「ラブ、オメェ。針の扱いは元から上手いねい」
モビーディック号の船医室で、マルコは迷いなく輸血の針を刺すラブに感心していた。この居候は来た時から最低限の医療の心得を知っていることもあり、針を刺す手には迷いがない。
一週間前にデカウツボに横っ腹を齧られた船員は意識を取り戻していたが、満足に栄養も取れない船上ということもあって体が十分に血を作れない状況下にあった。そのため、輸血を定期的に施しているのだが、その役割は専らラブが行っているのだ。
マルコの論文の手伝いをするには、それなりの医学の知識が必要となる。よって、ラブはマルコから医者の免許が取得出来るほどの知識をこの短期間で与えられていた。
元々、海軍将校に成り上がることの出来る地頭を持っているラブは、マルコから与えられた知識をスポンジの如く吸収していき、今ではマルコの次に医学を心得ている居候となっている。
そんな訳で、今では、海賊団の誰かが怪我をした時にマルコが医者として駆り出されれば、その補佐をラブが務める光景が当たり前になりつつある。
「メルに仕込まれたからな。彼奴、本職は医者みてェなもんだから」
「そうなのかい? あの子は、空を飛ぶのが仕事だとばかり思っていた」
「今はその本職を休業している」
空飛ぶデッキブラシを難なく使いこなし、大人顔負けの交渉術で白ひげすらも丸め込んだあの少女が、マルコと近い職種に就いていたと聞いて驚く。
だが、それと同時に顰めっ面が顔中に広がった。
メルの弱々しい脈と、人よりも動きが少ない心臓を思い出したのだ。
彼女に医学の知識があるとすれば、己の不健康さをよくよく知っているということになる。
けれども、メルはそれを知っていてあの状態を放置している。
年齢に見合わない知識量を保有する少女が取る行動とは、とても思えない自殺行為だ。
まるで───生き急いでいるようで。
見ていて酷くやきもきする。
「そういえば昔、メルの部屋の箪笥を開けたことがあった。確か、あの子がおれのパンツを隠したから探しててな。メルの部屋にあるんじゃないかって思って箪笥を開けたら、中いっぱいに輸血パックが入ってた」
なかなかにホラーだろ? って可笑しそうに笑うラブには悪いが、マルコにはそのブラックジョークのような話をとても笑えそうにはなかった。
齢一桁の女の子の箪笥の中が他人の血液でいっぱいとか、巷で流行しているホラー小説でもお目にかかれないシチュエーションだろう。
「何故、そうもラブのパンツにご執心なんだ」というツッコミすら思い付かず、マルコは極めて凡庸な質問をする。
「なんで、そんなに血液ばっかり集めてやがるんだよい。何かヤバい商売でもやってたのか……?」
マルコの中で、メルは大人顔負けの頭脳を持つ少女というよりかは、立派な商人という印象が強いらしい。
ラブはマルコのそんなメルの印象像に笑いだしたくなったが、どうにか堪えた。
「ジジィならやってそうだが、真相は違う。ジジィ───おれ達を養ってくれるオーナー兼大家は、世界的にも珍しい血液型だ。だから、メルはジジィに万が一があった時に備えて大量の輸血パックを蓄えていた」
「……意外とガキらしいところもあるじゃねェかい」
「だろ?」
感情表現が豊かな白ひげ海賊団は、話していてとても気持ちがいいからラブ───コラソンは彼等に対して友情が育みつつあった。
同じ海賊でもこうも気風が違うと、海軍将校だった頃の“海賊憎むべし”とい気持ちが萎んでいく。育て親のセンゴクには、顔向け出来ない有様だ。
彼らとの居候生活は、センゴクに拾われて、海軍として働いていた時のような“人間らしい生活”が出来ていると実感出来る───兄の元で潜入捜査していた時には感じられなかった充実感があるのだ。
海賊は皆、ドフラミンゴのような輩ばかりだとラブは思っていた。
人間を商売道具や虫けらのようにしか認識していないあの海賊団で暮らした数年は、ラブが心を凍らせて生きた歳月だ。
(ただ、そんな歳月で見つけた可哀想なあの子と旅をした一時だけは、自分らしくあれた瞬間だった……)
ローのお陰で、コラソンは最期に人間として死ねたのだ。
元気にしているだろうか、コラソンが愛した子どもは。
出会った時のように生きることを諦めていなければいい。
この世界の滅びを望むばかりの子どもでなければいい。
己の幸せをあの子が願えれてばいい。
そうやって、感傷に浸っていたのがいけない。
シリアスがそろそろ帰りたいと思って、コラソンの足元に悪戯でもしたのか。
己のドジレベルを束の間忘れていたラブは、その場で自分の足を間違って踏んであわや、怪我人の上に雪崩込みそうになる。どうして場所を少しずらそうとしただけでこんな低確率な失態をしてしまうのかは本人も謎である。
だが、しかし。
ラブの注意散漫っぷりをよくよく知っているマルコが咄嗟にラブのシャツを鷲掴み、猫の子のように摘み上げた。
ぶらんぶらんとマルコの手元で揺れるラブ。
掴みあげているパイナップルとラブは揃って安堵の息を吐く。
「これがなけりゃ、テメェだけに治療をさせるんだがな」
「これは……態とだ」
「そろそろ別の言い訳を考えろよい」
ドジる度に雑い言い訳をするラブに、コツンと拳骨を下ろす。せめて言い訳も、これまでに引き起こしてくれた数々のドジっぷりと同じくらいのバリュエーションに富んでくれとマルコは宣う。
そもそも、ドジるのを止めてくれと言いたい所であるのだが、気をつけろと言ったそばから訳の分からんおっちょこちょいぷりを発揮してくれるのがラブクオリティだ。
そんな希望のない願望を口にするのは、彼が居候して三日経った頃よりマルコは諦めたのであった。
☆☆☆
「では、最初の仕事をお願いしよう。先ずは私を運んでもらいたい」
「……へ? イナズマさんを運ぶんですか……?」
カマバッカーネ支社であるあばら家の中へと戻ったメルが座り心地を気に入りつつある革ソファへと座ったのと同時に、イナズマから大仕事の依頼をお願いされた。
まさかの最初の仕事が、オーナーであるイナズマの配達でメルは驚く。
しかし、メルの前に腰掛けているイナズマはまたぞろ何処からともなく現れたワインをくるくると回している。その彼の顔色は一つも変わらない。
「ええ。目的地までのルートは此方で指定する。ただ、異例の仕事内容であるため、報酬額もこれくらいにしようかと」
ワインを片手に持ちながらイナズマが器用にツートンカラーのコートの内側から算盤を取り出したかと思えば、彼はそのままパチパチ算出し始めた。
そして、算盤を弾き終えたイナズマはメルの前に突き付ける。
突き付けられた算盤の一の桁から順にメルの視線が横へと流れていけば───彼女の目は瞬時にベリーになった。
「こ、こんなに頂けるんですか!?」
「勿論。私も初仕事なのに、かなりの大仕事を任せることは分かっているので」
イナズマが提示した報酬額は、超お得意さまであるガープが出す金額と遜色ないものであった。こんなにも割のいい仕事を守銭奴のジジィに育てられたメルがみすみす見逃せるはずも無い。
「りょーかいです! 今直ぐに飛び立ちますか!?」
「ふむ。そうだな……。少し、待っていてくれるか。折角だから、手土産を持って行きたい」
「外で準備していてくれ」と言われたメルは、奥の部屋へと引っ込んだイナズマの背中を機嫌よく見送って、相棒であるデッキブラシを片手に玄関前にスキップで向かう。
「シルフー! まさかの副収入だよ!! これで、ジェルマピンクの顔入りサイン色紙が手に入るよー!!」
ルンルン気分でデッキブラシに住む妖精に語り掛けるメルに、デッキブラシが心無しか呆れたようにブラシの毛を草臥れさせたように見えた。
メルがいきなりダブルワークを始めたその理由は至って簡単だ。
オタ活をもっと豊かにするために。
その一点に尽きる。
今回のターゲットである“ジェルマピンクの顔入りサイン色紙”は、ガム箱に付いているシールを十枚集めて新聞社に応募したら、抽選で当たるという応募商法の景品であった。
ジェルマピンクの特別絵が手に入ることを愛新聞(海軍万歳コラムは読み飛ばしている)で知ったメルは、抽選ということもあり数打ちゃ当たる戦術で臨むことにした。
そのためには、ガム箱を買い込む金がいる。
けれども、普段の収入は生活費と貯金で全て消えてしまい、僅かにも銭は手元に残らない。
この機会を逃せば、日々のモチベーションが急転直下することはわかりきった話だ。オタクとして、生きるためにも絶対色紙を手に入れなければならない……!
───そこで、メルは副業に踏みきることにしたのだ。
これも全ては愛しのジェルマピンクのため。
まさかこんなにも熱烈なファンを獲得しているとは原作者、ましてや本物でさえも知らないだろう。
このメルの熱の上げっぷりには、デッキブラシの住人もほとほと呆れ果てていた。人間とは価値観の違う妖精でさえも、メルが非生産的なものにのめり込んでいることが分かっている。
だが、『海の戦士 ソラ』にハマってからのメルは、人生が今まで以上に楽しそうなのも事実だ。
人生を思い存分謳歌しているようにも見えるメルに水を差すのも野暮なような気がして、シルフは気侭な妖精に有るまじきことに空気を読むことにした。
「お待たせした。では、参ろうか」
小包を抱えて現れたイナズマがすっかりベリーに見えるらしいメルは、浮き足立っていることを隠しもせず、元気よく返事をして彼を後ろに乗せる。
そして、空へと飛び上がったデッキブラシは二人を乗せて、
天候が女の気分と同じくらい移気なグランドラインの空模様は、幸いにして快調であるらしい。四方に怪しい雲が無いことに安堵して、メルはいつもの癖でラジオのチャンネルを回そうとし、今日は持ってきてないことを思い出した。
「あー、そうだった。今日は、ラジオを忘れてきたんだった……」
ガクッと首をしょげさせて、今度からはもう少し忘れ物をしないように注意しようと決意を新たにする。そんなどんより少女の背後では、珍しげに周囲を見渡しているイナズマの姿があった。
「なかなか空を飛ぶというのは、不安定なものだな。内臓が落ち着かない」
「……凄いまともな感想を久しぶりに頂きました。普通は、この感覚に慣れるのに時間がかかるもんですよ」
「と言うことは、よくこのデッキブラシに人を乗せるのか?」
「そうですねー。たまに、程度です。それも友達とか、養い親を乗せたりとか」
イナズマに言われて改めて考えてみると、メルが乗せるメンバーと言えば、友達やジジィばかりであった。
彼女自身、自分の生命線であるデッキブラシに容易く他人を乗せるタイプでないので、それも然もありなんという話なのだが、それを自覚するのもなんだか気恥しい。
海軍凱旋で仲良くなったコビー少年は、いつメルの島に来るのだろうか?
会う度につい可愛げ無いことを言ってしまう大きな友達のシャンクスは今頃、どこの海を漂っているだろう?
もう一週間は経つが、海軍で暴れ回ったルフィやエース、サボは今、何をしているのだろう?
たった一年で、こんなにも沢山の友達が出来るとは思いもしなかった。
それぞれの顔を思い浮かべただけで顔が温かくなる。こんな感情も一年前までは知ることも無かった。
家族以外の幸せを望めるようになった幸せを堪能していると、突然「プルプルプル……」と聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。
「失礼、メルちゃん」
「あ、どうぞどうぞ」
どうやら、イナズマの電伝虫によるものらしい。
メルの許しを得て電伝虫の一部を手に取れば、瞑っていたはずの目を電伝虫は上げて「イナズマッ!? 遅いじゃないッシブル!!」と甲高い怒りの声を飛び出させた。
男性が無理矢理裏声で喋っているようなその声に、メルが好奇心に負けてちらりと首だげで振り返る。
「すみません。今、丁度空を飛行中でして」
「あーら、そうなのォ? ってことは、ヴァナータの前に例の女の子がいるのねェ……。聞いているかしらァ、メルちゃァアン?」
ねっとり絡みつくような男声に、背中が何故か粟立つ。
気付けば、メルの喉がか細い悲鳴を上げていた。
「ひっ……。き、聞こえてます」
「ちょっと、なんでビビってるのォ、この子。まだヴァターシは何にもしてないっブル!!」
「イワさんの迫力が電伝虫越しでも伝わるみたいです。子どもには刺激が強いのでしょう」
声だけで怯えられるのは心外とばかりに訴える電伝虫相手に、通常運転のイナズマがさらりと宥めている。やはり、顔色一つも変えずにやってのけるのだから、メルはイナズマの太い肝に羨望の眼差しを向けたくなった。
「まぁ、いいわ。ヴァナータの行先は、このヴァターシが案内するわよ。今はどこら辺を飛んでいるのかしら?」
この大迫力な声を持つ主は何時の間にやら、デッキブラシの運行ルートまであっさり握ろうとしている。メルのこめかみをたらりと冷や汗が伝った。
「は、はい……。ところで、あの、貴方は───」
「もぉぉおおおっとチャキチャキ喋りなさいよッ!! ヴァナータ、まだ子どもでしょうがッ!?」
「はいいいい! ごめんなさい! 貴方のお名前をお聞かせくださいお客様ー!!」
しどろもどろに名前を尋ねてみれば、怒号のようなツッコミを電伝虫が降らしてきた。あまりの声量に耳がキーンとする。
姿形が分からないこともあって、変に恐ろしく感じられる通話先の相手にメルは間髪入れずに良い子お返事を返す。顔は既に血の気が引き切っていた。
そんなメルの状況を知らぬ存ぜぬとばかり、電伝虫は「あら」と気の抜けたような声を出す。
「そんなことだったのね……いいわ。心して聞くがいいわ! イナズマ!!」
「仰せのままに」
急に名前を呼ばれたのにも関わらず、イナズマは平然と受け答えをしている。さも、声の主からお声が掛かることをわかっていたとでも言うようなスマートな対応ぶりだ。
「ヴァターシは、この世界の美の
電伝虫とイナズマが『ヒーハー』という謎の掛け声と共に両手を斜め上に上げる。電伝虫越しだと此方の様子を見ることが出来ないのをすっかり忘れて、イワンコフのお怒りを恐れたメルも両手を上げる。
マトモな自分の理性が頭奥で叫んでいた。
───一体、これはなんの儀式だと。
「さぁて。人に名前を聞いているんだから、ヴァナータも名乗りなさいよォ」
だが、意思疎通の出来ない人では無かった。
名前を呼ばれていたから、名乗るのを忘れてしまっていた。先に客から名乗ってもらうなんて三流商人がやることだ。
「す、すみません! 私───」
「ま、知ってるんだけど。ヒーハー!」
遮られるように被されたノリツッコミ。またもや、無駄に睫毛の長い電伝虫が両手を上げて決めポーズを取っている。
そして、つい忘れてしまいがちな影の薄い刺客がトドメとばかり放った。
「知ってるんかーい!!! ヒーハー!!」
イナズマの口から出たとは、とても思えないツッコミがしぃんと静まり返った海上で吃驚する程に響き渡る。追い討ちをかけるように無駄に鴎が泣き喚いているのが聞こえた。
───もうメルのキャパは限界だった。
あまりにも情報量の多すぎるこの状況に、メルが土気色の顔でイナズマの表情を伺ってみれば、彼はやはり仏頂面であった。この男、どうやらさっきのツッコミを無表情のままでやってのけたらしい。
メルの疑問でいっぱいの心内を察して、イナズマはグラサンを太陽光に照り返したまま答えた。
「あれは、決め台詞だ」
「……サルヴァーニ・メルです。今日から『カマバッカーネ社』にお勤めさせてもらっています』
もしかしたら、早まったかもしれない……。
イナズマの申告にどう返したら良いのかが、まだ齢一桁のメルには分からなかった。
だから、サラリと聞き流して、イワンコフに自己紹介し、心中でほろりとこぼれそうになる涙を堪える。
───なんで、最近のお客さん、こんな訳のわかんない人ばっかなんだろ……。
「さぁ、目的地はまだまだ先だわよー! 折角の空中散歩なんだから、楽しまなきゃ損っブルー!!!」
「はい。このまま、取り敢えず西へと向かいますね」
運行ルート権をバッチリイワンコフに奪われたメルは、死んだ目をしたままその後、デッキブラシを繰ることになった。
彼女は、心に誓った。
無闇矢鱈にデッキブラシの後ろに人を乗せるものかと───。
船上勢
ラブ「二人とも。今は子どもだが、あっという間に大人になっちまうんだろうな」
マルコ「ラブの奴・・・。また考え事してるねい・・・あ、落ちてたバナナの皮を踏んですっ転んでやがるよい」
デッキブラシ勢
メル「イナズマさんよりイワンコフさんは偉いみたいだけど、どういう関係なんだろ・・・」
イナズマ「イワさん。メルちゃんを我が軍に引き入れる計画は年単位で実施しますね」
イワンコフ「イナズマも引きが強いわねェ・・・。まさか、あの子を手元に置くだなんて・・・」