死が二人を分かつまで-side stories- 作:garry966
これが私のZasちゃんに対する答えだ!
Zasちゃんと誓約済み指揮官がデートする話です。
誓約した人形を戦地に送り出す指揮官はどんな気持ちなのかな、と考えながら書きました。
いつもより読みやすいと思う(当社比)
Zas M21短編 明日のデートより、今日の私を
「ほら、着いたよ」
女性の声がした。肩を揺すられてまぶたを持ち上げる。フロントガラスから眩い光が飛び込んできて思わず目を細めた。助手席で寝ていたらしい。居眠りするなんておかしいな、はっきりしない頭を運転席の方に向ける。若い女性が私を見て微笑んでいた。少し垂れた大きな目が私の顔を覗き込んでいる。寝不足気味なのか目の下に隈が出来ていた。肩まで垂れた茶髪が小さく揺れている。
分かった、この人は私の指揮官だ。一番よく知っている人なのに判別に時間がかかった。寝起きなのと、彼女がいつもと違う格好だからだ。グリフィンの赤い制服ではなく、薄茶色をしたウールのロングコートを着ている。
「指揮官、ええと……ここはどこですか?」
「はは、寝ぼけてる?ベオグラードだよ。約束のデートに来たんだ。早く行こう」
約束のデート?そう言われるとそうだった気がする。考える暇もなく指揮官に急かされて車を降りる。車から出ると石畳の古めかしい通りだった。道の両側に歴史を感じる近代風の建物が立ち並んでいる。建物の一階部分に居を構えた商店が多い。人通りが多いことから観光客向けの繁華街なのだと分かった。
「どうしてベオグラードなんですか?私たちの基地から大分離れていますよね。貴重な休みを移動時間に割くのはもったいないと思いますけど」
私と指揮官の部隊は鉄血との最前線に配属されている。それも激戦区だ。私たち人形はもちろん、指揮官も昼夜を問わず働き続けている。まとまった休みを貰えることなんて滅多にない。
「それはほら、あなたの生まれ故郷でしょう?」
「まあ確かに……私はセルビアの銃です。でも、製造元は別の街ですし、それは銃に限った話で私の出身はI.O.Pですけどね」
指揮官に手を引かれながら通りをゆっくり歩く。私が細かく補足すると彼女は何がおかしいのか朗らかに笑った。まあ、悪い気はしない。わざわざ指揮官が時間をかけて連れてきてくれたのだし、二人きりになるのは久しぶりだ。部隊にいる時は他の娘たちがいるし、指揮官も忙しい。せっかくなら楽しんだ方が合理的だ。
「どう?何か感じない?この国とスティグマで結ばれたあなたの銃の記録が反応したりしないの?」
「そう言われても……特には。スティグマはあくまで銃を自在に操るための技術で、銃や製造国の歴史に一々思いを馳せたりしませんよ。そもそも、武器に感傷が必要なんでしょうか?感情は様々な行動の制約になります。兵器である戦術人形に搭載するのは実用的とは言えませんよね」
「相変わらずだなあ。ひねくれてる」
否定したのに指揮官はニコニコ笑っていた。言ってからこれは幾度となく繰り返した問答だと気づいた。それから彼女は私を引いていた手を離し、私の顔の前に左手を突き出してくる。
「それに、人間性が無ければこういうこともできないでしょう?Zasはこれも非実用的だと思う?」
「それはまあ……非合理的だとは思います。でも、必要ないとは思ってません」
突き出された左手の薬指には銀色の指輪がはめられていた。そして、私も同じ意匠の指輪を身に付けている。私と指揮官は誓約していた。ただの人形と指揮官という関係から一歩進んだところにいる。指輪を受け取ってもらえないか聞いてきた時の真剣な表情、あれからかなり経ったけどまだ記憶に新しい。人間と人形なんて、苦労するのは彼女の方だ。そうと知りつつ私は受け入れた。私もまた彼女のことが好きで、求められることが嬉しかったから。試練が待ち受けていると分かっていても拒否することはできなかった。
「ほら、行こう。せっかくのデートなんだから楽しまなくちゃ」
私が人間性を認めたことに安心したのか、指揮官は満面の笑みを浮かべながら私の腕を引っ張った。彼女は地図も見ずに、まるで見知った土地を歩くように人混みの合間を縫ってスイスイ進んでいく。もうデートの計画は立てているらしい。いつもより強引な気がしたが、身を委ねることにした。私といる時の指揮官は活き活きしていて見ていて楽しい。
導かれた先はネイルの専門店だった。古風な街並みに合わせて外装は落ち着いているが、現代風の機能的デザインの店内には色とりどりのネイルカラーの小瓶が並んでいる。こういうお店に来るならわざわざ遠出しなくてもいいのに、私は口元を押さえて小さく笑った。でも、私の趣味をよく分かっている。安物ではなく、プロのアーティストが使うような品ばかり並んでいた。
「いい趣味のお店ですね」
「そうでしょ?Zasと行きたくてね。好きなのを選んでよ。新しいカラーを試してみたら?」
私のネイルはどれも違う種類だ。最初の頃は違いを説明しても指揮官は全然分からなかったけど、私に付き合って今やかなり詳しくなった。前線にいるとおしゃれに無頓着になるので私が彼女にも塗ってあげている。
香り付き塗料の棚を吟味する。しばらく悩んでから小瓶を一つ手に取った。私の髪色に似た水色のマニキュア。同じような色は持っているけど、これは私の髪にそっくりだと思う。気に入った。
「これがいいですね。透き通った、綺麗な色。この製品は持っていないし、新しいものを試すのも悪くありませんよね。指揮官にも塗ってあげましょうか?」
指揮官に見せようと振り向いた時、彼女の表情が変わっていることに気づいた。口元をキュッと結んで、痛みに耐えるみたいな悲しげな目で私のことを見ている。私の視線に気づいてそれが嘘だったみたいにパッと笑顔を咲かせた。でも、それは作り笑いだ。付き合いが長いから分かる。
「うん、綺麗な色だね。Zasの髪の色に似てて。私も塗ってもらおうかな?」
「……指揮官?どうしたんですか?」
「ん?どうもしないよ。じゃあ、買ってくるから」
指揮官は何も言わず、マニキュアを包んでくれと店員に言いに行った。今のは何だったんだろう。結構な値段のものを選んでしまったから?でも、この店にあるものはどれも値が張る品ばかりだし。それともただの見間違いかな。私が深刻に捉え過ぎなのかも。
腕をグイグイ引かれて街路を歩く。何かに追い立てられているみたいな忙しない足取りだった。ゆっくりできるほど休暇が十分にあるわけじゃないけど、それだけじゃない気がする。私たちが辿り着いた先はおしゃれなブティックだった。高級ブランドの専門店みたいだ。淡い明かりが照らす店内にゆったりと服が展示されている。
「妙に羽振りがいいですね」
探りも兼ねてそう言った。別に指揮官がお金に困っているとは思っていない。むしろ使わなすぎだ。ただ、勝手知ったると言わんばかりに高級店に通うような人でもない。
「基地にいても使わないから貯まるばかりなんだ。お金のことは気にせず好きなものを買って。見栄を張らせてよ、おしゃれしたZasが見たいんだ」
「はぁ……私はいつもおしゃれですけどね。分かりました」
違和感を覚えながらも店内をうろついて物色してみた。シンプルなものから複雑なデザインのものまで、多種多様な衣服がラックにかけてある。どれもこれもいい値段なので流石に躊躇してしまう。でも、遠慮するのも失礼にあたると思って値札を見るのはやめた。私は白いワンピースを手に取った。シルクみたいなやわらかい手触りで手にしっとりと吸い付く。背中から鶴の羽のような装飾が垂れていて素敵だった。ワンピースを持って恐る恐る指揮官の方を向く。
「指揮官、私はこれがいいです」
「良いのを選んだね。Zasが着たら本当に綺麗だと思うよ。試着してみたら?」
指揮官はどこかホッとした様子で温かく微笑んでいた。よかった、さっきのは私の思い過ごしか。彼女におかしなところは何もなかった。私が試着してみせるとますます頬を緩める。
「それじゃまるで子どもか孫を見てるみたいですよ。もっとシャキッとしてください」
「あはは、ごめんごめん。そのまま着て帰る?」
「いえ、汚してしまいそうなので元の服で……」
試着室で着替え直し、会計をするために店員のもとに行った。ワンピースは折りたたまれて小洒落た紙袋に収まった。
「お買い上げありがとうございます。またのお越しを……」
商品を渡す時、店員の営業スマイルが崩れた。頬が引きつって、視線で私たちのことを訝しんでいる。指揮官がすぐに店から出て行ってしまったので私も続いた。何だろう、あれは。人形に高価な服を買う人間が珍しいのかもしれない。それもお揃いの指輪を身につけている。だから、怪訝な顔になった。それなら珍しいことじゃない。それ以上考えてもいい気分になりそうもなかったので思考を打ち切った。
しばらく街を散策した後、私たちは休憩することにした。伝統料理が食べられるレストランがあると言うので指揮官に従った。彼女はやっぱりスケジュールを全部決めているらしく、迷うことなく席についた。通りにはみ出したテラス席に私たちは向かい合って座った。
「ここではね、セルビア料理が食べられるんだって」
「へえ……セルビア料理は初めて食べますね」
メニューには見たことのない料理名ばかり踊っている。指揮官にどれにするか聞こうと顔を上げた。彼女は真顔で私のことを見つめていた、またあの悲しそうな目を向けて。
「な……なんですか?私の顔に何か付いてますか?」
「あっ、何でもないから。どれにしようかな、迷うね」
指揮官はあからさまに誤魔化してメニューに視線を落とした。彼女は何か隠している。でも、それを私に言う気はない。私たちは互いに指輪を贈り合った仲だ。この世で一番近しい間柄のはず。それなのに隠し事をされている。歯痒くて、不安で、落ち着かなかった。
私は適当にグラーシュという料理に決めた。肉の煮込みという意味らしい。私が決めると指揮官もそれにすると言った。出てきたのはトマトで赤みをつけたとろみのあるシチューだった。よく煮込まれた豚肉や玉ねぎが入っていて、どこか懐かしさを覚える味がする。私たちは食事の間、言葉を交わさなかった。指揮官は落ち込んで、塞ぎ込んでいる。彼女はこの瞬間も何か苦痛を味わっている、その様子がはっきり見て取れた。とても料理に集中できる雰囲気ではなく、泥でも啜っている気分だ。
料理を何とか片付けて、食後のコーヒーが給仕された後も指揮官は変わらなかった。カップには手を付けず、俯いて黒い水面を見つめている。私はとうとう我慢できなくなって口を開いた。
「指揮官、何かあったんですか?」
「え……ううん、何でもないよ」
「嘘です。何でもないわけないですよね。せっかくのデートだから楽しまなくちゃと言ったのはあなたですよ。あなたがその調子じゃ私は全然楽しくないです。辛いことがあるのなら言ってください。力になれるかは分かりませんが、せめて打ち明けて欲しいです。はっきり言うと隠し事をされるのは気分がよくありません」
それでも指揮官は何も言わなかった。ただ沈黙だけが流れていく。胸の中である疑念が生まれ、心の中で渦巻き始めた。やがて疑念は確信に近いものに変わった。テーブルの上に両手を載せる。
「指揮官もネイルが上手くなりましたよね。初めのうちは全然興味がなかったのに、最近は楽しんでくれるようになった。私に合わせて新しい趣味を持ってくれたのが嬉しかった」
指揮官は目だけ動かして私の爪を見た。もう少しで感情のにじみ出しそうな、取り繕った顔をしている。
「一目見ただけじゃ気が付きませんでした。でも、まだまだです。ほら、少しだけムラがあります。私ならこんなミスはしません。私のネイル、指揮官が塗ったんですね」
私が言うと指揮官は動揺して肩を震わせた。上げた顔には焦りと悲しみがない交ぜになっている。彼女と向き合った瞬間、はっきり確信した。胸に満ちる落胆の塊をそのままため息と一緒に吐き出した。
「……そうですか。隠さなくてもいいんですよ。私、死んだんでしょう?」
指揮官は今にも泣きそうなほど顔を歪めた。何が彼女を苦しめていたのかようやく理解する。落胆に少しだけピリピリとした怒りが混じった。
「指揮官は分かりやすいですね。さっきのはカマをかけただけです。ムラなんてありませんよ。ネイルもお上手です、私が教えたんだから当たり前ですね」
彼女は驚いた様子もなく私のことを見つめ続けている。私のはったりに引っかかったことで取り乱すかと思ったので意外だった。
「私は死んだんですか。道理で違和感があると思いました。デートを約束した記憶は曖昧だし、あなたは悲しそうだし……戦死した私をバックアップから復元したんですね。でも……だから?」
どうやら私は死んで、復元されたらしい。それは分かっても、指揮官がそんなに深刻そうな理由が分からなかった。私たちの部隊は最前線に配備されている。死は日常だ。鉄血にやられ、バックアップから復元された仲間は大勢いる。メンタルデータを残しておけば記憶も経験も元通り、それが人形だ。人間と人形では死の重みが違う。復元された私が目の前にいるのに落ち込んでいる理由はない、と思う。
「Zas、あなたも分かっているでしょう。復元は完璧なものじゃない。前回のバックアップまでの記憶を失って、新しい身体に引き戻される。記憶、感情、人格、メンタルモデルのデータは複雑すぎる。コピーされたデータは少しずつ、でも確実に劣化していく。コピーからコピーを繰り返せばなおさら……メンタルに致命的な欠陥が出る可能性もある」
「それで言わなかったんですか?」
「あなたがショックを受けると思って……」
「ショック?私は戦術人形ですよ。戦っているんだから死ぬこともあります。復元されることを一々怯えたりしません。ショックと言うならこうしてあなたに隠し事をされる方がよっぽど傷つきますね」
「ごめん……」
指揮官はか細く謝った。確かに私は傷ついた。今の私は以前の私よりも劣化している、そう言われた気がして。
「私が傷つかないようにするためではなく、あなたが傷つかないためでしょう?私の死から目を逸らすために……はっきり言ってください。私は今までに何回死んだんですか?人形とは言え、記憶を操作するためにはそれなりの労力と技術が要るはずです。雑に捏造された記憶を挿入されればすぐに気が付きます。初めてにしてはいささか手が込みすぎている。一回や二回じゃないんですよね」
「そう……そうよ。あなたが死を経験するのはこれで七度目。その都度バックアップから復元してきた。あなたのメンタルは劣化し始めている。重大なバグが生じる危険域に達していると思う」
流石に衝撃を受ける。はっきり面と向かって劣化していると言われてしまった。そして、私は七回死んでいるとも。私は一度として死んだ覚えはなかった。
「もしかして、私が死ぬ度に同じことを繰り返しているんですか?この街で、同じコースのデートを……それで私の趣味趣向が変化していないかチェックしているんですね。私が別の私になっていないか、あなたの中の私から逸脱していないか判断している……許容できるのはどこまでですか?マニキュアまでですか?頼んだ料理?違う服を選んだら駄目ですか?」
指揮官は答えなかった。悲痛な面持ちで私のことをじっと見つめているだけ。それで説明がつく。指揮官が見知った土地を歩くように私を導いたのも、あの店員が私たちを訝しんだのも。きっと、私は何度もあのワンピースを選んでいるんだ。同じ人形と人間が毎回同じ服を買っていくのを見たら不審に思うに違いない。
「記憶を弄られるのは少々……いえ、かなり腹が立ちますね。私のことを試している。私を信頼していないんですね。こんな指輪まで贈ったくせに。私が“私”と連続した存在なのか自信が持てないからこんなことをしている、違いますか?」
指揮官はすっかり冷めたコーヒーカップに視線を落として黙ったままだった。怒りがこみ上げてくる。感情や人間性、私の中の非合理的な部分をそっくり否定されたようで無性に腹が立った。それを肯定したのは他ならぬあなたじゃないか。
「あなたにとって私は好き勝手に弄くり回せるただのおもちゃに過ぎないんですか?誓約した時、あなたは言いましたよね。私はただの道具でも武器でもないって。私はあなたの大切な存在だと。あれは嘘だったんですか?まあ仕方ありませんよね。人形は所詮人形、人間と対等の立場にはなれませんから」
指揮官の反応を伺う。彼女は俯いたまま反応を示さない。驚きだ。最大限の侮辱をしたつもりだった。激昂すると思ったのに。指揮官はそういう人ではない。激務の中でも人形のケアを忘れない人だ。何より、私に指輪を渡してくるような人のはず。なのにどうして。
考え込んでようやく気づいた。きっと、これと同じことを前の“私”も言ったのだろう。そう考えると余計にムカついて、どうにかして表情を変えさせてやりたくなった。語彙を掘り起こして私が言いそうもない罵倒をデザインしようとする。でも、前の“私”も同じことをしたのではないかと思い、馬鹿らしくなってやめた。
「もし、私が許容できないほど変質していたらどうするんですか?処分するんですか?それとも初期化?今回の私はどうでした?駄目だったら別の都合のいい人形を見つけるんですか?指輪、返しましょうか?次の人形にそのまま渡せるように……」
「やめて!」
私が指輪を外す振りをしようとすると指揮官が声を荒げた。私はビクリとして思いつくままに喋り続けていた口を閉ざした。彼女は目に涙を浮かべて、キッと私をにらんでいる。
「そんなことするわけないじゃない。できるわけがない……あなたがあなたでなくなっていくのを見るのは怖かった。だけど、あなたを諦めることはできない。勝手なことをしたのは謝るわ、ごめんなさい。でも、そんなこと言わないで」
「すみません、言い過ぎました……」
急に怒りがしぼんで後悔が心を塗り替える。私は指揮官に私が“私”であると示したかったんだ。連続した存在で、この感情が嘘偽りでないと認めて欲しかった。そのために彼女の気を引きたかった。
「そう。私はあなたが死を経験する度に同じデートを繰り返している。変わっていくあなたを見るのは怖い。でも、どの程度変化しているのか把握したかった」
「でも、マニキュアや食事の内容なんかで分かるんですか?何を選ぶかなんて季節や天気、その日の気分で変わるでしょう。当てになりません」
そんな下らないことで私を判断して欲しくなかった。私は以前からこれっぽっちも変わっていない、私はそう思っている。でも、指揮官は首を横に振った。
「Zas、マニキュアを買った時になんて言ったか覚えてる?」
「え……透き通った綺麗な色だと言いましたけど……」
「私が新しいカラーを試してみたらと言ったからあれを選んだよね。持っていないからと。あれは新しい色じゃない……あなたはもう持ってる。爪に塗っていたこともある。ずっとそうだった。私が贈った。あなたの髪色に似て綺麗な色だから。あなたも綺麗だと、いい香りだと言って左の小指に付けてくれていた。私にも塗ってくれたことがある……」
「えっ……」
「さっきはなんて言った?セルビア料理は食べたことないって。いいえ、あるわ。私はグラーシュを戦いから帰ってきたあなたに振舞ったことがある。あなたの出身国にちなんで……あまり上手くできなかったけれど、あなたは好きだと言ってくれた。好物だって……それから何回も作った。時には二人で……」
「そうでしたっけ……」
私は口元に手を当てて考えた。そんなこと、あっただろうか。それならすぐ思い出すはずだし、忘れるなんてありえない。
「覚えてない?」
指揮官の声は今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。私にすがりつくような彼女の顔を見ると胸が締め付けられる。覚えてる。あのマニキュアは指揮官が誓約してから一ヶ月目に買ってきたものだ。彼女は記念だと言って、私は大げさだと笑った。指揮官が喜ぶと思ってネイルを塗り替えた。予想通り彼女は喜んでくれて、それからずっとそのマニキュアを使っていたはず。
グラーシュのことも覚えている。鉄血の攻勢があって私たちの部隊も駆り出された。ひどい損害の出た激戦で、一週間以上帰れなかった。疲れ切った私たちを指揮官が手料理で出迎えた。煮込みが足りなくて具材が硬かったけど、彼女も寝ていないのにわざわざ作ってくれたことが嬉しかった。あれが今までに食べた中で一番おいしい料理だ。
どちらも大切な思い出のはず。どうして思い出せなかったんだろう。だから指揮官はあんなに悲しい顔を。忘れていたわけでもないのに、すぐに浮かんでこなかった。まるで別人の記憶を覗いているみたいで、実感が湧かない。
私の人格と記憶は予想以上に解離している。私は自分が何も変わっていないと思っていた。でも、私は変貌している。死と復元を繰り返したことでメンタルが異常をきたし始めていた。指揮官を見る。彼女は疲れ切っていて、辛そうだった。
「指揮官、私と過ごすのは辛いですか?」
「そんなことない……!」
「もし辛いのなら、耐えられなくなったなら、私を復元するのはやめてください。恨んだりしませんよ。私をどこかに埋葬して、そのまま忘れてください。そうするべきです。それが本来のあり方だと思います。死を乗り越えられる生き物はいないんですから……」
「無理よ……ずっと一緒だったじゃない……あなたのことを忘れるなんて、できない……」
「人形は死にますよ。撃たれれば壊れます。戦争のための、使い捨ての機械ですから。いつ死んでもおかしくないんです。戦いに負傷はつきものです、死ぬ時もあるでしょう。鉄血の方がいつだって戦力で優っていますし、エリート人形に出くわせば部隊ごと全滅もあり得る。人の代わりに戦い、人の代わりに死ぬ。それが戦術人形です。分かってるでしょう、指揮官なんだから。私たちに戦うよう命じるのはあなたなんですよ……」
指揮官は沈黙し、俯いてから絞り出すような声を上げた。
「本当は行かせたくない……でも、命令なんだ。戦力が足りない。倒しても倒しても鉄血は湧き出してくる。あなたを行かせなければもっと大勢死ぬ」
「指揮官は真面目ですよね」
私だけ戦わせず、本物の人形みたいに大事にしまっておくことだってできるだろうに。でも、そうしたら他の仲間たちの士気が落ちるのは確実だ。最前線を生きる人形たちはひっきりなしに死んで、蘇る。それが普通なんだ。例外を作ってはいけない。人形たちのメンタルをケアする面で彼女は優秀な指揮官だった。
「あなたも歪な人ですよね。グリフィンの指揮官なんですから人形を戦いの道具として使わなければならない。でも、人形と誓約なんてしてます。ただの機械でしかない人形を愛してる。まるで人間を相手にするように……そして愛を囁いたのと同じ口で私に命令する。戦えと、死地に赴けと。戦いの道具だというのに感情を持っている私たちと同じくらい歪な存在ですよ、あなたは」
「そうだね……」
歪みはいつか断ち切らなければならない、言外にそういう意図を込めた。でも、言って諦めるような人じゃない。まともな感性をしていたら戦術人形と誓約なんてするわけがないんだから。弱り切って憔悴している彼女に私は笑いかけた。
「……指揮官、駆け落ちでもしますか?このまま……」
「えっ……」
顔を上げた彼女の目には迷いがあった。そうだろうとは思った。
「……冗談ですよ。ふふっ、本気にしましたか?」
指揮官は私のためにすべて投げ出すような人ではない。指揮官としての職務や仲間たちのこと、責任から逃げられない。そしてすべて一人で抱え込んで、苦しみ抜くんだ。副官として、彼女と誓約した人形として、苦しみを分かち合えないかと思った。でも、今や私が一番の苦痛の種だ。人形の身には限界がある。
ふと、私が指揮官の立場でなくてよかったと思った。指揮官は前線には行かない。安全な場所から指揮を執る。羨ましいと思ったこともあるが、私を戦場に送り出す時、彼女はどんな気持ちなのだろうか。私は常に死と隣り合わせで、彼女には祈ることしかできない。私が出撃する度、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わっているんじゃないだろうか。そして自分の指揮の結果、私が死ぬ。即座に復元し、着実に変質していく私とデートする。とても私では耐えられない。
「人形に魂があるとするならどこに宿るのでしょうね。記憶でないとするなら、人格でしょうか。それとも肉体?それなら私は遥か以前から別の存在だということになりますね」
「……Zasが魂だなんて言うの?サンタも笑っていたのに」
「言ってみただけです。人形に魂も神もありません。それは人間も同じですけどね。みんな孤独に生きている。絶対的な誰かが存在を保証してくれはしません。人も人形も、形態に違いがあるだけで命には限りがあるというだけですよ」
私たちは黙りこくったまま見つめ合っていた。やがて日も暮れて、辺りが暗くなってくる。私は席を立った。
「いい時間ですね。そろそろ帰りましょうか」
「うん……」
指揮官も立ち上がって、一緒に車のところを目指した。今度は私が先導する番だった。指揮官はゆっくり、ゆっくりと脚を動かして付いてくる。私は立ち止まって彼女を待った。指揮官の顔に影が差して真っ黒に見える。
「指揮官、このデートの記憶は消すんですか?」
「……消さないよ」
力ない返事だった。消すんだろうな。今まで、死やデートの記憶を保ちながら生活した覚えがない。でも、きっとその方がいいだろう。自分が変質していると自覚しないまま暮らす方が精神衛生上いいだろうし、指揮官も落ち着くはずだ。世の中には知らなくていいこともある。朝起きた時、普通の人はそれが人生最後の日だとは思わない。そう言うけれど、人形はいつが初めての日なのかも分からない。
私は指揮官の手に指を絡めてぎゅっと握った。彼女の温もりが伝わってくる。
「指揮官、次のデートより、今日の私をどう喜ばせるのかを考えてみたら?ふふふ……」
「そうだね……」
私がそう言うと指揮官は薄っすら笑って、手を握り返してきた。締め付けるほど強い力だった。
「指揮官、私はあなたを愛してますよ。これからも変わらずに、ずっと」
「私もだよ、Zas。この先もずっと……いつまでだって……」
いつまで私は“私”でいられるのだろう。私はいつまで彼女を安心させていられるだろう。私はそれを望んでいる。この人のことを愛そう。他の部分がどんなに変わろうとも、それさえ失わなければ私は“私”でいられるはず。
いつか、いつの日か、本当に終わりの日を迎えてしまった時は、誰か、私以外の誰かが、この人を救ってあげてください。