ジョルノが4部に出るようです   作:アズマケイ

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第1話

僕の母親はとても美しい女性であったけれども、決していい母親ではなかったと、彼女のことをよく知る大人たちは誰もが口をそろえていう。実家がある故郷に帰ることもなく、シングルマザーとしてエジプトから帰ってきた彼女は、縁もゆかりもないこの街に移り住んだ。

 

幼い僕を置き去りにして、毎日のように彼女はよく夜の街に遊びに出掛け、男を買いあさり、男を連れ込んでは情事に耽るような女性だった。彼女が働いている所は誰も見たことがなかったが、いつでも彼女は羽振りがよかった。

 

バブルの女性らしく煌びやかな衣装を身にまとい、宝石や貴金属で着飾りながら、ブランド物で身を固める彼女は、シングルマザーにはとても見えなかった。

 

とても若々しく、美しい女性だった。そのかわり、好みの男が絶望的に最悪な性格ばかりだった。酒が入ると殴る蹴る、タバコの火を押し付ける、ベランダに叩きだす、大声で怒鳴りつける、ありとあらゆる暴力をふるう彼女の恋人。

 

まだ3歳だった僕は、どうすることも出来なかったことだけ覚えている。彼女がいない時に隠れてするのはまだいい方。彼女の子供である僕に、前の男の面影を感じるという理不尽な理由で凄まじい虐待をくわえられたこともある。

 

他人の顔ばかりうかがう、いつもびくびくしている卑屈な性格は、数えきれない彼女の恋人から生きぬくために生まれたものだ。

 

延々に続く暗闇のような生活の中で、いくら恐怖しても絶望してもどうしようもないと悟った僕は、泣くことは無駄だと悟るのも時間の問題だったように思う。ただひたすら震えていることしかできなかった。

 

 

 

彼女のことをよく知る大人たちは、僕が今こうして生きているのは、奇跡だとみんな口をそろえて言う。僕もそう思う。僕にとっての世界は新興宗教のように飾られているイギリス人の父親の写真があり、彼女が雇ったベビーシッターの人が用意するものが雑多に並べられた六畳間だけだった。

 

ベビーシッターの人たちも二度と会うことがなかったのは、きっと彼女にお金を渡していた人たちのせいなんだろうとは思う。僕は3歳になるまで、一度も外に出してもらえなかった。理由は簡単。彼女は僕の出生届を役場に出していなかった。

 

だから僕は3歳になるまでこの世界には存在していなかったことになる。予防接種も健康診断もできないし、体調を崩しても保険証がないから病院に連れていってさえもらえなかった。

 

 

 

過度なストレスと劣悪な環境にさらされ続けたせいだろうか、1987年の12月下旬から2月上旬の50日間、僕は原因不明の高熱にうなされて生死の淵をさまよっていた。

 

カレンダーもテレビもない世界で、日付だけが印象に残っているのは、もうこの世にはいないベビーシッターの女性が教えてくれたからだろう。彼女はとても僕によくしてくれた。朦朧とした意識の中で、抱きしめられた記憶だけがぼんやりと残っている。

 

彼女はいろんな話をしてくれたけれど、僕は何一つ覚えていない。彼女が来なくなった日から僕はゆっくりと死にかけていく。病院に連れていってもらえず、市販の薬や熱さましなんて用意してもらえず、フラフラになりながら大人用の薬を飲んだせいで症状が悪化したことだけ覚えている。

 

たしか、このころだったと思う。僕の身体にイバラの蔦がまきついていることに気付いたのは。種ごと食べてしまった果物が体の中で育ってしまったんじゃないかって、恐ろしい妄想に取りつかれてしまった僕は、とうとう我慢できなくなってしまった。

 

彼女と彼女の恋人に助けを求めても、どうやら僕が錯乱して幻覚を見ているようにしか思えないらしい。どんどん身体を覆い隠していく蔦に絡まれて、転んでしまった僕を見る二人は、まるで頭がぱーんとなってしまったかわいそうな人を見るような目をして、僕を見下ろしていた。

 

そして、ヒステリックに陥った彼女が僕に手を上げようとして、蔦にふれた瞬間、なぜか彼女の頬は真っ赤に染まり、変な方向に飛んで行ってしまった。その日からいよいよ彼らは僕のことを存在しないものとして扱うようになった。

 

でも、わけのわからない力に目覚めてしまった僕に対する恐怖心はあったのかもしれない。気が付いたら子供用の市販薬とよく冷えたスポーツドリンクが転がっていたり、すぐに食べられる小さな子供用の食べ物が置いてあったりした。

 

扉の向こうで彼らが言い合うことが増えた気がするけれど、僕はよく覚えていない。もうその頃には、僕のことを食べようとしていた植物はなくなっていた。

 

 

 

そして、12月ごろだったと思う。彼女が原因不明の病に倒れて、彼が救急車を呼ばなければ、1か月近く放置されていた僕はきっと死んでいたに違いない。その日はとても騒がしい日だった。

 

遠くから聞こえるサイレンがどんどん近づいてきて、僕の住んでいたマンションにとまった。たくさんの人たちが押しかけてくる音がして、僕は毛布にくるまって震えていた。金の無心に来る彼女の恋人はたくさんいた。怖い人たちが押しかけてくることもあったからだ。

 

でも、彼女の恋人が制止するのを振り切って、外側からしかかけられない錠の落ちる音がしたとき、僕の世界は終わりを告げる。僕の世界をこじ開けたのは、驚いた顔をした救急車のおじさんたちだった。

 

子供がいると叫ぶ誰かがみえたとき、僕のことだって気づくにはずいぶんと時間がかかったように思う。担架で運ばれる僕が見たのは、拘束される彼女の恋人とぐったりとしている母親の姿。そして、がりがりに痩せ細った今にも死にそうな3歳の男の子を見て、絶句している野次馬の人だかりだ。

 

もう大丈夫だよ、とおじさんに言われた。生まれてはじめてまっすぐに僕を見てくれた人に会えた気がして、僕はしっかりと握りしめてくれた手を握り返すことしかできなかった。もうこのころには、僕の身体は、無駄な水分を消費できない体質になってしまった。

 

 

 

僕が目を覚ましたのは、2月上旬のことだ。生まれて初めて見る大きな鏡に映る僕は、父親となんで似なかったのだと罵声された黒髪ではなく、金髪になっていた。驚いている僕を見かねた看護師さんが、何度も洗わないとその綺麗な金髪は現れなかったのよと教えてくれた。

 

僕が黒髪だったことを知っているのは、母親と彼女のたくさんの恋人たちだけだ。誰も僕が黒髪と黒い目を持っていたことを知らない。どうして黒髪から金髪になったのか分からないまま、僕は看護師さんに世話を焼いてもらった。彼女は死んだと教えてもらったのは、数日後のことだ。

 

原因はわからない。ただ分かるのは、頭の中がすっからかんになっていたことだけ。数年かけてゆっくりと進行していた病は、一気に彼女の脳みそを食い破ってしまったらしい。

 

1日目、最初は疲れているだけですぐに治ると思った。2日目、症状がだんだんひどくなる。3日目、高熱や頭痛、吐き気に襲われ、意識障害に陥って救急車に運ばれる。

 

4日目、懸命の処置もむなしく死んでしまったらしい。彼女がエジプトに渡航履歴があることから、もしかしたら未発見のウィルスにでも感染して、潜伏期間の果ての発症じゃないかって疑われた。

 

なんでも似たような日程でエジプトに渡航履歴をもつ人たちが、似たような症状で死んでいることが、世界中で起きているらしかった。致死率は100%。発症するとわずか数日で命をおとすとんでもない病気だったらしい。

 

予防接種もろくに受けていない上に、瀕死状態で免疫力皆無なはずの僕が生き残ったのは、まぎれもない奇跡というわけだ。是非とも研究に協力してくれと、たくさんのお医者さんたちにいわれて、僕は頷いた。だって、僕にとっては生まれて初めて出会う大人たちだった。

 

母親でもない、母親の恋人でもない、ベビーシッターの人たちでもない、ろくでもない大人ではない、まともな人たちだった。たくさん検査をうけた。たくさん注射を打たれた。頭のてっぺんから足のつま先まで調べつくされて、世界中に僕のサンプルを使った研究がすすめられたと褒められた。

 

いくらでもがんばれた。だって、母親の恋人は逮捕されて、刑務所に送られて、きっと僕が大人になるまでは出てこないだろうと教えてもらえたからだ。ここで僕はようやく「いい人」と「悪い人」の区別がつくようになった。

 

 

 

僕が児童養護施設に迎えられたのは1988年の4月16日、春の日のことだ。無国籍状態だった僕は、家庭裁判所の手続きの過程でようやく誕生日を与えられることになる。そして僕は、10年間勝手に生える植物や突然姿を変えてしまう小さな生き物たちに悩まされることになる。

 

僕の名前は汐華初流乃。戸籍上の誕生日は1985年4月16日の14歳。165cm、AB型、好きな物語はレ・ミゼラブルと青い鳥。好きな食べ物はチョコレートとプリン、そしてタコのサラダ。嫌いな食べ物は鶏肉、特に鴨の肉だ。

 

 

 

 

 

1998年10月下旬、ある男が施設を訪ねてくるところからこの物語は始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは僕が10歳のときのことだ。あいかわらずランダムに発生する超常現象に僕は頭を悩ませていた。無意識のうちに発生する小さな生き物たち、突然空間に出現する植物たちは、僕がふれた物体が変化したもの。

 

どうして僕が起点になっているかわかるのかというと、たいてい僕がその物体に触れていた時に考えていたものが出現するからだ。それに物体をもとにもどす時間は僕の意志が反映されていた。このころは触れた物体が生き物に変化する時間と生き物が物体に戻る時間にはタイムラグがあった。

 

おかげでうっかり植物に変化させてしまうと、枯らす前に大きな樹木に成長させてしまうことが度々あった。生き物図鑑を片手に物体から生まれた生き物を観察したところでは、生まれたものは本物の生物と変わらない習性や特徴を持っている。でも、この時の僕はいまいち行動を制御することができなかった。

 

 

施設に入り込んだ蝶を追いかけまわしていた僕は、ようやく捕まえた最後の一匹を虫網で捕まえた。薄い褐色の縁取り、黒い斑点が小さくある山吹色が鮮やかな蝶が窮屈そうな虫かごに収まった。羽を閉じれば地味な赤褐色で、疲れたのか休憩している蝶は枯葉みたいだ。

 

まるで蛾と間違えてしまいそうな地味な蝶だった。季節が許せばモンシロチョウやアゲハチョウにシフトできるんだけど、あいにく今の季節は冬をまじかに控えた秋である。不自然に季節外れの昆虫が大量発生すれば大騒ぎになってしまう。

 

興味本位での実験だった。施設では子供たちがもらえるお小遣いは金額が決まっている。小学生の僕は月に1000円しかもらえない。だからこういった実験に使えるようなものを買う余裕はどこにもない。壊してしまったら大騒ぎになる。

 

だから今まで僕の私物でしか試したことがなかった。今回は中学に進学した仲間がお下がりとして文房具を一つくれたのだ。本来の持ち主のいる部屋の数歩先でようやく捕獲した蝶は、隙あらば本来の持ち主のところに戻ろうともがいている。

 

やっぱり僕が作り出した生き物は、その物体の本来の持ち主のところに戻る習性があるらしい。これでまたひとつ、僕の持っている力を知ることができた。いつか制御できる日がくることを夢見て、踵を返した僕はかちゃりというドアノブの音を聞いた。ふりかえると、誰だ、と生気のない瞳がこちらを見下ろしていた。

 

 

「なんだ、ジョルノか。なにしてるんだ」

 

 

ジョルノ、は僕の通称だ。汐華初流乃は、シオバナハルノとよむ。これはいなくなった人たちが教えてくれたことだから、僕はしっかりと覚えている。でも、ハルノ、という女のような日本人の名前と僕の外見は、どうもしっくりこないらしい。

 

初めてみて、読むことができない名前、音の響きを優先して漢字を当てはめた名前であることも拍車をかけた。母親が生きていたらいくらでも後付をしてくれただろうが、彼女は故人だ。

 

だから、生まれも育ちも日本人なのに、外国人の名前を日本風に呼んでいるだけなのだろう、と認識されてしまう。数えきれないほどの訂正を繰り返した僕は、とうとう折れてしまった。施設の中だけならともかく、学校や社王町の人たちすべてに説明しつづける労力を思うと、気が遠くなってしまったのだ。だから、3つ上の彼も僕のことをそう呼んでいた。

 

 

「こいつが迷い込んだんで、捕まえたんですよ」

 

 

僕は虫かごをゆらした。ふうん、と目を細めた彼は、思案顔だ。いつもの彼らしくない。いつでも学生服をきている彼は、基本的に部屋から出てこない。このころようやく落ち着いていたけれど、衝動的に自分を傷つけるほど情緒不安定な彼は、僕も含めて施設の人間とは大きな心の隔たりがあった。

 

 

「ジョルノ、ちょっとこい」

 

「え?なんでです?」

 

「ひとつ、いいことを教えてやるよ。この蝶は今の時期いないはずの蝶なんだ。

 似たような種類がいるから間違えたんだろうけど、秋にこいつがいるのはおかしい。

 どうせ上手くやるなら、もうちょっと理科の勉強しろよな」

 

 

膨大な量の書物を一回読んだだけですべて記憶し、それらをすべて逆から読み上げることもできる、常軌を逸脱した才能を持った少年が笑う。僕はしまったと思った。かたん、と虫かごの中で、彼の名前が入っている文房具がころがった。僕は観念して彼の部屋に入った。

 

ぱたん、と扉が閉まる。もともと感情の起伏が少ない人ではあったけれども、常人離れした現象を見ても驚きもしないことに驚いていると、彼はベッドにおいてあった本を手に取った。みえるか?といわれて頷くと、そういうことだ、と彼はいう。彼が言うには僕以外にその本をみた人はいないらしい。どうやら僕と彼には共通点があったようだ。

 

 

「なにしてたんだ?」

 

「実験してたんですよ、コイツで」

 

「おれがお前にあげたやつか、ふうん。持ち主のところに帰ってくるんだな」

 

「そうみたいですね。条件がまだわからないけど。

 名前がいるのか、いらないのか、とか」

 

「じゃあ、協力してやるよ」

 

「なにか貸してくれるんですか?」

 

「ああ」

 

 

学習机の引き出しから取り出されたのは、化粧品。中学1年生の男子生徒がもつには不自然極まりないが、なんとなく僕は察した。彼は捨て子だ。天涯孤独で両親の顔も知らない。ころがる化粧品をにぎりしめた僕は、それをさっきと同じ昆虫に変えた。

 

 

「いつまで生きてるんだ?」

 

「僕が死ねと思うまで」

 

「なら、明日、出掛けるぞ」

 

「明日ですか」

 

「ああ、オリオン座流星群を見に行こうぜ。明日は土曜日だから午前中は学校に行って、午後から休みだ。夜の10時が一番の見ごろらしいから、早めに寝なくちゃあだめだ。夜空を光がよこぎるんだぜ。鳥よりも早く、馬よりも早く。きっとこの世が終わる時の光景に似てる。おまえも見るべきだ」

 

 

なんでもないように彼はいう。何も知らない僕は、うなずいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、僕は目を覚ます。

 

養護施設は、社王町の北西部に立っていた。2歳から18歳までの様々な理由を抱える子供たちが、100人くらい職員の人たちと一緒に暮らしている。僕が住んでいる施設は大きな建物の中がいくつも区切られていて、その中に必要な設備がある。

 

キッチンもダイニングルームも浴室も脱衣所もスタッフルームも完備。だいたい1グループに少なくても13人、多いと20人くらいが共同生活してることになる。好奇心から生活実態を聞いてくるクラスメイトは、規則だらけの息苦しい生活が可哀想と同情めいた視線を向けてくる。僕に言わせればだからどうしたという話で、普通ってなんだろうと不思議に思う。

 

僕はこの生活しかしらないから比較対象がないし、すっかり馴染んでしまっているから、どう思うと聞かれても困ってしまう。だから僕はこの話はしないことにしている。無駄な説明は嫌いだ。

 

この施設は小学生以下の子供たちは和室で雑魚寝、小学生以上になると2人部屋、3人部屋に移動できることになっている。僕は13さいだから、2人部屋にいるのだ。

 

 

ずいぶんと懐かしい夢をみた。時計を見ると、まだ起床時間にははやい。下段のルームメイトはまだ寝ていた。はあ、とため息をついてもなにもかわらないのはわかっている。でも気分が重いのは事実だ。あのときのことを夢に見たのは、今日が3年前のあの日と同じ10月21日だからだろう。

 

それに、今の僕は彼が羨ましいに違いない。今の時代、高校に進学するのは義務といってもいい。中卒で就職できる時代はとうにすぎている。だから僕もいつかは高校に進学すると思う。でも選択肢は公立のみだ。児童養護施設の子供が私立の学校にいくにはどうしても資金面での問題がでてくるのだ。奨学金をあてにするのも限界がある。どうしても家族の援助が不可欠になる。

 

でも、夢に出てきた彼は違った。彼は天才だったし、何らかの事情で学資を確保して、私立の中等部に入った。それからはエスカレータで高等部に通っている。一人暮らしの許可が下りるのも前例がない待遇だ。もちろん、彼のたどってきた経緯はまじかで見てるから嫉妬を覚えるわけではない。この施設から離れられたことが羨ましいのだ。今の僕にとっては。

 

1998年10月21日水曜日。憂鬱の一日が始まった。今日から僕は施設のスタッフ同伴で公立の学校に通うことになっている。具体的には、僕の安全が確保されるまでの無期限。服役中の僕の養父が、死刑囚の男と共に刑務所を脱走した。きっと全国紙の三面記事を独占する大ニュースが杜王町を駆け抜けるのも時間の問題といえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下校時刻のチャイムが鳴る夕暮れ時、車でスタッフの男性が迎えに来てくれた。施設の名前が入っていない普通車は、とてもきれいにしてある。どうやら彼の私物らしい。感心したのもつかの間、車のトランクにはごちゃごちゃといろんなものが放り込んである。

 

あわてて片づけたのが窺えた。僕の視線に気付いたのか、彼はバツ悪そうに笑うと、さあ乗った乗ったと僕を後部座席に放り込んだ。あんまり人の車の中を観察するんじゃありません、と茶化して笑うルームミラーが笑う。傍らに学生鞄をおいた僕は、シートに体を預けてみる。

 

でも気分的に落ち着かないせいで視線がせわしなくあたりを見渡してしまう。彼は、僕がシートベルトをつけたことを確認して、ハンドルを握った。ぶううううん、と車が動き始めた。施設でみたことはないけれど、どうやら彼は喫煙家らしい。車のケースは満杯だ。

 

シートに染み付いた煙草の匂いとヤニくささを打ち消す強烈な香水の香りが、脳天を直撃する。僕はすぐに窓を開けていいかと聞いた。車酔いと勘違いした彼は、鼻が曲がっているのか、バカなのかのどちらかだ。きっと。

 

 

後部座席の中途半端に開いた窓にはぽつりぽつりと水滴が流れていく。雨の匂いがする。風は吹いていない。うっすらと山をきめ細かい雨が、まるで雲のように横切っていくのが見える。冬に向かう社王町は朝からどんよりとした雲に覆われていて、気が滅入りそうになる。

 

憂鬱な表情をしている僕をルームミラーで確認した彼は、どこかによるかい?と内緒話をするように囁いた。児童養護施設にいる子供たちは、基本的にすべてが共用である大前提があるため、一人が贔屓されることは非常に稀だ。内緒はとっても心惹かれる言葉なのはいくつになってもかわらない。でも、僕は首を振った。今はそんな気分じゃないからだ。

 

 

「なんだってあの人は僕のことを捜しているんでしょう?」

 

 

僕の杞憂はそこにある。施設長曰く、養父の代理人を名乗る弁護士の男が僕を訪ねてきたことから、この送り迎えは始まっている。弁護士会に連絡してみれば、架空名義の実在しない氏名だったから、警戒するのがあたりまえだ。

 

このところ、僕のような境遇でもう一度引き取られた子供が、母親や父親、恋人あたりに殺害される事件が表面化してきているから、スタッフはみんなピリピリしている。世間体や謎の介入、圧力による断念、報復を恐れての引き取り拒否と僕の場合は、驚くほどの偶然が重なってこの施設にいるわけだから、迎えに来る人間がいるわけがないのだ。

 

だから、今さら養父が引き取りたいと申し出る理由がわからない。汐華家は寄付金を施設にいれるくらいは、僕のことを気に掛けているようだが、汐華家の子供として引き取る気がない時点で遺産の問題は無縁といってもいい。

 

母親が持っていた資産は大半が養父によって吸い上げられ、たくさんの恋人たちが大挙して押し寄せたせいで、強盗に遭った被害者の家のように、僕の家はすっからかんになっていた。なけなしの貴金属や宝石、ブランドものはすべて彼女の葬儀と埋葬、そして僕の長きにわたる入院生活で底を尽きてしまった。

 

だから、僕が持っている自由に使えるお金などないのだ。僕に利用価値があるとは到底思えない。だから、不思議でたまらないのだ。

 

ぽつりとこぼした僕に、彼はそうだなあとうなずいた。

 

 

「子供でもお金を稼ぐことはできるんだと言ってたよ。まったく。

 せめて刑期を全うするくらいの誠意は、みせてほしかったなと思う。

 ただただ残念だね」

 

 

親身になって代弁してくれる彼は、施設の中でも子供たちに慕われている。僕はなんとなく手持ち鞄からはみ出していた財布を引っ張り出した。お札がずれていたのだ。綺麗に整えて再びしまう。僕に残されたのは、財布に入れている父親の写真だけ。

 

新興宗教の教祖のように、異様に装飾された額縁に飾られていたこの写真は、まるで新品のように綺麗なままである。ディオ・ブランドーと書かれているイギリス人の男。半裸な金髪の男の写真はどういう状況で撮影したのか考えると、非常に複雑な心境に陥るので考えないようにしている。

 

正直に言うと僕はこの男に全く興味がないのが現実だ。額縁もお金に変えてしまったので、行き場をなくした写真が帰ってきただけだ。僕の数少ない私物の中で、入れられるのが財布だけだった。わざわざ写真たてを買って飾れるほど、施設はプライベートが保障されていない。きっちりと仕舞われた財布がある。きちんと管理しないと手癖が悪い子供が持って行ってしまう。

 

 

「あ、さっきの話は施設長には内緒にしておいてくれるか。

 初流乃にはいわないことになってるんだ」

 

「わかりました」

 

 

僕もつられて笑った。少し、雨が強くなった気がする。雨音にまぎれながら飛び込んでくる光景を僕は眺めていた。車はまっすぐに施設に向かって走っている。今の時期はあっという間に暗くなってしまう。

 

ぼんやりとうつる鏡写しの窓ガラスをながめつつ、僕は顔をしかめた。酷い顔だ。理由の分からない不安を抱えている僕は、酷く乾いた顔をしている。のどがかわいたなあ、となんとなく、僕は思った。

 

 

「なら、ちょうどあそこに自販機があるな。休憩するか」

 

 

つい口にだしてしまったようだ。ヘッドライトが自動販売機を照らしている。ゆっくりと右に曲がった普通車は、駐車スペースに収まった。口止め料だ、受け取れよって茶化す彼が小銭入れ片手に車から降りた。

 

傘も差さずに横着なひとだ。少し眠そうだから、コーヒーでも買うのかもしれない。きっと僕の分も甘ったるい缶コーヒーだろう。鍵はつけっぱなし、暖房を効かせているからだ。窓の向こうから、僕は自動販売機に移る影をみつめた。僕が見ていることに気付いたらしい。彼は僕を見て笑っていた。そして、自動販売機に小銭を入れた。

 

 

またこっちを振り返る。そして、なにか言ってる。輪郭がうごいている。

 

 

なんだろう、と目を凝らすが、雨粒が邪魔して輪郭があいまいだ。薄暗い外はよく見えない。彼の影が動かない。どうしたんだろう、自動販売機は商品が選べるよう緑色のボタンがすべて点灯しているのに。さっきから何かおかしい気がする。

 

なんとなく違和感を覚えてしまう。いいようのない不安が胸を込み上げてくる。僕は後部座席のドアに手を掛けて考える。見つからない。何かがおかしいのに、おかしいはずなのに、その何かがわからない。

 

いつだったか、生まれて初めてイバラに蝕まれている自分に気付いた時と似ている、歯がゆい感覚が僕を襲った。そして、僕はようやく気付くのだ。彼の表情が、彼の調子のいい笑顔が消えていた。そこにあったのは沈黙だった。不自然なまでにこちらを向いたまま微動だにせず直立不動のまま彼は立っていた。

 

口だけが動いていた。いや、口だけしか動けないのだ。何かに囚われてしまって、あるいは想像を絶する恐怖に遭遇してしまって、脳内が現実を拒否しているせいで行動に移せないのだ。それがさらに不気味だった。

 

い、のくち。え、のくち。お、のくち。何度も繰り返される3つの音。かつて母親と養父に向けられた眼差しだったから、僕はすぐに分かったのである。そのまなざしは僕ではなく、僕の真後ろの窓方向に向けられているということに。僕は迷うことなく鞄を握り締めて車を飛び出した。

 

 

「逃げろ、初流乃っ!」

 

 

それが僕が聞いた最期のニンゲンの言葉だった。その次に聞こえたのは、ニンゲンがぺしゃんこにつぶれる音だった。ざあざあざあ、と空から降り注ぐ雨が、町中を洗い流していく。黒く分厚い雲は頭の上に広がっている。曇天だ。

 

今日はオリオン座流星群は見られそうにないなと僕は思った。冷たい雨に冷やされた空気は霧になり、空気よりも軽くなって空に昇って行って、雨雲になる。あたりは酷く視界が悪い霧雨に包まれている。真っ黒な影が、大きな影が揺らめいていた。その傍らに、養父はいた。彼の頭を踏みつけていた。にい、と養父は笑った。

 

 

 

僕は走った。

 

 

 

走って、走って、走った。

 

 

 

目指すのは、いつかオリオン座流星群をみた大きな川が流れている土手だ。連日の雨で水位が上昇し、濁り切った土の色をしている濁流の泡立つ第一級河川だ。すっかり息が上がっている。

 

 

「もう追いかけっこは終わりか?初流乃」

 

 

「誰のせいだと思ってるんですか、アンタは」

 

 

びしょ濡れの前髪を掻き上げる。養父は忌々しげに舌打ちした。

 

 

「捜すのに苦労したぜ。まさかここまで綺麗に髪が突然変異するとは思わなかった。

 今さら血に目覚めたっておせえんだよ。出来損ないが」

 

「なんのことです?」

 

「白い羊膜に包まれてない時点でクルースニクでない、クドラクでもない、

 ダンピールですらないただのニンゲンだったってのになあ?

 出来損ないだから見捨てられたんだよ、お前はよ。

 だからせめて3年育ててやった義理をきっちり返してくれや。なあ?

 それが子供から親への恩返しってもんだろう?こっちは金に困ってんだ。

 つべこべ言わずについて来い」

 

「なにを訳の分からないことをいってるんです、アンタは。

 刑務所ではなくて鉄格子の刑務所の方がよかったみたいですね。

 親の権利だとでもいうつもりですか?バカバカしいですね、聞いてあきれます」

 

 

僕は慎重に養父との距離を探った。足を止めることは出来ない。ぐっしょり濡れた運動靴から伝わる地面の感触と養父の背後に迫る濁流の間隔、すべてを頭の中で冷静に処理している。僕はこの上なく激高していた。よりによって、寄りにもよってこの男は僕の目の前で彼の命をあんなにもたやすく奪って見せたのだ。

 

命の尊厳を踏みにじり、汚い土足で蹴飛ばして見せたのだ。たかだか金のために。何も出来なかったあの頃の僕ではないのだと反響する叫びが川の濁流でかき消されていく。険しい顔の養父は、これ見よがしにため息をついて、肩をすくめた。

 

 

「誰に口を利いてんだ、てめえは。あ?」

 

 

聞き分けのないガキを相手にするのはつかれた、これはしつけだ、と言い聞かせるたびに養父がしてきた言い訳がそこにある。どこまでも根性が腐っている人間は10年刑務所の中にいようと変わることは無いのだと僕は強烈に認識する。

 

 

「やれやれ、大人しくついて来ればいいものを。これだからガキは嫌いなんだ」

 

「なんのつもりですか」

 

「お前は昔からそうだな。ずいぶんと聞き分けが悪い上に、頭も悪い。しかたなくオレはしつけをほどこした。13にもなって恥ずかしく思わないのか?なんて報告を赤の他人にする恥ずかしさときたらないぜ、まったく」

 

 

養父は言い終わると同時に、ものすごいスピードで僕目掛けてなぐりつけてきた。僕は目をそらさなかった。冷ややかなまなざしで養父を見上げた。あれだけ大きかった恐怖の存在は、ほんの少ししか身長差がないちっぽけな存在になり果てている。

 

僕の身体に茨のついた植物が張り巡らされていく。その拳を弾き返し、強烈な一撃を回避した僕は、駆け出した。養父は再び拳をふるう。あったはずの間合いはいつの間にか消し飛んでいた。生み出された生命は与えられた苦痛を相手にそのまま返す作用がある。

 

おそらく強靭な粉砕力はそのままカウンターを食らって悶絶しているはずだ。養父は忌々しげに舌打ちをする。

 

さきほど見えた黒い影の正体がようやく僕の前に現れた。見上げるほどの巨漢。まるで重戦車のような禍々しい装備をした巨人が養父の意志に従って攻撃を仕掛けていたのである。

 

 

「ずいぶんとアンタにはもったいない従者ですね」

 

「出来損ないの悪童よりよっぽど役に立つ可愛い奴だぜ、こいつはな」

 

「いつから大道芸人になったんです?サーカスにでも就職したらどうですか?」

 

「ふん、吸血鬼の息子の癖に、生命を生み出すとは皮肉なスタンドを使いやがる。なんだってクリエイティブなスタンド使いばかりなんだ。めんどくさいことしやがって」

 

「スタンド?なんです、それ」

 

「お前は知る必要はないんだよ」

 

 

聞き慣れない単語を繰り出した養父は、僕でも知っている洋楽の題名を叫んで、重装備の巨人を呼び出した。あのスタンドとかいう巨人は、僕の持っている力と同じものだと養父は言う。僕の父親は吸血鬼だとも口走った。

 

本気で気がふれたのだろうか、この狂人は。一瞬の思考の停止が隙を生んでしまう。ぐふ、と鈍い息が漏れた。急所目掛けて放たれた養父の右手が巨人の腕と重なり、ありえないほどの質量を持って巨大化したではないか。

 

あまりにも歪な形をした剛腕は気持ち悪くて目をそらしたくなる。間髪で受け止めてくれた植物が僕を届かない間合いまで後退させてくれる。まるで生き物が先導してくれるような感覚があった。

 

でもあの洋楽の名前をした巨人のような明確なヴィジョンは見えてこない。何かが足りないのだろうか、僕にもそのスタンドとか言うやつはいるらしいのに。もどかしさを抱えながら、僕は養父を仕留めるための思考を再開した。養父があんなに簡単に彼をぺしゃんこにしたのは、巨大化した右手が原因のようだ。

 

これが養父の能力だとすればずいぶんと脳筋だが、シンプルで分かりやすい分たちが悪い。いちいち繰り出される一撃が重いのだ。僕のことを守ってくれているスタンド?の防衛が間に合わなければ、間違いなく僕はビルの10階から突き落されたも同然の惨事に見舞われる。

 

強力な打撃を防衛してはカウンターダメージを叩き込み続けていた僕だったが、体格差とスタンド?同士のパワー差から出てくる体勢の崩れまでは阻止できない。アスファルトの堤防まで吹き飛ばされた僕は、凄まじい勢いで叩きつけられてしまった。

 

一瞬呼吸が止まる。だらだら吐き出される鉄の味が気持ち悪い。ずるずると落ちていく僕に、養父が容赦なくスタンドを叩き込んでくる。

 

 

アスファルトが粉みじんになる音がした。すぐ後ろの堤防が抉られていく。僕はひたすら逃げ延びるしかない。僕は片っ端からダメージを軽減するための植物を作り上げ、養父の進行を妨害した。

 

まとわりついてくる植物で組み敷いても、すぐにありあまる腕力は蔦を弾き飛ばしてしまう。堤防が植物に代わる。地面が植物に代わる。ばらばらになった生命の残骸を踏みしめて、養父はぼくに迫ってきた。

 

 

「どこを狙ってんだ?初流乃よお。これじゃあじり貧だぜ?少しは楽しませろよ」

 

 

けたけたと養父は笑う。はたから見れば防戦一方だろう。僕はひたすら防衛陣をひいては逃げ回り、養父はすべてを粉砕して回るのだ。僕がいくら蔦で動きを絡め取ろうとしても、動きを制御できるほどの拘束力となるパワーを僕は持っていない。

 

止めたところで決定打が与えられるほど僕はパワーがない。どうしても養父が捕らえられない。攻撃と回避を繰り返す養父と防御と回避を繰り返す僕では蓄積するダメージ量が段違いだった。3歳の頃と同じぼろぼろの身体に鞭打って、僕は必死で戦っていた。

 

身体のあちこちにできた打撲の跡は痛々しい。切り傷も酷いものだ。きっと骨の何本かは折れているだろう。でも、僕はあの時とは違うから、養父をまっすぐに見上げて笑ってみせた。頬を伝う雨か汗か涙か分からない水滴を乱暴に拭い去り、僕は堤防に手をかけた。

 

はたから見れば立っていられないほどフラフラで、辛うじて堤防に掴まっているように見えるだろう。養父は笑う。

 

 

「オレに拉致される用意はできたかよ、初流乃」

 

「僕はもう自由です。アンタの道具になった覚えは、一度たりともありませんよ」

 

 

ばん、と僕は乱暴に堤防を叩きつけた。すさまじい地響きがあたりにひびきわたった。耳をつんざくような濁流の音が近付いてくる。堤防から泥水が流れ込んでくる。ばきばきと音を立てて、ひびが入っていく。僕は何も言わなかった。絶望に染まった養父が僕を見る。

 

スタンドすらかまえない。必要ないからだ。もう養父は終わった。僕がここを戦う場所に選んだ時点ですべてが終わっていた。養父と僕の足元が決壊した。僕はひたすら硬いコンクリートに生命を打ち込み続けた。

 

養父は足止めの小賢しい真似と断じていたが、雑草は根っこまで取り払わないと何度でも生えてくるように、一度張り巡らされた樹木はコンクリートを突き破って大地まで伸び、やがては地下までもぶち抜くとんでもない隙間となる。こじ開けるにはこれで十分だった。

 

5メートルにわたって堤防が決壊する。堤防を洗う濁流の勢いはとどまるところを知らなかった。あっという間に僕と養父は濁流にのまれてしまったのである。養父は必死で手を伸ばしたが、激しい水流に押し流される不安定な体勢では力が入らないのだろう、支えになるはずだった木々をへし折るだけで終わった。

 

僕の身体が川に流れ込む。どんどん加速して、濁流にのまれていく。一気に首まで飲み込まれた水位が唇のところまで上がってくる。逃げ道は無かった。養父にはもう自ら這い上がるチカラは残されていない。養父はあまりにも重装備だった。浮くにはあまりにも重すぎる。

 

もし登れるとしても僕が許さない。立ち泳ぎ状態の限界がやって来るのはお互い様だ。この世界の終りとも思える濁流が空から降り注ぐ。僕も養父もそのままみえなくなってしまった。広がるのは泥みたいな水の濁り。オリオン座流星群が見えないことだけが残念だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「げほっ、げほっ、ごほっ」

 

僕はなけなしの力を振り絞り、辺りの地面に転がっている石ころを木の葉に変えた。そして、どさっとそのまま横になる。一か八かの賭けだった。生み出した生命が元の持ち主のところに帰ろうとするのなら、壊れゆくアスファルトから生み出された植物はまっすぐに地面を目指すだろう。

 

ただの地面ではなく、人工物である頑丈なアスファルトの地面を。堤防に絡みついた蔦に引き上げられる形でひきずられた結果がこれだ。ぐったりと横たえている先には、さすがに持ち上げきれなくてずるずると堤防から落ちつつある養父の姿がある。

 

悔しいかな、僕が必死の思いで作り上げた生命線は、僕と養父の足元に転がっていたものだ。悪運の強い男である。蔦の進行方向に養父はいた。巻き込まれたのである。殺してもいいと思う。僕は少なくともあの時本気でこの男を殺すつもりで堤防を決壊させた。

 

突き落してしまえば濁流にのまれて養父は死ぬだろう。あるいは体を支えている蔦に死んでしまえと命じれば、たちまち枯れてしまった蔦がちぎれて養父は沈没する。もしくは窒息死するまで締め付けろと命じれば一瞬でこの男は死ぬ。頭の中ではいくらでもその方法が思いつくというのに、体に力が入らないのが悔しくてたまらない。

 

これが今の僕の限界だった。濁流にさらされる養父の身体を見つめながら、僕はそのまま気を失ってしまったのである。堤防が決壊したというサイレンが鳴り響く中、本格的に降り始めた雨は、すべてを洗い流していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気が付くと清潔なシーツにくるまれた僕は、ぱりっとした患者服をきて、ベットに横たわっていた。身体の至る所に目が付く白、白、白、隅々まで治療が施されているのがわかる。

 

包帯が巻かれ、ガーゼが固定され、体を動かそうとすると痛みが走るのは、おそらく骨が折れているか、筋肉部分が悲鳴を上げているか、酷い内出血を起こしているからだろう。きっとすべて同時に起こっているはずだ。

 

固定化されているおかげでろくに寝返りが打てないありさまである。右腕には注射針が突き刺してあり、透明な管が透明な液体を僕の身体に点滴として注入されているのがわかった。おそらく栄養剤かなにかだろう。ずいぶんと体がだるい。

 

意識がぼんやりとするのは、ずいぶん長い間眠っていた証である。僕はとりあえず手の届く範囲に置いてあったナースコールを鳴らした。看護師の女性が2人とんできた。僕が辛うじて動く首を回して、そちらに顔を向けると、あからさまに表情が明るくなっていくのがわかる。

 

にっこりと笑った主治医の先生を呼びに行った年配の女性を見届けて、僕はその場に残ったニコニコとしている若い看護師の女性に質問をすることにした。

 

 

ずいぶんと発音がしにくいのは、きっと僕の身体が発声方法を忘れてしまっているからだろう。大丈夫ですか、と彼女は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して、僕に渡してくれた。小さな冷蔵庫には、スポーツドリンクの他にも僕の好きなコンビニのプリンやチョコレートのお菓子が詰め込まれている。

 

親切にもペットボトルの口には青いストローがついたキャップが収まっている。どうやら僕が目を覚ますまでずいぶんと世話を焼いてくれた人がいたようだ。今はいないようだけれども。きっと施設の誰かなんだろうな、と想像がつく。僕は左手で受け取ると一口含んでのどを潤した。

 

 

「ここはどこですか?病院ですよね?」

 

「ここはTG大学病院にある個室ですね。部屋番号は×××になります」

 

「今日は何日ですか?」

 

「今日は24日の土曜日ですね。もうすぐ夕ご飯の時間ですけど、汐華さんはどうなさいます?食欲はありますか?身体のことを考えると、普通のお食事は早いので、消化のいい献立になりますけど」

 

「いえ、まだいいです。今日はまだなにも食べたくない」

 

「分かりました。では、点滴の方にしますね」

 

 

彼女はカルテを広げて、胸ポケットからボールペンを取り出すと、かちりと音を立ててさらさらと何かを書きこんだ。そして、ちょっと失礼しますね、と点滴が提げられているローラーを動かして、凹み気味の袋を取り換えはじめる。

 

専門用語が書かれているので分からないが、これが本日の食事ということになる。今日はなにも食べないほうがいいだろう。主治医の先生から聞く話のあとで、食欲がわくとは到底思えないからだ。そして、その予感は的中することになる。

 

 

ようやく到着した主治医の先生は、丸椅子に腰掛けると、僕が入院するまでの経緯を説明してくれた。21日の夕方、予定時間を過ぎても帰ってこない僕たちを心配した施設のスタッフたちは、事態を重く見て警察に通報、下校通路を手分けして捜索しはじめた。

 

ヘッドライトがつけっぱなしの不審な自動車が自動販売機付近にあると近隣住民から連絡が入り、別の警察官がそちらに向かうと陰惨な状態で亡くなっている彼を発見する。このあたりで野次馬がただならぬ雰囲気を感じ取って集まり始め、それに気付いたスタッフたちは最悪の事態が発生した事を把握して、必死で僕を捜し始めた。

 

学生鞄や僕の所持品が捨てられている道をたどると、その先には決壊した堤防と凄まじい勢いで氾濫し始めた川が待ち構えていた。危険水域を超える寸前だった。このあたりから警察は事態を重く見て、数百人体制で僕のことを捜す一方で、緊急警報を発令した役場の放送で近隣住人達は避難を余儀なくされる。

 

川の堤防を越えると水位より下にある住宅地に流れ込む危険性があったため、浸水を防ぐための土嚢を積み上げる作業に追われる。大規模化していく作業のせいで僕の捜索にさかれる人数は少なくなってしまい、施設のスタッフは賛同してくれた住人達と共に僕のことを徹夜で捜してくれた。

 

やがて川の中流あたりで自力で這い上がりながらも低体温症と出血多量で衰弱死寸前の僕を発見、この病院に緊急搬送された。そして、幸いにも緊急治療室で手術を終えた僕は、一命を取り留めてこの一般病棟の個室に移されたとのことである。

 

まだ未成年の僕は個人情報が伏せられているものの、社王町で突然起きた陰惨な事件として僕の養父は犯人にあげられた。その被害者として誘拐未遂事件に巻き込まれたかわいそうな中学生はワイドショーをにぎわせている。連日押しかけるマスコミの対応に追われている大人たちは疲れた顔をしているが、僕の前では気丈に笑顔を見せている。

 

目が覚めたばかりの僕に余計な気を遣わせたくない、まともな大人たちがいる。いい人たちがいる。ありがとうございます、と僕が微笑むと、それだけが救いだと大人たちは笑った。

 

 

全治三か月、と先生はいう。診断結果を教えてもらう。はっきりいって、殺意しかない。養父は僕が生きてさえいればどんな状態であろうともかまわなかったのだろうことが窺える。両手、両足を執拗に攻撃していた畜生が脳裏をよぎり、僕はちいさくため息をついた。

 

最悪だるま状態にしてでも拉致するつもりだったことが予想できる。一体どこに連れていくつもりだったのだろうか、あの男は。稚拙な犯行計画を企てて、単独犯人で強行に及ぼうとするほど多額の金を積まれたとしか思えない。背後がまるでみえない。

 

ぞっとした悪寒に僕は身体を震わせた。僕の心境を察してか、先生はもう大丈夫だから安心するといい、ここは警戒態勢が一番厳重な特別病棟だからと教えてくれた。どうやらよほどひどい顔をしていたらしい。僕は静かにうなずいた。別のことを考えよう。

 

全治3か月、と先生は言った。リハビリも含めると来年の2月ごろ退院することになる。どう考えても出席日数が足りない。進級できるか心配になった僕に、子供らしい発想をみて心底安心したらしく、この病院内にある学校に通うことを提案してくれた。

 

施設側もある程度対応は考えているらしい。代替処置でもしてくれるんだろうか、とのんきに考えていた僕に、先生はなにもいわない。いやな予感がした。

 

 

 

 

 

はるか遠くの淡い空に、ゆっくりと雲が流れていった。

 

 

 

 

 

先生たちが退出する。施設のスタッフの女性と一緒に入室してきたのは、凛とした男性だった。提示されたのは警察手帳である。養父に関する事情聴取だろうか。あの日の出来事を証言できるのは当事者である僕だけだ。

 

目撃者は先生の話を聞く限りいないようだし、生き証人も僕だけになる。普通に考えて警察の人が僕の話を聞くのは当然といえた。養父のことか、と聞いてみると、少しだけ驚いた顔をした彼は、彼女を見つめた。彼女は肩をすくめる。

 

 

「ずいぶんと冷静なんだね。淡々としているというか、客観的に物事を判断しているというか、13歳にしてはずいぶんと大人びていておどろいたよ」

 

「無駄なことは嫌いなんです。何度も説明するのは頭の悪い人間のすることだから。僕はそうしないと生きてこれなかった。それだけです」

 

「そうか、なるほど。つまらないことを聞いたね。すまない」

 

「いえ、あなたはいい人です。僕の方から切り出したとき驚いたということは、僕のことを考えて、どうやって事情聴取を始めようか悩んでいたってことでしょう?それなら僕もその期待に応えないといけないです。僕は大丈夫です。始めましょう?」

 

「そう言ってくれると助かるよ。じゃあ、はじめようか」

 

 

はい、と僕はうなずいた。でも、僕は彼の期待に応えることはできない。スタンドという超常現象が密接に絡み合っている今回の事件について、彼が真相に辿り着くことはおそらく不可能だ。

 

未解決になることは目に見えている。状況証拠を積み上げれば養父を犯人にできるだろうが、物的証拠はおそらくない。有能な弁護士を付けられたら証拠不十分をつつかれて最悪の場合執行猶予になってしまう。日本の警察は優秀だから勝訴の見込みがなければ立件しないだろう。

 

おそらく彼はスタッフの男性を殺害した複数犯が僕を誘拐しようとして、僕が誤って川に転落したと考えている。堤防の決壊は無関係と結論ありきで動いている。真相に気付いているなら僕にここまで友好的な態度は見せないだろう。

 

堤防の決壊によって近隣住宅は洪水による被害が多数出ているようだし、死者やけが人はいないようだが、ライフラインの寸断が深刻らしい。そういう意味では僕は立派な犯罪者だ。でも、僕は死にたくなかった。これ以上の犠牲を払う前に養父の魔の手から逃れるにはそれだけしか手段がなかった。それだけだ。

 

だから僕は正直にいうのだ。せめて複数犯というノイズだけは取り除かないといけない。彼のしてくる質問はあきらかに事実とずれている。普通に考えて一人の人間が大人の男性をあんな状態にできるわけがないという常識が真実から彼を遠ざけているから。

 

 

僕は概要を説明した。自動販売機にて養父と遭遇した僕は、目の前でスタッフが殺害される瞬間を目撃して、必死で誘拐しようとする養父から逃げた。川の堤防まで追い詰められた僕は、養父を殺すつもりで川に突き落としたが、濁流が予想以上に大きくて僕まで巻き込まれた。

 

自力で這い上がったあと、気を失った。込み上げてくるものがこらえきれなくて、僕はずっと目を閉じて話をしていた。すべてを話し終わった時、スタッフの女性が顔を覆い隠すと、僕の頭をなでて抱きついてきた。

 

え?どうして?普通なら恐れおののいて立ち尽くすところだろうに。あまりにかけ離れた行動に呆然としていると彼は僕の目線に降りてくると首を振った。

 

 

「まだ記憶が混乱しているんだね。無理に話をさせてしまったせいで、事実とはことなる記憶が出来上がってしまったようだ。大丈夫だ、汐華君。君はそんなニンゲンじゃあないさ」

 

 

何を言っているんだろう、彼は。僕はありのままを告げただけなのに。瞬きをして硬直する僕に、彼は笑った。

 

 

「あの堤防は老朽化が進んでいたことが調査の結果明らかになっているんだ。委託先の企業が規定未満の水準で建設したせいで、劣化が著しかったんだね。だから君が主張するように川に突き落とすことは物理的に不可能だ。追い詰められたのは事実だろうし、どういったやり取りがあったのかは想像できるけど、濁流にのまれたのは偶然にすぎない。それに君は自力で這い上がったようだけど、普通、殺そうとする人間まで助けようとするかい?あの蔦はずいぶんとしっかり絡みついていた。濁流があそこまで激しくなければきれなかったはずだ。君は助けようとしたんだよ、13歳の子供である君が、40代の男性をだ。体格的にも体重的にも無謀だ。もしかしたら君まで死んだかもしれないのにね。君は無我夢中だったから覚えていないんだろうが、最後まで助けようとした痕跡が何よりの証拠だ」

 

 

励ますように彼は僕に語りかける。僕はなんとも不思議な感覚でそれをみていた。一般的な感覚を持つ人間には、こういう風にみえるのか、と認識させられた気分だ。ほうけている僕を抱きしめるスタッフの腕の力が強くなる。

 

こういうとき、涙の一つも流せればいいんだろうけれど、体は震えるだけで水分を失うまいと懸命にこらえている。涙を流したところで脱水症状で死ぬ危険性があるという事情で、泣きわめくことを体が諦めてしまった地獄の生活。

 

終わりを告げて10年になるのに、もうこの体質は治らない。彼は優しく笑った。そして、静かに表情を引き締める。どうやらここからが本番のようだ。

 

 

僕は途中までしか記憶がない。でも、彼ははっきりといった。蔦がきれたと。ありえない。ありえるはずがないのだ。あの蔦は僕が一番使い慣れている植物であり、濁流に長時間さらされたぐらいで引きちぎれるような軟なものではない。

 

僕の能力を上回る力を秘めていた彼のスタンドが自らの意志で引きちぎらなければ絡みついた糸はほどけない。養父は気絶していたはずだ。スタンドは使えない。やっぱり僕の殺意は深層意識深くまで根付いていたようだ。

 

もしくは僕の施しはうけないという彼の無意識の執念がそうさせたのだろうか、遠回しの自殺を。どのみち後味の悪い結果になってしまった。でも、彼の話はそこではないらしい。

 

 

「捜索には2日かかった。昨日の正午過ぎだ。みつかったよ、あの川の下流で」

 

 

そして彼は僕を見た。

 

 

「結論から言おう、他殺だ。犯人は今も逃亡中。凶器のナイフから指紋が見つかったんだ」

 

 

そして、彼は懐から写真を僕に見せてくれた。凶悪な死刑囚がうつっている。

 

 

「男の名前は片桐安十郎。きみのお義父さんだった男と共に脱獄した死刑囚の男だ。1964年生まれの34歳。12歳から凶悪犯罪に手を染めて、そのうちの20年は刑務所行きだった犯罪史上最悪の男だ。私たちは君の誘拐事件は複数犯だったと考えている。この男が犯行に及んだ理由は仲間割れ、もしくは誘拐事件の失敗による口封じの可能性が高いんだ」

 

 

僕は沈黙するしかない。養父が突然スタンド能力に目覚めた理由がここにあったからだ。

 

 

「君は施設を出る必要がある。学校も転校する必要がある。片桐が捕まるまで私たちの保護下にはいるのが一番なんだが、君はまだ中学生だ。義務教育だから休学は難しいだろう。どうかな。この男をよく知る警察の家にお世話になるっていうのは?」

 

 

 

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