黒いチューリップ 2   作:castlehill

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 「お前、どうして呼び出されたのか分かっているか?」

 学年主任の西山明弘は二年B組の教室で、生徒の机を間にして手塚奈々と向き合っていた。体育の授業でクラスの全員が校庭に出て行った。今は二人だけだ。彼女は見学者リストに入っていたので都合がよかった。お好み焼き屋でのアルバイトを問い質してやるつもりだった。

「あたしの体操着が盗まれた件ですか?」

「なに? お前、そんなモノを盗まれたのか」その話は聞いていない。

「はい。体育の授業が終わって汗で濡れたままでした。でも翌日にはロッカーに戻してあったんです。なんか気持ち悪い」

「マジか? 誰だ、そんな事する奴は」

「男子の誰かじゃないかと思います」

「そうだろうな、きっと」変態じゃないか。いい女だから、そんな事をしたい気持ちになるのも分からないではないが。「二度と盗まれないように、しっかり管理した方がいいな」

「これで三回目です」

「えっ」

「もう困っちゃう」

「三度目なんて……。加納先生は知っているのか?」

「最初の時は報告しましたが、次からは面倒臭くなってしていません。いつも翌日には戻ってくるんです、だから……」

「そうか」呆れた。もう性犯罪だぞ、これは。「よし。四度目があったら、オレに報告してくれ」それしか言いようがない。

「わかりました」

「だけど今日、呼び出したのは別の話だ。お前、何か校則違反をしているだろう?」

 こうして近くで見ると本当に魅力的な女だと思えた。瑞々しい色気を全身から発散している。ナメクジみたいにジメジメした感じの大家の娘とは大違いだ。

「え、……さあ、なんだろう」

「とぼけても無駄だぞ。こっちには情報が入ってきているんだ」この言葉が効いたらしい。女生徒は顔を上げた。「正直に話せば悪いようにはしない」

「本当ですか?」

「もちろんだ。オレを味方だと思っていい。お前ぐらいの年齢になれば何かしらの過ちをして当然だ」

「じゃ、言います」

「よし」ますます気に入った。なかなか素直で性格はいい。

「原付に乗って友達の家やコンビニへ行くのは、もう止めます」

「は?」

「あの日は風が強かったんですよ。歩いてコンビニまで行くのがかったるくて、家にあったスズキのスクーターに乗りました。そしたら凄く楽ちんで、病みつきになっちゃったんです。すみませんでした。もうしません」

「お、おい」こりゃ、拙い。「お前な、それは校則違反どころか道路交通法違反だぞ。もし事故でも起こしたら取り返しがつかない。親は知っているのか?」

「母親はダメって言いますけど、父親は頼めば渋々ですがキイを渡してくれます」

「……マジかよ」これは大変なことを聞いてしまった。知りたくなかった。

 この女生徒の父親に電話して、娘さんにスクーターに乗らせてはいけません、なんて言ってみろ。返ってくる言葉は決まっている。うちの生活に口出しするな、だ。

 以前に、中学生の息子と毎晩のように晩酌を交わす父親に注意したところ、逆切れされて職員室まで怒鳴り込んできた。「お前らはガキどもに勉強だけ教えていればいいんだ。余計なことはするんじゃない」

 もう二度と、生徒たちの家庭とは関わりを持ちたくないと、これで決めた。連中が非行に走るのは、ほとんどが親に問題があるからだ。しかし何か不祥事が起きれば、マスコミは学校の責任を追及してくる。バカやろう。アホで道理が通らない親よりも学校の方が追求し易いからだ。

 いじめ問題は世間一般では、まるでそれが中学校でしか存在しなかのように扱われている。ふざけんな。いじめはどこにでもある。頭の回転の鈍い奴、運動の苦手な奴、力のない奴、気の弱い奴、空気が読めない奴、器量の悪い奴、要領の悪い奴、仕事のできない奴は、どこへ行こうがいじめに遭うんだ。指導する立場でありながら、ここ君津南中学校の職員室でも、いじめは大なり小なりあるんだから。

 「それじゃない。その件は聞かなかったことにする、いいな?」もし生徒が事故を起こして、学年主任のオレが無免許運転の事実を知っていたとなれば学校は責任を追及される。それは避けたい。「まだ他にもあるだろう。それを言え」

「じゃあ、板垣くんが学校に持ってきた光月夜也のアダルト・ビデオを黙って借りたことですか?」

「え、……光月夜也? あのロシア人とのハーフっていう--しまった。口が滑った。

「そうです。やっぱり西山先生も知っているんですか。すっごく綺麗な--」

「バッ、バカ言え。し、知らない。そんなものにオレは興味はないんだ」

 あの板垣順平は学校にアダルト・ビデオを持ってきているのか。困った奴だ。よりによって光月夜也とは……。畜生。オレに馴染みのない女優だったらボロを出さなかったのに。『女教師 生徒の目の前で』に出演した三東ルシアに次ぐ好みのAV女優だった。

 「一日で返しました。でも最初に鮎川くんのリュックから探し出したのは山田道子なんです。あたしは、一緒に見ようって誘われただけです」

「もういい、それは分かった。違う。別の一件だ。心当たりがあるだろう」

「じゃあ、もしかして……」

「そうだ。その、もしかしてだ」もう早く言ってくれ。時間の浪費だ。早く本題に入りたい。

「関口くん達から万引きしたワコールの下着を買ったことですか?」

「……」えっ、相馬太郎だけじゃないのか? あいつが駅前のコンビニで万引きして捕まった時は、オレが燃費の悪いレガシィで駆けつけてやったんだ。叱ると、もうしませんと誓ったはずだ。まだ、あの連中は続けているのか。

「あたしだけじゃありません。関口くんたちが万引きした--」

「もういい、もう言わなくていいから。そのことは聞きたくない。それも違う」呆れた奴だ。叩けば叩くほど次から次へと埃が出る身とは、この長い脚をした手塚奈々ことを言うらしい。聞くだけ、こっちが困難な立場に追いやられていく。「オレが言いたいのは、お好み焼き屋でアルバイトをしていることだ」

「あ。それ、ですか」

「そうだ。れっきとした校則違反だろう。そう思わないか?」

「知りませんでした」

「知らなかったとは言わせない。ちゃんと生徒手帳に明記してあるからな。たまたま働いているところを、父兄の一人に見つかったんだ。しばらく止めた方がいいぞ」

「困ったな。オーナーに何て言おう?」

「学校で注意されましたって正直に言えばいいだろう」

「それが通ればいいんだけど……」

「どういう意味だ?」

「オーナーは木畑興行と関係がある人なんです」

「なに? ヤクザじゃないか」

「そうなんですよ」

「お前、どうしてそんなところで働き出したんだ?」

「森田桃子先輩の紹介です。先輩も中学二年の頃から、そこでアルバイトしてたって言ってました。あたしにピッタリな働き口があるって教えてくれたんです」

「……あいつか?」

 西山弘明は森田桃子が卒業してから、なんと千葉の栄町にある風俗店で顔を合わせていた。「あら、やだ。西山先生じゃないの」なんて気軽に声を掛けてきやがった。店の人に、知り合いなんですと事情を話して他のソープ嬢に変えてもらったのだ。まさかその話が手塚奈々に伝わっていたりして。背筋が寒くなる。この女生徒に伝われば学校中に広まるのは時間の問題だ。もちろん安藤先生や加納先生の耳にも届く。もはや身の破滅だった。

 「もう先輩は働いていません。オーナーと給料のことで喧嘩して辞めました。なんか千葉の風俗店に移ったとか、噂で聞きましたけど」

「そうか」良かった。まだ伝わってないらしい。「お前なあ、あんな先輩と付き合うのは止めろ。いかがわしい所でしか働けない女になってしまうぞ」

「別に付き合っていません。もう連絡は取っていないし。たまにルピタとかDマーケットで会ったりすると、向こうから声を掛けてくるんです」

「無視しろ。お前の為だ、それが」

「わかりました」

「お好み焼き屋のアルバイトはしばらく止めろ。ここだけの話だけど、ほとぼりが冷めたらまた始めていいから」 

「どうしよう。今月だけでも続けちゃダメですか」

「どうして」

「オーナーに借金があるんですよ」

「幾らだ?」なんて野郎だ。美人の女子中学生を借金漬けにして、強制的に店で働かせているらしい。西山明弘は犯罪の臭いを嗅ぎ取った。普通の人よりは少ないのは認めるが、それでも正義感が燃えたぎってきた。

 中国やインド、バングラディシュでは劣悪な環境で児童が、家計を助ける為に働かされて将来を奪われているのが現実だ。この手塚奈々というセクシーで可憐な少女を、過酷な労働から助け出してやりたいと思った。頭は悪いかもしれないが、その美貌を利用すれば玉の輿に乗れる可能性だってあるのだ。

 「十五万円ぐらいだったかな」

「えっ、そんなに大金を……」とても立て替えてはやれない。大家の娘との付き合いがあるし。

「そうなんです」

「とても一ヶ月ぐらいバイトしたって返せる金額じゃないだろう」

「いいえ、そんなことありません。上手くやれば……」

「上手くやれば? お前、時給は幾らで働いているんだ?」きっと安い給料でこき使われているんだろう。可哀想に。

「三千円です」

「えっ、……そんなに?」

「はい。あたしが働くようになったら店の売り上げが倍増したらしくて。最初は山崎先輩と同じで千五百円だったんですが、あたしだけ次の月から二倍に昇給してくれました。うふっ」

「……」オレは時給で換算して三千円も貰っているだろうか? 西山は自分の給料と、目の前に座る女生徒が受け取るアルバイト代を無意識に比較した。

「最近はオーナーが頻りに、あたしに言ってくるんです」

「何て?」

「あと三センチだけスカートの丈を短くしたら、時給を五千円にしてやるって。もう今だってパンティが見えそうなくらいなのにですよ。男の人って本当に、すごくエッチ。でも借金を返すためなら仕方ないかなって思ったりします。それにスカートが短いと、お客さんがチップを弾んでくれるんです。えへっ。千円なんてザラで、たまに五千円とか一万円だったりして」

「……」

 なんてこった。オレが主任手当てとして貰う五千円なんて、この脚の長いバカ娘にしてみれば、たった三センチだけスカートの丈を短くすれば一時間で得られる金額らしい。なんか情けない。すごく寂しい。これが、この世の現実なのか。

 金が無くてレガシィに給油するのも毎回20リットルづつと気を使いながらだった。満タンするなんてボーナスが出る月の、年に二回だけだ。この十四歳の娘は脚が長い理由で、倹約とか節約を常に強いられる苦労をしないで済んでいる。

 「お金をオーナーから借りた理由なんですが、ファッション雑誌に載っていたシャネルの財布とグッチのバッグが欲しくなったからでした。それと店の仲間とディズニーランドへ行って派手に買い物をしちゃったんです。あはっ。楽に稼げるもんだから、つい--」

「いい加減にしろっ」怒鳴った。

「え?」

「もう黙れ」聞いていられなかった。

 西山明弘の頭の中にスーパーいなげやでの怒りが蘇る。去年の暮れだ。大家の娘が作る不味い料理にはうんざりしていた。正月ぐらいは美味しいお雑煮を作って食べようと、食材を買いに行ったところが、かまぼこが千円近くもするのに驚かされた。いつも夕月は百円ぐらいで買えるのに何で? 仕方なく店を出て、周辺のスーパーを全て回ってみた。ふざけんなっ。どこにも安いかまぼこは無かった。こんな高いかまぼこには手が出ない。業界が談合して消費者に安いかまぼこを買わせなくしているのだ。正月なんで貧乏人から一儲けしてやろうという魂胆らしい。そんな卑劣なことが許されるのか? 三が日が過ぎた頃に、やっと安いかまぼこが店の商品棚に姿を現す。それを見て再び怒りに火がつく。畜生、オレをコケしやがって。こうなったら意地だ。もう二度とかまぼこは口にしてやるもんか。

 もしかして話し合いの場所は、手塚奈々がアルバイトをするお好み焼き屋だったりして。いや、きっとそうだ。この女子生徒は長いセクシーな脚を露わにして、業界の連中からたんまりチップを貰っているに違いなかった。反対に安月給で働かされる中学教師のオレは不利益をこうむっている。バカヤロー。「オレはな、お前たちのお陰で、かまぼこ無しのお雑煮しか食えなかったんだからなっ」いなげやでの怒りは目の前の女生徒に向けられた。 

「え、かまぼこ? お雑煮? どういうことですか?」

「うるさい。いいか、お好み焼き屋のアルバイトは永久に禁止だ。罰として一ヶ月間のトイレ掃除を言いつける。分かったな」

「え、どうして? 正直に話したら悪いようにはしないって、さっき先生は--」

「バカっ。そんなことオレが言うもんか。校則違反は厳しく処罰する」

 こんな不条理な話があるか? 世の中、間違っている。こんなことだからデフレ経済から脱却できない、それで国の借金が一千兆円にもなろうとしているんだ。

「先生、待ってください。なんか話が違いませ--」

「黙れっ。とっとと校庭へ戻って体育を見学してろ」

 西山明弘は席を立つと女生徒を残して、さっさと教室を出て行った。手塚奈々とは二度と話をしたくない。出来ることなら二度と顔も見たくなかった。あんなバカ娘はスズキのスクーターに乗っているところを大型トラックに轢かれりゃいいんだ。

 

   31

 

 高木教頭は胃の痛みに苦しんでいた。何度もトイレに駆け込む毎日だ。正露丸も大田胃散も飲んでみたが全く効かない。そりゃ、そうだ。原因はハッキリしている。薬を服用して治る病気なんかじゃなかった。株式投資での損失が精神と体調を蝕んでいた。

 『横河ブリッジ』を損切りして、二部市場の『京葉電気』に乗り換えたのは間違いだったらしい。たかが生徒の言葉を迂闊に信じて行動を起こすべきじゃなかったのだ。

 『横河ブリッジ』は売却した途端に四百円を超えて上昇した。どうしてだ? オレに対する嫌がらせか。持っていれば六万円は儲かっただろう。逆に『京葉電気』は買ったら直ぐに下がりだした。一週間後の火曜日に大きく下落したので、思い切って高木教頭はナンピン買いをしていた。買値の平均単価を安くする為だ。資金は銀行のカード・ローンから借りた。そこから損失は二倍のペースで膨らむことになった。

 今まで稼いだ利益は一気に消えた。苦しい。悲しい。喪失感に身も心もボロボロだ。もう死にたい気分だった。ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンの美しさは頭の片隅にもなかった。

 どうしよう? 持っていれば、いずれ上がるんじゃないか。

 根拠のない期待に縋って生きる毎日だった。もはや日本経済新聞を読んで勉強する気も失せた。株式欄を見て『京葉電気』の下落を知るのが辛いのだ。いつか事態は好転する、そう自分に言い聞かせた。

 昨日の昼休みだ。携帯電話を鳴ったので応答すると、相手は中原証券の山口だった。

 「先日に買った『京葉電気』なんですが、午前中にストップ安になりました」という報告だ。大きな石を無理やり飲み込んだように胃が重くなった。「連結子会社の粉飾決算が明るみに出て、地検の家宅捜査が入ったらしく--」その後に説明が続いたが高木教頭は、もはや聞いていられなかった。黙って電話を切ってトイレに駆け込んだ。

 余計なことで電話してきやがって。知りたくなかった。もう仕事もしたくない。このまま一人で便器に座って死にたかった。家にも帰りたくない。あの鬼女房と顔を合わせたくなかった。ああ、つらい。精神的に疲労困憊しているのに、じっとしていられない。ヒリヒリと尻が痛い。トイレット・ペーパーの使い過ぎだった。

 どうして、ストップ安なんだ? 大手証券会社に勤める生徒の父親が推奨したのに。このまま何年も塩漬け状態になってしまうんだろうか。もしかして倒産したりして……。そしたら株券は紙切れ同然だ。買値まで戻ってくれないと、カード・ローンで借りた金の返済ができない。でも利息払いは、ずっと続く。

 不安に駆られて二年B組の教室へ急ぐ。黒川拓磨の姿を見つけると声を掛けた。「きみの父親が推奨した『京葉電気』がストップ安らしいぞ。一体、どうなっているんだ」もはや周りにいる生徒たちに聞かれてしまうことなんか気にしていられなかった。損失の責任を生徒に咎める口調になっていた。

 「……」

「おいっ」何も言わない生徒に腹が立った。(大丈夫ですよ。すぐに上がって行くと思います)と、そんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。「きみが野中証券に勤める父親の情報を教えてくれたから、オレは資金の全額を使って--」

 黒川拓磨は急に立ち上がると、高木将人を残して、そのまま教室から出て行ってしまった。そ、そんな態度があるか? 教頭であるオレを前にして。気づくと生徒全員の視線が、何事かと自分に集まっていた。やっぱり、これはマズい。 

 仕方なく職員室へ戻った。階段の上り下りでは特に尻の痛みがヒドい。ドアを開けると加納久美子先生の姿が目に入った。静かに小説を読んでいる。彼女らしい。何年か前は教え子だったのに、今は知的な素晴らしい女性になっていた。なかなか仕事もできた。助けを請うような気持ちで声を掛けた。

 「加納先生」

「はい?」 

「黒川拓磨のことで一つ訊きたい」

「なんでしょう」

「彼の父親の勤め先なんだが、もし加納先生が知って--」いきなり彼女の美しい顔が曇った。どうしてだ? 言葉が続けられなくなった。

「教頭先生」

「なんだい?」オレが何かヘンなことを言ったか?

「父親の勤め先って、どういうことでしょう?」

「いや、ちょっと気になったから訊こうとしただけさ。大したことじゃない」

「ですけど、去年の暮れに亡くなっていますよね?」

「えっ?」

「生徒の書類を渡してくれた時に、教頭先生が教えてくれたんじゃありませんか」

「……」冷たい水を首から背中に流されたような思いだった。

「彼の父親の勤め先が、どうして今になって知りたいんですか?」

「……」苦しい。息ができない。

「教頭先生?」

「い、いや、……何でもない。忘れてくれ」高木将人は言葉を搾り出す。その場を離れて、夢遊病者のように自分の席へと戻った。ゆっくり椅子に腰を下ろす。放心状態。

 そうだった。黒川拓磨が転校してきて、その書類を担任になる加納先生に渡すときに、このオレが指摘したんだ。すっかり忘れていた。理解できない。どうして、そんな大事なことを覚えていないのか。自分らしくない。欲に目が眩んだのかもしれない。

 自分は教頭という立場でありながら、中学二年の黒川拓磨に騙された。このオレが、あんなクソ小僧に手玉に取られた。してやられたんだ。殺してやりたい。

 もう取り返しはつかない。地獄だ。あの鬼女房とその両親に頭を下げて、カード・ローンの借金を説明しなければならない。助けてもらわないと返済は無理だった。ああ、なんて恐ろしい。もうオレは一生、あの家族の奴隷だろう。自由はない。未来もない。

 絶望で奈落の底に落ちた高木将人に一つ確かなのは、もう二度とレンタルビデオを借りて、ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンのセクシーな容姿を見ながら、心を躍らせたりしないということだった。

 

   32 

 

 計画では決行の日は三日後だった。いくら何でも十日ぐらいは掛かるだろうと篠原麗子は見込んでいたのだが--。

 決めた、今夜やる。

 義父は撒いたエサすべてに飛びついてきた。こいつって警戒心とかないの? と心配するほどだった。わざと騙された振りをしているんじゃないかしら、と不安を感じたことも。でも転校生の黒川くんは「大丈夫。そのまま進めて」と言ってくれた。

 男って、こんなにバカだったの? それとも、こいつだけ? だけど木更津高校を卒業してんだよ、こいつ。

 仲が悪かった子が急に態度を変えて優しくなったら、あたしなら何か変だなと感じて警戒するけど。それが普通じゃないの。

 始めは朝の挨拶からだ。そして笑顔。積極的に声を掛けた。向こうが馴れ馴れしく、自分の肩とか背中とかに触れてきても嫌がる様子は見せない。こっちも義父の背中を、ふざけて後ろから押してやったりした。喜んでる。ケラケラ笑っていた。

 母親が入浴している時を見計らって、下着姿でキッチンまで行って冷蔵庫からアイスクリームを取り出したりした。呆気に取られている義父に向かって、「きゃっ。まさか居ると思わなかった。ごめんなさい」と言って慌てて二階へ上がって行く。

 お尻の丸みを強調するように前屈みの姿勢を奴の目の前でして見せたり、ショートパンツにタンクトップという姿でリビングに降りてきたりした。黒川くんのアドバイスを忠実に守った。

 お色気作戦は効果抜群。ニヤニヤしながら、麗子の身体に熱い視線を送ってきた。もう目が釘付けと言っていいくらいだ。

 決行を決めた夜、義父が用意したホット・ミルクを手に取りながらウインクして見せた。そして小声で言葉を添えた。「パパ、どうもありがとう。上で待ってるわ」

 義父は目で母親の姿を探して、今の会話に気づいていないことを確認すると黙って頷いた。

 母親が夜の仕事に出て行くと、奴は間を置かずに部屋の中に入ってきた。麗子は寝た振り。

 布団の中に手が入ってきて早熟な十四歳の身体を触りだす。耐えた。まだ早い。どんどん義父は大胆になっていく。

 いやらしい手が麗子の太ももを伝わって、股間に届きそうになった時に行動を起こした。寝返りをうって義父の方を向く。手を伸ばしてジャージの上から男の股間に触れた。

 うわっ、すごく固い。これは、びっくり。ここまでとは思いもよらなかった。オッ立つって、このことだったんだ。なるほど。サラミを薦められたのも当然だ。こんなになってたら、普段の生活にも支障をきたすんじゃないかしら。男って大変。

 しっかり練習を積んだ。サラミを買うのに一万円ぐらいは使ったはずだ。Dマーケットの精肉コーナーで適当と思うソーセージを選んでいると、後ろから店員のオジさんに注意されてしまう。

 「お姉ちゃん、むやみやたらに商品に触っちゃ困るな」

「あ、すいません」固さを調べていたのを見られたらしい。

「どんなのを探しているんだい?」

「いえ、……そのう、しっかり固いのが欲しいんです」

「固いの? それならこれかな。すごく美味しいよ」

「いえ、別に美味しくなくてもいいんです。固くて、適当に太ければ」

「固くて太い? へえ、一体どんな料理に使うんだい?」

「あ、いえ、まだ料理は決めていなくて。それなりに歯応えがあれば嬉しいです」

「ふうむ。じゃあ、これなんかどうだい? まあまあの味だけど値段が安いよ」

「あ、もう少し長い方がいいかも」

「え? これじゃ、短すぎるってことかい?」オジさんの訝しげな顔。

「……はい」か細い返事が精一杯。ああ、言うんじゃなかった。あたしって、バカ正直だから。

「そうか、なるほど」表情が笑顔に変わった。「お姉ちゃんは味は気にしないけど、固くて太い、それに長いソーセージが大好物なんだね」店員のオジさんは全てを理解したみたいに大きく頷くと、篠原麗子の下腹部に視線を集中させた。「分かるよ。オレも、あんたぐらいの年頃はそうだったから」

「……」自分でも顔が真っ赤になっていくのが分かった。

 違います。オジさんが想像しているようなことじゃありません。これは仕返しなんです。あたしは母親に元に戻ってもらって、二人だけで幸せに暮らしたいんです。それに、あたしとオジさんを一緒にしないで。そう声を大きくして言いたかったが、中学生の自分は我慢するしかなかった。

 「だけど、そういう事ならソーセージなんかじゃ意味がないさ。オレだったらサラミにするな。ほら、これ。固さといい、太さといい、長さだって、お姉ちゃんの可愛い手にしっくりくるんじゃないかな。どう? 握ってみるかい。もうバナナとかキュウリなんかは試してみたんだろう? えっ、まだだって? へえ、驚いた。最初からソーセージを選ぶなんて、お姉ちゃんは目の付けどころが人と違うな。素人っぽくないよ。かなり研究しているみたいだ。感心する。ああいう生モノはダメなんだ。長持ちしない。使えば摩擦で熱くなるからだけどさ。それに手に馴染んできたと思ったら、腐って使いモノにならないなんてことがしょっちゅうなんだ。それで男のオレが言うのも何だけどさ、こういうのは人によってサイズ的に微妙な好みの違いってのが出るらしいんだ。どんな風に自分が使うのか想像しながら探すのが一番さ。たっぷり時間をかけて感触を確かめてみたらいい。ここでオレが、ずっと見ててあげよう。ほら」

「い、……いいです」もう帰りたい。

「触ってみなったら、お姉ちゃん」

「い、いや」オジさんたら、黒くて太いサラミを持って、その先端を麗子の身体に当たりそうなくらいに近づけてくる。

「そう言わないで。ほら」

「いや、……いやです」そんなモノで、あたしを突こうとしていた。後ずさりするしかなかった。そこへ白いエプロンをした太った男の人が、お店の奥から現れた。サラミを持ったオジさんが身を引く。助かった。でも何かイヤな予感が……。

 「おい、何してんだ」

「あ、店長」

「どうした?」

「はい。この綺麗なお姉ちゃんなんですが、実はですね……」

 恥ずかしい。これまでの経緯を一部始終話し出す。固くて太い、を何度も繰り返して強調するので身が縮む思いだ。

「どれか丁度いいのを選んでくれなんて、こんなに綺麗な女の子から頼まれて面食らっちゃいましたよ。商品を棚に並べていたら、いきなりですから。あっはは」

 えっ、そんなこと言ってない。ひ、ひどい。オジさんの嘘つき。

「わかった、そういうことか。お姉ちゃんは澄ました顔をしているけど、隅に置けないな。あははっ。あっけらかんと恥ずかしい事を口にして、オレたちを慌てさせるんだから。よっぽど、そういうことが好きらしい。だけど、こいつの言う通りだ。そのサラミだったら絶対に間違いない」

「……」ああ、困った。この店長っていう人、すごく声が大きい。それで特売でもやっているのかと、まわりに買い物客が集まってくる。麗子は身体を小さくして頷くだけだ。早く解放されたかった。

「どうしました? 万引きですか」紺色の制服姿の警備員だった。人だかりに気づいて急いでやってきたらしい。

「違う、違う。そんなんじゃない。この、お姉ちゃんが……」

 ああ、いやだ。また一部始終を話し出す。でも今度は声が大きい店長の番だった。警備員だけじゃない、まわりの人たちにも聞こえるように説明する。

「そりゃあ、お姉ちゃん、サラミしかないよ。なあ、みんな」

 警備員のオジさんも納得した。余計な事に、まわりの人たちに同意を求めたりして。

 「わかりました、サラミにします。サラミを買います」この場から早く立ち去りたくて篠原麗子は言った。

「そうさ。それが一番いい」と、警備員の人。

 すると店長が、「お姉ちゃん、楽しいことに一生懸命な姿勢が気に入った。よっしゃ。十本買ってくれたら一本サービスしよう」、と言い出す。

 え、そんなにいらない。一つでいいです。だけど周りの人たちが拍手で応えてしまう。次々と声も上がった。

「さすが店長、太っ腹」

「気前がいいんだから、この人は」

「男の中の男っていうのは、あんたのことだな」

「肉屋の店長にしておくには勿体ないよ」

「良かったねえ、お姉ちゃん」

「あんたが、うらやましい」

「やっぱり可愛い顔してると得だな。ラッキー」

 そんなに欲しくありません、と正直に言えない状況に追い込まれていく。「じゃあ、十本買います」としか返事ができなかった。

 十一本のサラミを抱えてレジへ向かう篠原麗子の後ろ姿に、店員のオジさんが声を掛けた。「お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ」

 Dマーケットの精肉コーナーには、二度と近づきたくないと思った。

 こんなことで思っていた以上の出費を余儀なくされた。失敗は許されない。

 ここまでが限界。もう義父に身体を触らせたくない。そのためには麗子の方が大胆になるしかない。ジャージを下ろして固くなったモノを外に引っ張り出す。なんなの、これって。気持ち悪いけど我慢して顔を近づけた。相手も下半身を前に突き出してくる。篠原麗子は目を瞑って素早く銜えた。口の中がいっぱいになった。やっぱりサラミやソーセージとは感触が大きく違う。

 「う、……う」

 さぞかし気持ちいいのだろう。義父は呻き声をもらした。気が緩んでいることは間違いない。ちょっと愉快。だって、これから大変なことになるのも知らないで快楽に身を委ねているんだから。作戦は大成功。黒川くんのアドバイスのお陰だ。お返しに彼の『祈りの会』には出てあげよう。篠原麗子は満身の力を込めて一気に顎を閉じた。

 ギャーッ、ギャー、ギャー。

 ハゲた中年男の断末魔の叫び声が夜の静けさを破った。最初に反応したのが隣の家で飼われていたイヌたちだ。異様な叫び声に驚いて吼えた。一匹が吼えると二匹目が続き、すぐに大合唱になった。それが他の家で飼われているイヌへと伝染する。君津市中野地区で飼われているイヌすべてに広まるのに時間は掛からなかった。

 吼え続けるイヌ、怯えて逃げ回るネコ、それを止めさせようとして慌てる人間たち。各家の中が大混乱。階段から足を踏み外す者、倒れてきたタンスの下敷きになる者、多くの人が怪我をした。何人かは重傷で救急車を呼んだ。地域に住む全員が暖かい布団から叩き出された。パジャマ姿で何事かと玄関の外へ出て行く人も少なくなかった。

 「ああ寒い。何なの、これって?」

「いや、知らない」

「起こされちゃったじゃない」

「泥棒か?」

「放火じゃないかしら?」

「テロかもしれないぜ」

「だったら早く君津南中学に避難すべきだ」

 しばらくして救急車のサイレンが聞こえてきた。それに合わせてイヌたちは遠吠えに変えた。坂田地区と北子安地区のイヌたちにも届きそうだった。消防車とパトカーも市内を走り回った。すべてが落ち着くまで朝日を待たなければならなかった。

 

   33 

 

 「みんな、どうしたの?」朝のホームルーム。ほとんどの生徒が疲れた様子で、担任の加納久美子は驚いて訊いた。

「先生、知らないんですか?」最前列に座る相馬太郎が答えた。知らないのを咎めるような口調だ。

「何があったの?」

「篠原麗子の家で事件があったらしいですよ」

「え、篠原さんの家で?」今朝、彼女の母親から娘の具合が悪いので今日は休ませますと連絡があった。詳しいことは言ってくれなかった。だけど、それがどうして生徒全員に関係しているのか分からない。

「もう町中が大騒ぎで眠れませんでした」新田茂男だった。

「え、そんなに?」加納久美子は視線を相馬太郎から彼に移して応えた。

「救急車とかパトカーが、サイレンを鳴らしながら騒々しく町中を走り回るんです。家の犬が吼えまくって大変でした」

「知らなかった」

  

   34 

 

 あんな事で本当に佐久間渚の下着が手に入るのだろうか。秋山聡史は転校生の口車に乗ってバカなことをしたという後悔と、もう是が非でも欲しい気持ちで苦しんでいた。

 「なあ、いつ手に入るんだ。どうやって?」

 黒川拓磨が一人でいる時は近づいて何度も訊く。答えはいつも同じで、「もう少し待て」だった。それを顔に笑みを浮かべながら言う。

こっちは真剣なのに、だ。

 オレを手玉に取っているのか。そんなに長く待っていられるもんか。オレは早く欲しいんだ。もどかしくて、もどかしくて怒りが募ってくる。

 よし。今週中に何も進展がなければ、あいつの家に火を放ってやろう。秋山聡史は決めた。放火の計画を練ることで気が紛れるはずだ。まず1﹒5リットルのペット・ボトルに、たっぷり灯油を入れた。次に奴の家を見つけないといけない。しかしだ、あいつがどこに住んでいるのか誰も知らなかった。みんなと仲良さそうにしているが、そんなには親しくないらしい。転校生だから学年の始めに配られる生徒名簿にも乗っていない。これは問題だった。下校のときに、隠れて後をつけるしかないか。でも見つかったらマズいことになりそうだ。

 放火を決める最終期限だった金曜日の朝だった。奴の方からやってきた。すまない、あれは冗談だった、と謝罪するのかと思った。

 でも許す気は全くない。どんなに謝られても許してやらない。金を請求する。損害賠償だ。下着が欲しいなんて、あんなに恥ずかしいことを紙に書かされたんだ、タダじゃ済まない。こっちは本当に手に入るんだと、その気になっていた。

 いくら請求しよう? 三万か? いや、少な過ぎる。五万だ。それだけあれば怒りは収めてもいい。だけど、しばらくしたら奴の家には放火する。もう計画しちまったんだ、何かを燃やさないと欲求不満になりそうだった。

 「秋山くん」

「なんだよ」声は喧嘩腰だ。

「一時間目が終わったら、例の下駄箱の中を見てくれ」

「……」そう言われた時の心の準備をしていなかった。マ、……マジかよ? 何も言えない。ただ奴のニヤッとする顔を見つめるだけだった。ま、待ってくれ。でも言葉になって口から出てこない。

 授業は、いつものことだが上の空だ。休み時間のベルが鳴ったら急いで教室を出て、下駄箱の中を調べに行きたかった。何度も佐久間渚の方を見た。彼女の様子は、いつもと変わらない。洗濯していない自分の下着を、空いている下駄箱に入れたなんて感じは全くしなかった。やっぱり騙されたのか。もしそうなら黒川拓磨の奴には目に物見せてやる。家に放火するだけじゃない、お前に灯油を掛けて燃やしてやるぜ。

 一時間目の授業が終わったとき、秋山聡史は冷静さを取り戻していた。ゆっくり席を立って行動を行動を起こす。早足になることもなく一階まで降りて、落ち着き払って関口貴久が使っていた下駄箱を開けた。

 げえっ。

 ルピタのビニール袋が入っていた。取り出して中を覗くと、チューリップ柄の模様が付いた小さな布が見えた。佐久間渚の下着に違いなかった。急いで学生服の下に隠す。トイレに行って、ゆっくり確認したい。下駄箱の中に一枚の紙があるのに気づく。それも手にした。たぶん頼み事が書いてあるんだろうと思った。

 気が変わった。ルピタの袋に入った佐久間渚の下着を胸に抱えたまま一日を過ごす。感激に浸って、授業中に何度も涙を流しそうになった。洗濯していない下着をくれた佐久間渚と黒川拓磨に感謝。学校ではルピタの袋から取り出して確認するのは止めた。有り得ない事かもしれないが、誰かに見つかって横取りされたら大変だ。家に帰ってから、じっくり汚れ具合を確認しよう。お楽しみだ。

 黒川拓磨には頷いて、受け取ったことを伝えた。言葉は交わさない。佐久間渚の様子は、ずっと目で追った。もうオレの女だ、そんな感じがした。しかし彼女は何か元気がない。具合でも悪いのか、と心配になった。 

 家に帰って落ち着いたところで秋山聡史の感激は頂点に達した。  

 「おい、マジかよ」思わず声が出た。期待した通りの汚れ具合だった。咄嗟にパンティを顔を押し付けて佐久間渚の香りを嗅ぐ。なんて幸せ。もう死んでもいいぜ。舌を出して触れてみた。これが佐久間渚の味か。うん、悪くない。好きだ。オレ好みの味だ。

 母親がルピタのパートから帰ってくるまで秋山聡史は、ずっとチューリップ柄の下着を手にして過ごす。着てみて自分の姿を鏡に映したかったが、それは明日のお楽しみにした。時間がなかった。

 ありがとう、佐久間渚。心の中で感謝の言葉を口にした。

 これだけの汚れた下着を渡すんだから、恥ずかしかったに違いない。相当な勇気がいったはずだ。言い換えればオレに対する信頼の厚さだろうか。佐野隼人と上手く行っていないことは、あの朝の二人のやり取りを見れば一目瞭然だ。彼女の心の中でオレの株が急上昇しているのは間違いなかった。これからは頻繁に声を掛けて秋山聡史の存在を強くアピールしてやろうじゃないか。

 あれ、この紙は? あ、そうだ。

 無造作にポケットから取り出して、机の上に置いたままだった一枚の紙に気づく。頼み事だ。すっかり忘れていた。手にして書いてある文を読んだ。

 『土屋恵子が学校からいなくなってほしい』 

 あはっ。思わず笑ってしまう。簡単過ぎるぜ。そんなこと関口貴久の時と同じやり方でやりゃあいいのさ。

 丁度よかった。すべてが用意してあった。放火する場所を黒川拓磨の家から土屋恵子の家に変更するだけだ。よし。盛大に燃やしてやろうじゃないか。チューリップ柄の下着を手に入れて、どんなに

オレが喜んでいるか佐久間渚に分かってもらうチャンスだ。 

 急いでやってやるぜ。それでオレの熱い気持ちが伝わるってもんだ。秋山聡史は、やる気まんまんになった。

 

   35  

  

 あれっ。

アイスクリームを食べ始めて、少女はフレーバーを間違えて買ってしまったかと思った。いつものストロベリー味じゃなかった。バニラみたい。手にしたカップのラベルを見る。えっ、びっくり。ストロベリーと、しっかり書かれているのだ。どうして? 

それが始まりだった。

いつか治るだろうと軽く考えていたが味覚は元に戻らない。そして黒板の文字が見づらくなっていることに気づく。夜中の二時までベッドの中で、ベスト・オブ・フィル・コリンズのCDを聞いていたからだろうか。そう思って、その夜は早く寝た。少し良くなった感じがした。メガネは掛けたくなかった。自分に似合わないのが分かっていたからだ。父親の目薬を使うことを心掛けた。

 学校の帰り道、手塚奈々に追いつかれて後ろから肩を叩かれた。「ずっと呼んでいたのに気づかなかった?」

「え、本当? 分からなかった」そう何気なく笑顔で答えたけど、心に引っ掛かるモノがあった。近ごろ聞こえづらくなっているような気がしていた。「え、いま何て言ったの?」と聞き返す場面が少なくなかった。

 味覚の変調に続いて、視力と聴力の低下。これは何か変だ。学校を休んで医者へ行くべきじゃないか。そう決心した翌朝、少女は身体の違和感で目が覚めた。パジャマのボタンを外してみると、左の脇腹一面に多数の小さな黒い発疹ができていた。

 ぎゃっ、気持ち悪い。自分の身体じゃなかった。南米のアマゾン奥地なんかに生息するトカゲの背中と同じ。その部分は足の踵みたいに皮膚が硬くなっていて、皮がボロボロと剥ける。どうして? 

 こんな姿を誰かに見せるなんてできない。この黒いブツブツを自分で治してからじゃないと病院へは行けない。

 誰からも可愛いと幼少の頃からずっと言われ続けてきた。そのプライドが、醜い身体を他人に見せることを許さない。

 少女には考えがあった。母親が庭で栽培しているアロエだ。これで湿布をしよう。何年か前の夏に酷い日焼けをして、アロエで治した経験があった。きっと、これが効く。その日の晩から始めた。

 視力と聴力、味覚を取り戻すためにミキサーでアロエ・ジュースを作った。身体の内部からも病気を退治するのだ。

 効果があったのか一時的に回復に向う。だが、しばらくすると黒いブツブツが脇腹から乳房の方へと範囲を広げ始めた。これは拙かった。オッパイは女性としての象徴だ。なんとしても守りたい。湿布の回数を増やして対抗した。そのうち、モノを噛むと歯茎から出血するようになる。

 「お姉ちゃん、口から血が出てるよ」

 妹と二人でリンゴを食べていて知らされた。「やだ、唇を噛んじゃったみたい。お願いだから、パパとママには言わないで」と、誤魔化した。

 ときどき目眩もして、疲れやすくなった。病魔との闘いは続く。強い精神力が少女を支えた。

 夕飯の前には必ずシャワーを浴びる。シャンプーをしていて違和感を覚えた。手に何かが絡んでいる。目を開けてみると両手に黒い髪が大量に撒きついていた。肩まで伸ばした自慢のストレート・へアだった。「あ、ううっ」

 少女は嗚咽を漏らすと、濡れたタイルの上に泣き崩れた。病魔との闘いが終わった瞬間だ。もう敗北を認めるしかなかった。

 

   36

 

 サッカー部の練習が終わって鮎川信也は帰宅の途中だった。市役所前の道路を大和田へ向かって自転車を漕いでいた。

 いつも部室を出る時は、「じゃあな」とか「また明日」とか鶴岡の奴とは必ず言葉を交わすのだが、この日はそれがなかった。あの野郎、トイレにでも行ったか。

 同じサッカー部員だが、二人の仲は特別なものがあった。左のミッド・フィルダーという一つのポジションを争うライバルでありながら、ゲーム・メーカーとしての重要な場所を二人で強固なものにしているという自負があった。あのバカで目立ちたがり屋のストライカー、板垣順平を上手く操れるのはオレたち以外にいるもんか、と断言できた。お互いにアドバイスし合い、それを次の試合に生かす。いい関係を保っていた。

 帰ったら、そろそろ期末試験の勉強を始めるべきだな。

 鮎川信也は今夜の予定を考えた。袖ヶ浦高校への進学を目標にしていて、今の成績では少し難しいと分かっていた。

 君津駅へ通じる交差点を通り過ぎて数メートル進んだところで、前方に小学生の女の子が運転する自転車が見えた。かなり遅い。追い越そうとしてスピードを上げた。

 

 本人は気づいていなかったが、鮎川信也の後方では六十歳の大工が運転するスズキの軽トラックが走っていた。

 大工は知り合いの漁師から譲り受けたダイハツの軽トラックが錆ついて使えなくなり、数週間前に板垣モータースでスズキの同じタイプに買い換えたばかりだった。中古だったからなのか、すぐに電気系統のトラブルがあった。クレームで部品を交換したが、雨の日にエンジンが掛かり難いのは変わらない。この一件で大切に乗ろうという気持ちは消えて、また今度も粗悪品を掴まされたかもしれないと考えていた。

 長く使っていた家のボイラーも壊れそうだった。ブラウン管のテレビは日に何度も勝手に電源が落ちた。こいつも寿命らしい。『水戸黄門』では、お銀の入浴シーンを安心して見ていられなかった。次々に悪いことが起きる。最も頭を悩ましているのはサラ金からの三十万円の借金だ。借りて直ぐに返すつもりだったのが、大きな取引先だった工務店の社長が夜逃げをして入金の予定がなくなってしまったのだ。

 どうすりゃいいんだ。家賃とか光熱費の引き落としがあるから京葉銀行の預金は下ろせなかった。思いつく唯一の解決策は、何も考えずに好きな酒を飲んでぐっすり眠ることだ。

 人生の師としてクレージー・キャッツの植木等を仰ぐ。代表曲の『無責任数え唄 だまって俺についてこい』は自分の為に歌ってくれているとしか思えなかった。『銭のない奴は俺んとこへ来い。俺もないけど心配するな。そのうち何とかなるだろう』を座右の銘にしている。『分かっちゃいるけど止められない』も好きな言葉だった。明日になれば、きっと何とかなっているもんさ。それで六十歳まで生きてきた。

 景気のいい時は、常連として通っていたフィリピン・パブのホステスとねんごろになったこともあった。名前はマリアだ。酔っ払って誰かと大喧嘩して留置所で朝を迎えた風吹ジュンといった印象の女だった。プロポーションが抜群なのは言うまでもない。だけど金の切れ目が縁の切れ目で、仕事の量が少なくなると、白いBMWの新車を乗り回す若い男に口説かれて、あっさりと大工の元を去って行く。今どこでどうしているんだろうか、と夜に一人でいると恋しく思う。

 前を走る中学生の自転車が、その更に前の自転車を追い越そうとしているのが見えた。間隔は十分にあった。このまま走り続けて大丈夫という認識だった。

 

 鮎川信也が女の子の自転車を通り過ぎようと右に出たところで、道路にはコンクリートの劣化による窪みができていた。その時だった、前輪のタイヤは空気が抜けていることに気づく。えっ、パンクか? ハンドルのコントロールが利かない。タイヤに緩衝機能がなくて窪みの段差の衝撃をまともに食らう。バランスを失った。転倒する。やばいっ。目の前が真っ暗になった。 

 

 突然、走っていた前の自転車が倒れた。高齢の大工は咄嗟に急ブレーキの動作に入った。運転歴は長い。条件反射だ。しかし六十歳という年齢に加えて運動不足、それに長年の喫煙と深酒の習慣が反射神経を衰えさせていた。大工の脳はアクセル・ペダルに乗せた右足を、左側のブレーキ・ペダルに移して、強く踏み込むように指示を出した。しかし筋力が弱った右足は二つの行程を一度に命令されても処理できない。行動に移せたのは足を乗せているペダルを、そのまま思いっきり強く踏み込むことだった。

 大工は意思に反して、軽トラックが急にスピードを上げたので、慌てた。どっ、どうした? パニックに陥った。このままでは転倒した中学生を轢いてしまう。思いっきりハンドルを右に切った。なんとか避けられたと思ったが、左のタイヤが何かを乗り上げた振動が運転席に伝わる。

 

 男子中学生の左足の踵がタイヤに潰された。叫び声は出ない。恐怖が痛みを感じさせなくしていた。真横を軽トラックが猛スピードで走り過ぎて反対車線に飛び出す。大音響。目の前で対向車と正面衝突した。

 

 スズキの軽トラックは、2トン近い英国製のジープタイプの大きな乗用車に完璧なまでに破壊された。六十歳の大工にしてみれば、また一つ面倒なことが増えたと思ったが、反対に、それまで積み重なっていた多くの問題がすべて解決されてしまう。もう何も心配しなくて良くなったのだ。

 ボイラーを使う必要がない。もうテレビで、お銀の入浴シーンを見てニヤニヤすることもない。三十万円の借金にしても、きっとサラ金は取り立てに来ない。

 『明日になれば、きっと何とかなるだろう』

 座右の銘にしてきた言葉の通りになった。六十歳の大工に心残りがあるとすれば、財布にあった四千円で浴びるほど安い酒を飲んでから、正面衝突したかったというものぐらいだろう。

 座席とダッシュ・ボードの間に挟まれた状態だった。身動き出来ない。フロント・ガラスを通して、青い空と白い雲が見えた。やっぱり植木等は正しい、そう思うと大工は静かに目を閉じた。

 

   37

 

 波多野孝行は上機嫌だった。

 今日も篠原麗子に挨拶すると笑顔で応えてくれた。いい感じだ。黒川拓磨がくれた紙に願い事を書いた効果が出ているに違いなかった。アプローチも次第に積極的になっていく。初めは挨拶だけだったが、最近は勉強の話もするようになった。確実に恋人同士の関係に近づいている。彼女も同じように会話を楽しんでいる様子が伺えた。もし直に告白したら、すぐにガールフレンドになってくれそうな雰囲気だった。

 さて、もしそうするなら何て言えばいいのか? 『きみのことが好きだ。ぼくと付き合ってほしい』、だろうか?

 うえーっ、恥ずかしい。書くのと言うのじゃ、えらい違いだ。こりゃ、練習が必要だな。自宅で父親がいない時にするしかなさそうだ。

 エドウインのジーンズを穿いて、ライトオンで購入したウエスタン・シャツを着て洗面所の鏡の前に立つ。いい格好で、しっかりポーズを決めて、台詞を口にしないとダメだと思ったからだ。

 「きみ--、ぎゃはっ。あっ、はは」言おうとした途端、可笑しくて吹き出してしまう。こりゃ、笑える。

 恥ずかしくて、あまりにも滑稽で腹を抱えて笑ってしまう。こんな事じゃダメだ、と分かっていても抑えられない。もう洗面所の前に立っただけでゲラゲラ笑えた。情けないが、こんな子供みたいな中学生が大人びた篠原麗子に告白するなんて喜劇でしかないと思えた。このままだと死ぬまで女の子に好きだ、なんて言えそうにないと不安になった。

 どうすれば笑わずに、かっこよく告白できるんだろうか? そうだ、洋画を見よう。ラブシーンで学ぼうと考えた。レンタル・ビデオ屋に行って『ジュマンジ』、『ロッキー』、『ターミネーター』、『スターウォーズ』を立て続け借りた。映画は面白かったが、学ぶべきものは何もない。参考になりそうなラブシーンが、ほとんどなかったからだ。

 そんなある日、登校して下駄箱を開けると、中に白い紙を見つけた。手に取ると書いてある文章が目に飛び込んできた。

 『きみも同じ気持ちだったと知らされて嬉しい。もちろん返事はOKだ』

 篠原麗子からの返事だと思った。うわっ、やった。だけど……、だけど何か変だ。文章が女の子らしくない。左下に書かれた新田茂男という名前を見て、波多野孝行の身体に衝撃が走った。じょ、冗談じゃないぜっ。

 二年B組の教室へ急ぐ。「どうした、波多野?」階段を上がっていく途中で声を掛けられた。ちぇっ。新田茂男だった。会えて嬉しいとでも言いたそうな感じだ。ふざけんなっ。無視した。あいつとは二度と口を利きたくない。

 教室に入って、黒川拓磨の姿を見つけると駆け寄った。

 「おい、話が違うじゃないかっ」けんか腰の口調になるのを抑えられなかった。

「え?」

「ここじゃダメだ。廊下に出よう」

 波多野孝行は黒川拓磨を連れて教室から出た。こんな恥ずかしい話は誰にも聞かれたくない。

 「一体、どうした?」

「どうした、じゃないぜ。返事がきたんだ」

「それは良かっ--」

「良くない。返事は篠原麗子からじゃなかった」

「え。じゃ、誰から?」

「新田茂男だっ」

「マジかよ」

「そうだ。ふざけんな。オレは男と付き合う気なんかない」

「……」

「おい、何とか言えよっ。お前が紙に願い事を書けば、それが叶うって言ったんだからな」

「だけど、こういう結果を招いたってことか」

「そうだ。オレに嘘をついたんだろう?」

「いや、そんな事はない」

「じゃ、この結果は何だ?」

「篠原麗子と仲良くなりたいと真剣に願ったか?」

「あたりまえだ」

「じゃあ、ぼくと加納先生が仲良くなれるように真剣に願ってくれたか?」

「……」うっ。痛いところを突かれた。何も言えない。

「おい、どうなんだ?」

「それは、それなりに……」形勢が逆転した。

「なるほど。わかったよ」

「なにが?」

「きみが約束を守らなかったから、この結果になったんだ」

「オレの所為なのか?」

「そうだ。あの時、きみは自分の事とぼくの事も同じように真剣に願うって約束しただろう」

「……」オレより背が低いお前と、あのスタイルがいい加納先生が恋人同士なんて想像できるか。無理があるぜ。

「仕方ないな。新田茂男と付き合うしかない」

「ま、待ってくれ。そんなこと……」

「警告しただろう。真剣に願わないと期待していたのとは違う結果になるかもしれないって」

「……」

「せいぜい新田茂男と仲良くするんだな」

「ま、待ってくれ」黒川拓磨が背中を見せて教室へ戻ろうとするのを引き止めた。

「なんだよ」

「どうすりゃいい? オレは新田茂男と付き合えない。男なんかとデートするなんて、どうしてもイヤだ」

「……」

「頼む。助けてくれ」

「……」

「何か方法はないのか? もう新田茂男の顔も見たくないんだ」

「そこまで言うなら、ない事もないけどな……」

「え?」

「だけど今度は約束を守らないと、もっと大変なことになるぞ」

「わかった、大丈夫だ。必ず守るから」

「よし、それなら」

「教えてくれ」

「三月の十三日の『祈りの会』には出てくれるよな?」

「もちろんだ」

「それに出来るだけの多くのクラスメイトを誘ってくれ」

「え? オレが」

「そうだ。どれだけ多くのクラスメイトを集めてくれたかで、きみの期待していなかった願い事の結果が解かれるのさ」

「……」

「どうだ。きみにやれるかな?」

「何人ぐらい集めればいいんだ?」

「できるだけ多く」

「二、三人でもいいのか?」

「それなら、それなりの効果しかないだろうな」

「じゃあ、十人だったら?」

「いい数字だ。災いは消えてなくなるかもしれない」

「わかった。それをしないと、オレは新田茂男と付き合わなきゃならないんだよな?」

「そうだ」

「やるよ」絶対に十人以上を集めてやろうという気持ちになった。

「よし。期待してるぜ」

 新興宗教の勧誘みたいな事をさせられるのか。黒川拓磨が立ち去った廊下の隅で波多野孝行は考えた。

 魔法の紙に願い事を書いたが何の利益にもならなかった。以前よりも篠原麗子と仲良くなれたのは、その効果じゃなかったらしい。

新田茂男に言い寄られて、願い事を書いただけ損した感じだ。その為に多くのクラスメイトに声を掛けて、『祈りの会』に誘わなきゃならない。なんでオレがそんなことを……。あいつに利用されたんだろうか? 波多野孝行は騙された思いだった。

 いつも夕飯の前に風呂に入った。洗面所の鏡に映った自分の姿を見ても、もう可笑しくない。笑いたくても笑えない、そんな気持ちだった。

 

   38

 

 うふっ。

 息子の孝行が行った校外学習の写真を見ながら、君津警察署の生活安全課に勤務する波多野正樹は思わず笑ってしまった。手渡された時に言われた言葉を思い出したからだ。

 「加納先生は小さくしか写っていないよ」 

 父親が美人な女教師の姿を見たがっていると思ったらしい。見当違いもはなはだしい。そういうことで校外学習の写真を見せてくれと頼んだわけではなかった。去年の暮れに中野地区で起きた放火事件の捜査だ。

 担当していた刑事が体調を悪くして長期休養を余儀なくされた。

今年になって放火事件は波多野のところへ回ってきた。

 まとめられた資料に一通り目を通した。鑑識から提出された現場の写真が三十枚近くもあった。ほとんどが火事を見に集まった野次馬たちを写したものだ。この中に高い確率で犯人がいる。これまでの放火事件の記録が証明していた。

きっと犯人は眺めのいい場所に立っている。後ろの方から火事を見物しているとは思えなかった。はっきりと顔が写真に写っている野次馬の一人ひとりを確認していく。どれもこれも普通の人で、写真で見る限りは何の特徴もない。でも波多野は不可能に近いが、それらの顔を記憶しようと努力していた。

 イギリスのスコットランド・ヤードでは、人の顔を覚えるのに優れた人物がいて、犯罪捜査に協力していると聞く。

 放火犯は必ず、また事件を起こす。性犯罪者と同じで常習性があるのだ。二度、三度と犯行を繰り返すことで、多くの手掛かりを残す。自ら自分を逮捕へと追い詰めていくのだ。

 次の現場で撮られた写真に同じ人物が写っていたら、それは有力な容疑者だ。捜査は一気に進展する。

 時間があれば写真を机の上に並べた。少しでも多くの顔を覚えたい。また、何か不自然なところがないか捜した。そしてある日、波多野は一人の少年に目を止めた。何人かの子供は写っていた。しかし、この中学生ぐらいの少年に刑事としての嗅覚が働く。

 その表情と佇まいが波多野の注意を引いた。どうして? と、もし誰かに訊かれても理由は答えられない。ただ、何となく。と、しか言えなかった。

 放火された家の長男は、波多野の息子と同じ教室で学ぶクラスメイトだった。その事実が頭の片隅にあって、ずっと消えなかった。

 もしかしたら……。

 波多野は行動を起こした。息子に校外学習で撮った写真を見せてくれるように頼んだ。

 長年培ってきた刑事の勘だった。しかし今回は、それが間違いであってほしいという気持ちで二年B組の生徒たちの顔を調べた。

 う、……いた。

 この子だ。前列に並んだ小柄な生徒の一人を波多野刑事は見つけた。放火現場で撮られた写真に写っていた少年と同一人物。予感が当たった。しかし嬉しくもない。息子のクラスメイトが容疑者として浮かんだのだ。どうやって捜査を進めよう。相手が未成年者なので慎重に行動しなくてはならない。まず、この生徒の名前と住所が知りたかった。もし住んでいる家が放火現場から遠かった場合、この少年の容疑は強くなる。近所でもないのに、どうして現場にいたのか、という疑問が生じるからだ。

 息子に校外学習の写真を見せて、この子は誰かと訊くか。……いやだ、それはしたくない。手っ取り早いかもしれないが、自分の息子を犯罪捜査に巻き込むことになる。もし、その生徒が犯人だったら、孝行は友達を警察に売ったと思うだろう。それはマズい。何か別の方法--。

 目の前に置かれた電話が鳴った。

 「はい。生活安全課」波多野は手を伸ばして受話器を取った。

「波多野か?」副署長のダミ声が耳に響く。一階にある司令室からだと分かった。

「はい」

「緊急通報が入った。君津南中学で何かあったらしい」

「えっ」今、その中学のことを調べていたところだ。

「事故か事件なのか、まだ詳しいことは分からない。怪我人がいるらしい。たぶん生徒だろう。そっちで誰か出られるか?」

「自分が行けます。ほかに誰か見つけて現場へ急行します」

「わかった。頼んだ」

 波多野正樹は重い気分になった。これが放火事件と何か関係があるんだろうか? という疑問が頭に浮かんだ。いや、それはないと思う。ただの偶然だ。そう理性で否定しようするが、刑事の勘とは違う霊感みたいな勘が頻りに反対のことを強く訴えていた。

 怪我をしたのは二年B組の生徒かもしれない。もしそうなら、これは始まりだ。もっと大変なことが、これから起きるに違いない。お前に、それを止められるか? 

 

   39

 

部落差別を残そう、と訴えているとしか受け取れない、今どき『部落差別をなくそう』と書かれた君津市役所の大きな看板の前の交差点を左折して、陸橋を通り越すと、そこは五十嵐香月の家がある畑沢地区になる。

 二年B組の担任を務める加納久美子は、放課後に彼女の母親から呼び出された。家庭訪問ではないし、普通であれば生徒の家までは行かない。行く必要がない。しかし、この場合は特別だった。

 五十嵐香月の母親は切実に訴えた。「加納先生、お願いです。こちらに来て一緒に娘を説得してください」

「お母さん、落ち着いて下さい。どんな用件なのか詳しく言って下さらないと、こちらとしては学校の仕事もありますし、勝手には動けません」

「先生、お願いです。主人は単身赴任しています。わたし一人だけなんです」

「わかりました。では、どんな用件なのか教えて下さいませんか」

「……」

「お母さん?」

「電話では言えません」

「では、お二人で学校へ来られませんか?」

「できません。こんなこと、とても……」

「申し訳ないですが、こちらは用件が分からないと動けません」

「……」

「お母さん?」事情を詳しく聞こうとすると母親は黙り込む。

「加納先生」

「はい」

「先生、娘が……。香月は--」最後の言葉を口にすると母親は泣き崩れた。

「……」加納久美子は驚いて、すぐに返事ができなかった。しかし大きな問題であることは理解できた。「今、すぐ行きます」そう言って電話を切った。

 家庭に問題が起きていて今から五十嵐香月の家まで行きたい、と教頭先生と西山主任に言って許可をもらう。どういう用件で、と説明を求められたが、よく分からないと答えた。当然、行く必要があるのかと二人は訊いてきたが、とにかく行かせて下さいと押し切った。それしか方法がない。秘密厳守が第一だった。

 安藤紫先生にも一言、声を掛けた。「もし何かあったら連絡して」

「わかった。ミスター・ムーンライトね」

「え? ……あ、そう。うふっ」

 言われて思い出す。先日、携帯電話の着信音をジョン・レノンの歌声に変えたのだ。嬉しくて、真っ先に報告したのが安藤先生だった。その場で彼女に電話を掛けてもらって、ちゃんと鳴るか二人で確認したのだ。すごく気に入っていた。ジョン・レノンの曲は全てが好き。『MOTHER』は聴くと涙を堪えられない。

 『ミスター・ムーンライト』は冒頭で、いきなりジョン・レノンが叫ぶところがカッコいい。そこを携帯の着信音にしたのだ。電話が掛かってきたらジョン・レノンが教えてくれる。なんて楽しい。

 フォルクス・ワーゲン ポロのイグニッションを回すと同時にステレオがオンになって、スピーカーからレッド・ツェッペリンの『カシミール』が流れ出した。好きな曲だけど今の状況に合わない。イジェクト・ボタンを押してカセットを取り出した。音楽を聴く気分じゃなかった。

 ああ、荷が重い。自分が行って何かしらの助けになるのか分からなかった。ただ母親は担任教師の加納久美子を必要としている。女生徒の家に足を運ぶしかない。

 県道から横道に入ると、そこは同じようなモダンな家々が並んでいた。ニュータウンといった感じだ。車の速度を落として番地を確かめながら進む。

 先日、板垣順平の母親から聞かされた、息子の異常な行動が頭から離れなかった。その後は、どうなっているのだろう。その件に関して母親から二度目の連絡はない。ただ学校での彼の様子に何の変化はなかった。普段どおりだ。機会を見つけて生徒に声を掛けようと考えていた。

 篠原麗子の家では、義父が何かしらのトラブルで大怪我を負ったらしい。その日から彼女は学校を休んでいた。精神的にショックを受けているらしい。

 そして今日、五十嵐香月の問題が持ち上がった。あの子の将来が掛かっていた。しかし、その問題に対して加納久美子は無力感しか覚えない。自分の手に余ると思った。

 勉強を教えることだけじゃない。次々と生活に関係する難しい問題の相談を受けた。ところが、こっちは大学を卒業して社会人になってから何年も経っていない未熟者だ。先生と呼ばれて頼られても困ってしまう。

 教師になって良かったのか、ずっと頭を悩ましていた。英語を教えているのか、それとも英語嫌いを育てていのか分からない毎日だった。原因は試験の為にする勉強だからだ。生徒は学ぶ楽しさなんて味わえない。高い点数を取った時の喜びだけだ。それは勉強じゃない。学習してもテストが終われば忘れてしまう知識だ。

 授業中に最も多く生徒から質問されるのが、「先生、それ試験に出ますか?」だった。教師にとって、やる気を本当に失わせる言葉だった。

 きみたち、こんなの勉強じゃない。こんな勉強は意味がないの。試験の点数なんか忘れて学習するのが、本当の意味での勉強なんだから。

 そう声を大きくして生徒たちに訴えたかった。もし実行に移したら父兄の反応は目に見えている。加納久美子は教師として失格、その烙印を押されるのだ。

 英語の受動態を教える時は、特に疑問を持った。多くの生徒が日本語の文章を受身に出来ないのに、英語の受動態を教えて理解できるはずがないだろう。

 英語を義務教育で教えるべきじゃないと思う。文部省は英語教育から手を引くべきだ。せめて受験科目から外してほしい。中学の三年間を掛けて勉強していながら、ほとんどの生徒が英会話が出来ないまま卒業していく。それって語学の学習なの? 

 学校で教えるのを止めれば、きっと英語嫌いはいなくなる。みんなが危機感を覚えて、英語の学習に一生懸命になるはずだ。

 ある母親は強く加納久美子に訴えた。「先生、しっかり基礎を教えてやって下さい。お願いします」

 なんと返事していいのか分からない。困惑した。ただ頷いて、その場を無言で乗り切るしかなかった。後で考えてみると答えは、「すべてが基礎です」だった。あの場面で、それを口にしたら相手が理解してくれるかどうかは疑問だ。

 父兄から最も多く問われる質問は、「先生、息子が勉強しなくて困っています。どうすればいいですか?」だった。

 答えは簡単で明瞭だ。いつも加納久美子の頭の中にあった。ただし口に出しては決して言わないだけだ。

 「お子さんを勉強好きにしたいのであれば、まず御両親が勉強を好きにならなくてはいけません」

 大学の在学中に学習塾の講師としてアルバイトをしていた。何人かの母親に自分の意見を率直に言ったことがある。彼らの反応は、すぐにその顔に現れた。

 ︵なんて生意気な女だろう。先生だからって威張っているんだ︶

 それ以来、加納久美子は父兄に対して言葉を選んで口にすることにしている。

 文部省と教育委員会には疑問が多くあった。決定的だったのは神戸連続児童殺傷事件での対応の仕方だ。犯人の中学生には、母親の愛情に飢えていたと決めつけた。たかがそんな理由で、あんな犯行に及ぶだろうか? あり得ない。

 事実を覆い隠して、誰もが納得して理解しやすい答えを無理やり貼り付けたのだ。こんな悲惨な事件が再び起きないようにと、全国の児童には植物を植えて育てる事と組み体操を奨励した。命の大切さ学んでもらうのと、一緒に演技をすることでお互いが支え合っていることを意識させる為らしい。

 久美子にしてみれば無駄なことだった。そんな対応をマスコミが受け入れているのが信じられなかった。つまり日本の社会は、サイコパスという障害を認めないらしい。事実に向き合わないで目を背けるのだ。

 疑問や不満は数知れない。これから先、こんな世界で自分が生きていけるのか自信を失いそうだった。

 父親が生きていてくれたらと切に思う。彼こそが全てを曝け出して相談できる唯一の人間だった。幼少の頃から母親よりも強い影響を受けた。久美子に読書の楽しさを教えてくれた。音楽のテイストは、ほとんど同じ。水泳、スキン・ダイビング、ウインド・サーフィンは父親仕込みだ。 

 きっと娘ではなくて息子が欲しかったのに違いない。しかし父親は一度も、それについて不満を口にしなかった。

 レンタル・ビデオ店で借りてきて映画も一緒に観た。黒澤明監督の『用心棒』と『椿三十郎』以外は全てが洋画だ。小学校の高学年になると、同じ映画を三回も続けて鑑賞したことが何度かあった。一回目は映像を主に見る。二回目は字幕を読むことに集中。最後は字幕を見えなくして映画を楽しむのだ。彼なりの英語の英才教育だった。

 その甲斐あって、高校になると久美子の語学力は父親を凌ぐ。理解するのに余裕が生まれて、映画鑑賞で別の楽しみを見つけた。横目で父親が映画に夢中になっている姿を見るのが楽しい。子供みたいに喜んでいるのを目にすると、久美子自身も嬉しくなった。

 

 番地が生徒の家に近いことを示す。スピードを落とした。加納久美子は思いを過去から直面する問題へと移す。と同時に女子生徒の母親が最後に口にした言葉を頭の中で繰り返した。

 『香月は妊娠しています』

 妊娠という言葉が久美子の胃に突き刺さる。なんてこと! 彼女はまだ十四歳の少女にすぎないのに。

 五十嵐と書かれた表札を見つけた。ここだ。人目を引く洋風の家だった。外壁はサイディングで、ツーバイフォーで建てたように見えた。屋根付きのガレージにはフォルク・スワーゲンの白いゴルフが佇む。

 「加納先生、お呼び立てして申し訳ありません。来て頂いて本当に感謝しています」

 玄関のベルを押すと、すぐに母親が迎えてくれた。顔色が悪い。憔悴しきった様子だ。リビングに通されると、五十嵐香月がソファから立ち上がって会釈した。言葉はない。不機嫌そうだ。

 カーテンと家具がグリーンとブラウンを色調にして上手にコーディネートしてあった。女性らしい優しい演出。娘のセンスがいいのも頷ける。こういう家で育てば当たり前だろう。大型テレビの横には、BOSE製の黒い小型スピーカー 101イタリアーノを見つけた。単身赴任している父親の影響は、ステレオと駐車場にある白いフォルクス・ワーゲンだけらしい。

 三人が腰を下ろすと、さっそく母親が口を開いた。「香月、よく聞いて。子供を産んで育てるなんて、思っているほど簡単なことじゃないの。あなたには将来があるのよ。一度の間違いは取り返しがつくわ。お願いだから、お腹の子は堕ろして」

「いやよ、ママ。香月、絶対に産みたい」

「……」重い空気が五十嵐家のリビングを包む。

「さっきから、こんな調子なんです。先生からも言ってくれませんか」

 母親に促されて久美子は女生徒に話しかけた。「五十嵐さん、お母さんの言う通りよ。あなたの歳で子供を育てるなんて、とても大変なことよ」言葉に説得力がなかった。宿った小さな生命を堕ろせなんて、他人の自分が言うべきでないと考えているからだ。

「わかっています。でも産みたいんです」

「……」十四歳の少女とは思えない強い意志にたじろぐ。初めて見る五十嵐香月の姿だった。

「父親は誰なの?」母親が訊いた。

「……」

「お腹の子の父親は誰なのか、お母さんが訊いているの」口調を強めた。

「誰だっていいでしょう」

「そんな事ありません。責任を取ってもらわないと」

「あたしが一人で産んで、一人で育てたいの」

「馬鹿なこと言わないで。そんな事できやしない、中学生のお前なんかに」

「大丈夫、なんとかなると思う」

「無理です」

「……」久美子は口を出せない。二人のやり取りを見守るしかなかった。

「先生」

「はい」

「黒川っていう子は転校生ですか?」

「……」突然だった。驚いて言葉を返せない。一体、どうして?

ここでも彼の名前が出てきた。

「先生」

「は、はい。そうですけど……」まさか。

「その彼と、うちの香月が付き合っていたということはありませんか?」

「わかりません」きっぱりと答えた。そこまで生徒の行動を把握できない。

「一度ですけど、香月が電話で黒川という子と話しをしているのを聞いたんです」

「……」

「香月、その子の父親は黒川っていう転校生なんでしょう?」

「……」女子生徒は母親と目を合わさなかった。

「やっぱりそう?」

「違うわ」

「じゃ、誰なの? 相手にも責任があるんだから、こういう事は」

「言わない」

「五十嵐さん、あなた一人で解決できる問題じゃないのよ」久美子も口を添えた。あまりにも頑な女子生徒の態度に呆れてしまう。

「いい加減にしなさい、香月。加納先生だって--」

 『ミスター・ムーンライト』

 加納久美子の携帯電話が鳴った。何事かと、驚いて母親が途中で口を閉じた。

 「あっ、すいません」謝るしかない。急いでポケットから取り出して応答した。ジョン・レノンの着信音は早急に変えないといけない。そう痛感した。やはり安藤先生からだった。学校で何かあったのか? 「もしもし」

 「加納先生、まだ五十嵐さんの家に居るの?」口調が早い。

「え、……そ、そう」何かあったらしい。

「すぐに学校へ帰ってきて」

「どうしたの?」携帯を握る手に力が入る。

「佐野隼人くんが教室の窓から転落したみたい。意識がないの。救急車は呼んだわ」

「えっ、まさか」つまり校舎の三階からっていうこと? 

「お願い、早く戻ってきて」

「わかった。すぐに帰るから」加納久美子は携帯電話を閉じた。二人が訝しげに自分を見ている。「すいません。学校で何かあったらしくて、すぐに戻らなければいけません」

「……」母親は無言だった。どうして、こんな大切な時に? うちの問題よりも優先すべき問題なんて、この世に有り得ません。彼女の厳しい表情から、そう読めた。

「すいません、失礼します」久美子はソファから立ち上がった。

「先生、また来て頂けますか?」

「もちろんです」力になれるとは思わないが、そう答えるしかなかった。

 「加納先生」

 リビングから出て行こうとしたところだった。後ろから五十嵐香月に声を掛けられた。口調が今までと違う。久美子は足を止めて振り返る。「え、なに?」もしかしたら考え直してくれたのかしら。

 女生徒もソファから立ち上がっていた。改めて、その華奢な身体に新しい生命が宿っていることに驚きを覚える。十四歳の少女は自分の腹部に,優しく手をやって言った。

 「双子なんです。うふっ」

 途方に暮れてしまう。五十嵐香月の顔には喜びが溢れていた。まるで待ち望んでいた赤ちゃんを授かって、幸せの絶頂にいる母親のようだった。

 ああ、この子には何も言っても無駄だ。本当に産む気でいる。そう確信した。加納久美子は返す言葉がない。何も聞かなかった振りをしてリビングのドアへと向かう。佐野隼人の容態が心配だった。無事であってほしい。

フォルクス・ワーゲンのアクセルを踏んだところで、彼が職員室で黒川拓磨に対して言った言葉が不意に頭の中に蘇った。

 『あいつ、怪しいです』

 

   40

 

 「職員室にいたら、いきなり大きな音がしたのよ。何かしらと思っていたら、すぐに外で誰かが大変だって叫び始めたわ。驚いて校庭に出て行ったら佐野くんが倒れていたっていうわけ。もう信じられない」安藤先生が何度も首を横に振りながら説明してくれた。

 加納久美子が君津南中学に戻ってみると、すでに救急車とパトカーが到着していた。佐野隼人の姿はなかった。車の中に運ばれたらしい。運転席で隊員が連絡を取っているのが見えた。現場は騒然としていた。

「佐野くんの意識は戻ったの?」久美子は訊いた。

「いいえ」安藤先生が大きく首を振って答える。

「助かるかしら?」

「わからない」

「三階から落ちたのは確かなの?」

「たぶん」

「……」気が重くなった。「でも、どうして?」

「わからない。だけど二年B組の教室には二人でいたみたい」

「えっ、誰なの、もう一人は?」

「佐久間渚よ」

「どうして、彼女が?」

「交換日記をしていた仲だって。でも何日か前に佐野くんは教室で彼女に怒鳴ったらしいの」

「佐野くんが窓から落ちたのを、佐久間さんは見ていたのね?」

「わからない」

「どうして? 二人は一緒に教室にいたんでしょう」

「彼女も教室に倒れていたから」

「え?」

「あたしと西山先生が発見したの。彼女は少し意識があったけど、何を訊いても答えられない状態だった」

「何で?」

「だいぶ前から体調を壊していたみたい。視力も聴力も弱っているらしいの。病気を隠していたんじゃないかしら。一緒に救急車に運ばれたわ」

「……」信じられない。どうして二年B組の生徒が次々と……。そんな思いだった。

 「加納先生ですか?」

 スーツ姿の男性が近づいてきて声を掛けられた。知らない男だった。誰だろう。「はい」

「君津署の波多野です」そう言うと、手にした黒い手帳を開いて見せた。

「あ、すいません。二年B組の担任をしています、加納久美子です」まさか警察の人とは思わなかった。痩身で身のこなしが軽そう。骨格がしっかりしていて、まるでアスリートみたい。

「息子が御世話になっています」

「え?」

「波多野孝行の父です」

「まあ、波多野くんのお父さんですか。初めまして」息子とは似ていないと思った。

「こちらこそ初めまして。これから二年B組の教室を見たいのですが、一緒に来て頂けますか?」

「わかりました」

 いろいろと佐野隼人と佐久間渚について聞かれるんだろう、と覚悟した。でも何も知らない。二人が交換日記をしていたなんて今、知ったばかりだ。警察には役に立てそうもなかった。

 刑事二人と君津南中の教師四人、教頭と学年主任の西山先生、加納久美子と安藤先生が校舎の三階へと上がって行った。

   

   41

 

 とっさに、いい考えが頭に浮かんだ。

 叫び声がして校庭に出てみると、二年B組の佐野隼人が倒れていた。みんなで声を掛けたが何の反応もない。目が死んだ魚のようだった。首は不自然な形で曲がっている。これは助かりそうもないと分かった。

 救急車を呼ぶと直ぐに、安藤紫は担任の加納先生に連絡した。そのことを西山主任と高木教頭に伝えると、ふと思いついて一人で三階の教室まで足を運んだ。本当に窓から落ちたのか確認しようと思ったのだ。

 暗い教室の隅で女生徒が倒れているのを見つけて、心臓が飛び出すぐらいに驚いた。近づいてみると、それが佐久間渚だと分かって更に驚く。まあ、なんてこと。

 声を掛けてみると、返事が出来ない状態だった。うわ言で何か言おうとしているが聞き取れない。

 ペナルティの白い粉を飲ませ過ぎた、と思った。これでは死んでしまう。生きたとしても廃人と同じだ。

 意識はハッキリしたまま、様変わりした自分の醜い姿に苦しみながら生き続けて欲しい。お前の母親と祖母の行いの代償だ。家族みんなが辛い思いに打ちのめされたらいい。それが安藤紫の目的だった。

 ベンツの男に結婚の意思がないと分かって、その腹いせに大目のペナルティを一度に飲ませた調子でやったしまった。

 きっと佐久間渚は病院に運ばれる。医者は毒を盛られたと診断するだろう。警察へ通報されたら、自分が疑われるのは間違いなかった。

 冗談じゃない。これは復讐だ。酷い目に合わされたから、それ相当の苦痛を相手に与えてやろうとしただけだ。何も悪いことはしていない。だから警察には捕まりたくない。自由のままでいたい。まだ素敵な男を見つけて幸せな家庭を築いていなかった。

 いい考えが浮かんだのは、その時だ。すぐに安藤紫は行動に移った。

 急いで職員室へ行って机の引き出しから、ペナルティの小さなビニール袋を取り出した。ハンカチで表面を丁寧に拭く。付着しているかもしれない自分の指紋を消すためだ。

 親指と人差し指にセロテープを貼ってから、ペナルティを持って二年B組の教室へ向かう。佐野隼人のカバンを見つける。その中にペナルティを入れる前に、ハサミでビニール袋に小さくカットを入れた。カバンの中に少しこぼれていた方がいいと判断したからだ。

 二人は交換日記をしていたが最近は上手くいっていなかったらしい。好都合だ。佐野隼人は佐久間渚に毒を飲ませた罪意識から自殺を図った、そういうストーリーを警察が描いてくれることを願う。死人に口なし。

 安藤紫は工作が終わると、佐野隼人が倒れている現場に戻った。

「すいません。気分が悪くなってトイレに行ってました」みんなに聞こえるように言った。少し間を置くと西山主任に声を掛けた。

 「あたし達で三階の二年B組の教室へ行ってみたらどうかしら。ここに何人も集まって救急車を待っていても意味ないもの」

「え、……そうだな。そうしようか」

 安藤紫は後ろから付いて校舎の階段を上がっていく。完全に男の西山先生に頼っているという態度を装った。彼には、倒れている佐久間渚の第一発見者になってもらいたかった。自分は表に出たくない。警察の事情聴取なんか受けたくなかった。

 刑務所なんか入れられたら人生は終わりだ。冗談じゃない。そんなこと絶対にイヤだ。素敵な男を見つけて幸せな家庭を築きたい。あたしには、そうなる権利があるんだから。

 

   42

 

 お姉ちゃん。

 お姉ちゃんっ。

 お姉ちゃんったら。

 夢の中で誰かが土屋恵子を呼んでいた。だんだん声が大きくなっていく。うるさい。もう黙ってほしい。

 あいつだ。あのバカだ。小学四年の弟に違いなかった。え、夢じゃない。現実だ。あの野郎、ふざけやがって。こっちはいい気持ちで寝ているのに……。もう一度呼びやがったら--。

 「お姉ちゃんっ」

 畜生、もう頭にきた。部屋のドアまで叩き出しやがって。起きるしかない。ぶん殴ってやろう。え? 何かへん。

 あったか過ぎる。熱いぐらいだ。メラメラと何か燃える音が--。ぎゃっ、火事だっ。や、やばいっ。

 「お姉ちゃん、起きてっ」

「わかった。起きた」土屋恵子は大声で返事した。

「早く逃げないと」

「今すぐ行く」

「早くっ」

「すぐ行くから。お前は一人で逃げて。お姉ちゃんも、すぐ逃げるから」

「本当?」

「待ってなくていい。お前は急いで逃げろ」

「わかった。お姉ちゃんも早く来てね」

「そうする」

 煙が凄い。だめだっ。電気が点かない。こうなったら手探りで探すしかない。

 山岸たちバカどもから、ふんだくった金は部屋の三箇所に隠してあった。兄貴と弟に見つかると盗まれるからだ。兄の高志は下着泥棒をして警察に捕まってから、袖ヶ浦で水道工事会社を経営する親戚の家に預けられていたが、ときどき帰って来やがる。

 多くの男が女の着ている衣服が好きなのには呆れるほどだ。恵子は手塚奈々の汗で濡れた体操着を盗むことで、A組の木畑耕介から金を受け取っていた。彼は木畑興業の一人息子で、たんまり小遣いを貰っているらしくて気前がいい。一回につき一万円をくれた。盗んだ翌日には見つからないように元に戻す、という面倒な仕事だったが引き受けた。

 手塚奈々の、あのバカ女の、汗まみれになった体操着を何に使うのか分からないが、そんなことは知りたくもない。どうせ、エッチなことだろう。しっかり金さえ払ってくれたら、それでいい。

 熱いっ。火の粉が舞っていた。こりゃ、やばい。早くしないと。枕の下の財布を掴んで、タンスの中から二万円を取り出すので精一杯だった。漫画本に挟んだ一万五千円は諦めるしかなかった。また理由をつけて山岸たちに請求すればいい。そうだ、見舞金という名目で、たんまり金を出させよう。

 ドアのロックを外して、二階の廊下に出ると黒い煙が充満していた。下から声がした。「恵子っ、大丈夫か?」父親だった。

 「大丈夫」

「早く降りて来いっ」

「今、行くっ」

 土屋恵子は息を止めて、目を閉じた。何年も住んだ家だ、見えなくたって階段を降りて玄関まで行ける。床は熱かったが我慢して進んだ。

 一万五千円が悔しい。燃えて無くなってしまうのだ。あの金でROXYのダウンコートを手に入れようかと迷っていたのだ。買っちまえばよかった。

 裸足のまま外に出た。「お姉ちゃん」、「恵子っ」と声を掛けられて家族に迎えられた。みんな着の身着のままだ。弟のパジャマが所々だけど黒い。焦げたんだ、きっと。大事そうに『少年ジャンプ』を脇に抱えていた。

 バカか、お前は。この状況で、どこで読むんだ、そんなモノ。やっぱり、こいつは救いようがない。そう土屋恵子は思った。

 「何やってたんだ。心配したぞ」父親だ。

「ご免なさい」

「恵子、良かったね」母親が抱いてくれた。泣いている。

 最後の一人娘が助かって家族はホッとした様子だ。だけど危なかった。もう少しで死ぬところだった。さっきまで住んでた家が目の前で激しく燃えている。風が強い。隣にも火が移りつつあった。もう大火事だ。土屋恵子は今になって体がブルブルと震えてきた。目から涙も溢れてくる。怖かった。 

 「ねえ、オバアちゃんはどこ?」

 弟の一言に両親と姉は凍りつく。

 

   43

 

 さすがだ。たいしたもんだ。やっぱり古賀千秋は只者じゃなかった。リーダーになるべくして生まれてきた人物だ。彼女にとっては君津南中学の生徒会長なんて、ひとつの小さな通過点でしかないだろう。いずれは代議士になって、たどり着く地位は日本国首相かもしれない。

 成績が優秀で二年B組の学級委員に選ばれて凄いと思ったが、それが彼女のすべてじゃなかった。山岸たちと一緒に万引きを始めると、もっと、もっと優れた一面を小池和美は見せられた。

 「前田、ただボケっと周りを見ているだけじゃダメだ。少しは動いて、常に店員の様子を把握しろ」

「相馬、むやみやたらに盗めばいいってもんじゃない。出来るだけ高価で、売りさばき易いモノを取るんだ。頭を使え」 

 万引きをして僅か二日目でリーダーシップを握った。的確な指示を二人に出す。本人は山岸涼太と恋人同士を装って、イチャイチャしながら店員の注意を引く。お互いの体を寄せ合うの当たり前で、ここっていう時にはキスまでして見せた。好きでもないのに、よくあんな態度が取れるもんだと感心してしまう。自分の仕事に徹しているんだろう。それでいて、しっかり高価な商品を誰にも見られずにポケットに忍ばせたりしてる。店員の目だけじゃない、仲間の目も誤魔化すほどの凄腕なのだった。さすがだ。

 小池和美は図体が大きいので、立っているだけで人目を集めた。

「あんたは、あんまり動かなくていい。商品を選んでいる振りをしながら、相馬太郎を店員から見えなくして。それから仕事の時だけは、その白いメガネを外して。目立ち過ぎちゃうから」古賀千秋からの指示は、それだけだった。

 もっと役に立ちたいと思った。それじゃ、アホの前田良文と変わりがない。不満だ。あたしは、もっとマシなのに。

 それと小柄な相馬太郎の後ろを歩いて階段を降りる時は、奴の背中を押して突き落としてやりたい衝動を抑えるのに苦労した。背の低い男を見ると攻撃的になる性格は、どんどんエスカレートしていく。

 万引きを手伝って、それなりの報酬を貰っても嬉しくない。古賀千秋みたいに生き生きとした表情になれなかった。

 それにしても彼女は凄い。勉強だけでなく、万引きも上手に出来た。何をやっても成功するタイプらしい。きっと初の女性総理大臣は小池百合子でも野田聖子でもなくて、古賀千秋で決まりだろう。

 え、待って。こりゃ、もしかして大変だ。

 彼女が総理なら、君津南中学で書記を務めてる自分は、このまま一緒に付いて行けば官房長官てことになりそう。何の取り柄もない自分が閣僚の一人になるなんて、これは大出世だ。でも人前で話すのは苦手。参った、なんとか克服しないと。

それから絶対に痩せないとマズい。二十キロ近くまで体重を落とせば、きっと藤原紀香に似た美人が官房長官に就任するので、マスコミは大騒ぎだ。古賀内閣の顔として世間の注目を集めるのは間違いない。しかし太ったままだと何かしくじりそうで不安だ。

 就任の記者会見では、「ただ今、官房長官の職を拝命いたしました小池和美です。よろしくお願いします」てなことを言わなきゃならない。すると「今後の抱負を聞かせて下さい」なんて、どっかの新聞記者が質問してくるんだ、きっと。そんな想定内の会見で終わってくれたら幸い。

 怖いのは、礼儀の知らない田舎者がこんなことを言ってきたときだ。「官房長官は、スタン・ハンセンに似ていませんか?」

 全国放送だぞ。ふざけんなっ。日本の国民に向かって、小池和美はスタン・ハンセンに似ているって公表しているようなもんじゃねえか。バカヤロー。

 「え? 誰ですか。さあ、そんな名前は聞いたことがありませんよ。プロレスは見ませんから」と、とぼけるしかない。

 え、……待って。これって嘘がバレバレじゃん。だってスタン・ハンセンがプロレスラーだって知っているって白状していのと同じだもの。ヤバいっ。

 こりゃ、いきなりスキャンダルになりそう。国会は税制改革みたいな重要法案を通すどころか、官房長官の就任記者会見での虚偽答弁を問題視して野党が審議を拒否。小池和美は閣僚としての資質に欠ける、の大合唱。マスコミは一斉に実家を直撃取材だろう。

 あの父親のことだからテレビに出られるとなったら、ポマードで髪を固めてダーバンのスーツに着替えてから、マイクの前に立つのは間違いない。もうスター気取りだ。しっかりサングラスも掛けているかもしれない。そして意気揚々とインタビューに答えながら娘を、マスコミに売り渡すに決まっている。

 「そうなんです。あの記者会見を見て、私もヘンだなと思いました。なぜなら娘は中学二年になると熱心なプロレス・ファンになって、いつもスタン・ハンセンを応援していたからです。ずいぶん憧れていたんでしょう。だって風呂場にある鏡の前に立って、ラリアットの練習を一人でしていたのを何度も見ています。まあ、父親の私が言うのも何ですが、なかなか様になっていましたよ。あれを食らったら普通の人なら気絶するなと思いました。お前は政治家なんかよりも女子プロレスラーになるべきだって、助言したこともありましたが耳を貸してくれませんでした。あいつは言い出したら聞かない性格で……あはは、私に似たんでしょうか」

「お父さん。確認しますが、小池官房長官が少女時代に風呂場の鏡の前で、ラリアットの練習をしていたっていうのは間違いないですか?」と、記者の一人が訊く。

「はい、そうです。私だけじゃありません、妻も何度か目にしています。なあ、お前?」

「ええ、そうですとも。ラリアットはスタン・ハンセンなんかよりも、ずっと和美の方が上手です」

 一人娘を褒めているつもりだろうが、実は逆に窮地へ追い詰めていると理解できない母親だ。政治はちんぷんかんぷん、興味があるのはスーパー・マルエツの特売チラシと韓国ドラマだけ。悲しくなるが、それが小池和美の母親だった。

 「ありがとう御座いました。いい取材ができました」

 両親の言葉が翌日の朝刊に一面トップで掲載されると、野党は追及の手を強める。古賀内閣は発足して早々に官房長官が辞任に追い込まれる事態になるのだ。それでも問題は収まらず、次に首相がマスコミと野党から任命責任を問われることになっていく。ああ、いやだ。こんな大切な時に古賀千秋の足を引っ張りそう。

 記者会見って難しい。あたしがもう少し頭が良くて、もう少し体が小さくて、もう少し痩せていたらいいのに。

 ダメな女だ、あたしは。太ったままでは自分は古賀千秋のお荷物でしかない。役に立ちたい、認めてもらいたいと願っても、その能力は皆無に等しい。

 ところが、だ。そんな小池和美の沈んだ気持ちを逆転させる場面が突然やってきた。

 場所は君津駅前にあるカトーヨーカ堂だ。二階で衣料品を万引きしようと全員が配置につく。この日は、先週が雨で仕事ができなかったので気合が入っていた。今日は稼いでやろう。口には出さないが、みんなが同じ気持ちだ。

 男三人は、家が全焼して土屋恵子が学校に来れなくなったことを喜んでいた。彼女は袖ヶ浦の親戚の家に身を寄せているらしい。

 「これからは稼いだ金はオレたちで好きに出来るんだぜ」と、相馬太郎が前田良文に言うのを耳にした。

 どういう意味だろう? あとで古賀千秋に訊いてみようと思ったが、そんな事がどうでもよくなるほどの事態が起きてしまう。

 次の店に移ろうとしたところだった。前田良文の声がした。

 「あ、あ……。は、はら、腹が減ったーっ」

 仲間に緊張が走った。『腹が減った』とか『お腹が空いた』は合言葉で、ヤバイから逃げろという意味だ。古賀千秋が提案したルールの一つだった。

 全員が同じ方向へ逃げてはいけない。これも決まり事だ。男連中はバカでも、やっぱり足は速い。一目散に、その場から消えた。

 小池和美は体が大きくて足は遅い。だけど慌てなかった。ただの見張り役で万引きには直接に加わっていない。もし店員に捕まったとしても、一人で買い物に来ていただけですと釈明すればいい。

 気掛かりは上司と言ってもいい、もう彼女はクラスメイト以上の存在だった、古賀千秋のことだ。無事に逃げてほしい。

 その姿を目で追った。その時、小池和美の視界に古賀千秋の後ろを走る制服姿の女が入った。えっ、まさか警備員かよ。そうだ、きっとそうだ。「待ちなさいっ」その女の声。

 こりゃ、ヤバいっ。

 反射的に足が前に出た。小池和美は警備員の女を走って追いかけた。この野郎、ふざけたマネしやがって。止めさせないと。頭の中では自分たちが正義で、警備員は悪者だった。

 「待ちなさい」女は大きな声で周囲の注意を引こうとしていた。

 ばか野郎、騒ぐんじゃねえ。警備員が古賀千秋との距離を、どんどん縮めていく。やっぱりプロだ。こいつは動きが違う。どこへ犯人が行くか知っているみたいだ。このままでは捕まってしまう。何とかしないと本当にヤバい。あたし達二人が描いている、二年B組の学級委員から君津南中学の生徒会長という出世コースから外れてしまうじゃないか。

 古賀千秋が階段を降りていく。そのすぐ後で警備員の女は踊り場から階段へ足を下ろそうとするところだった。小池和美は何も考えていなかった。ただ七十三キロの体が無意識に動く。いきなり飛び上がって、憎らしい警備員の女の背中に強烈なドロップ・キックを浴びせたのだ。

 「ぎゃっ」

 警備員は爆風に吹き飛ばされたみたいに体を浮かして、階段下の床に叩きつけられた。衝撃で近くにあったスタンド・タイプの灰皿が倒れた。大きな金属音。飛び散るタバコの灰と吸い殻。

 その音に、逃げようと必死だった古賀千秋が足を止めて振り返った。何事かと思ったに違いない。しかし一瞬で状況を理解したようだ。二階の踊り場で横たわっている小池和美に向かって、親指を立てて頷いて見せたのだ。顔には笑みが。そして走り去った。

 助けられた、と分かってくれて嬉しかった。小池和美は起き上がった。満足感でいっぱいだ。

 手柄を立てられた。上司を窮地から救ったのだ。これからはパシリじゃなくて対等に扱ってくれるかもしれない。

 それと無意識に、ドロップ・キックという難しいプロレス技が出せたことが驚きだった。何の練習もしていないのに、だ。風呂場の鏡の前で真似していた、ラリアットやエルボー・ドロップとは訳が違う。それに、あの場面ではドロップ・キックしかなかった。それも見事に命中だ。女の警備員は倒れたまま身動き一つしない。まさにKO勝利だった。あたしって何だか凄い。

 テレビで見ていただけなのに体は技を習得していた。才能があるのかしら、あたしって。

 人を階段から突き落とすって楽しい。何度でもやりたい。この場所から直ぐに立ち去るなんて、なんか勿体ない。ずっと勝利の余韻に浸っていたかった。カトーヨーカ堂の店長によるヒーロー・インタビューがあってもいいくらいだ。

 「見事なドロップ・キックでした。あの経験豊かな警備員を秒殺ですよ。今の気持ちを、お願いします」

「友達を助けられて嬉しいです」

「いつか決めてやろうと狙っていたんですか?」

「いいえ、無意識でした。だけどあの場面では、あれしかなかったと思います」

「今日の劇的な勝利は買い物客の目に焼きつきました。次の試合への意気込みを聞かせて下さい」

「今度は必ず得意のラリアットで決めたいです」

「期待しています」

「がんばります」 

 余計な空想に耽って、それが命取りになった。他の警備員たちが現場にやってくる時間を与えてしまう。

 小池和美は不意に男の警備員二人に体を押さえられた。あっ、何すんのよ? 力が強くて逃げられそうにない。もしかして捕まったんだ。こりゃ、マズい。

 何かドロップ・キックを浴びせた理由を、デっち上げなきゃならない。そう思ったが、すごく嬉しくて何も考えられなかった。プロレスって見るのも楽しいけど、やるのはもっと楽しいのがこれで分かった。店の事務所へ連れて行かれるというのに、小池和美の顔からは笑みが消えなかった。

 

   44

 

 古賀千秋は一階に降りると走るのを止めた。すぐに出口へは向かわないで店内を歩いて、買い物客の中に紛れ込んだ。慌てて逃げ出すほどバカじゃないさ。

 これで安心。上手く逃げられた。しかしヤバかったな。危うく優等生という評判にキズがつくところだった。

 今回は小池和美のお陰だ。間違いない。あいつが、あそこで警備員の女に飛び蹴りを食らわせてくれたから助かったのだ。

 その瞬間は見れなかったが、あの音と気絶した警備員の姿からして、相当な破壊力だったに違いない。あの子、なかなか使えそう。これからは、もう少し優しく接してやろうかと考え直した。パシリ卒業だ、おめでとう。

 危機が去って落ち着くと、お腹が空いてきた。食料品売り場の商品を目にして食欲をそそられたらしい。家に帰って何か食べようと考えた。

 小池和美がどうなったか気になったが、あの女のことだから心配ないだろうと、すぐに忘れた。

 カトーヨーカ堂の出口へと向かう。すっかり自信を取り戻していた。あたしは不死身だ。どんな時でも間一髪で窮地から脱出してみせる。女ジェームズ・ボンドと言えるかもしれない。この危機を乗り越えたことで自分が以前よりも賢くなったような気がする。これからはもっと用心して仕事しよう。

 出口の近くで女が一人、誰かを待っている様子で腕時計に目をやって時間を確認しているのが見えた。どことなく美術の安藤先生に似ているなと思った。しかし邪魔な奴だな、そんな所に立っているんじゃねえよ。そう思いながら横を通り過ぎようとしたところだった、突然、その女に片方の腕を力強く掴まれた。えっ、どういうこと? もしかして痴漢? あたしって魅力あるから。

 「自分がした事が分かっているでしょう? これから事務所へ行くから大人しくしなさい。あなた達は店に入ってきた時から目を付けられていたのよ。初めてじゃないことも、こっちは知っているから覚悟した方がいいわ」

 女の言葉に、古賀千秋は息が止まった。この女、店の警備員だ。

私服の警備員。あたしを待ち伏せしていたんだ。え、そんなのって反則じゃない? 天国から地獄。顔から血が引く。全身から力が抜けていく。大人しくしろと言われても、こっちは立っているだけで精一杯だ。捕まった。この、……あたしが捕まった。呆然。

 女は慣れた手つきで腰のホルダーから無線機を取り出すと、喋り始めた。「チーフ、聞こえますか? はい、村上です。今、もう一人の身柄を押さえました。これから事務所へ向かいます。え? 第二事務所ですか。分かりました、そちらへ連れて行きます」

 声が冷たい。何の温かみも感じられなかった。少しは親しみっていうのを示してくれてもいいのに。こっちは万引きで捕まって気が動転しているんだから。

 「身体は大丈夫なの? どこか怪我はしていない?」とか「怖かった?」、それとか「すぐに終わるから安心しなさい」、なんて優しい言葉を掛けて欲しかった。これじゃ、まるで凶悪犯罪者扱いだ。悲しくなってくる。人を殺したわけじゃないのに。

 小さな倉庫みたいな所へ連れて行かれた。空き箱みたいなのが積まれていて、散らかっている。ここが第二事務所っていう場所らしい。中では若い男が一人、机の向こうに腰を下ろしていた。三十歳前後か。もしかして、こいつがチーフ? ちょっと若過ぎない? それに少しだけど、イケメン。

 「そこに座って、盗んだ商品を机の上に出しなさい」すごく事務的な言い方。自己紹介もない。

 古賀千秋は警備員の女が手を離してくれると、言われた通りにした。左のポケットに入っていた安価の靴下を取り出して置く。右のポケットにあったワコールのパンティは、値が張るので隠したままにした。

 「それだけか? すべて出しなさい」

「これで全部です」ウソをついた。身体検査をされたら万事休すだけど。

「そうか」

 あれ、信じてくれちゃった。ラッキー。

 「チーフ、高橋さんの容態はどうなんですか?」女が心配そうに訊いた。

「救急車を呼んだ。意識は戻ったが朦朧としている。自分の名前さえ言えないくらいだ」

「まあ、大変。家族に知らせますか?」

「そうだな、そうしてくれるか」

「わかりました」

「あ、それと、第一事務所へ行ってほしい」

「わたしが、ですか?」

「そうなんだ。何も喋ろうとしない。ときどき笑ったりする。ふてぶてしいにもほどがある。田中が手を焼いているんだ。こっちはオレ一人で何とかするから」

「わかりました」

「頼む」

 殺風景な事務所に三十歳前後のチーフと二人だけになった。連中が話していたのは小池和美のことだと分かった。あの子も捕まったんだ。だけど黙秘しているらしい。

 自分は安い靴下一足を万引きしただけだけど、和美の方は警備員に重傷を負わせたようだ。

 「どうして、こんな事をしたんだ。悪いことだって分かっているだろう?」

「……」古賀千秋は考えに集中して言葉が出せなかった。この状況を、様々な角度から計算していた。なんとか少しでも自分に有利な方向へ持っていけないだろうか、と。 

「黙っていると、きみの立場はどんどん悪くなるぞ」

「あ、……あたし、脅されていたんです」古賀千秋の優秀な頭脳が最良と思える答えを出すのに、それほど時間は掛からなかった。

「え?」

「あの子に、その靴下を盗めって強要されました」

「何だって?」

「あたしは学校で学級委員長をしています。自分から万引きなんてするわけがありません」激しく首を振ってみせた。

「それは本当なのか?」

「あの子は書記なんです。でも体が大きくて腕力が強いから、いつも威張っています。何か気に入らないことがあると、あたしを殴ったり蹴ったりするんです。もう怖くて、怖くて学校へ行けない日は何度もありました」涙を拭いているように手で目を擦った。 

「それはひどいな」

「はい」鼻を啜ることだって忘れない。

「学校の先生には相談したのか?」

「そんなこと、とても出来ません。だって、もしバレたら……、どんな仕打ちをされるか怖くて」手応えを感じた。

「……」若い男は考えている様子だった。

 So far、so good・

 ここで畳み掛けるしかない、と古賀千秋は判断した。椅子から立ち上がるとチーフの男に抱きついた。

 「お願いです、あたしを助けて下さい。あの子に暴力を振るわれるのはもう嫌です」怯えているふうに体を震わせた。そして胸の膨らみを男の肩に押し付けてやった。

 良かった、拒否しない。うふっ。まんざらでもないらしい。男ってホモじゃない限り、若い女の肉体には弱いんだから。

 「わかった、わかったから。落ち着きなさい」

「あたしを助けてくれますか?」胸の膨らみが効いたらしい。

「何とかしよう」

「ありがとうごさいます」やったあ。バンカーからの見事なリカバリー・ショットだ。セベ・バレステロスだって、ここまでは出来まい。父親のゴルフ雑誌で見つけた憧れの人だった。このチーフ、ちょっと似ているところがあって、それで思い出した。

 若い男を手玉に取るのは、テレクラ遊びから習得した技術だ。スケベな男達をあしらうのは巧くなったと思う。

 連中をその気にさせて焦らしたり翻弄するのは、それなりのテクニックが必要だ。中学一年の夏ごろから始めたテレクラ遊びで身についた。やっていて本当に良かった。こんなところで役に立つとは思わなかった。

 テレクラ遊びは古賀千秋にとって、英語や数学と同じくらい大切な知識になった。すべての女の子が生きていく上で身につけておくべきだと思う。中学の必修科目にしてもいいくらいじゃないかしら? もしも自分が文部大臣だったら高校入試に『テレクラ』を加えよう。大蔵省ご用達の『ノーパンしゃぶしゃぶ』があったんだから、文部省が推薦するテレクラがあっても別に悪くないし。

 嘘を信じてくれて、この若いチーフには感謝しかない。『何とかしよう』と言ってくれた、その言葉を確実にさせる為に処女を差し出してもいいかも。

 「女の身体っていうのは、いつか出会う素敵な男性の為に大切にしておくモノなのよ」が、母親の言葉だった。しかし古賀千秋は「男の人って寝てみないと分からない」、と言った女優の杉本彩の言葉を信じていた。だったら処女なんて、そんなに価値があるもんじゃない。この若い肉体が取引のカードに使えるなら利用しない手はないだろう。

 これで何とかダメージは最小限に抑えられたと思う。でも万引きで捕まったのは事実だ。家に帰ってから、どれほど叱られるか想像がつく。きっと母親はヒステリックに取り乱すはず。

 「なんて事をしてくれたのよ」

「もう破滅だ。もう生きていけない」

「これまでの努力が、あんたの所為で全て水の泡だわ」

「どれほど母親を苦しめれば気が済むのよ」

「あんたなんか産むんじゃなかった」

 それらの言葉を繰り返し、繰り返し、延々と聞かされるのだ。うんざりするほど。くど過ぎて母親の説教は反省するどころか、反感しか覚えない。そうだ。だったら叱られる前に、こっちから一発かましてやろうか。

 「お母さん。あたし、もう処女じゃないんだ。木更津のセントラルに映画を見に行った帰りにナンパされて、名前も知らない中年のオジさんと公園のベンチでヤっちゃったのよ」

 こりゃ、いい。警備員のチーフに抱かれたと正直に言うよりも、こっちの方がインパクトが強い。うふっ。母親の失望する顔を想像すると古賀千秋は愉快で堪らなかった。あんたが「子育てに失敗した」って言うんだから、その通りに生きてやろうじゃないか。

 

   45 

 

 黒川拓磨と話すべきだ。そう思っても加納久美子はタイミングを掴めないでいた。

 どう切り出せばいいのかも分からなかった。何を話すの? 何を問い質すの? 

 転校してきたばかりの時は、優秀な生徒が来てくれたと喜んだ。気持ちに変化が起き始めたのは、彼が描いた絵を安藤先生が見せてくれてからだった。理解できないほど暗い絵に言葉が出てこなかった。

 自殺した佐野隼人は、「あいつ、怪しいです」と言った。板垣順平は彼が貸したゲームソフトで、何も映っていないテレビに夢中になっているらしい。娘を妊娠させた相手は黒川拓磨じゃないかと、五十嵐香月の母親は疑っていた。

 その他にも君津南中学二年B組には様々なことが起きた。篠原麗子の家では家庭内の揉め事で義理の父親が大怪我を負う。鮎川信也は下校途中で軽トラックに轢かれた。佐野隼人が三階の窓から飛び降りて自殺。交際していた佐久間渚は毒を盛られて廃人と同じような体にされた。土屋恵子の家は火事で全焼だった。そして学級委員長の古賀千秋と書記の小池和美が、万引きで逮捕されるという信じられない事件が起きてしまう。

 どうして、こうも立て続けに。去年は関口貴久の家が火事で焼けて転校して行っただけだった。言いたくないが、黒川拓磨が転校してきてから、何か歯車が狂ったような感じで次々と事件が起きている。これで終わってくれるんだろうか。

 「一体、二年B組はどうなっているんだ?」

 高木教頭と主任の西山先生からは何度か文句を言われた。その度に「すみません」と謝るしかない。まるで全ての責任が担任をしている加納久美子にあるような、教頭先生の口振りには腹が立つ。

 親身に心配してくれたのは、やはり安藤先生だけだった。

 「何か変よ。そう思わない?」

「ええ、確かに。だけど何が、どうなっているのか想像もつかないわ」久美子は正直に答えた。

「すべてが黒川拓磨が転校して来てからよ」

「その通りだけど。でも、まさか彼がすべてに関係しているとは思えない。証拠だってないし」加納久美子は安藤先生に、板垣順平と五十嵐香月のことを口にしていなかった。

 「あの子は不気味な感じがする。何を考えているのか分からないっていうか……。もしかして何かを企てているみたいな」

「え、何を?」安藤先生らしくない辛辣な言い方に驚いた。

「わからない。だけど、そんな気がして仕方がないの」

「……」口にはしないが久美子も同じ思いだった。

「黒川拓磨と話をしてみたら?」

「何を、どう話せばいいの?」

「何でもいいじゃない。少しでも本人と話をして探りを入れるべきよ」

「……」なんか刑事みたい。初めから彼を疑って掛かろうとしているのが気に入らない。

「あのさ……」回りに人がいないか確認すると安藤先生は小声で続けた。「これは誰にも話していないんだけど」

「なに?」

「佐野くんが自殺した時、あたしと西山先生で二年B組の教室まで上がって行くと、倒れている佐久間渚を発見したって言ったでしょう?」

「うん」それは聞いた。

「彼女は意識を失っていた」

「そう」

「だけど、そうなる前に一言だけ口を開いたのよ」

「え?」

「聞いたのは、あたしだけだった。すぐに西山先生は下へ教頭先生を呼びに行ったから」

「なんて言ったの?」

「彼女は『黒川くんが……』って言ったのよ」

「まさか」

「何とも言えない。あそこで黒川拓磨の姿は見なかったし、彼が佐野隼人の自殺と関係しているとは決めつけられないわ」

「……」

「だけど怪しい。あの状況で彼の名前を口にするなんて」

「わかった。彼と話をしてみるわ」もうそうするしかないと、加納久美子は思った。

「黒川拓磨って前の学校では、どんな生徒だったのかしら」

「……」

「彼の書類が見たいわ」

「待って」加納久美子は腰を屈めて、引き出しから厚いバインダーを取り出すと机の上に置いた。二年B組の生徒全員の書類が閉じてある。

 安藤先生が身を乗り出して表紙を開く。ページを捲り始めた手が止まって、しばらく目を通すと口を開いた。「これって、ちょっとヘンじゃない?」

「どうして? 何が」

「ただ記録だけじゃないの。生年月日と、いつ小学校を卒業したとかだけよ。担任をしていた教師のコメントが何一つ書いてない」

「そう言えば、そうなの」

「ヘンに思わなかった?」

「気になったけど、すぐに忘れたわ」

「あれだけ成績が優秀な生徒だもの、何も書いてないのは理解できない」

「確かに」

「前の学校に連絡して聞いてみたら」

「……」

「あたしがしようか?」

「待って。まず黒川拓磨と話をしてみる。それから考えるわ」黒川拓磨の正体を暴こうとしているみたいな、安藤先生の強い意志には違和感すら覚えた。

「わかった。じゃあ、話したら教えて」

「もちろん」加納久美子は言った。

 

   46

 

 「三月十三日は、どんな具合になっている?」女が黒川拓磨に訊いた。

「順調さ。きっと上手くいく」

「そうかい、それならいいけど。ところで鏡は、どうするつもりだい。そのまま放っておく気なのかい?」

「まさか。オレなりに考えているさ」

「失敗は二度と許されないよ。去年の暮れに平郡中学で死に掛けたのを忘れちゃダメだ」

「そんなの当たり前だろう」黒川拓磨は鼻で笑った。

 

   47 

 

 黒川拓磨と話をする機会は,あえて探す必要がなかった。

 翌日、加納久美子が英語の授業で二年B組の教室に入ると、教壇の上に青いチューリップがあった。「まあ、素敵。誰かしら? 持って来てくれたのは」

「僕です」

 黒川拓磨だった。加納久美子の胃が重くなった。「ありがとう」何とか感謝の言葉を搾り出す。授業中、生徒たちに付加疑問文を教えながら、このチャンス活かすしかないと自分に言い聞かせた。

 休み時間を知らせるチャイムが鳴ると、黒川拓磨の方から近づいてきた。「黒川くん、ありがとう」加納久美子は声を掛けた。

「どういたしまして。先生、チューリップは好きですか?」

「もちろん。嫌いな人なんているかしら」

「その通りだ」

「どうしたの?」

「近所の花屋で見つけました」

「こんな時期だから、さぞかし高かったでしょう?」

「はい、安くはありませんでした。でも大昔のオランダでは、チューリップの球根で家が買えたらしいですよ。あはっ。そこまでは高くありませんでしたから、ご心配なく」

「チューリップ・バブル」

「そうです。この花の球根が、そこまで高価になったなんて信じられますか?」

「いいえ。その当時のオランダ人て、どうしちゃったのかしら」

「あの頃に取引されていたチューリップは、これほど色や形が管理されたモノじゃなかったんです。すべてがウイルスに感染した奇形の花でした。色合いや形が病気に左右されて、球根が急に綺麗な花を咲かせたんです。それに病気なので長持ちしません。そんなんで希少価値が高くなってバブルに発展していったんです」

「まあ、詳しいのね」

「歴史は好きです。バブルに踊って、それが弾けて多くの人々が苦しむところなんか。チューリップ・バブルの後では長い年月に渡って、オランダは不況に苦しんだそうです」

「……」人が苦しむ姿が面白いなんて、嫌な性格。この話題は続けたくなかった。「黒川くん、ちょっと訊きたいんだけど」加納久美子は言った。

「はい、何ですか」

「あなた、板垣くんにゲーム・ソフトを貸したの?」

「いいえ」

「本当に?」

「はい。僕はテレビ・ゲームに興味はありませんから」

「そう」本人が否定するなら仕方ない。これ以上は追求できなかった。「もう一つ、訊きたいことがあるんだけど」

「なんなりと」

「五十嵐香月さんと交際している?」

「いいえ」

「そう。わかった。もう、いいわ」

「彼女は素敵な女の子ですけど、ちょっと好みじゃありません。僕の理想は知的な女性です。たとえば加納先生みたいな」

「……」最後の言葉にびっくり。

「先生はブルーが似合う。だから迷わずに青いチューリップを選びました」

「ありがとう」小さな声で感謝の言葉を口にした。生徒との会話に居心地の悪さを覚えつつあった。

「青や赤、黄色と様々な色のチューリップがありますが、どうしても作れない色があるのを知っていますか?」

「い、いいえ」

「黒です。黒いチューリップは絶対に出来ないらしい」

「そうなの」

「それとバレンタイ・ディですが、女性が好きな男性にチョコレートを送るのが一般的です。でも欧米では男性が好きな女性に花を送るという風習もあります」

「ごめんなさい。次の授業の用意があるから、もう行くわ」もう居た堪れない。ぼくと付き合ってくれませんか、なんて言葉が次に聞こえてきそうな雰囲気だ。加納久美子は、テキスト類をまとめると足早に二年B組の教室を後にした。

 

   48 

 

 「どうすりゃいいんだろう? オレは」秋山聡史は頭を抱えながら独り言を口にした。

「まさか死人が出るとは……、な」黒川拓磨が言った。

「足の悪いバアさんが一緒に住んでいるなんて知らなかったんだ」

「仕方ないさ」

「取り返しがつかないことをしちまった」

「死ぬのを少し早くしただけじゃないか、気にするな」

「お前は当事者じゃないから、そう簡単に言えるのさ」

「あの女の家に火をつけるとは思わなかったぜ」

「あの紙には、『土屋恵子が学校から居なくなってほしい』と書いてあったんだ」

「それで放火か?」

「そうだ。関口貴久の時は上手くいったからな。あの野郎、オレから金をふんだくろうとしたんだぜ」

「じゃ、これで二度目だな」

「もうしない。頼まれても絶対にするもんか」

「やり過ぎたな、今回は」

「言えてら。灯油を家の回りにハデに撒きすぎた。欲しかった佐久間渚の下着が手に入って、テンションが上がっちまった」

「放火すると教えてくれていたら、いくつかアドバイスしてやれたんだが……」

「どんな?」

「警察に捕まらないように、気をつけなきゃならない事がいくつかあるさ」

「マジかよ。だけど火をつける時は誰にも見られなかったぜ。心配はしていない」

「何を言ってる。それでも警察は放火犯を逮捕するんだ」

「どうやって?」

「すこしづつ容疑者を絞り込んでいくらしい」

「オ、オレが容疑者になっているって言うのか?」

「わからない」

「脅かすんじゃねえぜ。やめてくれ」

「お前、放火してからも現場に残っていたか?」

「うん。どこまで家が燃えるか確かめたかったからな」

「そりゃ、マズいぜ」

「どうしてだ?」

「警察の鑑識なんかがカメラを持って、現場の写真を撮っていただろう? 気づかなかったか?」

「た、たしかに……そうだけど」

「お前、写真に撮られたか?」

「わからない。覚えていない」

「写真に写っていたら容疑者の一人だぜ」

「火事の現場にいただけで、か? そんなの大勢いたんだぜ」

「そうさ。ほとんどの放火犯が、現場に残って火事に見惚れるらしいからな。気が遠くなる作業だけど、警察は写真に写っている野次馬の一人ひとりを調べていくさ」

「……」

「つまりだ、関口貴久の現場と土屋恵子の現場の両方に写っていたら、もう致命的だぜ」

「げっ。……ヤバい。どうしよう」

「自業自得だ」

「おい、黒川。待ってくれ、何とか助かる方法はないか? 警察なんかに捕まりたくない」

「……」

「おい。黙ってないで何とか言ってくれよ」

「祈るしかないだろうな」

「え、祈るだって?」

「そうだ。警察が捜査ミスを犯して、お前を見逃すことを祈るしかない」

「そんなことで大丈夫かな?」

「お前には、もうそれしかないぜ」

「……」

「三月十三日は参加してくれるよな?」

「約束したから、それは行くさ」

「そこで僕と加納先生が仲良くなれるように本気で祈ってくれ」

「関係があるのか? オレが逮捕されないで済むのと」

「もちろんだ。ぼくの為に祈ってくれたら、廻り回って秋山聡史の利益に繋がっていくんだ」

「……」

「放火殺人だぜ。ただの放火じゃない、重い犯罪だ。捕まったら始めは少年院かもしれないが、二十歳になる頃は刑務所へ移されるだろう。きっと懲役十年以上は食らうな」

「そんなのイヤだ。入院している佐久間渚の見舞いに行けないじゃないか」

「そうだ。それに、いくら心の優しい彼女でも前科者とは付き合わないだろうからな」

「わかった。祈るよ。お前の為に一生懸命に祈るさ」

「それがいい。見舞いに来てくれたら、きっと佐久間渚は大喜びするんじゃないか。感動して、お前しか頼る人がいないと思うに違いないぜ。一気に彼女と親密な関係になれるチャンスかもしれない」

「言う通りだ。オレは絶対に警察に捕まるわけにはいくもんか」

 不安の中に一縷の希望を見つけた。久しぶりに秋山聡史の顔に笑みが浮かんだ瞬間だった。

 

   49 

 

 「黒川拓磨と話したわ」お昼休みに美術室まで足を運んで、加納久美子は安藤先生に報告した。

「どうだった?」

「……わからない。言えるのは、あの子は普通の生徒とは違うということだけ」

「あなたのことを担任教師じゃなくて、異性として見ていたでしょう?」

「え、どうして知っているの?」加納久美子は安藤先生の言葉に驚いた。

「やっぱり」

「何で知っているのよ?」

「あたしのことも、そうだったから。間違いなく性的な目で見ていたわ」安藤紫は答えた。

「黒川拓磨と話をしたの?」

「探りを入れようとしたわけじゃないのよ。あの暗い絵を返す時に彼の方から話しかけてきたの。すごく居心地が悪かった」

「あたしも、そうだった」

「彼は何かを企んでいると思う。何か、すごく自信ありげだった。あたしなんか簡単にモノに出来そうな態度なのよ。信じられる?」

「あの子は手に余りそう」

「主任の西山先生に相談したら?」

「この前だけど手塚奈々がアルバイトをしていることで、あたしに代わって彼女と話をしてもらったの。任せてほしいなんて言ったけど、上手く行かなかったみたい」

「でも主任という肩書きを持っているから、相談はしておいた方がいいと思う。もし何かあった時に、報告をしていなかったとなったら問題になるわ」

「わかった。そうする」

「ところで黒川拓磨が転校して来た理由は何だったの?」

「聞いていないわ」

「父親が去年の暮れに亡くなったから?」

「そうかもしれない」

「前の学校に電話してみたら? 無駄かもしれないけど、もしかしたら何か情報が得られるかもしれないし」

「うん。黒川拓磨の担任をしていた教師と話がしてみたい」加納久美子は言った。

「いい考えだわ」安藤紫が応えた。

 

   50

 

 「おい、板垣。何を持って来たんだ、お前?」サッカー部員の一人が訊いた。

「ビデオだよ。あいつが退屈してると思ってな」

「どんな?」

「バカ、聞くだけ無駄だぜ。板垣のことだから、エロビデオに決まってんだろう」別のサッカー部員が横から口を出す。

「そうだな、訊いたオレがバカだった。また光月夜也のビデオに違いないぜ。あはは」

「いや、これは別モノさ」と板垣順平。

「お前、AV女優の好みが変わったのか?」

「そうじゃない。これは裏ビデオなんだ」

「えっ、マジかよ」

「先輩から借りてダビングしたのさ。『洗濯屋ケンちゃん』ていう有名なビデオらしい」

「見たのか?」

「当たり前だろう」

「どうだった?」

「モロだぜ。内容も悪くない」

「見てえ。オレにもタビングしてくれないか」

「いいぜ」板垣順平は応えながら、同じクラスの鶴岡政勝が黙っていることに気づく。こういう話題には、いつもなら真っ先に飛びつくはずなのに。「おい、どうした? 元気がないな」

「……」

「おい、鶴岡」

「え?」

「何を考えている? お前らしくないぞ」

「悪かった。なんだかオレ、ちょっと風邪をひいたみたいなんだ」

「しっかりしろ。今週中に治せよ。日曜日には富津中学とのリベンジ・マッチなんだからな」

「わかってる」鶴岡政勝の返事には、早く風邪を治したいという意思が微塵も感じられなかった。

 

 君津南中学のサッカー部員全員で、交通事故で入院している鮎川信也を見舞いに行くところだった。

 鶴岡政勝は良心の呵責に苛まれて、仲間の会話に入れない。鮎川信也が乗っていた自転車の前輪に細工したのは自分で、それが原因で奴は道路で転倒して、後ろを走っていた軽トラックに轢かれてしまう。

 左足の踵を複雑骨折して、二度とサッカー部には戻れそうにないと顧問をする体育教師の森山先生から聞かされたのだ。ショックだった。ちょっとした怪我をして次の試合を休んでくれたら、それでよかったのに。大変な事をしてしまった。

 「もう今までと同じようには歩けないんじゃないか。もしかしたら松葉杖が手放せなくなるかもな」、と言った板垣順平の言葉が胸に深く突き刺さる。

 軽トラックを運転していた老人は避けようとして、反対車線に飛び出すと対向車と正面衝突して亡くなった。つまり鮎川信也の自転車にパンクを細工したことで人が死んで、友達を障害者にしたのだった。もう取り返しがつかない。

 次の富津中学との試合に出場して、マネージャーの奥村真由美に活躍する姿を見せたかった。その思いが大変な事態を招く。

 皮肉なことに鮎川信也が事故に遭った晩に、奥村真由美から電話があった。「一緒に『メリーに首ったけ』を観に行かない?」という誘いだった。うれしかった。でも同時に罪悪感が込み上げてきた。

 あり得ない。信じられない。なんてこった。

 デートの約束をして携帯電話を置いた後は、鮎川信也の自転車に細工したことを後悔した。そんな事をする必要はなかったのだ。彼女は自分に好意を持ってくれていた。

 鮎川信也がパンクに気づいて、何事もなく家に帰ってくれることを願う。しかし夜の十時過ぎに板垣順平から電話があった。着信音が鳴った瞬間にイヤな思いが脳裏を過ぎる。最悪の結果を知らされた。

 「学校の帰りに鮎川が事故に遭ったらしいぜ」

「……」なんてこった、マジかよ。うな垂れて目を閉じた。

「おい、鶴岡」

「……な、何だ?」

「お前、聞いてんのか?」

「うん」

「鮎川が交通事故に遭ったみたいなんだ。今さっき親父のところに学校から連絡があった」

「そうか」小さい声でしか返事ができない。

「どうしたんだ、お前? 驚いていないみたいだな」

「い、いや……そんなことはない。驚いているさ」

「本当か?」

「当たり前だろう。ちょっとショックが強すぎて……。まさか、重傷じゃないよな?」

「そこまでは、まだ分からない。これから親父から詳しく聞く。明日の朝に学校で話すから。部室に集まってくれ。いいな?」

「わかった」

 

 鮎川信也の病室には一番後ろから入った。奴と顔を合わせたくない。左足は白い石膏で固めてあって、それが痛々しい。みんなを代表する形で板垣順平が話す。持ってきたビデオを渡すのが見えた。事故に至った詳しい経緯を本人から訊く。鶴岡が、「女の子の自転車を追い越そうとしたところで、前輪のパンクに気づいたんだ」と、みんなに聞こえるように説明し始める。

 聞きたくない。鶴岡は一刻も早く帰りたかった。誰かが、「そろそろ行くか?」と言い出すのを待った。

 「おい、鶴岡」板垣の声。

「……」ちっ、呼ばれちまったか。

「鮎川が話したがっているぜ。前に来い」

 促されて仕方なくベッドの側に立ったが、出来るだけ目を合わさないようにした。「早く治ればいいな」なんとか言葉を口にする。

「しばらく掛かりそうだ。もうサッカーは無理かもな」

「……」何も言えない。オレの所為だ。

「鶴岡、今度の試合は頑張ってくれよ。絶対に勝ってほしい。お前が自分のプレーをすれば絶対に大丈夫だから」

「うん」

 つらい。こんな励ましを受ける資格なんてないのに。本当に鮎川に悪いことをしたと思った。と同時に奴が凄くいい友達だと分かった。

 立ち直れそうにない。病院を後にして家に帰ってからも、罪悪感

に押し潰されそうだった。その夜だ、黒川拓磨から電話があった。

 「どうだった、鮎川の容態は?」

「最悪だ。二度とサッカーは出来ないらしい」

「マジか」

「畜生、大変なことをしちまった」

「仕方ないぜ」

「もう取り返しがつかない」

「そうだな。でも運が悪かったんだ。お前だけの所為じゃない」

「そうかな」

「軽トラックを運転していた年寄りが、運転操作を誤ったから事故になったんだろう」

「それもあるけど」

「いや、それがすべてさ」

「そうは思えない」

「もし鮎川が転倒しなかったら、軽トラックは女の子を轢いていたかもしれないぜ」

「まさか」

「その可能性が高いと思う。目の前で転倒した鮎川を避けられないぐらいだから、かなり反射神経は鈍いな。年寄りの運転なんて、気違いに刃物と同じだぜ。お前は自転車に細工して女の子を救ったと言えるんじゃないかな」

「……」

「もし女の子が轢かれたら足の怪我ぐらいじゃ済まないぜ」

「そうかもな」

「鮎川はサッカーが出来なくなったかもしれないが、死んだわけじゃない」

「……」

「お前は女の子を助けたのさ。くよくよしながら生きて行く事はないだろう。若いんだから、前向きに生きろ」

「それは言えてるな」

「祈ってやれ」

「え?」

「鮎川の怪我が一日も早く完治するように祈るんだ」

「どうやって?」

「三月の十三日に学校に集まってくれ。みんなと一緒に、まずはオレと加納先生が仲良くなれるように祈ってほしい」

「それとこれが関係あるのか?」お前と加納先生が仲良くって、それ本気かよ。ちょっと無理があるんじゃないのか。

「もちろん。オレの為に祈ってくれたら廻り回って、お前の願いだって叶うのさ」

「そういうもんかな?」

「そうだ」

「わかったよ」

「前向きに考えろ。過去を引き摺って生きたって、いいことは何もないぜ。奥村真由美と一緒に映画を見に行くことに集中しろ。きっと楽しいぜ」

「え? ああ、そうだな。お前の言う通りだ」そのことを何で知っているんだろう。

「前から思っていたんだけど」

「何を?」

「お前と奥村真由美なら、お似合いのカップルになるんじゃないのかな」

「マジでか?」

「嘘じゃないぜ」

「身長が彼女の方が少し高くて気になっていたんだけどな」実は5センチ近くも鶴岡は低かった。

「心配するな。そんなことを気にする奥村真由美じゃないぜ。いい性格だ」

「オレも、そう思う」

「せいぜいデートを楽しんでくれ」

「ありがとう。元気になった感じがするよ。三月の十三日は必ず学校へ行く」

「頼む」

 黒川拓磨から電話をもらって、鶴岡政勝は元気を取り戻した気分だった。ただ一つ、腑に落ちない。どうして黒川の奴が、オレが奥村真由美と映画に行くことを知っているのか不思議に思う。もしかして彼女が言ったのかもしれない。

 黒川が内藤に『メリーに首ったけ』を一緒に観に行かないか、なんて誘ったのかな。そこで彼女が「ごめんなさい、もう鶴岡くんと一緒に見に行く約束をしちゃったの」なんて答えたりして。それなら納得だ。

 『お似合いのカップルになりそうだ』という言葉を掛けられて有頂天の気分だった。ほかの事は別にどうでもいい。

 どんな服で行こうか? どこで食事しようか? 今は、生まれて初めてするデート以外のことは何も考えたくなかった。

 

   51

 

 「加納先生」

 お昼休み、加納久美子は美術室から職員室へ戻ると西山主任から声を掛けられた。「はい」

「今さっきですが、波多野くんの父親から電話がありました。ここに折り返し電話してくれますか」そう言ってメモを渡された。電話番号が書いてあった。

「わかりました」

 波多野孝行の父親は君津警察署に勤務する刑事だ。佐野隼人が教室の窓から転落した件だろうか、と思った。それとも息子のことで何か話があるのだろうか。

 加納久美子は美術室で安藤先生と一緒に、二人で昼食をとるのが習慣だった。きっと波多野孝行の父親は、昼休みに担任教師は職員室にいるだろうと考えて電話してきたのだ。久美子はデスクの前に座ると受話器を取って、メモを見ながら番号を押した。

 「もしもし」

「君津南中学の加納です。お電話を頂いたそうで。席を外してまして、すいません」

「いいえ。こちらこそ、いきなり電話して申し訳ありません」

「どんな御用でしょうか」

「大した事じゃありません。ちょっと加納先生に訊きたいことがあって電話しました」

「はい」

「三月の十三日なんですが、学校で何が行事がありますか?」

「え、……ちょっと待って下さい」思い当たる節がない。

 久美子は小物入れケースの横に貼ったスケジュール表に目をやった。土曜日だった。「いいえ、何もありませんけど」

「そうですか」

「三月の十三日が、どうかしましたか?」

「いいえ、別に……。わかりました。お手数を掛けしました。どうも、ありがとうございました。これで失礼します」

「はい。失礼します」へんな電話だった。

「加納先生、どんな用件でした?」学年主任の西山先生が近くまで来ていた。

「別に大した事ではありませんでした」加納久美子は答えた。

「佐野隼人の事件についてじゃなかったんですか?」

「違います」

「本当ですか?」

「はい」疑っているらしい。

「じゃ、どんな件でした?」

「三月の十三日の土曜日に、学校で何か行事があるのか訊かれました」

「はあ?」

「ありません、て答えました」

「それだけ?」

「そうです」

「わかりました。もし佐野隼人の事件に関しての事だったら、僕にも知らせて下さい」

「もちろんです」

 期待外れだった様子だ。背中を向けて自分の机に戻ろうとしたところで、加納久美子が声を掛けた。「西山先生」

即座に振り返った。「え、何でしょう?」

「……黒川拓磨のことなんですが」ついでだ。ここで言ってしまおうと思った。

「黒川が、どうしました?」

「成績は問題はありません。でも何か、彼は不思議なんです。理解できないところがあって、わたしの手に余るというか……」

 どう言っていいのか分からない。本人が否定している以上、板垣順平に貸したゲーム・ソフトのことや、五十嵐香月と親密な関係にあったかもしれないことは口に出せない。

「じゃあ、僕が彼と話をしてみましょう」

「そうしてくれますか。先生となら男同士ですし、何か違った面が見えてくるかもしれません」

「任せて下さい。手塚奈々のときは、あまりにも彼女が反抗的なので、やむを得ず厳しい対応になってしまいました。今度は大丈夫です。世間話でもすれば、彼が何を考えているか言ってくるんじゃないかな」

「よろしくお願いします」加納久美子は頭を下げた。

 

   52

 

 三月の十三日には学校で何の行事もないらしい。土曜日だ。それなら教職員の知らないところで、生徒たちは何か計画をしているのかもしれない。

 君津警察署の生活安全課に勤める波多野刑事は、頭の中で不安が大きくなっていくのを感じた。次々と何かが起きてる。

 放火事件は二度目が起きて、連続放火事件になった。しかし今度は放火殺人だ。足の不自由な祖母が逃げ遅れて焼死した。直ちに千葉県警の捜査一課から四人が派遣されて、彼らの仕切ることになった。波多野正樹はアシスタントに退き、これまでの捜査資料を渡した。

 目星をつけた君津南中学の二年B組の男子生徒が、第二の放火現場の写真にも写っていた。両方の場所にいたのは彼だけだった。これで決定的となった。しかし相手は未成年者なので、捜査は慎重に進めなければならない。少年の名前と住んでいる家は波多野が一人で調べ上げた。これから放火現場の近くに設置された監視カメラに残された映像を分析して、少年の容疑を固めていく。逮捕までは、もう少し時間が掛かりそうだ。

 君津南中学の二年B組の窓から転落した少年の捜査は、進展がない。このままでは自殺か、誤って転落したという線になりそうだった。しかし多くの疑問が残る。わざわざ窓から身を乗り出して、どうして転落したのか。最近は上手く行っていなかったらしいが、ガールフレンドが側にいたのは何故か。彼女は毒を盛られていて、視覚と聴覚が麻痺していた。警察の捜査に協力できない状態だ。少年のカバンから毒薬の白い粉が採取されたが、その入手経路が分からない。

 そして新たな心配が浮上した。息子の孝行だ。最近は頻りに何人かの友達に電話している様子が気になった。

 『三月の十三日に学校に来てほしい』と、訴えているのを何度が耳にした。夕飯のカレーを食べながら波多野正樹は向かいに座る息子に訊いた。

 「お前、三月の十三日に学校で何かあるのか?」

「……え、知らないけど」

「おい」

「なに?」

「さっきも電話で誰かと話しをしていて、三月の十三日に学校へ来てくれって頼んでいたじゃないか」

「してないよ」

「……」息子の返事に驚くしかなかった。「まさか覚えていないのか?」

「だって、してないもん」

「オレは聞いたぞ、お前が電話をしているのを」

「何かの間違いじゃないの」

「……」何も言えない。

 父親に嘘をつく息子ではなかった。ふざけている様子もない。本当に覚えていないらしい。理解できなかった。

 担任の加納先生に電話して、学校には何の予定がないことが分かった。そのことで波多野正樹は確信に近いモノを感じた。

 三月の十三日に学校で何かある。いい事じゃない。きっと何か悪い事に違いない。問題は自分に、それを阻止する手段と能力があるかどうかだ。得体の知れない不気味な存在に立ち向かうような気持ちだった。

 

   53

 

 篠原麗子は悩んでいた。

 大怪我をした義理の父親は君津中央病院に入院した。当分の間は退院できない。母親と二人だけの生活へ戻れた。

 憎らしいから奴のアソコを食い千切ってやろうと思った、と正直に話すと、娘の大胆な行動に驚いたのか母親はしばらく黙ったままだった。叱られるかもしれないと身構えた。でも耳に届いたのは慰めの言葉だった。

 「よく分かった。お母さんが後は引き受けるから、もう大丈夫だよ。悪いようにはしない。つらい思いをさせてしまったけど許してほしい」

 嬉しかった。義父と別れて再び二人でアパートに暮らせるんだと期待した。ところが、そうはならない。

 母親は駆け引きの達人だった。夜の仕事で培った酔った客の扱いの巧さが発揮されたのに違いない。娘への性的虐待を武器にして、義理の父親だった男に迫った。

 男は刑事告発を恐れた。何とかして示談で済ませたい一心だ。市役所の仕事を失うわけにはいかない。両親は老齢だが健在で、彼らにとっては自慢の一人息子らしい。もはや麗子の母親の言いなりだった。

 新築の家とグリーンのベンツ、それに高額の慰謝料を母親は手にした。男はアソコの機能を失っただけでなくて無一文になる。残っているのは住宅ローンの支払いと公務員の仕事だけだ。そして離婚届にも判子を押した。

 すべての事が片付いたとき、新たな生活は麗子の望んだのとは違った。母親が元に戻ってくれない。どんどん派手になっていく。若い女性が着るような服に身を包み、ルンルン気分でベンツに乗って出かけて行く。娘の麗子が見ていて恥ずかしくなるほどだ。近所に住む山田道子に知られたら大変だ、と気が気でなかった。

 最悪なのは、学校から帰ると頻繁に家で若い男と顔を合わすことだ。ほとんどが、いつも初めて見る人だった。お友達よ、と母親は言うけれど信じちゃいない。娘が学校へ行っている間に、二人が家の中で何をしているのか想像はつく。あたしだって、もう子供じゃないんだから。 

 塞ぎ込んだ顔を気づかれたのか、転校生の黒川くんが声を掛けてきた。義父のアソコを噛み切ったらいい、とアドバイスをしてくれたのは彼だ。計画は上手く運んだが、その結果は期待していたのと違う。それを話した。

 「もう祈るしかないかもしれない」彼は言った。

「え、どういう意味?」

「三月十三日の土曜日に、みんなで教室に集まって『祈りの会』を開く予定なんだ」

「何、それ?」

「みんな、それぞれ悩みや願望を抱えているらしい。それが解決したり、叶ったりするように祈るのさ」

「二年B組の生徒が全員?」

「いや。全員とまでは言えないが、ほとんどかな。まだ古賀千秋さんには声をかけてないけど」

「ふうむ」

「篠原さんには、ぜひ参加してほしいな」

「いいよ。あたしも行く」

「よかった。そこで頼みがあるんだ」

「なに?」

「同時に、ぼくと加納先生が仲良くなれるように祈ってくれないかな?」

「え、黒川くんと加納久美子先生が?」

「そうだ」

「歳が違い過ぎない?」

「わかってる。だけど全員の思いが集中すれば大きなパワーになるんだ。それを利用して一人ひとりの悩みや願望を解決するさ」

「へえ」

「もう一つ、お願いがあるんだ」

「なに?」

「ローソクを何本か用意してくれないか?」

「いいけど。でも何に使うの?」

「思いを集中させるのにローソクの火が必要なんだ」

「なるほど。何本ぐらいあればいいのかしら?」

「十本ぐらいでいいかな」

「え、十本も?」ドキッ。その本数を聞いて篠原麗子はDマーケットでの出来事を思い出す。形だって似ていた。

「うん」

「お、……大きさは?」声が上ずってしまう。

「普通でいいかな。細かったり小さかったりするのはマズい。炎が消えやすいと困るんだ」

「……」額に汗が滲む。つまり太くて長い方がいいらしい。

「や、……やっぱり硬い方がいいんでしょう?」

「え、どういうことかな?」

「あっ、な、何でもない。ごめんなさい」ローソクって、どれも硬さは同じだったことに篠原麗子は気づく。

「用意してくれるかい? お金は後で払うから」

「う、……うん」自信はなかった。でも出来ないとは言えない。

「ありがとう」

「古賀千秋は、あたしが誘ってみようか?」

「そうしてくれると助かるな」

「わかった」 

 その日の晩に、篠原麗子は古賀千秋に電話した。学校で面と向かって話したくはなかった。額の汗と火照った顔を見られたくないからだ。

 「千秋、いま話せる?」

「大丈夫だけど、なに?」

「三月十三日の土曜日に、黒川くんが学校で『祈りの会』を開くらしいの」

「何よ、それ? 『祈りの会』って」

「それぞれが持っている悩みや願望を、みんなで祈って解決するんだって」

「へえ、面白そう」

「一緒に参加して欲しいんだけど?」

「いいよ」

「それとローソクが必要なんだ。あたしが買いに行くように頼まれちゃったの。付き合ってくれない?」

「いつ?」

「明日でも。学校が終わってから」

「わかった」

「ありがとう」ああ、助かった。

 篠原麗子は一人で買いに行く自信がない。またエッチなオジさんが横から出てきて、お節介をされそうで怖かった。

『何をやってんだい、お姉ちゃん。そりゃダメだって。ローソクなんか、あんたの役に立つもんか。そういう事だったらサラミに限るんだ。見てごらん、この先端の丸み。ここが大切なんだから。硬過ぎることはなく、また柔らか過ぎることもない。使って滑らか。デリケートなところに触れさせた瞬間の心地良さが大きく違う。悪いことは言わないからサラミにしなさい。太さだって、お姉ちゃんの身体には丁度いいと思う。ローソクは細すぎて、満たされた感じがしないだろうから』

こう言われてしまったら終わりだ。もう逆らえない。ローソクを買いに行って、サラミを持って帰ることになったら、きっと黒川くんは激怒する。どうしたってサラミにローソクの代わりは務まらないもの。

 『ゴメンなさい。ローソクがサラミになっちゃったの』

 こんな謝罪を誰が受け入れてくれようか。みんなが馬鹿にした目で見るに決まっている。篠原麗子っていう女は早熟なくせに買い物は満足に出来ないらしい。そう思われてしまう。

 とても一人では買いに行けない。不安だ。気の強い古賀千秋の助けが必要だった。万引き事件を起こしたって平気な顔をして学校に来ていた。二年B組の学級委員長も、辞任する気持ちはなさそう。さすがだ。

 「ところでさ、麗子」

「なに?」

「まだ、あのサラミは残っている?」

「えっ、……」ドキッ。どうして、あたしがサラミで悩んでいるって分かったの? もう、恥ずかしい。「う、うん、……ま、まだあるけど。どうして?」

「もし良かったら、何本でもいいから少し譲って欲しいの。あれって、すごく使いやすいのよ」

「え、どういう意味?」

「あ、……つまり、すごく美味しいってことよ」

「そうなの」ああ、よかった。気づかれたんじゃないらしい。「それなら明日、学校に持っていくから」

「うれしい。この前は二本もらったけど、一本は古くなったから友達に上げちゃったのよ」

「そうなんだ」よく意味が分からないけど。

「じゃあ、明日」

「わかった」

 篠原麗子は持っているサラミすべてを、古賀千秋に渡してしまう気だった。もう用はない。あれを目にする度に、精肉コーナーにいたエッチなオジさんの言葉を思い出して嫌だった。『お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ』

 Dマーケットの近くを自転車で通ると、ここの精肉コーナーで働くエッチなオジさんが、あたしのことを待っているんだと意識してしまう。忘れたいけど忘れられない。その度に、背中から腰にかけてゾクゾクした感覚が走った。いやらしい。でも溶けてしまいそうになるほどヘンな気持ち。あたしって、こんなに淫らな女だったのかしら。あの母親の娘だから仕方ないのかもしれないけど。

 ある日曜日の午後だけど、もう身体がムズムズして堪えられなかった。自転車でDマーケットへ急ぐ。一階の食料品売り場をうろうろ回った。足が精肉コーナーに近づく度に、強烈な快感が身体を貫く。もう汗びっしょりだ。あのオジさんに見つかるかもしれないというスリルに痺れた。もし声を掛けられたらどうしよう。そしたら『また相談に来ました』と言うしかない。 

 きっとエッチなオジさん二人が、ニヤニヤしながら迎えてくれるだろう。この前みたいな、すごく恥ずかしい目に遭わされるのは間違いない。それは困る、……でも、もう一回ぐらいだったらいいかな、と思ってしまう最近の篠原麗子だ。これまでは、そんな考えを持ったこともなかったのに。どんどんセクシーに大人びていく身体に、心が追いついていけない。

 胸の膨らみについては、こんなに早く大きくなって欲しくなかった。みんなの注目を集めようとしているみたいで、すっごく恥ずかしい。

 いつだって男性たちが熱い視線を送ってきた。それが、もう小学生の男の子から中年のオヤジまでが。『あたしは見世物じゃありません。もう見ないで下さい』、そう叫びたかった。と同時に着ている服を脱いで、この女らしい身体を自慢したいという気持ちになったりもした。

 中学二年で、この状態だった。これから高校、大学へと続いていく。早熟な身体をコントロールしていけるか自信がない。どうなってしまうんだろう。すごく不安だった。

 

  

 

 54

 

 起死回生のチャンスが到来だ。西山明弘は意気込む。今度は失敗するものか。強い自信があった。相手は気難しい思春期の女じゃなくて、たかが十四歳のガキだ。勉強はできるかもしれないが、考えていることは単純そのものだろう。

 『黒川拓磨が、あたしの手に余る』と、加納先生から助けを求められた時は飛び上がりたいほど嬉しかった。手塚奈々を上手く説得できなかったことで、オレへの信頼は失墜したと思った。これでターゲットは安藤紫先生一人に絞るしかないと諦めていたのだ。

 悔しさから、二年B組で次々に起きる不祥事に担任の加納先生に対して辛く当たってしまった。お前に指導力がないから、こんな事が続くんだろう。そんな感じだ。ところが、まだオレを頼りになる男として認めてくれていたらしい。しっかり成果を挙げて、彼女にとっての憧れの存在へと登りつめたかった。

 黒川拓磨なら手塚奈々と比べれば赤子の手を捻るようなもんだ。まさか時給三千円でアルバイトもしていないだろうし。外見も子供そのもので、男としての魅力なんかあったもんじゃない。

 学年主任である西山明弘は、すぐに問題点に気づく。黒川拓磨は

担任の加納先生を教師ではなくて、異性として意識しているのだ。注目してもらいたくて何かしら事を起こす。手っ取り早いのが、悪さをして加納先生を困らせることだろう。

 やり方が稚拙だ。まあ、中学二年程度の知識と経験じゃ、それぐらいが精一杯かもしれない。

 年上の女性に憧れる年頃でもある。まして担任教師が魅力的な女性だから尚更だ。無理もない。そんな時期が自分の過去にもあったから良く分かる。

 『いいか、加納先生を困らせるんじゃない。今、お前にとって大切なのは勉強だ。このままいけば木更津高校に間違いなく合格できる。頑張れ。オレが応援してやるから』

 このぐらいの言葉を掛けてやれば、きっと奴は態度を改めるに違いない。一件落着だ。そして、これを切っ掛けにしてオレと加納先生が急接近する。

 『西山先生、ありがとう御座います。彼と上手くコミュニケーションが取れるようになりました。さすが主任です。お礼と言っては何ですが、今度いつか食事を御馳走させて下さい』

 こんな言葉が加納先生の口から聞けたら大成功だ。オレのレガシィで迎えにいって、ディナーの後は夜のドライブと洒落込みたい。鹿野山に上って、二人で君津の夜景でも見に行こうか。考えると、どんどん気持ちがウキウキしてくる。西山明弘は、やる気満々だった。

 「黒川、そこに座りなさい」

「何ですか?」

「まあ、いいから。体育の森山先生には許可はもらってある。少しぐらい授業に遅れても文句は言われない。安心しろ」

 体育の授業が始まる前の休み時間だった。二年B組の教室には西山と黒川拓磨の二人だけだ。手塚奈々と話した時と同じ所で、机を間に挟んで向かい合って椅子に腰を下ろした。

 今度は時間が掛からない。すぐに終わる。生徒に向かって話し出そうとしたところだった、ブーンと一匹の虫が西山の目の前を飛んで横切った。「なんだ、ハエか?」

 それにしては少し大きいみたいだ。黒いが、そいつの背中に黄色いラインが走っている。見たこともない、コスタリカにでも生息していそうな虫だった。この寒い季節に、ちょっと信じられない。

 「ハエじゃありません」と、黒川拓磨。

「何ていう虫か知っているのか? お前は」知ったような生徒の答えが意外だった。

「説明すれば長くなります。放っておきましょう」

「何だと」人を小馬鹿にしたような口振りにムッときた。オレを誰だと思っているんだ。「あっ」

 再び、あの虫が優雅に目の前を横切った。今度は顔に近すぎて、思わず後ろに仰け反った。その慌てた教師の様を見て、黒川拓磨の顔に笑みが浮かんだ。てめえっ。怒りが込み上げた。その態度は何だ。どうしてやろうか?

 空中に浮かぶ、あの黒い虫が目に入った。また、こっちへ飛んでこようとしていた。オレを、おちょくっているのか。

 「西山先生、手を出さないほうがいい。大変なことになりますから」

「うるさいっ。黙ってろ」

 虫が近づいてきて射程距離に入ったところで、西山は右手を勢いよく振り下ろした。命中。叩かれて虫は床に落ちた。寒いから動きが鈍いのだろう、簡単に殺せた。

 「ああ、やっちゃった」

「どうってことない、ただのハエだ」

「ハエじゃありません」

「うるさい。そんな事はどうでもいい。お前に話があるんだ」

「オレに?」

「そうだ、お前にだ」寛容な気持ちは消え失せた。このクソ生意気な小僧を、どう懲らしめてやろうかという思いしかない。手塚奈々の時と同じような結果になりそうだと考えたが、怒りが理性を凌駕した。

 「体育の授業に遅れたくないんで、手っ取り早く頼むぜ」

「なに」この野郎、このオレに向かってタメ口を利きやがった。

「落ち着けって、西山」

「くっ、……」今度は呼び捨てにしやがった。怒りで身体が震えてきた。

「西山、身の程を考えなきゃダメだろう。お前なんかには加納先生も安藤先生も無理だぜ。所詮は高嶺の花なのさ」

「なんだとっ」

「分からねえのかな、その歳にもなって。お前は大家の娘を相手にしてりゃ、それでいいのさ。お似合いのカップルだぜ。あっはは」

「どっ、どうして--」何で、このガキがそれを知っているんだ。

「まったく、お前には呆れるぜ。バーミヤンの割引券なんかで女を誘い出すんだからな。せこいったらありゃしねえぜ。まあ、そんな誘いに乗る女の方もそれなりだから丁度いいのかな」

「この野郎っ、もう許さん。懲らしめてやる」

 西山明弘は湯気が立ちそうなくらいに全身が熱くなった。このガキを虫と同じ目に遭わせてやる。叩き潰す。泣いて土下座して謝るまでボコボコにしてやろう。

 『失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。これからは西山先生様と呼ばせて頂きます。許して下さい』

このぐらいの謝罪の言葉が、クソ小僧の口から出てくるまで殴り続けてやろう。

 もう殺したって構わないかもしれない。こいつがオレ様に向かって生意気な口を利いたのが悪いんだ。殺した口実は後から考えればいい。オレ様の偉大さを分からせてやりたい。

 すでに佐野隼人が死んでいるんだ。もう一人ぐらい増えたって大したことはない。『きっと後追い自殺じゃないですか』、それで説明がつく。

 「お前、覚悟しろ。しっかり後悔させてやるからな」

 一発目のパンチを浴びせてやろうと、右の拳を高く掲げたところだった。左足の脛に違和感を覚えた。何かに針を刺された感じだ。

 「うぐっ」それが直ぐに、強力なドリルで足に穴を開けられるような痛みに変わった。ど、どうした?

 目の前に座る生徒を殴るどころじゃなくなった。その場に西山は屈むと、急いでズボンの裾を捲り上げた。「ああっ」

 自分の目を疑う。殺したはずの虫が灰色のソックスの上に止まっていたのだ。こ、こいつに刺されたらしい。

 手で掃おうとしたが今度は素早く飛び立ってしまう。畜生っ。ソックスを下ろすと皮膚が赤く爛れていた。「おい、あれに刺されたみたいだ」

 黒川拓磨を見ると、椅子に座ったまま窓を通して校庭の様子を眺めながら、左手の人差し指を鼻の穴に突っ込んでいた。こっちを向いてもいなかった。ふざけた態度だ。少しは教師を心配--。「げえっ。げ、げ……」

 刺されたところから激痛が全身に広がろうとしていた。どっ、毒だ。吐き気。ひどい悪寒。冷や汗。めまい。耳鳴り。全身の震え。すべてが一気に襲ってきた。声を出したくても、口が麻痺して喋れない。「あう、あ、ああ……」

 誰かを呼んでくれ。助けてくれ。生徒に言いたかったが舌が回らない。その場に倒れこんだ。息が満足に出来ない。苦しい。意識が朦朧してきた。目の前が真っ暗になる直前に黒川拓磨の言葉が耳に届く。

 「体育の授業が始まってるんで、そろそろオレは行こうかな」

 

   55

 

 「先生」

「西山先生っ」

「どうしたんですか?」

 誰かが自分を呼んでいた。女子生徒の声だった。西山は目を覚ました。頭痛はするが周りが見えた。どのくらい意識を失っていたんだろうか。焦点が合うと声の主は手塚奈々だと分かった。いつもと変わらず綺麗な顔だ。良かった、助かった。

 「あわ、……わう、う、う」

「え?」

「あう、……あい、い、い」駄目だ、喋れない。舌に感覚が戻っていなかった。

「なんですか?」

「あう、あひ、あひひ……」職員室へ行って誰かを呼んでほしい、と伝えたいのだが上手くいかない。

「先生、笑っているんですか?」

「あふ、ひひ、……ひふ」ちっ、違う。この状況で笑っていられるか、バカ。

 言葉を出そうと必死になるほど、口の中に唾が溢れた。悲しい。こっちの要求を、なんとか女子生徒が悟ってくれないだろうか。

 涎を床に落とそうと顔を横に向けた時だった。手塚奈々の悩ましい太股と白いパンティに包まれた股間が、間近で西山の目に飛び込んできた。ひやっ。倒れていた教師を心配して反射的に、スカートが短いにも関わらず腰を屈めた結果だった。

 なんてラッキーなんだ。しかし……、残念なことに、まったく性的な興奮を覚えなかった。毒虫に刺されて感覚が麻痺していた。体が衰弱して、そんな気持ちにならない。も、もったいない。

 「西山先生っ」

「あうっ」あっ、まずい。こっちの視線に気づかれたらしい。女子生徒は急に立ち上がってスカートを両手で押さえた。 

「先生のエッチ」

「はっ、はう」違う、違うんだ。

「仮病まで使って、あたしのスカートの中を見たかったんだ」

「ひい、ひ、……ひい」誤解だ。本当に体調が悪くて苦しんでいるんだから。

「お金を払わないでタダで見ようとしたなんて、信じられない」

「う、……うう」必死で首を振って否定した。

「加納先生に言いつけます。本当に男の人って、みんながエッチで困っちゃう」

「あっ、あう」ま、待ってくれ。

 手塚奈々は踝を返すと、さっさと立ち去っていく。振り向きもしない。助けてもらえなかった。絶望感が全身を包む。西山明弘は力が抜けていくのが分かった。疲労困憊だ。また目を閉じるしかなかった。

 

   56

 

 「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。

 周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。

 良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。

 それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。

 覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。

 西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。

 一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。

 西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。

 体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。

 あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。

 最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。

 痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。

 顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。

 「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。

「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」

「え、この時期にですか?」

「はい」

「どこを刺されました? 見せて下さい」

「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。

「あら、本当だ。痛みますか?」

「ええ。少しズキズキしてます」

「頭痛や眩暈とかは?」

「ちょっとしているかな」

 この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。

 「もしかしてアナフィラキシーかしら」

「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」

「アナフィラキシーですっ」

「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。

「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」

「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。

「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」

「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には--」

「え、……もしかして黄色いラインですか?」

「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。

「……」

 ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。

 「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。

「いいえ」

「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?

「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」

「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。

「偶然です。たまたま口に出してみたら、当たっただけのことですから」

「そ、そんな……」こんな時に意地悪しないで欲しい。こっちは不安で、不安で困っているんだ。

「とにかく消毒しましょう」

「……」東条朱里は振り返ると薬剤を取りに行った。西山は左足を出したまま待つしかない。

「かなり沁みると思います。目を閉じて横を向いてて下さい」

「わかりました」言われた通りに従う。痛みには弱い西山明弘だった。歯医者は大嫌い。顎を閉じて少し力を入れた。「うっ」患部に液体が落ちるのを感じた。

「終わりました」

「え?」ウソだろ。「待って下さい。まったく痛くありませんでしたけど」

「それは良かった」

「そんな……。かなり沁みるって言ったじゃないですか」

「個人差がありますから。西山先生の場合は消毒液と相性が合ったのかもしれません」

「……」消毒液と相性が合ったから痛みがない、なんて聞いたことがないぞ。この女、本当に養護教諭としての資格を持っているんだろうか。

「これで少し様子を見ましょう。痛みが続くようでしたら、また何か治療方法を考えますから」

「東条先生」さっさと保健室から出て行くように促しているんだろうが、これで引き下がるつもりは西山になかった。

「なんですか」

「あの虫のことを知っているんでしょう?」

「まったく知りません。何度、訊かれても答えは同じです」

「そう言われても信じられない。さっきは知っているような口振りだった」

「西山先生。ご存知かと思いますが、来月には入学式に続いて身体検査が行われます。その準備で忙しいのです。これで失礼させて下さい」言い終わると東条朱里という女は、椅子に腰を下ろして机に向かう。ボールペンを手にして書類を捲り始めた。完全に西山を無視だ。

「おい、お前な……」もう頭にきた。学年主任のオレに向かって、その態度はないだろう。ここでしっかり、どっちが偉いのか白黒つけないと後々つけ上がらせることになると思った。こてんぱに、こき下ろしてやるしかない。

 「ふざけてんじゃねえぞっ、このアマ」

「……」驚いた様子だった。真顔で西山を見ている。怒鳴ってやったのが効いたようだ。さあ、これから人生のレッスンをしてやろうじゃないか。

「いいか、オレに嘘をつくな。オレを刺した虫の説明を今ここでしないと、素っ裸にして校庭に放り出すぞ。お前のスケベなオマンコを生徒たちに見せてやることになるんだ。そうする前に犯してやってもいい。丁度ここにベッドもあるしな。代議士の愛人だろうと、そんなのオレには関係ない。む、……ど、どうした? なにが可笑しい」怯えさせようとしているのに、相手がニヤニヤし始めた。この女、やっぱりバカか。

「西山先生」東条朱里は言いながら、ゆっくりと西山明弘の股間を指差す。「あははっ」

「うっ」促されて視線を落とすと、ズボンのチャックのところが円を描くように濡れていた。や、やばいっ。二年B組の教室で倒れていた時に、小便を漏らしてしまったらしい。

 西山はベッドから立ち上がると、急いで保健室を出た。後ろから東条朱里の声が聞こえた。

 「どういたしまして。西山先生」

 

   57

 

 「はい。波多野です」君津警察署の波多野刑事は受話器を取って応えた。古物商許可証の申請書類に目を通していた時だった。

「君津南中学の加納です。お仕事中に、すいません」

「いいえ、構いません。どうしました?」

 構わないどころか、魅力的な女性と電話で話せて嬉しいくらいだった。生徒が自殺した事件で初めて会った時に、その知的な美しさに波多野は心を奪われてしまう。こんな素敵な女性と毎日のように顔を合わせられる息子が羨ましかった。

「三月十三日の土曜日の件なんです」

「……」今の一言で波多野の浮かれた気持ちは一気に沈んだ。嫌な予感。また何か深刻な問題が持ち上がったんじゃないだろうか。無意識だったが椅子に座り直して身構えた。「はい」続きを促す。

「どうして先日、学校で三月十三日に何か行事があるのかと問い合わされたのか、その理由を知りたくて電話しました」 

「わかりました」君津南中学でも何かあったらしい、波多野は思った。「しかし自分も加納先生が何故、その理由を知りたいのか教えて欲しいです」

「当然です。今さっき、ほかの父兄からも同じ問い合わせを受けました」

「……」やっぱりだ。波多野は確信を強くした。三月十三日の土曜日には何かある。「そうですか」

「その父兄の息子さんですが、家でクラスのみんなに三月十三日に学校に集まるように、電話で誘っているらしいです」

「うちの孝行もそうでした。ところが学校で何の行事があるのかと問い質すと、まったく知らないとしか答えません。ふざけている様子はない。本当に記憶にないみたいだった」

「その男子生徒も同じです。でも彼の場合は、両親が問い詰めようとすると暴力を振って暴れたらしくて」

「それはヒドい」

「はい」

「加納先生。わたしの意見ですが、二年B組の生徒たちで三月十三日の土曜日に、学校で何かを計画していると考えています」

「わたしも同じ考えです」

「だけど、それはいい事じゃない。たぶん何か悪いことだと思います。それを我々は阻止しなければならない。問題は、それが出来るかどうかです」

「そう思います」

「お互い、これから連絡を取り合いましょう。どんなに小さなことでも知らせて下さい」

「分かりました。お世話になります」

「こちらこそ」

 今のところ、これ以上の話はないと二人は判断した。「では失礼します」と言って波多野は受話器を置いたが名残惜しかった。

 二年B組の連中は何を計画しているんだろうか。まったく想像がつかなかった。しかし波多野の第六感が頻りに警告音を鳴らしていた。お前の手に負えない大変なことが迫っている、そう訴えているような気がしてならなかった。

 

   58 

 

 「これからは連絡を取り合うことにしたわ」加納久美子は美術室にいた。波多野刑事とのやり取りを安藤紫に伝えたところだ。

「三月十三日の土曜日っていうのは確か?」

「うん。そう板垣順平の母親も言っていたから」

「あたし、黒川拓磨から訊かれたのよ」

「えっ、なんて?」

「三月十三日の土曜日は空いているか、って」

「ど、どういう意味?」

「わからない」安藤先生は強く首を振った。

「それで、どう答えたの?」ビックリだ。初めて聞く。

「もちろん、空いていないって言ってやったわ。もし空いていたとしても、絶対に正直には答えない。あの子は何を考えているのか分からないもの」

「正解だわ。つまり三月十三日にB組の生徒達が集まって何かやるのは、やっぱり彼が首謀者なんだ」

「そう考えて間違いないと思う。ところで西山先生は、どうなっちゃったのかしら?」

「すごく心配してる」加納久美子は責任を感じていた。

「連絡は?」

「ない。電話は繋がらないし」

「最後に話をしたのが黒川拓磨なんでしょう?」

「たぶん、そう。あたしが西山先生に彼と話をしてくれるように頼んだから。でも黒川拓磨は否定しているの。会っていないって。だけど体育の森山先生から話を聞くと、彼は嘘をついているとしか思えない。手塚奈々は、西山先生がB組の教室で倒れていたって言うし」

「黒川拓磨と殴り合いでもしたのかしら?」

「違う。東条先生が教えてくれたんだけど、西山先生はハチに刺されたって言ってたって」

「え、ハチに? この寒い時期に?」

「うん」

「保健室で東条先生に手当てをしてもらって、そのまま学校から姿を消したってこと?」

「そう」

「何があったんだろう」

「わからない」

「どうするつもり、これから?」

「黒川拓磨が通っていた前の学校に電話してみようと思う。彼の担任をしていた教師と話がしてみたい」

 今年に入って君津南中学で起きてる、ほとんどの事件に黒川拓磨が関係していると考えられた。前の学校での彼の様子が知りたかった。

「あたしが近くにいた方がいいかしら?」

「ありがとう。でも一人で大丈夫よ」

「わかった」

 

   59

 

 携帯電話を持つ右手が汗ばむ。結局、加納久美子は昼休みに美術室から平郡中学へ電話をすることにした。横には安藤先生がいてくれた。やっぱり心強い。しばらく呼び出し音が鳴り続く。カチッ、と音がして繋がったのが分かった。

 「はい。平郡中学です」女性の声。

「もしもし」加納久美子は喉がカラカラだった。 

「平郡中学です。もしもし」

「加納久美子と申します。君津南中学で教師をしています。実は、そちらから転校してきた男子生徒のことについて、聞きたいことがあるんです」

「……」無言だ。

「もしもし、自分は--」もう一度、繰り返そうと思った。

「うちからそちらの中学へ転校して行った生徒ですか?」

「そうです」よかった。一度で話を理解してもらえた。

「いつの事でしょう?」

「今年です。一月になります。三学期の始めに転校してきた男子生徒です」

「……」また無言。

「彼の名前は--」言う必要がなかった。

「黒川拓磨ですか?」

「そうです」

「どんなことを、知りたいのでしょうか?」相手の声は事務的なままだった。

「は、はい。それは、そちらから送られてきた書類に幾つかの空欄がありまして……。できましたら、彼の担任をしていた先生と話をさせて頂きたいのですが」

「……」また黙った。

「……」加納久美子は返事を待った。安藤先生の方を向く。目が合った。

「お待ち下さい。教頭先生と変わります」

「は、はい」担任だった教師は不在なんだろうか?

 保留のメロディが流れてきた。

 「教頭先生と変わってくれるって」加納久美子は早口で横にいる安藤先生に伝えた。

「どうして、担任教師じゃないの?」

安藤先生の問いに無言で首を振って、わからないと答えた。静かに待つ二人。しばらく保留のメロディが続いた。

「まだなの?」ずいぶん待たすじゃない、と文句を口にする安藤先生。

「……」それに加納久美子は顔をしかめて応えた。

「教頭先生なんかじゃ--」

 手で合図して安藤先生を黙らせた。保留のメロディが止まったのだ。咳をする音が耳に届いた。「もしもし」平郡中学校の教頭先生と思われる相手に声を掛けた。

「教頭の安部です」

「君津南中学の加納と申します。お忙しいところを申し訳ありません」相手の声と話し方から五十代の男性を想像した。

「どういった用件でしょうか?」その声には親しみが感じられなかった。

「そちらから転校してきた黒川拓磨という生徒について聞きたいことがありまして、電話させて頂きました」

「こっちから書類を送ったはずです。それを読んでもらえば、分かることじゃないですか」

「幾つか空欄ありまして、それで--」

「そんなことは珍しくもないでしょう」この電話を明らかに迷惑がっている口調だ。

「そうかもしれません。ですけど黒川拓磨という生徒が、そちらの中学ではどんな生活態度だったのか知りたいのです」

「どうして?」

「……」その問いに加納久美子は答えられなかった。

「普通の生徒ですよ。特に変わったところはなかった」

「そうですか」教頭は嘘をついている、と加納久美子は直感した。この会話を早く終わらせたくて、当たり障りのないことを言ってるだけだ。「では彼が転校した理由は、なにか分かりますか?」

「それは親の仕事の関係とか、いろいろ--」

「彼の父親は、去年の暮れに亡くなっていると書いてありました」久美子は相手の言葉を遮って言った。

「そ、そうだった。私は例えばの話をしただけだ。こちらでは、ハッキリした理由は把握していない」

「彼の担任をしていた教師と話をさせて下さい」

「その必要はないだろう。もう転校して行った生徒なんだから、そちらで好きなように対応したらいい」

「どうしても彼の担任をしていた教師と話がしたいのです」

「……」大きく息を吸って吐く音が聞こえた。

「お願いします」加納久美子は続けた。

「無理だな」

「何故です?」

「死んだよ」そう言うと平郡中学校の教頭は、一方的に電話を切った。

 

   60 

 

 加納久美子は携帯電話を持ったまま動けない。

「どうしたの?」と安藤先生。

「……」ショックで返事が出来なかった。ただ安藤先生を見つめ返すだけだ。

「加納先生」

「死んだって」声は小さい。やっと言葉を口から搾り出した感じだった。

「え?」

「黒川拓磨の担任をしていた教師は亡くなったらしい」

「まさか」

「そう言うと電話を切ったのよ」

「信じられない」

「あたしだって……」

 加納久美子と安藤紫の二人の教師は、それぞれの椅子に座ったまま黙り込んだ。聞かされた事実を必死に頭の中で整理した。

 「担任をしていた教師の死と黒川拓磨が関係していると思う?」最初に口を開いたのは安藤紫だった。

「……」問われると加納久美子は顔を起こして、無言のまま小さく頷く。

「あたしも」

「平郡中学校の教頭先生は間違いなく電話を迷惑がっていた」

「……」

「きっと平郡中学校で何か大変な事が起きたんだわ」

「そして、それを隠したがっている」

「そう」

「何だと思う?」

「わからない」

「これから、どうする」

「わからない」加納久美子は返事を繰り返すだけだ。

 二人は再び黙り込む。考えていることは間違いなく同じだ。平郡中学校で起きた事が知りたい。それを知れば黒川拓磨に対して何か対応が取れるはずだろう。しかし知る方法は、これで閉ざされてしまった。

 「君津署の波多野刑事に連絡したらどうかしら」沈黙を破ったのは加納久美子だ。

「そうだ、それがいい」

「もし平郡中学校で起きた事が警察沙汰になっていたら、調べてもらえるかもしれない」

「早く電話して」

「待って」

「どうしたの?」

「そうしたら、これまでに君津南中学で起きた不可解な出来事を、すべて言わないと」

「もちろん」

「それらに自分たちが、黒川拓磨が事件に関係していると疑っているとも伝えなきゃならない」

「それが悪いことなの?」

「しっかりした証拠がない。本人は否定しているし」

「構わないと思うけど」

「気が引ける」五十嵐香月の妊娠については、口が裂けても誰にも言えなかった。それに、もし自分たちが間違っていたら……。そう思うと行動を躊躇ってしまう。

「そんなこと言わないで。一刻も早く黒川拓磨の正体を暴くべきだわ」

「ちょっと考えさせて」

「三月十三日の土曜日まで、そんなに時間がないのよ」

「わかってるけど」

 加納久美子は、安藤先生の黒川拓磨に対する態度に違和感を覚えた。彼の正体を知ろうと不思議なくらい一生懸命のは何故なんだろう。

 

   61 

 

 大変なことになった。これは、ただの虫刺されじゃないらしい。

 西山明弘は君津南中学の保健室から出て行くと、そのまま自宅のアパートへ無断で帰ってしまう。一時間もしないうちに携帯電話が鳴り出した。相手が高木教頭なのは明らかだ。黙って学校から姿を消した同僚を訝って連絡を取ろうとしているのだ。無視した。それどころじゃない。

 ズボンを濡らしたままで職員室へ戻れるもんか。誰とも顔を合わせたくなかった。すべて持ち物は机の上に残してきた。

 きっと保健室の東条朱里が、西山は失禁していたと言い触らすことだろう。あの女の意地悪そうな笑みが頭に浮かぶ。悔しい。

 二年B組の手塚奈々は、西山先生はスカートの中を覗きたくて、仮病まで使ったと加納先生に報告してるはずだ。最悪。失態が全校生徒に広まっていくのは時間の問題。もはや君津南中学に自分の居場所は無くなったと思って間違いない。セクシーな安藤先生と知的な加納先生との永遠の決別だった。

 これからどうする。それを考えなければいけないことは、十分に承知している。しかし、……だ。

 虫に刺されたところが完治しないのだ。直後は強烈な痛みに気を失ったほどだった。それが二日もすると痒みに変わった。治りつつあるのかと思っていたら、そうじゃなかった。今では強烈な痒みに夜も眠れない。

 刺されたところは紫色で、それが太股の方まで広がろうとしていた。なんかヤバい状態だった。

 頼れるのは大家の娘だけだ。事情を話すと献身的に助けようとしてくれた。三度の食事はもちろん、何も言わなくても薬局へ行って色々な薬を買ってきた。その中にイボが付いたコンドームも含まれていたが、西山は酷い痒みに悩まされてセックスどころじゃなかった。性欲はなくなり女の要求に応えることができない。男として情けなかった。

 痒みに苦しみながらも、黒川拓磨に対する怒りを燃やす。絶対に許さん。こんな目にオレを遭わせやがって。もう一生が台無しだ。あいつは虫を操っていた。オレが刺されるように仕組んだのだ。数日後に電話までしてきやがった。

 「もしもし」

「オレだ、黒川だよ」

「……」マ、マジか。どこでオレの電話番号を調べやがった。

「西山、どんな具合だ?」

「……」

「痒いだろ? うふっ」

「……」

「せいぜい苦しむがいいぜ。あはは」

「ふざけんなっ、バカヤロー。覚えてろっ」西山は電話を切った。

 一日も早く完治して仕返しがしたい。黒川拓磨は邪悪の根源みたいな奴だ。尋常な方法じゃ始末は出来ないと悟った。何か方法を考え出さなきゃならない。

 西山明弘は復讐心を募らせた。

 

   62 

 

 「吉川ひなのとイザムが結婚したけど、すぐに離婚しそうじゃない?」お弁当箱を片付けながら安藤紫が言った。

「言えてる」お茶のカップを口元からテーブルに置くと、加納久美子は応えた。

「誰もが、そう思っていそう」

「そう思っていないのは当事者の二人だけよ」

「あはっ」

 加納久美子と安藤紫は、いつも通りに昼食を美術室で取った。話題は、全豪テニスでヒギンズと対決した女ランボーことアメリ・モレスモから始まって、ペンティアムⅡ搭載のノート・パソコンを買おうか迷っている、と様々だった。

 安藤先生は黒川拓磨の話に触れようともしない。これからどうするのか知りたいはずなのに、あえて訊いてこなかった。加納久美子の判断に任せようという気らしい。うれしかった。

 「波多野刑事に電話するわ」加納久美子は言った。

「うん」安藤先生は大きく頷いて賛成した。

「生徒のプライバシーがあるから詳しく話せない事だらけだけど、大まかに事情を伝えるわ」

「それがいいと思う」

「もし何かがあった時に後悔したくないし」

「言う通りだわ。可能な限り手を打つべきよ」

 その時だった、加納久美子のバッグの中からジョン・レノンの叫び声がした。『ミスター・ムーンライト』

 「ごめん」苦笑いして久美子はバッグから携帯電話を取り出す。

この着信音は五十嵐香月の家で気まずい思いをしてから、変えなきゃならないと分かっていながら通話が終わると、すっかり忘れてしまう。

 「誰かしら」知らない番号だった。「もしもし」

「……」

「もしもし」もう一度。反応がなかった。イタズラかしら。

「もしもし。わたし、望月と申します」女性だ。同じ年ぐらいか。

「は、はい」聞き覚えのある声だった。でも思い出せない。

「平郡中学校で庶務をしています。昨日の電話を最初に--」

「わ、わかります」久美子は相手に最後まで言わせなかった。思い出した。血液中のアドレナリン濃度が一気に上がった。「お電話、ありがとうございます」

 もしかしたら突破口になるかもしれない。期待が高まる。目を大きくして安藤先生に驚いた表情をして見せた。会話を一緒に聞いてもらいたいくらいだ。

 「うちの安部教頭が昨日は失礼しました」

「いいえ、構いません。こちらこそ突然に電話したりして……」

「今、お話を続けても丈夫ですか?」

「もちろんです」

「黒川拓磨について、お話したいことがあります」

「ぜひ聞かせて下さい」

「うちの学校で大変なことが起こりました。担任教師の死は彼と関係があります。そちらの学校で何が起きているか、想像に難しくありません」

「……」加納久美子の額に汗が浮かんできた。

「すべてを説明するのは電話では無理があります。いつか、どこかで会えないでしょうか」

「わかりました。今週の土曜日では?」最も早い休みが、それだった。すべて予定はキャンセルしよう。

「大丈夫です。ただ自分の体調が不安定で遠くまで行けません。それでも〡〡」

「私が平郡中学校の近くまで行きます。場所と時間は、そちらの都合に合わせますので」

「そうして頂けると助かります」

「どこがいいですか?」

「国道から平郡中学へ向かう県道へ左折する交差点は御存知ですか?」

「わかります」確かではないが、たぶん行けば分かると思った。

「その近くにマホニーというファミリー・レストランがあります。そこの駐車場に午前十時に待ち合わせでは如何でしょうか」

「大丈夫です」

「スズキの白い軽自動車で行きます」

「私の車はフォルクス・ワーゲ--、いえ、2ドアの紺色の自動車です」車種を言っても一般の人には馴染みのない車だった。

 お互いにフル・ネームを言い合って通話を終えた。加納久美子は手帳を開いて、三月六日の欄の空白に待ち合わせの時間と望月良子という名前を書いた。そして好奇心に満ちた顔を見せる安藤先生に会話のすべてを教えた。

 「あたしも行きたい」安藤先生が言った。

「え、本当?」

「連れて行って」

「待って。望月さんに電話して了解を取るから」

「そうして。いきなり二人で現れるより、事前に話しておいた方がいいわ」

 久美子としても安藤先生と一緒に行きたい。携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。

 「あ、加納久美子です。さっそくで、すいません。土曜日の件なんですが、私の同僚で安藤という女性と一緒に行ってもいいですか?」

「こちらは構いません。ええ、お二人で来られた方がいいと思います」

「ありがとうございます。そうさせて頂きます。それでは--」

「待ってください」

「はい?」

「言い忘れたことがあって、電話しようと思っていたところなんです」

「何でしょう」緊張する。

「黒川拓磨の母親と話をしたことがありますか?」

「い、いいえ」会ったこともないし、電話で言葉を交わしたこともなかった。

「こちらでは、家での黒川拓磨の様子を聞こうと日時まで約束したのですが、あの事件が起きて出来なくなったのです」

「そうでしたか」

「何か強く伝えたい事があるような印象だったのですが……」

「……」

「もし可能でしたら、そちらで--」

「わかりました。彼の母親と連絡を取ってみます」

「もし話ができたら、こちらへ来たときに結果を教えて下さい」

「もちろんです」

「それだけです」

「では、土曜日に」

「はい。失礼します」

 加納久美子は携帯電話を畳むと、安藤先生に言った。「黒川拓磨の母親と話をしてみてくれって」

「会ったこと、あるの?」

「ない」

「黒川拓磨の家まで行くつもり?」

「そう。午後は空いているから電話してみる」

「がんばって」

 

   63

 

 意外だった。加納久美子はフォルクス・ワーゲンのポロを、外壁のトタンが所々に赤く錆びた家々が並ぶ一画の前に停めて唖然とした。低所得者向けの集合住宅だった。

 この中に黒川拓磨が母親と二人で住む家がある。何軒かは人が住んでいなくて、もはや廃墟に近い。五十嵐香月が住む家みたいな建物を頭に描いて、住所と地図と頼りに探したのだが当てが外れた。

 生徒の学力は家庭の経済力と比例する。収入が高いほど子供の成績はいい。それが定説だった。しかし今、唯一の例外を目の前にしていた。

 加納久美子は自動車から出て、道路に面した手前の建物の前に立った。「あれ?」表札がなかった。

 その隣の家にも同じようにない。何号とかいう建物の番号すらなかった。

 書類に目を落としたが、やっぱり黒川拓磨の住所の欄にも番地までしか書かれていない。母親は何も言ってくれなかった。久美子は午後、お昼休みが終わるとすぐに電話を掛けた。母親は家に居てくれた。

 「息子さんの担任教師をしています、君津南中学の加納という者です。失礼ですが、お母さんでいらっしゃいますか?」

「……はい」

「拓磨くんのことで、お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

「……」

「時間は掛かりません。すぐに終わります」久美子自身も時間がなかった。

「また拓磨が学校で何かやらかしたんですか?」

「……」また、という言葉が久美子の頭に残った。「いいえ、そういう事じゃありません。家庭訪問みたいなものです。こちらに転校されて、まだお会いしていなかったので」

「そうですか」

「何分も掛かりません。すぐに帰ります。今から行ってもよろしいですか?」

「わかりました。お待ちしています」

 それだけだった。家が判りづらいとは一言も口にしてくれない。探すしかない。ここまで来て引き返すことはできなかった。加納久美子は勇気を出して、目の前に建つ家のドアを叩く。「ごめんください」

 人が住んでいる気配があるのに反応がなかった。間合いを保ってドアを叩き続けた。声は次第に大きくなっていく。家の中から物音が聞こえたので止めた。 

 鈍い音を立てながら中から引き戸を開けてくれたのは、汚れた白いトレーナーの上下に薄手の黒いジャンパーを羽織った、七十代と思われる痩せた老人だった。

 「……」何も言わないで加納久美子を見てるだけだ。

「失礼します。実は黒川さんのお宅を探しています。ご存知ないでしょうか?」

「えっ、なんだって?」耳が遠いらしい。久美子は声を大きくして繰り返した。

「知らねえ」ぶっきらぼうな言い方だった。誰とも関わりたくないという態度が明らか。老人の開いた口の中には歯が数えるほどしかなかった。

「わかりました。失礼しました」久美子は頭を下げて、その場から身を引く。

 別の家に当たったみるしかない。どうしよう。ここは近所付き合いが、まったくない場所らしい。辺りを歩き回って自分で探すしか方法はないのか。すごく居心地が悪かった。家から出てきてくれた老人が、そのまま中に戻らずに久美子の様子を眺めていた。まるで不審者を見るような目で。

 これは苦労しそうだ。時間の許す限り一軒、一軒を調べるしかないと覚悟した。

 「加納先生ですか?」

 いきなり後ろから声を掛けられた。ヒヤっとした。振り返ると、ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツ姿の中年女性がいた。きっと黒川拓磨の母親だ。助かった。

 「そうです。拓磨くんのお母さんでいらっしゃいますか?」

「はい」

「初めまして。担任をしています、加納久美子です。よろしく」

「黒川です。こちらへ」

 久美子は母親の後ろに付いて行く。通路が狭くてプロパンガスのボンベと何度か接触しそうになった。気をつけないと、無造作に置いてあるバケツや鉢植えに躓きそうだった。黒川拓磨が住む家は最も奥に位置していた。

 居間に通された。座布団に腰を下ろすと、壁に掛けられた派手なワインカラーのワンピースに目が引き付けられた。母親は夜の仕事をしている、と理解した。「お構いなく。時間がないので、すぐに帰りますから」母親がお茶を煎れようとしたので遠慮した。

 「拓磨くんの家での様子は、どんな感じなんですか?」久美子は訊いた。当たり障りのない質問をしながら、何かを読み取りたかった。

「……」どう答えていいのか母親は分からない様子だ。

「どんな事でも構いません」

「普通じゃないかしら」声が小さい。

「お母さんとは話しをしますか?」もっと具体的に訊くことにした。

「はい。少しは……」

「どんな話をしますか? 例えば」

「え、……そう、天気とか」

「……」これでは埒が明かない。母親は事実を言っていない、と思った。隠したがっている感じだ。「息子さんの学校での成績を知っていますか?」

「い、いいえ」

「どのくらい彼が勉強しているか興味はありますか?」

「はい」

「でも彼と成績のことで話をしたことがないのですか?」久美子は決め付けるように言ってみた。

「……そうかもしれません」

 信じられなかった。ここまで親が勉強に無関心なのに、息子の成績はトップクラスだ。

「拓磨くんは、とても勉強ができます」

「そうですか」

「このまま行けば、どこでも高校は入学できると思います」

「はい」息子を褒められても嬉しそうでもない。

「息子さんについて何か困っている事はありますか?」

「ないです」

「……」話が続かない。

「……」母親は目を合わそうとしない。自宅に担任教師が来たのが迷惑らしい。

「わかりました。これで失礼します。お時間を割いて頂いて感謝します」

 この母親と話を続けても何も得られるものは無さそうだ、と判断した。自信がなくて、いつも何かに怯えている感じだ。あの自信に満ちた黒川拓磨とは似ても似つかない。座布団から立ち上がろうとしたところだった。

 「加納先生」

「はい」

「ここに先生が来たことは、息子に言わなくてもいいですか?」

「どちらでも構いません」黒川拓磨に知られても別にいい、と思った。

「そうですか。では内緒にしてくれますか」

「どうしてですか?」興味が湧いた。親子の間で都合が悪いということなのか。

「拓磨には言いたくありません」

「なぜです、お母さん?」

「……」

「お母さん、教えて下さい」

「怒るんです、あたしが勝手な事をすると」

「暴力を振るうとかですか?」

「いいえ、そこまでは……」

「わかりました」久美子は了解した。

「あたし、とにかく拓磨が怖くて……」言いながら一瞬だが、母親は恐怖に体を震わせた。

「お母さん」加納久美子は看過できない何か異常なものを感じた。

「……」

「どうして、そんなに息子さんを怖がるんですか?」

「あ、あの子は……」首を振って何かを否定しようとしていた。

「お母さん、説明して下さい」

「先生。あたし、拓磨から逃げ出したくて」

「……」母親から聞く言葉じゃなかった。驚いて久美子は何も言えない。

「助けて欲しいんです」

「待って下さい。突然そう言われても困ります。事情を詳しく説明してください」

「話せば助けてくれますか?」

「……」聞きたい。しかし助けると安易に約束はできなかった。

「先生」答えを促していた。

「すべて話を聞いてみないと何とも言えません。約束できるのは、お母さんの力になれるように努力するということだけです」

「……」

「話して頂けますか?」久美子は訊いた。

「わかりました、それで結構です。あの子は、最初から自分の子とは思えなかった」

「どういう意味でしょう?」

「あたしが産んだのは事実なんですが、……何か、どうも不思議な気がしてならない」

「なぜ?」

「普通の子供とは違うような気がしました。……どう言えばいいのか、子供なのに何か強い意志と目的を持っているみたいでした」

「……」

「賢くて、あたしの子らしくなかった。すごく悩みました。ところが主人は違います。期待していた通りに、男の子が産まれて非常に喜んでいました。だから相談できなかった」

「そうでしたか」

「それに、あの子は双子で産まれてきたんです」

「えっ」兄弟がいるのか? 今どこに?

「もう一人は殺されました」

「何ですって」

「産まれてすぐです。それも病院の新生児室で」

「信じられない」久美子は思わず手で口を押さえた。「だ、誰が?」

「病院の婦長です」

「ま、……まさか」

「だけど腑に落ちない事ばかりでした」

「聞かせて下さい」

「これは主人の話ですが……」そう言うと母親は視線を逸らす。言いたくない事を、これから口にしなければならないという気持ちが伝わってきた。

「はい」久美子は促した。

「あたしを見舞いに来て新生児室の前を通りかかると、婦長がピンセットで自分の息子に危害を加えているところを見たそうです。急いで中に入りましたが、もう息子は死んでいました。主人はポケットにあった小型カッターを取り出して、怒りから婦長を刺し殺したのです」

「どうして? そんなことを」

「わかりません」

「……」あまりにも悲惨な話で、なんて言葉を掛けていいのか分からない。

「その後が大変です。主人は殺人罪で逮捕されました。少しでも刑を軽くしてもらいたくて、東京の有名な弁護士を雇ったんです。うちの実家は小さくても建設会社を経営していたんですが、多額の出費が続いて倒産しました」

「そうでしたか」

「主人は婿養子です。中学を卒業すると見習いとして入社してきました。期待はしていなかったのですが、ベテランの従業員が次々と辞めていって、それで会社の重要なポストを任されるようになります。あたしは一人娘です。新婚旅行中のことでした、両親が交通事故に遭って亡くなりました。それで主人は会社を継いだんです」

「……」なんか凄い話を聞かされている、そんな気分だった。

「五年で主人は仮釈放になります。知り合いを頼って建設作業員として働き出しました。ただ、不思議なのは……」

「なんです?」

「主人は殺された息子のことを全く悲しみませんでした。墓参りすら行きません。怒りから婦長に襲い掛かったのに、ですよ」

「どうしてでしょう?」理解できない。

「わかりません。理由を訊こうとすると話をはぐらかすんです。今は忙しい、とか言って」

「ご主人は去年の暮れに亡くなられたんですか?」確認するように久美子は言った。できたら、その理由も知りたい。

「そうです」

「ご病気ですか?」

「いいえ」母親は首を振った。

「……」それ以上は言いたくないのか。

「焼死でした」

「……」久美子は息を飲み込んだ。それなら自殺だと思った。

 これ以上はプライベート過ぎて訊けないと感じた。カシオのGショックに目をやると、学校へ戻らなければならない時間になっていた。

 「すいません、お母さん。授業があるので、もう帰らなければなりません。時間を作って、お話の続きを聞けるようにします。もし何かありましたら、遠慮せずに学校に電話して下さい。今日は、これで失礼します」

 玄関を出ようとしたところだ、母親は吐き出すように言った。

 「主人は平郡中学で死にました」

「……」加納久美子は凍りつく。「あ……、あとで電話します」それしか言えなかった。

 君津南中学へ戻るフォルクス・ワーゲンの中で、ハンドルを握る久美子の手は小刻みに震えていた。なんて悲惨な話だろう。産まれたばかりの赤ん坊が新生児室で殺され、その父親は息子が通う中学校で命を断つ。理解に苦しむことばかりだ。

 陸橋を下って君津市役所の交差点を右折したところで気づく。母親は息子の黒川拓磨を恐れる理由を何ひとつ言わなかった。時間がなくて、そこまで話が辿り着かなかったのか。授業が終わったら、電話しようと思った。まだ話は終わっていない。

 

   64 

 

 「ごめん、今日は一緒に行けそうにもないわ」土曜日の早朝だった、安藤先生から加納久美子に電話が掛かってきた。いつもと声が違う。

「どうしたの?」

「風邪を引いたらしい。喉が痛くて、頭痛もして少し目眩もするのよ」

「まあ、大丈夫?」

「一日、寝ているしかないみたい」

「わかった。じゃ、一人で行ってくる」久美子はがっかりだ。

「悪いけど、そうして」

「お大事に」

「ねえ」

「なに?」

「望月さんに、あたしの連絡先も教えた方がいいと思わない?」

「……」

「もし加納先生に何かあった場合に備えてよ。あなたの携帯電話が急に壊れてしまうことだって考えられるし。だから話を理解している別の人がいると、彼女に教えておくべきじゃないかしら」

 なるほど。「言えてる。わかった、そうする」

「じゃ、気をつけて行ってきて」

「うん、そうする。お大事に」

 

 加納久美子は待ち合わせのファミリー・レストランに、約束の二十分前には到着するつもりで家を出た。国道127号線を館山方向へ、フォルクス・ワーゲンのポロを走らせながら身体が緊張していくのを感じた。いつものドライブとは違う。

 え、嘘でしょう。どうして? いつもなら空いて飛ばせる道路が今日に限って渋滞していた。しばらくノロノロ運転を余儀なくされ

た。ある地点まで来ると前に繋がった自動車の先に、二台のパトカーが赤い点滅をさせたまま停車しているのが見えた。

 事故だった。これはマズい。約束の時間までに着けるか自信がなくなった。加納久美子はバッグから携帯電話を取り出すと、望月良子の番号を押した。

 「あ、加納です。すいません、事故で渋滞なんです。今、竹岡あたりを走っています。少し送れるかもしれません。それでも構いませんか? ああ、良かった。ありがとうございます。でしたら先にファミレスの中に入って、コーヒーでも飲んでいて頂けないでしょうか? ええ、そうして下さい。よろしくお願いします。では後ほど」 

 マホニーというファミレスの駐車場に着いたのは、約束の時間から十五分ほど送れてだった。スズキの白い軽自動車が目に入って、その横にポロを停めた。

 さあ、どの人が望月良子だろう。すぐに見つけられるだろうか。不安な気持ちで店内に入ってレジの前で立ち止まった。客が入店したチャイムに反応してウエイトレスが近づいてくる。その時、窓際の席で久美子に手を振る一人の女性が目に入った。笑っている。きっと、あの人だ。そう直感した。

 「お一人ですか?」ウエイトレス訊いてきた。

「いいえ。待ち合わせです」久美子は答えた。「あの人なんです」確信はなかったが、窓際に座る若い女性を指差した。

 「望月です。初めまして」半信半疑で久美子がテーブルに近づくと、プリントの白いブラウスに赤いカーディガンを羽織った若い女性が先に口を開いた。座ったままだった。

「加納です。初めまして。今日は本当に有難うございます」

「こちらこそ。こんな所まで来て頂いて感謝しています。で、お連れの方は?」

「あ、すいません。風邪で来られなくなりました」

「そうでしたか」

 小柄で笑顔の可愛い女性だった。はっきりとした大きな目が聡明な印象を強くしている。話し易そうな感じだ。良かった。たくさん色々なことを聞けそうな気がした。

 向かいの席に腰を下ろしてみると、窓の向こう側に自分のフォルクスワーゲンが停まっているのに気づく。なるほど。彼女は久美子が車から降りるところから見ていたらしい。

 「黒川拓磨の母親に会ってきました」さっそく加納久美子は話を切り出す。

「どうでした?」望月良子が応えて訊く。

 途中でウエイトレスが注文を取りにきて中断したが、加納久美子は相手に内容を全て話す。

 「母親は、とても息子のことを恐れている様子でした」そこを何度も強調した。

「やはり、そうでしたか」望月良子は頷く。「でも息子だけじゃありません。こちらへ母親が連絡してきた時は、夫にも恐れている様子でした」

「え、本当ですか?」

「夫と息子の二人から逃れたくて、こちらに助けを求めてきた感じです。しかし会って話しをしようとした直前でした、夫の方は学校で焼死したんです」

「そうでしたか」久美子は言った。

「黒川拓磨の担任教師と争って、二人とも亡くなったんです」

「まさか、……信じられない」

「教師の方がガソリンを教室に持ち込んだらしくて」

「確かなんですか?」

「いいえ、推量でしかありません。現場検証をして、警察が出した結論です」

「その現場に黒川拓磨はいたんですか?」

「わかりません。しかし教師が彼を焼き殺そうとしたところで、その父親が助けに入ったと考えられます」

「でも証拠はない?」

「その通りです」

「教師が人を殺そうとするなんて……、そんな」

「そうしなければならない状況に追い込まれたんだと思います」

「どうして、ですか? 黒川拓磨の平郡中学での様子を教えてください」さあ、ここからが本題だ。加納久美子は身構える気持ちになった。

「わかりました」そう言うと望月良子は座り直して口を開く。「単刀直入に言わせて頂きます。黒川拓磨は、……あいつは悪魔です」

「……」たじろいで返事ができない。こんな優しそうな女性から、そんな辛らつな言葉が聞かされるとは思ってもみなかった。

「彼に、どれほど学校をメチャクチャにされたか分かりません。今でも精神的に立ち直れない生徒がほとんどです」

「た、たとえば……」具体的に聞かせてほしい。久美子は促した。

「あいつは生徒たちの弱点を探り出して、悪の道、堕落の道へと誘い込んだのです。それは彼らの恋愛感情であったり、金銭欲であったり、虚栄心でもありました。そして誰一人、求めていたものが叶った者はいません。騙されたと気づいた時には手遅れでした。弱みを握られて、もう黒川拓磨の言いなりになるしかありません」

 注文したコーヒーを、ウエイトレスが持ってきたので望月良子は黙った。

「……」久美子は視線を相手から動かせない。テーブルの上にコーヒーが置かれても見もしなかった。確証はないが、うちの君津南中でも同じような事が起きていそうな気がしてならないのだ。

「見たかったビデオを黒川拓磨から借りた生徒なんですが、彼の視線の先のテレビには何も映っていませんでした」ウエイトレスが立ち去ると、望月良子は続けた。

「そうですか」うちの板垣順平と同じだ、久美子は思った。

「彼の母親が不審に思って声を掛けると、邪魔をするんじゃないと怒って激しく暴力を振るったそうです。両親は重傷を負って病院へ運ばれます。平和だった家庭が崩壊しました」

「……」

「女子生徒には女優にしてやるとか、その器量ならモデルになれそうだとか、甘い言葉で近づきます。黒川拓磨が君津の中学へ転校して行くと、彼女たちは中絶手術を受けなければなりませんでした」

「……」久美子は視線を望月良子から外した。五十嵐香月を妊娠させたのは、やはり黒川拓磨かもしれない。

「加納さんに、一つ訊きたいことがあります」

「え、はい。何でしょう?」久美子は視線を戻した。

「失礼ですが、お幾つですか?」

「二十八になります」自分の年齢が何かと関係があるのか。

「うちで黒川拓磨の担任をしていた教師は桜井優子といいます」

「え、女性だったんですか?」大胆な行動に出るからには、てっきり男性教師だと思った。

「そうです。それに加納さんと同じ年でもあります」

「えっ」

「彼女の出身は君津市でした」

「……」鳥肌が立ってきた。

「彼女の旧姓は木村でした。もしかして、ご存知ありませんか?」

「……」無意識に目が大きく開く。加納久美子は言葉が見つからない。

 木村優子。知っているどころじゃない、高校時代に仲が良かったクラスメイトの一人に同じ名前の女性がいる。「ま、まさか……」

「国際中学と高校を卒業しています」

「ま、待って下さい」もう話さないで。少し休ませて、そういう意味で右の手のひらを前に突き出す。胸が苦しかった。これ以上は一度に受け入れられない。

「……」望月良子は口を閉じた。

「し、知っています。彼女とは親しい仲でした。だけど信じられない、まさか」

「やはり、そうでしたか」

「木村優子さんは卒業と同時に、館山の方へ引っ越されたんです。何度が手紙のやり取りをしましたが、その後は疎遠になってしまいました。でも、あの子が……やはり信じられない」

「桜井先生は霊感の強い女性でした」

「ええ、そうでした。高校のときに、そんなことを聞かされたのを覚えています」

「では彼女が高木という教師から、ある鏡を預かったのは聞いていますか?」

「……」高木教頭のことだ。あっ、……そうだ、思い出した。

「その教師が処分に困っていた--」

「はっきり覚えています」久美子は相手の言葉を遮った。「いつか木村優子は、あるモノを高木先生から引き取って神社へ預けに行くと話してくれました」

「その、あるモノが鏡なんです」

「そうだったんですか?」

「はい。でも、ただの鏡ではありません」

「どんな?」

「黒川拓磨の正体を暴く鏡です。そして彼が最も恐れるモノが、それなんです」

「どういう意味ですか?」

「不思議な力を宿しています。その鏡で太陽の光を反射させて黒川拓磨に当てれば、彼は力を失い、枯れ果てて滅びるんです。そして鏡は彼の姿を、我々の目で見ているのとは違う容姿で映します。悪魔の姿です」

「本当ですか?」

「信じられないでしょうけど、これは事実です」

「その鏡は今、どこにあるんですか?」

「桜井先生の御主人が持っています」

「えっ、彼女の御主人が?」

「はい。桜井先生は鏡を手にしたまま焼死しました。検死が終わって、警察は遺品として夫に引き渡したのです」

「その鏡があれば黒川拓磨の正体が分かるんですね?」久美子は期待を込めて訊いた。

「そうです」

「……」その鏡を借りたい、久美子は思った。

「そこで、……私からの提案なんですが」

「はい」

「桜井先生の御主人は、ここから車で数分の所に住んでいます。海沿いに建つ、シーサイドという名前のマンションです。黒川拓磨の正体を暴くために、少しの間だけでも鏡を貸してもらえないか頼んでみたらどうでしょう」

「ぜひ、そうしたい……、ですけど自分は彼女の御主人とは面識がありません。いきなり行って頼んでみても……」

「加納さん、ここは急ぐべきです。手間取れば、それだけ黒川拓磨の影響が大きくなっていくだけだと思います。いきなり訪問することになりますが、事情を説明すれば分かってくれるんじゃないでしょうか」

「実は今度の土曜日に、黒川拓磨は学校で何かを計画しているらしいのです、それが凄く気掛かりで……」久美子は打ち明けた。

「クラスメイトを集めてですか?」

「そうらしいです」

「儀式です」

「え?」

「それは悪魔の儀式です」

「あ、……悪魔の儀式?」

「そうです。生徒たちを集めて、彼らの思考を集中させて大きな悪事を働こうとしているのです。それは絶対に阻止しなければなりません。うちの中学でも同じような出来事があって、取り返しのつかない事態を招いてしまいました」

「……」

「阻止するためには鏡が必要です。鏡があれば黒川拓磨の化けの皮を剥ぐことが出来ます。あいつの正体が明らかになれば、多くの人たちが協力してくれると思いませんか」

「はい」

「折角ここまで来たんです。行って断られたのなら諦めがつきますが、行かないで帰れば後悔するでしょう?」

「おっしゃる通りです」

「ダメで元々じゃないですか。行ってみるべきです」

「そうですね」久美子は同意した。

「簡単ですが、地図を書いておきました。これです。一緒に行ってあげればいいのですが、すいません、体調がイマイチなんです」

「あ、大丈夫です。一人で行けます」久美子は渡されたメモ用紙に書かれた地図を見ながら応えた。そうだ。もし彼女が一緒に行ってくれるなら、話は早いのにと思った。でも仕方がない。

 「どうです? 分かりますか」

「……これって、国道沿いに建っていた大きな白いビルですか?」

「そうです」

「リゾート・マンションみたいに目立つ建物ですよね?」久美子は念を押す。

「ええ、それです」

「じゃあ、大丈夫です。分かります」本当だ、ここから近い。

「それで、うちの安部教頭なんですが」望月良子が話を変えた。

「はい」

「あの人は官僚主義というか、これだけの事が学校で起きたのに揉み消すのに一生懸命でした」

「……」わかります、というふうに久美子は首を縦に振る。そんな感じが電話でもしたからだ。

「世間体が悪くなるからと、問題を抱えた生徒たちの親を説得して黙らせました。警察には、不倫した女教師と保護者の一人が別れ話が拗れて焼身自殺を図ったらしいと、嘘の話をして捜査を真相から遠ざけたのです。張本人の黒川拓磨には、すべて不問にするから転校してくれと頼み込みました」

「まあ、……」呆れたと続けて言いたいところを、途中で久美子は言葉を飲み込んだ。

「転校先の中学校が大変なことになると知っていながら、うちの教頭は手続きを強引に進めたんです。君津の借家だって彼が探して手配しました。とにかく自分の経歴に傷がつくような、都合の悪いことは全て隠してしまおうという魂胆でした」

「……」久美子は頷きながら、自身も怒りで熱くなる思いだ。正義感に燃える望月良子に同調していた。

「これが教育者のすることですか? 真相を究明すべきなのに、事件を闇に葬ってしまうなんて。もう情けないやら、悔しくて悔しくて、腹が立って仕方ありませんでした。反対に教頭は何もなかったような顔をして仕事を続けています。信じられますか?」

「……」久美子は反射的に首を横に振った。

「ところがです、……」

「はい」怒りに満ちた相手の口調が急に静かになった。聞き漏らすまいとして久美子は身を僅かに前に屈めた。 

「まわりの教師たちはどんな思いでいるのか、わたしは探りを入れてみたんです。そしたら驚いたことに、教頭先生と同じ態度の人たちが少なくありませんでした。後で知ったのですが、彼らは生徒たちと同じように黒川拓磨に唆されて弱みを握られ、人生をズタズタにされていたんです。胃潰瘍に苦しむ教師には必ず治る漢方薬を知っているとか、賭け事で借金ができた教師には買えば絶対に儲かる株があるとか言って、その気にさせました。夫に不満を持っていた中年の女教師には、きれいに別れられる方法があるとか言って近づいたんです。つまり黒川拓磨によって、学校全体がメチャクチャされていました。もう私一人が声を上げても何も変わらない状態だったのです。我慢して黙るしかありませんでした。もし行動を起こせば教頭に睨まれて職場に居られなくされるのは明らかです。この不景気に仕事を失うわけにはいきません」

「そうでしたか」久美子は同情した。

「でも加納さんからの電話を受けた時、すぐに黒川拓磨の件だと分かりました。やっぱり、という感じです。うちの教頭とのやり取りを横で聞いていました。なかなか引き下がらない強い女性だな、と感心しました。もしかしたら、この人なら黒川拓磨の正体を暴いて公にしてくれるんじゃないかと直感したんです。それで電話をして全てをお話しようと決心しました」

「ありがとうございます」

「加納さん」

「はい」

「黒川拓磨は怪物です。正真正銘の悪魔です。正体を暴くのは簡単ではありません。鏡は絶対に必要です」

「これから桜井氏のマンションへ行ってみます」

「そうして下さい。ちゃんと説明すれば桜井氏は理解してくれると思います。でも、もし借りられたとしても、それだけで十分とは言えません。誰か協力してくれる人はいますか?」

「はい。一緒に来る予定だった〡〡そうだ、彼女の携帯の番号を言っておきます。もし自分の携帯電話がバッテリー切れになったり、何か不測の事態が起きた場合に備えて」

「言えてます。教えて下さい。これから何回か、お互いに連絡を取り合うことになるでしょうから」

「よろしくお願いします」 

 加納久美子は手帳の一ページを切り取ると、安藤紫の名前と携帯電話の番号を書いて渡した。ああ、良かった。もう少しで忘れてしまうところだった。

「わかりました。もし加納さんと連絡が取れない場合は、この方に電話します」

「そうして下さい。彼女は同僚で美術教師です。ずっと親しくしています」

「では、その方にも私の携帯の番号を伝えて下さい」

「そうします。ありがとうございます」

 望月良子は無言で頷くと、コーヒーを手に取って口をつけた。その顔からは憤りの表情は消えていた。すべてを話し終えた感じが伝わってきた。

「今日は来て良かったです」久美子は言った。

「そう言って頂けると嬉しいです」

「さっそく、これから桜井氏に会いに行きます」

「上手く行くことを願っています」

「結果は夕方にでも電話で報告させて下さい」

「待っています」

「じゃあ、これで失礼します。あっ、待って。ここは私に払わせて下さい」望月良子が白い伝票に手を伸ばしてきたので、久美子は素早く横取りした。

「いいえ、そんなこと出来ません。こちらまで来て頂いたんですから」

「いいえ、払わせてください。話して下さったことに本当に感謝しているんです」

「では、せめて割り勘にしましょう」

「いいえ、私に払わせて下さい。お願いします」久美子は頑として譲らなかった。結局、相手を承諾させてテーブルを立ち上がった。

 「あらっ」

「はい。そうなんです、実は」

「いつですか、予定日は?」望月良子の腹部が大きかった。

「来月です」母親になる喜びを満面の笑顔で表して答えた。

「まあ。すいませんでした。こんな大事な時に、わざわざ会って頂いて」体調が不安定なのも当然だ。

「いいえ、とんでもありません」

 立ち上がってみると、身長は久美子の方が高かった。相手を先にしてレジへ向かう。その途中で望月良子は足を止めて振り返った。顔は笑顔のままだ。大きな腹部に手を当てながら、何か言い残したことでもあるように口を開く。

「うふっ、双子なんです」

「……」その言葉を聞いて、加納久美子の顔から一瞬で笑みが消えた。数日前、五十嵐香月の口から同じ台詞を耳にしていた。黒川拓磨も双子で産まれてきたらしい。偶然の一致なんかじゃない、そんな気がした。

 

   65  

 

 「望月良子、……ですか?」

「はい」久美子は頷く。

「さあ、……知らない。初めて耳にする名前だ」

「え、そんなことは……。平郡中学で庶務をしている方ですけど」

「いいえ。その名前は妻の口から聞かされたことがない」しっかりとした口調で桜井氏は否定した。

「……」どうなっているんだろう? 狐につままれた思いで加納久美子は黙るしかなかった。

 国道沿いに建つ白いマンションに立ち寄ってみると、幸運にも桜井氏は在宅だった。インターフォンを通して、いきなり訪ねて来た理由を説明した。話している途中だった、加納久美子という名前に気づいてくれたらしい。

 「もしかして優子の高校時代に仲良しだった方ですか?」と訊かれた。「そうです」と答えると、すぐにドアが開いて部屋の中に迎えられた。木村優子が夫に学生時代の友達の話をしてくれていたので助かった。

 リビングに入ると一気に旧友の面影が蘇る。部屋のコーディネートが彼女そのものだった。パステルカラーで統一されて、所々に観葉植物が飾ってあった。高校時代に彼女の家に遊びに行った時のことが思い出される。それが今ここに再現されているのだ。なんて懐かしい。目の前のドアが開いて、高校生の木村優子が姿を現わしてくれるような気がしてならなかった。と同時に彼女と二度と会えない悲しみが込み上げてきた。胸が痛い。自然に涙が流れた。桜井氏に見られまいと顔を反対の方へ向けた。

 疎遠になってしまって御免なさい。あなたとは、ずっと友達でいたかったのに。

 同じ職業に就いていたなんて。もし付き合いが続いていたなら、お互いに悩みを打ち明けたり、色々と話し合えただろう。残念でならない。

 ううっ。急に罪悪感が込み上げて胸が痛くなった。もし友情が続いていたなら、彼女は死なずに済んだかもしれない。きっと、そうだ。優子は窮地に追い詰められる前に、自分に相談したはずだ。助けを求めたに違いない。そして自分は彼女を助ける為なら何でもしたと思う。優子の死は久美子自身にも責任があるように感じた。

 ああ、御免なさい。優子、大好きだったよ。

 こうなったら何としても、木村優子が命を落とした理由を突き止めたい。加納久美子は強い使命感を覚えた。 

 木村優子が夫に選んだ男性は、髪を短くカットした細面の顔で、白いポロシャツにブルージーンズを穿いていた。物静かでスタイリッシュだ。優子が恋に落ちたのも頷ける。似合いのカップルだったに違いない。まず久美子は仏壇に線香を上げさせてもらった。手を合わせながらも、彼女のことは考えまいと意識した。これ以上は悲しみに浸ることは出来ない。わざわざここまで来た理由を見失ってしまう。 

 リビングのソファに落ち着くと、君津南中学で起きていること、また平郡中学で起きたことを加納久美子は詳しく話した。ところが桜井氏が望月良子という人物は知らない、と言われて唖然としてしまう。どうなっているんだろう。言葉が続かない。

 「あそこの教頭には会いましたか?」気まずい沈黙を破って桜井氏が訊いてきた。

「い、……いいえ」久美子は答えた。電話で話をしただけで顔を合わせたことはない。

「あの男は信用できない」

「……」相手の表情に怒りが宿るのが分かった。

「事件を闇に葬ったんだ。それだけじゃない、遺品として警察から返ってきた鏡を渡せと言ってきた」

「えっ、鏡をですか?」

「そうです」

「どうして?」

「黒川拓磨にとって脅威となっているからでしょう。あの安部とかいう教頭は黒川拓磨の言い成りだった」

「今、どこに鏡はあるんですか?」

「自分の実家にあります。木箱に入れて神社で祈祷しました。そうすることで邪悪な存在は手も足も出ない」

「その鏡は、優子さんが高校時代に高木先生から預かったモノですね?」

「そうです。その教師が、どういう経緯で鏡を入手したのかは知りません。でも処分に困っていたのは事実だ。そこで優子が引き取ったのです」

「その話は高校時代に、私は優子さんから聞きました」

「そうでしたか。では妻が異常に霊感が強い女性だったのは知っていますね?」

「ええ」

「産まれた時にベネチアン・ベールを被っていると、それが強くなるらしいです」

「え、ベネチアン・ベール?」

「はい。つまり羊膜のことです」

「そうなんですか」

「優子は黒川拓磨という邪悪な存在が、鏡を破壊しようと画策することを予期していたようです」

「桜井さん」お願いするなら今だ、そう久美子は思った。

「はい?」

「次の土曜日なんですが、黒川拓磨は学校で生徒たちを集めて何かを行おうとしています」

「それはマズい。絶対に止めさせるべきだ」

「そうなんです。それで--」

「あの鏡が必要なんですね?」桜井氏は久美子の言葉を遮って言った。

「その通りです」なんて物分りのいい人だろう。

「……」

「お願いできますか?」

「……」桜井氏は黙ったままだ。

「ダメですか?」久美子は不安になっていく。

「僕の家内は亡くなりました。どういう状況でそういう結果になってまったのか、詳しくは分かりません。真相はうやむやにされてしまった。しかしです、すべての責任は黒川拓磨にあると考えています。あの鏡を持って自分が奴に立ち向かおうかと思ったりもしました。でも私は部外者なんです。味方になってくれそうな人はいません。それに第一、小柄な中学生を退治しようとする大人に、誰も協力しようとする気にはならないでしょう。もし一人で戦えば、優子の二の舞になりそうだ。それで諦めました。しかし鏡は、何があっても絶対に連中に渡さないと決めたんです。もしかしたら、黒川拓磨と対峙しようとする勇敢な人がいつか現れるかもしれない、という僅かな期待もありました」

「……」

「ところが現れたのが、……加納さん、あなただった」

「わたしではダメですか?」

「危険過ぎます。あなた一人では、とても……」

「待って下さい。わたしには協力者がいます。同僚で、安藤紫という者です。今日は体調を崩して一緒に来られませんでしたが」

「その方も女性じゃないですか。無理だ。とてもじゃないが黒川拓磨の悪事を止めるなんてことは出来ない」

「いいえ。男性もいます。警察官です。君津署で刑事をやっています。わたしの生徒の父親なんです」波多野孝行の父親なら、きっと強力な味方になってくれる。

「本当ですか?」

「はい」

「しかし非常に危険なことには間違いないです」

「わかっています」

「鏡を貸すのは構いません。しかし加納さんを危険に晒すのは気が進まない」

「慎重に行動します」

「逐一こちらに報告してくれますか?」

「もちろんです」

「お願いです。もし危険を感じたら直ちに行動を中止して下さい」

「そうします」

「わかりました。木曜日に実家に帰る予定があります。ですから金曜日の夕方ぐらいには取りに来て頂いて構いません」

「ありがとうございます。これは自分と同僚の安藤紫の携帯番号です。もし私と連絡が取れない場合は彼女に電話して下さい」そう言って久美子はメモを渡した。

「自分の携帯の番号を言います。控えて下さい」桜井氏が言った。

 久美子はペンを取り出して手帳に走り書きした。

「今日は本当に有難うございました。これで失礼します。いきなり訪問したことを御許し下さい」

「気をつけて、お帰りください」

「金曜日は電話をしてから参ります」

「お待ちしています」

 二人はリビングのソファから立ち上がった。桜井氏はエレベーターのところまで一緒に来てボタンを押してくれた。エレベーターが反応して一階から上がってくる。それを待つ間だった。

「加納さん」桜井氏の表情が重い。

「はい」どうしたんだろう。 

言い難そうに口を開く。「検死で分かったのですが、……妻は妊娠していました」

「えっ」

「でも自分の子ではありません。確信があります。私たちには計画があって、しっかり避妊はやっていましたから」

「……」じゃ、誰が? でも、それは自分の口からは訊けない。

「双子でした。優子は双子を身篭っていたのです」

 加納久美子は冷水を浴びせられたように全身が凍りつく。その事実は聞きたくなかった。これは自分の手に負えないかもしれない、そんな予感がしてきた。桜井氏を見つめるだけで何も言えない。

 帰宅を促すように、エレベーターの扉が静かに開いた。

 

   66 

 

 もうダメだ。このままでは悪化していくだけだろう。

 西山明弘は病院へ行く決心をした。虫に刺されてから十日ほど経つが症状は一向に良くならない。痒みは酷くなる一方で、全身に広がろうとしていた。

 咬まれたところから肌は赤黒く斑に変色して、触るとガサガサと荒れて、まるで爬虫類か何かの皮膚みたいだった。

 最初のうちは大家の娘が、献身的に痒み止めの薬を塗布してくれた。ところが症状が酷くなると、頼んでも拒否するようになる。最後は気味悪がって患部を見ようともしなかった。

 頼れる人間は大家の娘だった。不味くても食事の用意はしてくれた。しかし今では、カップ麺がドアの外に置かれているだけになった。部屋に入ってこようともしない。もう顔を合わせたくないらしい。もはや、あの程度の女にも見放された格好だ。なんて様だ、このオレが。信じられない。これほど惨めな気持ちになったのは今までになかった。

 医者に見てもらうしかない。薬局で買ってきた市販の薬では治せないと判断した。症状が少しでも良くなったら、一刻も早く黒川拓磨のバカに仕返ししたい。あの小僧、ぶっ殺してやる。

 何日かぶりにレガシイを運転した。4サイクル水平対向4気筒の振動が、ハンドルを通して伝わってきた。世界的に珍しい独特のエンジンだ。高い買い物だったが後悔はしていない。いい車だ。アトランテック・ブルーパールという、ボディ・カラーも気に入っていた。

 皮膚科の病院は五井の方まで行くことにした。地元近辺ではマズかった。知った顔に出会う恐れがあるのだ。以前に水虫の治療で近くの皮膚科に行ったところ、生徒の母親に会って、ヘンな噂を流されたことがあった。話が人から人へ伝わる途中で水虫が性病の治療に変わってしまう。否定したが、受け入れてくれたか自信がない。人は悪い方を信じたがるのだ。 

 国道127号線に出たところでカー・ステレオのスイッチを押した。レガシイを走らせて久しぶりに気分が少し良くなったからだ。音楽が聞きたくなった。

 スピーカーから流れてきたのは、おニャン子クラブが歌う、『セーラー服を脱がさないで』だった。西山が好きな曲の一つだ。

 初めて聞いた時は少なからず驚いた。こんな歌詞でよくON AIRできたなと思った。まるで全国の女子学生に、早く処女を失いなさいと奨励しているようなものじゃないか。

 一度で気に入った。特に好きなフレーズは、「友達より早くエッチをしたいけど」という下りだ。オレの脳下垂体をジーンと刺激してくれる。何度でも聞きたい。こういう歌詞を書いた奴は天才に違いないぞ。

 繰り返し繰り返し聞くうちに西山の頭には一つのアイデアが浮かぶ。それはバカでもいいから超セクシーな女をナンパして、そいつにセーラー服を着せてやろうという考えだった。

 成熟した身体にセーラー服だ。これは、きっと合う。最高にエロチック。でもセーラー服は脱がさない。着たままがいい。その格好で、オレの核弾頭を搭載したミサイルを何発も撃ち込んでやる。格納庫が空になるまで発射しよう。超セクシーな女を破壊して破壊しまくるのだ。攻撃が終わった後には何も残らない。女は意識も体力も無くなって廃墟と化す。

 色々と作戦を考えていく過程で想像は膨らむ。セーラー服の次は君津南中学の体操服を着せてやろうじゃないか。

 超セクシーな女に、あの小さな赤いブルマーを穿かせるのだ。こりゃ、セーラー服よりエロチックなのは間違いない。これまでは、手塚奈々が授業で校庭をランニングするのを横目で見て楽しむだけだった。

 きっと女は身の置き場もないほど恥ずかしがるだろう。そこでバッグに隠してあった高性能カメラを取り出して撮影を開始だ。お願い止めて、と女が泣き叫んでも無視。お前の恥ずかしい写真を職場の同僚に見せるぞ、と脅して更に恥ずかしい行為を強要する。

 赤いブルマー姿で……、そうだ、ついでに犬の首輪を身に付けさせて、図書館や郵便局の周りを歩かせよう。裸じゃないから法律には違反しない。だけど女は羞恥心で気が狂うほどだろう。その姿を一部始終ビデオに収めてやる。こういう事にかけてだったら西山明弘の想像力は誰にも負けなかった。

 どころが、……ところがだ。肝心の超セクシーな女が一人も見つからない。ずっと探し続けた。でもセーラー服やブルマーを穿かせたいと思う女は、テレビや成人向け雑誌でしか目にしなかった。

 大家の娘は、着ろと言えば素直に着たはずだ。だけど、あの女には似合わない。やっても意味がなかった。このオレが興奮するどころか逆に萎えてしまうのが分かっていたからだ。

 時間が掛かった。バカで少しぐらいブスでもいいかな、と条件を下げてみたりした。それでもいなかった。

 とうとう最初の一人を見つけたのは自分の職場で、驚いたことに想像もしなかったくらいに完璧な女だった。それが君津南中学で美術を教える安藤紫だ。

 長い脚と悩ましい曲線を描く太もも、桃みたいに丸い尻、くびれたウエストに女らしさを強調している胸の膨らみ。成人雑誌のグラビアを飾ってもいいスタイルだ。顔は小さく雛人形みたいに整っていて、艶のあるワンレングスの黒髪に包まれていた。

 なんて女だ。こんなに身近で、こんなに魅力的な女性に巡り合えるとは思わなかった。自分の幸運が信じられない。

 ピチピチした尻を左右に揺らして歩く後ろ姿を見たら、男は誰でもその場に釘付けだ。 仕事へ行くのが楽しくなった。何かにつけて安藤紫先生と話をする機会を作り出す。どれほど自分がいい男であるか、一生懸命にアピールした。

 職場にいても家にいても、西山明弘は安藤紫先生のヌードを頭に思い描く。ふくよかな胸はブラジャーを外した途端、ブルンと弾んで飛び出すじゃないだろうか。きっと乳首がツンと上を向いているに違いない。早く見てみたい。手で触れてみたい。そして口で吸ってみたかった。オレが巧みに舌を動かすと、安藤先生が上半身を仰け反らせて悶える姿を夢に見た。

 彼女のセーラー服を着た姿や、赤いブルマーを穿かされて恥ずかしそうに歩道を歩く様子を想像しては楽しんだ。

 こっちの好意が伝わるように優しく笑顔で常に接した。反応は悪くなかった。冗談にも笑ってくれた。ところが、いざ食事に誘おうとすると、何だかんだと理由を口にして、いい返事をくれない。プレゼントを買って渡したりもした。だけどデートの誘いは、のらりくらりとかわされる。それでも時々、オレに気があるような素振りを見せたりした。どうなってんだ。この女は一筋縄ではいきそうにない。西山明弘は悩んだ。これまで付き合ってきた連中とは違う。

 オレのミサイルを喰らえば、今までの女は一度で豹変した。

 「無理だわ。あたし、そんな恥ずかしい格好できない」なんて言っていたのに、すぐに同じ口から「お願い、もっとして」とか、「いや、まだ止めないで」なんて言葉が飛び出してくるのが常だった。

 最初の恥じらいは何だったのか? あの、「待って、まだ早いわ」とか言って焦らせたのは何だったのか? 女って生き物は理解するのに難しい。

 安藤先生だって一度でも身体を許せば、オレの凄さが分かるってもんだ。その時は、どうしてもっと早くデートの誘いに応じなかったのかと後悔するはずだ。

 時間は掛かりそうだ。しかし西山明弘は諦めなかった。こんな特上の獲物を他の男に奪われてたまるものか、そんな気持ちだ。オレが見つけた宝物だ、誰の手にも触れさせたくない。

 ところがだ、加納久美子先生の登場で固い決意が一気に揺らぐ。

西山明弘が何年も掛けて築いた、『自分が好む女性のタイプ』というイメージを根底から覆す容姿を持っていた。

 背は高いが、バストもヒップも大きくない。スレンダーな身体だった。女らしさよりもアスリートみたいな感じが強い。しかし喋り方とか、物腰や仕草が堪らなくセクシーなのだ。それに加えて全身から醸し出す知的な雰囲気。きりっとした目鼻立ちから、それは強く窺えた。

 新鮮な女だった。西山明弘の人生にとってニューヒロインの登場だ。知的が故に近寄り難さがある。バカな男じゃ相手にしてもらえないだろう。その点では有利だった。周りを見てもオレより賢そうな男はいない。

 知性に溢れた女性に赤いブルマーを穿かせて辱めるのは、それは一味違う興奮が期待できた。加納久美子が手に入るなら安藤紫は諦めてもいい、そんな気持ちになった。

 どっちかをモノにしたい。その為に努力してきた。思ったように事は上手く運ばなかったが。まだギブアップはしていない。いつか決定的なチャンスが来るのを待っていた。

 それが、ここにきて得体の知れない虫に刺されて状況は悪化。仕事すら失うかもしれない危機だった。異常な痒みに苦しみ、体は全身が内出血するように赤紫に変色していた。一日も早く、この症状から抜け出したい。

 完治したら真っ先にやることは黒川拓磨に仕返しすることだ。女どころじゃない。この西山明弘をコケにしたら、それなりの代償を払わす。やられて泣き寝入りするような情けない男じゃない。

 五井にある皮膚科の病院は小さいところを選んだ。どこでも同じだ。込み合っていなくて、早く診察してくれたらそれでいい。

 「どうしました」明らかに還暦は過ぎたと思われる医者は、診察室の椅子に腰掛けた西山明弘に訊いた。

 こんな、よぼよぼの年寄りで大丈夫だろうか。受付にいた中年の女は、こいつの女房だろうと察した。夫婦二人だけでやっている皮膚科の病院らしい。寂れた感じだ。ちゃんと診察してしてくれるのか、少し不安になってきた。

 「強い毒を持った虫に刺されまして……」西山は答えた。

「えっ、この寒い時期に? 一体どんな?」

「それが分からないのです。見たこともないやつでした」

「本当に虫なのかな?」

「そうです」 

「じゃあ、刺されたところを見せて下さい」

「これです」西山はジャージ・パンツの裾を捲り上げた。

「えっ。……こりゃ、ひどいな」 

「そうなんです。どんどん悪くなる一方で……」

「こんなに強い毒を持つ虫なんて、日本に生息しているのかな。私は知らない。で、刺されたのはいつですか」

「一週間ほど前です」

「ここまで酷くなるまで放っておいたんですか。そりゃ拙いな」

「いいえ、そういうわけじゃなくて……。市販の薬を使っていました。ところが一向に良くならなくて」

「症状が悪化してからでしょう? それじゃあ、意味がない。手遅れですよ。刺されたら、すぐに消毒しないと」

「えっ? し、しましたけど……」

「うふっ。していませんよ。見れば分かります」

「そんな、……医務室で消毒をしたつもりなんですが」

「勘違いでしょう。してたら、こんなに症状が悪くなるはずがありません」

「……」西山は怒りで顔が真っ赤になるのが分かった。しかし抑えられない。

 あの東条朱里のメス豚め、オレを騙しやがった。沁みます、とか言ってオレに目を瞑らせて、消毒薬とは違う別の液体を落としたんだ。許せねえ。間違いない、あの女は黒川拓磨とグルだった。二人してオレをハメやがって。チクショウー。仕返ししなきゃならないバカ野郎が一人増えた。ぶっ殺してやりたい。

 「どうしました?」

「あ、……い、いいえ、何でもありません」医者の言葉で我に返った。「で、どのくらいで治りますか?」

「……」

「先生?」

「何とも言えないよ」

「どういう意味です?」

「ここまで悪くなったら、……もう元通りには」

「刺された痕が残るっていうことですか?」

「だろうな」

「痒みが酷いんです。それは治りますか?」

「痒み? 痛みじゃなくて?」

「はい。刺された直後は物凄い痛みに襲われましたが、今は痒くて夜も眠れ--」

「あれっ」医者は西山の言葉を遮った。「ちょっと待って」おもむろにトレーからピンセットを手にすると、それを患部に近づけた。見ている前で荒れた皮膚の一片を取り除いた。

 そのまま医者はピンセットの先を正面に持ってくると、反対の手で老眼鏡を調節しながら凝視する。「うわっ。こりゃ、凄い」

「……」そんなモノを見て何を驚いているんだ、この年老いた医者は? この病院を選んだのは間違いだったかもしれない、と西山は思った。

「見てごらんなさい」ピンセットの先を西山の顔に近づける。

「はあ?」そんなモノ、見たくない。

「よく見て」

 何の意味があるのか分からない。それよりも、この痒みを早く何とか--。「げっ」

 自分の皮膚だった一片に何かが動いていた。よく見ると糸状の小さな虫だった。何匹かいる。なんて気持ち悪い。「これは……、これは一体なんですか?」

「幼虫だな」

「ど、どうして、……こんなところに」

「どうやら、キミの体の中で生息しているらしい」

「そ、そんなバカなっ」

「刺されたところを見てごらん」

「え?」信じられない気持ちだったが、医者の言葉に従った。「うわっ」その通りだった。刺されて化膿した回りに糸状の虫が蠢いていた。

「痒みの原因は、それだな」

「え、これが?」

「そうだ。つまり、その幼虫たちがキミの皮下組織の中を動き回ることによって、痒みが生じるということさ」

「……」

「キミが興奮したり、激しく体を動かしたりすると強い痒みが襲ってこなかったかな?」

「……」

「どうだ?」

「……確かに。言われて見れば、そうです」

「やっぱりな」医者は自分で納得するように大きく頷く。「血行が活発になれば、同時に幼虫たちも刺激を受けて活動が激しくなるということだ」

「……」

「痒みを抑えるには静かにしているしかない」

「そんな」

「キミを刺した虫は毒を注入したんじゃない。キミの体の中に卵を産み付けたらしい」

「そんな事ってあるんですか?」

「あるよ。聞いた話なんだが……」医者は前屈みの姿勢に疲れたのか、椅子に座り直すと続けた。「私の父親は太平洋戦争でニューギニアの密林地帯まで連れて行かれたんだ。そこでは人間の目を狙って卵を産み付けようとする虫がいたらしい。刺されたら次第に視力が落ちて、いずれは失明する」

「……」

「キミを刺したのも同じような種類じゃないかな。どんな虫だった?」

「ハエみたいに黒くて小さくて、……そいつの背中には黄色いラインがありました」

「え、黄色いラインだって?」

「はい」

「ふうむ。そういうのは聞いたことがないぞ」

「……」

「珍しい。もしかして新種かな?」

「どうしたら殺せますか? この虫は」

「蚊は血を吸って栄養分を奪うけど、この虫は人間の体に寄生するなんて……」

「もう痒くて、痒くて我慢できないんです」

「古い映画になるが、リドリー・スコット監督の『エリアン』を観たことがあるかな?」

「は、……はい」いきなり何だよ。どう、それが痒みと関係しているんだ。「宇宙船の中で怪物に襲われるやつでしょう」

「その通り。素晴らしい映画だった。わたしが面白いと思う作品の一つだ。まあ、しかしだな、シルビア・クリステルの『プライベート・レッスン』には及ばないが。彼女の代表作と言えば『エマニエル婦人』かもしれないが、わたし個人としては--」

「わかりました、わかりました。それで痒みを、なんとかしてくれませんか。すぐに」

「あの映画を思い出してほしい」

「どっちの映画を? なんで?」西山は声を荒げた。しつこい。映画の話をしに五井まで来たんじゃない。オレは治療に来たんだ。

「もちろん『エリアン』の方だ」

「何か関係があるんですか、治療と?」

「どこでエリアンは成長したんだい?」

「え」

「初めからモンスターだったわけじゃない」

「……」

「卵から飛び出して乗組員の顔面に張り付き、彼の体内に寄生したんじゃなかったか?」

「……」それと、これと……。まさか。

「同じことが、キミの体の中で起きていると考えて間違いないと思う」

「そんなバカなっ」

「否定したいキミの気持ちは分かる。だけど現実に向き合わないとダメだ」

「この虫がオレの体を食い尽くすって言うんですか?」

「かもしれない。しかしだ、この小ささから考えると、そうはならないだろうな」

「どうなるって言うんです?」

「キミの体の中に棲みついて養分を吸収しながら成長する。やがてサナギとなり、時期が来れば成虫になって飛び立って行くんじゃないかな」

「ふざけんなっ。こ、殺して下さい、早く」

「待ちなさい。この虫の正体が分からないんだ。治療したくても方法が分からない」

「何か殺虫剤がないんですか?」

「あるにはあるが、……しかし」

「お願いです、それを使って下さい」

「でもな、キミも死ぬことになる危険性があるんだ」

「え、……」どうして?

「キミに害を与えずに、寄生した虫だけを殺そうとするところに問題があるのさ」

「……」

「強い塩酸をかけたり、火で焼いてしまえば、きっと虫は死滅するだろう。しかしキミも命を落とすことになる」

「つまり今のところ、治療の方法がないってことですか?」

「そうだ。この虫はキミの体の中の奥深くにまで侵入しているみたいだしな」

「……」こりゃ、もう絶望的だ。

「そこでキミに提案なんだが……」

「はい」

「この幼虫が成虫になるまで待てないか?」

「待つ? どうして」

「成虫になれば、それを研究して殺す方法が分かるというもんだ」

「そ、それまでオレは痒みに耐えなきゃならないんですか?」

「仕方がないだろう。こんな不気味な虫に刺されてしまったのが悪いんだよ」

「……」

「わたしが全ての治療費を負担しよう。痒みは少しでも症状が軽くなるように手をつくす。その代わり、この虫が新種だったら学会で発表させてほしい」

「いやだ」こんなクソ虫に自分の大切な体を蝕まれるのを、ただ見ているなんて。

「しかし他に何か方法があるだろうか。ここは冷静に考えた方がいい。別の見方をするんだ。こんな珍しい虫に卵を産みつけられて幸運だった、と。だってキミが最初の一人かもしれないんだから。成虫になった姿を見てみたいと思わないかい? 学会で発表することになれば、もちろんキミの名前も大きく出ることになるだろう。その為なら少しぐらい痒くたって我慢できるはずじゃないか。どうだろう?」

「いやだ、絶対にいやだ」

「まあ、待ちなさい。そう早く結論を出すことはない。気持ちを落ち着けてからでも遅く--」

「帰る」

「なに?」

「もう帰ると言ったんだ」

「待ちなさい。早まっちゃいかんよ、キミ」

「うるさいっ」

 西山明弘は立ち上がると、医者の制止を振り払って診察室を飛び出した。金は払わない、保険証もそのままだ。駐車場でレガシイを急発進させた時、病院から医者が追いかけて来て危うく轢きそうになった。

 エンジンをONにさせたと同時に、ステレオのプレー・モードにスイッチが入った。おニャン子クラブの曲が入ったテープが運転席にチャラチャラした音楽を流す。『かたつむりサンバ』だった。耳障りだ。今は、そんな気分じゃない。最初の信号待ちで西山はイジェクト・ボタンを押すと、出てきたミュージック・テープを窓の外へ投げ捨てた。『セーラー服を脱がさないで』を二度と聞くことはないと思った。

 

  67 

 

 「お話があります」職員室で二人だけになれる時間を見つけて、加納久美子は高木教頭に詰め寄った。

「何だ?」高木教頭は身構えた。女教師の普段とは違う真剣な雰囲気に気づいたのだろう。

「先生が国際中学で教えた生徒の中に、木村優子という女の子を覚えていらっしゃいますか?」

「……」驚いた顔を見せると、その表情を読み取られまいとして教頭は視線を外した。

「わたしのクラスメイトでもありました」

「よく覚えていない。そんな名前の子がいたか?」

「そんなはずはありません」加納久美子は言い切った。

「どうして、そう断言できるんだ? きみは」

「わたしはハッキリと覚えているからです」

「きみと私とでは事情が違う。これまで何人の生徒に教えてきたと思っているんだ」

「彼女は普通の女子生徒ではありません」

「……」

「霊感の強い女の子でした。教頭先生が処分に困っていた鏡に気づいたのは彼女でしょう?」

「そ、そんなことがあったか……?」

「ある品物を高木先生から引き取ることになったと、木村さんが話してくれたのを覚えています。彼女の表情は、いつもと違っていました」

「よく覚えていないが、どうして今頃そんなつまらない話を--」

「つまらない話では決してありません」

「しかし昔の事じゃないか」

「そんなふうに片付けられなくなりました。その鏡を、どうやって教頭先生が入手したのか教えてほしいのです」

「……」高木教頭が息苦しそうに呼吸をし始めた。額に汗も浮かんでいる。苦悩しているのが明らかだ。

「お願いします。教えてください」

「頼む。……よく覚えていないんだ」声が小さい。下を向いて、まるで母親に叱られた少年みたいだ。

「思い出してくれないと困ります」久美子は容赦しない。

「きみは私を、そんなに苦しめたいのか」

「違います。教えてくれないと大変なことになりそうだからです」

「何だって」

「あの鏡で木村優子は命を落としました」

「えっ」

「黒川拓磨と関係がありそうなんです」

「なんで知っているんだ? そんなことまで」

「土曜日に木村さんの御主人と話をしてきました。彼女は平郡中学で英語教師をしていて、黒川拓磨の担任だったんです」

「まさか」

「十三日の土曜日に、この君津南中学でも何か事件が起こるかもしれません」

「十三日の土曜日だって?」

「はい」

「これ以上は、……もう」

「そうです」もう手に負えないほど沢山あり過ぎた。

「……」

「教頭先生、教えてください。その鏡はどこから手に入れたんですか?」

「加納先生」

「はい」

「今日は勘弁してくれ。気分が悪いんだ」

「では、いつなら?」

「一日、二日でいいから、待ってくれ。連絡を取らなければならない奴もいるんだ。なんとか思い出すから」

「どうして?」

「こっちにも事情がある」

「急いで下さらないと」

「わかってる、わかったから」

「……」

 加納久美子は半信半疑だった。待ったとして、教頭先生が本当のことを話してくれるとは信じ難い。すごく怯えていた。なぜ? 

 あの調子なら時間を掛けて、話を誤魔化す口実を考え出すかもしれない。その鏡が相当な曰く付きだということだけは分かった。果たして桜井弘氏が言った通りに、それを手にすれば黒川拓磨の正体を暴くことができるのだろうか。

 

   68

     

 「ところで、お前」女が黒川拓磨に訊いた。「どうなっているんだい、あの忌々しい鏡は?」

「心配ない。今のところ思った通りに事が進んでいる。三月十三日までには片づくと思う」

「そりゃいい。あたしも少しは役に立ったのかい?」

「もちろん」

「よかった。あれが無くなりゃ、お前が恐れるモノは何もない」

「手に入ったら、すぐにオレが自分で始末する」

「そうしな。平郡中学じゃ、そのまま残して失敗したんだから」

「まさか熱で割れずに残ったなんて……。信じられなかった」

「それだけ厄介な代物なのさ」

「今度は間違いなく、この手で破壊してやるぜ」

「そしたら誰も、もう黒川拓磨を止めることは出来ない。あはは」

「もう、やりたい放題さ。三月十三日が楽しみだ」

「その日は、あたしも後から行くよ。上手く行ったかどうか見届けたいから」

「大丈夫さ。でも好きにしてくれたらいい」黒川拓磨は笑みを浮かべながら言った。

 

   69 

 

 高木将人は加納久美子にウソをついた。連絡を取らなければならない奴なんて一人もいなかった。もう誰もいないんだ。あの女に本当のことなんか口が裂けても言えるか。なにも知らないくせに。

 中学二年の頃、高木将人は東京の高円寺に住んでいた。初夏を感じさせる暑い日曜日だった、仲間四人と一緒に胆試しの目的で薄気味悪い空き家に入って行く。好奇心いっぱいで、何の恐れもなかった。真鍮みたいにスクラップ屋に売れる金属があれば、盗んでやろうという気だ。敷地内には、背中に黄色い線の入った見たこともない、ハエみたいな黒い虫が何匹も飛んでいた。

 「なんか気持ち悪いな」仲間の一人が言った。みんな同じ思いだったはずだ。だけど、引き返そうぜと弱気を口にする奴はいない。五人いれば怖いもの知らず。さっさと金目のモノを見つけて、ずらかろうという気だ。

 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」

「そんなこと、どうでもいい」

「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」

「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」

 家の横に小さな蔵みたいなのがあって、そこで虹色に輝く鏡を見つけた。日本語じゃない不思議な文字が所々に書かれていて、異様な感じがした。珍しくて価値がありそうだ。みんなが欲しがった。しかし高木が二日後には千葉県の君津市へ引っ越すことになっていたので、餞別という意味合いで仲間が諦めてくれたのだ。嬉しかった、その時は……。

 空き家というより廃墟に近い。人が住んでいないと思っていたのが、そうじゃなかった。仲間はパニックになって逃げ出す。それ以来、お互いに連絡がつかなくなっていく。虹色に輝く鏡だけが残った。

 嫌な思い出の品となった。君津には持って行ったが押入れの奥に仕舞ってそのままにした。いつか捨てようと思っていたが、すぐに存在を忘れてしまう。

しかし何年も経って異変が起き始める。夜中に押入れから物音がするのだ。ネズミでも潜んでいるのかと思ったが、そうじゃなかった。中に入っている物を全て取り出して調べる途中で思い出す。原因は、この鏡だと直感した。早く処分した方がいい、と考えた。不気味過ぎる。持っているべきじゃない。

 盗んだモノなので、両親には知られたくない。君津高校へ通う通学路の途中で、ゴミ置き場へ黙って捨てた。これで安心。

 ところが数日して、また押入れから物音がする。原因は鏡じゃなかったらしい。もう一度、中の物を取り出して詳しく調べるしかない。その作業をしている途中で、無いはずの鏡を目にした時は心臓が飛び出すくらいに驚く。捨てたのに押入れの中に戻っていた。理解できなかった。

 もう一度、捨てに行こうかと考えたが止めた。戻ってきているのに、その逆の行為をすることはバチが当たりそうで怖かった。逆らわない方がいい。高木将人は保管し続けることにした。夜中に押入れから物音がするのは我慢するしかなかった。

 成人して教員になり、国際中学に就職した。そこで助けられた。

授業が終わって教室から出て行こうとすると、一人の女子生徒に呼び止められた。勉強のことで何か質問するのかと思ったが違った。

 「先生、処分に困っている物を持っていませんか?」

「え、なんだって」何のことが分からなかった。

「手放したいのに手放せない物を持っているでしょう?」

「さあ、……分からないけど」

「……そうですか」

「何のことだろう。あはは」

「わかりました。でも、もし心当たりがあるのでしたら、いつでも相談に乗ります」

「……」

 冗談を言われたのだろうと思って、その場を後にした。しかし女子生徒の真剣な表情が頭に残った。

 気がついたのは数日後だ。彼女は、あの虹色に輝く鏡のことを言っていたのかもしれない。どうして分かったのだろう。不思議だ、怖いくらいに。それ以後は授業中、その女子生徒の視線が耐え難いほど気になった。とうとう高木将人は自分から声を掛けた。

 「この前のことなんだけど。どういう意味で言ったのか教えてくれるかな」

「あたし霊感が強いんです。持つべきじゃない物を所持していて、高木先生が困っているのが分かります」

「……」そのとおりだった。

「助けてあげられます」

「どうやって?」白状したも同じ。

「わたしが引き取りましょう」

「ほ、本当か?」有難い。

「感じるんです。持っていれば、いずれ高木先生に大変なことが起きるんじゃないかと」

「……まさか」

「何か悪い存在が、それを奪い取ろうと追いかけて来るみたいなんです」

「悪い存在? なんだい、それは」

「わかりません。でも強い霊気を感じます」

「……」鳥肌が立ってきた。夜中に押入れから物音がするのも頷ける。「きみが何とかしてくれるのか?」

「はい。知り合いの神主さんに相談してみようと思います。そこの神社で預かってもらえるといいのですが……。とにかく、どこか神聖な場所に保管すべきだと思います」

「わかった」渡りに船だ。この話に高木は乗るしかないと思った。「明日、学校へ持ってくるから受け取ってくれ」

「わかりました」

「ありがとう」高木は心から感謝した。

 その女子生徒の名前は今でもハッキリと覚えている。木村優子だった。忘れるものか。

 口数が少ない賢そうな生徒で、成績も優秀だった。肩まで伸びたストレートの黒髪と色白の顔が調和していた。細身でしなやか。霊感が強いと言われれば、なるほどなと無理なく頷けてしまうような雰囲気を持っていた。

 あの鏡を職員室の外で彼女に渡した時は、重い荷物を肩から下ろしたような安堵感に包まれた。これからは自由に生きていける。長い刑期を終えて釈放された感じだ。

 それが……、あれから何年も経ったというのに、再び悪夢が蒸し返されようとしていた。

 あの鏡が原因で木村優子は亡くなったらしい。本当だろうか。信じられない。だが加納久美子が嘘を言うとも思えない。

 高木将人としては二度と、あの鏡を手にしたくなかった。見たくもない。入手した経緯なんかを明かしてみろ、きっと引き取ってくれと言ってくるに決まっている。嫌だ。絶対にイヤだ。加納先生には当然だが、本当のことは言えない。知らぬ存ぜぬ、を貫き通すしかないのだ。

 こんな大変な時に何でだ、という苦々しい思いも強い。高木将人は、まだ家族に株の損失を告白していなかった。カードローンからの多額の借金はそのままで、月末には口座から利息が引き落とされ続けていた。残高が底を突くのは時間の問題だ。一刻も早く助けてもらわないとデフォルトという事態になってしまう。

 女房の機嫌がいいタイミングを見計らっていた。しかし、パチンコで損をしたとか背中が痛いとか、ジャイアンツが負けたとか愚痴ばかりが口から出てくる毎日で、なかなか告白するチャンスは巡ってこなかった。焦るばかりだ。

 もしタイミングを間違って告白すれば、家での待遇は奴隷以下に成り下がるだろう。今ですら、飼い犬のリボンに負けているのだから。それを実感したのは、たまたま冷蔵庫にあったアイスクリームのカップを食べた後だった。リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ながら寛いでいた。そこへ凄い形相で女房がドアを開けて入ってきた。

 「あんた、何て事してくれたのよ。アイスクリーム、食べたでしょう?」

「う、うん」

「あれはリボンのデザートだったのに。二度と勝手なことはしないで」

「わかった。すまない」 

「まったく、もう」女房は吐き捨てるように言うと、リビングから出て行った。

 テレビでは、和歌山市の夏祭りで起きた食中毒事件の続報を伝えていたが、もう高木将人の目と耳に届かない。頭の中で、自分は食べさせてもらったことがないのに、犬のリボンにはデザートが与えられているという事実を噛み締めていた。

 働き手はオレなのに、この冷たい待遇はないだろう。人生をやり直したい気持ちを強くした。

 この家から出て行きたい。自由になりたかった。しかし自分は無一文だ。あるのは中学校の教頭という職業だけだ。

 人生に絶望していた。すっかり髪の毛も薄くなって、実際の年齢よりも老けて見える。鏡の前に立つのが嫌だった。影で生徒たちが自分のことをハゲと呼んでいるのも知っている。腹の回りは、たっふりと脂肪が付いて中年の体形そのものだ。運動をしなくなって何年も経つ。これでは、もし魅力的な女性に出会っても恋愛を楽しむなんて夢物語だ。悲しい。

 但し、……但しだ、もし金があれば、……話は別だろう。それなりに財力があれば、きっと女性が自分を見る目も変わってくるはずだ。アルマーニのジャケットに身を包めば、この身体だって見栄えは少し良くなる。

 なんとか再起を図りたい。とりあえずは株の損失を鬼の女房に告白して助けてもらう。早急にカードローンの借金を帳消しにしなければならなかった。たぶん通帳とキャッシュカードは取り上げられて、二度と京葉銀行から金を借りられなくなるだろう。

 だけど高木将人にはアイデアがあった。目を付けたのは、給食費とか修学旅行費として生徒たちから集めた金だ。手付かずで学校の金庫に眠っていた。旅行代理店への最初の支払いが生じるのは、まだ一ヶ月も先だった。それまでの間に、もし確実に儲かりそうな株が見つかったら……。

 リスクを冒さなければ大きな利益は手にできない。男は一生に何度が勝負しなければならない時を迎える。それが高木将人の信念だった。もし上手く行ったらと思うと、頭にはダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの美しい姿が浮かんだ。

 詳しく株式新聞を読む毎日が続く。安易に行動を起こす気持ちはない。犯罪行為なのだ。失敗したら身の破滅。絶対と確信が得られるまで金庫の金には手を出さない。儲かりそうな株が見つからなければ諦めよう、そんな気持ちだった。

 こんな事情だから、手放した鏡のことなんか考えている余裕はない。今は、それどころじゃないんだ。加納久美子には、やっぱり思い出せないと突っ撥ねてやろうと結論を出した。

 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』、と決めつけるしかない。

 

 

   70 

 

 「どう思いますか?」加納久美子は電話で、これまでの経緯と桜井氏から聞かされた話を、君津署の波多野刑事に説明した。内容は大まかで五十嵐香月の妊娠については伏せた。しかし双子を身篭るという事実は重要な意味を持っていると意識していた。

「信じられないですよね?」相手の反応を促した。

「……そうですねえ」波多野刑事は言い難そうに答えた。「ですけど話して下さったことには感謝しています。知っているのと知らないのでは大きく違いますから。もし何かが起きたとしても、素早く対応できます」

「じゃ、良かった」

「加納先生」

「はい」

「十三日の土曜日は、私も学校へ行って待機しましょうか? 丁度その日は非番なんです」

「……」有難い。でも……、もし何も起きなかったら。

「何時ごろに学校へ行かれますか?」

「たぶん十時前です。早めに行こうと思っています」

「どうしましょう、僕は?」

「そうですね……、お言葉は嬉しいのですが」

「一人で行動するのは勧められませんよ」

「安藤先生がいます。彼女も事情を知っている一人です」

「しかし、……女性ですよね」

「ええ。まあ、そうですけど」

「私が学校の中ではなくて、外で待機しているというのは、どうです?」

「いいえ、そこまで。もし何も起きなかったら……」気が引ける。

「用心の為ですよ」

「待ってください。孝行くんも学校に集まる約束をした一人じゃなかったですか?」

「そうです」

「では自宅で息子さんの様子を見ていて下さいませんか?」

「……」

「もし彼が学校へ向かう様子を見せたら連絡を下さい。後を付けるなりして、こちらへ向かってくれませんか」

「なるほど」

「その前に学校で何かが起きる様子がありましたら、すぐに波多野さんに電話をします」

「わかりました」

「ありがとうごさいます」

「でも加納先生、くれぐれも気をつけて下さい」

「わかりました」久美子は応えた。

 とても現実とは思えない、怪奇映画の脚本みたいな話なのに波多野刑事は聞いてくれた。馬鹿にした様子もない。本当に心配してくれているみたいだ。加納久美子は心強い味方を得た思いだった。

 

   71 

 

 あいつ、こんな所に住んでいたのか。 

 あまりに古いアパートを前にして高木教頭は驚く。

 西山明弘は乗っている車はスバルのレガシイだったし、お洒落っぽい服をそれなりに着こなしていたので、どっかのモダンなマンションにでも住んでいるのかと想像していた。安い給料で上手くやっているんだと羨ましく思った。

 しかし奴の住所欄に書かれた番地に建っていたのは、取り壊しが時間の問題であろう老朽化したアパートだった。これじゃ、きっと家賃は三万円もしそうにない。

 住むところを節約して世間体を良くしていたらしい。なんて見栄っ張りな男なんだ。呆れる。

 西山明弘が職場を無断欠勤してから一週間以上が経っていた。みんなが毎日、自分に頻りに訊いてくる。

 「西山先生から連絡はありましたか?」

「西山先生、どうしちゃったんですか?」

「西山先生、どこか具合でも悪かったんですか?」

 それらの問い掛けには、「いや、知らない。何度も電話しているけど応答がないんだ」と答えた。

 しかし心の中では、『ふざけんな。知るわけないだろう。そんなに親しくないんだから。オレは、今それどころじゃないんだ』と、怒鳴りたい気持ちだった。

 西山明弘が出勤しなくなって別に何とも思っていない。逆に、気取った目障りな奴がいなくなって清々してるくらいだ。

 たいした仕事も出来ないくせに、偉そうに威張ってやがる。たかが学年主任のくせに。

 安藤先生と加納先生の尻を追い掛け回しているだけの、薄っぺらい男だった。『とてもじゃないが、お前には無理だ。どんなに努力しても、あの二人は手が届かない高嶺の花だ』と、ハッキリと西山明弘に言ってやりたい思いに何度も駆られた。

 奴への嫌悪感は、高木自身が既婚者で、独身男性のように魅力的な女性の前でウキウキできないという不満からも強くなった。教頭としての立場もあるので、西山が安藤先生の前でする下心が丸出しの態度は絶対に取れない。

 もし結婚していなければ、自分は西山なんかよりも若い女性に対して、上手に接することが出来ると自信があった。確かに恋愛経験は少ない。いや、まったく無いと言ってもいいだろう。片思いの苦い思い出しかなかった。しかし男女の恋をテーマにした映画を観た回数は、そこらの連中には負けていないと思う。

 『男と女』、『ある愛の詩』、『愛と青春の旅立ち』、『ゴースト ニューヨークの幻』なんかだ。特に気に入っているのが、『小さな恋のメロディ』と『天国から来たチャンピオン』だった。

 将来あんな素敵な女性と恋がしたいと心を躍らせた。現実は悲惨そのものになってしまったが。

 もしも次のチャンスがあれば,その時は慎重に相手を選ぼう。誰からも紹介されたくない。自分自身で探す。その場の雰囲気に飲み込まれないで、どんな状況でも自分の好みのタイプを思い出そう。そして魅力的な女性を見つけて、デートを楽しみたかった。映画で観たシーンを自ら体験するのだ。

 西山の奴が安藤先生と付き合うのは許せない。そんな事になれば自分は落ち込んで立ち直れないだろう。世の中、そんな不公平があってはならない。 

 安藤先生から、「西山先生から食事に誘われましたけど、都合が悪くて断りました」と聞かされた時は嬉しかった。あいつがオレよりも幸せになるのは嫌だ。「彼は、いい加減なところがある。気をつけた方がいいよ」と安藤先生に忠告することは忘れなかった。

 「教頭先生、西山先生の様子を見に行かないんですか?」職員室で加納先生が訊いてきた。

「どうして?」訊き返してやった。みんなが、そう目でオレを見ていることは知っている。

「え、だって心配じゃないですか?」

「そりゃ心配している。しかし幼稚園児じゃないんだ。もう彼は立派な大人だろ。責任というものを自覚しなきゃいけない」

「でも、もし病気だったら……」

「うん、……まあな。だけど無断欠勤する前は元気そうだった。もし病気でも連絡ぐらいは出来るはずだ。わざわざ私が様子に見に行くことはないと思う」

「そうですか」

 言い方が強かった所為だろう、これで加納先生は引き下がってくれた。色々と忙しいんだ。奴の家なんかに行きたくない。時間が勿体なかった。

 思いとは反対に西山明弘のアパートまで足を運ばなくてはならなくなったのは、校長から言われたからだった。この野郎、クソ面倒な事は全部オレにやらせやがって。

 「校長、今日の午後に行こうと思っていたところですよ。帰ってきましたら、すぐに報告します」そう返事をした。

 住んでいる所は簡単に見つかった。番地を頼りに路地を車で低速にして走っていると、奴の青いレガシイが目に飛び込んできたからだ。いつも洗車してあって、新車のような輝きを放っていた。老朽化したアパートの駐車場では特に目立った。

 なんだ、あいつ家に居るんじゃないか。どうして連絡してこないんだ。わざわざオレに足を運ばせたりしやがって。

 高木は怒りを覚えながら自分の軽自動車から降りた。運転席のドアを閉めた瞬間、新たな考えが頭に浮かぶ。待てよ、ひょっとして奴は死んでいるのか? もし死んでいるとしたら、きっと自殺だろう。

 もう勘弁してくれ。そんな場面に立ち会うのは嫌だ。佐野隼人に続いて、これで二度目じゃないか。今度は第一発見者だぞ。えらい事になる。高木将人は同僚の死を心配するよりも、面倒に巻き込まれることが嫌だった。

 しかし、ここまで来たんだ。奴の部屋まで行ってみるしかない。諦めの心境で、錆ついた階段に足を掛けた。「おっと」慌てて手摺を掴んだ。三段目ぐらいのところで、グラッと揺れたのだ。どっかのボルトでも外れているんだ、きっと。

 ひえーっ。おっかねえ階段だ、これは。いつ倒れても不思議じゃない。とてもじゃないが、こんなところにオレは住めない。

 階段を上がった正面の部屋は204号室だった。奴の部屋は201で、つまり奥の角部屋がそうらしい。高木は一刻も早く立ち去りたい気分で足を進めた。歩くだけでミシミシと音をたてる建物だ。

 奴も結構、金には苦労してたんだな。高木の西山に対する嫌悪感が少し和らぐ。

 「西山くん」戸を叩きながら名前を呼んだ。

「西山くん」もう一度。応答を待つ。でも部屋の中から物音がしてこない。 

 留守か? 近所にタバコでも買いに行ったのかもしれない。それなら--いや、違う。奴は喫煙しなかった。

「西山くん、高木だ」

 静寂。

 やっぱり死んでいるのか。ヤバいことになりそうな雰囲気だ。この扉の向こうで奴が首を吊っていたりして。そんなもの目にしたくなかった。ここから早く帰りたい。高木は無意識にドアノブに手を掛けた。しっかり施錠されていることを願いながら。そしたら学校に戻って、彼は留守でしたと校長に報告できる。

 「ああっ」意に反してドアノブが回った。そして力も入れていないのにドアが勝手に開く。なんてこった。「……」安堵。口の中に溜まった唾を飲み込む。ロープにぶら下がって息絶えた奴の姿はなかった。

 「西--、あうっ」名前を呼ぼうとしたが最後まで言えない。中から強烈な異臭がしてきたからだ。高木は手で口と鼻を押さえた。

それに無数の黒い虫が飛んでいた。「ひゃーっ」

 驚きのあまり後ろに引っくり返った。恐怖が高木を襲う。金縛りに遭ったみたいに動けない。全身から流れる冷や汗。どきどきと心臓は大きな音を立てて鼓動した。上手く呼吸ができない。く、苦しい。

 ただの虫ではなかった。二十九年前、高木が中学二年の時に、仲間四人と一緒に忍び込んだ空き家で見た、あの虫だった。ハエのように黒く、目は悪意に満ちてギラギラと赤い。そして背中には黄色いラインが走っていた。

 その二日後に高木は高円寺から君津市へ引っ越す。仲間の四人とは、それっきり連絡が取れなくなった。一体、何が起きたのか分からない。でも良くない事が田口と寺島、それに菅原と市川の四人に起きたのは間違いなさそうだ。

 思い出したくない事実だった。忘れることは不可能なので、ずっと頭の隅に閉じ込めていた。この虫が再び現れたことで嫌な記憶が鮮明に蘇ってしまう。

 一刻も早く、この場から立ち去らないと。高木は這いつくばって階段まで辿り着く。手摺を掴んで、なんとか立ち上がる。腰が抜けたみたいだった。下半身がガクガクした。ゆっくり慎重に足を出して階段を降りていく。もう少しで地面というところだった、足がもつれて踏み外してしまう。

 丁度その時だ、片手にカップヌードルを持って階段を上がろうとする若い女が現れた。あまりに突然で避ける余裕なんかない。ほとんどラクビーのタックルみたいな感じでぶつかった。二人とも勢いよく地面に倒れこむ。鈍い音。カップヌードルが女の手から離れて転がっていく。

 普段だったら、深々と謝って落とした物を拾ってやったはずだろう。恐怖に怯えた高木将人は自分のことしか考えられなかった。乗ってきた軽自動車へ急ぐ。イグニッションを回してエンジンをオンにすると、何もなかったかのように車道へ出た。安全運転を心がけないと。こんな所で事故は起こしたくない。対向車を認めたので左側に寄らなければならなかった。早く学校へ戻りたい一心だ。落ちていたカップヌードルを前輪が踏み潰すのを知っていながらスピードは落とさなかった。

 一瞬、若い女がどうなっているか、それを確かめようと階段の方へ目を向けた。えっ、マジか? 落ちた状態のままで動いていなかった。やばい。でも軽自動車から降りることはしない。高木将人はアクセルを踏み込む。そうすれば抱え込んだ全てのトラブルから解放されるような気がして。

 ハンドルを持つ手の震えは収まらない。高木は今後のことを考えた。戻ったら校長には、こういうつもりだ。「彼は留守でした。また明日にでも行ってみます」と。安心して当分は何も言ってこないだろう。そのうち忘れてくれたら申し分ない。

 だけど二度と西山のアパートへ行くつもりはなかった。絶対にイヤだ。あんな恐ろしい目に遭うのは二度と御免だ。

 どうやら加納久美子の言った通りらしい。二十九年前に仲間と空き家に忍び込んで、自分が持ち去った鏡と、黒川拓磨は何か関係があるのだ。また今の君津南中学、二年B組で起きている不可解な出来事も同じように。

 高木将人は身が縮まる思いだった。自分に大きく責任がありそうだ。周囲から追及されて、槍玉に挙げられる可能性があった。

 あの時は、まだ十四歳の少年だ。遊び半分の気持ちで鏡を持ち帰っただけなのに。勘弁してほしい。

 こうなったら絶対に鏡には関与していないと言い張るしかない。認めたら身の破滅だ。ただでも問題を抱えて辛い思いをしているのに。

 三月十三日の土曜日が心配になってきた。何か大変なことが起きるんだろうか。起きてほしくないが。高木は自分も学校にいるべきだと考えた。何かが起きそうなら、それを阻止したい。これ以上、君津南中学に事件が起きてはならない。

 

   72 三月十二日 金曜日の午後 1  

 

 加納久美子は、昼食を終えて少し経つと職員室から出た。今日は安藤先生が休みなので一人で食べた。なかなか風邪が治らないらしい。昨日は午前の授業が終わるとすぐに彼女は早退したのだ。

 誰もいない場所へ行ってポケットから携帯電話を取り出す。何時ごろに着くか桜井弘氏に伝えようと考えた。

 六時限目の授業はなかった。今日は早退しても問題はない。好都合だ。上手く行けば、帰宅のラッシュアワーを避けて君津に戻れるかもしれなかった。

 「もしもし」

「加納です。先日は失礼しました」

「いいえ。とんでもありません」

「五時限目の授業が終わり次第こちらを出発します。そちらへ着くのは--」

「ええっ、ちょっと待って下さい」

「はい?」もしかして都合が悪くなったのか。

「どういう事ですか?」

「……」久美子は自分の耳を疑う。

「話が分からない」

「お約束した鏡のことです」当たり前のことなのに口にするしかない。

「それなら昨日の夜に、そちらの安藤先生が取りに来られましたけど」

「ええっ」全身に衝撃が走った。何も聞いていない。

「加納先生の都合が悪くなって、こちらまで来れなくなったと聞いたんですが。そうじゃなかったんですか?」

「……」どうして? 

「加納先生?」

「は、はい」

「どうなっているんですか?」

「申し訳ありません。こちらの手違いでした」そう言うしかなかった。

「もしかして安藤先生が勝手に取りに来たんですか?」

「い、いいえ。そういう事じゃなくて……」

「では、どういう事ですか?」

「これから彼女に会って受け取る約束でした。色々と忙しくて私が勘違いをしたようです」

「本当ですか?」

「はい。すいません」信じてくれないのは分かっている。嘘をついて、この場を取り繕うしか方法はない。

「……」

「申し訳ありませんでした。明日、どうなるか分かりませんが、チャンスを見つけて黒川拓磨に鏡を突きつけてみます」

「……」

「どうなるにせよ、すぐに結果は知らせます」

「わかりました。……では十分に気をつけて下さい」

「ありがとう御座います。これで失礼します」

 加納久美子は廊下の隅に携帯電話を持ったまま動けない。信じられなかった。どうして? 理解できない。

 一瞬で安藤紫という仲が良かった女性が、まったく知らない別の人物になった思いだった。何かの間違いであって欲しい。

 勇気を出して加納久美子は安藤紫と連絡を取ろうとした。呼び出し音が続く。出てくれない。諦めて携帯電話を閉じた。もし応答してくれても、どう話を切り出していいのか分からなかった。彼女からも納得のいく説明が聞けるとも期待できない。頼りにしていた味方を失った思いだ。この状態で明日の土曜日を迎えなければならないのか。

 加納久美子は不安でいっぱいだった。

 

   73 三月十二日 金曜日の午後 2

 

 とうとう明日になった。

 山岸涼太は自分の席に座りながら、心は穏やかではなかった。心配していた。絶対にヤバいことが、この二年B組の教室で起きると思う。みんな集まるべきじゃない。

 仲間の相馬太郎と前田良文は集会へ行く気だった。二人は黒川拓磨に洗脳されていた。奴の言いなりだ。オレは、そうじゃない。賛同するような態度は見せてるが、心の中では毛嫌いしていた。手を切りたい。だけどそれを口に出せば、とんでもない目に遭わされそうな気がしてならなかった。

 黒川拓磨は人間じゃない。何か悪魔みたいな存在だ。周りにいる連中を唆して破滅の道へと誘う。今、二年B組の生徒たちは多くが何か問題を抱えて悩んでいる感じだ。前と違って全員に活力がなかった。

 黒川の野郎は、明日みんなを教室に集めて一体何をやる気なんだ? 加納先生も来るんだろうか? 絶対に行くべきじゃない、と山岸涼太は考えていた。

 どうしよう。加納先生に忠告すべきか、このオレが? これまで山岸涼太は、ずっと君津南中学校の問題児として見られてきた。勉強はしないが悪いことは何でもやらかす。それが教師たちのイメージだ。まあ、その通りだから仕方ないが。

 そんなオレが加納先生を助けようと行動を起こして、信じてもらえるだろうか。不安だ。笑われて終わりかもしれない。

 「加納先生、黒川拓磨には近づかない方がいいです。絶対に何かを企んでいる。奴を無視して下さい」こう言ってあげたい。

 クラスは、最後のホームルームで担任の加納先生を待っていた。

終わったところで呼び止めて、忠告すべきだろうか。なんか恥ずかしい。

 山岸涼太は迷っていた。オレらしくない。正義の行動を起こすことに躊躇いを覚えた。

 視界に黒川拓磨の後ろ姿を認めた。大人しく席に座っていた。見る限りでは普通の中学生と変わらない。しかし山岸涼太の霊感が強く警告を鳴らす。奴とは一切関わるな、と。

 五十嵐香月が近づいて黒川に何か話しかけた。二人ともニヤッと笑う。えっ、マジかよ。あの二人、出来てんのか? すると黒川が左手で五十嵐の顔を撫で始めた。それを嫌がらないどころか、五十嵐香月は唇に触れると奴の指を、おどけて口に含んだ。見ていた山岸涼太は、びっくりだ。

 学校で、そんな事やっていいのかよ? なんか、すごくエッチな感じ。校則違反じゃねえのか。いや、待てよ。さすがに生徒手帳には、校内で女子生徒が男子生徒の指をしゃぶってはいけません、なんて書いてなかった。じゃあ、許される行為なんだろうか? 

 しかしだ、学校で最も綺麗な女の一人と評される、あの五十嵐香月を転校して来て何ヶ月も経っていないのに、モノにしてしまった黒川拓磨って奴は凄い。こんな調子でクラスの全員を言いなりにする気だろうか。それってヤバい。誰かが阻止しないと大変なことになりそう。でも誰がいる、そんな正義のヒーローみたいな生徒?

 うっ。

 一瞬で山岸涼太は恐怖に足が竦んでしまう。前方の別々の席に座っている相馬太郎と前田良文の二人が、わざわざ後ろを向いて自分を睨んでいるのに気づいたからだ。その視線は敵意を含み、はっきりとしたメッセージを送っていた。『お前、黒川拓磨の邪魔をするんじゃないぞ』、だった。

 オレがリーダー的存在だったはずだ。なのに、その力関係は崩れた。連中は黒川拓磨を後ろ盾にして態度がでかくなっていた。無力感が山岸涼太を襲う。

 やめた。加納先生に忠告はしない。自分の身が大事だ。山岸涼太は下を向いて何も考えないことにした。

 

   74  三月十三日 土曜日

 

 加納久美子が学校に着いたのは朝の九時過ぎだ。心配で昨夜は何度も目を覚まし、寝不足で身体が少しだるかった。

 日曜日なので、サックスのポロシャツに紺色のチノスカートというカジュアルな服装にした。それにヘリー・ハンセンの黄色いウインド・ブレーカーを羽織る。いつもの休日と同じで白いコンバースは靴下なしで履く。

 運転中はブルース・スプリングスティーンを聞いた。彼の音楽から勇気を貰いたかった。最も好きなのが『ジャングルランド』だ。

 ドラマチックな曲で、クライマックスにはクラレンス・クレモンズのサックスが夜空を引き裂き、続いてB・スプリングスティーンが雄叫びを上げるのだ。3rdアルバム『明日なき暴走』の最後を飾るに相応しい。

 駐車場でフォルクス・ワーゲンから降りる時に、さすがにローデンストックのサングラスは外す。

 職員室には当直の教師とクラブ活動の顧問ら数人がいたが、教頭先生の姿もあった。みんなが普段とは違う久美子の格好に一瞬だが驚いた様子を見せた。

 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』と、あれほど言っておきながら教頭先生が学校に来ている。

 意外な感じはしなかった。これで重要な何か隠していると確信した。高校生だった木村優子に鏡を渡したのも違いないだろう。久美子の不安が増して行く。

 自宅に持ち帰って整理した書類の束を机の引き出しにしまって鍵を掛けると、すぐに二年B組の教室へと向かった。少し怖い。出来たら一人では行きたくなかった。安藤先生と一緒だったら良かったのにと思う。

 彼女とは連絡が取れないままだ。したがって加納久美子の手に鏡はない。黒川拓磨と対峙するのに唯一の武器だというのに。

 校舎は静まり返っていた。階段を上る久美子の上履きにしているパンプスの軽い足音しか聞こえない。何かが起こりそうな気配など全くなさそうだが、不気味だ。

 三階の教室すべてのドアが開いていた。ひとつ一つをチェックしていく。二年B組の教室にも誰一人いなかった。窓から入る日光が眩しくて、その明るさで少し不安が和らぐ。

 いつもと違うところは何もなさそうだ。ウソの情報を掴まされたのかもしれない。

 ホッとすると同時に精神的な疲れがドッと出てくる。心配して日曜日に学校へ足を運んだ自分がバカみたいだ。すぐにも自宅へ帰りたい。

 『ミスター・ムーンライト』

 慌てた。二階まで階段を降りているところで携帯電話の着信音が鳴る。静まり返ったところに、いきなりジョン・レノンの声だ。この着信音は良くない。早く変えよう。波多野刑事からだった。「もしもし」

 「加納先生、おはようございます。いま学校ですか」

「おはようございます。そうです」

「何か変わったことがありますか」

「いいえ、ないです。教室には誰もいませんでした」

「そうですか。それなら良かった。じゃあ、我々の思い過ごしだったのかな」

「そうかもしれません。ご心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」

「いや、そんな事はありませんよ。用心に越したことはありませんから。加納先生、これからどうされますか」

「帰ろうと思っています。ところで孝行くんは家にいるんですか」

「ええ、居ます。風邪をひいたらしくて、ぐっすり寝てますよ」

「あら、それは〡〡」

「大丈夫ですよ、ご心配なく。たぶん月曜日には学校へ行けるでしょう」

「そうですか」

「もし何かありましたら、連絡して下さい。いつでも結構です」

「わかりました。ありがとうございます」

「それで、あの……加納先生」

「はい」

「……あ、いえ。すいません、何でもありません。失礼します」

「はい、失礼します」

 加納久美子は携帯電話を閉じると再び階段を下り始めた。波多野刑事には勇気づけられる。安藤先生と連絡が取れない今となっては彼しか頼れる人はいない。

 さて家に帰ったら何をすべきか。掃除に洗濯、それに買い物。休日といっても普段できない日常の雑務で半日は潰れてしまう。

 なんとか時間を作って、夜は久しぶりにレンタル・ビデオを借りて気分転換を図りたいと思った。『タイタニック』が見たかった。きっと泣くだろう。だから絶対に一人で見ようと決めていた。

 

   75

 

 何事もなさそうだ。波多野刑事は安心した。不安が無くなると加納先生に対する想いが蘇ってくる。素敵な女性だ。もっと長く話していたかった。

 とっさに何か他に話題を探そうとしたが見つからず、不自然な形で電話を切ることになった。なんてカッコ悪いことを……。

 どうにかして食事に誘えないかと考えてしまう。その反面、オレみたいな子持ちの刑事なんか相手にするもんかと、勝手に落ち込んだりする。その繰り返しだ。オレは非番で彼女も休み。しかし今日という日は、いくら何でもまずい。誘う勇気もないし、心の片隅には交通事故で亡くなった妻に対する罪意識もあった。

 じっとしていられなくて、息子の部屋へ行って様子を見てこようと立ち上がる。携帯電話は離さない。いつ署から呼び出しがあるか分からないからだ。

 孝行が羨ましい。あいつは毎日、加納先生に会えるんだ。もしオレが生徒だったら絶対に一日も学校を休むものか。一生懸命に英語を勉強して加納先生から褒めてもらいたい。

 女性に憧れるなんてことは、ここ数年なかった。もう二度とないと思っていた。それが今は恋する高校生の気分だ。恥かしくて、とても人には言えたもんじゃない。

 息子の部屋のドアを開けたところで自分の目を疑う。ベッドには誰も寝ていなかった。波多野正樹の浮いた思いが一瞬で消えて無くなった。

 トイレにでも行ったか。それならいいが。しかし刑事という職業で培ってきた危険に対する第六感が、激しく警告音を鳴らし始めていた。息子を探しにトイレには行かず、波多野は玄関へと急いだ。

 「おい、どうした」

 波多野は一瞬、躊躇う。玄関に立っていた息子の後ろ姿が別人に見えたからだ。いつもと違う。へんに肩がいかつい。レスラーかボクサーのような体つきになっている。ただし着ている服は、いつも身につけている白いトレーナーと黒のジーパンだった。「どこへ行くんだ? 寝てなくていいのか、お前」

「……」

 返事がない。振り返ろうともしない。「おい、孝行」  

 あまりの反応の無さに聞こえないのかと思い、近づいて息子の肩に手を掛けた。やっと振り向いてくれたその顔は、今まで見たことが無い表情をしていた。「……」波多野は言葉を失う。

 その目は赤く充血して頬と口は怒りに歪んでいた。

 どうしたんだ、と声を掛けようとしたところで、避ける間もなく拳が飛んできた。まさか息子に殴られるとは思ってもいない。不意を突かれた波多野の顔面を直撃した。「ぐうっ」

 目の前が真っ暗になり、足元はフラつく。体勢を整えようとするが、次の一撃を右の脇腹に食らう。息を吐き出し、後は呼吸が出来ない。その場に倒れこんだ。

 普段は弱々しく見えた息子に、これほどの力があるとは思わなかった。「た、たか……おいっ」

 立ち上がれそうにない。それでも相手の動きを読んだ。まだ攻撃してくる。波多野は身体を回転させて、踏みつけようとした息子の足をかわす。「やめろっ」

 空を切って床を蹴ったその大きな音から、このままでは殺されるかもしれないと悟った。応戦するしかない。でも相手は息子で、怪我はさせたくない。手加減しながらの戦いになる。簡単ではなさそうだ。

 「孝行っ」姿こそ息子だが、何かに取り憑かれたように凶暴になっていた。学校へ行こうとしているのは間違いなさそうだ。だが絶対に行かせてはならない。

 そうだっ。

 加納先生が危ない、と波多野は気づく。学校でも何かが起きているはずだ。助けに行きたいが、今は息子をなんとかしないと--。

 

   76

 

 「加納先生」

 ドキッ。

 一階まで降りて職員室へ戻ろうとした加納久美子は後ろから声を掛けられた。びっくりして思わず身を竦めてしまう。振り向くと男子トイレの前に教頭先生が立っていた。恥かしい。「あ、は、はい」

「あ、ごめん。驚かせてしまった」

「いえ、大丈夫です」

「上で何か変わったことがあったかな?」

「いいえ」相手の言葉には、どうだ、オレの言ったとおりだろう、という勝ち誇ったニュアンスが窺えた。「帰ります」教頭先生が正しかったと認めるように久美子は言葉を続けた。

「もう?」

「はい。何事もなさそうなので」

「そうか。うん、それがいい。土曜日なんだから、ゆっくり休みなさい。あはは」

「失礼します」加納久美子は努めて相手の顔を見ないようにして言った。

 でも教頭先生の言った通りで良かったと思う。何も起こらなければ、それに越したことは無いのだ。

 職員室に入り、自分の机の引き出しからフォルクス・ワーゲンのキイを取る。ほかに持ち帰るモノはなかった。

 採点が途中の小テストの束が目に入った。そうだ、これだけでもむ終わらせてしまおう。月曜日には生徒に返せる。何分も掛からないだろう。

 久美子は椅子に座って作業を始めた。テストの採点では、何か気がつくとコメントを残すことにしている。『すごい』とか『よく頑張った』、または『もう少し』だ。褒め言葉しか書かない。これで生徒がやる気を起こしてくれたら嬉しい。

 手っ取り早く終わらせて席を立つ。帰ってから家事を片付けていく段取りを考えながら足早に職員室から出いく。上履き用のパンプスから白いコンバースに履き替えて校庭に出た。

 素足にスニーカーを履くのって気持ちがいい。天気がいい日は特にだ。自由を感じる。カジュアルでラフな格好が久美子は好きだった。

 右腕のベビー・Gに目をやると、そろそろ午前十時になる。途中で127号線にあるタワー・ビデオに寄って行ける、と思った。

 駐車場へ向かいながらも無意識に顔を上げて二年B組の教室を見上げた。

 えっ。足が止まる。ど、どうして。

 不安が加納久美子を襲う。教室の窓が全て黒い遮光性のカーテンで閉じられていた。それも二年B組の教室だけが。誰かが教室にいるらしい。

 ……どうしよう。

 このまま帰るわけにはいかなくなった。久美子が戻ろうとした時だ、カーテンが動いて隙間から人の顔が見えた。誰だかは分からない。でも久美子の方を見たのは確かだ。

 足早に戻る。校舎に入ったところで、トイレから出てきた教頭先生と鉢合わせした。

 「あれ、帰るんじゃなかったか?」

「……」教頭先生の言葉を無視した。久美子が階段を上がって教室へ向かおうとしているのに気づくと、彼は嫌悪感を露わにした顔を見せた。

 三階まで一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。さっきとは違い、ドアが閉じられている。中から鍵を掛けられているかもしれないと思いながらも、ドアに手を掛ける。恐怖心はなかった。動いた。

 中は薄暗かった。明かりは数本のローソクが火を揺らしているだけだ。かなりの数の生徒がいるみたいで、そのうちの何人かは顔が認識できた。二年B組の生徒だ。

 教室は様変わりしていた。全ての椅子と机は中心に作られたサークルを囲むように四隅へ動かされ、その上に生徒たちが腰掛けている。教室の真ん中に出来たスペースで行われている何かを見ている観客のように。

 「あ、あなた達……、何をしているの?」

「……」

 答えが返ってこない。身動きすらしない。みんなが座ったまま居眠りしているみたいだ。状況を把握しようとして久美子は教室の中へと入った。「はっ」目に映ったモノが信じられず、無意識に口を手で押さえた。うっ、嘘でしょう? 心の中で叫んだ。

 教室の中心では下半身を露わにした黒川拓磨が、全裸で横たわる女性の上に身体を重ねていた。性行為の最中だ。それを二年B組の生徒たちが放心状態で見つめている。「えっ、安藤先生?」

 黒川拓磨が上体を起こして久美子の方を向いたところで、その女性が呻くように顔を横に動かしたのだ。

 「加納先生、待ってたぜ。次は、あんたの番だ」

「……」えっ、どういう意味? あたしを待っていたって。わけが分からない。

 安藤先生の下腹部から勃起したペニスを引き抜きながら、黒川拓磨は笑顔を見せていた。みんなに見られて恥かしがる様子なんて全くなさそうだ。立ち上がろうとしている。

 逃げないと。他の職員たちに知らせないと。でも身体が硬直して動かなかった。このままだと危ない。そう分かっていても,脚に感覚がなかった。「あっ」横から誰かに右腕を掴まれた。力が強い。「いやっ」

 板垣順平だった。反対の手にはロウソクを持っていた。「痛い。やめて」ところが手を離そうとしない。いつもの彼じゃなかった。夢遊病者みたいな目をしている。

 「先生、何を言っても無駄さ。もう奴はオレの言うことしか聞かないんだ」

「……」そうらしい。黒川拓磨に操られているんだ。何を言っても無駄みたいだった。

 しかし掴まれている手が痛い。片手なのに凄い力だ。どうにかして彼の手を振り解けないかと思っていると、それを悟られたのか、左側の手も他の男子生徒に掴まれてしまう。両手の自由を奪われて絶望感が久美子を襲う。「やめてっ。いや、離して」

「先生、大人しくしなよ。どうせ、オレに抱かれるんだぜ」

「いやよっ」怒りを込めて言った。

 黒川拓磨は話しながらペニスをティッシュで拭いていた。まるで次の獲物をさばく包丁を研ぐように。逃げ出したい。

「言うことを聞かないと、痛い目に遭うぜ」

「それは、あんたにしても同じことよ」両方の腕を掴む、男子生徒二人の力が強くて痛かった。振り解くどころじゃなくて、耐えるだけで精一杯だ。こっちへ黒川拓磨がやってこようとしていた。

「はっはっ。そんな強気なところが好きだな。加納先生なら、しっかりした子供を産んでくれそうだ」

「ふざけないで。誰が、あんたみたいな悪魔の子を産むかしら」口だけは強がりを言い続けた。怒りが恐怖心を薄れさせ、少しづつ脚の感覚を取り戻そうとしていた。

「安藤先生もそう言っていたけど、今はこの通りさ。すっかり観念して、オレに股を開いてくれたんだぜ」

「嘘よ」

「仕方ないな。時間もないし、オレたち三人で先生のセンスのいい服を脱がしてやるか」

「……」裸にされる。再び恐怖が加納久美子を包み込もうとしていた。逃げたくて身体を揺すった。「い、痛い」掴んでいる生徒の力が増して、立っているのも辛くなる。ああ、もうダメだ、と思った瞬間だ。

 『ミスター・ムーンライト』携帯電話が鳴った。

 ジョン・レノンの叫び声に驚いたのか、二人の男子生徒の力が緩んだ。この瞬間を逃さない。掴んでいた手を振り解き、加納久美子は向きを変えて一目散に教室から出て行く。

 「おい、逃がすなっ」

 後ろで黒川拓磨の声がした。「どけっ、オレが捕まえる」振り向かない。階段へと急ぐ。「あっ」廊下を歩く教頭先生の姿があった。久美子の様子を見に来たに違いなかった。「先生、逃げて」

 「加納先生、どうした?」

「せ、生徒たちが--」説明なんかしていられない。「いいから、早く逃げて」とても教頭先生一人で立ち向かえる状況ではなかった。 

 「あっ、お前。こらっ。何、やってんだっ」

 教頭先生のその声に久美子は思わず教室の方へ振り返った。「あっ」下半身を露出した黒川拓磨が追って来ていた。

 教頭先生が久美子を通り過ぎて彼に立ち向かおうとする。

 一人じゃ、とても無理。他の生徒たちも操られているんだし。そう思ったが、加納久美子は立ち止まって成り行きを見るしかなかった。

 

   77

 

 まったく、なんてこった。

 畜生っ。どいつも、こいつも。高木教頭には恐怖心など全く無かった。ただ怒りだけだ。何年か前に何かと面倒を見てやった後輩に裏切られた苦い思い出が蘇ってきた。

 隣の町で女子中学生の制服を盗んで、何を思ったか、それを着込み、スカート姿で自動車を運転して警察に捕まった馬鹿野郎だ。

 飲酒取締りの検問に気づいて急いでUターンをしたところが、逆に注意を引いてしまう。当たり前だろう、バカ。近くにあった空き地に車を停めて、着ていたセーラー服を脱ごうとするが、きつ過ぎてなかなか脱げない。飲酒運転だと思って追ってきた警察官は、どれほど目にした光景に驚いたことか。いい大人が女子中学生の制服を着たまま夜のドライブと洒落込んでいたのだから。

 いとも簡単にバカは白状したらしい。翌朝、学校に電話を掛けて、「警察に捕まったので休みます」と告げる。その後の職員室は大騒ぎだった。電話を取った女の事務員と女教師たちが、あれやこれやと、どんどん話を勝手に大きくしていく。仲が良かったと見なされた自分は質問攻めだ。何も悪い事はしていないのに、本人がいないから犯人扱いだった。

 罪状が明らかになると、自分も同じような趣味があるんじゃないかと、多くの人達から疑われた。とくに警察からの追求は厳しかった。干してある女性の下着や服を盗む破廉恥な連中と同類と見なされたのだ。

 「彼には親切にはしてやったが、そんな事をやっているなんて、まさか知らなかった。自分は無関係だ」

 しかし何を言っても信じてもらえず、こっちが必死に弁明するほど刑事は確信を強めていく。辛くて涙が出た。

 証拠が無いので警察からは釈放されたが世間の目は冷たかった。疑われただけなのに、もはや性犯罪者扱いだ。後輩に親切にしたばっかりに、恥かしくて悔しい思いを何年も味わった。なかなか教頭にさせてもらえなかったのは、きっとその所為に違いなかった。

 やっと事件の記憶が薄れた今、今度は生徒だ。君津南中学に、また汚点が一つ増えてしまう。

 黒川拓磨、こいつは優秀な生徒だ。もう意外とは思わない。セーラー服を盗んだ奴も国立の千葉大学を卒業していた。

 ふざけんなっ。性犯罪者は人間なんかじゃない。オレが懲らしめてやる。生徒だろうが何だろうが関係ない。それにだ、この小僧には株で大損させられていた。叩きのめしてやる。オレが味わった恥かしい思いと、大金を無くした喪失感の鬱憤を、ここで晴らしてやろう。

 高木の血液中のアドレナリン濃度が、今や最高値に達しようとしていた。

 いいか、このクソ小僧。このオレをただの教師と思ったら、大きな代償を支払うことになるぞ。そこらのひ弱な連中とは違うんだ。

 杉八小学校六年の頃に流行ったプロレスごっこでは、いつだって鉄人ルー・テーズの役だった。誰にも文句は言わせなかった。キーロックから四の字固め、スリーパーホールドやコブラツイストなど多彩な技を持ち、その掛け方は仲間で一番早かったのだ。その輝かしいテクニシャンぶりは今でも健在だ。

 だが、このクソ生意気な黒川拓磨にプロレス技をお見舞いする気はなかった。まどろっこしい。こいつには5階級制覇を成し遂げた脅威のボクサー、シュガー・レイ・レナードがするような、スーパー・エクスプレスと呼ばれた集中連打を浴びせてやりたい。ボコボコにしてやろう。

 「犯されそうになった加納先生を守るために必死でした」

 教師が生徒を袋叩きにすれば当然だが非難の声が上がる。釈明の言葉はこれだ。

 この野郎、股間をオッ立てたまま平然と歩いて来やがる。やはりバカなのか、お前も。いいだろう。まず、その顔面に必殺の右ストレートを食らわせてやる。

 上手いことに、オレの方を全く見ていなかった。完全に油断している。その視線は加納先生に注がれたままだ。彼女は、お前なんかが手の届く存在じゃない。ませたガキだ。

 射程距離に入った。下半身を露出した生徒は、まさか学校の教師が暴力を振るうとは思ってもいない様子だ。加納先生と一発ヤることしか頭にないのか、この色狂いの中学生が。よしっ。オレが目を覚まさせてやろうじゃないか。 

 高木教頭は身構えた。上半身の筋肉に力が入った。

 

   78

 

 「……」加納先生、早く出てくれ。

 片手で携帯電話を持ちながらも、波多野刑事は馬乗りになって凶暴になった息子を押さえつけていた。しかし殴られたり、蹴られたり、噛み付かれたりして、こっちの方がダメージは酷い。着ていたアメリカン・イーグルのポロシャツはボロボロで、あちこち血が滲んでいた。防御するだけで攻撃は出来ない戦いだが、やってられるのは警察に入って習得した格闘技のおかげだ。だが苦しい。左の肩がズキンズキンと痛む。もう、いつまで耐えられるか分からなくなってきていた。若いだけに息子の力は無尽蔵だ。こっちは限界を感じ始めていた。

 今は片手しか自由に使えない。息子が息を切らしているので少しの間はあるはずだ。加納先生と連絡が取りたかった。

 学校で何かが起きているか、それとも起きようとしているのか。彼女の身が心配だった。

 呼び出し音は鳴り続けている。でも応答がない。

 波多野は学校で何かが重大な事が起きていると確信した。すぐにでも駆けつけたいが--。「あっ」

 息子の孝行が勢いよく身を翻したのだ。こんな力が、まだ残っていたのかと驚かされる。と、同時に強烈なパンチも飛んできた。かわすことは出来たが、波多野は手にしていた携帯電話を落としてしまう。 

 しまった。加納先生と連絡が取れなくなった。もう息子の相手だけで精一杯だ。きっと彼女も学校で窮地に立たされているに違いない。

 「うっ」

 息子の両手が横から波多野の首に回る。まずいっ。転がっていく携帯電話を目で追っていた僅かな隙を突かれてしまう。締め上げてくる。その力の入れ方に躊躇いがない。

 こいつは自分が父親の息の根を止めようとしていることに気づいていない。誰かに操られて、目の前にいる敵と無意識に戦っているのだ。 

 苦しい。呼吸が出来ない。目の前が真っ暗になってきた。

 

   79

 

 高木教頭の肩に力が入った瞬間だ。

 「むぐっ」これから凄まじい強烈な右ストレートを生徒の顔面に浴びせようとしたところで、いきなり左の脇腹に強烈な痛みが走った。「うっ」腹部を押さえる。

 何が起きたのか分からない。気がつくと、黒川拓磨がこちらを向いていた。まさか、お前の仕業か? 

 奴の両手が拳骨になっていた。ボディ・ブローを食らったのかもしれない。信じられない。まったく目に見えなかった。

 やや前屈みの姿勢で苦痛に耐えていた。そこに生徒の膝が跳ねるようにして顎に命中した。勢いで頭が起き上がる。次は風を切る音がしたかと思うと拳が飛んできた。早過ぎて、かわすことも出来ない。左の頬と鼻面に二発のパンチが突き刺さった。「ぐうっ」

 高木は腰を落とす。そして自覚した。もはや小学校でルー・テーズのように無敵だった頃の自分はいない。あれから三十年という月日が経ち、胴回りが三十センチも増えていたことを考慮すべきだったのだ。

 気を失う直前、うつろな目に映ったのはビンビンに立つ黒川拓磨のペニスだ。それに向かって倒れ込む。自分の唇が触れそうになるところを、それだけは何とか体を捻って避けた。

 

   80

 

 「教頭先生っ」加納久美子は叫んだ。

 目の前で高木教頭が膝蹴りと二発のパンチを浴びてなす術も無く倒されてしまう。まさに秒殺だった。慌てて助けに向かおうとしたが思い止まった。自分もやられてしまう。ここは逃げるしかない。職員室まで行けば助けを呼べる。久美子は身体を翻して階段へと急いだ。「えっ」

 足音がする。また誰かが二階から上がってきた。

 「あっ、お母さん」黒川拓磨の母親だった。家庭訪問の時と同じで、緑のトレーナーにピンクのスエット・パンツ姿だった。何で、こんな時に、こんな所へ? 「早く逃げてっ」

 「こらっ、拓磨。何やってんだいっ」母親が叱る。

 息子が怖いと言っていたにも関わらず、その口調は強かった。「逃げて、お母さん」いくら母親でも無理だと思った。息子はオオカミのように野獣と化している。もう性欲しか頭にないのだ。加納久美子は母親の手を取って一緒に逃げようとした。

 違和感を覚えた。え、どうして? 同時に母親も久美子の手を取ったが、その力が強すぎる。これじゃあ、自由が利かなくて逃げにくい。「お母さん?」

 ところが母親は久美子の方を見ようともしない。息子に向けて放った次の言葉に背筋が凍りついた。

 「拓磨、この程度のアバズレなんかに手間取ってんじゃないよ。早く、ヤっちまいなったら」

「お、お母さん」

「黙れっ。手こずらせやがって、このアマ。パンティを脱いで、拓磨に向って股を広げるんだよ」

 乱暴な言葉と同時に平手打ちも飛んできた。「いやっ」親からも殴られた事がない久美子だった。身体から力が抜けていく。

「いや、じゃないよ。すぐに気持ちが良くなるさ。さあ、拓磨。捕まえててやるから、この女の下着を脱がしな」

 もう目の前に黒川拓磨が立っている。「ああ、お願い。許して」絶望感が久美子を包んでいく。

「大人しく拓磨に抱いてもらいな、このアバズレが」

 チノ・スカートの裾に黒川拓磨の手が掛かった。腹部まで引き上げられて下着姿の下半身が露わになる。久美子は目を瞑るしかなかった。生徒に犯される、それも学校で。身体は震え出し、もはや抵抗する気力は失せていた。

 「お前のお陰で忌々しい鏡は手に入った。もう処分したよ。これで拓磨が怖がるモノは何もなくなった」

「え、……あたしのお陰って?」どういうこと? わからない。

「そうさ。お前は踊らされていたんだよ。鏡を手に入れるのに利用したのさ。お前が思い通りに動いてくれたんで大いに助かった。ありがとうよ。お礼に拓磨の子供を妊娠させてやろうじゃないか。あはは」

「……そんな」絶望感が久美子を襲う。生徒の手がパンティを掴んで、腰から剥ぎ取ろうとしていた。唇を噛んだ。覚悟した。少しでも早く苦痛が過ぎ去ってくれることを願うしかない。

 「ぎゃあっ」 

 ボコッ、という何かがぶつかる音と共に母親の叫び声がした。久美子は驚いて目を開けた。何が起きたのか分からない。死んだ魚が放つような腐敗臭が鼻を突く。自分を捕まえていた母親の手が離れた。久美子の後ろに誰かいるらしく。そっちに向かって黒川拓磨が身構えていた。今なら、自由だ。慌てて身体を回転させて、この場から廊下の隅に逃げた。「あっ」

 

   81

 

 波多野は気を失う一歩手前で反撃を試みる。相手を息子と考えずに最後の力を振り絞って膝蹴りを食らわせた。「許せっ」孝行の急所に命中したらしく、首を絞めていた手の力が緩んだ。

 そのチャンスを逃さない。波多野は首と息子の手の間に自分の指を滑り込ませた。これで少しは抵抗できる。だが息子の力が緩んだのは一瞬だけで、まだジワジワと波多野の首を締め上げてきた。恐ろしいほどの力だ。くっ、苦しい。いつまで耐えられるか分からない。加納先生のことを心配する余裕もなかった。

 

   82

 

 いつ現れたのだろう。黒川拓磨と母親の他に、もう一人、バットを手に持った人物がいた。汚れたトレンチコートに身を包み、顔と両手は血が滲む包帯に巻かれていた。髪は伸び放題。異様な姿だ。強烈な腐敗臭を全身から放っていた。骨格から男性だと判断できるだけで、誰なのかは分からない。

 少なくとも久美子に危害を加える存在ではないらしい。黒川拓磨と対峙し、その母親をバットで殴りつけたのだから。

 母親は両手で頭を押さえた格好で廊下の端に倒れていた。今にも階段から落ちそうだ。完全に気を失っている。

 黒川拓磨が前へ一歩踏み出そうとすると、男が動いた。バットを投げつけて、相手の動きを止めた。そしてコートのポケットからシャンプーの容器らしきモノを取り出し、そのキャップを外す。また新たに強い臭いが加わった。えっ、ガソリンだ。

 男は躊躇わない。一気に中の液体を黒川拓磨に浴びせた。容器を捨てると、すぐにポケットに手を入れ、ライターを出す。焼き殺すつもりだ。

 黒川拓磨は男が点火する前に飛び掛かった。二人が取っ組み合う格好で横倒れになる。その動きに押し出されて母親は階段から落ちていった。

 男からライターを奪おうと、その腕を激しく殴りつける。やはり腕力では黒川拓磨の方が上だった。だが男はライターを離さない。もう二人ともガソリンまみれだ。

 「ぎゃっ」腕に噛み付かれると、男は初めて声を上げた。聞き覚えがある、と久美子は思った。でも、……まさか。あまりの変わり果てた姿に確信が持てない。

 うわっ、助けて。目の前で凄惨な行為が始まった。黒川拓磨が頭を上下させながら、男の腕の肉を噛み千切り出したのだ。まるでオオカミ。見たくもないものを見せられて、ブルブルと久美子の身体が震えだす。

 

   83

 

 高木教頭は気を失っていたが、黒川拓磨との戦いが夢の中では続いていた。そこではワン・ツーとパンチを食らったが、反射的に伸ばした左の拳がクロス・カウンターとなって相手の顎に命中していた。一進一退だ。

 負けてなるもんか。俺は勝つ。足だ。足を使って奴を翻弄してやる。 

 高木教頭は、柳済斗にリターン・マッチでKO勝利した輪島功一と自分をダブらせていた。

 根拠のない自信が湧き上がってきて目を覚ます。やられたら、やり返すのがオレの主義だ。クソ小僧はどこへ行きやがった。今度こそ叩きのめしてやる。「畜生、よく見えない」頭から床に倒れ込んだらしい。こめかみのところが酷く痛む。くらくらして目の焦点が定まらない。ぼんやりとしか周りが見えなかった。

 

   84

 

 犯される。口を男の血で真っ赤にした黒川拓磨が加納久美子の前に立っていた。下半身は裸でペニスは大きく勃起していた。怖い。身体の震えが止まらない。

 腐敗臭を放つ男は骨が露わになった右腕を痛々しそうに抱えて横たわっていた。筋肉も腱も噛み千切られて、辛うじて手が腕に繋がっているという状態だ。全身が血まみれ。もう、どこにもライターは見当たらない。

 黒川拓磨は教室の前にいた何人かの男子生徒たちに顎をしゃくって見せると、その顎を次に久美子へ向かって突き出す。担任教師を担いで教室へ連れて行けという合図らしい。「早くしろ」

 数人の男子生徒が向かってくる。先頭は片手にロウソクを持った板垣順平だった。黒川拓磨の言葉に反応して走り出した。

 逃げないと。そう分かっていても久美子が出来たのは、その場に弱々しく立ち上がることだけだった。

 

   85

 

 「くそっ。め、目が--」高木教頭の視界はハッキリしない。その時だ、自分の前を走り過ぎようとする何者かに気づく。あの黒川の小僧じゃないのか? その足に高木教頭は咄嗟に飛びついた。だが、逆に膝蹴りを顔面に食らってしまう。勢いで首は曲がり、また床に頭から落ちた。気を失う。高木教頭のリターン・マッチは輪島功一のようにはならなかった。 

 

   86

 

 教頭に飛びつかれた板垣順平は前のめりに勢い良く倒れた。強く床に手をついた衝撃で右手に持っていたロウソクが二つに折れる。火のついた部分が床を転がり、黒川拓磨の足元まで届く。こぼれたガソリンに引火して、一気に炎が立ち上がった。

 目の前で黒川拓磨が炎に包まれる。「きゃーっ」加納久美子は叫び声を上げた。と、同時に廊下の壁に退いた。

 近くにあった消火器に手を伸ばそうとしたが、黒川拓磨が動いて立ちはだかる。

 どうして? 逃げようとしているんじゃなくて、火を消そうとしているのに。

 相変わらず生徒はペニスを向けたままだ。まだ勃起している。「そんな……」こんな状況でも性欲を失わない異常さに驚愕。

 まわりが一気に熱くなった。

 えっ。笑っている。いやっ、違う。炎に焼かれて顔が変形しているのだった。すぐ横でトレンチコートの男も燃えていたが、黒川拓磨の燃え方は異常なほど激しい。紙細工の人形だったのかと思えるほどだ。その目も鼻も口も形が崩れて顔から表情が消えた。どんどん炎が彼の身体を黒く蝕んでいく。恐ろしかった。

 断末魔なのか、黒川拓磨の体が小刻みに震え出す。だが勃起したペニスは萎むどころか逆に大きさを増す。一体、どういうこと。驚きの目で見ていると、いきなり白い精液が噴き出した。避ける間もなかった。大半が久美子のスカートまで飛んできた。

 男の体液で汚れた自分の衣服に注意が向く。目を離した瞬間だ、砂の袋が落ちるような音がした。正面に立っていた黒川拓磨の姿が消えた。

 久美子は首を左右に振って、辺りを窺う。燃えているトレンチコートの男の他には誰もいなかった。黒川拓磨がいた場所に、小さな黒い灰の山が出来ていた。まさか、あいつの燃え尽きた姿がこれなの。

 加納久美子は急いで非常ベルを押し、そして消火器を取った。レバーを握って白い泡を噴射させた。まずトレンチコートの男の火を消す。それから回りを消火させていった。

 黒川拓磨、あれは人間じゃなかった。一体、何者なの。

 火が消えて回りが白い薬剤だらけになると、一気に身体から力が抜けていく。これは後の掃除が大変だ。自分がしなきゃならないのかしら。ああ、気が重い。

 疲れた。もう動けない。非常ベルの音だけが、けたたましく校舎中に鳴り響いていた。うるさくてかなわない。早く誰かに来て欲しいが、一刻も早く静かになって欲しかった。その場に加納久美子は腰を落とそうとした。えっ、何これ?

 自分のスカートから蒸気みたいな煙が立ち上がっていることに気づく。「あ、あっ」黒川拓磨の精液だった。あいつの体液が驚いたことにスカートの生地を溶かして移動している。久美子の下腹部を目指しているんだった。

 急いでスカートを脱いだ。廊下の向こうへ投げ捨ててやった。露わになった下半身にはヘリー・ハンセンのウインド・ブレーカーを巻き付けた。なんて奴なの、あいつは。なんて恐ろしい。

 何故だが分からないが、また身体が震え始める。途端に悲しみが込み上げてきた。加納久美子は廊下の壁に寄りかかり、口を手で押さえながら嗚咽を洩らした。

 

   87  

 

「う……」意識が戻ると波多野は激しく咳き込んだ。「ごほっ、ごほっ」

 家の玄関にいた。どうして、こんなところに? 自分の身に何が起きたのか分からなかった。息子の孝行が真横で倒れていた。思わず声を掛ける。「おい」

 返事はなかった。寝息を立てながら眠っていた。

 体全体が酷く痛む。特に首の回りがヒリヒリと痛んだ。そこに手をやった時、やっと状況が理解できた。

 助かったらしい。死ななかった。操られていた息子は呪縛が解けたのに違いなかった。いつもの見慣れた寝顔だ。起こして部屋まで連れて行ってやりたいと思ったが、体に力が入らない。酷く疲れていた。せめて毛布でも掛けてやりたいが……。

 強い眠気が襲ってきた。だめだ。しなければならない事がたくさんある。まず立ち上がって--。くそっ、体を動かせない。波多野は逆らえずに目を閉じるしかなかった。一瞬、加納先生のことを思い出す。大変だ、連絡しないと--。そこで意識を失った。

 

 

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