失なっていたもの。
隠していたもの。
取り戻したもの。
彼の存在が、心を解いてゆく。
未視聴の方は回避をお願い致します。
薄暗い空模様。
青空のパレットは煤けた灰色に染まり、朝の訪れは遠くから木霊する遠雷によって幕を開けた。ぴくりと、降ろされていた目蓋の微かな震えに全身が駆動する。意識の膨張が始まり、揃えて開いた両の眼が天井を捉える。
ベッド脇の窓枠から映り込んだ世界は、水滴に塗れて遠くを見渡すことは叶わない。がたがたと叩きつけてくる雨音が早く目覚めろと催促をしてきているように思えた。
それでも、眠気の誘惑に抗うには、この雨音すらも今は微睡みを呼ぶオルゴールの音色にも聴こえてきて、どうにも意識を覚醒させるのには不向きだった。下降し始めた目蓋に誘われるままに、既に起こしていた上半身がぐらりと傾いて枕元にダイブしてしまうのを止めることは叶わず。
───もう少しだけ、このまま。
「おい」
「ん……?」
「ん、じゃない。いつまで寝てるつもりだ」
まったく、とぼやいている誰かにがばっと毛布を剥ぎ取られ、横倒しにしていた全身が室内の風に晒される。暖かな温もりが消え去り、少しだけ肌寒さに襲われる不快感に意識がぶりかえす。
寄せられた眉根、目蓋を開いて文句を訴えるように瞳を向けた。
「まだ、朝の七時くらいだ」
「もう十時を回ってる! サバを読むな!」
モーニングコールにしては無礼無作法な言い回しに、いい加減眠気もどこかにすっ飛んで行ってしまう。目元を指で擦りながら上体を起こして、誰かさんの姿を目に宿す。
その誰かさんはといえば、朝から喧しげな口を閉じて先ほどまで自分を暖めてくれていた毛布を綺麗に丁寧に畳んでいた。
「……………………………………」
その姿に、思わず背中を向けた。
ベッドの上に無造作に転がっていたチーズくんを回収する必要があったのだ。
「───ん、どうした? C.C.」
「…………いや、別に」
そう、チーズくんを回収したかっただけ。
それだけのはずだ。
口元が少しだけ、いやかなり綻んでいるのを見られたくなかったからとか、そういった類の理由は一切無い。無いったら無い。
「朝食が冷める、顔を洗ってこい」
「ん」
こくりと頷き、ベッドから出る。そのまま部屋を出て行こうと足を踏み出して洗面台へ向かい、ふと、出入り口の前で足を止める。
背後を見遣れば、彼の後ろ姿。
毛布どころかベッドシーツまで回収し、整頓に従事しているその働きぶり。
ああ、だめだ。まただ。
こんな些細なことなのに、口元がやけにゆるくなっている。なんだか異様に胸が締めつけられて腕の中でおとなしくしているチーズくんをきつく抱きしめてしまう。
いつまでも見ているわけにはいかない。さっさと行かないと「さっさと行ってこい」と催促されそうだ。起きて早々に二回三回と小言を言われるのは勘弁願いたいと、止まっていた歩を進める。
けれど、頰の緩みだけは収まりそうもなかった。
二人で旅を始めてから、幾月。
世界に訪れた平穏は、今も何処かで軋みを上げているのだろう。一年の平和ももはや崩れ去り、大きな戦いの火種はきっと今も世の中の片隅で燻っている。
テレビから流れてくる情報の中には見覚えのある顔や仮面が流れ込み、今もこの世界を彩っている。その情報を伝播させる人物というのもこれまた見覚えのある女性なのだから、選択からなる誰かの将来というのはこれまたどうして面白い。
「相変わらずだな、会長は」
対面の席に座っている彼は、懐かしそうな表情で今も口頭で情報を伝えている女性を見つめている。……なんだろうか、別に他意はないのだろうが、いやむしろ自分自身も懐かしく思えるのだが、彼の口から聞くと無性になにかが体の内側で燻る。
「食事中の私語はマナー違反だぞ」
「お前にだけは言われたくない」
自分でもそう思う。
なにせまったく同じような会話を昨日は逆の立場で口にしていたのだから。
「うるさい、黙って食え」
「いきなりどうした、なにをイラついてる」
「イラついてない」
「イラついてる」
「イラついてない」
不毛な問答だ。
こんな馬鹿な会話をしているということがなんだかひどく面白く感じる自分はどうかしてしまったんだろうか。「なんなんだまったく」と呟いている彼の瞳は正面にいる自分を離れてテレビの中にいる彼女に向けられている。ニュースは次に切り替わり───。
《『ハシュベスの戸惑い』以降、その姿を公の場に見せられていなかったWHA、世界人道支援機関、ナナリー・ヴィ・ブリタニア様がブリタニア公国で行なわれる式典に参加するという公式の発表がありました》
その言葉にぴたりとフォークを持つ手が止まったのは、C.C.の予想通りだった。テーブル上に並べられた朝食に向けられていた視線が一瞬にしてテレビへと向けられ、彼女の耳に骨がクキッと鳴ったような音が届いたような気がするが、その音の出所である誰かさんはテレビに食いついている。
痛めたんじゃないのかと首の辺りを見つめているが、当人は画面に釘告げでこちらの視線には見向きもしない。
耳に馴染む透き通ったキャスターの声が情報を伝えてくる。悪逆皇帝の死から続いた平和を破り勃発した争いのあと、しばらく公の場に姿を見せなかったナナリーだが、本人は「大丈夫です」と言っても周りがそれを認めなかったのだろう。争いが起きてしまった以上、また次の事態を危惧しないことはありえない。一ヶ月後の式典に参加する旨が公式で発表されたということは、ようやく周りが重い腰を上げたということなのだろう。
ちらっと、自身もしっかりと確認していた画面から視線を移してみれば、誰かさんは口を閉じ、じっと画面を見つめているばかり。
しかし、その表情の中に悩ましげな色が見え隠れしているのを見過ごす彼女では無い。
……きっと、自分からは口にしないだろう。きっかけを作るぐらいはしよう。と、何事でもないように口を開く。
「一ヶ月後か、ここからそう遠くないな」
「………………マナー違反はどうした」
「知らんな、そんなもの」
ぱくりと、ベーコンを口にする。
添えらえているポテトサラダを次に頬張りながら、何気無しに言葉を待つ。気づけばナナリーのニュースは終わり、かちゃかちゃとテーブル上の音だけが室内にこもる。
「……………………C.C.」
「なんだ」
「その…………なんだ。少し遠出するか」
「ほお、いったいどこに」
「別にいいだろ、どこだって」
「よくない、ガソリンが無くなって、補給出来なかったら終わりだぞ」
マシンガン並みのトークで続けていけば、うぐっ……とジャムった様子の誰かさん。さてどう出るかと頭の中で次の一手を考えていれば、カタリと手の中のフォークを置き。
「一目見に行くだけだ。話すことは無いし、ましてや会うこともない」
「それでいいのか」
「ああ、言ったろ。俺は関わる必要のない人間だ。なんなら俺だけで行って────」
「私も行く」
「え?」
「私も行くと言った。いいな」
「お、おう」
馬鹿なことを言いだす前に区切りをつける。一人で行ったらいざという時何をするかわからん奴には監視が必要だ。決して置いていかれるのが嫌だったとかではなく。
大体、関わる必要のない人間だなどと言うくせにそこまでして行きたいというのだから矛盾も甚だしい。妹の様子が知りたいというのなら素直にそう言えばいいものを。
馬鹿なことを言いだす前にということだったが、既に馬鹿だった。やはりどこまで行ってもシスコンはシスコンなのだ。
「なんなら今から行くか?」
今から車を回せば一ヶ月後の式典には多少の余裕を持って着くことが出来るだろう。暇を持て余すことにもなりそうだが、まあ間に合わなくなるよりは良い。長旅になることには違いないのだし準備も必要。生憎の雨模様だが、運転するには問題なさそうだ。
「いや、今日はだめだ。明日にしよう」
「なぜだ。運転なら私が」
「いや、今日はだめだ。ぜったい」
「……?」
なぜだか幼げな否定を重ねられた。
いかにも胡散臭いが、まあそこまで言うのなら別にいい。拘る理由もないので特に追求するつもりもない。言葉からするにここを完全に発つということではないようだし、名残惜しむ気持ちを持つ必要もないだろう。
「食べよう、冷めるからな」
「お前の話が長いからだ」
「うるさい」
悪態を吐きつつ、揃って朝食を平らげる。
一応ではあるが、二人旅ということもあり作業日の分担を幾らか決めた。昨日はC.C.がやり、今日は彼が。なので朝食の皿洗いもやらずに済むので、遅めの朝食からこっちリビングの椅子に腰掛け、チーズくんと共にテレビ鑑賞に浸る。二人が住まいとしているこの地域は一帯が耕作地と化しており、必要な物資等は数キロ離れた町役場近くの店先で購入する他ない。
今日の当番は彼なので、それを見送る形にはなるのだが、本日は生憎の空模様。
「車を出すか?」
「いい、明日のこともあるからな」
土砂降りということでもないので、徒歩での買い物ということになる。今日も今日とてC.C.チェックが玄関口で執り行われる。
「いいか、しっかり顔は隠せよ。だがやり過ぎるな。ちょうどいいラインを見極めろ。ほら、キャップをもう少し深めに被れ」
「ええい、お前は母親か! 貸せ、自分で出来る」
「うるさい、いいからやらせろ」
社会経験の乏しい息子を送り出す母親のような言動を見せるC.C.であるが、鬱陶しがられたとしても譲る気は毛頭ない。これでも彼女なりの気遣いというか、心の表れなのだ。
「傘を忘れるなよ」
「当たり前だ! 俺をいくつだと思ってる!」
「ちゃんと買い物してくるんだぞ、坊や」
「行ってきます!」
律儀に挨拶をするところは育ちの良さとでも言えばいいのだろうか。傘をさして雨の中に消えていく背中を窓枠越しに見つめていれば、徐々に遠くぼやけていくその姿を視界に収めてから、溜め息を一つ漏らす。
正直不安が拭えないが、彼が言っている通り子供ではないのだ。彼の意識が戻ってくる前のあの大きな体の幼子であった時の後遺症とでも言えばいいのか、若干癖になってしまっているのだから始末に負えない。先ほどまでのようにチーズくんを抱えてテレビ鑑賞に戻るC.C.ではあるが、どうにも落ち着かない。
テレビの音と、雨音が耳に響く。テレビの音よりも雨音がやけに勘に触る。画面上の天気予報では夕方には止むと言っているが、ザーザーとノイズのように鼓膜を擽るそれが鬱陶しくて、チーズくんをぎゅっと抱きしめてしまう。言葉のいらない空間というのは穏やかすぎて、違和感の拭えない時間になってしまった。横を向いても後ろを向いても彼の姿は何処にも無い。
「……………………………………………………」
静かだ。
静かすぎて落ち着かない。
なんだか酷く肌寒い。
彼が居ない家は静かすぎて。
彼が居ない家は冷たすぎて。
温もりがほしくてチーズくんを頼るけれど、腹部だけに灯る温もりが、それ以外の部分の肌寒さを際立たせる。
自然に動いていた指がテレビを消してしまう。窓硝子を打つ音が心を掻き毟る。雨音なのに、なんだか体の内側から響いてくるようで、騒つきだした神経に思わず立ち上がってしまった。
玄関口に行き、理由も無く傘を確認する。
温もりを欲しいくせにチーズくんを自分のベッドにぽすんと放り投げ、理由もなく着替える。車のキーは必要ない。ただなんとなく軽食が食べたいと思っただけで、でも家に用意してあるものじゃないと思って。
気がつけば家を出て、傘をさして、雨に塗れほとんど舗装もされていない砂利と泥道を進んでいく。郊外に広がる森は降り頻る雨に濡れて、樹々の香りが鼻腔に挟まる。
こうして歩いていると、なにかが満たされていく。体の中で暴れていた何かが一歩進むたびに落ち着きを取り戻していくようで、傘に当たる雨音に続いて、らしくもなくステップをしてしまいそうになるほどに。
この雨となると流石に農作業に励んでいる顔馴染みも今日は見当たらない。泥濘んでいた足元で少しだけ転けそうになった時は流石に焦ったが、それ以降は特に何事もなく誰かさんの元へと着実に近付いている。
そうしていれば、人々の暮らしを思わせる建築物が視界内に入り込んでくる。物資調達の為の店は決まっているので、そこに向けて歩みを進める。小さな町だが人口はかなり多い方だろう、通り過ぎる何人かの人間、特に男共によく声をかけられる。
妙齢の人間が少ないわけではないが、この町一番の別嬪と太鼓判を推されれば悪い気はしない。手を挙げて軽く挨拶を交わしていれば、目的の店が見えてくる。
少しだけ足が弾んでしまいそうで、それがなんだか負けた気分になりそうで必死に抑えてしまう。そんなよく分からない勝敗に心を悩ませていれば────。
見覚えのある顔があった。変装などしていない、ありのままの彼がそこにいた。
思わず立ち止まってしまったのは言うまでもない。しかもなんだ、その服は。どう見てもさっき家を出て行く時に着ていた彼の服では無い。どこか女らしいというか。
まるでコーディネートされたようなその格好はいったいなんだ。足が近くにある建物に迫り、影に隠れるようにそこに挟まる。
その位置ならばよく彼の姿が見えた。
けれど、どうして自分がそんなことをしているのか彼女自身がよく分かっていない。
なんだか、とても、すごく、隠れたい気分だったのだ。そしてそれで正解だった。
誰だあれは。
隣にいるその女は誰だ。
やたらに仲良さげに振舞っているが。
どうしてそんな普通に素顔を見せている。
そいつに差し出した手はどんな意味が。
「──────────────っ、」
なんだ、これ────。
どうしようもなく、わからないけど。
どうしても、何かが湧いた。
永遠の中で、久しく持っていなかった何かが唐突に湧いて出て息が乱れる。
「…………なんなんだ、まったく」
わからないけれど、これ以上、あれを見たくないという感情だけを把握した。それに素直に従って来た道を戻ることにもなんの抵抗も持てなかった。酷く嫌な気分だ。
別に、あいつが誰と仲良くしようが。
しようが────、あれ?
なんだろうか、でも。
お人好しな誰かさんのことだからと、割り切ることだってできるのだ。
────割り切る? なにと?
なにかを持て余して、持て余して。
空腹を感じていたはずの体はなにも受け入れられそうになかった。今だけはなにも必要にしたくなくて、必死に道を戻る。
その度に安心するようで、その度に不安になりそうで、今すぐ会いに行けと体が訴えているようで、その意識を振り払うように足を前に運び出す。
傘を持つ手が重たくて鬱陶しい。
いっそ捨ててしまいたいけれど、でも捨ててしまったらもう取り戻せそうになくて。
もう何もかもが嫌で、傘の先端がコツンと何かに当たるのを感じて、自分が家に帰ってしまっていることに気が付いた。
足元はどろどろで薄汚れて。
服は雨で濡れて。
でも今はそんなものを拭く気分にもならなくて、傘を玄関口に放置して汚れたままの足で自分の部屋のベッドに飛び込んだ。
手に触れているチーズくんを、思い切り抱きしめた。寒くて寒くて、寒いのになにもしたくなくて。
持て余してるのに、欠けていて。
欠けているのに、持て余している。
何かで補いたくて、チーズくんを抱きしめても、なにも埋まらない。暖かくもない。
どれくらいそうしていたのだろうか、あれだけ気に障った雨の音ですら今はもうどうでもよかった。けれど、ドアが開いた音と、「ただいま」という声はやけに耳に響いた。
足音が近づいてくる。段々と近付いてくるその音が部屋の前に来ても、微塵も動く気になれずにいた。
「……C.C.?」
彼の声がする。
でも、今はそれが痛い。
痛くて痛くて今だけは聞きたくなかった。
「…………どうかしたのか?」
「……………………なにがだ」
いつまでも黙っておくと、面倒臭いことになるということは付き合いで分かっている。だから少しだけ返事を口にすることにした。
「なにがって、お前なぁ……」
「────────」
耳を塞ぐように腕に抱いていたチーズくんで栓をする。うるさい、黙れ。そう言ってやりたかったけど、そんなことすらもなんだか今は言いたくなかった。そんなことを口にしてしまえば、彼がどこかに行ってしまいそうで、それが先ほどのあの光景を連想させた。
ぼすんと、かすかな振動。
彼がベッドに腰を下ろしたのだと察したが、顔を向ける気にもならない。今度は何を言うつもりだと少しだけ構えてしまう。
ごろんと転がって、聞きたくありませんと背中を向ける。さあなんでも言ってこいと思えば思うほどに、すぐそこにいる彼からは何の言葉も帰ってこない。それが逆に彼女の不安を煽る。
顔を見てみようかとチーズくんを少しだけ離してみようと手を動かせば。
「───────どうして、一人で帰った」
その言葉にどきりと鼓動が跳ねた。
それを勘付かれたくなくて、必死に今の状態を維持する。
「道中で散々言われたぞ。「嫁が泣いてた」だの「浮気するな」だの」
「泣いてない!」
即座に否定する。
「ほう、ではどうして引き返したんだ」
「───っ、それはっ──」
言い淀む。
どうしてなのかなんて、自分でも分からないのに、なにを答えればいい。だから少し見苦しいかもしれないけれど。
「お前こそ、なんだその服は」
明らかに出て行った時とは違う。
それを問えば、僅かな沈黙のあとに────。
「…………………滑って転んだ」
「…………は?」
「だから、滑って転んだんだ。それでその、彼女に助けられて」
「彼女、だと?」
その言い回しそのものが既に腹が立つ。
よく分からないが彼女というのを止めろ。
と言いたいけど、言葉に出来ない。
「泥道で足元が泥濘んでいたからな、不意を突かれた形だ」
「ただドジなだけだろ」
「うるさい! それでちょうど通りがかった彼女に救われてシャワーと服を借りただけだ。もちろんちゃんとあとで服は返すし、御礼もするつもりでいる。安心しろ」
なんだろうか。
聞けば聞くほどに、心の中にあるささくれが余計に痛みを増して襲いかかる。彼女だのシャワーだのと、それはつまり家を訪ねたということだろう。挙句に服を借りただのと。よくそんなことを口にできるな。
安心しろ?
いったい何にだ。発言の節々に安心出来る要素など微塵も無い。むしろ抑えていたものに薪をくべられた気分で、沸騰して漏れ出す寸前まで来ている。
こいつ、ほんとは私を怒らせたいだけなんじゃないのかと疑ってみたくなる。
こいつは人をイラつかせる天才か。
「随分仲が良いんだな」
「いや、今日初めて言葉を交わした人だぞ」
あっさりとそう言ってくれる。
こいつは、ほんっっとに───!
「こっの、女ったらしっ!!」
「───ぶっ!」
投擲したチーズくんは見事に女たらしの顔面にヒットした。汚れた足でベッドに上がるとかもうそんなことはどうでもよくて。
「お前は家に居ないし、なんとなく会いにいってみれば知らない女と喋って、シャワーだの服だのって、しかも素顔を晒して!」
「あれはっ、その……」
「言い訳なんて聞くか、浮気者!」
「なっ、う、浮っ!? いいっ、いきなりなんだ!? お前まで!」
「うるさい! あんなもの見せてきて、私がどんな気持ちだったか!」
あれ、なにを言ってるんだろう。
でも、もう止まりそうにない。
だって、だって、だって。
「私以外のやつに! あんな、風にっ───」
───笑うな、なんて。
そんな、まるで、私が。
───嫉妬、してるみたいに。
「────あれ?」
頰に伝うそれに、意識が割かれる。
どうして泣いているのかなんて分からないくらいに、頭の中がぐちゃぐちゃで。
こんな風に泣いて。
ほかの女に嫉妬して。
まるで普通の女みたいな。
こんなこと、してるなんて。
「お前のせいだっ、ばかっ……」
全部全部、お前のせいだ。
ズキズキと心が悲鳴を上げている。
まるで裂かれたように傷口が痛む。
その傷口から湧き上がった感情に名前をつけるなら、きっと、いや、これは間違いなく嫉妬だろう。ほかの誰かとあんな風にしているだけでこんなにもみっともなくなってしまうなんて。こんな、生娘みたいに。
「…………すまん」
「………………それだけか」
「こんな時に思いつくか」
「口八丁は得意だろう」
「ここで使うかっ。お前の前で」
「…………なんで私の前では使わないんだ」
「…………お前だからだ」
「理由を述べろ」
「ええい! 消沈しているのか、復活したのかはっきりしろ!」
はっきりと述べて欲しい。
けれど。
────お前だからだ。
その言葉を聞いただけで、少しだけ胸の中にあった靄が晴れ、満たされてしまうのだから、自分も自分で相当だなと呆れてしまう。
「とにかく、お前もお前でシャワーを浴びてこい! ベッドも汚れてるだろ」
「じゃあ、理由は後で聞くからな」
「しつこいぞ!」
軽口を叩くくらいには回復した。バタバタと部屋を出て行く彼の背中に欠けていたものが満たされていく。その後ろ姿から微かに見えた彼の耳が赤く熟れていたことに気付いて、余計に口元が綻んでしまう。弾丸となったあと、ベッド脇に転がってしまっていたチーズくんを回収し、なんとなく力強く抱きしめてしまう有様である。
さて、とにかくシャワーを浴びてスッキリしよう。わずかに残ったこのモヤモヤと一緒に洗い流せたらさぞ良いのだが、それは彼が語る理由次第ということにして、C.C.は颯爽とシャワーへ向かうのだった。
ーーー十ーーー
「出掛けるぞ」
シャワー後、C.C.の言葉を頑なに回避し続ける彼の言葉は夕食を食べて優雅にティータイムと繰り出している頃合いだった。
陽は既に降りきって、辺りは静寂に包まれ、雨音は遠くに過ぎ去っている。日中に色々あってからとりあえず彼が夕食後の片付けに勤しんでいる姿を目に収めながらだったので、意外な言葉に不意をつかれた。
「何処にだ」
「行けば分かる」
短い会話だったが、特に異論は無い。
おとなしく指示に従って、出掛ける準備をする。とは言っても別段なにかを用意するわけでもなく、普通に玄関口で待っていれば、片付けを終えた彼が来て、共に家外へ出る。
この辺りは街灯もろくになく、周囲は静けさと暗闇に沈みきっているが、雨が上がり晴れた夜空に浮かび上がる月光が世界を淡く照らし出し、慣れてくれば夜目もきくようになってくる。
一帯に広がる田畑から少し離れ、森の入り口から、そのまま樹々が一層に闇を膨らませている森中へと足を運んだ。
草木もそうだが地面を這う根の部分が足元を覚束無い程度に阻害してくる。加えてこの闇の中では危険な事に変わりはない。そう思っていれば、触れた温もりが手をギュッと掴んで離さない。
「危ないぞ」
「あ、ああ」
不覚にもドキリと弾む心拍に意識を向ける前に結んでいる手が足を前に引っ張る。こちらが一方的にこんな気持ちになっているようで、それが癪に感じて足早に進めた歩で彼の隣を歩いて行く。
夜の森の中を手を繋いで歩き、十分ほどが経った頃だろうか。視界の中で森が開け、森が隠していた場所が大きく広がっている。拓けた平地は幾らか隆起しているようであり、ちょうどその頂上といえる場所に着くと、横にいた彼の足がぴたりと止まる。
「ここか?」
「ああ、ここでいいだろう」
辺りには何もない。
自分たちを囲むように森が広がっている。
「C.C.、上を見ろ」
既に空を見上げていた彼の言葉に促されるように、空を見上げてみる。
そこには────。
「今日が一番綺麗に見える日だったからな」
その言葉通り、夜空には満天の星。
光の粒がきらきらと瞬いて。
その煌めきが暗闇を彩っている。
僅かに点滅を繰り返すような光の動きは、まるで鼓動のような生を思わせた。
それは間違いなく、初めて見た輝きだ。
永遠の命で流れる世界で。
記憶に焼きつくように、煌光が夜空と彼女のなにかを照らし出す。
「────C.C.」
「ん、なん───」
だ、と。
そう、───唇を閉ざされた。
息が止まる。触れた温もりが。
今も触れる暖かさだけが、彼女を灯す。
目蓋が降りる。
間近に宿る彼の顔を見ているのも良かったが、この熱だけを感じたくて。
雨で濡れた冷たさも。
あの時、感じた胸の痛みも。
全てがこの時のためにあったようで。
だから、もう少しだけ。あと少し。
ずっとずっと、このままでもいいくらい。
心の奥底でずっと凍っていたものが唇を通して溶かされていくようだ。そこから溢れ出すモノはもう止められなくて。みっともなくてどうしようもない独占欲。
孤独でいたはずなのに。
いつからか半身を分け合うように、痛みや苦悩を共有するように、彼が隣にいた。
失うことに耐えられなくて。
一緒にいなくてもいい。
せめて生きていてほしい。
この空の下で生きていてくれればと思う反面、「隣にいてほしい」と。
喉奥につっかえて言葉にできない気持ちが膨れ上がって、でもどうしても口には出来そうになくて。
待っているだけでいた。
孤独に慣れたフリをして。
大切だから遠ざけて。
痛みも何もかもを誤魔化そうとして。
それなのに────。
差し伸べることすら出来ない臆病な手を取ってくれたら。
名を呼んでくれたら。
自分と共に行く道を選んでくれたら。
────もう、何も我慢しなくていいんだと、そんな感覚に陥ってしまう。
────堕ちてしまう。
やっと、やっと見つけたんだ。
この熱を誰にも奪われたくはない。
繋いだ手を誰にも取られたくない。
誰にも譲ってやるものか。
この愛も、心も、痛みも、私のものだ。
「………………初めてだな」
俺からしたのは───。
その言葉に笑みが漏れた。
そういえばそうかもしれない。
「こういうことだ」
「なんの話だ?」
「理由理由と言っていただろ。返答だ」
「答えになってない」
「わかれ」
「わからん」
「わかれ」
「わからん」
「わかれ」
「じゃあもう一回しろ」
「わか──、え?」
「ん」
ご丁寧に目蓋を下ろし、口づけを待つ。
時間にして数秒の間。
再び寄り添う熱が心を梳かす。
腕に触れてくる彼の指の熱すら愛おしい。
首元に回した腕から感じる彼の体温。
抱きしめられ、髪を梳く彼の指の熱が頭を溶かす。熱すぎて、おかしくなりそうで、熱を分け与えようとして首元に回した自身の両腕も、唇も重く押し付ける。
離れがたくて、離れゆく一瞬に今度は彼の唇に淡く触れてみせた。
「わかったか…………?」
「…………まだまだだな」
「わがままだな」
「知ってるくせに」
「だな」
今度は彼女から。
彼の熱を奪うように口づける。
奪って奪われて。
けれど誰にも奪わせない。
妹にも、親友にも。
奪っていいのは、私だけだ。
満天の夜空。
瞬きが増して空に浮く。
彼女が無くしていたものがふわりと浮かび上がるように、心が求めるままに。
まるで彼女の心そのものだ。
孤独に沈んだ闇が、いつしか星の光に満ちるように、夜空と心を埋め尽くしていく。
「なあ、────」
名を呼ぶ。
名を呼ばれる。
互いの名を。
互いだけが知っている、本当の名を。
「私のベッド、汚れたままだろ」
「自分で汚しておいてよく言えるな」
「今日はお前のベッドで寝る」
「俺はどこで寝るんだ、まさか床か」
「まさか───、」
微笑みを一つ、男に向ける。
まるで魔女のような妖しい魔性の笑み。わがままな女は、求めるままに男の唇を奪ってみせた。
/1
いつも、唐突にのしかかるのだ。
真実に気づいたとしても、それは世界の在り方を決めるには正しすぎて、残酷すぎて。
最愛の兄だと口にするには、世界がそれを許してはくれなかった。そんな世界を築いたのは紛れもなく兄自身だというのだから、それを己の罪と受け入れることも、ある程度は覚悟していることだ。
───しかし、不意に訪れる痛みだけはどうしても拭えないもので。
『悪逆の限りを尽くし、妹すらも手にかけようとした災厄のブリタニア皇帝』
誰もが同情を向けてくる。
あの日、あの場所で。
死を待つだけであった自分は英雄によって助け出され、そして悪は討ち取られた。
それがたとえ兄であっても。
全ては最後の皇帝が導いた世界で。
真実を語るには世界は優しすぎた。
夢物語にしてはあまりにも残酷すぎた。
兄が守ろうとしたもの。
兄が壊そうとしたもの。
兄が創ろうとしたもの。
それを守るためならばと、この身を世界のために捧げようとすればするほどに、その度に多くの人々の口から溢れ出した兄への言葉が、その笑顔の仮面を剥ぎ取ろうとしてくる。相槌を求められるごとに心が軋み、悲鳴を上げていく。その罵倒も暴言すらもとても正しいものなのだ。
それが正しいものになっているこの世界で、この心は着実に傷を増していく。被る仮面が日に日に増していく。世界が求めている悪逆皇帝に対する言葉を自身の口から吐き出せば吐き出すほどに、震えそうになる声音を必死に抑える。
────違います。
────撤回してください。
それを口にすることなど、出来るはずもなく。
兄の夢の先にあった現実は何処までも自分には厳しすぎて。
────多くの命を奪ったのは、自分も同じだというのに。
この命を絶てば、兄に会えるだろうか。
それがたとえ地獄だとしても。
けれどそれはきっと逃避だ。
そんな自分を兄はきっと赦さない。
けれど、そんな風に自分を叱ってくれるのならば、それでもいい。嫌われてもいい。
一度だけ、たった一度だけでもいい。
『もう一度、お兄様に────』
ーーー十ーーー
「ナナリー?」
「えっ?」
意識の外からの声に、肩が上下に揺れる。
横に立つナイトからの声に目を向ける。
「大丈夫? 疲れてるなら、一度」
「いいえ、大丈夫ですよ。行きましょうカレンさん」
そう言葉を紡げばカレンは少しだけ不安げな顔を見せながらも脇に控えるように身を引いていく。
誘拐事件から日が経過した現在もナナリーの警備体制は強化されたまま一向に解除される様子は無い。
超合集国の首席補佐官である兄からも「しばらくは窮屈だろうけど我慢してね」と言われているだけに、それを無下にできるはずもなく。
本日の予定であった慰問に関する報告会に関しても自身は行っていないにも関わらず出席を促される辺り、一応、復帰の目処は立っているのであろうと信じたいところだ。
追加補充として、救出作戦でも戦果を挙げた黒の騎士団所属の紅月カレンら、数名の人材が派遣されている現在、事実上は自身に監視が付いているような状態である。
最もそれが知己であるのなら幾らかは精神的にも余裕が生まれるのでありがたいことではあるが。
「カレンさん、ゼロは?」
「今回はあいつは機体の方で待機してる。誰かがすぐにナイトメアで動くならやっぱりあいつが一番だしね」
「でも、カレンさんもそうですよね」
ゼロもそうではあるが、カレンもいくつもの戦場を生き延びてきた精鋭だ。
「まあね。まあ譲ってあげたってことで」
いつものように、立場の上で固くならず、笑顔で応えてくれるカレンにくすりと微笑んでしまう。学園の時からの知り合いというだけで安心してしまって、こうしていると連絡は取っているがなかなか会う機会のない生徒会の皆にも会いたくなってしまうものだ。
世界中を巡る仕事でもあるので自由な時間というのは限られているし、あの騒動があったことで皆が過敏になっている。無理もない。続いていた平穏が破られたことで世界全体に緊張感が生まれ始めていることも否定は出来ない。
次はいつだと考えて始めている文官達も多いと聞き、ナイトメアを操る人間達にしてみれば生半可な平和は能力の減退に繋がる可能性もあるのだ。カレンに関しても予備役扱いだったが最近は大学を休み、こうして騎士団の役目に準じているのだから。
ゼロもそうだ。誘拐事件ではゼロは自身の救出のために隠密で行動し、コーネリア中将と共に作戦成功に導いたということになっている。しかしナナリーを攫われてしまったという段階で失点をしたという意見は若干名ではあるが存在している。
それを補うために必死にそれを取り戻そうとしていることは明白だろう。休めているのかと不安ではあるが、それを言ったところでゼロが、彼が休むとは思えなかった。
永らく見ていなかったその仮面の下の素顔を、この前久しぶりに目にしたが、以前とあまり変わりないようで、けれどどこか大人びて見えた。
ほんの僅かな時間、学園で過ごしていた時には見せなかった表情を。
けれど兄と話をしていたあの時は、本当に彼のままだった。私と兄が大好きなあの人のままでそこにいた。きっとその仮面の下にある本音を引き出せるのは、兄ただ一人なのだろうと思ってしまう。
「ナナリー、あいつのこと考えてるでしょ」
「え、あいつって」
「あいつよ、行っちゃったあいつ」
遠くを見るようなカレンの瞳に、それが兄であることを悟る。そう、行ってしまった、どこか遠くに行ってしまったあの人。
「きっと、C.C.さんと仲良くやっています」
「だといんだけどね。ほらあの二人って結構さ、不器用っていうか、ね?」
少しだけ同意して頷いてしまう。
カレンの言いようについつい笑みを浮かべてしまったことを許してほしい。
「きっと、大丈夫です。お二人なら」
そう言って、窓から射し込んだ陽光に目を向ける。広がっている青空は何処までも遠くて、何処までも広すぎて。自分なんかでは到底辿り着けない場所にいるのだろうと想いを馳せる。
でもそれでいい。
兄が選んだ道。
自分が選んだ道。
もう交わらないとしても、それでもこの空の下で、何処かで生きている。
───そう、生きているのだ。
それだけでなにかが救われた気がする。
本当はそれはいけないことだ。
自分も同じようにたくさんの人の命をその指で奪っているというのに、自分だけが救われてしまうなんて、罪深い。
でも今はもう、それすらも愛おしい。
この罪は一生消えず、背負うものだ。
それでも、兄が生きている。
もう一度あの瞳で、あの声で。
名を呼んでくれた。
言葉を交わすことができた。
もう一度、会えた。
「お兄様」
空に向かって声を投げる。
強く吹いた風に乗って、あの人の元へと飛んでいってくれたらと願うように。
風が運ぶものがどうか、少しでもあの人の心に届くことを信じて。
ーーー十ーーー
ブリタニア公国で行なわれる超合集国を中心とした各国の要人が集まり、今後の信仰を決する会議という程ではあるが、要はこの前の事件で乱れた世の中の雰囲気を払拭するために催される公式的な交流の場であるという部分が前提であり、報道に対する規制は柔らかくされ、まだ世界は平和を享受していることを民衆に確認させる行事である。
ナナリーの名誉顧問としての活動復帰に関しても、この場では復帰祝いという位置付けもあるので、世界中の報道陣に元気な姿を見せるうってつけの機会でもあったのだ。
久しぶりに見る兄や姉、キャスターとして、その付き添いとして訪れている学園以来の知り合いの方々。報道陣の前でこれからの意気込みなど質疑応答に応え、少しだけ休憩を取る時間を与えられた。
一般人の立ち入れない規制エリア、傍らに立つはただ一人。世界の救世主、英雄。
仮面を付け、漆黒の外套を纏うゼロ。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます、ゼロ」
二人の姿は庭園にあった。噴水を囲んで咲き誇る花の中心で、二人は止まる。
今までが騒がしいところにいたせいか、この場所は驚くほどに静かだ。静かすぎてむしろ不安になるほどだが、今感じている不安はそこではない。
「スザクさん」
口から出た言葉はそれだけ。
その言葉を耳にした瞬間、後ろに控えるように歩いていたゼロの放つ雰囲気が変わったことに気付いたが、それでも。
「わかっています。あなたが今はもうその名を欲していないことも。それでも今だけ、今だけはどうかお許しください」
ゼロからの返答はない。ただじっと、ナナリーの言葉を受け止めている。車椅子ごと身体を動かし、英雄と正面から向き合う。
仮面に隠れたその顔に浮かべている表情を読み取ることはできない。だからこそ告げる言葉だけははっきりと明確に伝えたい。
「ありがとうございます。お兄様に力を貸してくれて」
ユーフェミアのことを知らないはずが無い。その顛末は幾らか聞いている。それが兄との関係に決定的な亀裂を生んだことも。
それでも最後は兄と共に手を組んだ。
世界の明日のため。
たとえその代償に枢木スザクとしての全てを捨てることになったとしても。兄をその手にかけることになっても。そしてその全部を引っくるめて、伝えたい言葉がある。
「助けてくれてありがとう。スザクさん」
浮かぶのは微笑みだ。
もう色んなものが変わってしまったけれど、枢木スザクとしての彼はもういないのかもしれないけれど、それでも伝えたい。
「スザクさんも、無事で良かった」
居なくなることの恐怖は誰にでもある。
もしかしたら明日、何か良くないことがあって誰かが居なくなるかもしれない。
そんな不安と戦いながら、誰しもが明日のために今を生きている。だから伝えられることは伝えるべきなのだ。もう二度と後悔したくないのなら。
「………………ありがとう、ナナリー」
たった一言、それは紛れもなく英雄ではなく、枢木スザクとしての言葉だった。
それだけで何かが解けていく。
ずっとずっと、あの日から、世界の終わりからずっと、あの人の血に塗れた時から。二人の間に突き立っていた何かが優しく崩れていく。
そうしてスザクと呼ばれた青年はゼロに戻る。
過去は覆らずともそこにある。
いつだって仮面の下に。
二人の姿は庭園を離れ、今回の行事のためにナナリーに用意された私室の前に来ている。ゼロに待っていてくださいと一声をかけてからナナリーは部屋に入っていく。
部屋は薄暗く誰もいない。
自動でついた照明が室内を照らす。
救出作戦の功で、今回の式典に参加している姉のコーネリアのためにとペンダントを購入し、保管しておいたのだ。このあと会う約束を取り付けてあるからと、ここに目当てのものを取りに来た次第であるのだが。
「────────あら?」
引き出しに入れておいた藍色の長方形のケースの横に見慣れない小さな淡い桃色の箱がひとつ置かれている。ここにSPが付いていれば、危険物の可能性を考慮するだろう。けれど、今のナナリーにはそんな考えは微塵も湧かなかった。
なぜかうるさくなってしまった鼓動が、早く手に取れと急かしてくる。身体の突き動かすままに箱を手に取り、蓋を開ける。
中に入っているのはロケットだ。
中央を四つ葉のクローバーがピンクの宝石で形取られ、キラキラと煌めき、それぞれの葉がハートの模様を描いている、見覚えのないロケットだった。
手に取ってみれば────。
「────────あ」
意味もなく涙が溢れた。
拭う気にもなれなくて、両手でそのロケットを抱きしめる。たしかに感じたのだ。
どこか懐かしくて。
どこか新しいなにかを。
たしかに繋がっている。
この世界でもたしかに繋がっている。
また会えるかもわからないけれど。
それでも絆はここにある。
「ずるいです、お兄様」
こんな罪深い自分に。
「やっぱり私はもらってばかりで」
それでもどうしようもなく嬉しくて。
悲しくもないのに、涙が溢れる。
せめてなにかを返したいのに。
けれど、会えないと何も出来なくて。
だから────。
「何度でも、会いたくなってしまいます」
一度きりなんて耐えられない。
お兄様と呼んで、ナナリーと名を呼んでほしい。あの笑顔を見せてほしい。
「お兄様はやっぱりひどい人です」
でも、大好きで大好きで────。
「────愛しています、お兄様」
何度でも、愛を伝えよう。
いつかまた、巡り会う時を夢見て。
/0
罪を背負うとは、孤独を纏うことだ。
この広い世界で、この孤独を味わうことを覚悟していなかったわけじゃない。
けれど君のいない世界はどこまでも広すぎて、遠すぎて。僕は一人取り残された気分になった。ナナリーのことも、皆のことも、すべてを欺いてきた僕たちには当然の報いとでも言えばいいのかな。
でも、あの時君がいるのを見た瞬間、居なくなったはずの君がそこにいて。その顔も声も眩しすぎて。君を刺した感触を僕は今も覚えている。この手で奪った君の命を。
だから余計に許せなかった。
何度も何度も殴って殴って。
どれだけ僕が、皆が。
あの日、あの時のことを。
時間は未来に進んだけれど、君という過去が僕らを縛った。それを罪と言うのなら受け入れるしかないだろう。
けれど生きている姿を見せられたら、今までの自分がまるで馬鹿みたいじゃないか。
でも、どうしようもなく嬉しくて。
君が戻ってきて、軽くなったんだ。
────ああ、僕は
君が生きている、それだけで。
仮面がひとつだけ取れた気がした。
ひどいことを言ってしまえば、あの時存分に殴ったおかげかもしれない。
────ねえ、ルルーシュ。
君は今どこにいるんだい。
またナナリーを泣かせたね。
式典だっていうのに、妹の晴れ舞台だっていうのに、目元が真っ赤になっちゃって、メイクも落ちてしまって、てんやわんやだったんだよ?
まったく君ってやつはほんとに。
C.C.が苦労する未来が見えるよ。
一回ナナリーに頰を引っ叩かれでもしたら幾らか反省するんじゃないかな。
だからさ、ルルーシュ。
また、いつか。
生きているかぎり、また────。