"渇望"
それは人が願うということの究極。
人が生きていく上で、抱いたとしてもなんらおかしく無いものであり、同時に決して抱き続けることのないもの。
夢とは違う。
夢はあくまで現実という法則の中で機能するもの。
例え不可能に近いとしても、決して抱いたものを苦しめ、狂気に堕とすものではない。
いや、"渇望"を抱くということ自体が、狂気に身を堕としたという証明そのものだろう。
平和ボケした社会の中で生きる人間は、それ程までの怒りを抱かない。
抱いても、様々な娯楽や時間がそれを薄れさせて、忘れさせる。
闘争や貧困に喘ぐ世界で生きるものは、徹底したリアリストであり、唯の一感情にいつまでも囚われない。
彼らは、生きるため、常に何かを削っている。
そういったことであるならば、彼らは生きることを"渇望"しているのかもしれないが、同時に狂おしい程に現実を見据えている故に、どこか自身の死に対して達観している。
それではダメだ。
"渇望"を抱くことを是とするならば、それ自体に、疑いも、諦めも抱いてはならぬ。
何れにせよ、"渇望"は自身を苦しめる。
絶対に叶わない、叶うはずのないそれは、現実で生きるには重荷でしかない。
狂わんばかりに想っていても、それは現実を生きる人々からすれば、狂人の妄言であり、唯の社会不適合者でしかない。
現実にはあり得ず、然りとて幻想に人は手を伸ばせない。
つまりは唯の苦しみ損と言ってもいい。
愚かもの。
負け犬。
逃避者。
そんなもののために、苦しみ喘いで狂い哭く。
誰がそんなものを望むという。
だが、確かにこの世にはいるのだ。
先天的にしろ、後天的にしろ、そういう異形の魂の形をしたものが。
でなくば、"渇望"などという近く、真に解することを忌避すべき言葉は生まれてはいないだろう。
「人間という存在の"死"を解すること」
それが先天的に魂に歪みを持った、異端なる男──雨生龍之介の"渇望"だ。
なにも初めから彼は自身の歪みを自覚していたわけではなかった。
かつては彼もまた、人並み以上に"死"というものを恐れた。
だからあの頃の彼なら、決して"死"を身近なものにしようとは思わなかっただろう。
だからその片鱗が浮き出たのは、きっとあの疑問を抱いた時からだ。
「なんで世界には"死"が満ち溢れているはずなのに、誰も真に理解できていないのだろう?」
と。
"死"というものを恐れたその頃の彼は、"人間の死"というものが描かれた娯楽作品を求め続けていた。
それはホラーの分野だけでなく、戦争やパニックものなど、さらにはただの冒険活劇にいたるまで。
様々な媒体を通して読み漁り、"人間の死"を理解しようと努めた。
何故そんな方法を取ったのか、あの時は上手く言い表せなかったが、今ならわかる。
それはつまり、虚構というオブラートに包んだ"死"を観察することで、"死"というものの恐怖を矮小化しようとしたのだろう。
"無知"を"智"へと。
"経験"により、"理解"を。
知ることを"誇り"、逆は強い"恐怖"を生む。
特になんでも理屈で理解しようととする現代人は、この傾向が顕著だ。
よって、恐ろしいものは解することで克服され、理性によって征服される。
ならば、"死"は?
龍之介が、おそらは今まで、そしてこれからも人々が熱望するだろうそれは、どうやって克服すればいい?
本当の意味では体験することがでできないそれを、仕方なく人間は、他人の死の観察で本質を想像し、擬似的に体験しようとする。
人命を尊重する文明社会故に虚構依らざるをえないが、古来人々は様々な事象を虚構の中で再現し、我が身で行うにはリスクが大きすぎるものは、そうやって他者を観察し、不安を克服し、解消してきた。
──だから、銀幕やブラウン管は、悲鳴と嘆きと苦悶の涙に満ち溢れている。
だが、それらは決して彼を納得させるには至らなかった。平凡な現実での人生では、決して知り得ないだろう数の"死"と手段達。彼と同じ時代や国に生きる人々の心に訴えかける筈のその描写は、彼の前ではただの贋作でしかなかった。彼の歪みは、そんなものでは満足には至らせない。虚構は軽薄にすぎ、所詮は子供騙しのフェイク止まり。彼の鋭すぎる"死"への感性は、二次元ではない、現実を求めていた。
自由を謳う日本国憲法。
選択を与えるという教育。
されどそれらは決して、彼の求める"死の本質"への探求。人殺しという生き方を許さない。
殺人という罪が彼を縛る。そしていつか彼の首を締めるだろう。
はたまた、電気椅子へと彼を繋ぎ、彼を焼き上げるのかもしれない。
"死"への"恐怖"はまだあった。
もとより、それを克服しようということが動機でもあったのだから。
けれど、それらは克服できる。
現実でそれを犯し、感じればいい。
空気を求めて上げる苦悶の喘ぎ、人の身では耐えられず、焼かれ漂う人肉の匂い。そういった、人一人が"死に至る過程"を徹底的に堪能す る。
この地球上には七十億人以上もの人間が犇いているという。そしてその数値は日々、こうしている間にも何万という単位で上下している。人という生命の連鎖の元生産され、産廃として死んでいくのだ。ならば、龍之介の手による殺人など、一体どれほどの重みがあるだろう。
そして彼の行う殺人がもたらす彼への刺激と経験、その情報量は、彼の疑問に天啓をもたらしてくれるに違いない。
人類普遍の命題の探求への犠牲となるならば、それは確かに価値ある"死"なのではないだ ろうか。少なくとも、ただ生を貪り死んでいくという凡愚な一生よりは。
そして何より、彼はいつからか"死"を解そうとする自分に疑問を抱かなくなっていった。むしろ自分というのはそういうものなのだと、定義していた。
それは"渇望"の自覚。
歴史上の幾たびの争いのなかで二桁の殺しを行なったものなど、幾らでもいただろうが、"死"というものを理解し、普遍の真理としたものは誰もいない。
故に、彼のやり方でそれが達成できるなどという保証はどこにもない。人はそれをただの破壊願望というだろう。だが彼は確信していた。その成就を一片も疑ってはいない。
それは狂信。
不正なる信仰。
例え始まりから失敗したとしても、今の彼は己の行動を悔やみはしない。ましてや、手錠を掛けられ、虜囚となることなどあり得ない。何故ならその時は、自身の首を掻っ切って、刹那の"死"への到達の感 慨をもって"死"に触れようとするだろうから。
魂の歪みこそが彼の運命を決めたのならば、これより先、これから始まる