「東方仗助ッ......」
吉良吉影は呪詛を吐く。
剃刀でも走らせたような痛みが走る。火傷痕のようだった。目を背けたくなる種類の傷だ。痛いというより痒いほどの浅い傷が、紫色に膨れ上がった二の腕に走る。跡が青あざのように広がり、鮮血に滲む隙もない深い傷からはザクロのように赤い肉をはみ出している。
ゼェゼェ息を吐きながら、延焼する大地に突っ込まれて、からがら逃げ出した体をみる。
焼け爛れた皮膚が乾き切るまでに二箇月以上要しそうな中々の重傷だ。皮膚が油紙の一枚のようにあちこちめくれている。体のところの皮膚がぺろっと剥げているのだ。血は既に流れやんで肉の上にとどまっている。動脈のところがポツリと腫れている。二の腕の赤い部分に水泡のようなものが点々としている。シャツの袖が裂かれ、腕に深く刻まれ、濃い血が滲み出ている。
「なぜ......なぜ私がこんな目にッ......」
血のしたたりは体から離れて宙に飛ぶ毎に虹色にキラキラ輝く。血まみれの腕はだらんとしている。肉が削がれて骨が見える、ちぎれた腕や足が人形の部品のように転がっていた。ねっとりと布が傷に張りついている。ピンクのケロイドがふくらはぎのずっと上の方まで皮膚を引きつらせている。
ここまで追い詰められてなお、吉良吉影に反省の色は見られなかった。
体のあちこちがグレープフルーツルビーの果粒のような、ぷちっとした肉が顔を覗かせていた。おかげでスーツが血だらけだ。傷は、スパッと浅くきれいに切れている。ぱっくり開いた傷口のようすは、たとえば地底旅行をしているようなもので、普段見慣れたおのれの顔の下にひそんでいる異界の光景だ。
血膿に汚れて重そうに垂れ下る布地を、そばでも食うような手つきで引っぱり上げる。鈍角が強引に引き裂いて行った傷は、石榴のように赤い肉をはみ出していた。負傷した部分だけ、吉良吉影の皮と肉と骨は燃えあがり、まるで生命がそこで爆発したような感じだった。
だんだん呼吸困難の度を増して浅薄な呼吸を数多くしなければならなくなって来た。
スーツはずたずたに切り裂かれ、体のあちこちが狡猾な猿のようにひどく赤茶けて縮んでいた。
未だに闘志が尽きない吉良吉影に仗助は怒りが増大するのだ。
「静のお母さんはよォ......もっといてえ思いをしたんだぜッ......死にたくなかったのによォッ......」
仗助はパーンと頬を打つ。強くぶたれた頬の皮膚は、ぴりぴりと細かく震えるようだ。思ったより大きな音がした。吉良吉影は脳天に衝撃が走った。ぐらりと視界が回転して、平衡感覚がおかしくなる。一発くらい殴っても気分は晴れない。
「キラークイーンッ!!」
接近戦が得意ではないが、岩人間とかした吉良吉影にはなかなかダメージが通らない。ボロボロではあるが今だに消えない意思の炎がキラークイーンを焚き付ける。
キラークイーンの渾身の力を込めた右の正拳突きがとぶ。うなりを上げて腕が振られると仗助の顔が引きちぎれるほど横を向いた。歯が折れたのだろう。鮮血がゴボゴボと溢れ出ている。黒いマスクをしているように鼻から下は地に濡れてドロドロだ。
「ドラァッ!」
即座に反撃として仗助は振幅の短い一撃を左側の腎臓に送り込んだ。音のない、しかしおそろしく強烈な一撃だった。吉良は激痛が全身を貫いた。すべての臓器が縮み上がり、痛みが一段落するまでまともに息ができなかった。目の前で大きな火花が散った。電線の電気系統が故障したのだ、と最初は思った。見当外れだった。吉良個人の神経の信号が瞬間的に切れ、視界が暗くなったのだ。
キラークイーンはとっさに仗助の胸倉をつかんだまま、腹を殴りつけた。獲物をもてあそぶように力を加減しながら一発、二発、少し力を入れて三発目。仗助の体は「く」の字の形に折れ曲がり、殴られた瞬間は足が地面から浮いた。
お返しとばかりに仗助は拳を下からえぐってみぞおちに入れた。支えをなくした吉良の体は、前のめりになってその場に崩れ落ちる。
「ぐううっ......まだだ......まだ終わらない......終わらせない......キラークイーンッ」
吉良吉影はスタンドを呼び出す。
「んだよ、そのスイッチは」
「これさえ、これさえ押せばお前達の負けだ......ッ」
「まさかそいつァ......俺達が繰り返した原因かっ!」
「そうだとしたら?」
「やめろ」
「いやだね」
「やめろっつってんだろ」
「いや!押すね!」
「やめろォオオオオオッ!!!」
最後の力を振り絞り、吉良吉影がスイッチを押そうとしたその刹那、すさまじい勢いで落ちてきたなにかが吉良の腕を切断した。スイッチを持った手はただちに硬質化するがあまりの重量にそのまま潰されてしまう。
「......なに?」
あまりにもいきなりのことに吉良も仗助も固まってしまう。たまらず上を見た2人は、黒煙の向こう側に無数のなにかが空を覆い尽くしているのがわかった。
「蝶?」
そいつは黒煙にいぶされるたびに姿を変えていく。吉良は青ざめた。
黒と褐色の模様と、ステンドグラスを思わせる透けるような薄い浅葱色かの斑紋様の羽、胸にも特徴 ある斑模様がある美しい蝶だった。新選組が着ているあの薄い青が目を引く。あまりにも不似合いな蝶だ。一匹ではない。二、三、四、それは数えられいほど瞬く間に仗助と吉良吉影の視界をおおっていく。
「なんだこいつはッ!?」
吉良吉影が叫んだのは蝶に気を取られたからではない。高温とかした地上により弱々しく飛んでいた蝶はあっさりと死ぬ。暑さに弱いようだ。そいつは死んだ途端に硬い鋼鉄のバルブやでかい部品にかわり、吉良吉影に襲いかかってきたのだ。
仗助もいるというのにピンポイントでどんどん落ちてくる鋼鉄のがらくたの山に吉良は慌てて避ける。キラークイーンで吹き飛ばそうにも雨のように降り注ぐそいつらは絶え間なく襲いかかるのだ。上ばかり見なければならなくなった吉良は、さっきまで黒煙の向こうにチラついていたはずの鉄塔がなくなっていることに気づく。
「まさかっ......」
吉良はさっきからジョルノが追撃に来ない理由をようやく悟るのだ。たしかにあの鉄塔、スーパーフライは強力なスタンドだ。だが、あの鉄塔そのものがスタンドなのではなく、もともと一礁一が趣味のために建てた鉄塔なのだ。
実体があり、あとからスタンドをみにつけたも同然なのである。つまり、ゴールド・エクスペリエンスによる生命を生み出す能力の範囲に入ってしまうのだ。あれだけ瀕死になっておきながら、あの巨大な鉄塔を膨大な数の蝶に変え、はるか上空にまで飛ばし、そのまま吉良目掛けて爆撃させているのだ。
それだけ飛翔できる蝶なのだ、あの美しい浅葱色の蝶は。
ジョルノの名を呪詛のように吐き散らかした吉良は、今なお降り続く鋼鉄の豪雨をキラークイーンにより弾き返し続ける。視界の隅に、ニヤリと笑った仗助がうつったとき、顔がひきつるのがわかった。
「やるじゃねーか、ジョルノッ。こいつはいいお膳立てだぜッ!」
キラークイーンは複数の能力をもつが、切り替えないと発動することができない。巻き戻しのスイッチを押そうとすれば、たちまち鋼鉄のガラクタに全身をたたき潰されて死ぬくらいの距離まで、鋼鉄は迫りきていた。
スイッチを押そうとしていた手ごと地面にぐしゃりとしてしまったのだ。殺意を感じるほどの近距離で、吉良はその存在に気づいてしまった。いくらキラークイーンがすべてを一瞬で粉微塵にできる爆発能力を持っているとしても、蝶と鋼鉄と2回も爆発させなくてはならない上に、蝶の群れ自体ははるか上空にあるのだ。あまりにも遠すぎた。
鋼鉄の雨から逃れるのに精一杯な吉良と周囲に散乱する無数の鉄塔の残骸。そして直す能力をもったクレイジーダイヤモンドの東方仗助。この瞬間にすべては決した。
「ドラララララララララララララララララァ───────!!!」
鋼鉄の山がたちまち元の姿を取り戻していく。あるべき場所にもどり、あるべき高さになっていく。仗助のラッシュを食らった吉良は鋼鉄の山につっこむがラッシュは止まらない。解体された部品たちが自動的に鉄塔を形成していくさなか、吉良も問答無用でその中に融合していく。アヌビス神を壁に閉じ込めようとした時とは違い、埋め直すのではなく、鉄塔そのものと一体化していく。
スタンドを使った殺人鬼は法では裁けない。唯一の殺人はすでに時効が成立している。普通のやり方でこの吉良吉影を裁く方法はこの世界に存在しないのだ。ならば、と仗助は考えたのだ。おれが裁いてやる、と。この町を守る大好きな祖父、東方良平のように、このおれが、吉良吉影を裁いてやると。
刑は執行された。
出来上がった鉄塔のどこかに吉良吉影が浮き上がっているはずだが、どこにいるのかまではわからない。精根尽き果てた仗助は、やり切った満足感をたしかに胸に抱きながら緩やかに意識を失ったのだった。
「こいつはアサギマダラっていうんだ」
ジョルノの指もとに蝶が止まっている。
翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る蝶だ。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑がある場合がある美しい蝶だ。
アゲハチョウの様に細かく羽ばたかずにふわふわと飛翔し、人をあまり恐れずよく目にするため人気の蝶だという。
日本全土から朝鮮半島、中国、台湾、ヒマラヤ山脈まで広く分布し、
標高の高い山地に多く生息する。九州以北で成虫が見られるのは5月から10月くらいまでだが、南西諸島では逆に秋から冬にかけて見られる。
アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。
直線距離で1,500 km以上移動した個体や、1日あたり200 km以上の速さで移動した個体もある、オオカバマダラのような大移動をする蝶だ。アサギマダラの不思議は、まず、渡り鳥のように季節によって長距離を移動する習性を持つことだ。しかも集団でそれを行う。何がこの「渡り現象」を誘引しているのかは研究でも特定されていない。定期的に国境と海を渡ることが標識調査で証明された蝶は、世界に1種、このアサギマダラしかいない。
具体的な事例として、岐阜県下呂市で放蝶した人と兵庫県宝塚市でその個体を捕まえた人が、2年続けて双方とも同じ人物だった。なお、その個体は9月下旬に放蝶され、10月12日に捕まえられた。
レッドリストで準絶滅危惧と評価されている。
「この蝶は、時期、空間、植物の状況に柔軟に対応して飛んでいる。台風を活用して移動したり、雨が降る前に一気に移動したりと気象を読む能力に優れている蝶です。僕に忠実じゃなけりゃまずこの山から逃げていただろう」
蝶は熱さのあまり死んでしまい、ジョルノの手にはメモ蝶がのこされた。
「ちなみにアサギマダラは鳥などに捕食されることはほとんどない。それは体内に毒をもっているからだ。毒と言っても誤って食べた鳥が嘔吐する程度で、人がさわっても問題はない。この毒は、幼虫の時に食べるガガイモ科のキジョランの葉や、成虫になって吸うキク科のヒヨドリバナの蜜に含まれるアルカロイドが体内に蓄積されたものとされている。だから、ほかの個体がいるとしても、カラスの心配はあんまりしていなかった」
ジョルノはゆっくりと歩みを進めていく。ジョルノ自身、決して無傷という訳では無い。スーパーフライのカウンター能力を多少なりとも食らっている。ゴールド・エクスペリエンスのパワーがクレイジーダイヤモンドより低かったことを喜ぶのは後にも先にもそれだけだった。
「これは一種の賭けでした」
なにかを書き始めたジョルノは、ゴールド・エクスペリエンスで今度はツバメに変える。そしてツバメは空高く飛び去っていった。
「もし鉄塔がスーパーフライ以外のスタンド能力を受け付けなかったら、その時点で詰みだ」
灰だらけになるのも構わないでジョルノは近づいていく。
「いや、正確には根元から掘り起こさなきゃいけないから手間がかかる。その分のタイムロス、スーパーフライごと倒すには鉄塔は大きいからなお時間がかかるだろう。吉良吉影にスイッチを押されていたらまた巻き戻し。僕たちは負けていた」
その先にはスーパーフライがたっていた四角い空間がぽかりとあいていた。燃えるものがなにもないせいでじわじわ隅から燃えていた。
「火事のさなかに一礁一が目覚めて僕達や救急車、パトカーあたりが奇病に集団感染することが確定する。覆すことはとても難しい。雨は降るし、吉良吉影ははやく帰ってくる。変わらないことは変わらないからな。そういう意味じゃあ、どっちが勝っても美味しいとこ取りなあんたは初めからわかっていた事かもしれないが」
ジョルノの言葉に帆波奈帆子はなにも言わない。傍らにある旦那の岩を愛おしげにさすりさすりしながら眺めている。
「わたしは賭けに負けたのよ。最後の最後で掴み取る事ができなかった。いつだってそう。アンタたちにこれからを委ねるしかない。今までと同じよ、何も変わらない」
吐き捨てるようにいう彼女にジョルノは首を振った。
「少なくても、アンタの子供はアンタの思っている以上にいい子に育ってる。そのおかげでアンタはこれから助かるんだ。施しじゃあない。僕は帆波夏帆と約束したんだ。だから守るさ」
き、と彼女は睨みつける。
「知ったような口をきかないでちょうだい。八つ裂きにしたくなる」
ジョルノはちいさく笑った。
「出来ないことは言わない方がいいぞ、無駄だからな。アンタは世界で一番大事な旦那から離れることなんて出来やしないんだ。そうじゃなきゃ21年前に感染させてきた加害者に甲斐甲斐しく世話なんてできない」
彼女は目を見開いた。まさかバレているとは思わなかったようだ。
「アンタは21年間、1度も一礁一に会ったことがないんだ。最後の一日を前にアンタはいつも休眠期に入る。そして、入れ替わりに一礁一が目を覚ます。アンタ達はお互いに休眠期のサイクルに入ってしまうんだ」
ジョルノは石になりつつある女を見つめた。
「なんだって毎回アンタが執拗に僕を殺そうとしたかがわかった。僕がアンタたちのサイクルに気づいたら、来ないことがわかっていたからだ。途中で死んだら遺言が残せなくなる。良く考えればツバメならカラスの餌食になるのに妨害されたことが1度もないんだ」
胴体まで石になった帆波奈帆子は目を閉じてなにもいわない。
「安心してくれ、帆波奈帆子。僕は約束は必ず守る」
すでに返事はない。そこには岩がふたつ、鎮座しているだけだ。息を吐いたジョルノは、気力だけで立っていたためにゆっくりと座り込む。
サイコロのペンダントをツバメに変えて離した。康一たちが助けに来てくれることを期待しつつ、一酸化炭素に巻かれないよう最後の力を振り絞り、ゴールド・エクスペリエンスを発動する。いつまで持つかわからない草木のドームの中でジョルノは意識を手放した。