昼過ぎということもあり、海軍本部内は静寂に包まれていた。
誰の声も聞こえず、息が詰まりそうな厳かな雰囲気の中、数ある廊下の上を二人分の足音が響く。
しかも、そんな静寂を切り裂くように頓狂な声が上がる。
「へ·····? 厨房にガープさんがいらっしゃるんですか?」
デッキブラシを肩から下げ、お下げ頭を背の上で揺らしているその少女───メルは、隣で歩いている海兵へと顔を上げる。
いつものように執務室で煎餅を食べながら仕事をサボっているものだとばかりに思っていた人物が、意外な場所にいると聞かされメルの目が点になっていた。
そんなメルの心境を凄く分かるよと肯定しているのは、海軍本部の玄関口に駐在しているあの礼儀正しい海兵である。
「そうなんですよ。何でも、おツルさんが急にストレス発散で料理を作りたいと言い出しまして·····それで、折角だったら、野郎一人暮らしで碌にひよっこ達も料理を作れないだろうから、料理教室でも開くかって流れになって、それからガープさんもそこに参加される運びになったみたいです」
元帥であるセンゴク、英雄と誉高きガープ、そんな彼等と同じ世代であるツルが、ストレス発散ついでにと開催したらしい料理教室にメルが顎を落とすのも無理のない話であった。
───海軍って、そんなホワイト会社だったっけ·····? いや、公務員職なんだからホワイティーなのは違いないけども。じゃなくって、お料理教室とか開いちゃうようなとこだっけ?
海軍は“政府直属の治安維持組織”とか言う、長ったらしくも堅苦しい肩書きを持っていることからも推測出来るように、世界の均衡を保っている言わば核の一つ。
そのため上層部の顔面は、泣く子も見れば更に泣き喚くことになるだろう強面っぷり。
しかも、上層部はすべからく脳筋であるとも言えそうな性根のものばかりで、そんな中に、時々謀略系という品揃えっぷりだ。
常に血と硝煙の匂いを纏っていると言っても過言じゃない物騒海軍が、何をどうとち狂ったのか開催した料理教室。
メルの嫌な予感レーダーが警戒音を発している。
彼女が怪しくなってきた雲行きに目を細めたとしても全く可笑しくもない話で、それ程に『海軍』と『料理教室』の組み合わせは未知数過ぎる。
果たして、このまま大人しく、日頃からお世話になっている海兵についていっても良いものかとメルが思案し始めたところで、残念ながらタイムリミットを迎える。
「此方が、厨房になります」
五メートルは確実にありそうな、縦にも横にもデカいその観音扉はステンレス製だ。
海軍には巨人族も何人かいるが、彼等のための大きさにしては些か小さいようにも思えるため、これは規格外に成長してしまった人間用なのだろう。
この世界の人間の身長は、平均的にも一メートル八十センチ以上と言われている。
それに、二メートル近くまで背のある女性も存在するため、この世界では巨人族云々の前にそもそも人間自体が規格外の背の高さを持っているのだ。
そうなると、少し大きめにと作られる扉も大抵この高さになるようであった。
「ちょっと、待ってください」とメルが制止の声を掛けるよりも、早くに開かれたステンレスの扉の隙間から電気の光が差し込む。
そして、その扉の先から現れたのは───やはり、メルの嫌な予感通りのものそのもので。
「フンンッ! おツルちゃん、わしもなかなかやるじゃろ?」
「そうだねェ。力馬鹿の為せる技と言うべきか、アンタにはピッタリの仕事だったみたいだ·····ホラ、ひよっこ共は火の粉や煤が掛からないようにクッキーを避けてくれるかい?」
「はいはい、おツルさんには本当に敵わねェよ·····アンタも、いつまでも落ち込んでないで避けるの手伝ってくれよ」
「·····この力は、料理をするためにありゃせんのじゃ。ほうじゃ、この力はゴミ屑共を屠る為のものじゃけェ·····。じゃけん、高々パイ一つ·····」
「しっかりせんか、サカズキ。パイ一つ上手く焼けんかったくらいで落ち込むな」
一言で言い表すのであれば、そこは正に地獄絵図。
年季の入った竈の前でパタパタと団扇を仰ぐガープとその隣で腕を組む老婆の姿があると思えば。
彼等から少し離れたところにある作業台の上に置かれているクッキーの盛られた皿達を、竈から遠くの場所へと移動させる天パの背の高い男も目に入る。
そして、そんな天パ男のすぐ近くにある別の作業台に両手をついて何やら意気消沈中であるサカズキと、彼をうんざりとした顔で宥めている丸眼鏡をかけた男の光景が次いで視界に入ってきて、これらが情報量過多気味にメルに迫ってきた。
メルの顔がパッと明るくなったかと思えば、瞬時に顔面蒼白になる。見事な百面相っぷりだ。
しかし、それも仕方が無いことと一蹴しても良い事柄だろう。
何故なら───此処には、メルに曰くのある人物しか居ないのだ。
先ず、本来の目的でもある金蔓のガープに出会えたことは、メルにとっては嬉しい出来事だ。どうして竈の前で火と向かい合っているのかは兎も角、彼との再会をメルは素直に喜べる。
そして、その隣でガープにあれこれと火の加減を指示しているツルもメルは何度か顔を合わせたことがあり、彼女が気のいいガープの同僚だと分かっているから良い。
あの丸眼鏡をかけた男もガープと女性の同僚であり、メルは何度か彼の相棒であるヤギを触らせてもらったことがあるから好感しか持っていない。
そう、詰まり問題は残りの二人───トラウマ共であった。
作業台で気落ちしているサカズキに会うものも遠慮したいことであるのに、更にそんなメルに追い討ちかけるように出現した天パ男。
しかも、メルの到着に真っ先に気付いたのも、クッキーが盛られた皿を抱えたままのこの男であった。
「あら〜、メルちゃんじゃないの〜。久しぶりだな」
メルの心に刻まれた三年前のトラウマが疼く。
体の下半身を氷漬けにされた挙句に、鋭いアイスサーベルで顔の横を突かれたあの一瞬を思い出して───。
メルは海兵の後ろへと忍者の如く素早い動きで移動して、彼女に何故盾代わりにされているのか分からず戸惑う彼のことをスルーしたまま、ひょこりと彼の背後から顔だけを出す。
そんなメルの相棒であるデッキブラシがブラシの部分を最高潮に毛羽立たせて、ザワザワと蠢かせていた。完全にメルの恐怖心と警戒心がデッキブラシにまで伝播している。
フーフーと目を光らせて、天パ男とサカズキを見比べるメルのその姿は完全に天敵を前にした猫のようである。
ジジィですら、此処まで猫らしい反応はしない。
そんなことはさておき、よもや未だにメルに怖がられているとは思わなかったらしい天パ男は、そんな彼女の警戒態勢を見て決まり悪そうに頬を掻く。
そして、「まだオレが怖いのか」とゴチた。
そんなメルと彼のやり取りを、竈から視線を上げて見ていたツルが溜息を吐く。
「ったく·····まだこんな卵の殻すら割っていないような子を怖がらせているのかい、クザン。悪いねェ、メルちゃん。ウチのが迷惑をかけっぱなしで」
海兵の後ろから情けなく顔だけ出しているメルに、ツルは柔らかく笑いかけて「おいで」とそれから手招きした。
元々銀や白に近いツルの髪は、年相応の色やコシになっているが彼女の上品さに更に拍車を掛けている。
未だに現役で前線に出ていることもあって、曲がることを知らない背、若々しい水玉のネクタイを首元で絞めたツルは、メルが憧れる年上の女性像にピッタリと当てはまることもあって、彼女のその手招きに従わない道理はメルには無かった。
天パ男───クザンとサカズキの動向を伺いながら、斥候さながらの俊敏さを持ってツルの傍まで移動したメルに、ツルがよく頑張ったと頭を撫でる。
人を撫で慣れているのか、ツルの熟練の手つきの虜になったメルは、それだけであっという間に機嫌を取り戻した。
すっかり猫らしい反応が板に付いてしまったらしいメルは、嬉しそうな顔をしてツルに撫でられている。
そんなほのぼのとするツルとメルに、漸く火の調節に躍起になっていたらしいガープが気付く。
「おー! メル、来たんじゃな! もうすぐで焼き上がるから少し待ってくれ」
パタパタと団扇に片手を当てながら、職人さながらに竈の火を操るガープはメルがこれまでに見てきた中で一番真面目な顔をしていた。
彼の補佐官であるボガードが見たら、普段からもそんな風に真面目にやってくれと提言しそうな真剣な顔付きだ。
こめかみに伝う冷や汗すらも無視して、この作業に命を懸けているとも言いそうなガープを冷ややかな眼差しで見ていると、とんとんとメルの肩が叩かれた。
叩かれた方をメルが振り向くと、そこには丸眼鏡をかけた、ガープやツルと同じ年代の男が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。
メルの顔が更に華やいで、ペコりと首を下げる。
「ご無沙汰してます、ヤギのオジサン! 最近めっきり会わなかったので、違う島に行っていたのかと思っていました」
「久しぶりだな。いや、私はずっと此処にいるのだが、如何せん阿呆のせいで仕事が溜まっておってな」
ニコニコと浮かべた笑顔の裏側で、男───センゴクの鋭い目がガープやクザンに飛んでいるのだが、そんな裏事情を知らないメルは「大変なんですね」としみじみ相槌を打つ。
どうも、センゴクからは“苦労”や“不憫”といったものを感じ取ってしまうのもあって、メルは彼にだけは優しい言葉を紡いでしまうようだ。
「·····うむ、このまま竈の蓋を閉めたら、上手いこと焼き上がるじゃろ」
ガープがそう言いながら満足気に竈の蓋を閉めたところで、メルはようやっとこの光景の異常さについて考え始めた。
此処には、ガープとツル、それから丸眼鏡の同僚であるセンゴクといった重鎮が何故か料理教室のために勢ぞろいしている。
確かに、その中の一人であるツルが開催した料理教室であるため、彼女の同僚であるガープとセンゴクが参加していても可笑しくはないのだが、メルはこの三人が海軍のお偉いさんだと知っていた。
ガープは海軍の英雄だし、残りの二人もこの海軍本部では絶対に道を開かれる立場にある。
ということは、彼等は本拠地であるこの場でも頭を垂れられる立場であるのだ。この三人の上に立っている人間の数の方が、圧倒的に下々の数よりも少ないのは一目瞭然。
そして、メルのトラウマであるクザンとサカズキも、あのトラウマである大捕物の時に指揮する立場であったからこそ、まぁそこそこの立場なのだろうと推測していた。
実際は、立場だけであればガープやツルよりも上の“大将”という地位にいる二人なのだが、彼等がガープ達に頭が上がらないのも事実である。
詰まり、メルが考えている以上にこの場は
海軍本部では最高司令官と言える元帥のセンゴクを筆頭に、大将のクザンとサカズキ、英雄とかいう名誉職であるガープ、中将位でありながら大参謀でもあるツルが勢揃いしているこの状況。
海賊どころか、革命軍だって会いたくない面子だ。
海軍オタクであるコビーが目の当たりにしたら、あまりの貴重な光景に涙を流すかもしれない。
だが、しかし。
メルにとってみれば、彼等は金蔓であり、その金蔓と仲良しの気のいいお爺ちゃん達、そして意地悪ばかりしてくるトラウマのオッサンらでしかない。
意図的に彼女自身が海軍に深入りしないように情報を遮断していることもあって、メルはこの五人を近所でたまに見掛ける大人達と同じように接していた。
「メルちゃん。クッキー食べるかい? 焼いてる間は暇だろうと作っておいたんだけど」
けれども、それは大人達も同じであるらしい。
ツルがメルの頭の上から手を離して指さした先には、先程クザンが火の元から遠ざけていたクッキーの山がある。
捕縛対象である海賊はおろか、身内の海兵にすら見せたことの無い柔らかい笑顔を浮かべてメルにクッキーを勧めるツルの姿は、完全に久しぶりに遊びに来た孫をもてなす祖母であった。
そんなツルに衝撃を受けて、メルを此処まで案内してきた海兵と大将二人組───あの落ち込んでいたサカズキまでもが目を見開いて固まっている。
ただ、ツルと付き合いの長いガープとセンゴクだけが普通の顔をして、そんな和やかな二人を見下ろしていた。
それどころか、ガープに至っては「わしも食べたい」とツルに強請っている始末。
しかし、そんなガープのお強請りを「アンタは煎餅食ってな」とツルに袖にされている。
つれないツルの返事に、ガープは分かりやすく拗ねた。
そんなコミカルなお爺ちゃん達のやり取りの傍で、メルはクッキーの山へととっとと飛び付いており、「いただきます」と言ったのと同時に口に頬張っていた。
素朴な小麦粉と砂糖、少しコクのあるバターの風味が口内いっぱいに拡がって、なかなかお菓子を食べる機会が無いメルは瞬時に顔を綻ばせる。
「お、美味しいー!!」
子供らしくお菓子が大好きなメルだが、最近は漫画に熱中していることもあって、お菓子とはここ暫く縁がなかった。
シールのためにガムは沢山噛めたが、クッキーやシフォンケーキといった定番のお菓子はかなり御無沙汰であったのだ。
締まりのない顔をしてクッキーを堪能しているメルに、平穏とは程遠い職業をしている彼等は、この子供とクッキーという実にわかり易い平和な組み合わせに思うのである。
『子供って、いいな』と。
因みにこの場にいる人間は四十路以上。
直属の上である世界政府や、捕縛対象である海賊、腹芸しかしない同僚に囲まれて三十年以上は鎬を削ってきた彼等は今日、『平和』を生み出す以前に自分達が『平和』とは程遠い存在であることをよくよく噛み締めることになった。
おつるさ────んッ!!!の初登場回でした。
本稿では、おつるさんのことをおツルさんと表記していますが、これは読みやすさを考えてのことです。
ですが、原作に準じて欲しいという声がありましたら訂正することも考慮しております。お気軽にお声がけ下さい。
あのお兄様すら一目置いているおツルさん。
今も凛として麗しいけども、若かりし頃はめちゃくちゃ美人だったおツルさん。
これはラブコメの波動を感じずにはいられませんが、ガープ氏とセンゴク氏の三角形って成立するのかしら·····?
矢印が皆一方通行だったら素敵だなーと思いつつも、今は戦友以上の固い絆で結ばれている御三方の関係も大好き。
腫れた惚れたじゃなくて、一個人を尊重し合っているこの三人、マジに憧れます。背中合わせで戦わせてみたい。
ラジオではなく、生身で漸くご出演果たしたセンゴクさん。
初回で台詞がチョロっと出ただけであとは名前のみだったのですが、20万文字ぶりの再出演です。
よく本当に此処まで訳の分からない物語を書けたなーと我ながら思います。