静(しずか)という名前が判明したばかりの赤ん坊の発育状況は、スピードワゴン財団の医療班が太鼓判を押すほどの成長ぶりだという。
体つきに安定感が出てきており、両手で支えれば短時間おすわりができる。両手で体を支えると短時間なら1人で座れる。寝返りが上達してきて、足で勢いをつけなくても腰をひねって回転できる。手の動きも発達し、手で持ったものをもう一方の手に持ち替えられる。
さみしい、悲しいといったよりこまやかな感情が発達してきて、いろいろな理由で泣く。
ジョセフさんはすでに、泣き方の違いに注意してどうして泣いているのか静の気持ちを考えられる。どんなときどんなふうに泣くのかがわかってスムーズに対応できている。
静は満足げにジョセフさんに向かって「アーア」「ダーダ」など繰り返し音を出していた。
身元が判明したことで健康診断をちゃんと受けていることがわかったとジョセフさんは話しながら静を抱き上げる。抱っこしてみるかと聞かれたが、あんなに柔らかくて小さくて温かいもの恐ろしくて抱けないと断った。
「うるさくてスマンが、今の時期の赤ちゃんは目を離したら死ぬからのう」
すっかり父親の顔になっているジョセフさんは認知症とは到底思えない。たぶん不倫がバレてしまったからすっとぼけていたんだろうと僕は思った。
静の母親はシングルマザーながら懸命に育児をしていたようだ。離乳食を2回食にしたり、オーラルケアを始めたり、夜泣き対策に色いろ試していたりした形跡が遺品から判明したという。
「母子手帳に書いてあればよかったんじゃが、わざわざ書かんだろうしなあ」
ジョセフさんは苦笑いしている。目の下にクマがあるのは、夜泣きに苦戦しているからのようだ。
赤ん坊は大人が考えている以上に過敏だ。視力が0.1もないくせに匂いで母親を見分けてしまう。きっと静はすでに母親がいないことを本能でさとっているはずだ。ほとんど初めての場所で、今まで会ったことのない人たちと向かい合っていたら、なんだかすごく天涯孤独な気持ちになってしまう。だから泣くのだろう。夜泣きがひどいのは無理もない。
今は夜のリズムが整ったと思ったら、夜泣いて起きるようになるころらしい。背中をトントンする、抱っこする、授乳する、お茶を飲ませる、外気に触れさせるなど、赤ん坊の気分を落ち着かせる方法をいろいろ試してみているらしい。早寝早起きの生活リズムを整え、日中は散歩や外遊びをする、寝る前は興奮させないなどの工夫もしているがダメらしい。
静はすでに理由や目的があって泣き、問題が解決したら泣きやむようだ。また、欲しいものに手を伸ばしたり、指で示したりするようになるので何をしたいのか、わかりやすいのが幸いらしい。それは、ジョセフさんと静の「共感性」が高まった証拠だろう。
ふだんからしぐさや様子に注意して、まだ言葉にはならない赤ん坊の気持ちをくみ取ってあげているようだ。なるほど、たしかに目を離したら死ぬ。
「やはり初めて会う人には緊張するようじゃのう、固まってしもうた」
おーよしよし、とジョセフさんは静を高い高いし始める。
「わしは静を養子にしようと思っとる」
僕は目を見開いた。
「静は海外養子縁組になるのう」
「アメリカではよくあることなんですか」
「そうじゃ。スタンド使いは惹かれ合う。静と会ったのも巡り合わせじゃ。それに仗助と打ち解けられたのも、この子のおかげじゃしのう」
「つまり、静・ジョースターですね」
「そうなるのう」
僕は胸をなでおろした。透明になるスタンドがまだ制御出来ない赤ん坊なんて今の日本中どこ探したってちゃんと育てられる人はいないはずだ。
「ジョルノ君、座ってくれるかの。老体は立つのも一苦労じゃ。なにせ一日一日赤ちゃんは重くなっていく」
僕は促されるままに座った。
「承太郎から話は聞いとるよ」
「そうですか」
「DIOを思い出させていけない、年甲斐もなくイラついてしまうと舌打ちしておったわ」
僕は声を上げて笑った。
「君は決して無愛想というわけではなく、誰かに話しかけられればきちんとそれに答えたし、物のいいようもしっかりとしている。そうなろうと思えば、いくぶんのぎごちなさは感じられるにせよ、愛想良くなることもできるようじゃな」
きらり、と老人の目が光る。
「しかし原則としては、孤独だ。子供は好きで、子供がいるとつとめて親切に振舞おうとする」
僕は静かに聞いていた。
「聞いた話じゃが、君は暗闇の中にひとりでぽつんと座っているような子供だったそうじゃな。暗闇の中にじっとうずくまっているような、まるで置き去りにされた荷物のような。じゃが今はそうは見えない。友達に恵まれたのう」
ジョセフさんは目を細めた。
「人を見る目はあるつもりなんじゃ、これでも」
「それで、僕に話ってなんでしょうか」
「なあに、老人の相手をして欲しいだけじゃよ。静の世話で一日中つきっきりじゃからのう。気が滅入っていけない。承太郎は博士号をとるための論文に忙しいからのう」
「ああ、海洋学者でしたっけ、空条さん」
「そうじゃ」
僕は肩を竦めた。
たしかにそれは良くない。赤ん坊と2人しかいない部屋というのは思考が永遠に立ち止まる場所だ。そこに長居をしてはいけない。母を、妻を、女性を閉じ込めてはならない。ふとした殺意も、キッチンドランカーもそこから産まれるのだ。そうやって追い込まれた両親から保護されたり追い出されたりした子供たちを僕は誰よりも知っている。
しかし、まだあって数十分だというのにずかずかと言い当てる老人だなと思う。これがアメリカの不動産王であり、空条さんの祖父であり、仗助先輩の父親なのだとしたら納得してしまいそうだ。
たしかに僕は孤独なんだろう。客観的に見ても、主観的に見ても。この人はきっと世界中にたくさん友達がいて、僕もそのうちの一人にしたいと考えている。みぞおちがきゅうと痛むような感じがする。差し替えのきく一枚のカードや、移りゆく日々の風景のひとつ、遠くで思いだす憧れ、真冬に思い描く真夏の海辺、そういうものにすぎない。そのことをすこしさみしく思う。
感傷的になるのは、きっと静がいるからだ。この赤ん坊がいると僕は感情のコントロールがきかなくなる。
いつもの僕ならば自分しかないところにいつもいたから、何者も心に映さない。ジョセフさんの言葉ごときで揺らがない。
ホテルの部屋で異国語のTVを見ながら突如気が狂うほどさみしくなって泣きじゃくり始めた静につられるなんてことないはずだ。とうに忘れていたはずの感情なのだから。
ああ、この目は嫌いだなと思う。空条さんが時々僕にむけてくる視線だ。タチが悪いのは、空条さんはなんとか誤魔化そうとして誤魔化しきれず、ジョセフさんは隠す気が微塵もないところだ。
ひとりのときに部屋を貫くように差し込んでくる太陽のような、無遠慮さがある。ひとりのぼくに、どうあがいてもぼくはひとりだと思わせる。窓から外を見たりなんかすると、アスファルトでさえ宝石でも紛れ込ませているかのようにきらきらしているように見える。太陽は、ひとりの自分を嫌いになるようにしむけてくる。
「君は静と自分を重ねとるんじゃな、だからそんなに真剣になれるし優しくなれる。静を救うことが自分の救済になる。そう考えている。違うかの?」
だから勘のいい人は嫌いなんだ。
「僕自身よくわかってないんです、ジョースターさん。ゴールド・エクスペリエンスによればどうもそうらしいけれど」
静の母親を殺した犯人に繋がる手がかりを入手するたびに、ゴールド・エクスペリエンスは喜ぶ。今まで必要以上に出てくるやつじゃなかったのに、なにかしらのアクションを起こす。それほどまでにすさまじい勢いで成長を遂げている。
「もう暴走は治ったかの?」
「一応はなりを潜めました。でも気を抜いたらすぐ鳩になって飛んでいってしまう」
「気持ちが急いているんじゃのう」
「そうなんでしょうか」
「なんとかしたい、という強い感情を抱くのは初めてなように見受けられるからな」
「......」
僕は静かに目を伏せた。
いつか静が物心ついたとき。家族という確かにあったものが年月の中で朧気なものすら減っていく現実に直面する時がくる。自分がひとりここにいるのだと、ふと思い出すと目の前にあるものがすべてうそに見えてくる時がくる。そんな時に影を落とすものは少ない方がいいと今の僕は考えている。
「それが自覚できるんじゃ、やはり君は強いのう」
ジョセフさんはしみじみと呟く。
当然だろう。僕は荒波に翻弄される流れ木ではない。その流れ木よりも僕は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より僕は寂しい。満たされたことは無いし、今のところ満たされる気は無い。心は吹きこむ風の寒さと共に冷えていって、そのままだ。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされている。僕が意味をあたえてやらなくちゃいけない。静・ジョースターはその1歩なのだ。
「ジョルノ、君は......弟に会いたいかのう?」
「......はやいですね。もうわかったんですか」
「ううん、それは違うのう。逆じゃよ、逆。見つからなかったのが君なだけで、他の兄弟達は見つかっていたんじゃよ、実は」
「見つけていた、だけなんですね」
「そうじゃな、その通り。君から承太郎に告げられた忠告どおり、改めて兄弟達を調べ直したんじゃがのう......今なお生き残っておるのは3人だけじゃった」
「3人」
「そう、たった3人じゃ」
「彼らは、大丈夫なんですか」
「それはどういう意味かの?」
「DIOの信奉者に唆されていたり、囲いこまれたりしているかという意味で」
「それなら、さいわいまだじゃった、と言えるのう。間に合ったともいうべきか。今となってはこの世界におけるDIOの影響力を過小評価していたと言わざるをえんが......。君のようにスタンドに中途半端に目覚めた子供は1人しかおらんかった。だからその子供を重点的に、他の2人はスタンドの発現の形跡はないから軽めの監視に留めておった」
「ことごとく過去形ですね」
「過去形にもなるわい。君の懸念どおり、生き残っている子供たちは共通して、DIOによからぬ子守唄を聞かされておったようでのう......。生き残ったから聞かされたのか、聞かされたから生き残れたのか、真相は闇の中じゃが......。いずれDIOの信奉者が君を始めとしたDIOの息子たちに接触を図るのは目に見えておる。今、不穏な動きが世界のあちこちで見えている以上、監視だけではなく直接庇護下にいれることになったんじゃ」
「庇護下」
うむ、とジョセフさんはうなずいた。
具体的にDIOの息子にして、僕の弟(ジョセフさんがいいきるということは僕が1番年上らしい)の詳細や居場所、名前については教えてもらえなかった。スピードワゴン財団の監視におかれることを了承していないからだと言外に言われているような気分になる。
「承太郎は頑として聞かせてくれんのじゃが......そんなにやばいものだったんじゃなあ......」
「そうなんですか」
「うむ」
そんなものを子守唄にするとは、という憤りすら透けて見えるようで僕は思考を巡らせる。
DIOが『天国』へ行くための生贄として用意するはずだった子ども。あるいは気まぐれになんらかの実験をするために産ませた子供。ジョナサン・ジョースターで首をすげかえれば体を乗っ取ることが出来ることは証明されているのだ。スペアの意味もあったのかもしれない。生き残ったのが僕を含めて4人しかいないというのだから、DIOにとってはなにか意味があったはずなのだ。そうでなければ生かすわけがない。
「あの、母親は?」
僕の問いかけにジョセフさんは静かに首を振った。
「お前さんの母親のように体を肉の芽に食い潰されるか、子供を産んだ直後に食料にされるか。いずれも母親はもうこの世にはおらん」
「天涯孤独ってわけですね、なるほど。たしかに庇護下にいれないと悪い大人に騙されてしまう。その庇護が真っ当かはまた別の話ですが」
「手痛いのう」
ジョセフさんは笑った。
「......待ってください、僕は空条さんからDNA鑑定の報告を受けました。肉の芽による被害は僕の母だけだったのでは?」
「ああ......その点についてはこちらのミスじゃ。訂正させておくれ。もう一人おったんじゃ。肉の芽による妊娠、出産、そしてその後生かされたまま帰国し、死亡した母親がおるんじゃが......。その子供は1986年生まれ。たった1年の違いじゃが......つまりジョナサン・ジョースターの体がDIOに馴染み切ってから生まれた子供ということになるのう。DNA的にはその母親とDIOの子供でジョナサンの血はそこには入っておらん。どうやらDIOはお前さんと同じ条件で子供を作ったらどうなるか、実験したかったようじゃのう」
僕は思わず閉口した。ジョセフさんは胸糞悪い話をしてしまって申し訳ないという顔をする。
「どこまでもえげつないことをしでかしておるのう、DIOという男は」
「1986年か......。なら、その肉の芽の犠牲者の子供がスタンド使いですね」
「............そうじゃのう、隠しても意味が無さそうじゃからいってしまうが」
「なら、ついでに教えてくださいよ、ジョースターさん。僕はゴールド・エクスペリエンスのおかげで肉の芽の支配からは免れましたが他の子供たちはそうじゃあなかったはずだ。空条さんが億泰先輩の父親を知らなかったんだ、宮殿に肉の芽の暴走の犠牲者はいなかったはずですよね。誰が肉の芽から彼等を解放したんです?」
「......まるで見てきたように聞くんじゃのう。おどろいた。......承太郎じゃよ。宮殿内に侵入したとき、承太郎がDIOの子供達や女性たちの額の肉の芽から解放したんじゃ」
「額だけ」
「そう、額だけ」
「なるほど......。ジョセフさん、あなたは娘さんと同じ症状に苦しんでいたであろうその赤子を初めから庇護下に置くという選択肢はなかったんですか?」
「今考えればそうすべきじゃったが、当時はそうではなかったのう。DIOが死んだことで死の運命は避けられた。母親となる女性はいずれも失踪届けがだされておった。陰惨な事件の被害者の忘れ形見を遺族に届けるべきじゃとわしらは判断したんじゃ。さいわい、みな、人間じゃったからのう」
「だから監視にとどめた」
「そうじゃ」
「慈善団体ではありませんもんね」
「......ここだけの話、君たちの境遇を見ておると、判断を間違えたのかもしれんと承太郎はこぼしておったのう。あの子も今は一児の父親なんでな」
僕は言及を避けた。
「つまり、スピードワゴン財団としては、僕も庇護下に入ってほしいわけですね」
「そうじゃな......本音としては」
「まあ、当然ですよね。ボランティアじゃあないんだから」
「君のように自分も含めて目的のためなら駒にできる思考は重宝しそうなんじゃがなあ......その興味深いスタンド能力もあわせて」
僕は肩を竦めた。
ロバート・E・O・スピードワゴンが創設者したスピードワゴン財団は、アメリカにて油田を見つけ、世界有数の大金持ちとなった彼がその金を全額つぎ込んでできた財団である。
医学、薬学、考古学までをも専門として人々の生活と福利厚生の為に動く財団である。
このことは当然ながら嘘偽りのない真実なのだが、スピードワゴンがこの財団を設立した本当の目的は遺言に基づいてジョースター家の闘いを陰から支えるためだと僕はわかっているのだ。
数々の専門知識と技術は健在で、ヘリや船などの移動手段の管理・運転技術や、人間の目の損傷や犬の足の治療に至るまでの幅広い医療技術、果ては伝書バトの管理まで、あらゆる技術と物資、人脈をとおして、ジョースター家ならびに「黄金の精神」を持つ者たちの闘いを支え、見守っている。
そう、ジョセフさんはいった。
「もし、考えてくれるなら、わしらは君のためにあらゆる助力を惜しまんつもりじゃよ。頭の片隅にでもおいといてはくれんかね?」