

「なに、『祈りの会』って?」

「僕の願い事が成就するように、一緒に祈って協力して欲しいだけなんだ。たぶん一時間ぐらいで終わると思う」

「それだけ?」脱げとか触らせろ、を覚悟していただけに拍子抜けしてしまう。

「そうだ」

「出席するわ」本当にオッパイは見せなくていいのかしら?

「ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」気が変わったら、いつでも言って。もう覚悟はできてるから。

 こんな凄いメガネを貰ったのに、『祈りの会』に出席するだけでいいなんてウソみたい。黒川拓磨くんには感謝してもしきれない。いつか何か御返しをしたかった。チビでも立派な人物っているもんだ。古賀千秋が生徒会長になっても、彼が正規の生徒でいられるように守ってあげよう。

 小池和美は下校途中でルピタに寄って、どっさりチョコレートを買う。帰宅すると自分の部屋に閉じこもった。勉強机の上に鏡を置いて自分の痩せた姿を見ながら、チョコレートを頬張る。鼻血が出ようが構わない。食べられなかったこれまでの分を取り戻す勢いで食べ続けた。口の周り、両手、鏡、目の前に置いた白いタオルが真っ赤になっても止めなかった。

 血が交じり合ったチョコレートの味はなかなかだ。結構いけるじゃないの。病みつきになるかも。ただし鏡に映った少女は、まるで恐怖映画に出てくる吸血鬼みたいだった。ニヤッと笑うと血だらけの唇の間から白い歯が現れて、恐ろしさが増す。うふっ。愉快。この血まみれの顔で相馬太郎や秋山聡史に襲い掛かってやりたい。首に噛み付いてやろうかな。きっと腰を抜かすぐらい驚くはずだ。

 あ、ダメよ。そんなんじゃあ。いいこと思いついた。

 まず獲物にラリアットを食らわせて気絶さす。目が覚めたところを吸血鬼の顔で驚かせてやるんだ。そして首に噛み付く。チビで馬鹿な連中を恐怖のドン底へ突き落としてやろう。

 ああ、卒業するまでに一度でいいからやってみたい。神様、お願いです。この小池和美にチャンスを下さい。それまで良い子にしていますから。

 

   21   

 

 ずる休み。今学期に入って四回目だ。母親は知らない。ざまあみろ。もうアンタの言いなりにはなりたくない。

 古賀千秋の母親に対する怒りと憎しみは、とうとう我慢の限界を超えた。これからは悪い事に手を染めてやろう。勉強だって、もうやる気を失いつつあった。

 さあ、今日はどうやって一日を過ごそうか。もうテレクラ遊びは飽きた。

 電話してバカな男たちと話すのは初めは愉快だった。なんとかデートにもちこもうと言葉巧みに誘ってくる。

 「歳はいくつ?」

「十八だけど」まさか十四歳とは言えない。十八から二十一歳の間で答えていた。 

「じゃあ、まだ学生?」

「そう」

「今日、学校は?」

「休んじゃった。最近は何もかもがつまらなくて」ここでエサを撒く。話の流れで、「ボーイフレンドと別れたばっかりなんです」と言うこともあった。

「気晴らしにドライブでもしようよ?」か、それとも「どっかで一緒に飲まない?」と誘ってくる。

「いいよ」行きません、なんて返事したことない。

 時間と待ち合わせ場所を決めて電話を切る。ほとんどがそこで終わり。約束はすっぽかす。以前に二度ほど男の声と話し方が良さそうだったので、待ち合わせ場所まで自転車で行ってみたことがあった。でも本人を見てがっかり。そ知らぬ顔で通り過ぎてやった。会話でバカな男たちを手玉に取るのは面白い。

 話していて、馴染みのある声に驚いたことがあった。聞き覚えがあるけど、なかなか思い出せない。誰だろう。しばらく話していて急に、相手の口調で思いつく。やばいっ。学年主任の西山先生だ、間違いない。古賀千秋は急いで電話を切った。これを最後にしてテレクラ遊びは止めた。

 今日もテレビのワイド・ショーを見て過ごすことになりそうだ。読みたい本もなし。聞きたい音楽もない。見たいレンタル・ビデオもなかった。でも、じっとしていると母親への怒りは募るばかりだった。

 何点取っても母親は満足してくれない。難しいテストで学年でトップの八十点を取れた時でも、自分は嬉しくても、母親の言葉は「その程度で喜んでいちゃダメでしょう。あんたには小川先生という家庭教師を付けているんだから、もっと頑張ってくれないと困る」だった。やる気を失う。怒りと憎しみを覚えた。

 七十点なんか取ろうものなら、家に帰ってからの叱責は恐怖に近いものがあった。前の席に座る手塚奈々が四十五点で世界制覇したみたいに大喜びしているのとは正反対だ。

 幼少の時に怯えた母親の言葉は、「ダメでしょう」と「早くしなさい」だ。小学校に入るとそれが、「何やってんの、あんた」と「いい加減にしなさい」、それと「何度言ったら分かるのよ、あんたは」の三つに変わる。

 三年生の時の作文で、ほとんど父親は家に居ないと事実を書いたところ、母親に怖い顔をされて叱られた。みっともないことは書かなくていいと言うが、どういう事がみっともないのか説明はなかった。

 生理が始まったときは、母親がどんな態度を取るのか分からなくて怖かったので伝えられなかった。一ヶ月近くも経ってから言ってみると、案の定で聞こえない振りをされた。娘が成長して女らしくなっていくことを快く思っていないことは明らかだった。胸が膨らみだして、「あたし、ブラジャーをした方がいいと思うんだけど」と控えめに言ってみると、返ってきた答えは「そんなの必要ない」だった。

 仕方なくクラスメイトの篠原麗子に付き合ってもらって、アピタで適当なサイズを選んで小遣いから買った。

 中学生になると勉強とクラブ活動で忙しくて、母親の話を聞いていられる時間が少なくなる。すると「こんなに苦しんでいるのに愚痴の一つも聞いてくれないの」という言葉を浴びせられた。

 もう子供じゃない。話の内容が理解できるようになって、母親にも非があることが分かる。ところがそこを突くと、「あなたに何が分かるの」と「あたしがどんなに大変だったか知らないくせに」と激しく反撃してきた。

 クラブ活動で疲れて帰ってきたところを、成績のことで文句を言われて、とうとう不満が破裂する。「お母さんが中学生だった時よりも、あたしはいい点を取っているんだから黙っててくれない」と言い返した。母親はやっと君津商業へ進学できるぐらいの成績だったと、父親から聞かされていた。ショックだったのか、しばらく沈黙が続いた。母親は静かに部屋を出て行った。

 その後の母親は人に会う度に、「あたしは子育てに失敗した」と本人を前にして言いふらす始末。あの女ならではの仕返しだ。自分を否定されているようで酷く辛い思いをさせられた。

 もう許さない。絶対に許してやらない。

 良い子でいること、いい成績を取ることを強く求められ続けて、もう疲れた。それは娘である千秋の為ではなかった。すべてが世間体の為だ。もうイヤだ。母親の操り人形でいることに耐えられなかった。

 「あんたの為だから」という言葉にもうんざり。そう言っては娘の行動に干渉してきて自由を束縛するのだ。

 これからは自分のやりたいように生きていく。服も着たい服を着る。肌の露出が大きいセクシーなのが好き。ミニスカートが穿きたかった。脚には自信がある。あのバカな手塚奈々にも負けていないと思う。

 ルピタとかで女らしくて大人っぽい服を選ぶと、母親は顔をしかめてこう言う。「千秋には似合わない。そんな服を着て歩いているところを人に見られたら、何て思われるかしら。ダメよ、ほかのを選んで」

 ずっと地味で野暮ったい服ばかりを着せられ続けた。まだ中学生なのにオバさんみたいな格好だった。このままだと母親みたいな大人になってしまう。そんな危機感を覚えた。

 オシャレな服が着たい。母親は買ってくれないから自分の小遣いで買うしかない。

 幸いにも山岸涼太と相馬太郎、それに前田良文の三人が、千秋が指定した商品を万引きして安く譲ってくれた。連中から切れ者の関口貴久が転校して抜けたことは心配の種だったが、ビジネスは今のところは順調に行っている。

 ここにきて古賀千秋は新たなアイデアを思いつく。山岸たちの万引きグループに加わることだ。欲しい物を自分で盗めばリスクはあるが金を払う必要がなくなる。それと母親を失望させる行為をしているという満足感が得られるのだ。

 「ねえ、あたし達も仲間に入れてよ。今度、一緒に行きたい」古賀千秋はリーダー格の山岸涼太に言った。

「ちょっと、待ってくれ。仲間って、どういう意味だよ」

「万引きグループに決まってるでしょう。あんた達が万引きした品物を学校で安く売っているのは、誰もが知っているわよ」

「古賀さん、声が大きいよ。今は、もうやっていないってことになっているんだから」

「あら、そうなの」

「そうさ。相馬が駅前のコンビニで捕まってからは、足を洗ったってことにしてあるんだ」

「でも、色々と売っているじゃない」

「どうしても金が必要なんだ。それで仕方なく」

「あたし達もやりたいの。一緒に連れてってよ」

「マジかよ、学級委員の古賀さんが……」

「本気よ」

「女には無理だぜ。ヤバい仕事なんだ、やらないほうが--」

「そんなこと分かっている。でもやりたいの」

「困ったな」

「あたし達のこと、足手まといだと思っているんでしょう」

「当たり前だろ」

「そんなことは絶対にない」

「どうして」

「あんた達が最も多く売る商品って、ほとんどが女物じゃないのかしら」

「そうだけど。可愛い下着なんかは女子が必ず買ってくれるんだ」

「女連れの方が商品に近づいても不審に思われないわよ。あたしと山岸くんで恋人同士みたいにいちゃついて、店員の注意を引くこともできるじゃない。仲間の仕事をし易くするのよ。どう?」

「なるほど」

「切れ者の関口くんが抜けた穴を、あたし達二人が埋める」

「分かった。古賀さんの言う通りかもしれない。一応、仲間に相談してみるよ。ところで、もう一人の女って誰なんだい?」

「小池和美よ。あの子は、あたしの言いなりだから」

「やっぱりそうか」

 これで決まりだった。次の土曜日が初仕事だ。その日のために古賀千秋はスニーカーや目立たない地味な服を選びながら、期待に胸を膨らませた。 

 

 

 22

 

 日本経済は長く低迷を続けていた。馬鹿な橋本内閣が消費増税前の駆け込み需要を、景気回復と判断を誤って緊縮財政を断行してしまう。経済が良くなっていないということは一般の誰もが実感していたことなのにだ。1997年の11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻する。その年の初めにニュースステーションで久米宏の隣に座る高成田解説者が、政府の予算案に「これは酷い」と言っていた通りの結果を招く。不良債権という問題が新たにクローズアップされて、もはや日本経済はデフレ・スパイラルという、脱出不可能な泥沼の中だった。

 村山内閣は住専へ6千億円になる公的資金を投入した。その決定に対して、これほど国民が怒るとは思わなかったと後になって談話を残す。

 政治家たちは全く国民のこと、その生活ぶりを理解していない。だから間違った政策しか打ち出せないのだ。『地域振興券』とかいうものを出すらしいが、その効果は期待できそうにない。

 当然だが東証の株価もさえなかった。1万4千円前後をうろうろしていた。伴って君津南中学の教頭を務める高木将人の運用成績も芳しくなかった。ニューヨーク・ダウは1万ドルを突破する勢いなのとは対照的だった。

 こりゃ、まずい。何とかしないと。

 小渕内閣になって大蔵大臣に宮沢喜一が就任したが、その経済政策は従来の公共事業を柱とした目新しいものではなかった。「横浜ベイスターズの佐々木を登板させたのと同じだ」と意気込みを表わしたがインパクトは弱い。その後に、「この国の財政はやや破綻している」と口にした言葉の方は実感があった。これから日経平均株価が上昇していくとは思えない。つまり下げ相場で利益を出さなければならないのだ。カラ売りするほど相場感と勇気もない。株価が下げ過ぎたところのリバウンド狙いで行くしかなさそうだ。

 高木将人は金が必要だった。自分の生活基盤を築くための資金を作って妻と離婚したいと願っていた。

 一生懸命に勉強してきて六大学の一つに現役で合格できた。教員免許を取得して君津市の中学校に勤務する。数年後には、そこの校長の紹介で同じ歳の女性と見合いをした。

 異性と付き合う経験がなかった高木は、相手のふくよかな身体つきに惹かれた。口数は少なくて大人しそうな人だと感じた。この人と結婚したいと思った。

 高木将人の理想の女性像はラクエル・ウェルチだった。中学の時に新宿ピカデリーで見た映画、『恐竜100万年』に出演していた女優だ。ティラノサウルスの迫力ある映像を期待して映画館まで足を運んだ。しかし目に焼きついたのはボロ布を纏っただけのラクエル・ウェルチの肢体だった。なんてセクシーな女性なんだ、と見惚れた。

 それまでのアイドルはハニー・レーヌだ。秋山庄太郎が撮ったヌード写真は部屋の壁に飾られていたが、家に居ない時はその上に映画『イージーライダー』のポスターを縦に貼って見えないように隠した。

 二つのポスターの見ながら、グランド・ファンク・レイルロードの『ハートブレイカー』を聞くのが楽しかった。

 お見合いの席での妻の姿は女らしくて、ラクエル・ウェルチを彷彿させるものがあった。駅前にあるホテル千成のレストランでの会食だった。だが二度目に会った時には、あまりの背の低さに少し失望した。ハイヒールを履いてこなかったからだ。そんなにスタイルは良くなさそうだ。喋り方も、慣れてくるにつれて口調の強さが目立った。会う度に少しづつ幻滅を覚えていく。ところが高木将人の気持ちとは反対に、どんどん結婚の話は進んでいく。紹介してくれた校長からは、「僕の顔を立ててくれて有難う」とまで言われてしまった。自分からは後に引けなくなる。なんとか女の方から断ってくれないかと、それだけを願う。

 性格の弱さを呪った。勢いに流されるような感じで結婚してしまう。婿養子だ。悪夢の始まりだった。妻となった女は年齢を偽っていて、本当は八歳も年上だった。唯一、向こうが譲歩したのが高木という姓を名乗り続けられるということだけだ。

 初夜ではラクエル・ウェルチとまではいかなくても、せめてハニー・レーヌみたいな瑞々しい女体を期待した。しかし考えが甘かった。ただ太っているだけで、どこも女らしいところがないのだ。

 そのくせ、セックスのテクニックには驚くほど詳しい。四つん這いの姿勢で後ろから挿入しろとか、いきなりペニスを口に銜えてきたりと高木を圧倒した。なんとか性交したが、もう二度目は無理だった。性欲はあっても、妻の裸体を見ると急に萎えてしまう。

 高校時代にチューリップの『心の旅』を聞きながら、自分の初体験を期待を込めながらイメージしたものだ。なんか凄く初々しい感じだった。歌詞の『あー、今夜だけは君を抱いていたい』に心を躍らす。髪が長くて痩身の、恥ずかしがる彼女を両手に包み込む自分を想像した。

 ところがだ、現実は全然違った。相手には羞恥心の欠片もなかった。性欲の塊と言っていいくらいの女だった。平気で毛深い股を開く。何度も何度も求めてきた。大食いという形容詞がピッタリ。こっちの体が持たない。少し休ませてくれと頼んだか容赦してくれない。やっと務めを果たしたと思うと、今度は激しいイビキで一睡もさせてくれなかった。幻滅した。

 女を見る目がなかった。恋愛経験がないので、女が化粧とかハイヒールやコルセットで別人になれることを知らなかった。

 夫とは名ばかりで実際は妻の家族の奴隷と同じ。給料が振り込まれる預金通帳は取り上げられて、高木将人が手にできるのは小遣いとして月に一万円だけだった。忘年会とか同僚との付き合いがある時なんかは、頼めば金を出してくれるが渋々だ。へそくりをして自分の貯金を作るしかなかった。悲惨な結婚生活だ。一日でも早く独身に戻りたい。

 婿として入った家は一族の本家で何よりも世間体が大事。絶対に離婚は認めてくれないだろう。高木将人は密かにアパートを借りて夜逃げするしかなかった。少なくとも百万円ぐらいの金を持って姿を消したい。へそくりを株式で上手く運用して増やしていくしかないと考えた。

 『新日本製鉄』の株を百七十円で買って二百五十円で売った。八万円ほど利益を得た。次に六百円で買った『富士重工業』の株を七百円で売って十万円を稼ぐ。

 2戦して2勝、無敗だ。幸先がいい。少ない限られた資金で十八万円も儲けた。もしかして俺って株の天才じゃないのか。そんな思いが頭を過ぎった。自然と夢が膨らむ。

 あの年増のブスとは絶対に別れてやるんだ。アパートを借りて家に帰らなければ嫌でも離婚に応じるしかないだろう。自由を取り戻したい。四十三歳だ。やり直しは利く。今度こそ理想に近い女と一緒になりたい。

 最初の結婚に失敗して憧れの女性はラクウェル・ウェルチから、二人のボンド・ガールズへと変わった。たまたま立ち寄った近所のレンタルビデオ店で、旧作百円キャンペーンをやっていて、何本か007シリーズを借りたのが切っ掛けだ。学生の頃に見たときは、ただ綺麗な女性だなと思っただけだったが、二度目は彼女たちの美しさに心を奪われた。

 一人は『ロシアより愛をこめて』に出演したダニエラ・ビアンキだ。プロポーションよりも清楚で知的な美しさが印象に残った。ライトグリーンのスカートにイエローのブラウス、そして金髪をアップにした姿が醸し出す品の良さ。その格好で床に倒れて拳銃を構えたところなんか、もう最高。

 マット・モンローが歌うサウンドトラックのジャケットは、ショーン・コネリーとのラブ・シーンのカットだった。曲を聴きながらスクリーンでのダニエラ・ビアンキを何度も思い出す。

 ところが、その後は作品に恵まれなかった。この映画でしか彼女に逢えないのだ。願わくは『サンダーボール作戦』でカムバックさせて水着姿を披露して欲しかった。

 もう一人が、『ダイヤモンドは永遠に』のジル・セント・ジョンだった。ビキニのショーツにカセット・テープを入れられてびっくりするシーンは目に焼きつく。彼女はIQが162と高くて十四歳で大学の入学を許された才女だ。しかしセクシーなボディしか注目されなくて、映画に登場するのは多くがお色気シーンだった。

 高木将人は髪の毛が薄く小太りにも関わらず、これらの背が高くてナイス・ボディの女性が好みだ。大金を掴んで理想に近い女と仲良くなりたかった。その思いは強い。

 どう角度を変えて鏡に映った自分の姿を見ても、体形は中年そのものだった。見掛けは良くない。これからどんどん体力も衰えていくだろう。時間は少ない。早く株で成功したかった。

 まだ教師になったばかりの頃に、私立国際高校で自分の教え子だった加納久美子が今は同僚だ。それを考えると歳を取ったなと、つくづく実感させられる。四十五歳までにはなんとかしたい。

 しかしだ、三百四十円で買った『横河ブリッジ』の株が期待に反して上昇しなかった。買値を下回ったままの辛い毎日が続く。

 ビギナーズ・ラックで調子に乗って、安易な気持ちで『横河ブリッジ』の株に手を出したのが拙かったのだ。

 真剣に株のことを勉強しなければいけないと思う。日本経済新聞を学校に配達してもらうことにした。株式欄を表にして常に持ち歩く。暇があれば目を通して知識を得ようとした。

 「教頭先生は株をやっているんですか?」 

 廊下を歩いて二年B組の横を通り過ぎようとした時のことだ。一人の男子生徒から声を掛けられた。転校生の黒川拓磨だった。

 「いいや、やっていない。世の中の出来事を知りたくて読んでるだけなんだ」やっているなんて勤め先の中学校で正直に言えるわけないだろう。

「そうですか」

「君は株に興味があるのかい?」

「あります。父親が証券会社に勤めていて色々な情報を聞かされますから」

「何だって?」聞き捨てならない。

「貯金があるので投資してみようかなって思っています」

「どこの証券会社に、お父さんは勤めているんだい?」

「野中証券です」

「……」業界で最大手だ。なんてこった。こんな身近に情報源があったとは。

「先週だけど『宇部興産』がいいなんて薦めてました。連結での純利益が急回復してるそうです」

「え、どこだって?」

「化学の『宇部興産』です」

「……そ、そうか」やっと口から言葉を搾り出す。頭に生徒が口にした会社名を焼き付けた。急いで職員室へ戻って会社四季報で調べたかった。高木将人は足早に転校生の前から姿を消した。

 『宇部興産』の株価は、三年前に四百五十二円という高値を付けた後は一貫して下げ続けた。今年になって百四十円から百七十一円まで上昇したが、その後は百五十円前後まで値を戻す。会社四季報には増益と書かれていたが、これから更に再び上がって行くんだろうか。高木将人は半信半疑だった。証券会社に勤める父親が漏らした言葉を、たまたま生徒から又聞きした情報だ。迂闊に信じて大切な自己資金を投じるわけにはいかない。しばらくの間は様子を見ることにした。

 すぐに『宇部興産』の株価が再び百七十三円まで上がると、高木将人は百四十円が底値だったと確信する。しかしどこまで上昇するのか分からない。今から買えば高値掴みになる恐れがあった。

 その判断が間違いだったと思い知らされたのは株価が二百円を超えた時だ。買っとけば良かった。やはり野中証券の社員が言う言葉は信頼できる。

 「おはよう、黒川くん。あの会社の株が上がったじゃないか。さすが野中証券に勤めるお父さんの情報だけはあるな」朝、高木将人は転校生の姿を見つけると言葉を掛けた。

「そうなんです。僕も十万円ほど儲けました」

「えっ。あの株を買ったのか、きみは?」

「はい」

「……」なんてこった。中学生の小僧に出し抜かれた思いだ。悔しい。「よく、そんな勇気があったなあ」

「株は決断ですよ、教頭先生」

「……」ちっ。今度は説教か、こんなガキから。

「昨日ですが父親が僕に次の株を薦めてくれました」

「本当か」思わず心が躍る。「その会社を先生にも教えてくれないかな」

「いいですよ」

「頼む」

「二部上場の『京葉電気』です」

「え、二部上場だって?」

「はい」

「大丈夫なのか?」

「ええ。発行株式数が少ないですから値動きは激しいと思います。でも上がり出したら一気に行くっていう感じですよ」

「ふうむ、……そうか分かった。調べてみよう。どうも有難う」

「どういたしまして」

 二部上場と聞いて高木将人は怯む。馴染みがなくて、これまでは素人が手を出すような健全なマーケットじゃないと考えていた。生徒の言った通りで、値動きの激しいギャンブルに近い投資になりそうだった。ただ一つだけ期待できるのは、市場に出回っている株式数が少ないので動けば一気に上昇するところだ。

 そして『京葉電気』を買うには、持ち株の『横河ブリッジ』を損切りして資金を作らなければならなかった。一円でも金は失いたくない。だけど『京葉電気』で一儲けしたかった。その儲けが『横河ブリッジ』で出る損をカバーしてくれることを願うだけだ。

 どうしよう。悩んだ。「株は決断ですよ」と言った生徒の言葉が頭に過ぎった。同時にダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの二人がセクシーに微笑む姿が目に浮かんだ。

 次の休み時間、高木将人は職員室から出ると、人気のない駐車場から携帯電話で中原証券の担当を呼び出した。「山口さんを、お願いします。高木です」

 

   23

 

 どうしても次の富津中学との試合にスタメンで出場したい。

 サッカー部の鶴岡政勝は鮎川信也と左のミッド・フィルダーというポジションを争っていた。ライバル意識を燃やして競い合わせようと、顧問の森山先生も二人を交互に試合で使った。順番からいえば次は鮎川信也の番だ。

 前の試合では鶴岡政勝のミスプレーから失点して逆転で負けた。でも誰も咎めてきたりしなかった。板垣を除いて、みんなが「気にするな」と声を掛けてくれた。マネージャーの奥村真由美しては、「元気を出して、鶴岡くん。あなたなら失敗をバネにして次の試合で、きっと活躍してくれるはずよ」とまで言ってくれた。なんて、いい女なんだと思った。

 これまでは高嶺の花で、背の低い自分なんか相手にしてくれないと考えていた。去年に買ったキャノンのデジタル・カメラ PowerShot A5で密かに写真を撮り続けるだけだ。手塚奈々と並んで、お気に入りの被写体だった。

 手塚奈々には軽々しく水着の写真を撮らせてくれと言えたが、しっかりした性格の奥村真由美には無理だった。教室での様子とか体操服姿を隠れて撮影するのが限界だ。

 スレンダーな身体つきで手足が長く、顔は細面、ショートカットのヘアスタイルが抜群に似合っていた。スポーツは万能、どんな競技でもスター選手になれそう。泥臭いサッカー部のマネージャーなんかをさせてるには勿体ないくらいだ。付き合っている女がいない部員にとっては憧れの存在だった。

 やさしい言葉を掛けられて一気に親近感が増す。左のミッド・フィルダーという難しいポジションを任される自分の苦労を分かってくれているらしい。司令塔なのにフォワードの板垣順平は全く言う事を聞いてくれないのだ。これまではライバルである鮎川信也と二人で、試合運びの難しさを語り合って、板垣に対する愚痴を言うだけだった。 

 もしかしたら奥村真由美はオレに気があるんじゃないだろうか。あの優しい言葉には、そんなニュアンスが含まれていると思えた。彼女がオレのガールフレンドになってくれたら、どんなに嬉しいことか。 

 これはチャンスかもしれない。見逃しては駄目だ。男なら告白すべきじゃないか。

 だけど彼女には背が高くてカッコいいボーイフレンドがいたりして。それとも好きな奴がいるのかもしれない。もし、いなくても交際を断られる可能性だってある。不安だった。どうすべきだろう。しかし日々、奥村真由美に対する想い強くなって行く。鶴岡政勝は計画を練った。

 今日、明日に気持ちを伝えても効果は薄い。出来る事なら次の試合に出て、彼女が言った通りにオレの活躍で君津南中に勝利をもたらした直後の方が絶対にいい。その状況では、きっとオレの背の低さは問題にならない。感動で奥村真由美の心は高揚している。試合のヒーローから告白されてノーと言う女なんているもんか。

 これだ。これしかない。これなら、きっと上手くいく。

 問題は、どうやって次の試合にスタメンで出場するかだ。出れば富津中には必ず勝てる。連中の弱点は分かった。汚い富津弁さえ気にしなければオレたちが負けるはずがない。

 鮎川信也にオレを次の試合に出させてくれと言っても、拒否されるのは明らかだ。続けて二試合もゲームから遠ざかれば、実戦の感覚は鈍って取り戻すのに苦労する。左のミッド・フィルダーというポジションを完全に失うことを意味した。ましてや理由が女の子に好意を告白する為だと言ったら、ふざけんなと怒り出すのは目に見えている。

 悩んだ末に、板垣順平に怪我をさせた同じ方法を取ることに決めた。秋山聡史と二人で実行した仕返しは完璧なほど上手く行く。一試合だけ出場できなくなれば、それでいいのだ。そんなことを仲良しの鮎川にするのは気が引けたが、これが唯一の手段だと思った。

決断に踏み切ったのは転校生の助言が大きかった。 

 「素晴らしいヘッディング・シュートだったぜ」

 体育の授業が終わって真っ先に、そう声を掛けないではいられなかった。

「ありがとう。だけど二度と起きない。あれはまぐれさ」

「あっはは。そうは見えなかったな。かなり練習を積んでいるって感じだ」

「ミッド・フィルダーの司令塔に褒められて悪い気はしないな」

「サッカーは好きなんだろう?」

「ああ。だけどプレーするよりも試合を見る方が好きだ」

「じゃあ、ヨーロッパのサッカーだよな?」

「もちろん」

「好きな選手は?」

「アズーリの至宝、ファンタジ--」

「もう言わなくていい。ロベルト・バッジョだろ?」

「そうだ」

「オレはジダンだな。マルセイユ・ルーレットには惚れ惚れしている」

「まさに神業としか言いようがない」

「そのとおり」

 こんな調子で奴とはヨーロッパのサッカーの話で盛り上がった。授業を挿んで次の休み時間になっても続く。これまで回りには外国の事情に詳しい奴なんて一人もいなかった。やっと話し相手を見つけたっていう、そんな気分だ。次の日韓共同開催のワールドカップでの優勝争いを予想したりで楽しかった。

 どうしても次の富津中学との試合には出たいんだ、と悩みを打ち明けるのに時間は掛からない。

 「そういう気持ちなら、どんな手段を使ってでも試合に出る努力をすべきだな」と、転校生。

「……」当事者じゃないから簡単に言えるんだ。

「運を天に任すなんて態度じゃダメだぜ」

「そう言うけどな、なかなか思い通りにならない事だって……」

「セリエAなんかで活躍するストライカーは、いいパスが来るのを待っちゃいないぜ。自分から取りに行くんだ。たとえ相手が味方であろうと、オレがシュートするんだという気持ちで奪いに行く」

「すげえな」

「自分よりもチーム・プレーが大事という日本的な考えだと、本当の意味でのストライカーは育たない。Jリーグの試合ではキーパーと一対一なのに、パスの相手を探そうとするフォワードの選手をよく見る」

「オレも、そう思う」

「試合に出たいなら出来るだけのことはやれ」

「もし、……」

「何だ?」

「もし、それが汚い方法でもか?」

「見つからなければいいのさ」

「……」言えてる。

「上手くやるんだ。きっと成功する」

「わかった」

 放課後のクラブ活動が終わって、トイレに行く振りをして鶴岡政勝は駐輪場へ急いだ。いつもの場所に鮎川信也の白い自転車を見つけた。周りを伺う。誰もいないことを確かめて近づく。針で前輪に小さく穴を開けて、黒いビニールテープを貼った。完了。目立たないように、ゆっくり校舎へと戻った。板垣順平の時みたいに上手く行くことを願いながら。

 カバンと学生服を取りに二年B組の教室に寄ったが、部室へは行かなかった。鮎川信也と顔を合わせたくなかったからだ。後ろめたい気持ちは、これが最初で最後だからという思いで紛らわす。

 帰り道、もし上手く行かなかったらと考えた。ただの自転車のパンクで終わったとしたら。

 それは、それでいい。そしたら次の試合に出場することは潔く諦めよう。出来るだけの事はやったんだ、と自分を納得させられた。後悔はない。また、いつかチャンスが来るのを待つだけだ。

 家路を歩きながら想いが膨らむ。出場できた次の試合で大活躍してチームに勝利をもたらす。その勢いに乗って奥村真由美に告白すると、彼女の方からも前から好きだったと知らされて大感激。板垣順平を除くサッカー部の仲間たちに祝福されて、オレたちはボーイフレンドとガールフレンドの仲になるんだ。

 

   24 

 

 『ぼくと付き合って下さい』

 波多野孝行は書いた文を何度も読み返す。うん、ストレートで何か凄くいい感じだ。これなら上手く行きそうだ、きっと。

 相手は同じクラスの篠原麗子だった。彼女の女らしい、ふくよかな容姿に強く惹かれた。長い黒髪と、それに合った優しそうな顔立ちも大好きだ。そのうち誰とでも寝るようになるに違いない手塚奈々や、男に対して見栄えしか求めない五十嵐香月の虚栄心とは対照的な女性。穢れない美しさ、純真無垢、それが篠原麗子だ。

 中学二年に上がってクラスが一緒になる。彼女の身体が丸みを帯びていくに従って目が離せなくなった。なんて女らしくて美しい。ほかの女生徒とは別格の存在だ。憧れた。でも気持ちを伝える勇気はなかった。片思いだ。

 波多野孝行は父親こそ君津署の刑事だが、本人は痩せていて存在感のない男子生徒でしかない。彼女とは挨拶をするぐらいでしか言葉を交わしたことはなかった。

驚いたのは、机に向かって自分の気持ちを文に表わそうとしていると、ドアを叩く音に続いて父親が部屋に入ってきたことだ。もう、びっくり。慌てた。女の子に手紙なんか書いていないで勉強しろ、と叱られるんじゃないかと思った。

 「孝行」だけど声は怒っていなかった。

「……ん?」心臓ドキドキ。不審に思われないように、ゆっくりパソコンのカタログで机の上にあった紙を隠す。

「お前、去年だけど校外学習に行ったよな?」

「うん」

「その時にクラス全員で写真を撮ったか?」

「と思うけど」

「見せてくれないか」

「え、どうして」

「いいじゃないか。見たいんだ」

「今、どこにあるか分からない。探して持っていくよ」

「よし、そうしてくれ。急いでな」

「うん」

 一体、何なんだよ。今になって去年の校外学習の写真が見たいだなんて。息子に対する嫌がらせか。あ、それとも……加納先生の写真が見たいのかな? すっげえ美人だな、なんて前に褒めてたからな。理解できない、うちの親父。

 しかし関係ない話で本当によかった。もしかしてバレたのかなと一瞬だけど身が縮まる思いだった。

 気を取り直して書いたを文章を眺めた。ボーイフレンド、ガールフレンドの仲になれますようにと願った。

 初めて心から好きになった女の子だ。何とかして仲良くなりたいと、ずっと考えていた。

 以前に篠原麗子への強い想いを、友達の新田茂男に話して、何かアドバイスをもらおうとしたが直前で気が変わった。よくよく考えてみると奴は女に全く興味がない感じなのだ。男らしいのは名前だけで、容姿は自分と同じように痩せて、なよなよしていた。

 初めて相談した相手は転校生の黒川拓磨だった。下校途中で、お互いに好きな人がいるなら告白しようということになったのだ。

 彼の口から加納久美子先生の名前が出てきたのには驚いた。「ええっ、それは難しいんじゃないのか。相手は歳の離れた教師だぜ。綺麗なのは分かるけど、中学生の男子なんか相手にするわけがないだろう」そう応えるしかなかった。

 「きみが協力してくれるなら何とかなるんだ」

「え、オレが?」びっくりするような事を言ってくる。

「そうだ」

「オレなんか何も出来ないぜ。クラスの女の子とさえ、よく話したことがないんだから」

「わかってる」

「だったら、何で?」

「三月の十三日、その土曜日に『祈りの会』を開くんだ。それに出席して欲しい」

「『祈りの会』だって? 何だい、それって」

「ぼくの願いが叶うように皆で祈るのさ」

「皆って?」

「もちろん二年B組の生徒たちだ」

「全員が了解済みなのか?」そういう話がクラスで進行しているとは知らなかった。新田茂男は知っていたのかな、オレに話さなかっただけで。

「いいや、一人ひとりを説得している最中だ」

「……」じゃあ、無理だろう。わざわざ休みの日に、そんな馬鹿らしいことで学校に出て来る奴なんかいないぜ。

「どうだろう、出席してくれるかい?」

「来月の話じゃ、今から約束はできないな。ほかに予定が入っちゃうかもしれないし」馬鹿馬鹿しい。そんなものに付き合っていられるか。

「なるほど」

「がっかりさせて悪いな」

「いや、構わない。でも残念だな。ひとつ提案があったんだが、それは言わないでおこう」

「提案?」

「そうだ」

「え、どんな?」こいつ、興味を誘う言い方をするじゃないか。

「お互いの思いが叶うように協力し合うことさ」

「協力し合うだって?」

「うん」

「どうやって?」

 すると転校生は答える代わりにポケットから折り畳んだ一枚の紙を取り出して見せた。「何だよ、それは?」

 「触ってみろよ」

 言われるがままに波多野孝行は差し出された紙を手にした。「へ

え、なんか凄い紙だな」高価な和紙らしい。表面はザラザラしていて重々しい感じがした。

 「だろう」

「うん。だけど協力し合う事と関係があるのかい、この紙が?」

「ある」

「どんな?」もったいぶってるぜ、こいつ。

「その紙に願い事を書くと叶うんだ」

「えっ、何だって?」

「聞こえただろ。今、言った通りさ」

「待ってくれ。もう一度、言って欲しい」

「願い事が叶うんだ、その紙に書けば」

「マ、マジかよ?」

「ああ」

「そんなこと信じられ--」

「信じられなければ、それでいいさ。そういう気持ちなら願い事を書いても叶うことはない」

「……」

「信じるってことが大事なんだ」

「つ、つまり、その紙に願い事を書いて信じれば、叶うってことなのか?」

「その通り」

「……」マジかよ。にわかには信じられない話だが、この重厚な紙の手触り感が信憑性を醸し出していた。無視できない。

「どうする?」

「この紙を貰うために、オレは何をすればいいんだ?」

「祈りの会に出席して欲しい」

「それだけか?」

「そうだ。ただし……」

「ただし、何だ?」きっと金だ。世の中、すべてが金で動いてる。

「自分の願いが叶うように強く信じるのと同じように、僕の願いが叶うように強く信じてくれないとダメなんだ」

「……」何だって? そりゃ、簡単じゃない。なにしろ、お前の相手は学校の教師なん--。

「難しいのは分かっている」

「おい、相当に難しいぜ」

「じゃ、止めるか」

「いや、待ってくれ」篠原麗子と恋人同士になるチャンスかもしれない。ダメで元々だし、見逃すわけには行くもんか。

「やるのか」

「ああ」波多野孝行は決断した。

「出来るのか?」

「もちろんだ」

「もし同じように信じられないと大変なことが起きるぜ」

「え、……例えば?」

「きみの気持ちが、思ってもいなかった相手に伝わってしまう場合もあるんだ」

「別の女に、っていう可能性が出てくるのか?」

「そうだな」

「いやだ。オレは篠原麗子じゃない女には興味がない」

「だったら自分の為に、そして同じように僕の為に強く信じてくれないと困る」

「わかった、任せてくれ」

「大丈夫か?」

「心配しなくていい」

 そう返事して転校生と別れた。魔法の紙が欲しくて、出来そうにもないなんて言えなかった。すぐに相当に難しいことだと、ひしひしと感じた。自分が篠原麗子と恋仲になりたいという気持ちは強くて、絶対になれると信じることはそんなに難しくもない。しかし奴の相手は加納先生だ。とてもじゃないが、二人が恋人同士になるなんて想像できるもんか。身長だって奴の方が5センチぐらいは低くないか。見た目にも釣り合いの取れないカップルだ。だけど、ここは努力しないと。自分の恋を成就させる為にも、あいつの思いが叶うように信じてやらないといけない。

 波多野孝行は最後に、魔法の紙に書いた文の横に自分の名前を付け加えた。黒川拓磨の指示が、その紙を篠原麗子のではなくて、転校した関口貴久が使っていた空の下駄箱に入れろというものだったからだ。何でだろう? 不思議に思ったが言われた通りに実行することが大事だと考えた。そこで一応、念のために波多野孝行と署名を入れた。彼女が誰から思われているか、ハッキリと分かるようにだ。これなら間違いない。

 明日の朝、下駄箱の中に魔法の紙を入れるつもりだった。篠原麗子がガールフレンドになってくれたら、二人でディズニーランドへ行きたい。どんなに楽しいだろう。そうだ、カメラが必要だ。どれを買えばいいのか、鶴岡政勝にアドバイスをしてもらおう。

 映画も見に行きたい。ピクニックもいい。ショッピングも一緒にしたい。夏には海へ行こう。彼女の水着姿が見てみたい。きっと超セクシーだろうな。うきうきしてくる。波多野孝行の頭の中は、恋人同士で過ごす週末のプランでいっぱいになった。そこには一抹の不安も入る余地はない。

 

 

   25 

 

 「今日も上手く行ったじゃないか」相馬太郎が言う。上機嫌だ。

「そうだな」山岸涼太が応える。

「どのくらいになりそうだ?」前田良文が訊く。

「うむ、……五千円ぐらいかな」

「で、今回のオレたちの取り分は?」

「三千円だ」

「古賀と小池に二千円も払うのか?」文句は相馬太郎だった。

「そう決めたんだ。お前も同意したじゃないか」

「ちっ」

「おい、相馬。仕事が上手く行ってるのは、彼女たちが加わってくれたからだぞ」

「それは分かっている。だけどオレたちが始めた仕事なんだぜ、分け前が同等なんて気に入らねえ。それにオレたちは半分を土屋恵子に支払わなきゃならない。すると一人当たり、たった五百円だぜ」

「仕方ないだろう」

「いつまで払い続けなきゃならないんだ?」

「あの強欲な女が君津南中学にいる限りだろうな」

「ふざけんな」

「なあ、黒川拓磨の話に乗ってみないか?」前田良文が二人の会話に割って入る。

「お前、あんな馬鹿げた話を信じているのか?」山岸涼太が驚いて訊き返す。

「いいや、信じているわけじゃない。だけどダメで元々じゃないのか」

「そうだな、前田の言う通りだ」相馬太郎が賛同する。

「……」

「これに願い事を書けばいいだけのことだ」言いながら前田良文はポケットから白い紙を取り出してみせた。

「お前、まだそんな紙を持っていたのか?」

「そうさ。せっかく貰ったんだ、そのまま捨ててしまうのは勿体ないぜ」

「さすがだ、前田」と相馬太郎。

「何て書くつもりだ?」山岸が訊く。

「土屋恵子が学校からいなくなって欲しい、って書くのさ」

「それで?」

「関口が使っていた下駄箱に入れるだけでいい、と言っていた」

「お前、わざわざ黒川に聞きに行ったのか?」

「そうだ。悪いか?」

「……」あきれて何も言えない山岸涼太。

「上手く行くかな?」相馬が前田に訊く。

「たぶんダメだろう。上手く行ったら儲けもんさ。だけどオレたちに他に何ができるんだ? 馬鹿みたいに払い続けるしかないんだ。だったらダメ元で、やってみようぜ。どうだ、山岸」

「オレは乗り気がしない」

「どうして?」相馬太郎だった。

「オレは、……」

「どうした」

「あの転校してきた黒川拓磨っていう奴が不気味で気に入らない」

「どこが?」

「あいつは何かを企んでいそうで嫌なんだ。親しくなりたくない」

「親しくする必要なんかないぜ。あの紙を使う代わりに、来月の土曜日にB組の教室に集まればいいだけさ。そんなに時間は掛からないって言ってたぜ」前田良文が言う。

「……」

「おい、山岸。これでオレたちが失うモノは何もないんだ。だったら、やってみるべきだろう」相馬太郎が続く。

「分かったよ。お前ら二人がやりたいならオレは反対しない」

「そうこなくっちゃな。オレたちは仲間なんだから」相馬太郎が上機嫌に言った。

 山岸涼太は前田と相馬の二人に押し切られた形だ。こんなことは以前にはなかった。理由は明らかで関口貴久が転校してしまったからだ。暴走しがちな二人を抑えるのが山岸と関口の役目だった。それが今はできない。

 万引きは古賀千秋と小池和美が仲間になってくれたことで、格段にやり易くなった。

 古賀千秋の才能には驚かされた。素早い身体の動き、勘の良さ、大胆さ、まるで万引きをする為に生まれてきたみたいだった。的確な指示を出して、大柄な小池和美を立たせて死角を作る。本人は男の一人と恋人同士を装ってイチャつく。店員の注意を引く為だ。小柄な相馬太郎に楽に仕事をしてもらう。それでいて自らも欲しい商品を、しっかりポケットに入れているのだった。一緒にいた誰にも気づかせない手さばきだ。たいした女だと感心するしかなかった。

 もう万引きはやめたい、と言っていた前田良文と相馬太郎の二人は、仕事が上手く行き出すと言葉を翻した。もっと稼ごうぜ、と言って見つかる危険を軽視するようになっていく。

 土屋恵子への不満と憎しみは、どんどん募った。「いつか殺してやりてえ」が、前田と相馬の口癖になった。

 ある日のことだ、木更津のスポーツ用品店で客から注文を受けた幾つかの商品を物色していると、転校生の黒川拓磨と出くわした。たまたま古賀千秋と小池和美とは別行動を取っていた時だった。

 一瞬で状況を理解すると黒川は、「今日一日だけでも仲間に入れ

てほしい」と言う。誰も反対しなかった。ところが手伝わせてみると、なかなか使える奴だった。すばしっこい、この言葉に尽きた。あっ、と言う間に盗みたかった全ての商品を手に入れてしまう。古賀と小池が戻って来る前に仕事が終わっていた。

 「来週も一緒にやらないか?」前田良文が誘った。

「いや、今日だけで十分だ。楽しかったよ」

「分け前は火曜日までに渡せると思う」山岸涼太が言った。

「いらない。君らで取ってくれ」

「マジかよ。ありがたいぜ」と、相馬太郎。

「もし気が変わったら教えてくれ。いつでも歓迎するぜ」用事があるらしくて一人で帰ろうとする黒川拓磨に向かって、前田良文が声を掛けた。仲間に入れたいと思ってるのが明らかだ。山岸涼太は乗り気がしなかった。

 あれだけの働きをしながら一円の金も受け取らないのが不思議だった。一体、何を考えているのか分からない。不気味な奴だ。距離を置いて接する方が無難だ、と感じた。

 「そう言ってくれて嬉しいよ。じゃあ、月曜日に学校で」

「うん。じゃあな」

「あ、そうだ」帰ろうとしながら立ち止まった。

「どうした?」前田良文が応えた。

「久しぶりに楽しい事をさせてもらった御礼がしたいな」

「え?」

 御礼って、どういう意味だ? 助けてもらったのはオレたちの方なんだぜ。訝る三人を前にして黒川拓磨はポケットから一枚の紙を取り出した。

「何だ、それ?」

「ただの紙じゃないぜ。触ってみろよ」

 そう言われて前田と相馬は手を出す。山岸涼太は動かなかった。

 「なんか凄い紙じゃないか」相馬太郎だった。

「……」黒川はニヤニヤしているだけだ。

「でも何も書いてないぜ」前田が言った。

「きみらが何か書くのさ」

「え、オレたちが?」

「そうさ」

「意味が分からないな」

「何でもいいから、願い事を書くんだ」

「書いて、どうなるんだ?」

「きっと、それが叶う」

「ふざけんな。そんなこと信じられるか」と、前田。

「嘘じゃない」

「マジかよ」相馬だ。

「もちろん」

「……」前田と相馬は言葉を失ったようだ。二人が顔を見合して、お互いの表情を確かめている。今の聞いたか、お前? 

 山岸涼太は冷静だった。冗談に決まってら。前田と相馬が真に受けようとしているのが不思議だった。お前ら馬鹿じゃないのか。

 「信じる信じないは、きみらの勝手だ。お礼として、その紙は受け取ってくれ。じゃあ」

 黒川拓磨は立ち去った。三人は黙ったまま奴の小柄な後ろ姿を見つめるだけだ。「お前ら、何やってんだ? 冗談だよ」山岸涼太が言って二人を現実に戻す。そこへ古賀千秋と小池和美の二人が姿を現した。

 「遅くなってゴメンね。奈々から連絡があって、バイト先の友達が化粧品の注文をしてくれたんだって。今日は忙しくなりそうよ」

 手塚奈々は得意客の一人だ。お好み焼き屋でバイトしているだけあって、たんまりと金を持っている。一緒に働いている仲間に声を掛けてあげるよ、と言っていたのだ。それで、いい客を紹介してくれたらしい。化粧品は値が張って、なかなかの稼ぎになる。それに盗みやすい。段取りをどうするかとか仕事の話になって、黒川拓磨のことは誰も口にしなかった。

 

   26 

 

 いいアイデアって、これかよ? 期待したのが間違いだったと失望するしかなかった。

 秋山聡史が転校生の黒川拓磨に相談すると、返ってきた答えは、ザラザラした紙に願い事を書いて関口が使っていた下駄箱に入れろだった。

 おまじないかよ? がっかりさせてくるぜ。

 頭がいいんだから、もっとマシなアイデアを聞かせてくれると思っていた。例えば、お前が佐久間渚の家に訪ねて行って家族全員の注意を引く、そこでオレが庭に侵入して物干しにぶら下がっている彼女の下着を奪うといったみたいな。そんな具体的、現実的な話をして欲しかった。

 しかし奴は真顔だった。冗談を言っているような感じは微塵もない。その真剣さに圧倒されて、秋山聡史は何も言えずに聞くだけだった。

 「わかった。そしたらタダで手に入るのか、オレは?」相手の言葉が終わるまで待ってから肝心なことを訊いた。

「いや、そうじゃない」

「金か?」やっぱり、こいつも関口貴久と同じか。

「いや、違う」

「じゃ、何だ?」

「しばらくして関口の下駄箱には君が欲しかった物と一緒に、一枚の紙が入っているはずだ。それに頼み事が書いてあるんだ」

「頼み事だって?」

「そうだ」

「どんな?」

「きみにとっては難しいことじゃないと思う」

「勿体ぶるなよ。今、教えて欲しい。オレに出来ないことかもしれないし」

「頼みごとをするのは僕じゃないんだ。だから分からない。それに心配するな。もし出来ないと思ったら、何も手にせずに立ち去るだけでいいんだ。取り引きは不成立っていうことさ」

「なるほど」秋山聡史は安心した。しかし一瞬だけだった。

 待てよ。佐久間渚が身に付けていたチューリップ柄の下着を目の前にして、このオレが手を引くことなんて出来るだろうか。無理だ、絶対に無理だ。それに気づく。人殺しをしてでも欲しかった。黒川拓磨に視線を向けると、野郎は意味ありげな笑みを顔に浮かべていた。まるでオレの足元を見るような。その目が、『きみは絶対に、手ぶらで立ち去ることなんて出来ないだろう。あはは』と笑っていた。畜生,その通りだ。

 「それと、もう一つだけ」

「何だ?」まだ何かあるのかよ。やばい取り引きに誘われて、次第に自分が泥沼にはまっていくいくような感じがしてならない。

「この取り引きを仲介した手数料じゃないけど、僕にも頼みがあるんだ」

「言ってみろ」

「来月の土曜日、十三日にB組の教室に来て欲しい。祈りの会をやるから参加してくれ」

「祈りの会?」

「そうだ」

「何を祈るんだ?」

「僕が加納先生と仲良くなれるように、だ」

「え? お前、佐久間渚から加納先生に心移りしたのか?」

「そうなんだ」

「……」こいつ馬鹿なのか。相手は大人じゃないか、それも美人で頭がいい。

「頼む、来てくれ。すぐに終わるから」

「出るだけでいいんだな?」そんなの祈ったってムダなのに。

「そうとも」

「わかった」秋山聡史は了承する。そして決心した。

 この不気味な転校生とは取り引きが終わった時点で手を切ろう。何を考えているのか理解できない。もう二度と口を利きたくなかった。

 

 家に帰って、机の上に広げたザラザラした紙を見ながら考えた。

 よし、お前が言った事を信じてやろうじゃないか。だけど、もし上手くいかなかったら家に火をつけやるからな。覚悟しろよ。秋山聡史はマイルドセブンを何度か深く吸った。そして黒いボールペンを手に取ると、自分の願いを慎重に書いた。

 『きみのチューリップ柄のブラジャーとパンティが欲しい』

 何度も読み返す。うん、悪くない。なかなかいい感じだ。しかしストレート過ぎて、ヤバくないだろうか。そうだな、それじゃあ関口の下駄箱に入れる前に黒川の奴に見せて、いいか悪いか判断してもらおうじゃないか。何だかぞくぞくしてきた。本当に手に入るような気持ちになってくる。ふと重要なことに気づいて急いで文章を付け加えた。『洗濯はしないでくれ』、と。

 秋山聡史の顔に自然と笑みがこぼれた。佐久間渚の匂いがプンプンしているブラジャーとパンティに顔をうずめて、歓喜の絶頂にいる自分の姿が頭に浮かんたからだ。

 

   27 

 

 「加納先生、一番に電話です。板垣順平の親御さんから」

 放課後の職員室だった。声の主は西山主任で、加納久美子は目の前の受話器に手を伸ばした。「もしもし、加納です」

 また学校の外で何かあったのか? 今度は手塚奈々のことじゃないことを願った。お好み焼き屋のアルバイトは西山先生に注意されて辞めたと聞いている。

 「先生、板垣順平の母親です。いつもお世話になっています」

「こちらこそ」

「すいません。お忙しいのは分かっていますが、これからお伺いしても構いませんか?」

「は、はい」いきなり学校に来るって、それほど急を要する話なん  

だろうか。「どういう御用件でしょうか?」

「息子のことです」

「はい。それで」もっと詳しく聞きたい。

「最近なんですが息子の様子が前と全然違うんです」

「どんなふうにですか?」

「テレビ・ゲームに夢中で……」

「……」

「先生、電話じゃ上手く説明できません。今から行かせて下さい」

「わかりました。お待ちしています」相手の切迫した態度に圧されて、そう応えるしかなかった。

 板垣順平の母親が現れるまで加納久美子は考えた。ゲームに夢中が、それほど深刻な問題なんだろうか。学校での彼の様子を思い起こしたが特に変わったことはなかった。もしかして自分の知らないところで何か変化が起きていたりして。

 安藤紫先生が机に向かって仕事をしているのが見えた。席を立って彼女に声を掛けた。「これから板垣くんの母親が来るんだけど、一緒に話を聞いてくれる? なんか深刻な問題らしいのよ」

「どんな?」

「あの、……それがテレビ・ゲームに夢中らしくて」なんか腑に落ちない気持ちが口調に表れて言葉が弱々しい。

「テレビ・ゲーム?」訝しげな顔。

「うん」

「それって家庭の問題じゃないかしら。あたし達に何が出来るって言うの?」

「……そうだけど。きっと話を聞いて欲しいんだわ」安藤先生の言う通りだ。しかし加納久美子は一人じゃなくて誰かと一緒に聞くべきだと、そんな気がしてならなかった。

「……」安藤先生は机の上に広げた書類に目を落とした。言いたい事は分かる。この忙しいのに、だ。

「お願い」

「わかった。いいわ」

「ありがとう」これで借りができた。何かで御返ししよう。

 三十分もしなかった。ノックがして職員室のドアが開き、板垣順平の母親が姿を現すと加納久美子と安藤紫は同時に席を立って迎えた。普段着のままみたいだ。いつもは地元の商工会では有力者という感じで着飾っているのに。応接室の方へ通す前に同僚の女教師を紹介した。

 「こちらは美術の安藤先生です。お話を一緒に伺ってもよろしいですか?」

 母親は厳しい表情を変えない。「いいえ、困ります」口調は強かった。「加納先生と二人だけで話し合わせて下さい」

「わかりました」加納久美子は言うと、安藤紫の方を向いて頷いて見せた。彼女も頷き返すと、「では失礼します」と母親に言って自分の席へ戻っていく。拒否されたのなら仕方ない。一人で聞くしかなかった。

 テーブルを挟んで向かい合って座ると母親は口を開いた。「学校

での順平の様子はどうなんでしょう?」

「はい。私の見る限りですが、別に変わった様子はありません」

「これまでと全く同じということですか?」

「そうです。ほかの先生方からも特に何の報告もきていませんし」

「……」母親は黙った。途方に暮れた様子だ。

「テレビ・ゲームに夢中、ということですよね?」確認の意味で久美子は訊いた。今はそうかもしれないが、そのうち飽きるだろう。そう母親に助言して安心させたい気持ちがあった。

 「転校生って、どんな生徒なんですか?」

「は?」意外な質問に驚いた。どういうこと?

「今年になって転校してきた男子生徒のことです」

「どう彼が関係しているんですか?」

「ゲームです」

「はい」それだけでは分からない。久美子は先を促した。

「ゲームは転校してきた奴から借りたんだ、と息子は言ってました」

「……」黒川拓磨が……。何か嫌な予感が頭を過ぎる。

「どうして、あんなゲームを息子に貸したのか……」

「お母さん、いずれ順平くんはゲームに飽きると思いますよ。今は始めたばかりで--」

「そうは思いません」

「……」母親の強い口調に久美子は驚いた。

「先生」板垣順平の母親は一段声を高くした。そして次に口にする言葉の重要性を高めようとしたのか、少し間を置いて続けた。「テレビには何も映ってないんです」

「えっ」事情が飲み込めない。「ど、どういうことですか?」

「順平はゲームに夢中になっている格好こそしていますが、見ているテレビの画面には何も映っていません。白黒のノイズだけがパチパチと流れているだけなんです」

「……」加納久美子は言葉を失う。

「まるで悪霊か何かに取り付かれたみたいで異様な姿なんです。昨夜ですが主人が見かねて止めさせようとしました。そしたら怒り狂ったように殴り掛かってきたんです。父親にですよ」母親は言葉を止めるとハンカチで顔を覆った。「信じられますか、先生。こんなこと初めてです。もうどうしていいのか分からなくて……。助けて下さい。お願いします、加納先生」

板垣順平の母親は応接室のソファに泣き崩れた。その姿に商工会の有力者の妻というプライドは微塵もなかった。加納久美子は、どう応えていいのか分からない。その場から動くことすら出来ない衝撃を受けていた。

 

   28 

 

 山田道子は、ずっと後悔していた。あんな手紙を出すんじゃなかった。文面は、『もし良かったら付き合って下さい』という簡単なものだった。五十嵐香月と佐久間渚に唆されて書いてしまったのだ。

 黒川拓磨くんには好意を持っていた。彼は背は高くないし、外見的には目立たない。だけど、どこか普通の男子生徒とは違う。頭は良くて、スポーツは万能だ。でも、それだけじゃなくて何か危険な雰囲気を持っていた。顔は笑っていても目は真剣そのもの。周りに調子を合わせていながら、心では別のことを考えているみたいな。常に自分の利益になるように、どう行動すべきか計算している感じだ。きっと何かを企んでいそう。いつか何か大きなことをやらかすつもりだ。そういう彼の闇の部分に、山田道子は強く惹かれた。

 これは誰にも言えないが、黒川くんと一緒に何か悪いことをしたい気分だった。何か悪いことを考えているなら、あたしにも手伝わせて欲しい。

 佐久間渚が手紙を渡してくれてから一週間が経っても、彼から返事はなかった。無視されたのかもしれない。手紙を書いた自分がバカだった。あたしなんか相手にしてくれるわけがないんだ。五十嵐香月みたいな美貌もスタイルの良さもない。佐久間渚の可愛さの欠片もなかった。あたしは、ただの普通の女でしかない。

 名前からして普通過ぎた。道子、ありふれた名前。苗字にしたって山田だから、もう最悪。両親に言いたい。娘が産まれた時に、もう少し頭を使って名前を考えて欲しかったと。ぬか味噌の中に大根をつけていて思いついたと言われても、やっぱりそうだったのと返事ができそう。

 こんな名前で、いつか素敵なボーイフレンドができるだろうか? いいや。ハッキリ言って、疑わしい。彼氏ができる前に名前を変えたい。黒川くんから返事がこないのは、あたしの名前が障害になっているんじゃないかと考えてしまう。

 彼は道子と冗談を言って笑い合う、初めての男子生徒だった。あたしを女性として認めてくれた初めての人だ。日に何度も声を掛けてくれた。うれしい。学校へ行くのが楽しかった。こんな気持ちになったのは今までにない。恋をするって、こんな感じなのか。

 片思いの経験は小学校四年生時から何度もしてきた。佐野隼人に憧れたのは中学一年の夏だ。サッカーをプレーする生き生きとした

姿に心を奪われた。一人じゃ恥ずかしいので佐久間渚を誘って、仲良くなろうと行動を起こした。ところがカップルになったのは、あの二人だった。心が痛んだ。あたしは御膳立てをしただけ。感謝もしてくれない。それでも許した。いつか自分も素敵な男子と恋仲になれることを夢に見て。 

 しかし佐野隼人を横取りした佐久間渚を許す気持ちは、如何わしい現場を見た途端に消えた。

 去年の秋だった。クラブ活動が終わって下校しようとしたところで、忘れ物に気づいて一人で教室へ戻った。

 誰もいないはずなのに誰かいる。話し声が聞こえたからだ。穏やかな会話じゃなさそう。争っているみたいな。でも喧嘩じゃない。 

 「いや、放して」女の声。

「いいじゃないか、もう少しだけ」と、男の声。

「お願い、やめて」

 忍び足で教室に近づく。げっ。び、びっくり。目に飛び込んできた光景に身体が硬直した。なんと佐野隼人と佐久間渚が抱き合っていたのだ。お互いの唇と唇をくっ付け合ったりしている。いやらしい。不潔。不味い給食の肉じゃがを食べてからは歯を磨いてないはずなのに。道子の全身から沸き上がる嫌悪感。中学生のくせして、あんた達はB組の教室で……。あたし達が学問を学ぶ神聖な場所だっていうのに何てことしてくれるの。

 佐野隼人は手を佐久間渚の腰へ伸ばした。お尻を撫で回そうとしていた。渚は身体を捩って、それを止めさせようとする。「いや、いや」

 キスだけじゃなかった、その先へ進もうとしていた。鮎川信也くんのカバンから黙って借りたアダルト・ビデオ、光月夜也の『スチュワーデス暴虐レイプ』のシーンが山田道子の頭に蘇った。あれと同じことが今、目の前で始まろうとしていた。うわー、興奮してきた。この二人、どこまでヤるんだろうか。どうせなら最後まで行って欲しい。仲良しの佐久間渚が処女を失う瞬間が見たかった。

 よし。やれっ、佐野隼人。渚の抵抗に怯むな。早くヤッちまえ。クズクズすんな。スカートを脱がせ。裸にすれば、もう逃げられない。お前も早くズボンを下ろして勃起したチンポコを出せばいい。そうすれば女は観念する。渚の口に含ませろ。しゃぶらせるんだ。

 無意識にも山田道子は佐野隼人を応援していた。仲良しの佐久間渚が嫌がっているのだから助けるべきだったが、同級生のセックスシーンをライブで見たいという好奇心が大差で勝っていた。

 おっ、いいぞ。それだ、それでいい。佐野隼人の手がスカートの中へ入るのが見えたのだ。山田道子の期待が一気に高まる。

 佐久間渚のアソコを掴め。思いっきり撫で回せ。パンティを下ろしちまうんだ。そうすれば光月夜也みたいに、きっと自分から尻を振って喘ぎだす。ここまではアダルト・ビデオの展開と同じように進んで--。

 「もう、いやっ」佐久間渚が強い言葉と同時に佐野野隼人の顔を平手打ちした。

 あっ、バカ。なんてことを--。そんなことしたら興奮が冷めちまう。せっかく、いいところだったのに。え、……ウソでしょう。

 「ご、ごめん。もうしない」佐野隼人が驚いて手を引っ込めたのだ。

 何で? 謝ってんじゃないよ、この呆けっ。まさか、これで終わり? ふざけないで。佐野隼人、お前、それでも男かよ? 

 「悪かった。許してくれ」佐野隼人は咽び泣く佐久間渚の肩に手を回して慰め始めた。

 ちっ、情けない男だ。女に泣かれたぐらいで怖気づきやがって。

アダルト・ビデオの男優は興奮して、もっと大胆になっていったんだから。ガッカリさせてくれるじゃないの。これで御仕舞い? 最後までヤればいいのに。

 二人は冷静を取り戻した様子だった。これから再び興奮して第2ラウンドが開始ってことはまずなさそう。

 ここで山田道子は気づく。もし覗いていたことを二人に知れたら不味いんじゃないか、と。その通りだ。覗き見してた女は、実際にヤってた本人たちよりも非難される可能性があった。ヤバいよ、帰ろう。忘れ物は諦めた方がいい。来た時と同じように山田道子は忍び足で教室を後にした。そっと階段を降りながら考えた。二人のセックスまでは見られなかったが、少なくともキスシーンは見た。収穫はあった。いつかこんな台詞を口にして佐久間渚から譲歩を引き出す場面がくるかもしれない。

 「あんたが放課後に佐野くんと教室でキスしてたのを見たよ」

 もし否定したりしたら、こう付け加えてやろう。「ウソは言わないでよ。スカートの中に佐野くんの手が入ってきたとき、あんたは平手打ちしたじゃい」、と。ここまで具体的に描写したら、ぐうの音も出ないはずだ。仲良しの弱みを握った。そう思うと佐久間渚の可愛らしさも前ほど悔しくなくなった。

 しかし初潮が一番遅かったくせに、男女の関係では早々とキスからペッティングまで経験してるなんて。呆れた女だ。

 癪に障るのは、これまで何一つ報告がないことだった。友達を何だと思っているのかしら。初潮が遅くて、あれほど心配してやったのに。礼儀を知らないとは佐久間渚のことを言うんだ。悔しい。裏切られた思いだ。あんなに可愛い顔をして、こんなにマセてるとは知らなかった。もしかしたら、男と知り合ったら即にヤらせるタイプだったりして。

 この件では出来れば五十嵐香月と一緒に、影で佐久間渚を激しく非難したかった。だけど、それには『渚のキスシーンを見ちゃったよ』と教えなければならない。無理だ。こんな貴重な情報をタダで香月にくれてやるわけにはいかない。あいつほど人の手柄を横取りして自分のモノにしてしまうことに長けた女を知らなかった。

 だけど誰かに言いたい。渚の秘密を誰かと共有したかった。人の秘密を知るのは大好き。だけど、もっと好きなのが人の秘密を多くの人に言い触らすことだった。

 口には出さないが態度で、あたしは知ってたんだから、と示してやる。知らされた相手が見せる驚いた表情に山田道子の優越感は満たされた。

 根っからの詮索好き。自分の欲求を満たす為なら勝手に人のカバンを開けて覗く。板垣順平がニヤニヤしながら鮎川信也に黒いビニールのバッグを渡した時にはピンときた。体育の授業で男子全員が教室からいなくなるのを待った。鮎川くんの青いバックの中にアダルト・ビデオを見つけて、やっぱりだと思った。あたしの目を誤魔化すなんて無理な話よ。

 うっわー、凄そう。『スチュワーデス暴虐レイプ』という強烈なタイトルが目に飛び込んできた。

 だてに映画同好会に入っているわけじゃない。恋愛、アクション、西部劇、サスペンスなど色々な作品を鑑賞してきた。しかしアダルトは未だだった。これは見るしかないと思った。まさか鮎川信也に又貸しさせてくれとは恥ずかしくて言えない。黙って借りることにした。五十嵐香月と佐久間渚を誘ったが、予定があるからダメだと言われた。近くにいた手塚奈々に声を掛けると、目を輝かせて一緒に見たいと言う。そりゃそうだろう。ひょろっと細長かっただけの脚が女らしい曲線を帯びてきた去年の夏から、彼女はセクシー路線で男子の人気を集めているのだから。だけど家で待っていると、スズキのスクーターに乗ってやって来たのには驚いた。黄色いヘルメットから長い髪をなびかせて颯爽と姿を現した。運転も上手そう。馴れた手つきでスタンドを掛けて玄関の前に停車させた。身体だけじゃない、行動も女子大生気取りだ。

 佐久間渚と佐野隼人のキスは、誰かに言いたくて欲求不満になりそうだった。そこで頭に浮かんだのが幼馴染みの篠原麗子だ。あの子は大人しくて口が堅い。新築したセキスイハウスの家に遊びに行った時に教えてやった。

 最近の篠原麗子は自分よりも佐久間渚に急接近していた。美術部の活動に誘ったりして。やきもちではないが、何か気に入らない。渚のキスのことをバラせば、二人の仲にヒビが入るんじゃないかと期待した。一石二鳥だ。ところが麗子の反応ときたら期待外れもいいところだった。

 「へえ、そうなの」ときた。

「ねえ、あの二人が放課後の教室で抱き合ってキスしてたのよ」言い方が悪かったのかと思って、具体的な事実を加えて繰り返した。

「ふむ」

「……」この女、耳が聞こえないの。それとも難しい日本語は理解できなかったりして。「それに佐野くんたら渚のお尻を触ったりし

てたのよ。手をスカートの中にも入れたわ」これで、どうだ。少しは驚けよ。

「ねえ、道子。サラミは好き?」

「え?」何だって、サラミ? それと渚のキスが、どう関係しているの。「……嫌いじゃないけど」

「たくさん買っちゃったのよ。いくつか持っていって」 

「そう」もう呆れた。この情報に飛びつかない女っているんだ。信じられない。「あんた、これ一体どうしたの?」目の前に十本ものサラミを並べられて、ちょっとビックリ。もしかして万引きしたのかしら。いや。この子は、そんなことしない。

「Dマーケットで買ったんだけど……」

「どうして、こんなに買ったのよ? そんなに好きなの、これが」

「ううん。そういうわけじゃないけど」

「普通、一度に十本も買うかしら、サラミを?」

「仕方なかったのよ」

「仕方なかったって、どういうこと?」

「すごく恥ずかしかったから」

「え、恥ずかしくて十本もサラミを買う? ちょっと理解できないわ」

「本当は十一本だったの。あたしが一本は噛んで食べたから」

「十一本も? あんた、よく買えたわ。逆に偉い。あたしだったら恥ずかしくて出来ない。相当な酒飲みじゃないかって思われそう。それに、見て。この形よ。何か別のことに使うんじゃないかと、疑われちゃうわ」

「どうする、道子? 持っていく?」

「一本でいいわ。そんなに何本も続けて食べられないもの」

「わかった」

 サラミを渡されて山田道子は、幼なじみだった篠原麗子がすっかり変わってしまったと感じた。知らない間に理解できない女になっていた。佐久間渚がキスしたことを教えてやったのに、ぜんぜん無関心だし。大人しそうな顔をしているのに,Dマーケットではサラミを十一本も買ったと言う。それって衝動買いなの? 理解に苦しむ。食べるんじゃなくて、もし別の使い道を考えていたとしても二本もあれば充分なはずだった。

 

 待ちくたびれた。黒川拓磨くんから返事は来ない。『あれは佐久間渚たちに仕組まれた冗談だったのよ。お願いだから忘れて』そう言って誤魔化すしかないと考えた。すでに十日が経っていた。もう彼が自分と交際してくれる可能性はゼロに近い。はっきり断われる前に、こっちから、あれは無かったことにして欲しいと伝えるしかないと思った。これまで通りの友だち付き合いは、なんとか保ちたい。

 ところがだ、その黒川拓磨から応えがあった。諦めていたところに、いきなりでビックリした。朝、登校して自分の席に座っていると後ろから声を掛けられた。

 「メモを関口が使っていた下駄箱に入れたんだ。それを返事と受け取ってくれて構わないよ。ぼくの要求を書いた。もしOKだったら、それを同じ場所に置いてほしい」

 え、どういうこと? でも「わかった」と答えて頷くしか出来なかった。あまりにも突然で思考回路が働かない。まったく意味が分からなかった。

 休み時間になるまで待つしかない。ずっと考え続けた。加納先生の英語の授業だったけど山田道子は上の空だ。『ぼくの要求』って、どういうこと? あたしと交際してくれるのかしら。

 ああ、早くメモが見たい。頭が痛いとかウソを言って、早退しようかしら。いや、そこまでしなくてもいい。「先生、おトイレに行かせて下さい」もっといい口実を思いついて言った。山田道子は席を立つと一階の下駄箱へ急いだ。廊下でも階段でも誰にも会わない。好都合だ。関口貴久が使っていた下駄箱を見つけると、ビクビクしながら扉を開けた。

 手が震える。もしかして中に何も入っていなかったりして。あたしは騙されたのかもしれないという不安を急に覚えた。がっかりして教室へ戻ったら、クラス全員に大爆笑で迎えられたりして。知性に溢れた加納久美子先生さえも教壇の横で、お腹を抱えてゲラゲラ笑っていたら……。ああ、大変。

 ドッキリだったら、どうしよう。もう生きてはいけない。どこかでビデオ・カメラが回っていたりして。もしそうだったら、これから何度も教室で給食の時間に再生されるだろう。その度に自分は笑い者にされるんだ。

 恋した男にドッキリ・カメラの標的にされた女子生徒、というレッテルが背中に貼られる。これから自分とすれ違った誰もが、うしろを振り向いて指差すのだ。あの子だ、と気づいて口元を押さえて笑う。男子は遠くから見つけただけで、『おーい、山田道子。下駄箱にメモはあったのか?』と大声を上げて大爆笑だ。それが死ぬまで続く。ああ、恐ろしい。たとえ義務教育であろうが、この君津南中学を二年で中退するしかない。死んだ方がいい。それとも一人で旅に出ようか……。 

 「えっ、あった」中に紙を見つけると思わず大きな声が出た。ヤバいっ。慌てて回りを窺う。よかった、誰もいない。そっと手に取り、広げて書かれていた文字を読む。飛び上がりそうになるほど驚いた。えっ、マジで? 何度も読み返した。短い文だから読み間違いなんかしない。確かに、そう書いてあるのだ。衝撃で身体は、その場に凍りつく。息もできない。『スチュワーデス暴虐レイプ』よりも強烈な文だった。

 『きみのチューリップ柄のブラジャーとパンティが欲しい』、その横に、『洗濯はしないでくれ』が続く。

 信じられない。まだ付き合ってもいないのに、あたしの下着が欲しいだなんて。黒川くんらしくない下手な字だった。キスだってしていないのに……、この性急さには付いて行けそうにない。

 あ、そうだ。早く戻らないと。

 山田道子はB組の教室のドアを開けて自分の席へ向かう途中で、加納先生から声を掛けられた。「大丈夫? 山田さん」

「え、……はい。何でもありません」遅かったので心配させてしまったらしい。ちょっと、ヤバい。

 その日は下校するまで、ほとんど誰とも口を利かなかった。五十嵐香月と佐久間渚が訝しげな様子を見せたが、あえて弁解しない。考え事に夢中で、それどころじゃない。黒川拓磨くんのことは意識的に避けた。目を合わせでもしたら、顔が真っ赤になってしまう。

 これって付き合ってくれるっていう意味なのかしら? それとも下着だけが欲しいの? えっ、まさか転売目的? それともコレクターだったりして。 

 だけど、どうしてチューリップ柄の下着を、あたしが持っているって知っているんだろう。しっかりリサーチしたってこと? つまり、この山田道子に好意を抱いてるってことじゃないかしら。

 あたしには五十嵐香月みたいな美貌とスタイルの良さはない。だけど、あの女みたいな計算高いところもなかった。見栄えか、それとも貢いでくれる金額の多さでしか彼女は男を選ばない。

 あたしには佐久間渚みたいな可愛らしさもなかった。だけど男と少し付き合っただけでキスしたり、お尻を触らせたりするほど軽薄な女じゃない。

 外観では二人に負けている。でも心では負けていない。好きになった男には全力で尽くすつもりだ。その人だけを心から愛す。お金なんか恋愛に関係ない。愛があれば、それだけでいい。

 そんな純粋な心に黒川くんは気づいたってことなの。すごい。なんて鋭い洞察力だろう。家に帰って夜中になるまで考えて、山田道子は一つの結論に達した。

 あたしの魅力が原因だ。あたしに魅力が有り過ぎるから、あんな行動に彼を駆り立ててしまったのだ。これで全てが解決した。

 あの黒川くんらしくないヘタな字は、ずいぶん緊張して書いたからに他ならない。そりゃそうだろう。好きな女の子に、いきなり洗濯していない下着をくれって言うのだから。返事が遅れたのも当然だ。

 あたしには分かる、よく分かる。家で飼っている犬のロンと同じだから。散歩に連れて行けば出会うメス犬の尻の匂いを嗅いでばかりいる。

 こうなったら、こっちもそれなりに大胆な行動で応えないと、彼の期待を裏切ることになってしまう。山田道子は決心した。チューリップ柄の下着を三日ほど穿き続けて、あたしという匂いを染み込ませてから渡してやろう。

 翌日の朝、黒川拓磨の姿を見つけると近づいて何気ない振りを装いながら、そっと耳打ちした。「金曜日の朝まで待って。登校したら

真っ先に下駄箱に入れておくから」

 その時の彼の顔ったら思い出すだけで笑えちゃう。ずっと欲しかった新型のスポーツ自転車を買ってもらったみたいな喜びに溢れていた。うふっ、すっごく可愛いかった。山田道子は生きてきた十四年間で一番の幸せを感じた。

 

   29 

 

 「なあ、……この前の話なんだけど--」黒いメルセデス・ベンツの運転席に座る男が重そうに口を開く。

「いいわ。もう言わないで。わかったから」安藤紫は相手の言葉を途中で遮った。

 イタリアン・レストランでの食事を終えて、アパートまで送ってくれたところだ。ほとんど二人は車内で言葉を交わさない。レストランでも今までとは違う雰囲気だった。

 この男もダメだ。いざ結婚となると尻込みを始めた。電話で、逢おうと言われた時から否定的な返事を聞かされるんだと感じた。ウェートレスが注文を聞いて立ち去ると、男はトイレへ行った。安藤紫は行動を起こす。水の入ったコップにペナルティの白い粉末を落としてやった。躊躇いなんかない。これまで何度もやってきた。いい返事をくれないバカには代償を払ってもらう。タダ乗りは絶対に許してやらない。あたしの身体を楽しんでおきながら、その責任を果たさないで立ち去ろうなんて考えが甘すぎる。

 「すまない。今は仕事が忙しくて……」

「いいのよ。あたしが性急すぎたわ。あの話は忘れて」

「また逢ってくれるかい?」

「もちろん。あなたのことを好きなのは変わりないもの。また連絡して。今日はご馳走さま。おやすみなさい」

 安藤紫は助手席のドアを開けて外に出た。何歩か進むと振り返って、笑みを浮かべながら男に手を振った。同時に心の中では、こいつに安藤紫の恐ろしさを思い知らせてやろうと誓う。

 また一から始めなきゃならない。男漁りだ。目立つ服を着て、人が集まる場所へ足を運ぶ。

 どんな服を男が好むか、どんなポーズに男が興奮するか。すべて分かっている。学年主任の西山明弘は格好のモルモットだった。色っぽい仕草や甘い言葉にハッキリと反応してくれるから、ずいぶん勉強になった。

 その甲斐もあって、言い寄ってくる男は数知れない。しかし付き合うに値する男は数少なかった。

 メルセデス・ベンツの男には深く失望した。今度こそは、と思っていたのに……。医者の息子だった。長男だから、いずれ父親の経営する医院を継ぐのは間違いなかった。

 あいつから連絡が来たら、しばらくは逢ってやろう。ペナルティをドリンクに混ぜて飲ませなきゃならない。体格から計算して、確実に症状が出る量を用意してあった。

 お前は医者にはなれない。させるもんか。患者になるんだ、それも不治の病で。

 さあ、気を取り直さないと。いつまでも落ち込んでいられない。

明日は加納先生を誘って二人で食事でもしようかと思う。彼女と一緒だと楽しくて、気持ちが前向きになれた。

 それに悪いことばかりじゃなかった。もう一つの計画では大きな進展があったのだ。とうとう、あの女の子供を見つけた。女子生徒だった。

 なるほど、あの女の面影を引き継いでいた。可愛い。いずれ相当な美人になるだろう。すでに男子生徒たちの注目を集めているのも頷ける。これまで気づかなかったのが不思議なくらいだ。

 男よりも女でよかった。復讐のし甲斐があるというもんだ。美貌を奪って醜い女にしてやりたい。その変わり行く姿を見て母親と祖母が嘆き苦しむのが楽しみだ。

 上手く手懐けて、こっちに親しみを持たせよう。毎日のように会って、少量のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませ続ける。徐々に体調を崩し、可愛らしさを失っていく。男子生徒の憧れから、誰もが目を背けたくなるような存在へと変貌するのだ。 

 明日の昼休みに、彼女が美術室へ遊びに来ることになっていた。そうだ。ベンツの男に失望させられた腹いせに、女子生徒のコーヒーには、今回だけ大目のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませてやろうじゃないか。

 グッドな思いつきに安藤紫の気分は少しだけ良くなった。

 

 

 


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