晩春から初夏へ移り変わる山々の、新緑の美しさといったら、記述するだけでわくわくしてくるものだと双葉は知っている。
ここのところ蓮見先輩に読んでもらう小説が行き詰まりを見せていて、気分転換に取材を繰り返していた甲斐があった。
有名な神社の境内のくすのきが、若葉の季節には、緑という黄金色に輝いて、初夏の空の蒼によく映える。
春はどんどん深まっていった。風の匂いが変わっていった。夜の闇の色合いも変化した。
音も違った響きを帯びるようになっていった。そして季節は初夏に変わったと思わせる暑い五月。晩春の花のがくをまだつけている新果のようなある朝、双葉は蓮見先輩と待ち合わせのカフェに向かうためいつもの道を歩いていた。
街路樹の高い枝の上に白く咲く花も盛りの時で、遅れて「春」を演出している。
まだ梅雨の前なのに、夏の盛りを思わせるような暑い日だ。梅雨に入るのもまだ早いというのに、台風を思わせる空模様が続いていた。
公園に入ると川に沿って植えられた樹々の若い葉の匂いがした。その緑色があたりの空気の中にしっくりとにじみこんでいるようだった。松も新しい緑にかわって、草も木も青い焔のようになった。
外の世界は五月だ。明るい溌剌とした五月だ。自分の心もかつてはこのようでなかったか?なぜいきなり沈んでいる?
その答えは目の前にある。
「偶然ね」
双葉の気分が急転直下なのは、目の前の女性のせいにほかならない。こんにちは、でも、久しぶりでもないのは知人でも友人でもないからだ。
「デートかしら。いいわね、若くて。私はね、今からあなたのお父さんに用があるの。いるでしょう、家に」
双葉はこの女性に見覚えがあった。頼んでもいないのに自己紹介を始めたからだ。オリカサハナエさん。杜王町在住の女性、三十九歳。趣味はミステリ小説を読むこと。
身長は高めの一六九センチですらっとした体型、年齢よりも若く見えると思った。父は高校時代の先輩後輩だと言っていたが、しばしば双葉の家族にちょっかいをかけてきている。母が出ていったのはこの人のせいだと双葉は考えていた。
個人的に調べた限りでは家族や親しい友人はおらず、近所づきあいもせずに杜王町新興住宅地の一軒家にひっそりと暮らしていた。働いていないわりにわりとリッチな生活をしていた。
あまり聡明なようには見られず、とっさの機転も利くほうではない。 そのくせ妙なことに気がつき、積極的に行動しようとすることからトラブルメーカーの気質が窺えた。双葉の家はまさに標的になっているのだ。きっと双葉が生まれてくるずっと前から。
「あなたのお父さんに用があるのよ」
にこりともしないで女性はいった。この人が現れるたびに双葉にとってあまり良くないことが起こるのだ。両親の言い合いが始まり、喧嘩ばかりになったのもこれがきっかけだった。また現れた女性はじろじろと無遠慮に辺りを見渡し、また来るわねと去っていったのだ。
「なんの御用ですか」
2回目に来たとき、双葉はとうとう尋ねた。弓のように口を歪ませた女性はいうのだ。
「私、オリカサハナエっていうのよ。あなたのお父さんにきいてみたらどうかしら」
そのまま告げたとき、父は表情を落っことしたような顔をして黙ってしまった。
「本当にオリカサハナエと名乗ったのか」
「うん」
「......なにが目的なんだ......」
ああ知っている人なのかとぼんやり思った。わざと鈍感にならなければいけなくて、父がどんな顔をしていたのか双葉は思い出すことができない。
「父さんの知ってる人?」
「............父さんの昔の恋人だ」
「え」
「母さんと出会うずっと前、恋人だった人だ。でも別れた」
「どうして?」
「なんで聞くんだ」
「だって......」
「......父さんが猫が嫌いなのは知っているだろう?」
「うん」
「オリカサハナエさんは猫が大好きだった。父さんは嫌いだった。恋人になるということは、どちらかが我慢しなくちゃあいけない。どちらも譲れなかった。だから喧嘩して、嫌いになって、別れた」
「そうなんだ」
「そうだ。でもオリカサハナエさんは猫のせいだと思い込んでいる。それだけじゃあなかった。それをわかってくれなかったからわかれた。わかってくれたのが母さんだ」
「だからまた来たの?」
「たぶんな......不安にさせてすまないな、千帆。オリカサハナエさんはずっと一人だったから、ずっと時間が止まっている人なんだ。おそらくは16年前から。悪いことは言わない、今度来たら居ないふりをしなさい。見て見ぬふりをするんだ。警察を呼んじゃっていい。何をされるかわからないからね」
こくりと頷いた双葉をいい子だと父は撫でてくれた。約束を思い出しながら双葉は嘘をついた。
「猫がね、死んじゃったのよ。ニュースでやっているでしょう?森野って女たちが誘拐したペットを自宅の庭に生き埋めにしてたってやつ。あたしのペットもね、誘拐されて死んじゃったのよ。もうヨボヨボのおばあちゃん猫だったけど、唯一の家族だったのに」
双葉が巻き込まれかけて、逃げ出した事件の被害者のひとりがオリカサハナエだったから、罪悪感から逃れることができなかったのだ。
「あなたのお父さんからもらった猫だったのに。トリニータっていうのよ、2代目なんだけど」
その一言が思考を停止させたのだ。気づいたら双葉は知らない家にいた。
「ふふっ」
のぞき込んでいるオリカサハナエに気づいた双葉は血の気がひいた。飛び起きて距離をとろうとするが力が入らず、ずるずると後ろに下がっていくしかない。やがて壁と背中が一体化してしまうのではないかというくらいくっついてしまう。オリカサハナエはおかしくて仕方ないという風に笑うのだ。
「ふふふっ」
「な、なに、なんですかぁ......」
彼女は壊れた人形のように笑うのだ。他者の存在がハリボテのように感じられるくらい、ハイライトが死に、目の焦点が合わない。
「どんなに愛している娘でも、あなたのお父さんにとっては、いずれ自分を映す鏡にしかすぎない。私は賭けをすることにしたのよ、双葉千帆さん」
「ひっ」
突きつけられたのは、ナイフだった。
「我慢くらべといきましょう?絶対に出られないこの家でどちらが先に死ぬか。ねえ?いい考えだと思わない?」
ほんの少し事情を知った後でも双葉はオリカサハナエが嫌いになれなかった。どう好意的にみても冷たい印象は変わらなかったが、それ故に似ている気がしたのだ。ふるまいや口調がどんなにやさしくても彼女は父と同じようにひとりで生きている感じがした。
同じ匂いを感じ取っていたのだ。つまりその程度の知り合いにすぎない、赤の他人に対する無関心さがある。それと同じくらい残酷になれる者同士だったのだと双葉が知ることになるのはずっとあとのことだ。
「......千帆のやつ、遅いな」
いつまでたっても来ない後輩。待ちぼうけをくらいながら、蓮見琢馬はぼんやりと外を眺めている。全ての情報を一度覚えたら忘れることが出来ない壊れた脳みそをもつ彼はいつも外を眺めていた。
この時期、この時間帯に通る車のナンバーと所有者と住所はだいたい覚えているのだ。いつもと違えば間違いなく覚えている。スタンドを発動させれば黒い本が1冊出てくる。分刻みででてくる情報を眺めていた琢馬はある一節に目がいくのだ。
8時45分52秒オリカサハナエの自家用車通過。
(おかしいな、いつもは買い物のはずだが)
ここのところ、社王町にスタンド使いがいすぎるせいで双葉も事件に巻き込まれて死にやしないかと想像してしまう。いよいよ想像が現実になったんだろうか、人間はいつだって実現しうることしか想像しないのだ。
「......ジョルノは......岸辺露伴のところか」
なぜかピンクダークの少年が1ヶ月休載していると噂の漫画家のところにアルバイトにいっているはずだ。またですかと言われるのはわかっていたが、会計を済ませて琢馬はそのまま岸辺露伴の家に向かった。
ピンポンと何度も呼び鈴を鳴らすが返事はない。
「いつもなら買い物から帰宅して趣味に興じている頃だ」
琢馬は勝手知ったる我が家という顔をして裏庭に回り込む。ここに康一先輩がいたら警察を呼んだ方がいいとか通報されるとか至極真っ当な反応をしてくれるはずだが、不幸なことにここにいる人間は誰もそんなことはしない。興味が無い、どうでもいい、ちんたらしてたら双葉千帆が死ぬ、いろんな理由はあるが一致しているのは間違いない。
「彼は何を言っているんだ?」
「瞬間記憶能力があるんですよ、琢馬は」
「ああ、漫画でよくあるあれか。ほんとにいるんだな」
「いつも車のナンバーを見てるけどまさかほんとに役立つ時がくるなんて思わなかった」
「すごいな......」
「ヘブンズ・ドアーはやめた方がいいですよ、彼の記憶量は多すぎて六法全書何冊分になるかわかったもんじゃあない」
「それを決めるのは僕だが......双葉千帆っていう彼女のために頑張るヒーローを邪魔だてするほど僕は暇人じゃあないさ」
「そんなんじゃない」
「みんなそういうもんさ」
蓮見琢馬と双葉千帆に関して言えばまさに本人の主張通りなのだが、僕は完全なる第三者であり、これからの人生すらかかわる根幹でもあるから僕は何も言わなかった。
「働いていないのに悠々自適な生活、愛人家業は儲かるらしい。今年、婦人系の病気にかかって子供が産めなくなってから千帆の家に嫌がらせばかりしていたようだ」
「長年金をもらっていながら......?子供が産めなくなるってそんなにショックなんですね」
「らしい」
「ずいぶんと詳しいじゃあないか、蓮見君。相談にでも乗っていたのかい?いい彼氏じゃあないか」
「そんなんじゃあない......放っておいたら父親の愛人を独自に調べあげるのと同じくらいの必死さで、この街の不思議なことに引き寄せられてしまうだけだ」
「それはまた危なっかしいな」
「露伴先生にも言われるってことは相当だな......」
僕達の雑談に乗っかりながら、勝手にじろじろとカーテンの向こう側を見ていた露伴先生が不意に声を上げた。
「あれを見ろ、物取りでも入ったみたいに部屋中ひっくり返されてるじゃあないか。これは慌てて家を出ていったみたいだな」
「洗濯物がそのままなのに?」
「そう、そのままなのにだ」
「......今日は一日晴れてるから取り込まなきゃあいけないのに放置されてるぞ、ジョルノ。湿ってる」
「朝出かけたきり?」
「僕が見かけた車のまま、帰ってきていないらしいな」
離れた駐車場を一応確認してみたが、空っぽだった。
「どうします?」
「これ、使ってくれ」
「なんですこれ?」
原稿用紙を受け取ろうとしたら露伴先生に取られてしまった。淀みなくめくられて行く紙の乾いた音がする。どうやら露伴先生は速読もできるらしかった。
「ふむ、なかなか面白い題材じゃあないか。荒削りだが熱意を感じる。宝石の原石だな、投稿するほどの推敲はないが一番大事なところがかけている」
「千帆にいってやってくれ。小説家志望なんだ。ピンクダークの少年の漫画家に褒められたと知ったらテスト返上で没頭するに決まってる」
「君が読んであげているのか。将来の原作者になるかもしれないから大事にしてあげてくれよ、くれぐれも」
「......考えておく」
いいことをしてやったと自画自賛気味な露伴先生は琢馬にその車が走っていった方向を聞いた。
「そうか......それなら別荘地帯だ。バブルが崩壊したと同時に売りに出されてゴーストタウンみたいになっている」
康一先輩が山岸先輩に拉致監禁された別荘があるというあれか、とぼんやり考える。
「ぼよよん岬か、千帆が熱心に調べていたな」
僕は思わず閉口した。まさか小学校からの友人がその噂の当事者だとは思わないに違いない。ここまでスタンド使いとの接点が多く、家族にもスタンド使いがいるのに、双葉千帆だけがただの一般人と考えると詐欺のように思えてくる。スタンド使い同士の引力に巻き込まれてぐるぐる回っている衛星みたいなものなのだろうか。
すっかり満足したらしい露伴先生から原稿用紙を受け取った僕はそれをツバメに変えた。
「今更なんだが、君は驚かないんだな」
「ジョルノがそのスタンドを使いこなすまで色々あったから慣れた。季節外れの昆虫や植物が大量発生して騒ぎになっていたからな」
「ああ......そうか、初流乃君のスタンドは一般人にも見ることができるのか」
「そういうことだ」
我関せずという顔をしてツバメが飛んでいく。やはりぼよよん岬の方だ。ずいぶんと遠くに双葉は誘拐されたらしい。僕たちはタクシーを探して大通りをいくことにした。
バブル景気の際にはリゾートマンションが相次いで建てられたり、別荘地ではなかったところにまで開発の手が伸びた。S市の別荘地帯もまさにそうである。
本来の利用目的ではなく、投資・投機目的をうたって各地で開発・分譲が行われた例も数多い。このためバブル期に開発された別荘地は元々の条件が悪く利用価値の低い場所や、道路すら造成されず整備自体がろくに行われていないような土地もあり、バブル崩壊とともに売却されたり、放置されて荒地・廃屋となったりしている物件も見られる。
原野商法やそれに近い詐欺的手法で辺鄙な場所の土地や建物を売り付けた例も少なくない。
バブル期以降、一部の別荘地はなお活況を維持しているものの、ニーズの変化や長期間に及ぶ個人消費の落ち込みなどから日本全体においては旧来型の浮世離れした避暑や別荘レジャーは終息に向かいつつある。
バブル期にみだりに開発を行った新興別荘地は廃れた。大方の別荘は値崩れしている上に売れず、衰退する別荘地も増えている。
おかげで治安の悪化やスラム化も叫ばれているようで、このあたりも例外ではなさそうだった。ツバメが旋回する所にあたりをつけ、僕達はタクシーを降りた。
「あの別荘ですね」
「本当に優遇されていたんだな、愛人一人に別荘だと?スナックのママに入れ上げたおっさんみたいなことするんだな、双葉さんの父親は」
「耐震偽装を隠匿するための口止め料としては安いんじゃあないかな」
「なんだって?」
「そういう噂があるというだけだ」
琢馬はどこかトゲがある言い方で呟く。僕は話がどう移り変わってゆくのか見当もつかず、ただじっと露伴先生と琢馬の話に耳を傾けた。明らかに露伴先生はグッと心臓を引っ掴んで、云い知れぬ好奇心の血を波打たせているのがわかる。なにやらスイッチが入ったらしい。
六割の好奇心と四割の野次馬根性とに動かされて、呼吸をするのさえ忘れているようだった。イライラし始めた琢馬を横目に僕はツバメを探す。
周囲の音が、見覚えのない筆跡に吸い込まれるみたいにして黒い翼がすーっと遠ざかる。心の奥底で本能の光がまたたいて、ツバメは帰省本能に従い、迷うことなく飛んでいった。
「ここだ」
「しかし、不思議なこともあるもんだな」
「なにがです?」
「初流乃君は知らないのか?この辺りはたしかに別荘地帯だがぼよよん岬が目と鼻の先じゃあないか。最近ここいらはあの岬のおかげで観光地になっているんだよ。なんでも両思いになるとかなんとかで。今日は休みだってのに人っ子一人いないじゃあないか」
僕と琢馬は顔を見合わせたのである。