この世界に来て一年半が経ち、僕は一つの事を結論づけた。
即ち、『この世界における霊気のバランスは極めて安定している』という事である。
あちらの世界では八色の光……便宜上精霊素とでも呼ばせて貰うが、ソレの一部が存在しない部分があれば霊気は瘴気に転じ、直ぐに自然の自浄作用によって修復されていた。
だが、この世界では瘴気に転じる以前の問題として、精霊素が存在しない部分等という物を見た記憶がない。
何故なら、霊気のバランスが崩壊し、精霊素の塊に変わる事そのものが存在しないからだ。
あちらの世界では精霊素の塊に変わった後に霊気のバランスが自浄作用によって修復されるような事が続いていた故に、この事に気がついた時は驚愕したものだ。
だが世の中、そんな単純な事ばかりではない。
僕はそれを今現在、体感している。
「ま、まだですかぁ?!もう投げれる物なんて単身楽団(ワンマンオーケストラ)位しかありませんよ?!」
「ちょっ、ちょっと待って!此処がこうで……そこが……」
『ガァァァアァアアァアアア!』
僕が現実逃避をしながら物を投げつける事になった理由は今から一時間ほど前まで遡る。
◆◇◆
「へぇ、あなたが噂の……」
学院の中を歩いていた僕に、声を掛けてきたのは肩ほどで黒い髪を切り揃えた強気そうな女の子だった。
ツゲ・ユフィンリー、そう名乗った彼女は現在基礎課程の二年生だそうだ。
此処、トルバス神曲学院は基礎課程二年、専門課程二年の合計四年制である。
彼女は調度その折り返し地点とも言える位置にいるようだ。
何故、折り返し地点と言うのか。
それはトルバス神曲学院には留年制度はなく、基礎課程から専門課程に上がる試験に合格できなければ退学が決定してしまうからだ。
……まぁ、トルバス神曲学院は年齢が13才以上から幅広く生徒を募集しているため、再入学する猛者もいるらしいのだが。
「噂……ですか?」
「そう。最近学院内で見かけるようになった学院長の隠し子だとか、学院長が有望な子を引き取ったとか、色々あるわね」
どうやら、最近になって授業を見学したりしている内に噂になっていたらしい。
しかも、学院長さんの保護下に置かれている現状としては否定ができない。
「それで、そんな噂の僕に何の用でしょうか?」
「あぁ、たいした話じゃないんだけど。今度、進級試験があるから噂の隠し子君に評価して貰おうかなってね」
ツゲさんは断られるとは思っていないのだろう、苦笑しつつもその瞳は笑っていない。
その真剣な瞳は僕に逃げられると思ってんの?とでも言っているかのようだ。
「あ、はい。いいですよ」
この世界に来て暫くはこの世界の常識だったり勉強だったりに費やしてきたが、最近は学院で行われている講義を見学させてもらってきた。
だが、実際に神曲を奏でる瞬間に立ち会った事は一度としてなかったため、この状況は渡りに船だった。
今までに僕は何度か神曲を奏でようと演奏をしていたのだが、一度もそれが成功した事はなかった。
調べたところ、成功していれば精霊が実体化して近くにいるというのが通説らしく、自身が演奏しても実体化している精霊は居ない。
酷いと実体化していない精霊すらも近くに居ないことすらある。
恐らくは何かが足りないという事なのだろう。
その足りない何かを知るには、今回の話は調度良いとすら思える。
「じゃあ、行きましょうか?」
今日の授業も終わっており、どうやらこの後直ぐに実習室へと向かうようだ。
先導して歩くその姿を見ても緊張をしているようには思えない。
自身が失敗をする筈がないと全身で表しているようにすら思える。
第一印象でも思ったが、やはり強気な人であったらしい。
そんな事を考え、僕は苦笑しながら彼女の後を追いかけた。
実習室に着いた彼女は迷う事なく設置してあった単身楽団――ほぼ全ての神曲楽士が使用する神曲の演奏を補助するための楽器。普段は持ち運びが便利な形に収納されているが、一度展開すれば内蔵する機械を利用する事によって内蔵された楽器の音量調節や伴奏の演奏まで可能となる――の中からヴァイオリン型の物を選び出し、慣れた手つきで展開していく。
小型の棺桶のような物を背負い、展開されていくにつれてアームのようにも見える反響板や浮遊しているスピーカーが飛び出てくるのは何処か滑稽にも思える。
……まぁ、トルバス神曲学院ではかなり古いタイプの単身楽団を配備しているからで、最近の物であれば見た目も洗練されているんだとか。
それでも新しい単身楽団に買い換えないのは、単身楽団の核とも言える賢者の石という産出量の少ない鉱石によってかなりの高値である事もそうなのだが、古いタイプの物を使っていれば大体の物に対応が出来るという理由があるそうだ。
「さて、じゃあ演奏するわね」
考えている内に展開が終わり、持参していた封音板(レコード)――伴奏などが記録されているもの――を単身楽団にセットしたツゲさんがこちらを見る。
そしてゆっくりとした曲を奏で始めた。
それは出会いの曲。
始めはゆっくりと、そして徐々にテンポが上がっていく。
既に曲の速度は始めとは比べ物にならないくらいの物になっている。
ポッ……
ポッ……
そして、丸い小さな観客が奏者の周囲を回り始める。
ボウライ。
精霊の中でも下級に属され、良く言えば神曲の選り好みをしない、悪く言ってしまえば雑食の精霊だ。
彼等が出ている以上、神曲である事は間違いがない。
「……え?」
そこで僕は一つの事に気付いた。
彼女からは霊気が放出されているが、意図して放出しているようには見えない。
にも関わらず、その霊気からは彼女の意思のような物が感じられる。
『私は此処にいる』
『一緒に楽しもう』
先程までの印象がガラリと変わってしまうような優しい意思(ココロ)。
『奏でよ、其は我等が盟約也』
『其は盟約』
『其は悦楽』
『其は威力』
『故に奏でよ、汝が魂の形を』
この学院に掲げられていたこの言葉の意味が、漸く解った気がした。
僕は神曲を奏でようとして、音楽を楽しんでいなかった。
神曲を奏でる事に固執して、聞く相手の事まで考えてはいなかった。
だから、神曲足りえなかった。
これが解っただけでも今回の演奏を聞く価値があった。
そして、神曲が終わりを迎える頃、新たに一柱の精霊が姿を表し、演奏は終了した。
精霊は所有している羽根の数によって等級が分けられ、下級が二枚羽根、中級が四枚羽根、上級が六枚羽根となっている。
彼女が最後に呼び出した精霊は四枚羽根、中級精霊である。
通常、専門課程に進級していない学生が中級精霊を呼び出す事は難しい。
プロの神曲楽士でさえ、一生下級精霊しか呼べない者もいる程だ。
学院と契約を結び、警備員として巡回している精霊であったとしてもその難易度は変わらない。
「あぁ、ウォルフィス。今日も来てくれてありがとね」
狼の形態をとったその精霊は一鳴きすると、再び実体化を解いて去っていった。
今の様子からすると、彼女にとって先程の精霊が危機に来る事は珍しくないらしい。
それだけでも、彼女の神曲楽士としての腕はわかる。
「……評価する必要だってないじゃないか」
そう、わざわざ評価を求める必要すらない。
聞いた話だと、進級試験はボウライを一柱呼び出すだけでも合格できるのだ。
「良いのよ。他人が聞いてわかる事だってあるんだから」
そう言って手を振りながら笑うその姿は、演奏を始める前とは打って変わって親しげな物であった。
使用していた単身楽団を仕舞い終えた彼女は、僕が本当は何でこの学校の授業を見学したりする事を許されているのか等と聞きながら実習室の扉を開けた。
「ん?なにアレ」
実習室の側にある窓から見える位置に置いてあったのは大きめの箱だった。
普通に見ただけでは何もおかしな所がないただの箱である。
いや、人が一人入れそうな箱が置いてある時点でおかしな事ではあるのだが。
それ故に、ツゲさんは窓際に寄ろうと歩き出していた。
だが――
「待ってください!」
僕がそれを止めた。
いや、止めざるを得なかったのだ。
見鬼の力で見た僕の目には、あの箱の周囲だけに精霊素が存在していないのが見えたからだ。
精霊素が存在していないという事は霊気のバランスが偏っているという事で、アレは霊災に変わる可能性があるという事だ。
にも関わらず、アレは瘴気に転ずる気配もなくそこにある。
不気味なものにしか思えない。
「なに、アレが――」
――ドゴォオオオオオオオオン
『ガァアアアァァアアアアア!』
ツゲさんが僕に何かを聞こうとしたその瞬間、箱が爆発し中から瘴気を身に纏った精霊が咆哮を上げた。
「なっ……暴走精霊?!」
そうして、話は冒頭へと戻る。
時代的にはユフィンリーが学生なので、疑問に思っていた部分の補完的な話を書いてしまいました。
アレですよね、原作でレンバルトが実戦で演奏が出来なかったシーンがあったわけですが。十年に一人の天才だったとしても、初めての実戦で神曲を奏でるのは難しいと思うんです。
ですので、原作前に実戦を経験していたというお話をw