遠坂邸。開いた窓枠からはいささか魔力の毛先を感じられ、とうとう聖杯戦争の始まりを暗に告げてくる。が、そこに負けじと、亭主は気乗りしない嘆息を吹き返す。
——なんと予想の埒外にあることか。先の一戦、とりわけ己がサーヴァントたる英雄王が矛先をむけた時。言い換えれば、神経を逆撫でされ不興を露わにした時。
遠坂時臣は自らのサーヴァントへ、崇拝にほど近い感想を懐いている。遠坂たるもの優雅たれ、と高貴さならではの訓戒美学を持っているのだから、原初の王とあらば最上級のもてなしを以って然るべきだ。
しかしさっきの一幕は目に余るものがあった。《王の財宝》を凌がれた挙句、あわや宝具の直撃すら許しかける……傍に綺礼がおらなければ、その場での退場もあるいはあり得たかもしれない。
「……っ。初めから出鼻を挫かれた心地だ」
そう独りごちるや、時臣はかたわらのグラスを呷る。自棄酒などではないが——あぁなにせ、アーチャーは綺礼のもとにぶらり歓談だ。急遽、袖を翻すこともない。
召喚して以来、マトモな交流がないというのに令呪での強権を揮った此度。やれやれ目先、キャスターのクラスすら目撃できていないというのに、令呪一画を失った手痛いミスリード。それでいて、アーチャーとの意思疎通もおざなり。
「————聖杯戦争は、始まったばかりだというのに……!」
焦燥に駆られるよう、瀟洒さを歪める鼻梁。それを誤魔化すよう、はたまた妙案でも求めるよう、時臣はグラスの中身を一挙に呷った。
× ×
まだ日が落ちていない時のことだ。
冬木市を騒がせる連続殺人事件、その犯人が、一つ屋根の下に侵入し——
「♪閉じよ閉じよ閉じよ閉じよ。繰り返すつどに四度——あれ、五度? えーと、ただ満たされるトキをー、破却する……だよなぁ? うん」
剽軽な鼻歌を交え、うろ覚えの文を誦んずる青年。その手が携えし刷毛には、べっとりと血糊が。奇妙なステップを刻むリビングルームのフローリングには、なにやら物々しい紋様が。
何を紛うか、彼こそが猟奇的な殺人の張本人——雨生龍之介である。見ての通りな軽衣装は遊び人をこれでもかと演出しており、そのくせ読めぬ心のアリヨウが余裕をかもす。夜の街に出れば、龍之介は獲物に困りやしない男だ。……あぁもちろん、獲物。肉食動物などが鮮やかに手に入れる、獲物である。
「♪閉じよ閉じよ閉じよ閉じよ閉じよっと。はい今度こそ五度ね。オーケイ?」
儀式というのは本来、荘厳にやるべきなのだろう。が、龍之介からしてみれば、辛気臭いものはナンセンス。雰囲気を取り繕うのは結構、重視すべきはフィーリングだ。
それにしても、今回の魔法陣はイイ出来である。両親と長女を殺して血を抜いていたものの、失敗もなくすんなりと済んだものだから荷厄介になってしまった。折角、抜本塞源とでも洒落込んで準備めかしたというのに。
——そう。魔法陣。
ただいま雨生龍之介は〝モチベーションの低下〟とやらに頑迷していた。三○人あまりを食い物にしてきた彼であったのだが、どうも拷問や処刑の手口に新鮮味を失ってしまっている。化粧のノリが悪いと気分が上がらない、ようなものかもしれまい。
簡素な話、思いつく限りのエンタテインメントを試してしまった龍之介は、もはや獲物を嬲り、断末魔を見届けることにも感動の丈が薄れていっているワケだ。
だから、原点回帰という言葉にあやかろうと実家に帰省。五年ぶりの再会たる姉——もう喋りかけようが返答のない彼女を前に、だがインスピレーションは浮かばず。
それでも。
土蔵にガラクタともども埋もれていた和綴じの古本。虫食いだらけで読み落とす面もあったものだが……幸い、学生時代に漢書を齧った龍之介には、さほど読み解くことに労はなかった。
しかし内容は、奇天烈なものであり理解に苦しんだものだ。
「ねー坊や、この世界に不可思議ってあると思うかい?」
あまった血を其処彼処に塗りたくり、ファインアートとでも気取った折り合い。……部屋の片隅に、猿轡を噛ませて縛り上げた男の子めがけ、そう問うてみる。
むろん、返答など望むべくもない。ただふいごのように呼吸を浅く漏らし、人だった親族の骸をじっと凝視するだけ。すっかり怯えてしまった。
「よく新聞とか雑誌に取り上げられるじゃん。ナナフシギとかさ? あーいうの、ちょっと興味持っても調べるまではご足労でさぁ……うんうん、オレぁその前に、新鮮な死を眺めてみて感想をいだきたいんだよね」
子どもの怯懦ぶりにはさまで気も留めず、芝居がかった様子で龍之介は続ける。
「でもよく考えりゃ、何事にも先達っているワケよ。アートの悪魔だったり、ファンキーの死神だったり、……とにかくも前を歩いていた人たちっているの。
そうやって古さに新しさを考えてたらさぁ! こんなの見つけちゃって」
襤褸切れのような古書をひらひらと誇示。
「なんかオレの先祖、陰陽師ぃ? っての齧ってたみたいでさ。ふるぅいカミサマとか信じてたんだって。——そしたらさ、同じ血流れてるんだから気にもなるってハナシ!
カミサマ? アクマ? どっちがいるのかなぁこの世界! どっちがでてくるのかなぁここに!」
調子っ外れな音調で龍之介は言い募る。普段は喋ることさえ億劫なものの、こと死に向き合う場ではべらぼうに饒舌になってしまうのは龍之介の癖だ。
——さて、こうやって興味をそそられるお話をしていもなお、男の子は呻吟するばかり。うっかり縄を外せば、尻に帆をかけることだろう。
なので、龍之介は満面の笑みを張り付かせ、
「でもさ? もしそうやって普通じゃない人が出てきたとして——ただ呑気に茶飲み話ってのも気が引けるじゃん? 準備もなしなんてよりマヌケでしょ?
だからね、坊や……もし悪魔サンがお出ましになったら、ひとつ殺されてみてくんない?」
「……っ!」
解るワードを組み繋げ、果たして子どもは狂乱の渦へ。秒刻みで自分が死ぬ運命にあるのだと、理解の色を示してしまったのだ。
ああカワイイ、愛おしい。ケタケタと笑い転げ、龍之介は興奮を覗かせる。
「悪魔に殺されるってどんな気分だろうね! 痛いのかなァ、苦しいのかなァ、ははっ、とにかく貴重だってことに間違いないと思うよ? 滅多にあることじゃあないし、はははははは————ぁ痛っ⁉︎」
その笑殺に横槍を刺す激痛。……右手。あたかも王水を浴びせられたような——なにせ躁状態にあった彼を引き戻すほど——痛みの末、右手の甲に刻まれたモチーフ。
三匹の蛇が絡み合うような紋様だった。紅色で、見たこともないモノ。
「な、んだぁ————コレ」
痺れるような痛みが張り付いたまま、だがそれすらも恍惚の余韻とばかりにうっとりと。……龍之介のセンスに符号するアーティスティックに、魅入ってしまう。
「へぇ……」
遠近を通じて手を離しては近づけて、そのシルシを眺める。まったくなんという怪異。これだけでも随分なオカルトの証であり、収穫にもなり得たものだ、と——
そう吊り上げた口角に、風が颯々と触れる。
風。臭気を漏らさぬよう密封した窓から隙間風……とは思いがたく、しかし物が動いて生じた微風とも思えず。
なにせ次第に部屋を荒らす狂飆へと遂げるソレは、どうにもペイントした魔法陣から吹き荒ぶものに違いなく。
「…………っ」
クル。なにかが来る。兆しだ。それも、龍之介にとっては祥瑞そのもの。
かつて雨生という一族に伝っていた異形の力。子孫にすら忘れ去られたものの、ただし連綿と受け継がれてきた血筋は今、この時のこの場面で。
龍之介の内に眠り続けていた〝魔術回路〟は臨界に達していた。魔法陣から発せられる稲妻とスプレー状の霧も、色めき立つ龍之介がようやく開いたソレによるものであり……
津波に揉み流されるように開通した神秘の遺産。それは龍之介に入り込んだ〝外なる力〟を循環させ、ひいては異界より招かれたモノへと授ける。
やがて立っていられなくなる風量に転じ、逆巻きの暴風は唸りを上げ——
「————————は?」
さても異例な英霊召喚。たとい稚拙な召喚陣でも、完璧に詠唱が成されずとも、聖杯が素質ある七人を選別するというものなのだから。
……雨生龍之介は七人目のマスターとして選ばれたのだ。
「……本?」
陣の中央にぽとりと据え置かれた一冊。——拍子抜けだ。
楽しみをすっぽ抜かれた心地で歩み寄り、龍之介はそれを拾い上げ、
「うわっ、スゲェ……これ本物の人の皮ぁ……⁉︎」
よぉく目を凝らし、肌に触れ、真偽を検める。
本物だ。往時にはチャレンジし、諦めた理想の産物。……なるほどこんなにも素晴らしい。
おっと。外装も大事だが、中身も大事。ためしに先触れだけでもお目にかかろうと、表紙をめくり……
「うおわッ」
素っ頓狂な声をあげた。
仕方ない。何と言っても本を開いただけが、ページは燐光を帯び、光の粒がカタチを作ったのだ。
「……? ……?」
「うわぁおこれが英霊召喚の気分か。複雑だなァ、自分なのに自分じゃないみたいだ。いんや、そうかそうか————へェ、おもしろい召喚の仕方したんだね我がマスターってば!」
トスリと鳴ったブーツ。軍服のようなインナーに短パンを合わせた不思議な格好に、さらに羽織った術師じみたジャケット。そこに銀の髪と死んだような目つきが、常人離れを演出する彼——
すると、そこに列立するローブ姿の長身痩躯。
「オォオオォオ、プレラーティ! 我が盟友! 印許り先に行くなどと水臭いですねェ」
「ごめんよジル。だって窮屈だもの、ひとつの本に二人分の霊基だぞ?」
マスターたる龍之介を差し置いて披露される英霊同士の会話。まったく予備知識ゼロの龍之介からすれば、どんな手品よりも手品めいたトリックだ。
そこで、口をあんぐりと茫然自失な我が契約者へと、いわく面妖なコンビは笑いかける。
「自己紹介してあげるさ、僕、フランソワ・プレラーティ。オッケー?」
「いきなり真名を⁉︎ うぅんそうですねェ、私の方は——この時代で通りのよい名——そう、青髭、とでも」
悍ましい笑顔がかがやき、その場をさらに混濁させる呼び名ふたつが響いた。