屋敷の中はどこまでもしんとしていた。耳を澄ませると、その静寂にはいくつかの意味あいが含まれているように感じられる。ただ物音ひとつしないというだけではない。沈黙自体が自らについて何かを語っているようだった。
一種不可解な沈黙に覆われている。広さに比べてそこに含まれる人間の数が少なすぎることから生ずる沈黙だ。しかしこの部屋を支配している沈黙の質はそれともまた違っていた。いやに重く、どことなく押しつけがましかった。僕は昔どこかで経験した覚えがあった。避けがたい死の予感をはらんだ沈黙だ。空気がどことなくほこりっぽく、意味ありげだった。
康一先輩たちを追いかけて螺旋階段を登り、開こうとした真正面の扉がビクともしない。どうやら立ち話をしている間に僕達は二手に分断されてしまったようだ。閉じ込めた衝撃や音すら吸収してしまうようで、扉に耳を押し当ててもなんの音や振動を拾うこともできない。
小さく首を振った僕に空条さんはやれやれだぜと呟いた。情報共有が滞ってしまったのはお互い様でとやかくいうことが出来なくなってしまったと軽口すらこぼれおちる。
どうやら1階と2階に綺麗に僕達は分断されてしまったようだ。
「ハウス・オブ・ホーリー......それがスタンドの名前ですか」
「ああ、建物を支配し、あやつるスタンドだ。支配した建物に入ったものが一時間経過しても内部にとどまっていた場合、この世から消滅させることができる」
「消滅......穏やかじゃないですね」
「ああ、億泰のザ・バンドほど殺傷能力はねえが、嵌めたら強いタイプのスタンドだ。建物自体は実体として存在し、スタンド使いでなくても見ることができるが、壁、窓、床などへの物理攻撃は一切効果がない」
「詳しいですね」
「10年経つが案外覚えてるもんだぜ。ディジャ・メイカーはホテルマンに化けて俺たちを待ち受けていた。今はもう34歳か。一見、物腰柔らかで丁寧だが内面は陰険で狡猾。しかも手を汚さずに人を殺せる自分のスタンド能力に誇りを持っているたちの悪さは俺たちにボコボコにされても治らなかったらしいな。しかも完璧主義なところが悪化したらしい。俺たちの前に姿を表さねえとはな」
「つまり、僕達は1時間以内にそいつを倒さないと全滅するってわけですね」
「そういうことだ」
僕達は直ちに螺旋階段を降り、居間から台所に行き、納戸と浴室と洗面所と地下室を調べ、部屋のドアを開けてみた。誰もいなかった。沈黙だけが油のように部屋の隅々にしみこんでいた。部屋の広さによって沈黙の響きかたが少しずつ違っているだけだった。
「そのメモリー・オブ・ジェットってのは、人間を対象とするスタンドなんだな?」
「困ったことにこちらも遠隔操作型です。本体が望む人間に、誰一人近づけさせなくする能力を持つスタンド。この能力が発動すれば、標的はどれほど会いたい人がいたとしても、誰とも接触を図ることができなくなってしまう。もしかしたら人間だけでなく物体に対しても適応させ、発動範囲が飛躍的に向上しているのかもしれない」
「わからねえのは、吉良吉廣の家に辿り着かなかったのがメモリー・オブ・ジェットの仕業だとしてだ。俺たちが仗助たちと会えないのがおかしいってことだ。同時に複数の対象を選ぶことが可能なのか?」
「わかりません。わかりませんが、このスタンドは遭遇する度により複雑により強力なスタンドに成長しつつある。なにも不思議なことではありません」
「隠したいっつー誰にでもある極めてシンプルなスタンド故だな。シンプルな能力ほど強力なのは世の常だ。どうやら余程切羽詰まっているらしい。追い詰められるほどスタンド使いは成長するからな」
「...... 今この瞬間まで僕はディジャ・メイカーがハウス・オブ・ホリーを発動した状態で、自分を対象にメモリー・オブ・ジェットを発動させていると思っていました。でも迷い込んだ人間を対象に選択した方がどう見ても効率的ですね。どちらも遠隔操作型であり、その場にいる必要はなく、しかもメモリー・オブ・ジェットは対象が死んでも効果は継続しますから」
「どうやらその予想は当たっているらしい。俺たちのスタンド能力を完全に把握した上で一網打尽にしようとしていやがる」
僕はため息をついた。
「どうした?」
おもむろにカバンから筆記用具を取り出し、ツバメに変えた僕に空条さんが聞いてくる。
「保険を掛けておきましょう。僕達でどうにもならなかったらの時のために」
やはりただの生き物は能力の対象外のようだ。窓を開けて飛び去っていったツバメ。僕達が手をかけても窓はビクともしない。
「このまま1時間経過するまで監視するつもりでしょうか?」
「さあ、な。ディジャ・メイカーは謎ときを挑んできたがどこにもいやがらねえとなると、組んだやつの方が立場が上らしい」
「......吉良吉廣なら......」
「より確実な方法をとるに違いねえな。俺たちの先読みに先読みを重ねてやがる。確実に息の根を止めねえとお前や仗助により回復されることがわかりきってるからな。肉の芽を植え付けられなかったのは、それなりの理由があるんだいつだって、な」
僕は息を飲み、あたりを見渡す。静寂がただ1階を包んでいた。
それは唐突に僕らに襲いかかってきた。立ちくらみのような、めまいのような、脈絡もない突然の爆発。熱気でカーペットが床ごと焦げる。黒煙の柱が立ちのぼった。
僕は息を飲んだ。
重々しい響きが反響し、一すじ薄くなびいていく。
一瞬何が起こったのかわからなかった。 雷のように、光と音がほんの少し違和感をなしてずれたような感じだった。向こうの角に見える廊下の上が明るくなり、急に火が出て、鈍い音と共にガラスの破片がスローモーションで闇に降りそそいだのだ。床や壁は無事だというのに、内装は粉微塵である。
鉄が錆びた様なこもった臭い。重苦しく淀んだ空気。地面に散らかる赤の斑点。断片のようないくつもの記憶が思い浮ぶ。細部まで見たわけでもないし、急いで目を逸らしたから、全部がどうだとわかっているはずもない。 その光景は嫌に鮮明で、生臭い。
「大丈夫ですか、空条さん」
「動くなッ!」
「!!」
僕はごくりと唾を飲み込む。
「空条さん!」
「動くんじゃあねえぜ、ジョルノ」
誰もいなかった。この空間には空条さんと僕以外に人一人見つけることができなかった。
突如脇腹に鈍い痛みが走り、呻き声を漏らしかける。 慌てて口を覆い、喉奥で痛みの叫びを噛み砕く。どうやら爆発に僕達は多少のダメージを受けてしまったらしい。
空条さんは辺りをゆっくり見渡し、鋭い視線で何一つ見逃すまいと神経を張り巡らしている。しばらく観察を続けている。僕も気合を入れ直し、再び集中する。
「───────…………」
空条さんは息を吐く。深く、長い呼吸音がする。ただ機能的な音が聞こえた。
そして唐突に空条さんはまっすぐに見据え、呟くようにこう言った。
「どうやら爆発させるわけじゃあなく、爆発物に変えられるらしいな」
刹那、ぞわり と、背中が震える。空条さんの目を見た僕は見てしまったのだ。そこに込められたのは殺意。どこまで続くかもわからないほどの、漆黒の殺意だ。命のやり取りをした者だけが許される異常な環境における正気、そのものだった。
「スタープラチナ」
空条さんの体から大男の影が現れ、スター・プラチナが構えを取る。 すさまじい速さでなにかを破壊していくのがわかる。本能的な恐怖よりも僕は理性が上回った。
「ゴールドエクスペリエンスッ!」
僕はあたりの瓦礫を手当たり次第に樹木に変えた。通常の成長速度を度外視して巨木に成長していったそれは、廊下にころがるあらゆる調度品を飲み込み、一体化していく。そして廊下の突き当たりに全てが叩きつけられてしまった。
どおん、どおん、と突き当たりの壁のあたりで樹木の内側が破裂したが、だいぶん距離がある。緩和していた衝撃は僕たちのところには届かない。ぱらぱらと飛んできた破片は振り払うことが可能なほど小さなものだった。
「爆弾そのものは植物に変えられないのか?」
「場所が特定できませんでした」
「そうか、お前には見えないんだな」
「そうですね、アンタのスタンドに比べたら致命的に経験値が足りない」
軽く笑おうとした僕に空条さんはニヤリと笑った。
「スター・プラチナ・ザ・ワールド」
「え」
時が静止した世界は知覚すら不可能だ。気づけば螺旋階段の頂上付近で盛大な爆発音がする。
「爆弾とスタンド能力を織り交ぜるとは考えてやがるぜ」
一瞬で、螺旋階段は崩落する。一閃、目で追えぬほどの速さで振るわれ指先が、それほどの威力がある爆弾をはるか上空に投げたのだ。
「ありがとうございます」
「さあ、いくぞジョルノ。どこかで爆弾魔が見ている可能性が出てきたからな」
屋敷に似つかわしくない、ギュルギュルギュルという自転車のタイヤがカーペットの上で鼠の鳴くようにきしむ音がする。
車輪のスポークは異様に進化した獣の歯のように、闇の中に不吉な光を放っていた。車重を支えたタイヤがカーペットを踏みながら進み、押しつぶされた布地が擦れあい鈍い音が鳴る。
新手だろうか、と僕達がスタンドを発動させたのはほぼ同時だった。
禍々しい髑髏の顔とキャタピラのみの小さな車体は異音を響かせながらやってきた。僕達は即座に距離をとるが真っ直ぐに向かってくる。隠れたり姿を見えなくさせたりしてみたが、迷うことなくやってくるではないか。驚きと共に走りながら僕達は後方を気にする。
「こいつ、こちらが見えているのか?」
「遠隔操作型......?いや、玩具を爆弾に?」
「ずいぶんと趣味が悪い玩具だな......だが、それはなさそうだぜ、ジョルノ。明らかに意思を持っていやがる。どうやら何らかの方法で俺たちを追跡する気らしいな」
「コッチヲ見ロォォ───────ッ!」
ギュルギュルと音を立てながら戦車が屋敷内を駆け巡る。長椅子やテーブルの間を縫うように走り回り、自動で探索する。しばらくこの戦車と追いかけっこをしてみたのだが、この能力の前では隠れる場所も逃げる場所もない。 なにかに反応し走り出す。こちらを捕捉されている以上延々と追い回されるらしい。
「やるか?」
「待ってください、まずは確かめなくては。ゴールド・エクスペリエンス!」
僕は拾った瓦礫をツバメにかえ、あの不気味な戦車に突撃させた。
案の定、どおん、という轟音が響き渡る。瓦礫が粉微塵にふきとんでしまったが、その程度の足場の悪さなどものともしない。どうやら触れると爆発するタイプの爆弾のようだ。カウンター能力を付与したからこれで強度がわかるはずだが......。
「ビクともしていないな」
「自分にフィードバックしないのか、それだけ頑丈なのか......」
「調べてみるか」
「手伝いますよ、空条さん」
僕はカーペットを植物に変えて自分たちの足場をつくり、爆弾戦車を空中につりあげた。ギュルルルルと車輪が空回りしている。空条さんのスタープラチナが破壊しにかかる。あいかわらず僕の目視ではスタープラチナのラッシュを捉えることは出来ない。だから僕は爆弾戦車の方を注視していた。めきょっとフレームが歪むのがみえたのだ。爆発すると判断したその瞬間に、僕は爆弾戦車の足場の樹木だけを枯らせた。重力に逆らえず爆弾戦車は落下していく。なかなかの高所からの攻撃とスタープラチナのラッシュ。床に叩きつけられたことで鈍い音がした。
「......なんて硬さだ。こんなに硬いスタンドは久しぶりにみたぜ」
「スタープラチナのラッシュに耐えるのか!?」
思わず声が出てしまった。ギュルギュル車輪を回しながら、爆弾戦車は僕らの足場を攻撃し始める。さすがに木は爆発には耐えられない。ただちに移動しなければ。
しかしなんてことだ。スタープラチナですら破壊が不可能なほどの異常なまでの強靭さとなると、物理的な破壊をすることもほとんど不可能と言える。もちろん僕のゴールド・エクスペリエンスのラッシュは無理だ。媒介としている物体があれば僕の勝ちだが、あるわけじゃあなさそうだ。
床に降りようとした僕らは、爆弾戦車が加速するロケット噴射のように飛び上がり、僕達目掛けて飛翔するのをみた。
「ジョルノ、飛べ!」
「ゴールド・エクスペリエンスッ!」
即座に僕は崩壊している螺旋階段の支柱に跳躍し、樹木をはやす。足場を作りながら移動していき、なんとか回避して2階の踊り場に着地することに成功する。単調な動きしかできないことが幸いして、入口扉から数メートル上方の壁に衝突し、大爆発を起こした。
「今ノ爆発ハ人間ジャネェ!」
明後日の方向から聞こえる機械的な声に注意が逸れる。 活動を再開した爆弾戦車が突撃してきたのだ。
「めり込めばいいものを!」
「建物自体はスタンドの影響受けてやがるからな......物理攻撃は無効だ」
スタープラチナの再三の攻撃にもかかわらず、せいぜい装飾が禿げたくらいである。空条さんは僕が張り巡らせた樹木を飛び移りながら舌打ちした。
どうやらスタンド能力を解除しない限り、いつまでも標的を狙い続ける自動追尾型のスタンドのようだ。攻撃はまだ終わってはいない。
「コッチヲ見ロォォ!!」
「見ろと言われて正直に見る人はいませんよ」
僕は枝を折って生命を生み出し、突撃させる。視界不良の攻撃のはずだがかならず察知して爆発しているあたり、目ではないなにかで僕達を追撃しているようだ。音にしては反応が早い。
ずっと見ているようだから障害物があっても問題ないものなのだろう。なんだ?なにで僕らを追尾している?それさえ分かれば楽なんだが。そんなことを思いながら、また足場を作り、移動する。空中の爆風により軌道がそれた爆弾戦車は壁に激突して大爆発を起こしていた。
「おい、ジョルノ」
「なんです?」
「今から蛇とツバメを同時に突撃させてみろ」
「蛇とツバメ?ああ、なるほど。わかりました」
僕は足元の葉っぱを2枚ちぎるとゴールド・エクスペリエンスを発動させた。爆弾戦車目掛けてツバメと蛇が飛んでいく。爆弾戦車の軌道は僅かにそれ、先に向かってきた蛇ではなくツバメ目掛けて突っ込んだ。
「今だ」
そして、接触する寸前にただの葉っぱに戻ってしまう。
「アレッ!?アレアレッ!?!」
標的を見失い、爆弾戦車がウロウロと辺りを彷徨っているうちに木にひっかかり、車輪がギュルギュル空回りする。
「なるほど、そういうことか」
「サーモグラフィーってやつですね」
ようやく僕らは理解した。爆弾戦車の追尾機能の正体は温度だ。そして人間の体温程度の温度に達しなければ、爆発は起きない。そして体温が高いものと低いものがあれば、高いものに攻撃してくる。
「ならば、話は早いですね。デコイを用意するだけだ。鳥類は基本人間より体温が高いですからね」
無作為に生成したツバメたちの撹乱により、爆弾戦車は見当違いの方向に移動し始めた。木の枝に捕まりながら僕達は下を見つめる。
「遠隔操作型かと思ったが、こいつは明らかに違う......自動操縦に近いのか?」
初めて見たスタンドのタイプだと空条さんはいう。遠隔操作型とは違って、本体との距離とは関係なく強い力を発揮できる、ほぼ無限と言える射程距離をもつ。スタンド自体の耐久力や再生力が高い。倒されても再発動可能。遠距離から一方的且つパワフルに攻撃できる。
「なるほど、使い手が遠距離にいて、姿などが知られていない条件下ではほぼ無敵だな」
「厄介ですね」
「だが弱点がないわけじゃない......。サーモグラフィーが搭載されているということは、視界を共有していないということだ。スタンド周囲の状況が全くわからない、または正確な情報が得られない可能性が高い。行動に融通が利かず、ある一定のルールに則った攻撃や、大雑把な攻撃しかできないようだからな」
「感覚共有はしていないんでしょうか?」
「さあな......今んとここの辺りに爆弾魔はいねえようだから確かめようがない」
「フィードバックがあるなら毒性の強い植物を投げつけて液体まみれにすることも考えたんですが」
「スタンドのセオリーを考えるなら毒性は通るはずだがやってみるか?」
「植物に対して爆発しないなら拘束も可能ですからね、やってみましょう」
「さて、爆弾魔を探しに行くとするか」
「父さんが爆発事故に巻き込まれて入院したの」
しばらく泊まりたいと千帆に言われた琢馬は、即座に双葉輝彦が置かれている状況を察知した。
「一人でいるのは危ないから母さんのところにいくか、友達の家にいくように言われたの。母さんの家は社王町から離れたところにあって、ぶどうヶ丘高校には通えそうにないから......」
ちゃんとした正当性な理由があるのだと主張する千帆に、そうか、とだけ返した琢馬はどんな事故だと聞いた。連泊させてもらえる仲になったと素直に受け止めた千帆は琢馬が父親を心配していると早合点して詳細に話し始める。
ジョルノにこの町に潜む爆弾魔について詳細は聞いていたが驚くほどに符合する点が多い。
爆弾魔に腕を爆破されて一人娘を人質にとられたために協力させられている。入院しているために屋敷に一人でいる娘に対する発言としては過保護がすぎるが無理もないだろう。
「一度お見舞いに行った方がいいか?」
すでに琢馬は千帆が愛人に誘拐されたとき、あるいは不審者に生き埋めにされそうになったとき、助けてくれたことがきっかけで仲良くなった先輩だと話したと聞いている。
千帆は顔を輝かせた。両親のことを心配してくれて、挨拶をしたいという意思表示をしてくれる人だと思ったようだ。
「あ......でも......」
「どうした?」
「琢馬先輩のこと、まだ男の人だっていってないです......どうしよう」
「いってなかったのか」
「いってなかったんです......じゃないと、泊まるの許してくれそうにないと思って......」
通りで過保護な父親があっさり彼氏のところに宿泊を許したわけだ。琢馬の家はあたりまえだが両親はいない一人暮らしである。そこに娘が一人で泊まりに行くなど許すわけがない。縮こまってしまった千帆は申し訳なさそうに琢馬の様子をうかがっている。
「千帆のペースに任せる」
よかった、という安堵の笑みが浮かんだ。
「どれくらいだ?」
「全治1ヶ月らしいから......」
「そうか」
「大荷物になりますし......父さんのお見舞いもあるから......その......お邪魔するの......夜になるかなって」
「わかった。出る前に連絡しろよ」
「はい」
すでに互いの自宅や携帯電話の番号は知っている仲なのだ。携帯電話の充電にさえ気をつければ時間は十分にあるだろう。そして一度別れた琢馬はそのまま帰宅した。
「ずっとついてきているな、お前」
ツバメが気高くのびやかに皐月の風に乗って舞い飛び、ぱちっ、ぱちっと空中で弾ける音は高らかに愉しげに、命をたたえるように力強く響く。それがずっと聞こえていたので気になっていたのだ。
こつこつと窓を叩くツバメを琢馬は注意深く観察する。そのツバメがこの辺りに生息しないはずの種類であり、足になにかが括りつけてあることに気がついた。
窓を開けてやるとツバメは琢馬のすぐ近くに止まる。おそらく久しぶりに帰ってきたボールペンなのだろうが、ジョルノが指示をしているのか姿を変えることはない。クシャクシャになった紙を広げた琢馬は目を見開いた。
住所と注意喚起。ジョルノらしくない雑でギリギリ解読できるレベルの走り書きなのはずいぶんと急いでいるからだろう。時計に目を走らせた琢馬は机の引き出しの奥底に隠されていたものを取り出す。そして、ネックレスのチェーンを分解して装飾のひとつをティッシュでくるんでチラシをやぶき、ツバメに結んでやった。
「ちゃんと返せよ、ジョルノ。これがないと千帆に渡せないのだから」
黒雲のようにツバメが舞い上がる。あっというまに見えなくなってしまった。
琢馬の手元には分解されたネックレスだけが残されている。
それはジェットとよばれる黒い宝石だ。20世紀初頭、顕微鏡によって、年輪が確認されるまで、琥珀のように樹脂の固まったものと考えられていた。大変軽く、木や絹の上でこすると静電気を帯びるという性質も同じことから、古代ローマ人は、ジェットを「黒い琥珀」と呼んでいたという。
どちらも人工的に採掘できるようになるまで、主に海辺に打ち上げられたものを拾うといった方法で採取されていたのも、同一視された要因だ。
ジェットの硬度は琥珀や真珠とほぼ同等。重さは、オニキスの半分以下でいちばん軽い宝石である琥珀に次ぐくらいとても軽い。化学的分析によれば、ジェットは「瀝青炭(れきせいたん)」という炭素物質に分類され、燃やすと石炭特有の匂いを発する。
ジェットは真珠と同じく、人類が発見した最古の宝石のひとつだ。紀元前1万年の石器時代から装飾品として加工され、南ドイツやスイスの遺跡から、「魔除け」として使われたジェットが発見されている。古代の人々にとって、摩擦すると帯電するジェットの性質は神秘的で魔力を秘めたものだったのだ。
古代ローマ人がイギリスを占領していた時代、ジェットは先住民族であるケルト人からローマ人へと伝えられ、「黒い琥珀」と呼ばれて珍重された。
リング・ブレスレット・ネックレス・ペンダントなどの装身具をはじめ、髪留めや短剣の柄、サイコロなどが、イギリス国内の古代ローマ遺跡から発見されている。その後、古代ローマ帝国が衰退し、4世紀にローマ人がイギリスから去ると、ローマ人に愛されたジェットは次第に姿を消していった。
7世紀にキリスト教がイギリスに伝来して以来10世紀にわたり、ジェットは主に教会に関連した装身具として、ロザリオ・クロス・リングなどに加工されていた。また、中世においてもジェットの超自然的な力が人々を惹きつけ、魔除けや護符として身につけられていた。
ヴィクトリア女王の夫君アルバート公の死によって、モーニングジュエリー、喪に服する期間に身につけられる装身具、と定められたジェットは、イギリスを中心にヨーロッパで大流行し、最盛期には街のすべてのショーウィンドーがジェットで黒一色に埋め尽くされるほどだった。
今でも喪服の装飾として人気があるジェットを千帆への初めてのプレゼントとするのはあまりにも不自然だったが、琢馬は千帆と出会ってからずっと決めていたのだ。
この黒い琥珀はかつて双葉照彦が大神だった時代に飛来明里、琢馬の母親に渡したものだからだ。なお琢馬はこのペンダントが双葉照彦のスタンドの名前の由来であることをまだ知らない。