リキエルは生まれてからずっと奇妙な飛蚊症に悩まされていた。視界をちらつく細長い棒状の体をもち、高速で空中を移動する生物たち。サシガメのような吻と眉間に顔みたいなのの生えた足の長いトカゲかサンショウウオのような見た目の生き物。誰も目視できないと知ってから、ずっとリキエルはこの正体不明の生物に振り回されてきた。
高速で動き回っており肉眼で捉えるのが難しいそいつらは、一般的な飛蚊症でみえるものとは違うらしい。眼科で異常なしと出てからリキエルの地獄は始まった。
こいつはいつも人間のまわりを飛び回っている。温血動物の体温を奪い生体エネルギーとして活動する。奪う際は体に触れないので、体温を奪われた動物はその自覚はない。リキエルがそいつらの存在に気づいていると認識されてしまったようで、纏わりついてくるようになってしまったのだ。
人間、著しく体温が低下すると身体に支障をきたす。特定の部位の熱を集中的に奪わせる事で筋肉を操ったり、病気を引き起こす事が出来るようで、リキエルはその被害を被ってきた。
やつらからすれば、固まってしまうリキエルは格好の獲物だった。目元の筋肉をやられるとまぶたが上がらない。体が震える。なんてことはよくあった。悲惨なときはうっかり口にいれるやつを見た事があった。腎臓や肺、甲状腺を食い荒らしたあげく脳幹をやられて即死もあったのだ。
それがスカイフィッシュ、通称「ロッズ」としったのはテレビからだ。
ロッズは未確認生物でありスタンドでは無い為普通に各地を飛び回っている。不幸にもロッズはリキエルの住んでいるところが分布域だった。
それは1995年、ビデオ編集者のホセ・エスカミーラ が、仕事中にビデオ映像をコマ送りすることによって発見した。ビデオカメラや写真には写るが、実際に捕獲された報告が無いことから話題となった。すでにリキエルは7歳になっていた。
ロッズの長さは数cmから2m。たまに全長約30mのやつを見た事もあった。
リキエルはロッズの生息域から逃れるため隣の州にうつるようになり、夜遅くまで帰らない日もでてきた。次第に素行が悪くなり、不良仲間ができ始めた。
学校にもいってはいたが、日によっては大群が押し寄せてくることもあり、生徒たちが平気な顔をして笑うのを信じられない顔をして見ていなくてはならなかった。集中力なんてあってないようなものだった。
体に侵入されないよう気を張っていなければならないテストの日なんか最悪だった。笑いもしない、緊張してばかりの生活はやがて学校、私生活にも及び、ろくに睡眠がとれなくなっていく。ますます周りはリキエルを遠ざけた。11歳だというのにリキエルは学校に行きたくなくなっていた。
ある日、不良仲間とバイクに乗っていたとき、ロッズが仲間の口に飛び込んで脳天を貫通する瞬間を見てしまったリキエルはとうとう気絶した。
パニック障害を発症した瞬間だった。人生に絶望しており、ネガティブな思考に支配されていた。
「なるほど、それが君のいうパニック障害のきっかけであり、原因だと」
ニルス・クローグ医師は聞いた。
「......はい」
なんの意味があってカルテにある症状を復唱させるのかリキエルにはわからなかった。
この男はデンマーク出身の医者で精神科医。パニック障害について心因性という常識に脳の機能障害という説をぶちあげて薬物治療と心理教育を伴う療法で成果をあげてきた。スタンド開花にともなう精神疾患に対する経験がある。論文発表に熱心でよく自宅に引きこもる欠点があるらしい。ちなみにこれは待ち時間中に看護師から聞いたことである。
「パニック障害......」
「そう、パニック障害」
「オレの心が弱いから......みんなそういって薬をくれたんだ......よくならないからオレはダメなやつだとばかり」
クローグ医師は首を振った。
パニック障害の最初の症状は、突然の動悸や呼吸困難、発汗、めまいなどの身体症状とともに強い不安や恐怖感を伴うパニック発作。
パニック発作自体は、多くの場合20~30分くらいでおさまるが、何回か繰り返すうちに、また発作を起こしたらどうしようという、パニック発作に対する強い恐怖感や不安感が生まれるようになる。
逃げ場のないような場所でのパニック発作や、発作を他人や大勢の人に見られることの恥ずかしさといった不安や恐怖を生み、大勢の人が集まる場所や、過去に発作を起こした場所を避ける行動をとるようになる。
「リキエル君はパニック発作と予期不安、広場恐怖という特徴的な症状がある。この3つの症状は、悪循環となってパニック障害をさらに悪化させる。そのさなかにあるんだ、君は」
このパニック発作は、死んでしまうのではないかと思うほど強くて、自分ではコントロールできないと感じ、また発作が起きたらどうしようかと不安になり、発作が起きやすい場所や状況を避けるようになる。
とくに、電車やエレベーターの中など閉じられた空間では逃げられないと感じて、外出ができなくなってしまう。突然胸が苦しくなり、鼓動はまさに「早鐘を打つ」状態。冷や汗で背中はぐっしょりする。
死んでしまうかも。そんな不安に襲われながら救急車で病院に運び込まれるけれども、どこを調べても体には異常はなく、そのうちに、あれほど苦しかった症状が溶けるように消えている。そんな発作を何度も繰り返し不安はつのるばかりなのに、誰もわかってくれない。
「パニックは死の危険から生き延びるために準備されている反応だ。火事や地震など、突発的な生命の危機に直面した時、多くの人はパニック状態に陥る。鼓動が早くなり、血の気がひいて冷静に物事が考えられなくなって、大声で叫びだしたいような気分に襲われる。胃の中のものを吐いてしまうこともある。じっとしていられなくなり、やみくもに走りだすこともある。こうした反応はいずれも、敵や災害から逃げるために有利なもので、体に備わった生き延びるためのプログラムだ。ところが人によって、なんでもない時にパニック状態のような反応が起きることがある。命の危険がないのに、まるで命が脅かされているような不安や恐怖を感じ、体にもパニック状態でみられるような症状が起きるんだ。誤作動なのだ、脳の」
「脳の誤作動......?」
「脳が誤作動を起こすものだから、何度も繰り返す。はじめは心配していた家族や友人や職場の人たちも、どこにも異常がないとわかるとだんだん「またか」「気のせいなのに大騒ぎをする」といった顔をするようになる。まるで狼少年だ。本当はとても痛くて苦しくて不安なのに、誰からも理解されないことは、つらいことだ。だが、私に言わせれば100人に1人は一生のうちに発症するんだ。君は早かっただけだ」
100人に1人?リキエルは信じられなかった。
「まず、薬物による治療の目的は、パニック発作を起きなくさせることが第一目標で、次いで予期不安や広場恐怖もできるだけ軽減させることだ。完治じゃあない。それだけは頭に入れてくれ。ただ、薬に頼らず気持ちだけで治すというのは得策ではない」
リキエルは薬物治療を始めた。
「薬が効き始めて発作が起こらなくなってきただろう?そろそろ苦手だった外出などに少しずつ挑戦することも治療の一環だ。ただ、無理は禁物だから医師やカウンセラーと相談しながら、一歩一歩ゆっくりと前進していくつもりでとりかかってくれ」
リキエルはにわかには信じがたかった。処方されてきた薬がどんどん減らされ、目的を説明されるだけでなく、今まで以上に会話が多くなったのだ。調子が良くなったのは認めるが、それはロッズがいないからにすぎない。生息域に入れば、またパニック障害は再発するだろうとリキエルは思っていた。
「なにをあたりまえのことを言っとるのだね?わたしはパニック障害は脳の不安機能の障害という立場の人間だ。療法がほかと違ってあたりまえだろう、わたしは心因性だとは微塵も考えてはおらんからな。気に入らないなら変わっても構わんが、せっかくスピードワゴン財団のおかげでタダなんだからやってったらどうだい?」
普通医者は確定口調で話さないものだが、病院勤務ではないからだろうか。クローグ医師はおどろくほど決めてかかっていた。
「ほんとうに......ほんとうに治るんですか......先生」
「そりゃ君の努力次第だがね、できる限りのことはするよ。何度もいうがパニック障害は勘違いと思い込みが悪化させるんだ。この病は君自身の性質からくるものであり、奇妙な訳の分からない事件によるものでは無いのだと認めることから始めなければならない」
「いきなり言われても......信じられない......」
「だから君の努力次第だと言ったんだ。君はまずその未確認生命体が見えるという中途半端に覚醒している能力を自覚しなければならない」
「えっ」
「さあ、ロッズの生息域にいくぞ、リキエル君。とりあえず不安に立ち向かう心理教育が完治の近道だ。だから君はスタンドを使いこなしてスタンドのせいじゃなく自分が原因だと気づいて立ち向かうことが出来れば完治の糸口が掴めるはずなんだ。がんばりたまえよ」
円筒形状の細長い胴体の両側にひらひらとしたヒレ状の器官がついており、高速で空を飛ぶ魚に例えられる未確認生命体、ロッズ、スカイフィッシュ もしくはフライング・ロッズ。
このスカイフィッシュを発見したのは、ビデオエンジニアのホセ・エスカミーラ 氏で、1994年からスカイフィッシュの研究を行っていた。現在でも、スカイフィッシュといえばホセ・エスカミーラ氏で、スカイフィッシュ研究の第一人者だ。
スカイフィッシュのもっとも有名なビデオは、メキシコのサン・ルイス・ポトシ近くの熱帯雨林の中の世界中の冒険家を魅了する世界最大の竪穴にある。
それが「ゴロンドリナス洞窟」。世界中から多くのスカイダイバーが集うメッカにもなっている。別名を「The Cave Swallows」とも呼ばれており、ツバメの地下室と言われる通り、何千羽というツバメが群れを成し、朝には一斉に飛び出ち、夕刻には再び戻ってくる光景が見られる。
アクセスには小さな田舎町アキスモンとなっていて、メキシコの田舎町としても楽しめ、お土産として広場で刺繍を施した民芸品が売られている。洞窟の高さ約370m、直径は55mという東京タワーがすっぽり入る大きさ。ここで撮影されたものだ。
地面にぽっかり口を開けたこのゴロンドリナス洞窟は、深さが370メートルもあり、多くのベースジャンパーが挑戦しており、その模様を多くの映像に残されている。そんなベースジャンプの映像の中にスカイフィッシュが写り込んでいるものがある。ただし、ふつうに再生しても、それはただのベースジャンプの映像にしか見えず、スカイフィッシュを確認するにはスローで再生する必要がある。
スカイフィッシュは肉眼で見る (捕らえる) ことが出来ないといい、それはあまりにスカイフィッシュの動きが速すぎるためだと説明される。ビデオをスロー再生にしないとスカイフィッシュが写り込んでいるかどうかさえ判断できないのはこのため。
スカイフィッシュの大きさは数センチから2メートル、飛行速度を時速300㎞。大きさはともかく、時速300㎞という速度は、恐ろしく速いことは疑いようがない。仮にこの時速300㎞が本当だとしても、肉眼で見えないというのはちょっと解せない説明だ。
また、ビデオを見る限り、ほとんど速度を変えず一定の速度を保っているようでしたので、この洞窟内もUターンするとき以外は時速300㎞を保っていたことになる。
洞窟内の一番広い地点の直径が130メートルとなかなかの広さ。時速300㎞で飛ぶ生物が棲息するには恐ろしく狭い空間だ。というのも、時速300㎞とは1分間に5キロメートル、たったの1秒間でも83メートル進む速さで、つまり、洞窟内の一番広いところでも1.5秒間隔でUターンしまくっているということになる。
スロー再生でもほとんど減速なしにヘアピンカーブを描きながらUターンしている。これは物理的に考えて不可能。だからこその未確認生命体である。
高速移動中の人工構造物への衝突の場合は小鳥程度の大きさであっても非常に衝撃が大きく、大きな事故へと発展する可能性がある。飛行中に衝突することもあり、小型の鳥類であっても高速で飛行する航空機にとって衝突時の衝撃は大きなものとなり、最悪の場合は墜落に至るケースもある。飛行機でこれなのだ、人間だってダメージをうける。
「君はここまで独自にロッズについて調べあげているじゃないか、なぜ恐れる?」
「......知ったら知ったで恐ろしくなった」
「今まで生き延びてきたのに?」
「あんたは見えないからそんなことがいえるんだよ、先生」
リキエルは苛立ちながら言った。
「危ない、伏せろ!言ってる傍から!」
弾丸のような勢いでタックルを仕掛けてきたロッズから身をかわしたリキエルは、ぼうっとしているクローグ医師の白衣を引っ張った。
「心配には及ばん」
「......ロッズが避けた......!?」
なぜかロッズはクローグ医師を避けて通過しようとした。クローグ医師は一瞥するなり、背後からなにかの半透明ななにかが見えた。四肢を黒い拘束具でガチガチに固定された岩のような男だった。そいつはままならない腰を落としてがっちりと受け止める。そのまま豪快な振りぬきでロッズを地面に叩きつける。そこにいるのはバードストライクじみたロッズの遺体だ。
「あんた、一体なにを......というかロッズが見えてるのか」
「いや、見えたのはこれが初めてだ、リキエル君」
「うそだろ、あんな的確に躱すなんて」
「それはたんなる経験だ。あとはロッズに対する君の知識によるところが大きい」
「......つまり、なにがいいたいんだ?」
「これは君のおかげであり、君のせいでもあるということだ。この一面のロッズたちは君が肉眼で見ている範囲でしか視認出来ない。君は他人にもロッズを見せることができるようになっているということだ」
「そんな馬鹿な......」
「簡単なテストをしてみよう。リキエルくん、目を閉じたまえ」
リキエルは言われるがまま目を閉じた。
「目を開けたまえ」
目を開けたリキエルの前には先程撮影したばかりのポラロイドカメラがあった。
「右が閉じた後、左が開けた後だ。ちなみにデジタルカメラの連射を見てみるといい。ロッズはかわらず存在している」
「......本当だ。考えたこともなかった......どうして」
「何度も言うが経験だ。スタンド能力とはいわば超能力だ。君は明らかにロッズと波長があっているのだから、有効活用すべきだ。ちがうかね?」
殴りかからんばかりの勢いで突進してくるロッズたちにわあわあと言いながらリキエルは避けた。暴れ馬の如く突っ込んでくるロッズたちを医師は粉砕する。しかしなお傷を追った猪のように捨て身で突き進む。
「私がなにかいうたびにこれだな......ロッズたちによるいやがらせかな?」
「いや、見えてるとわかったとたんにいつもこうなんです」
「君、無意識のうちに攻撃しろと命令でもしてるんじゃないかね?」
「えっ」
「ものは試しだ。止まれとか落ち着けとか傍に近寄るなとか言ってみたまえ」
「はあ」
リキエルはロッズたちを目視したまま止まれと命令してみた。隕石のような勢いで飛んでいた未確認生物はぴたりと止まった。絶句するリキエルに医師は笑うのだ。この日からリキエルはこの洞窟に何回もいき、ロッズたちに命令できるよう練習するようになり、並行してパニック障害の治療も行うことになったのだった。
ウンガロの周りでは現実と空想の違いが理解できない子供が多かった。たとえばベランダで「僕は鳥ポケモンだ、空も飛べるんだ」と叫んで飛び降り、子供が死んだ。しかも同じ事件が5件も起きた。ベランダは立ち入り禁止になった。いずれも4歳~7歳の子供だった。大怪我したものの、命に別状は無く、助かった子供もいた。
あるいはポケモンごっこと称して子供同士が喧嘩というにはあまりにも野蛮な噛み付く、殴るはなんでもありの乱闘が度々起こるようになった。最終的には子供が子供を無理やりダンボールの中に入れようとしたり、あるいは自分から入ろうとしたりして窒息死したあたりから周りからポケモンというコンテンツ自体が白い目で見られはじめた。
施設ではポケモンに関するあらゆるものが禁止になったが、いつの間にか破棄するまでにグッズが消失していた。職員の誰かがポケモンを敵視して捨てたんだろうということで誰も気にしなかった。
ウンガロが小学校にあがっても同様の事件は連鎖的に続き、配給会社を訴える人間がではじめた。今度はポケモンカードのレアカード(生産数が少なく入手が困難なカード)、あるいはゲームソフトが無くなる事件が頻発した。
奪われたとして、奪われた子供の兄がカードを奪った子供を射殺したのだ。モンスターボールを模ったラバー製の玩具で遊んでいた所、中に入ろうとするあまり誤って飲み込み、喉を詰らせて窒息死したこともあった。
世界各国でのポケモン人気が高まっていた頃の事件だったために注目を集め、ニュースで取り上げられた。ウンガロの町は事件が頻発していたために大騒ぎになったのだった。
1番新しい事件は小学校の同級生が「オレはピカチュウだ。充電しないと電気ショックがうてない」と言って針金をコンセントの穴に入れて気絶したやつだ。命に別状は無かったが、同様の事件の発生を防ぐためアメリカ全土で報道された。
他にも似たような事件はあったのだが、アメリカ全体で見ればせいぜいよくある不運な事故である。それがその州のその町のウンガロの生活圏内に限られて何十倍、何百倍となれば目につくのも当然といえた。
気づいたらポケモンという存在自体がウンガロの周りから失われていた。魔女狩りが始まったのだ。ゲーム脳だとかいう世迷言を本気で信じている人々が必ず例にあげるほどな騒ぎになったものだから、町自体がポケモンというコンテンツから離れるようになってしまったのだ。
そして、ウンガロの周りでアニメやゲーム、漫画が流行る度に現実と妄想の区別がつかない子供、大人が溢れかえった。
その度に町の人々はサブカルチャーを敵視して追い出しにかかった。施設で暮らしているためにそれらが気軽に手に入らないウンガロはその度にざまあみろと思っていたのだった。
誰もが妄想と現実がつかなくなる精神障害になることを恐れて、引っ越したり、サブカルチャーや芸術といった分野を露骨に避けたりするようになった。映画館や本屋、ゲーム屋が潰れた。娯楽がなくなった町は若者が減り、年寄りばかりになり、露骨に過疎が進んだ。ウンガロが小学校高学年に入る頃には、だいぶ周りはイカれた緊迫感があふれる息苦しい街になっていた。
ウンガロは気にしなかった。人々に希望を与える絵画やコミック等のキャラクターを嫌悪していたからだ。もっとも決して保守的な思想ではない。ただただ単純に気に食わなかったからだ。
ウンガロの世界は生まれた時からこんな感じだった。川と小舟にたとえていうならば、川に浮かぶ小舟は、上流から下流へ、やがて海へと流されていく。
それが、生きている時間だ。小舟は事故で難破して、川の淀みに入ってしまった。海へ向かうことも、もちろん川をさかのぼることもできず、浮かぶでも沈むでもなく、ずっと同じ場所にある。そこにあるのは慢性的な絶望だ。
親を知らず、友達を知らず、好意的に見てくれる人間と巡り合わなかったのは不運といえたが、ウンガロはそれに対して世界を憎んで下から引きずり落とすことに注力する性質だった。
ささいなことから頻繁に学校や施設、近所から存在を否定され続けた結果、少年は事実上息を引き取ったのだ。その存在の外様だけはかろうじて維持されたものの、それも半年近くをかけて大きく作り替えられていった。体型も顔つきも一変し、世界を見る目も変わった。
吹く風の感触や、流れる水音や、雲間から差す光の気配や、季節の花の色合いも、以前とは違ったものとして感じられる。あるいはまったく新規にこしらえられたもののように思える。ここにいるのは中身を入れ替えられた、ウンガロと便宜的に呼ばれている容器に過ぎない。
世界中が動きつづけ、この町だけが同じ場所に留まっている。殆んど何の意味もなかった。ぼんやりとして実体のない、生温かいゼリーのような月日だった。何かが変ったとはまるで思えなかったし、実際のところ、何ひとつ変ってはいなかったのだ。
朝七時に起きて朝食を食べてお祈りをして学校に出かけ、帰ってきたら聖書を読んで宿題をして夕飯を食べてシャワーを浴びてねた。
進化論が神の存在を否定しているからという理由で教科書から追放するような宗派がはびこり始めたあたりから、ウンガロはそちらにも敵意を向け始めた。土曜日と日曜日に学校に行く代わりにミサなどを強要する周りに辟易し始めたのだ。
そんな風にして、ちょうどある種の人々がカレンダーの数字をひとつずつ黒く塗りつぶしていくように、ウンガロは人の笑顔を奪う怪奇現象に満足しながら生きてきた。
時計を眺めている限り、少くとも世界は動きつづけていた。たいした世界ではないにしても、とにかく動きつづけてはいた。そして世界が動きつづけていることを認識している限り、ウンガロは存在していた。たいした存在ではないにしても存在していた。人が時計の針を通してしか自らの存在を確認できないというのは何かしら奇妙なことであるように思えた。
以来、どこからも人の声はしなくなった。いわゆるゴーストタウンになったのだ。
音はしなくなった。 じりじりと砂をかむような時間がゆく。彼が部屋で感覚する日々は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた。
ただひたすらにつまらなかった。
巨大な鯨に吞まれ、その腹の中で生き延びた聖書中の人物のように、つくるは死の胃袋に落ち、暗く淀んだ空洞の中で日付を持たぬ日々を送ったのだ
死の入り口に生きていた。底なしの暗い穴の縁にささやかな居場所をこしらえ、そこで一人きりの生活を送った。寝返りを打ったら、そのまま虚無の深淵に転落してしまいそうなぎりぎりの危うい場所だ。しかし彼はまったく恐怖を感じなかった。落ちるというのはなんと容易いことか、そう思っただけだ。
木の枝に張りついた虫の抜け殻のように、少し強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされてしまいそうな状態で、辛うじてこの世界にしがみついて生きてきた
運命に叩き伏せられたその絶望を支えにしてじりじり下から逆に扱こき上げて行く気力はもはやなかった。
絶望ということは、必ずしも死を選ませはしない。絶望の極死を選むということは、まだ、どこかに、それを敢行する意力が残っているときの事である。真の絶望というものは、ただ、人を痴呆状態に置く。脱力した状態のままで、ただ何となく口に希望らしいものを譫言のようにいわせるだけだ。
今日まで為した無数の諸悪や業も、彼の弱味に、今こそつけ込んで、この土蔵の中の四角な闇に、げたげたと嘲笑っているかとも感じられた。
好転しない世界に絶望と倦怠の日々を過ごしており、日を浴びるときは太陽を憎むことばかり考えていた。結局はウンガロを生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影でだまそうとする太陽。だらしのない愛情のように太陽が癪に触った。
そのままいけば薬にも手を出していただろう。死ぬまでの惰性的な日々はひたすらに暇だったのだ。
卑屈になって、何の生甲斐もない自分の身の置き場が、妙にふわふわとして浮きあがってゆく。胴体を荒繩でくくりあげて、空高く起重機で吊りさがりたいような疲れを感じていた。
助からない。本人も、助かりたいとすら思わない。その考えはすわっている冷たいビニールのソファーのようにまわりを離れず、まるで大声でくりかえしているように心に響き、空ろな心にこだましていた。
蟻地獄の砂丘の傾斜をあがきながらズルズルと落ちていくのは、足掻くのを辞めさえすれば楽だった。
落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒が明かない。
それを告げたとき、リキエルはただただ気味が悪い義弟だなと思った。拒否する権限もない自己紹介だったが、彼が漠然と忌み嫌っていた考え方ばかりで、頭がそれを受けつけなかったともいう。
1ヶ月前まで似たような境遇だったというのに、漠然と抱いていた世界に4人しかいない血縁関係という希望が不安になるには十分だった。思考がまるで理解できなかったのだ。
目に光が点ったのは、世界に復讐できると知ったからだという、義弟。皮肉にもスタンドが生きる意志を得た瞬間だったというのだから、まるで真逆の覚醒なのが笑えない。
「かつては、お前もまともだったんじゃあないか?希望に燃えたまともな人間」
ウンガロはせせら笑う。
「クラレンス・ダロウの伝記を読んで弁護士になろうとしてるてめーと同じにすんなよ、成績も悪くなかったみてーだし。いちばん大物になりそうな人投票でクラスの二位になったみたいな顔しやがって。オレが世界で1番嫌いな人種だぜえ、アンタはな」
リキエルは肩を竦めた。感動的な再会とはほど遠かったのだ。