傘を忘れてしまった自分が憎い。
服は雨で濡れてしまった。けれど、天気予報では小降りになっていたはず。仕方ない。
あともう少しで駅のホームだわ、あと少し。
ガサッ
鞄から荷物が落ちてしまった。辺りには無惨にも散った私の私物が散乱している。最悪。ただえさえ雨で心が沈んでいたのに。
誰も私に手を差し伸べようとはしない。分かっていたわ、誰も助けてはくれないの。今も、これからも。
「大丈夫ですか?」
突然後ろから声がしたわ。
そして、彼は躊躇することなく濡れた私の体を覆い隠すように傘をさしてくれた。王子様のように思えたわ。とても嬉しかった。
「ありがとうございます」
また、彼はタオルまで貸してくれたの。ありがとう。心の底から感謝をしたわ。
私を雨から守ろうとしてくれていたからなのか、彼の服が濡れていた。早くしなくては、そう思い、急いで荷物を鞄に入れていく。
最後のひとつのキーホルダー。これは私の宝物。帰ってきちんと拭いてあげようと思った。
けれど、彼が先にそのキーホルダーに手を伸ばしたの。
「待ってください」
思わず声を上げてしまった。彼が悪いわけでは決してないの。
ただそのキーホルダーだけは私にとっては大切な物だから。
「すみません。」
謝るのは私の方なのに。
助けてくれた相手に声を上げるなんて私は恩知らずだわ
「い、いえ、そう言う訳では」
気まずくなりうつむいてしまった。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
ふいに名前を尋ねられたわ。そうよね、まずは自己紹介をしなくては。
「雪ノ下、雪ノ下雪乃です」
なんとか噛まずに言えたわ。少し緊張した。
そうだわ、彼の名前を知りたい。私の命の恩人だもの。だから、笑顔で彼の名前を聞いてみることにしたの。
けれど、それが間違いだったみたい。
「ところで、あなた?」
彼は落ち着いた様子で
「比企谷 八幡です」
そう答えたの。
驚きと焦燥で頭がおかしくなりそうになったわ。なぜ彼が?
私の今の感情を何て表現すればいいのか正確にはわからないの。言葉では言い表せないような思いが体中を巡ったわ。
これが言葉の貧しさね。
そして、なぜだか私はとても悲しい気持ちになったの。ダメ。ここに居ては。
本能がそう囁いた気がしたの。私は居てもたってもいられなくなったわ。だから、その場から逃げ出してしまったの。
「ご、ごめんなさい」
感謝をせずに謝ったわ。けれど、そうすることしか為す術がなかったの。
駅のホームまで必死に走ったわ。周りのことも気にせずに、なりふり構わず走ったの。
それから、自分にはあまり体力が無いことに気づいたわ。私、体力だけには自信がないの。心臓が飛び出そうなほど鼓動しているわ。少し、疲れた。
それから、近くのカフェに入ったの。心を落ち着かせる為よ。
「コーヒーを下さい」
近くのカウンターに腰をかけたわ。
温かいコーヒーが喉の渇きを癒してくれる。
少しだけ正気を取り戻したわ。あれだけのことで動揺するなんて、自分が情けなかった。
『比企谷 八幡です』
「聞き間違い、、、では、無かったのよね」
コーヒーカップを持つ手に思わず力が入る。
彼に会えた時はとても、嬉しかったの。
そうだわ、今度彼に会ったら、はじめに、ありがとうが言いたいわ。そして、一緒に色んなお店に行くの。それから、、、、、。
そこまで考えて、この願いが叶わぬ夢であることに気づいたの。本当のことを言うと叶わないわけではないの。けれど、いずれすべてが消えてしまう。
だから、私は諦めることを選ぶわ。得ないことより、失うことの方が辛いことだってあるの。
私はあの時のことを後悔はしていないわ。これからもずっと、あなたとは会わずに生きて行くの。大丈夫、きっと、大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、手の中にあるキーホルダーをそっと握りしめた。
私には、彼と関われない理由があるの。
すべてを失わない為に私は得ないことを選択する。
タイマーの音で目が覚めた。時計は午前七時半をさしていた。
「もう、そんな時間か」
俺は全く待ち望んではいないが、今日は世間で言うところの入学式である。中学では、一人寂しく息を潜んでいた俺にも暖かい春がやって来た。両親が仕事ということもあってか、入学式という晴れ晴れしい式典にも関わらずなぜか一人で迎えこととなってしまい、すでに朝から不安だらけである。
小町の時は意地でも仕事を休むくせに俺となれば話は別だ。
まあ、小学生の時とかは、親に来て欲しいものだが、高校生という多感な時期になるとそうともいかない。
それに、俺の場合は友達ができないので一人寂しく忍者のように息を潜めている息子の生態を親に観察されるのはごめんだ。あれ?結局、暖かくなくね?
そんなこんなで今日は入学式だ。この年ともなれば入学式ごときで、はしゃぐ俺ではないが少しだけは期待をしておこう。少しだけね。
読んでいただきありがとうございました。