モビーディック号は、相変わらず新世界の上を揺蕩う。
気侭に移り変わる天候にも負けず、滅茶苦茶な潮の流れにも対抗して海路を突き進む船体では、今日も今日とて船員たちが走り回っていた。
「おい! 面舵いっぱいだ! このままだと潮に持ってかれるぞ!!」
「おら! くらいやがれ!! 雑用仕事で身につけたオレの腕力を!!」
忙しそうに船員が仕事をしているが、この船に
横殴りで降り続ける雨の中、気持ち程度に合羽を羽織ったラブとマルコは、船の縁に腰掛けて釣り糸を垂らしている。若干、荒波に揉まれて船体が傾いているような気もするが、体幹には定評がある二人とっては瑣末事だ。
「こんな
「そろそろデカウツボは食べ飽きたぜ。赤身の魚が食べてェなー」
「まぁ、確かにな。そろそろ鉄分を摂取したい気持ちは分かるよい」
先日、デカウツボの群れに遭遇した白ひげ海賊団は、普通ならば絶望したくなるような凶事に歓声の声を上げて、デカウツボを釣りまくった。
彼等は、世界に名を轟かせる天下の白ひげ海賊団だ。
高々、海王類の群れとの遭遇で臆したりはしない。寧ろ、願ってもないチャンスとばかりに食料の確保に奔走した。
そのせいで、連日に渡り食卓にはデカウツボを使った様々な料理が並んだのだが、それに目を輝かせたのは五日目までだ。
三食全てデカウツボということもあって、コック達のレーパトリーも尽きようとしていたのだ。船上ということもあって、調味料の種類も限られている。
そんな故あって、数少ないお楽しみの時間である食事時も苦行になりつつあった白ひげ海賊団なのだが、変な海域にでも入ってしまったのか、デカウツボ以来食料を確保することが出来ずにいた。
「メルは、ちゃんとご飯食べてると良いが……」
「そういや、一向に迎えに来ねぇよい。若しかしたら、忘れ去られてるんじゃ無いだろうねい」
「オレの兄上がしつこいんだと思うぜ」
メルとラブの絆の深さを知っていて、こういう揶揄い方をするのだからマルコも人が悪い。微塵にもメルのことを疑っていないラブに、彼は「相思相愛で結構なことだよい」と謎の発言を発した。
それに一瞬にして、ラブの顔色が変わる。
なんて言っても、見た目は子ども、頭脳というか中身は三十手前の良い大人なのだ。実はマルコとそう年も変わらないのだが、今のところ言っても信じてはくれないだろう。
「やめてくれ。オレとメルはそんなんじゃない。あの子は妹みたいなもんだ」
「……どちらかと言ったら、姉なんじゃないかい?」
「妹だ!!!」
恐らく、己のドジっぷりの世話をされているからそんなことを言われるのだろうが、実年齢を考えたらマルコの論を罷り通したくない。メルは本当の八歳。己は二十七歳だ。
「面白ぇ話をしてるじゃねェか。それより、飯は釣れそうか?」
今度は逆に船体が傾いたなと思い重心をずらしていれば、背後から船体がどっちに傾こうが知ったこっちゃないとばかりに、下駄音を響かせてイゾウが現れた。
綺麗に結われたかせ髷が土砂降りの雨に晒されても一向に型崩れをせず、薄そうな着物も水を吸うだけで依れたりはしない。
オリエンタルな格好って言うだけでも目立つなのに、その上女装をしているらしい彼には謎が深まっていくばかりである。本人曰く「癖みたいなものだ」らしいが、やっぱり理解不能だ。
マルコが釣り糸を繰って、何にも掛かってない針先を見せる。たぷんたぷんと泡立つ海面を見ていると、これ以上の釣りは無駄のように思えてしまう。
「そろそろサッチが、デカウツボを滅多刺しにしかねんからな。寝ても醒めてもデカウツボのレシピについて悩んでいるせいで、目の下に凄い隈が出来て───あ! そうか。すり潰せばいいじゃねェか」
「良案が思いついたんなら、サッチに教えに行ってやってくれい。彼奴、昨日風呂でもデカウツボに取り憑かれていたからねい」
「サッチをそこまで追い詰めるデカウツボが逆にすげェな」
剽軽なキャラクターを誇る彼は、この白ひげ海賊団の数少ないコメディアン要員だ。マルコとも口先だけで渡り合っていける鋼の心を持つあの男が相当に追い詰められているってことに驚きだ。しかも、食材であるデカウツボに。
「まぁ、この調子ならあと一日したら縄張りに着くよい。それまでの辛抱だ」
この船の航海士も兼ねているマルコがそう言うのだから本当なのだろう。派手な頭をしているが、このパイナップルは頭脳明晰な肉体派だ。
「さっき、変なことを考えただろいラブ。罰として、後でオレの論文書くのを手伝ってくれよい」
「んな理不尽な言い掛かりがあるか!?」
妙に勘が冴え渡っているマルコによって、過酷な罰が課されてしまった。しかも、ラブがお願いした例の病についての論文の手伝いなのだから、断ることも出来ない。
この船に来て半年、ラブはこうやってマルコにパシられていた。
最近では、一人で完璧な応急処置が出来るほどに医学の知識がついてきている。
なので、ただでさえ少ない治療要員として、ラブは更に手厚く白ひげ海賊団に囲われることになってしまったのだ。もし、メルが迎えに来たとして、自分は本当にあの家に帰ることが出来るのだろうかとちょっと心配になりつつある。
半年も世話になったこともあって、充分に白ひげ海賊団への愛着は育っているのだ。乞われれば、残ってしまいそうな自分がいる。
「マルコ隊長ー。サッチ隊長がデカウツボって唱えながら、包丁振り回してるぜ」
「とうとう錯乱したみてェだな。しょうがない。オレの故郷のレシピを教えてくる」
この大嵐に帆柱が負けないように補強していたらしいティーチが大きな太綱を肩に提げながら、愉快そうにサッチ錯乱を伝えてきた。完全に面白がってるティーチもマルコと同様人が悪い。
流石に二人ほど良心を捨てていないらしいイゾウがサッチを回収に向かった。ラブにしてみれば、この二人はイゾウの爪の垢を飲んだら良いとさえ思ってしまう。
つい二人をジト目で見渡していれば、ラブの隣にティーチが予告無く腰掛けてきた。彼もその巨体に似合わず、バランスを取るのが非常に上手い。
釣れもしない釣竿を持っているラブの華奢な肩にティーチは腕を回して、ずずいと顔を寄せた。こうやって馴れ馴れしくティーチが近寄ってくる時は、何かお願い事があるのだとこの半年でラブは学んでいた。
「なァ、ラブ。またオルガンで一曲弾いてくれよ。オレはこう見えて、感性豊かな人間だ。テメェの曲を聴きながら飲む酒が美味くてよ」
予想通りお願い事をしてきたティーチに苦笑を浮かべて、ラブは頷く。
「構わないぜ。それはオヤジにも頼まれてたしな」
「ゼハハハハハ! オヤジも良い趣味をしてやがるぜ」
☆☆☆
白ひげ海賊団が新世界で荒波に揉まれている頃、メルはと言えば、楽園にある自室で一枚の紙片手に頬杖を付いていた。
その紙に書かれているのは、『優秀な配達屋さん大募集! 交通費も支給しています!!』という求人だ。
目がチカチカするようなレインボーフォントが何故か胡散臭く見える。初心者の手作り感が苦笑いを誘うそれは、新聞の折り込みチラシとして入っていた。
───よくもこんな怪しげなチラシを新聞に折り込んだよねー。
ニュース・クー達が適当に折り込んでいるのであれば、それも致し方ないような気もする。確かあの新聞社の社長は、ニュース・クー達の親玉だったような……。
そんなことを思い出していると、一階の作業場からジジィが「買い物に行ってくるよー」と声を掛けてきた。
「あ! 私も今からちょっと外に出てくる!!」
ジジィが買い出しに行くなら、どうせ今日はもう仕事は入ってこないだろう。商売への嗅覚が冴え渡っているジジィが外へ出るということは、詰まり今日は開店休業ってことだ。
慌てて一階へと駆け下り、ロッカーから相棒のデッキブラシを手に取って作業場へと入れば、ジジィが既に外へと出ていた。
玄関扉を開けて待っているジジィに礼を言って外へと飛び出すと、彼は何やらモゴモゴと物を言いたそうに口を開いては閉じてを繰り返している。不思議なジジィの行動に首を傾げていれば、意を決したような顔つきで話し始めた。
「その、あの子達がこれから海軍に通うことなんだけどね」
「ん? ルフィくん達が一月に一度、海軍本部に通うことがどうしたの?」
何か言いたげにしているかと思えば、どうやらメルの友人達のことらしい。態とメルの顔を見ないように、玄関の鍵をもったりとした動作で掛けがら、捲し立てるようにジジィは用件を告げる。
「トンボ帰りは可哀想だから、その日はウチに泊まっていくといいよ。あの子達、恐ろしく大食いだから、事前に連絡を貰わないと準備は出来ないけど」
「……へー。ジジィがそこまで気に掛けるとか珍しいね。あの三人もジジィとまた会いたいって言ってたから喜ぶよ」
「ふ、ふーん。そうなんだ」
つれない返事をしている割には、尻尾が嬉しそうに揺れている。なんなら耳もピコピコ動いている。今にもゴロゴロと機嫌良さそうに喉を鳴らしそうなジジィに、見ているメルも嬉しくなってきた。
「もし、ルフィくん達が本当に海賊を作ったらジジィも一緒に冒険したら良いんじゃない? 楽しそうだよ」
「それはしないよー。ボクの場所は、此処だから」
冗談交じりに、だけど少しだけ本音を混ぜた提案をジジィにしてみれば、意外と迷いない返答があった。この家こそが、自分の居場所だと告げるジジィの真摯な目が何故かメルには直視出来ない。
かぁああと頬が熱を持っているのが分かる。身を捩りたくなるような擽ったさに急に襲われた。
メルは、「そ、そっかー。じゃあ、いってくるね」と上擦った暇の声を最後に、箒があることも忘れてその場を走り去っていった。
様子の可笑しいメルの姿に暫くジジィは呆気にとられていたが、あまり無駄に時間を浪費してはお目当ての食材があっという間に売り切れてしまうと思い出して、市場の方へと足を向ける。
こうして、その日の昼、二人は行動を別にした。
コルボ山の子どもたちによる海軍本部騒動(ほぼ原因はマグマと氷、時々ガープ)から一週間が経った。
センゴクが下したサカズキとクザンの処分に巻き込まれたルフィ達は、これから一月に一度、メルのデッキブラシに乗って海軍本部に顔を出すことが義務付けられた。
彼等に教育を施すことが海軍大将二人の罰になったのだが、おツルは「体術は兎も角、あのひよっこ共に情操教育なんて任せてもいいのかねェ」と心配していた。
それは地味にセンゴクも気にしているらしく、補佐としてモモンガという海軍将校も加わることになったようだ。時間が空き次第、おツルやボルサリーノも様子を見に行くとのこと。
『これが次の世代への布石になるといいのだが……。海賊を志す少年達を正義の道に戻す教育が施せれば、我々は新しいステージに立つことが出来るだろう』
この処罰にはセンゴクの思惑も混じっている。智将と名高い彼は、教育を使った新しいプロジェクトを企てており、今回の処罰はその実験の一環も兼ねていた。
しかし、『近年、センゴクが海軍学校の大きな改革を目論んでいる』という噂が蔓延っていることもあり、若しかするとあの三人は良いモルモットになるかもしれないなと、ボルサリーノを含めた何人かの海軍上層部も察しつつある。
これは、海軍を巡る一波乱を生み出す一歩でもあった。
だが、その小さな芽もまだ芽吹いたばかりで、誰も重要視などするはずもない。
そんな魑魅魍魎っぷりを発揮している海軍の裏事情は置いておくとして、メルはダブルワークに挑むためにチラシの地図を見ながら目的地へと向かっていた。
その新たな副業先は路地の奥まった場所にあるらしく、地元住民でなければとても辿り着けるところでは無い。この時点でどうにも嫌な予感がメルにはしてきていたが、取り敢えず行ってみて損は無いだろうと走り続ける。
箒を肩から提げてえっさほっさと走っていれば、如何にもな店に辿り着いた。おどろおどろしい廃屋寸前の外観といい、浮浪者が溜まりそうなアングラな区画にあることといい、確実にこの店は裏稼業的な奴だ。
───引き返そっかなァ……。
ただでさえ、今でもグレーゾーンのギリギリを攻めているのだ。
まさか海軍の運び屋になっていることなんて知らないメルは、自分がどストライクでレッドゾーンに突入していることに気付いていない。
そろりそろりと後ろ足でその場から下がっていると、背中に何かが当たった。
メルの全身を受け止めたそれがどうも碌なものではないような気がするが、流石に振り返らない訳にもいかない。
覚悟を決めて恐る恐る振り返れば、オレンジと白を丁度体の真ん中で半分にしたような奇妙な格好をした男が色付きのサングラスで見下ろしていた。
「ぎぃぃいいいやぁぁああああ!!!?」
少女の可憐とは言い難い絶叫がその場に響いたのも無理の無い話である。
☆☆☆
「取り乱してすみません。色付きサングラスには良い思い出があまりなくて……」
「こちらこそ、不躾に見下ろしてしまい申し訳ない」
オレンジと白のツートンカラーがチャーミングな奇抜な青年───名をイナズマと言う───が腰を折って紳士然とした態度で謝罪するものだから、メルもアワアワしながら頭を下げまくる。
未だに使い魔のお兄様によるトラウマにメルは苦しめられているが、彼からしてみれば本懐ものだろう。
彼はそろそろ夜道に気をつけた方がいいかもしれないと少女は思うが、時既に遅し。桃色のお兄様は、そんなちゃちな恨みなんて買っていない。もっと途方も無い恨みを躊躇なく買い込んでいる。
まぁ、その件のお兄様は脇に置くとして。
聞くところによれば、イナズマがチラシの発行人だと言う。このあばら家の主人らしい彼に、「実は面接を受けたくて……!」と頼んでみたところ、あっさりと家の中へと入れてもらえたのだ。
あばら家の内装は、意外にもしっかりとしていた。
今にも崩れ落ちそうな外観をしていた割には基本的な家具類は揃っており、壁や天井に穴が空いていることも無ければ、部屋の四隅に蜘蛛の巣が張っているなんてこともない。
普通に人の営みが感じられる内装だ。
下手をしたら、メルの家よりも掃除が行き届いている。
イナズマはメルを応接間へと案内し、ご立派な革張りのソファに腰掛けるよう勧めた。
奇抜な見た目はともかく、ジェントルマンっぷりが板についている彼が主人であればヤバい仕事じゃないだろうと判断したメルは、デッキブラシを壁に掛けさせてもらってソファに腰掛ける。すると、颯爽とローテーブルの上にどこからとも無く紅茶が現れた。
イナズマの手には、いつの間にかワイングラスが握られている。
赤ワインをクルクルと回すように揺らして、「では、面接を始めようか」と彼は告げた。
「先ずは、『カマバッカーネ社』に興味を持って頂きありがとう御座います。弊社が今回募集しているのは、配達員だ。それに間違いはないだろうか?」
「はい! 私自身、本業で配達員をしています」
「それは心強い。だが、弊社が求めている配達員は世界各地を飛び回ってもらわなければならない」
要するにイナズマは『こんなに幼いのに、世界を渡り歩くことなんて出来るのか?』とメルに問うているのだ。
だが、それこそメルの強みだ。
彼女が目指しているのは『電伝虫にだって負けない配達屋さん』で、しかも世界一になることを目標としている。世界を股に掛けることくらい造作もない。
「ちょっと外に出てもらってもいいですか? 私が世界各地を渡り歩くことが出来るってことを証明してみます」
メルの提案に、イナズマが片眉を跳ね上げた。
まさか、メルからこんな話を持ちかけられるとは思ってもいなかったようだ。
イナズマの視線がついとメルの背後へと向けられる。そこにあるのは、メルが肩から提げていたデッキブラシだ。
「それは、もしかして君が持ってきたデッキブラシが関係しているのか?」
「ご明察です。是非、その所以をご覧下さい」
なかなか良い勘をイナズマは持っているらしい。
話している感じ、彼はちゃんとした人間性を持っているようだし、見た目はただの子どもでしかないメルの話に耳を傾けてくれる。
これは、なんとしてでも此処で働きたい……! と珍しくやる気を漲らせたメルは、イナズマを誘って外へと再び繰り出した。
再び、アラレもない悲鳴を響かせた路地へと二人は出る。高い建物に囲まれており、日が余り差さないその場所は、隙間風が通るせいでメインストリートよりも温度が低いように感じられる。
昼間にも関わらず薄暗いその路地でイナズマが見守る中、メルはデッキブラシの柄に跨った。いつもなら、柄の先でぶらつかせているはずのラジオが無いことに今更ながら気付いて、持ってくることを忘れたのだと気付く。
最近、まともにラジオを聞いていないなァなどと思いつつ、普段の要領でシルフに風を呼び込むのを手伝ってもらう。
流れるように吹いていた隙間風が足元に集まってくるのが分かる。怒った猫の背のようにブラシが毛羽立つ。仕事着のワンピースの裾が激しくはためけば、空を飛ぶ合図だ。
「いっきますよー! フンンンンン!!」
大きく膨らんだスカートの裾を放置して、パンプスで舗装された煉瓦道を蹴る。角度をつけた柄に従って、引き絞った弓が放たれるようにメルが跨ったデッキブラシが空を飛んだ。
勢いよく空へと飛び立ったメルを見送ったイナズマは、色付きサングラスの下で目を見開いていた。
「いやはやこれは……。これがイワさんが言っていた“デッキブラシの宅急便”」
ポツリと溢れ出たその言葉と一緒に、デッキブラシに跨った少女が逆さまになって笑っている。
長い二つのお下げ頭とワンピースが重力に従って落ちる。ドロワーズ丸出しのその姿ははしたないことこの上ないが、メルの子どもっぽい笑顔のを見てしまえば、咎めた此方が疚しいように思えてくる。
「メルちゃん、ようこそ。
そんなわけで、『メル、バイト始める〜ラブもちょこっと出るよ〜』の幕開けで御座います。
センゴクさんが何故か海軍改革に乗り出してます。こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。
ラブは元気、マルコ達もピンピンしてます。桃鳥お兄様はまだラブの居候先を特定していません。そんなことよりもドレスローザの革命で大忙ししてます。
メルは変な世界新聞の折り込みチラシで、しれっと革命軍に引っ掛かってしまいました。あの新聞社、金さえ積めば清濁併せ呑むタイプでしょう。