「♪
鼻歌交じりに呪文を龍之介は暗唱しながら、刷毛を片手に魔法陣を描いている。何かの儀式めいた奇特な行為ではあったが、行われている場所はそれと反比例している。儀式を行うにしての荘厳さも秘匿性もない‥‥‥いや、確かにそんな場所でこんなことをやっているとは誰も思わないだろうが、ありふれた日常のなかでのその非日常的行為は、強い違和感、チグハグさを感じさせた。詰まる所、彼が描いているのは昨今の日本の一般家庭が住むだろう住宅、そのリビングルームのフローリングである。所詮は雰囲気重視ではあるものの、この儀式に何か強い思い入れがあるわけではない、そんな上での自己満足。彼はこういったもの特有の辛気臭さよりも、フィーリングを大切にした。
そう、だがあくまで雰囲気重視。その上で彼のフィーリングを刺激するというのであれば、当然の如く描く魔法陣の絵の具は
今夜の魔法陣は、ある手記に図解されていた通りに一発で仕上がった。このためだけにこの家の両親と長女を殺害し、血を抜いたというのに、甲斐がない。まあ、それでもいいかと龍之介は独りごちた。人の血も、これから召喚するものの供物となるかもしれない。こう、ワインみたいに飲んでくれるかもしれないじゃないか。
雨生龍之介という男は狂人だ。あるのかどうかさえわからない死の真理とやらを希求するさまは、幻想に手を伸ばすという意味ではオキュルティスムと変わらない。だが、彼は別にオカルトに興味があり、実践者たろうとして魔術師を称す存在ではない。
その存在を信じ、到達を疑わぬという信仰は、そこらのその手の輩とは一線を画す。とはいえ、彼はそういった手合いを馬鹿にしているわけではない。むしろそういった世界の中には自分のように歪みを持つ存在がいるだろうとも思っている。
しかし、彼が今までそういった世界に目を向けなかったのは、単純に彼の求めるものはそんな学術的で体系化された、あるいはさらなる研究によってそうしていくようなものを必要としなかったからだ。
彼の望みは人を殺すことで手に入る。いや、それでしか手に入らない。そして彼は殺す相手の生命力、人生への未練、怒りや執着といった感情を、ありったけ絞り出して堪能する。犠牲者達が見せる末期の様相は、それ自体が彼らの人生の縮図とも言える濃厚で意味深長なものばかりだった。
何の変哲も無い人間が見せる奇態な行動。逆に、変わり種に思えた人間の凡庸極まりない死に方──そういった数多の人間模様を観察した彼は、死に精通し、その裏返したる生についても深く学んだ。殺せば殺すほど、彼は人生への理解を深め、それは彼自身を変えていった。
知るという事、弁えているという事はそれ自体が一種の威厳と風格をもたらす。そういった人間力を、彼は正確に表す語彙を持たなかったが──強いて要約するならば、"COOLである"という表現が全てを語る。
動物でいうなら、いつか見たテレビ番組の豹。優雅な身のこなしと、鮮やかな手口の狩り。親近感さえ覚えるそれは、あらゆる意味で彼の規範となるCOOLな生き物だった。
いや、それだけではやはりわかりづらい。喩えるなら、小洒落たバーやクラブに通うようなもの。そういう遊び場に慣れていないうちは、空気が読めずに浮いてしまうし、愉しみ方もわからない。だが、立ち振る舞いのルールを身に付けるようになっていけば、それだけ店の常連として歓迎され、雰囲気に馴染んでその場の空気を支配できるようになる。それがつまりCOOLな生き様、というものだ。
言うなれば龍之介は、人の生命というスツールの座り心地に慣れ親しんだ、生粋の遊び人だった。そうして彼は新手のカクテルを賞味するような感覚で次々と犠牲者を物色し、その味わいを心ゆくまで堪能した。
実際に比喩でも何でもなく、夜の享楽では、龍之介は誘蛾灯が羽虫を引き寄せるかの如く、異性からの関心を引いた。
洒脱で剽軽、そのくせ何処か謎めいている。そんな居住まいから醸し出される余裕と威厳はまぎれもない魅力となって女達を惑わした。そういう蠱惑の成果を、彼はいつでも酒の肴感覚で愉しんだし、本当に気に入った女の子については、血みどろの肉塊にしてしまうほど深い仲となることもしばしばだった。
夜の街はいつでも彼の狩場で、獲物達は決定的な瞬間まで捕食者である龍之介の脅威に気がつかなかった。
そんな彼は、いつしか豹のイメージを自意識として持ち合わせるようになった。常に衣服の何処かには豹柄をあしらった。ジャケットやパンツ、靴や帽子、それが派手すぎるようなら靴下や下着、ハンカチや手袋の場合もあった。琥珀色のキャッツアイ
さて、では何故自身の指針と在り方を正確に理解し、定義している彼が、今更になって魔術師の真似事などをしているのか。それは暫く前、彼が5年ぶりに彼の実家へと帰省した日が起因となる。
それまで、30人程の人を殺した彼だったが、最近モチベーションが上がらなくなってきていたのだ。処刑や拷問といった様々な手口を持って犠牲者達に死を齎してきた彼だったが、もはやどれからも新鮮で刺激的な死を感じることができなくなってきたのだ。
では、ここでもう自分の求道は終わりなのか?
否、まだまだ足りない。
自分はまだ死を解し切れていない。こんなものではまだ足りないにもほどがある。
そこで彼は原点に帰るという意味で、両親の寝静まった深夜に裏庭にある土蔵に忍び込んだのだ。彼が最初に殺した犠牲者たる実の姉は、家人からも放棄されたその場所に隠匿されていたのだ。
姿形の変わらないそれを見ても、何のインスピレーションさえ湧かない。無駄足と落胆しかけたそのとき──その崩れかけの土蔵のなかで、ある一冊の随分と古び、朽ちかけた古文書を見つけたのだ。
薄い和綴じの、虫喰いだらけその本は、刷物ではなく個人の手記だった。奥付けには慶応二年とある。今から百年以上も昔、幕末期に描かれたことになる。
たまたま学生時代に漢書を齧ったことのある龍之介にとって、その手記を読み解くこと自体には何の苦もなかった。──が、その内容は理解に苦しんだ。細い筆文字で、とりとめもなく書き綴られた──しかし書かれている内容からはそれが真剣に、決して悪ふざけではなく記されていることがわかる書物だった。
書かれていたのは江戸の末期という時代において異端とされた蘭学。その中でもさらに最異端となる西洋オカルト系。文書には
ただの悪ふざけとは言えないだろうそれだったが、龍之介はその信憑性の真偽についてはハナから興味がなかった。既に実家の土蔵から出てきたオカルトの古書というだけで充分COOLでFUNKYである。殺人鬼が新たなインスピレーションを得るには十分な刺激だったのだ。
龍之介は手記に書かれた"霊脈の地"──現代の冬木市に拠点を移し、新たな殺人への準備を始めた。雰囲気作りに重点を置き、極力和綴じの古書の記述を忠実に再現すべく行動する。
まず最初に、夜遊び中の家出娘を深夜の工場で生贄にしてみたところ、これが予想以上に刺激的で面白い。まだ未経験だった儀式殺人というスタイルは、完全に龍之介を虜にした。病みつきになった彼は第二、第三の犯行を矢継ぎ早に繰り返し、平和な地方都市を恐怖のどん底に叩き落とした。
そうして、都合四度目の殺人が今回だ。
「
儀式の工程を終えた彼は、満足気に部屋の片隅に猿轡とロープで縛り上げた少年を振り返る。幼い少年は泣き腫らした目で切り裂かれた両親と姉を凝視し、その死を信じられないもののように見ていた。しかし、そんな静か過ぎる様子は龍之介にとっては宜しくない。彼はこれから悪魔のための贄にする予定なのだ。これからの恐怖に慄いてくれていたほうが、きっと悪魔にとっては美味しそうなのではないか。
「ねー坊や、悪魔って本当にいると思うかい?」
だから龍之介は少年の身に起こるこれからを話してあげることにした。
「新聞や雑誌なんかだとさぁ、俺のことをよく悪魔呼ばわりするんだよねぇ。いや、別にそれは全然かまわないんだけどさぁ。ちょっとおかしくね?とも思うんだよねぇ。俺が殺してきた数の殺人なんて、ダイナマイト一発あればすぐ生産できちゃうしさぁ。そもそも俺のやってる殺し方も、昔なら良くやられてた処刑とか拷問方法であるわけでぇ。そうなると、もし本当に悪魔がいたら失礼な話だよねぇ。なんせ、彼らならもっと人間にはできないようなCOOLな殺しかたができそうじゃん。ほら、魔法とか使ってさぁ」
彼は饒舌に、かつ上機嫌に愛嬌を振りまきながら少年に独白する。普段、本来の彼は喋ることさえ億劫なのだが、とかく血を見ると──そして殺人といった死を身近とする為の、または死に瀕した者の前に立つと、人が変わったように豹変する。それは彼の人生の至上命題に関することなのだから、当然と言えば当然なのだが。
「『チワッス、雨生龍之介は悪魔であります!』なんて、名乗っちゃっていいもんかどうか。だからさぁ、これから確かめようと思うんだけど、ねぇ、もし悪魔サンがお出ましになったらさぁ、もてなしてあげてくれない」
もてなすって何だ?少年は最初、何を言っているのかわからなかった。そもそも悪魔やら何とかなんて、いるわけがない‥‥‥筈だ。そんなことは少年の彼でさえわかる常識なのに。しかし、状況と彼の齢の精神年齢が、もしかしたら本当にいるのではないかと思考させる。いや、もしこんな状況でそれを鼻で笑えるなら、それは大人とか齢とか関係のない次元の話だろう。
とにかく、少年はこの時恐怖に震えた。何がどうなるにせよ、自分は死ぬ。はたまた、より悪い何かが起こるのかはわからないけれど。
両親と姉の上げる恐怖と苦悶の絶叫が、今になって脳裏で響き出す。
狂人の戯言は、彼を一周回って現実に引き戻したのだ。
「何の準備もなく茶飲み話だけってのもマヌケだしねぇ。あぁ、でも悪魔ってどんな風に人を殺すんだろう?というか、食べたりするのかなぁ?」
ケラケラと笑いながら、されどこれで何も起こらなかったら白けるなぁなんて、冷めた思考をしていたその時だった。
それは右手の甲だった。強い劇薬を飲まされたかのような激痛が走った直後に、赤い紋様が表れていた。痺れるようなその余韻が、確かに現実だと認識させる。
「‥‥‥何、だ?これ‥‥‥」
不気味さや、不安といったものより先に、龍之介の伊達男としてのセンスが反応する。三匹の蛇が絡み合ったようなそれは、トライバルタトゥーのようで、なかなかどうして洒落ている。
突然の異変に、もしかするともしかするんじゃないかとワクワクし始めた矢先、更なる怪奇現象が起こる。
風が湧いている。閉め切った屋内ではあり得ない気流は、微風から旋風へと強さを増し、リビングルームで吹き荒れる。描かれた鮮血の魔方陣は燐光を発し、風は、小型の竜巻もかくやというレベルに達し、テレビや花瓶といった調度品ばかりか龍之介さえをも吹き飛ばそうとする。
あからさま過ぎる怪現象は、龍之介が軽蔑するホラー映画のように大げさにすぎたが、現実で起きると笑うに笑えず、あまりの想定外に惚けてしまう。
光る魔方陣の中央で、靄状のものが立ち上がり、その中で小さな稲妻が発生する。現実とはかけ離れすぎたその光景。だが、龍之介は全く怖じることなく、手品に見入る幼子のように心躍らせていた。
未知なるものの幻惑──
かつて"死"というものへと感じた蠱惑。重ねられた屍の上でなお輝きながらも、どこか遠ざかってしまったもの。これはきっとそれと同種のものに違いない。そしてこの先に、きっと自身の見出すべきものがあるに違いないと、運命さえ感じてそれに魅入る──
閃光。そして落雷のような轟音。
高圧電流に灼かれるかの如き衝撃。身を襲ったそれと同時に、彼と繋がる確かな何かを感じ取った。
かつて雨生という一族に伝えられていた異形の力。今や子孫にすら忘れ去られ、されど確かに血で連綿と受け継がれてきた『魔術回路』という神秘の遺産。その眠りは覚め、一気に覚醒する。龍之介に介入した"外なる力"は、たった今彼の中に開通したばかりの経路を循環し、それから再び外部へと流れ出て、異界より招かれたモノへと吸い込まれていく。
──いわば、それは例外中の例外だ。
もとより冬木の聖杯は、それ自身の要求によって七人のサーヴァントを必要とする。資質あるものがサーヴァントを招き、マスターの資格を得るのではない。聖杯が資質ある者を七人まで選抜するののである。
英霊を招き寄せる召喚もまた、根本的には聖杯によるもの。魔術師たちが苦心して儀式を執り行うのも、より確実に、万全を期してサーヴァントとの絆を築くための予防策でしかない。例え稚拙な召喚陣でも、呪文の詠唱がなされなくても、そこに依代としてその身を差し出す覚悟を示した人間さえ居るのなら、聖杯の奇跡は成就する‥‥‥
故に先程言った運命という言葉は、決して誇大な表現ではない。彼の一族の歴史の末に生を受けたものが渇望を持ち、偶然を積み重ねた結果この場にたどり着いた。そして聖杯は彼を認める。これは百年以上もの時を経て、彼の一族の探求が成就への道を再度、歩き出したことを意味するのだ。
聖杯に依らぬ無作為の奇跡。そしてまたこれは、新たな奇跡を呼ぶ。
「応えよ。此方が私の、マスターかね」
その雰囲気、その造形、明らかに人ではない圧倒的な上位の何か。蠢く何かは決して正しい輪郭を持たない。しかし、召喚者とサーヴァントという繋がりが、何とか彼のあり方をとらえさせる。沸騰するほどの悪意。殺意、忿怒、怨嗟。その他ありとあらゆる負と呼ばれる感情が彼を構築している。その有様。彼という呪いは桁が違う。あらゆる人が理不尽と言うであろう人の死を演出し、見聞した彼をして、その怨念の域は有り得ないと言わざるを得ない。その在り方は、発狂してしまいかねない程に冒涜的だ。
陳腐ではあるが、一言彼を表すのであれば‥‥‥そう──
彼は